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犯罪に対する態度についてどう考えたらよいのでしょうか?

1無精髭:2008/05/25(日) 12:35:53
雑談&連絡スレッドでお断りいたしました通り、
珍妙なスレッドを立てました。

何だか、仰々しいタイトルになってしまいましたけど、
そこにはございませんが、「道徳」や「倫理」や「良心」
という語から連想されるがままに
どうぞお気軽にコメントをお寄せ下さいませ。
話題が一つに限定されないが為に、わざと
抽象的なテーマに致しましたので。

雑談&連絡スレッドの>2324の後半部分で
F様との議論の要諦をこちらでご提示致す事を
確約致しましたが、果たせませんでした。
この点、内心忸怩たる思いがございますが、
あの議論を読み返し・思い返して見ますと、
小生の頭の中で問題が、どんどん枝葉末節の方にまで
展開されてしまいましたので、結局何から書いていいのやら
分からなくなってしまったのです。

F様との議論に関連する問題につきましては、
とりあえずは、小出しにお出し致したく存じ上げます。

このスレでは一つのテーマに沿って論議が行われなくとも
構わないと思います。小生がお立て致したのは、
あくまで当のスレタイのみにございます。
つまり、議論の大枠を定めたに過ぎません。
その方針は、各々の論者に合った視点から、
その都度、自由闊達に決められればいいと思います。
小生はここではまず、F様との議論の為に投稿致しますが、
皆様がそれに沿ったレスをお付けになる必要はございません。
皆様も気の合う同士(?)このスレタイから外れぬ程度に
お好きなテーマを定めて議論なされば宜しいかと思います。
勿論、F様と小生の議論にご興味を持たれ、レスもいただける
という事なら願ってもなく、大歓迎でございます。

勝手な事を申しますが、ここでの議論の方向性は、
単線的なものではなく、複線放射的な展開を
小生としては望みます。
また、それがあるところでは一束に収斂したり
また解れたりしたら、尚の事いいなと思っております。

小生は当面はこのスレッドと雑談&連絡スレッド以外には
投稿致さないつもりでございます。
小生はあれこれと多方面にわたって考えを変えられるような
器用な人間ではありませんので。多分、単に頭が悪いだけ
だと思っておりますが。

小生はここに定住致す覚悟なので、小生のこの度の暴挙の程、
鎖にでもつないでおいた感覚で、突き放して扱って下さっても
こちらから何の非難を申す権利などございません由、
ここと雑談スレ以外から火種を飛ばさないという
誓いを以って、皆様のお許しを乞う次第にございます。

長文乱文失礼致しました。上記のように
形式上お断り致しましても、F様の他からコメントがあるとは
限らず、このスレッドが順調に伸びる見込みもございませんが・・・。

追記:小生の自己紹介とスレ立ての趣旨につきましては、
   雑談&連絡スレッドの>2310をご覧下さい。

89無精髭:2008/06/06(金) 21:30:52
最後に前後致しますが、以下

>同じ境遇に立たされても、みんながみんな犯罪に走るわけではない、とすれば、犯罪者というのは(後略)

こちらにつきましては、お知り合いの先生に少し異議がございます。と申しましても、話は簡単でござい
まして、別々の人間が「同じ境遇」であると言う事実を、どうやって実証するのかという、至極当たり前
の疑問が湧いて来るのでございます。「境遇」を「環境」と言い換えても話は同じで、仮令環境が同じ
であると証明されたとしても、同環境に全く違う個人が入っていた訳ですから、結局は違う環境であると
解釈出来ませんかしら? 小生の感覚では、環境と人間は互いに影響し合いながら、共に変化するものと
捉えておりますので。個々人を取り巻く環境のみを取り出して、やあこれは同じだ、とか、むむぅこいつ
は違うぞ、とか決められるとはとても思えないのでございます。「境遇」は「環境」と言う外部的事象
のみの意味ではなく、「過去」とか「体験」とかの記憶や心的事象の意味も含むのでございましょうけれ
ども。まさか、日本社会という最大の環境を持ち出してきて、その中の類似性を以って、日本人同士は
大体「境遇が同じ」なのだと結論する訳ではございませんでしょう。この点に関しましては、後々時間を
掛けて考えて行きたい事でございます。

