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御本尊のご開眼について
31
:
川蝉
:2004/10/21(木) 13:43
身延在山中の本尊様式
すでに故人となられた執行海秀教授や鈴木一成教授が、「大曼荼羅は本尊に非ず、一尊四士像が正式本尊であり、身延在山中の本尊は釈尊像の前に法華経を安置して本尊とされていた」と云う旨を主張されたことがあり、最近、身延在山中の本尊について、他の掲示板で話題になっていたので、ちょっと考えたことを投稿させていただきます。
さて、
「観心本尊抄」の
「其の本尊の為体(ていたらく)本師・・但八品に限る」の部分は間もなく図顕する予定の大曼荼羅を本尊と称している文と云えますね。
「本尊抄」述作時には、まだ曼荼羅図顕はされていませんが、日蓮聖人の胸中には、すでに本尊としての大曼荼羅の構想が、ほぼ固まっていたので、「其の本尊の為体」「是の如き本尊」と記されたと推測出来ます。
大曼荼羅の座配と照らし合わせても、上記の「本尊抄」の文は、曼荼羅本尊のイメージ、構想を語っていることは確かでしょう。
また「報恩抄」に
「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦、多宝、(塔)外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし。」(昭定1248頁。学会版328頁)
とあります。
「所謂宝塔の内の釈迦、多宝・・なるべし」とは、大曼荼羅の形貌を説明しているものと解釈されています。
よって、「報恩抄」でも、大曼荼羅をもって、本尊としていることがわかります。
(ただし、別の解釈として、中央題目が本体としての釈尊で、脇士となっている並座の釈尊は迹にあたり、中央題目と並座の釈尊は体用本迹の関係であるから、二にして不二の関係とする見解もあります)
大曼荼羅という言葉は真言宗で言う四種曼荼羅の一つで、ほんらい「彩色図画された佛菩薩の尊容を描いたものをいう」(仏教思想辞典)と云う意味だそうです。
また「密教大辞典」によると
「大曼荼羅とは仏菩薩の相好具足の身を初め、十界の有情非情の身これなり。・・但し同じく仏像なりと雖も五大の色を以て畫きたる図像は大曼に属し、木像・鋳像・捏像等は羯曼荼羅に摂す。これ畫像は五大の色顕著なるが故に大曼とし」(3−1025頁)
とあります。
文字で表現されていますが、日蓮聖人は虚空会列座の佛菩薩の色相荘厳の尊容をイメージされて図顕されたので、一般的用語例にしたがい大曼荼羅と呼称されたのだと推測出来ます。
次に「本尊抄」の
「是の如き本尊は、在世五十余年にこれ無し、八年の間にも但だ八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は、迦葉、阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃、法華経の迹門等の釈尊は、文殊、普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども、未だ寿量の仏ましまさず。末法に来入して、始めて此の仏像出現せしむ可きか。」
の部分の末尾の「此の仏像」について、大曼荼羅を指していると云う見解と、一尊四士像を指すという見解があります。
大曼荼羅と見る理由として、
1、大曼荼羅は「是くの如き本尊」と云われるものであるから「寿量の本尊」であることは間違いない。文は「寿量の仏」を「此の仏像」と指している故に、大曼荼羅を「此の仏像」と指していることになる。
2、大曼荼羅は久遠釈尊の身土・釈尊の証悟の一念三千の世界を表しているものだから、寿量の本尊(本門の教主釈尊)そのものであり、「報恩抄」にも、「その形貌いかん」とあるので「此の仏像」と表現されていると見て良い。
3、「仏菩薩の相好具足の身を書いたもの」と云う大曼荼羅の語義からも、大曼荼羅を「此の仏像」と表現されたと見ることも出来る。
などの理由が挙げられています。(続く)
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