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摂折について。
110
:
shamon
:2005/07/31(日) 10:40:53
全く、川蝉さんの仰る通りです。開目抄の「常不軽品の如し」が例え後人の挿入であったとしても、日蓮聖人は他の御真蹟において不軽菩薩の「強いて説く」ことと「受難の覚悟」については、再三に述べられています。 日蓮聖人の思想を理解していれば、開目抄の折伏の義に「常不軽の如し」とあっても何ら矛盾しませんし、文意も変わりません。
すべては、十界互具に基づきます。そもそも仏性の顕発というのは、「愚かなる凡夫」に「悟れる仏」を顕わそうとするものです。相反する性質のものが、実は相互に他を具している。したがって、内在し相反する性質を、表に顕わそうとする修行が必要になります。不軽菩薩の「但行礼拝」も一見すれば摂受の行でありますけれども、その内には「強いて説く」折伏の義を含んでいるのです。摂受に内在する折伏を超越させて、顕わさねばなりません。俗的な言い方をすれば、人心が乱れているような時には「表面的に優しいだけでは駄目だ、本当に優しいのなら、優しいが故に厳しさを顕せるものが本物である。」と説いているようなものです。本来摂受的である僧侶が、折伏的姿勢を顕わすのも同じ修行でありましょう。内在する性質を顕わすことが出来なければ、仏になることなどは到底適いません。不安を苛まされる愚かな人間が安心を得ることも、臆病な人間が自信を持って生きれるようになることも出来なくなります。
涅槃経は折伏、法華経は摂受の経典とされていますが、日蓮聖人が涅槃経の内の摂受を見出し、法華経の内に折伏を見出してそれを顕わさんとするのも、すべて一貫した思想に基づいているものです。
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