P・S >>65-66にございます、「許すとは何か」というテーマにつきまして、何か引っかかるものを
    感じるのですが、それがまだちゃんとした形になって浮かんで来ません。忘れていた訳では
    ないのですが、中々そちらへ考えを傾注致す事が適わなく、結果として後回しになってしまっ
    ておりますけれども、どうかもう少しお待ち戴ければと存じます。因みに、全然関係のない話
    でございますが、小生とKen様の議論は、とりあえずはこちらのテーマを優先致したいので、
    当面は棚上げにさせて頂く格好となります。小生は未だ止めるには惜しいと存じ上げます(笑)

(と、とりあえず昨日の分(>>86で述べましたもの)のレスを書き終えましたが、内容は一変しております。
一々お知らせ致す事でもございませんが、昨日消した内容を思い出しながら書くのは疲れました。
いや、その殆んどは記憶から失われておりますので、当てずっぽうで書いた所が実に多く、必ずしも小生の
意にそぐうものではございませんが、紫煙狼様へ献上致したく存じ上げます。お許し下さいませ。)

それと、人間魚雷様へ
お久しぶりでございます。お元気でしたか?
ちょっと小生心配でございました。
また小生の悪い癖の為に、ご気分を害されたのかと思い、
やきもきしておりました。

90紫煙狼:2008/06/06(金) 23:18:42
>>87
その見解は間違いではないと思います。
そして、私自身がそのような考え方をしているわけでもありません。
ただ、そういう物事の見方もあるという部分で興味を持ったので、
他にも興味を持つ人がいるやも、と思って書き込んだものです(^^)

>>88 >>89
確かに、育成環境の差とか色々な要素があり、同じ境遇と一括りにするのは
無理があるという意見はもっともだとおもいます。ただし犯罪心理学の研究の
始まった当初に、そこまで厳密に環境を重視していたかというと、そうでもないと
思うのです。人間の性格は持って生まれたものか育つ中で形成されるものか?
という議題が真剣に交わされていた頃の命題ですからね(笑)おそらく、
目の前にお金が落ちているときに、拾う人もいれば拾わない人もいて、
届け出る人もいればネコババする人もいる…程度でも当時は同じ境遇と
考えることにしていたのだと思います。

あと「理解できてしまう=理解したつもりになっているだけ」は正しいです。
それは主観と客観という概念に於いて、究極的に客観というものは存在せず、
客観的なツモリになっているだけの主観に過ぎないという一つの真理と同義でしょう。
最終的に人の気持ちなんて本人以外には完解できないし、本人にすら完解できない
場合のほうが多いかもしれません。
ただ、それが必ずしも人の気持ちを推し量ることを否定するものでもないのは、
無精髭さん自身が一番ご存知でしょう。どうやっても完解できないのですから、
そんな無駄な努力はしません、と切り捨てることが出来ないから、無精髭さんも
色々お考えになるのだと私は推し量っています(笑)

<閑話休題>
kenさんの書き込みとか無精髭さんの書き込みとか見てて不思議というか、
スゴイなぁと思うんですよ。この「書き込み欄」に直接入力しているって事でしょう?
それでよくまぁ、あんなにマトモな文章が書けますね。

私は毎回、校正するためにWordで書いてコピペしてます。
それでもこの程度の文章しか書けないんですから、
はっきり言って文才ないですね<私(笑)

ただ、間違えてよく消してしまう人の場合、Wordを使うと
一定時間ごとに自動的にバックアップを取ってくれる設定もあるので、
泣かずにすみますよ(^^)

91mayuminh:2008/06/07(土) 04:01:45
犯罪心理学の初期段階というのは、ロンブローゾなどの生来的犯罪者説とかで、
骨相学なども大きなポイントになっていた例のアレですよね。アレはちょっと
困るんです、「大きな眼窩」「高い頬骨」うんぬんなどと言われると、ウチの
夫などもじゅうぶんお仲間です。すたれて当然というか、勘弁してくれ、と。
また、階級差が非常に大きい時分のことですから、環境だの境遇だのといったと
ころで、自分の所属する階級外の者にたいして細やかな見方ができたとは思えません。

