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摂折について。

77shamon:2005/07/07(木) 19:59:38
さて、犀角さんと言う方は、自分の放った言葉は棚に上げて「詐術を弄しています」などと非常に失敬な方で、次から次へと「口汚いばかりではなく、論法自体も汚い」等と中傷しながら論点の解りずらくなるような長い投稿を繰り返しますね。本当に、この方は弁護士として仕事をなさっていたのでしょうか。

何度も馬鹿馬鹿しいですが、これが最後ですよ。「その罪最も重し。速かに重科に行え。しかればすなわち、四海万邦、一切の四衆、その悪に施さず、皆この善に帰せば、何なる難か並び起り、何なる災か競い来らん。」しかれば以降が、重科として四衆(出家・在家)の行うべき事であるのは、まともな人なら一目瞭然です。重科を行う理由として引用した例を、実際に行うのではありませんね。

①日蓮聖人は、仏教の弘教方法には摂受と折伏の二門があるが、時に応じて折伏を前とした。
>> 折伏を前にしたと述べているのですよ(shamon)
> ですから、そんなことは誰が否定したのですか。(犀角)

②日蓮聖人は「首を斬る」折伏を白衣に説いていない。施を止めよと説いている。
>> 日蓮聖人が白衣のなすべき折伏は「首を斬る」ことと主張されていたことを、御遺文を以て証明して頂けないのであれば(shamon)
> これは、一体、誰がそんなことを言ったのですか。(犀角)

以上①②は片づいています。さて、次に「僧侶の折伏」について進みましょう。開目抄の摂折二門について述べたものです。“摂・折の義”です。

「法華経の安楽行品に云く『楽(ねがつ)て人及び経典の過を説かざれ。また諸余の法師を軽慢せざれ」等云云。汝この経文に相違するゆへに天にすてられたるか。』答て云く、止観に云く『夫れ仏に両説あり。一には摂・二には折。安楽行に不称長短というごとき、これ摂の義。大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れというはこれ折の義。与・奪途(みち)を殊(こと)にすといえども、倶に利益せしむ』

答えて云わく、涅槃経に云わく〜「非法の悪人を降伏すること能わず。かくのごとき比丘は自利し及び衆生を利すること能わず。まさに知るべし、この輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持ちて、浄行を守護すといえども、まさに知るべし、この人は能くなすところなからん。乃至、時に破戒の者あつて、この語を聞き已つて、咸(みな)共に瞋恚して、この法師を害せん。この説法の者、たといまた命終すとも、故(なお)持戒自利利他と名づく」

ここで述べているのは
1)非法の悪人を降伏することをしない僧侶は怠け者であって、自利も利他も出来ぬ者である。たとえ持戒し浄行すると雖も、全く何の役にも立たぬ者である。(摂の義にある僧侶)
2)非法の悪人を降伏させようとした僧侶は、破戒の者から迫害されて命を落とすようなことがあっても、持戒し自利利他を為した者である。(折の義にある僧侶)

犀角さんという方は日蓮聖人の御遺文に違って、非法の悪人を降伏させようとした(折伏の義にある僧侶)を否定し、非法の悪人を降伏することをしない僧侶(摂の義にある)僧侶を肯定するのでしょうか? さらに、日蓮聖人は述べています。

「(釈尊を捨てよと教義を立てていた)念仏者・禅宗等を責めて彼等にあだまれたる、いかなる利益かあるや。答て云く、涅槃経に云く「もし善比丘、法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し、挙処せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駈遣し、呵責し、挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」

ここで述べているのは
1)法を壊る者見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶は仏法の怨である。(摂の義にある僧侶)
2)(法を壊る者見て)追い出し、呵責し、見逃さぬ者こそ、真の我が弟子である。(折の義にある僧侶)

犀角さんという方は日蓮聖人の御遺文に違って、法を壊る者見ても呵責せず見逃すような仏法の怨である僧侶(摂の義にある僧侶)を肯定して、法を壊る者見て呵責し見逃さぬ真の我が弟子である僧侶(折の義にある僧侶)を否定するのでしょうか?


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