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【大石寺教学の研究】質疑応答は此方で
9
:
直人
:2004/11/12(金) 20:56
勉強中さん、こんにちは。
要法寺で云うところの「紫宸殿本尊」とは、「紫宸殿曼荼羅御形木原版の「暦応二年庚申八月
日 上行日尊刻彫之」の十余文字」(『日大上人』P18)ですね。その相貌はオスカーさんによる
と「首題と四菩薩は文永式…全体的に弘安式とも採れるが…偽筆の可能性が濃厚」(門下・門
流史№52)のようです。日尊師は『尊師実録』の中で日蓮聖人の御筆御本尊を模刻して与える
べきと云っていますから、その原本は御筆御本尊であったでしょう。ただ、彫刻の過程で原本と
似ても似つかないものになったのかもしれません。
今日、要法寺において「紫宸殿本尊」と称されているものは宝暦六年に御所で天覧を賜った
ことに由来しているわけですが、天覧を賜った御本尊も日尊師が彫刻した形木原版と同じもの
であった。だから、形木原版が「紫宸殿曼荼羅御形木原版」と伝承されているのではないでし
ょうか。
日目師は如何なる御本尊を所持して天奏したか。私は萬年救護本尊であろうと思います。た
だ、ここで問題となるのは『副書』ですね。それには御影堂に安置せよとあるからです。しかし、
私は『副書』が日蓮聖人のものとは思いません。「建治元年太歳乙亥六月十七日」(『千葉県の
歴史』資料編・中世3−P1049)と干支を記すのは日蓮聖人の筆法ですが、『副書』の成立時期
が萬年救護本尊の図顕よりおよそ半年後という点は奇異な感がします。また、通例ではこうし
た添書を書くのは日興上人であるからです。日興上人は干支を記しません。
日郷師と日尊師は日目師の天奏に随行した。けれども、日目師は元弘三年十一月、京都に
て寂し、その遺骨の一部はは京都鳥辺野に、残りの分骨と萬年救護本尊を日郷師が富士に
持ち帰ったのでしょう。その経緯で萬年救護本尊が郷門に流れたのではないでしょうか。
保田五代・日伝師は戒壇に法華経を安置するという経巻本尊義を展開していますが、保田十
五代・日侃師は広宣流布の時には萬年救護本尊を本堂に安置せよと云うわけです。日郷師以
降で干支を記す保田歴代としては日伝・日安・日要・日我が挙げられますから、『副書』はそれ
らの歴代、おそらくは、日伝師の偽作ではないかと思います。宗祖御影が郷門に持ち込まれた
のはこの頃ですから、日伝師は戒壇には法華経を安置し、御影堂には萬年救護本尊と宗祖御
影を安置しようとしていたのかもしれません。それが、日我師の時代に大石寺における「本門戒
壇之大御本尊」の伝承が伝わり、日侃師は萬年救護本尊を戒壇本尊に祀り上げたのではない
でしょうか。
日蓮聖人が本門寺建立時の御本尊を残されなかったように、皇室に献上するという「紫宸殿
本尊」も初期興門にはなかったでしょう。それが、門弟授与の御本尊を「紫宸殿本尊」へ祀り上
げたり、日尊師模刻のものが天覧を賜ったことで「紫宸殿本尊」と称されるようになったのでは
ないでしょうか。
ちなみに、『御本尊集』№82が「紫宸殿本尊」であることは山口氏が認めています。また『御
本尊集』№111、№116の「所蔵不明」とされる御本尊も大石寺のものです。(『日蓮正宗史の
基礎的研究』P151)
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