それと「被害者に感情移入しやすい」という点についてなんですが。
またウチの夫を例に出して恐縮ですが、子どもを持ってからの、子どもが犯罪
にあうニュースなどを見た時の彼の反応が、ただごとではない。
被害者家族に感情移入をしすぎて辛くなり、いきなりテレビのスイッチを切ってし
まいます。週刊誌などもその頁は飛ばしているようです。
絶対に失いたくないものができてしまうと、これはもう仕方がないんじゃないか。
知人が鑑別所の所長さんと話す機会があり、更生できるかできないかのポイントは、
誰かひとりでも大切な人の顔が浮かぶか否かだと聞いたらしいのですが…
どちらサイドに感情移入しやすいか、実際の行動についてどうか。
あまりにも大雑把な見方でお馬鹿さん認定を受けそうだけど、失いたくない
存在があるかどうかに左右される面が大きいのじゃないですかね。
失いたくないものを奪われてしまったから、犯罪に走るというのもあるでしょ
うし、愛するあまり視野狭窄に陥って過剰に傷つけるケースもあるのでしょうが。

92Ken:2008/06/07(土) 06:16:49
魚雷さんとMayumiさんに禿同。

本村氏の場合、家族を皆殺しにされたら自分だったら生きていけないだろうな、と
自分に置き換えて想像しやすくて、それで彼の主張には疑問もあるのですが、
それでも彼を応援したい気持ちに駆られます。逆に加害者というのは何かしら
社会に疎外感・恨みを持っている人が多くて、そういう経験のある人は加害者に
共感する場合もあるようです。日野OL殺人事件でも被害者側に同情的なのは子供を
持つ人たち、加害者側に同情するのはもっぱら不倫の経験のある人たち、という風に
分かれてますね。

ここでは、共感する・同情するというのは本質的に他人の気持ちを理解すると
いう意味ではなくて、本人なりに理解した気になっている、というくらいの意味です。
それでも意味はあると思いますよ。

無精髭さん、ワードやメモ帳を使いましょう。セーブして後で書き足すこともできるし。
私もときどきメモ帳を使います。

93無精髭:2008/06/07(土) 08:28:02
>>90>>92
下品ですけど、2ちゃんねるの用語で申せば、
「禿同」でございますな。

しかしながら、実は小生も、メモ帳と直接入力を併用致しておるのですよ。
小生の長文レスの連投がございますけれども、投稿時間をごらん戴ければ
お分かりになると存じ上げますが、前後のレスの時間差が1分程度に
収まっているでございましょう? その場合、事前に用意したメモ帳の文章
をコピペしたものだと考えて頂ければ、と存じます。 

ですが、簡単なレスを付けているつもりが、次第に興が乗って(?)、
当初の計画よりも長くなってしまう事が、少なからずございます。
こういったときに油断して・・・よくやってしまうのです。

直接入力を致すのも、文才云々ではなく、
ただ、名前の通り「不精」だからなだけでございますが・・・。

>>91
mayuminh様
お書き込みの程、誠に感謝致します。
小生、今は出勤直前でございまして、誠に勝手ながら「忙しい」ので、
帰宅してから改めてレス致したく存じ上げます。ご容赦下さい。
ロンブローゾですか・・・、来たなって感じですね(笑)
小生はそういったお話も、不謹慎(不合理?)ですが好きにございます。

改めまして
皆様、沢山のお書き込みの程、誠にありがとうございました。
では

95loveless:2008/06/07(土) 19:12:24
>>77-78
ミラーニューロンかあ。。

これは、男女でも(多少の)差異が認められる箇所という学説を見た覚えがあります。
また、特に男性の場合は、この箇所を一時的に "disable" にする能力も女性に比べると高いそうです。

つまり戦争のような特殊な状態では、(おそらく訓練によって)意図的にこの部分を "disable"にすることで、
非常に冷徹に殺人行為を行うことができるとのこと。

普段は気の優しい人たちが、戦争の場面では恐ろしいほど残酷になれるのは、このような脳の働きによる
ことだそうで。。(小平事件のエピソードを思い出す)


一説によると、現生人類がこのような能力を獲得したのは、その発生時にすでに地球上に存在したライバル、
すなわちネアンデルタール人と呼ばれる我々の「いとこ」とも言うべき存在と競争するためだった
というのもあります(ネアンデルタール人を駆逐するために彼らを殺害する必要があった)。

これらが正しいとすれば、現生人類は先天的に殺人を嫌う倫理観が備わっているのではなく、
逆に、同族ですら簡単に殺害できる能力が先天的に備わっている、と言えるかもしれません。

96無精髭:2008/06/07(土) 21:35:14
>>91
mayuminh様
改めまして、ご挨拶申し上げます。
この度のお書き込みの程、誠にありがとうございます。
さて、早速でございますがレスさせて頂きたく存じ上げます。

