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法華経の悪人成仏と親鸞の悪人しょうき説との違いは?
21
:
三吉
:2003/12/07(日) 01:07
こんばんは ぽん州さん
基本的にあなたのご関心が私には明確にわからないので応えようがないのです。
でもせっかくレス頂いていますので、私の関心から「真宗」を語ります。
「唯信鈔文意」の引用箇所は、弥陀を「方便法身」と抑えた上で、「方便法身」が法蔵菩薩という姿に具現したとみるわけです。「方便」とは、「真実に至るための手立て・方法論」のことですが、「法身」だけでは、「すがた・かたちもなく認識すら不能」ですので、我々に働きかけるときは、「手立て」として実体化が必要なわけです。その実体化が法蔵菩薩というあり方であり、そのあり方の手立ての根幹は「不可思議の大誓願」にあると展開しているわけです。
「法身」が、「方便」という「具体」を持つから我々に「気づき」が生まれうるわけですが、その「方便という具体」は、法身の<慈悲>なわけです。
私の関心からすれば、「生身」か「法身」かで終わります。
他に「化身」「応身」「報身」といろいろ仏教は展開していますが、その複雑な教義にさほど関心がないのですが、「方便法身」と「報身」ってどうちがうのでしょうか?
つまり史的実在を越えたところの仏陀観でしょうし・・・以下略。
私は「報身」という押さえよりも「方便法身」と押さえ、「なまんだぶぅ」の本尊の裏書にも「方便法身」と書く真宗の感覚は鋭敏だと思います。(真宗は弥陀を報身と押さえていますが、私には報身という言い方は、自画自賛が入って誤解を生む表現と思っています。報身=完璧な仏となり、報身だから一番偉いんだ、他の宗派が奉じる仏は報身じゃないから駄目なんだ、ほんものじゃないんだ・・・と)
法然の受け売り説は、十五年ほど前に浄土宗西山系の西福寺からでた「輪円草」あたりのことでしょうが、こちらは「・・・善人尚生る。況や悪人をや」だそうです。
大正時代に真言宗醍醐寺で発見された「法然上人伝記」(醍醐本)にそもそも「善人尚以往生況悪人乎」があったのだけど、漢語灯録など正統派の法然の言行録になかったので、これは歎異抄からの挿入と無視されていたのですね。で15年ほど前、「また別の寺から発見されたみたいだぞ。どうも法然さんもいうてたみたいだな」と、私が学生の頃そういう噂が流れていました。なつかしい。この寺が西福寺とか知ったのは、下記書籍からです、私は。
書籍としては「大東名著選 悪人正機説」 梶村昇 が参考にはいいかも。2100円で手ごろだし。
「自力は認める ・・・云々」とのことですが、別に経典には自力他力など触れてないですね・・・。
「誰ひとり自力による成仏など出来ない 」は、道綽ですね。正確ではないですけど・・・。
道綽は、「これほど仏教が廃れた時代になっては、もはや浄土教でしか道はない」というようなことを言ったのですね。根拠は「大集経」という経典に「末法では、仏教はもはや浄土門の一門しかないので、みんな浄土門を歩もう」とあるとのこと。これを日蓮さんは批判しています。「どこにあんねん!」と。そう、道綽の引用はいい加減で経典に当該箇所はない・・・(笑)。法蔵阿弥陀は無関係で、道綽の解釈の問題です。
で浄土教はこの「我が末法の時の中に億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得る者あらじ、と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。」が、根幹です。(ちなみに道綽のころ、仏教弾圧があり、僧全員、還俗させられている)
親鸞に言わせると、「今また人をやっていること自体、輪廻繰り返して繰り返して成仏に失敗し続けてきた証左である」と。(願って悪趣に生れた仏・菩薩は除く)
法蔵さんの五劫と10劫の修行なんて、人にできるわけないじゃん。
そこまで寿命はもたない^^;
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