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本門の戒壇について

1野菊:2003/10/09(木) 09:02
またまた新スレッド作ってしまいました。<(_ _)>
本門の戒壇というとすぐ国立だの富士山だのとなってしまいますが、
私は一番重要なのは、自誓戒ということが本門の特徴だと思うのです。
偉い坊さんから授かるのではなくて、自らすすんで御本尊に誓う。
折伏といえどもこの例外ではなくて、説き伏せて、泣き脅して(笑)
某教団などとは違い、我々はそんなことはしませんが、そんな方法で会員を
増やしたところで、他人に強制されて立てた誓いでは本門の戒壇ではないわけです。
どうでしょう?

159名無し天:2012/01/13(金) 14:36:19
>158伝六さん

大変ありがとうございます。私が持っております米田版・御遺文集には本門戒体抄が載っておりませんので、
いずれ全文を読んでみようと思います。

戒を授けるのは、迹門の場合でいえば釈迦と文殊・弥勒であって、儀式を行う人は仲介役という理解でよろしいでしょうか?
仲介役でしたら破戒など一切ない完全無欠の人でなくても勤まりそうですね(笑)

「わが弟子等の出家は主上上皇の師となり在家は左右の臣下に列せん」
これも本門戒体抄の御文でしょうか?大聖人のご真筆かどうかはともかく、この文が書かれた当時としては、
伝戒は出家が執り行うもので、在家が執り行うものではないという意識があったのでしょうね。

私はこの文を読んだかぎりでは、出家は文字どおりの出家であろうと思うのですね。宗教専門家という意味だとすると、
受戒の場にいるような人は僧侶でない人も宗教専門家と自称できるでしょうし、するとそこには在家が存在しないことに
なるのではと思ってしまいます。

すると、本門の場合の戒師は釈迦、地涌の菩薩(二人)となるのでしょうか。曼荼羅の座配から推察すると上行菩薩と浄行菩薩
ということになりそうですね。

以前、あるサイトで「日蓮花押がバンからボロンに変わったのは、授戒を意識したからではないか」といった内容の記述を読んだことがあります。
(うろ覚えなので、詳細な説明ができませんが)曼荼羅の中の「日蓮・花押」が、大聖人は伝戒師であることを意味している・・・と、ふと思いました。

御叱正等いただければ幸いです。

160伝六:2012/01/13(金) 19:39:23
伝戒の師の資格の問題はよくわかりません。戒というのを五戒とか十善戒とかの具体的なものだとすれば、末法は無戒ですから、破戒の問題はおこりません。妙法受持の根本戒を破っている場合は問題外でしょう。「わが弟子等の・・・・」は「諸人御返事」の御文で真蹟があります。本門の場合の戒師は本門戒体抄には書かれていません。「南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承修行したまへ」(生死一大事血脈抄)という御文からかんがえると、上行菩薩は三師のなかの一師で、上行菩薩の応現としての日蓮聖人は伝戒師ではなく、伝授戒師の資格となると私は考えます。日蓮聖人には凡夫日蓮の立場と上行日蓮の立場とがあると考えます。

161名無し天:2012/01/14(土) 15:13:21
「末法は無戒」という言葉をよく聞きますが、実を申しますと私がここで質問を始めたのはまさにこのことについて疑問を持ったからなんですね。

(スレ違いかと思ったので、ストレートに書かなかったのですが)戒が無いなら戒壇も必要ないことになり、妙法を受持することが戒で肉食妻帯は可なら、日本はいざ知らず、アジアの他の仏教圏でそんな出家者の声に耳を傾ける人がいるでしょうか。

(是非はともかく)日蓮宗の修法師のところで、それぞれ悩みをかかえた人たちが御祈祷を受けるのは、100日間の厳しい荒行を終えた人を信用しているからです。
スリランカの道端で僧侶たちが供養を受けるのは、釈尊の時代から続く戒律を守っている人だからと信用されているからです。

私の言いたいことは、犀角独歩さんがすべて書かれていらっしゃるので、多くを述べるのは控えたいところではあります。
ttp://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51855044.html#