>失いたくない存在があるかどうかに左右される面が大きいのじゃないですかね。

この点は、小生が先に申しました「相互性の原理」に妥当するお考えかと存じます。
確かに、他者などの自己外的な「存在」に注目すれば、その実在性をあえて問わない
事を条件に、小生が疑義を抱く論拠として挙げましたような、愛情の個人差や「愛す
る」と言う事の意味の捉え方の特殊性、並びに言葉を習い覚える上で、原初的な意味
(価値と言って良い)として言語に対応する原体験の固有性など、つまり言語に関わ
るアポリアの一切を考慮の外に置く事が可能かとも思われます。畢竟、これらは全て
「観念」であり、私たちの目の前において認識できるものではないからです。しかし、
他者(別段、目前の木やそこら辺に落ちている石ころでも構わないのですが)のよう
な「存在」は、全てのものは自己意識を通してその中で把捉されるものだとしても、
疑いようもなく確かな実感として感受されます。そして、自己による認識により一層
の明瞭さを与える事で、ややもすれば独我論的な雰囲気に陥りがちな自己意識を、そ
の内向的な働きの呪縛から救い出してくれもします。対象の性質の別なく、有る事と
無い事の区別は、個人差云々や自己と他者の意識性及び内面性の問題を度外視しても、
皆が共通に感覚し且つ概念的に理解できると言えるのではないでしょうか。

ですから、「相互性の原理」を考える上で、こういった「存在」をまず最初に中心に
据えてしまえば、小生が詭弁だと退ける当の理由に拘泥することなく、それを肯定す
る事が出来るかも知れません。

ですが「失いたくない存在」の有る事が、それを失った者への感情移入の素因をなす
のだとすれば、失った者の心とそれに感情移入する者のそれとを繋ぐものは、尚も同
じ「失いたくない存在」なのでしょうか。例えば「失いたくない存在」が「子」であ
る場合、「相互性の原理」の有効と限界の事実を確証付けるには、誰でも自分の子ど
もを失う事は悲しい事であり、自分の子どもを持たぬ者にその辛さは分からない、と
さえ言えば充分でしょう。しかし、それは「失いたくない存在」と言う概念をその完
全な理解と共に他人と共有する事を前提にしているからこそ、説得力を生む議論なの
です。

「失いたくない存在」と言う概念は無論、「失いたくない」という危機感が強く意識
されている最中に捉えられる「存在」一般を指すのでしょう。ですから、自己も他者
も、「存在」把握においてはカテゴリーが同一の形式である事で繋がっていますが、
自己意識においては「失いたくない」という志向が向けられる当の「存在」に先立っ
ているのです。小生が感じる、「失いたくない」という危機感が共有される事の不可
思議さは、正にこれなのでございます。

と申しましても以上、冗長な抽象観念の塊にはもう辟易されている事と存じ上げます
ので、一旦止めに致します。小生も、牛の歩みの如き思考には大分疲れました。正直
申し上げて、問題自体も掴み難くなって参りましたので。そこで、以下簡略に小生の
疑問を幾つか挙げて見る事に致します。

「失いたくない存在」が何故、素知らぬ者同士の間でも一致を見ることが多いのか。
「失いたくない存在」の意味が両者でどのように共有されているのか(理解からか、
それとも感覚からか)。果たして「失いたくない存在」の有無という発想は、小生の
疑問を内破してくれるものなのか。あと冗談ではなく、「失いたくない存在」が有り
過ぎる事と一切無い事はあり得るのかと言う事、等等。

mayuminh様へのレスという形で始めさせて頂きましたが、途中から(最初から?)方
向違いな代物になってしまいまして恐縮の至りにございます。>>91への反論として提
出致している訳ではございませんので、ご安心(?)なさるともなさらずとも構いま
せんが、兎も角、誰からのレスも特に期待しておりませんし、意味不明であれば気持
ち良くスルーなさって下さいませ。末尾に書いて置くのもおかしいのですけれども。

追伸 一点に絞ってレスを致したのは、わざとです。小生にはとても難しくも興味の
   掻き立てられる一文に御座いました故。陳謝。

97人間魚雷:2008/06/08(日) 00:15:26
>無精髭様
「死刑囚仏説」ですが、時間がなくてなかなか詳細な説明を
書き込みできませんが、機会があります時にでも・・・・(謝罪)

まあ極端な例を出しますれば、タクマやサカキバラ、ミヤザキと我々一般人の心理が
さほど変わりが無いとも考えられず、彼らの心理を理解する事が容易ではないので、
その辺のところを研究して頂きたいものです。
人間とて動物。様々な条件が重なると、稀にこういった犯罪者が出現する。
事件というより「事故」に近いものだ。
てなことであれば私にも理解出来ますが。

98無精髭:2008/06/08(日) 12:30:44
同情は可能か否か?

