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【大石寺教学の研究】質疑応答は此方で
6
:
直人
:2004/11/10(水) 20:03
〔「大石寺蔵板曼荼羅」再考〕
私は板曼荼羅の成立過程を考証するなかで、その原本を「弘安二年十月十二日」の御筆御
本尊と考えた。それは、弘安二年十月十二日の『伯耆殿御返事』からは日蓮聖人の熱原衆へ
の気遣いが窺われ、熱原衆の安穏無事を祈念した御本尊があったろうと思うのである。板曼荼
羅の脇書に日興上人独自の筆法で「弘安二年十月十二日」と記されている点はかつて弘安二
年十月十二日の御筆御本尊が存在していたことの傍証になると考えた。
けれども、大石寺は板曼荼羅には「釈提桓因大王」と記されていると云い、これは弘安二年十
一月以降の筆法であるから、直ちに弘安二年十月十二日の御筆御本尊を原本とすることは難し
い。弘安二年十一月以降に熱原法難と関連する何らかの事柄があったろうか。堀日亨師は弘
安三年四月八日を熱原衆の斬首日とした。しかし、この説は大村寿顕氏、在勤教師会によって
否定されている。私としては斬首は弘安二年十月十五日、弘安三年四月八日は斬首ではなく、
熱原衆の追善供養のための御本尊を図顕した日であると思う。日興上人が熱原法難三十周年
を記念して御本尊を書写したのも日蓮聖人がそうした御本尊を図顕していたことを踏襲してのこ
とであったろう。
とすれば、板曼荼羅の原本のその一つは現存しないが弘安三年四月八日、熱原衆の追善供
養の意義から図顕された御本尊であり、熱原法難という意義から「弘安二年十月十二日」と加
筆したものと思う。年号の下に二行書きで月・日を記す筆法が日興上人独自のものである以上、
板曼荼羅(或いはその原本)に日興上人が関与していたことは動かし難い。
日興上人は徳治三年四月八日、熱原神四郎追福のために御本尊を書写(重須本門寺蔵)
している。日興上人が同日に複数の御本尊書写をしている例があることから、もう一つ御本尊
があってもおかしくなく、大石寺にも熱原神四郎追福のための御本尊があったろうと思う。それ
が今の板曼荼羅の原形となったものと考える。
御本尊脇書に「法華講衆」と見られるのは早くとも日行師の時代であるので、おそらくは、日
興上人が御筆御本尊を板に模刻したものがあり、日時師の時代にそれが再治されたものかも
しれない。日時師の時代の大石寺と云えば、所謂「七十二年係争」がようやく終結した時代で
もある。この係争の中で大石寺の重宝が郷門に流出している。また、この当時は重須と西山が
本門寺の正閏を争っていた時代でもある。そうした中で大石寺は持ち出された重宝に代わるも
の、本門寺の正閏を示すものを構築する必要があったのであろう。そこで日時師は「本門戒壇
本尊所在の処を本門寺と号すべし」(日寛師『文底秘沈抄』宗全4−P38)という如く考え、興師
直造板曼荼羅を再治して「本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白」と加筆し熱原神四郎
追福御本尊を「本門戒壇之大御本尊」へ祀り上げ、新たな重宝とし、またそれによって大石寺
こそが真の本門寺であることを示そうとしたものではなかろうか。
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