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御本尊のご開眼について

32川蝉:2004/10/21(木) 13:46
(続きです)

「此の仏像」を一尊四士像を指すと云う見解の理由として、
1、「仏像」と有る以上、平面的な文字曼荼羅でなく、立体的な仏像である。
2、「是の如き本尊は、在世五十余年にこれ無し、八年の間にも但だ八品に限る。」とは大曼荼羅を指したものだが、次文の「正像二千年の間は云々」の部分は脇士によって仏格を表す場合に相対して、本尊を語る部分であるから、「此の仏像」は一尊四士像を指していると見るべきである。

と云う理由が挙げられています。

また、別の見方として、中川日史師に見方があります。
中川日史師は「観心本尊抄提要」において、「此の仏像」の部分を「始めて日蓮が未曾有大本尊の中に、この久遠の本仏を光顕し奉るのである」
と意訳し、「大本尊が顕現し、本仏釈迦牟尼仏は上行等の本化を脇士として私たちに顕れさせたまうたのであります」と補釈しています。「此の仏像」は大曼荼羅の中に示された一尊四士と見ているようです。

いずれにしても、「本尊抄」には大曼荼羅と一尊四士の二種が示されていると見るべきでしょう。

身延在山中の勧請様式についてですが、
法華経を前に置くとは、佐渡以前の教示ですし、大曼荼羅を図顕され、弟子信徒にも本尊として曼荼羅を授与されているのですから、自らも曼荼羅を奉安していたと推測する方が自然だと思われます。大曼荼羅の正面か、あるいは少し脇に釈尊像を奉安しておられたのであろうと推測します。

中世に著された伝記本「当家宗旨名目」や「元祖化導記」に、日蓮聖人臨終近くに、大曼荼羅と釈尊像を安置したという伝承を記しています。
日興上人の六上足の第一である日代師の「宰相阿闍梨御返事」に
「御円寂の時、件の曼荼羅を尋ね出され懸け奉る事顕然なり」
(宗全2−235頁)
とありますし、御臨終近くに大曼荼羅を懸けたと云う伝承は恐らく事実を伝えていると見てよいだろうと思われます。

身延在山中の勧請様式を模して、身体を起こされ座された日蓮聖人の前に、急遽、大曼荼羅と釈尊像をしつらえたものと推測出来ます。

真蹟が無い御書なので証としては弱いですが、「阿仏房御書」に
「御文委披見いたし候畢。抑宝塔御供養物、銭一貫文・白米・しなじなをくり物、たしかにうけとり候畢。此趣御本尊法華経にもねんごろに申上候。」(昭定1144頁)
とあります。
系年を昭定とおり建治二年とする場合、この御書の他の部分から大曼荼羅を宝塔と称しているようです。
そうすると、阿仏房が宝塔供養物すなわち大曼荼羅供養物を送付してきた意味になります。身延在山中、大曼荼羅を勧請さて云うことが推測出来ます。

御書には、しばしば「法華経の御宝前」とあることについてですが、大曼荼羅と釈尊像を安置した御宝前は、法華経に基づいた御宝前であり、また大曼荼羅の中央の題目は法華経の肝心でもありますから、法華経の御宝前と呼称されても齟齬は無いと思われます。

また「忘持経事」に
「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝し」(昭定1151頁。学会版977頁)
の文も、釈尊像を安置すると共に大曼荼羅を懸けておられたとことを否定出来る文ではありません。
理由は、
1、「報恩抄」に、大曼荼羅をもって教主釈尊の形貌とされているので、懸けている御宝前を「教主釈尊の御宝前」と言い得る。
2、大曼荼羅という用語は、ほんらい「彩色図画された佛菩薩の尊容を描いたものをいう」と意味がありますから、大曼荼羅御本尊の尊容という表現もあり得る。

という理由からです。


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