同情の定義付けには色々と方法があるだろうが、

<一者が他者の感情を理解する>
一者が他者の感情を理解するのに、他者の感情を自らの感情に置き換える
必要はない。同情とは、他者の心情を理解する事というより自身の心情において
それに感応するような想像行為という方が相応しいのではないか。
他者がどんな感情を抱いていようとも、一者が他者の立場に仮託して
他者が感じるように感じる必要はなく、自身の立場を堅持したまま
他者の感情をその言動などを観察することから推測する事はできる。
推測はあくまでも推測であり、他者の心を見通すことは当人の他には出来ない。
だとすれば何故(ある程度でも)理解できるのかというと、まず、
心的状態という観察対象の枠を類型化して、実際の観察上では、
他者からそれを切り離す事は出来ない(他者とその心はそもそも切り離されたものではない)
のだが、思考上で他者に当て嵌めるという方法が考えられる。
現実では、他者の中に心が含まれているとされるが、
理解の過程では、ある心的状態を理解する事が、現実の他者の存在に先立つのである。
例えば、悲しむ、という心的状態を理解するのに、実際に悲しんでみる必要はなく、
また誰か悲しんでいる人を周囲に探す必要もない。悲しみは、特定の誰か及びその心に付随した
性質ではなく、特定の誰かの外面的特徴に合わせてこちらから付与するようなものである。
・・・(未完成)・・・

(上記は>>67に関連した思考の残滓にございます(書いたのもその時です)。
これも含めて、このスレでの一切の小生の書き込みは、手前勝手な妄想的
思弁の軌跡にございますので、覚え書き程度の認識でしか書き込んでおりま
せんでした。はっきり申し上げて、思い付きをだらだらと書き込んでいる感
じが拭えませんので、今後神経質になってまで小生のレスに目を留める必要
も無いかと思われます(内容によってはsageでの投稿も考えております)。
文法的にかなり不味い所も多々見受けられますが、それも曖昧な日本語の恩
恵に肖って、ごり押しで論理を築いてしまったせいで、今に至って見るも無
残なジャンガ状態に・・・。軌道修正には骨が折れますが致し方ございませ
ん(文の見直しも余りせず、訂正もいい加減なのが悪いのですけど)。因み
に、上記は小生による自身の考えへの批判でございます。一見してそうは見
えないかも知れませんが、同情を不可能だとする疑いを、その定義付けをず
らすような仮説を以って、緩和しようと企図したものでございます。)


>>95
loveless様
お書き込みありがとうございます。
ミラーニューロンへの補説、どうもでございます。
末尾でKen氏のお考えを相対化する仮説をお出し下さいましたが、
とても興味深いですね。色々と考えさせられます。
以上、短文でのレスになりましたが、ご寛恕下さいませ。

>>97
人間魚雷様
お返事戴けましたので、ホッと致しました。
その件につきましては、小生も急かす気など更々ございません。
こんな事を申し上げるのは無礼極まりないのですけど、
お互い気長にやろうではございませんか。
結論を急いで即席に主張を持つ事は小生の本意ではなく、
問題を明確化する事こそ小生が議論致す目的でございます。
その件につきましても、余り一人で思い詰めず、このスレで
皆様と議論を交わす事で、段々と浮き彫りになってくれば宜しいかと
存じます。しかしながら、貴殿が>>59の旨を覚えていて戴いたのには、
とても嬉しく存じ上げます。小生も何か良い策(?)が浮かびましたら、
ご報告致したく存じ上げます。

99Ken:2008/06/08(日) 15:01:39
無精髭さん、本当に「不精」なんですか?少なくともちっとも筆不精ではない
ですよね...。

チンパンジーも殺人、嬰児殺し、戦争みたいなことしますよ。ボノボはそれとは
まるっきり逆で平和主義のようですね。ヒトは両方の特徴を受け継いでいるみたいです。

100無精髭:2008/06/08(日) 16:27:22
>>100

Ken様、小生が「筆不精」では無いとの事、確かにそうでございますね。
色々と書き込みたい事は山ほどあるのですが。。。その欲求に小生の
文章力が追い付いて行かない事を深く恥じている為、そのように申した
のでございます。書きたくても書けない事、これも「筆不精」と申し上
げても宜しいのでは? 小生にも良く分かりません。