明治政府による廃仏毀釈で建物や仏像が壊されたことがよく語られますが、「肉食妻帯勝手たるべし」によって仏教の精神が壊されたことに、どれだけのご僧侶方が気付いておられるでしょうか。
「日本仏教は時代の変化に応じて発展した」と語られますが、広宣流布は日本一国ではありません。

妙法受持の戒を言い訳に在家同様の生活を送る僧侶に一閻浮提広宣流布など果たしてできるでしょうか。

「戒壇で受ける戒とは何か」が判明すれば、戒壇堂のあり方は自ずと解決される問題であると思っています。

「大地を的とするなるべし」と言われる広宣流布を真剣に考えていらっしゃる方、特にご僧侶のご意見を賜りたいと存じます。

162伝六:2012/01/15(日) 11:24:23
「出家在家、法を護らんには其の元心の所為を取り、事を棄て理を存してまさに大教をひろめよ」という章安大師のことばがあって、事の戒というものを持たないという意味で無戒ということであって、戒が無いなどということではない。今の僧侶は昔の基準からは、ウバソクであって、比丘と称しても南方仏教では認めないというのはあたりまえでしょう。現在日本の仏教界に比丘は存在しない。しかし将来において、宗団において比丘が存在するようになるかもしれない。そんなことはわからない。「妙法受持の戒を言訳に」とはなんという言いぐさか。いったいあなたは、信者なのか、疑者?なのか。なにを広宣流布するつもりなのか。

163名無し天:2012/01/17(火) 14:34:49
できましたら他の方のご意見も賜りたかったのですが、この掲示板をご覧になる人は少なかったのでしょうか。

末法無戒の意味がよく分かりませんでしたが、少なくとも私が意味を間違えてとらえていたことが分かりました。ご教示に感謝いたします。

私が書き込んだ後に、「そういえば昔は、入道という存在があったな・・・」と思い至りました。もちろん、私は仏様の教えを信じる信者であるつもりですが、出家のあり方に疑問をいだく疑者であったかもしれません。

広宣流布する法体は素晴らしくても、広める人の行いが正しくなければ、人々の理解は得られないのではないかと思ったのですが、「同じ法を信じる者として、僧侶も信徒も力を合わせていくべき」と、結局私の中では元の結論に戻ってしまいました。行いの正しさを言うのであれば在家も同じことで、まずは自らを律することも大事ですしね。

言葉の使い方が下手なので誤解を与えかねませんが、
「五戒を破るよりも法華誹謗の罪は重い」→「法華誹謗の罪よりも五戒を破る方が罪は軽い」→「法華を守るためには五戒を破ってもよい」→「例えば親を殺すこともやむなし」

かなり極端な例ですが、オウム真理教はこのような思考を持っていましたよね。
また、これも極端な例ですが、「教団を守るためには、教団の破壊をたくらむ者を盗聴してもよい」(*あくまでも例え話です*)ということになった場合、法は立派であると言ってみたところで、説得力はありませんよね。

飛躍した話で大変恐縮ですが、そこで、本門の戒壇で受ける戒とは妙法受持だけでよろしいのか、そもそも出家の肉食妻帯を禁じる戒など無いのか・・・どなたか菩提寺のご住職に質問できる勇気のある方はいらっしゃいませんか?(汗)

164伝六:2012/01/22(日) 14:39:05
オウム真理教については、事件をおこす前の記憶としては、何の選挙だったか、転輪聖王麻原ショウコウというポスターが街にはってあって、ずいぶんとイカレタやつがでてきたと思った記憶があります。空想の中で世界を統一するつもりだったのかもしれない。サリン事件の後に、オウムではどんなことを教えていたのかと思って、図書館でオウム発行の本を読んだら、仏教の十二因縁のでたらめ解説が書いてあって、真面目に検討するほどの教義的なものはなかった。弟子は出家で佛弟子の名をつけていたようだけれど、仏教を形でいつわろうという意図があったかもしれない。空中浮遊を神通力であるかのように宣伝していたけれど、そういうものに価値を認めるなら、外道である。「例えば親を殺すこともやむなし」というのは、言葉の使い方が下手というよりは、例が悪い。オウムはサリンをまくのもやむなしと考えたのでなく、何かの妄想からあるいは妄的意図からサリンをまいたのだったと思いますが。


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