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法華経の悪人成仏と親鸞の悪人しょうき説との違いは?
13
:
管理者
:2003/11/12(水) 12:10
込山さんへ。
今日は。早々○○さんにての書き込み有り難う御座います。
実は、親鸞聖人の名前、6回?改名してるのですが、「日蓮聖人と親鸞」の中に書いてあったように記憶してまして調べて居ましたらこんな時間に、
川蝉さんの
>現在では、弟子の唯円の説というのが有力だそうです。
で、古くは(^.^; 「日蓮聖人と親鸞」山川智應著84頁に
「善鸞の子の如信といふのが、親鸞の末子彌姫と共に、始終傍に居て教を聴き、これを後に筆記したのが、「歎異抄」「口伝鈔」「改邪鈔」であるといふことである。」
と、ご参考まで。因みに親鸞聖人の子供ですが、「日蓮聖人と親鸞」山川智應著68頁に
「親鸞聖人の家庭には、次男明信、三男善鸞、四男有房、二女嵯峨姫、三女彌姫の五子が、この稲田(常陸の笠間郡稲田)で出来た。」
と、有りまして?長男・長女は、と又探しましたら、「日蓮聖人と親鸞」山川智應著64頁に
「玉日姫は聖人(親鸞)の流罪後、間もなく死んだので、下野国真岡なる三善為教の娘を娶って、流罪赦免の翌年十二月には早や昌姫といふ子が出来た。或は玉日が三善為教の娘と変名して行ったともいふ。この婦人は後に髪を下して恵信尼となった。この人も稲田へ来た。こゝに親鸞は夫婦で入道的生活をなしたこと、安貞・寛喜・貞永の頃に至るまで約十年乃至十五年であると伝へられる。」
因みに親鸞聖人の幼名は、「日蓮聖人と親鸞」山川智應著22頁に
「伝説によると、平安朝公家政府の末、高倉天皇の承安三年四月一日、時の皇太后宮大進藤原日野有範の子と生まれ、母は源氏で吉光女といひ、幼名を松若丸十八公丸、鶴光丸など呼んだ。」
以上、引用の書籍の意を十二分に引用は出来てませんが、ご参考まで。
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