まぁそれと、長文による投稿が多い理由は、普段からそんな事ばかり
考えておる証左でございまして、書き溜めておいた物が完成を見ずに、
整理も億劫と成る程に溜まり過ぎた為、精神衛生上暫くその問題から
距離を取る目的で、こちらに投稿させて頂いておる訳でございます。
こちらの住人の皆様には、大変に迷惑千万な事とお察し致しますけれ
ども。

人と議論をするには、とりあえず自らの考えを纏めて形ある論を提出
しなければなりません。その為には、論者は自ら一人で思考しなけれ
ばなりませんから、たとえ多少の妥当性を有する論が形成されたとし
ても、どうしても独り善がりな観点を抜け出す事はできないでしょう。
その蛸壺状態から脱する為に、論者は人から批判を甘んじて受ける必
要があり、そこでまた一人の思考から議論へ戻って行かなければなら
ないと存じ上げます。延々と、その繰り返しでございますね。

以下、小生の最後っ屁にございまする。

(本村氏の)心情は理解できるが、心情を感じる事は出来ない。
理解と共感は違う、ということ。

ただ単に、小生と>>3の冒頭の人物が(その後の人物が言ったように)馬鹿なだけで、
本村氏の心情を理解する能力が足りないだけなのか。その結果が、本村氏の一連の
言動に対して違和感を持つ、という形で自分に表れるだけなのか。つまるところ、
その違和感は社会に対して正当性の意味を持たないのか。持っても意味がないもの、
否、本来は持ってはいけないものなのか。
以上、すべてそういう事実なのかもしれない。

書き溜めて置いて、(時間の都合上もございますが)考察がこれ以上
加えられなかったのは、以上で最後にございます。

因みに小生は、Ken様並びに諸賢の皆様方のお考えを否定している訳
ではございません。反対もしていないのでございます。小生が「同情」
に拘る理由は、>>63で簡単に触れました通りでございます。おそらくは
社会及び文化の認識問題以外なら、ここのスレの話題に限って申せば、
Ken様のお考えを全面的に受け入れる覚悟はございます。

ですがわざと議論を面白くする為、ではございませんが、否こうも考え
られるのではないかという事を指摘させて頂いたり、議論相手の言語解
釈による定義付けを戦略的に、こちらの方へ徐々にずらしたりする事は、
卑怯と申すよりこちらの理解の為にも大変に有効でございますから、是
非とも皆様にも推奨致したい事でございます。

えー、また話が長くなりまして恐れ多いでございます(笑)。
ですが結局、議論もそうですが、普段の何気ない会話と言うのも、最終
的には自分が得をする為に、始めるものでございます(そうでないと続
かない)。本当に、こんな小生にお付き合い戴きまして恐れ入ります。

101無精髭:2008/06/09(月) 20:22:22
不遜にも、もう少し皆様の問題領域へ歩み寄らせて頂きとう存じます。

小生は>>91で言われている様な「失いたくない」気持ちをそこまで強く感じた事はございません。
おそらくかけがえのない程の「失いたくない」ものを持った試しが無いからでしょう。適当に思
い浮かぶ「失いたくない存在」と致しましたら、一番先に「家族」が挙げられますが、小生自身
の家族への愛もその各人に従って様々で、兄弟よりは父母に比重が傾きますし、父母に対しても
愛情の重さの違いはあるかも知れません。勿論、愛情の量の違いを論うよりもその質の違い、つ
まりは各人に対する各様の接し方・愛し方の使い分けを正当付ける方が、重要かと思われます。
換言致せば、誰を最も愛するかを優先してその対象を序列化するよりも、相手に合った愛し方で
愛せば良い(相手によって自然に愛し方が変わっても良い)と存じます。小生は皆を同じ愛の相
で眺める博愛精神や、誰か一人だけを愛する恋愛至上主義には無縁でございます。後者に限って
申せば、若い頃は確かに特定の個人に恋焦がれた経験もございますけれども、小生の場合それは
熱し易く冷め易いもので、数あるうち一度もそのような恋が愛にまで高まった事は無かったと存
じます。ただ単に惚れ易い人間だったのでございましょう。もう十年以上もそのような青臭い恋
愛(主に片思い)をした事はございませんし、これからもする気もございませんが(歳を考えれ
ば、もう遅いです)。否、人生を振り返ってみると、これまでの恋も純愛のように褒められたも
のではなく、きっと異性だと言う事で、何となく「好いな」と思って、ただ目移りしていただけ
なのでしょう(最低です)。

