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摂折について。

76犀角独歩:2005/07/07(木) 16:08:55

夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。此れ又一途也。
月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。
‘之’は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。
然れば則ち四海万邦、一切の四衆、其の悪に施さず。皆此の善に帰せば何なる難か竝び起り、何なる災か競ひ来たらん矣。

以上が立正安国論の該当文です。

それ、釈迦以前の仏教はその罪を斬るといえども、能仁(釈尊)の以後の経説は、すなわち、その施を止めた。これまた、(ひたむきな)一つの途である。
月氏国の戒日大王は聖人である。その上首を罰し五天之余党を誡めた。尸那国の宣宗皇帝は賢王である。道士12人を誅して九州の仏敵を止めた。彼は外道であり、、道士である。その罪はこれは軽い。
‘之’(これ)は内道であり、仏弟子である。その罪は最も重い。速やかに重科を行いなさい。

さて、‘之’とは何を指しますか。その「之」に対して、速やかに重科に行へという文章ではないですか。

そのように、立正安国論上の「主人」が、悪を断罪に処せば、一切の四衆は、その刑の執行を見て、悪に布施をすることはなくなり、善に帰す。善に帰せば、難が並び起こり、災いが並び来ることはないという文意でしょう。

まして、この問では「若し謗法之輩を断じ若し仏禁之違を絶せんには、彼の経文の如く斬罪に行うべき歟。若し然らば殺害相加へ罪業何んが為さん哉」であり、その答が「之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ」であることは明らかでしょう。
これ程、明快な文章で言い張る理由がわかりません。


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