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□■しんかいそくの就職活動講座■□
99
:
龍谷人@おこしやす
:2005/10/16(日) 16:38:40
日本の皆さん。
「従軍慰安婦」は聞いたことありますよね。
今回の事件と同じような事をもっと遥かに残忍で組織的に大規模に日本軍は行った事があるのですよ。
ところが、日本政府は「強制連行ではないのだから、彼女らは自ずから志願してきたのだから」との
未だに公式謝罪も賠償もしません。
確かに彼女絶ちは、騙されたり、脅されたり、又は生きるにお金を稼ぐ為、最初は自ずから出向たのでしょう。
今回の事件で被害に会った少女と、きっと同じ心境だったと思います。
ですから皆さん、この機会に過去の事だからと、自分の親以上の世代の事だからと考えず、過去の事実を受け入れて下さい。
挺身隊−従軍慰安婦
18歳のとき日本の正月にあたる1月1日に、初めて院長が姿を現しました。そして院長は刀を持って私の部屋に突如入ってきて、「シズエ、お前は俺の言うことを聞け」と言い、口を押さえて襲いかかってきました。
私は二年間この病院で働かされましたが、院長は「お前はもう18歳なんだから、もっとよい所に連れてってやる」と言い、「そこに行け」と日本の軍隊があるところに行くように言ったのです。
今は”従軍慰安婦”と言っていますが、当時は”挺身隊”と言ってました。私は満州の新京という所に駆り出されました。つぎはハルピンその次はチチハル、モットウコウと連れ回され、最後には船に乗せられ上海に運れていかれました。
そこには朝鮮女性が数多くいました。そこにいた姉さんたちが「お前はどうやってここに来たのか?」と尋ねたので、私は「お姉さんたちと同じように連れてこられた」と答えました。
建設隊が作った中国の家に入りましたが、一畳の部屋に押し込められました。
1日に40〜50人の相手
私は12番という番号をつけられました。その番号は40番までありました。そして歩兵などの日本の軍人が部屋に入ってきたのです。一日に40〜50人の相手をさせられました。その後も上海からハンハオ、南京、トウヨウ、ヒショウと軍隊に連れまわされました。日本の軍隊の中でも九州第六師団が一番悪かったです。普通、日本の軍人は胸にマークをつけていましたが、九州第六肺団は腕のところにつけていました。私はこの師団で12年間働かされました。私は我慢に我慢を重ねて生活していたのですが、この師団はお酒を飲むと酔っ払っては、私の部屋に入ってきて刀を抜き、壁や廊下にたてて「お前は俺の言うことを聞かないと命がないぞ」「お前を殺すぞ」と大声を上げ、「こら、朝鮮人、言うことを聞かないと殺すぞ」とおどすのでした。そして軍人は一列にならんで私がある人の相手をしていると、終わってもいないのに入ってきて「早くしろ」と言うのです。
このようなことを繰り返すのです。私はこれ以上耐え切れないと薬を飲んで自殺しようとしました。二回試みました。しかし、アキカワという大隊長が「こいつはしっかりしているから、いつ、どこでも使える」と二回とも生き返したのです。けれど、あまりにもぷったり、殴ったりするので「もう死んでもいい」という覚悟をし、私は両手を広げて「私は朝鮮人だ。死んでも構わない。殺せ」と言うと、それを見ていた隊長が「見てみろ。こんなにしっかりしているのをなぜ殺すんだ」と言って生かしたのです。
結局私は同じ生活を繰り返すしかありませんでした。ある日、50人も相手をして疲れて倒れてしまいました。するとノーシンという薬を飲まされただけでなく、大隊長はタバコに火をつけて私の鼻の中に入れたり、「エイ、コノヤロー」と言って私の子宮の方にも入れ、最後には子宮の周りを焼き付けたのです。焼かれ、使えなくなったのにその次の日からも相手をさせられました。それでも満足しない日本の軍人は、今度はシェパード犬を連れてきて「もう俺は飽きた。今度はお前の番だ」と言い、犬を放したのです。犬が襲いかかって来て、あまりの恐ろしさに「助けて」と悲鳴を上げました。
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