他に「失いたくない存在」はと申せば、人を除けば、住居とか職とか金銭とか趣味に関わる物と
か、一応形だけは代替の利くものとなりましょうか。こういったものは利他心ではなく利己欲に
結びついているので、他人が失くしたとしても同情はしにくいです。しかしながら、物にも代替
出来ぬものがある位は分かります。極端な例を挙げれば、考古学的遺産等の新たに生成されぬも
のや、制作者が故人となった為にオリジナルの価値が高まった美術骨董品の類、コレクターの収
集物、それと特定の物ではありませんが、個人のフェティッシュな欲望に捉えられたものなどが
ございます。もっと身近な例では、個人的な思い出の品、誰彼からの贈り物、などは何物にも替
え難い物として私たちの心に影響を及ぼします。これらを他人が失した場合、私たちはまるで自
らが失したかのように感じる事は出来るでしょうか。丁度他人が失した物と概念上同じ物や錯覚
を起こす程に似た物を持っていれば、同情は可能とされるかも知れません。しかしながらこれら
の例は、同一物の存在否定と言う、認識論上に代替が出来ぬという事自体が同情の契機となると
言う事を示すのではなく、ある人にとってある物の代替が出来ぬと言う事実が認識された時に、
初めて同情の契機が生ずる事を示しているのです。ですからある人が貴重視している物が他の人
に何ら価値を持たない場合は、認識上そこに代替の可能性が生じてしまう事で、同情の困難性も
増すという事になるでしょう。即ち、個人にとって「失いたくない存在」が存在する為には、人
であれ、物であれ、それが代替出来る(存在ではなく)価値か否かが問われなければならず、絶
対に代替が出来ると考えられては(代替の可能性が捉えられては)いけないのでございます(考
えられても代替の可能性は否定されなければならない)。これは存在の唯一性の問題ではなく、
寧ろ存在解釈(何の為に在るのか)という価値観の問題ではないでしょうか。以上小生は、「失
いたくない存在」を代替不可能な「掛け替えの無いもの」と解釈(曲解?)致しました。

102無精髭:2008/06/09(月) 20:23:03
ところで、存在の唯一性云々と申しましたけれども、既にお気づきの事かと存じますが、完全な
意味で代替の利くものなど、この世の中にはございません。概念を度外視して個々の物を見れば、
何一つ同じものは存在しないからでございます(例えば葉や石の場合、似たようなものでもよく
見れば形や色や触感が異なる、など)。否、この世に何一つ同じものが無いという事が事実だと
しても、代替は現に行なわれている訳ですから※、個々の存在の唯一性や固有性はそれを理由に
は代替されず、物そのもの(無記銘の存在)が互いに代替されている訳でないのは確かでござい
ます。であるならば、同一物の概念において、一体何が代替可能とされているのでしょうか。或
る特定の物体、例えば目の前にある様な椅子Aや石ころAやりんごAなどは、それぞれ同じ概念
に含まれる様な椅子Bや石ころBやりんごBなどに代替可能かと思われましょう。正確に申せば、
その性質上の一致(使用目的の一致)が代替可能性を生み出しているので、個別の物それ自体が
同じ概念に含まれると言う理由で代替される訳ではないのでしょう。無論、概念把握や認識上の
一致も重要ですが、性質上の代替は私たちの価値観が成せる業なので、これが最初に果たされて
しまえば、他の一致はこれに比べれば然程自覚的に優先すべき事実ではないと思われます。私た
ちは腰を掛けるのに椅子しか用いる必要は無く、腰掛けやすいと言う理由から手ごろな形の石を
選んで座る事もできますし、空腹を満たすのに選り好みしてりんごを食べる必要は必ずしも無く、
みかんでも芋でも食べればいい訳です(別に食べ物でもなくとも石炭でも食べて見せる事は出来
ます。自由意志の問題として)。物を食べる事には好悪が強く関わってきますが、余程味にうる
さい人でもなければ、その果物(更に品種への拘り等も)固有の甘さ(他の食べ物でも、それに
固有な味・匂い・食感がございましょう)だけに拘って、他の食物(果物であれば他の品種への
冷淡)の甘さ(その食物にしか「甘さ」と言うのを認めない)との比較を意識的に断つ、つまり
代替可能性を拒否する等と言うことはまずあり得ない事でしょう。

