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対馬ってもともと韓国の領土だったのでは??

333名無しさん:2013/02/10(日) 12:51:43
【応永の外寇】
永楽17年(1419年)6月、李氏朝鮮の太宗は倭寇撃退を名目にした対馬侵攻を決め、
対馬の守護が不在である時期を狙って、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。
日本側の留守を預かる武士の数は600人程度であり、通常の軍事的常識から見れば朝鮮軍の圧勝のはずであった。

朝鮮軍は、6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、
19日に再出航、20日昼頃に対馬の尾崎浦(『朝鮮王朝実録』には豆知浦とある)附近へ上陸した。
一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、
また104(実録には首級114)の島民を殺害したとされる。しかし26日頃には、
仁位郡(『実録』では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、
戦局は膠着状態に陥った。

朝鮮側は、29日に宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。
損害の大きくなった李氏朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ、7月3日に巨済島へ全面撤退した。

李氏朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上。朝鮮側の資料である『世宗実録』では6月26日の襲撃で死者百数十人、
7月10日の記録では180人とされているが、これでは6月26日、7月10日の損失を合計しても総数の2%程度であり、
この程度の損害で和平を受け入れるとは考えにくく、6月26日は敗戦と自ら明記し、将官も戦死していることからも、
実際の被害は相当数にのぼると思われる。

8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が100余名とされている、総じて朝鮮軍は不利であったようであり、
この事は保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」と主張する
左議政朴訔に対し、右議政李原らは「事大の礼を尽くして送り返すべき」と反論したという記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、
李従茂が国民への影響を理由に免罪となった事からも窺え、朝鮮軍が尋常ではない負け方をしたことが推測される。


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