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日本経済史
269
:
名無しの桃大生
:2006/07/28(金) 03:28:29
明治前期の殖産興業政策は、普通、工部省段階(明治3年〜)、内務省段階(明治6年〜)、農商務省段階(明治14年〜)という3つの段階に区分して理解されています(石塚裕道「殖産興業政策の展開」楫西光速編『日本経済史大系』5、東京大学出版会、1965年)。工部省は、幕末段階に、幕府や藩がスタートさせた製鉄(反射炉程度)、造船(大型の戦艦などは無理)、機械などの工場や、やはり幕藩営の鉱山を引き継ぎ、さらに新政府が建設した電信、鉄道といった部門を統括しました。どちらかといえば、重工業、国家のインフラストラクチュア建設といった面が中心です。これに対し、内務省の政策は、農業、軽工業、そして博覧会などを通じた、民間の産業育成に重点がありました。農業では、農学校、(農事)試験場、牧羊場などを通じて、欧米式の農法の輸入が図られます。繊維工業が重視され、製絨所(毛織物)、製糸所(民部省・大蔵省主管でスタートした富岡製糸場も引き継ぐ)、綿糸紡績所が建設されたり、政府が紡績機械を輸入し有利な条件で払い下げを行ったりしました。農商務省は、両省所管の事業引き継いで成立しますが、いわゆる松方デフレの財政整理と連動して、「工場払い下げ」、直接的経営から間接誘導への転換など、殖産興業政策の整理再編成であったと言えます。
明治前期の殖産興業政策の展開を以上のように整理すると、殖産興業政策の二つの類型が浮かび上がってくるように思えます。すなわち、①国家的インフラストラクチュアの建設(陸海軍の軍工廠、官営製鉄所などの製造工場を含む)と、②全般的な産業振興、です。明治前期の流れは、工部省段階の①から始まり、岩倉使節団の影響を受けた②が加わるが(内務省段階)、事業自体の行き詰まりと西南戦争で加速された財政危機への対処を余儀なくされ(デフレを選択)、②を整理して、①、特に軍事面へ特化するという経過であったと言えるでしょう。ただし、その後において②が消滅したのではなく、主旋律は①ですが、②は対旋律(主旋律の補完であり、決して対立ではありません)として、折に触れて浮上してきたと言えます。
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