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官僚と政治家と日本の将来
33
:
凡人
:2011/07/18(月) 18:48:06
福田赳夫にみる郷土 「郷土の宝」を「日本の宝」に 【群馬】
2011年7月18日
旧群馬町立図書館(現高崎市立群馬図書館)の庭で、手を挙げた独特のポーズで立つ福田赳夫元首相の像=高崎市で
七月五日は福田赳夫元首相の命日であった。四日、十一日と講座が休みとなったので、二回連続で、福田赳夫元首相について語ってみたい。
福田元首相は群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)の生まれで、幼少のころから神童の誉れ高く、県立高崎中学校(現高崎高校)の恩師・中曽根宇内によれば「秀才中の秀才」であった。
父・善治は、その成長が楽しみで、第一高等学校に合格すると、衆議院議員・木檜(こぐれ)三四郎に指導を願い出た。福田家は祖父も父も金古町長を務め、憲政会−立憲民政党に所属した木檜の有力な支持者であった。
わが国の近代教育制度において、旧制高校進学者は二十歳男子人口で見た場合、百人に一人を超えることはなかった。旧制高校生は「針の穴」を通った希少な存在で、社会で畏敬のまなざしで見られ「郷土の宝」であった。ほとんど帝国大学へ進んだが、東京帝国大学の威信が高く、なかでも第一高等学校を経由した者が、正系のエリートであった。
木檜は福田を江木翼に紹介した。江木は山口県生まれで、東京帝国大学から内務省を経て、桂太郎・大隈重信・加藤高明内閣で書記官長を歴任し「民政党の知恵袋」と言われた。同党の歴代総裁の信任が厚く、司法大臣、鉄道大臣を務め、有力な総理・総裁候補であった。江木は昭和七(一九三二)年に病没したため、内閣を組織することはなかったが、木檜は「郷土(群馬)の宝」を「日本の宝」にしようと、福田を江木に託したのであった。
毎月一回、江木邸に招かれた福田は、政治・経済・軍事・国際情勢について、その謦咳(けいがい)に接し、政治の舵(かじ)の取り方が、国や民族の運命を変えて行くことを痛感したという。
福田の政界入りは昭和二十七(五二)年の第二十五回総選挙であった。その時、木檜は八十四歳で眼を病んでいたが、福田の選挙運動の先頭に立った。戦前に木檜の民政党とは対立していた政友会の県幹事長であった竹腰徳蔵も、公職追放解除後の政界復帰の場を知事と定め、国政は福田に託し、福田を「日本の宝」に育てようとひと肌脱いだ。こうした郷土の力を糧に、福田が政治家として大成していったことは、周知の通りである。
さて、政治家の資質が問われ、その育成について、人材養成塾や公募制などが注目を集めている。しかし、より大事なことは、福田赳夫にその典型をみるように、どれだけ「郷土的DNA」を受け継いでいるか、ということではないであろうか。 (県立歴史博物館学芸員 手島仁)
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