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摂折について。

98shamon:2005/07/10(日) 21:26:39
議論を粛々と続けるのであれば、すでに片づいたことは何度でも再掲する必要があります。

①日蓮聖人は、仏教の弘教方法には摂受と折伏の二門があるが、時に応じて折伏を前とした。
>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)>50

②日蓮聖人は「首を斬る」折伏を白衣に説いていない。施を止めよと説いている。
>> 日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明して頂けないのであれば(shamon)
> これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。(犀角)> 68

(1) わたしは〜折伏を前、摂受を後といっている (2)「執持刀杖斬首」の折伏義は日蓮聖人は当たらない、(以上犀角 > 80)

言っていないことを言う悪僧だと謗る犀角さんのために、議論を進める上で犀角さんの発言した項も御丁寧に添付しました。したがって、以上①②は片づいています。さて、次に「僧侶の折伏」について進みましょう。日蓮聖人が、開目抄において摂折二門について述べたものです。“摂・折の義”です。

1)非法の悪人を降伏することをしない僧侶は怠け者であって、自利も利他も出来ぬ者である。たとえ持戒し浄行すると雖も、全く何の役にも立たぬ者である。(摂の義にある僧侶)
2)非法の悪人を降伏させようとした僧侶は、破戒の者から迫害されて命を落とすようなことがあっても、持戒し自利利他を為した者である。(折の義にある僧侶)

犀角さんと言う方は、日蓮聖人が「非法の悪人を降伏する僧侶(折の義にある僧侶)は持戒以上の者である」と述べている文章が読めずに、「持戒ならば摂受」だと拘っています。このかた、何のために日蓮聖人が摂折の二門について述べているのか、全く解っていません。日蓮聖人が「非法の悪人を降伏することをしない僧侶」を摂の義に配当し、「非法の悪人を降伏させようとする僧侶」を折の義に配当しているという簡単な文意が読めません。

1)法を壊る者を見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶は仏法の怨である。(摂の義にある僧侶)
2)(法を壊る者見て)追い出し、呵責し、見逃さぬ僧侶こそ、真の我が弟子である。(折の義にある僧侶)

犀角さんと言う方は、日蓮聖人が摂折の二門について「法を壊る者見ても呵責せず見逃すような(摂の義にある)僧侶は、仏法の怨である」と述べ、「法を壊る者を見て呵責し見逃さぬ(折の義にある)僧侶は、我が真の弟子である」と述べて、折の義を勧めている文意が読めません。

> このような僧を「摂の義にある僧侶」とする証はなんですか。等と、犀角さんは頓珍漢な意味のない質問を繰り返しますが、この方「法を壊る者を見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶」を折の義にある僧侶と思い、「法を壊る者を見て呵責し見逃さぬ僧侶」を摂の義にある僧侶だと考えているのでしょうか。お話になりませんね。


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