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【大石寺教学の研究】質疑応答は此方で
16
:
直人
:2004/12/30(木) 19:12
〔所謂「両巻血脈抄」の流伝について〕
興門の相伝書である『百六箇抄』『本因妙抄』の所謂「両巻血脈抄」はその内容から尊門日大系
に属する文献とみて差し支えないが、これらは尊門以外にも伝持されている。保田文書には、
右、観心本尊抄・本因妙抄、其の外の御大事、何れも日要上人より日杲相承の分
(『千葉県の歴史』資料編−中世3−P30)
といい、『法華本尊問答抄見聞』に、
【百六ヶ】に云く、日興は先陣を懸くれば無辺行菩薩、日朗は後陣にひかうれば安立行菩薩、
日蓮は大将なれば上行菩薩と云々(『興風叢書』3−P66)
といい、これによれば、両巻血脈抄は日要師の時代における保田にすでに伝わっていたことが分
かる。『法華本尊問答抄見聞』は文亀元年(1501)に日要師が語ったもので、これに先立つ文明
十三年(1481)、日教師が大石寺に帰伏している。これによって両巻血脈抄が富士に伝わったも
のと推定される。或いは、日要師は日向に赴いていること、八品派とも交流があったことから、こ
の時、尊門(住本寺・安養寺)と接触する機会があったのかもしれない。
重須においては『本尊已下還住目録』(富要9−P22)に両巻血脈抄が紛失した旨が記されてお
り、これによれば、武田の兵乱以前の重須においては両巻血脈抄があったもののようである。し
かし、日興上人はもとより日順師の確実な文献に両巻血脈抄の如き思想は見られず、上代重須
に両巻血脈抄があったとは思われない。日教師は大石寺帰伏後、重須にも赴いたと伝えられて
いるので、この時に両巻血脈抄が重須に伝わったと推定される。
西山におけるこの頃の住持といえば西山八代・日眼師である。日眼師の著作に『日眼御談』が
あるが『日眼御談』には両巻血脈抄の引用を見ることができない。この点から、『本因妙抄』が略
述引用されている『五人所破抄見聞』の著者を西山日眼とする説は否定される。日辰師は辰春
問答において日春師に対して「録内御書を用いずに両巻血脈抄を依用しているのか」(富要6−
P29)と質問し、これに対して日春師は、
本因妙抄百六箇の事は興上への御付属の抄なり、然れば録内録外の沙汰に及ばず之を
依用する事なり(富要6−P31)
といっている点は日春師の時代には西山に両巻血脈抄が伝わっていたもののようである。西
山に両巻血脈抄が伝わったのは日眼師以後であると推定できる。かくして、西山十八代・日
順師によって日代相承説が形成されたものと考える。
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