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摂折について。
95
:
犀角独歩
:2005/07/09(土) 10:41:43
川蝉さん
「無文有義智人用之」という、妙楽の言によるということですね。
なるほど。この点は、納得できます。釈に違反していません。
> …折伏と云う成語(術語)が無くとも、義理として、僧の折伏の文証となる
このような道筋でお考えになっているということですね。
わたしが富士門流信徒の掲示板で話し合っていたことは真跡遺文に僧侶折伏を示す文(=成語(述語))がないという点の洗い出しに主眼を置いたことでした。この点で、川蝉さんもまた、僧侶折伏・無文の見解であったことを迂闊にも採りかねていました。
そのうえで、引用されるところに僧侶折伏‘義’ありや・否やは、次に話を進めていこうと思っていたことです。
取り敢えず話が繁くなりますので、いまは息めますが、石山人は堅樹日寛師の『六巻抄』中‘依義判文’に惑わされてきたわけです。この発想は、当然、無文有義智人用之を後ろ盾にしているのに違いありませんが、しかし、実際のところ、恣意的な解釈(日蓮本仏・彫刻本尊・石山血脈絶対)という己義によって文を判じる牽強付会によって成り立っていることは、川蝉さんもご承知のところと思います。
ですから、門下一般に話を拡げて見るについても、その言われる僧侶折伏義が、己義なのか、経釈義なのか、蓮師義なのかという点の見極め慎重になるのは、過去の苦い経験に基づくわけです。つまり、他でどなたかが言っておりましたが、「折伏」という成句は、不幸にも戦後創価学会の専売特許のように扱われ、いまでは顕正会の専門用語のように取り扱われています。しかし、この石山から出た在家集団がいう折伏が実際の折伏と同語異義であることは闡明にしなければならない点であろうかと思います。これらの点は、また、富士門流において、考えてまいろうと思っているわです。
ともかくも、川蝉さんが、僧侶折伏、真跡遺文、無文であるというご見解であることを確認できたことは収穫でした。
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