※代替は現に行われている訳ですから・・・人間社会のみでなく、自然界においても物の代替は
行われております。捕食行為(その手段や餌と見做す認知)やマーキングや巣作りなどの縄張り
行動、等に見られます。つまり自然欲求、本能的衝動においてすら、物の代替はスムーズに行わ
れているのです。難しくなりますけど、「環境下の行動領域の拡大における自然物の分類化及び
生活利用」とでも言わせて頂きたい。

因みに、代替が出来るとされている物も本当は代替出来ぬのではないかと疑っております。
更にはこんな事も考えてみました。
この世に二つでも全く完全無欠に同じものがあるとすれば、それらの差異はただそれらが別々に
在ると言った、場所の差異しかない事になり、それらの物はただの位置関係でしか自らと他との
違いを示す事が出来ない事になるというものです。これは純粋な量の問題でありましょう。この
ような場合における代替(可能性)はどうなってしまうのか、これは純粋に思弁的な問題なので、
これ以上妄想を膨らませるのは止めましょう。

103無精髭:2008/06/09(月) 21:23:09
閑話休題。
長広舌を振るいまして恐れ入りますけれども、>>91での旦那様のご心配の程も、やはり「何とな
く」と繰り返さざるを得ないのですが、分かってしまうのは人間の性でございましょうか。小生
もKen様(何度も引き合いに出して恐縮ですが、どうか我慢なさって下さい)も、それが完全な
理解ではない事は認めているのですが、Ken様は「何となく」分かる事に、他者の内心の実際と
は全く関係ないながらも、ご自身にとって社会性につながる内実を見出しているのに対し、小生
は他者の内心の実際の正確な理解、及び自他の完全な一致があり得ない事を理由に、その重要性
を容易に受け入れようとはしない※。Ken様のお考えは今度は何となく分かるとも簡単にはいえな
いのですが(と申しますより同調するのが躊躇われる)、その重要性については多少議論させて
頂きましたから、理屈では遥かにこちらの方が分かりやすい。ですが分かり難さが別の位相に移
っただけ(つまり感覚的なものから思弁的なものへ)とも言えます。

※これは言い方を換えれば、愚鈍にも他者の内心の実際の正確な理解、及び自他の心の完全な一致
を目指しているとも言えます。小生は必ずしも、論理によってそれを企図している訳ではございま
せん。しかし小生にはまだこの問題の正否について(且つ問題の立て方の正否についても)腑に落
ちない事がございます。・・・まだ道は長く険しいようです。

そもそものスレッド趣旨の方へ話を戻しますが、小生が他者の心について執拗に拘るのは、他者の
為ではなく自分の心の為です。そして社会認識の過程において認識主体がたち現れてこないのは、
既に社会構造に参与しその一部となって動くからでございます。社会で自らの位置を知ると言う行
為は、正にその状態でしかなされないのでございます。これが小生が先に申し上げた「自己を客観
視する事」「社会認識における自己客観性」とでも申してもよろしいのかな〜? 自分で申してい
て馬鹿みたいに感じますが、観念的な社会像、社会像の観念化、というのはKen様の仰るような、
>私は異文化との交流を通して自分の社会は知ることは可能だと思います。
的な「自分の社会」とは異なる、と申しますか、上手く重ならないのでございますよ。紫煙狼氏が
>>90でいみじくも仰ったような、
>それは主観と客観という概念に於いて、究極的に客観というものは存在せず、
>客観的なツモリになっているだけの主観に過ぎないという一つの真理と同義でしょう。
的な考えを他者のみにではなく、社会にも向けてみればその原因も自ずと知れる訳でございますが。
多分、Ken様のお考えと小生のそれは、対象を言い当てる論の方向性が食い違っているだけで、案外
意識して話を合わせれば、重なる部分も多いかと存じます。ただそれも、「自分の社会(だけ)」に
拘るか、「自分の社会と他者の社会(の差異)」に拘るか、どちらのスタンスを取るのかを相手に悟
られないようぼやかすとか、或いは一つの社会を論じる上でも、「自分(だけ)の社会」に拘るか、
「自分と他者の社会」に拘るか、をわざと明確化しないとかを必須とした場合に限られますけれども。
僭越ながら申し上げますが、小生が以前、感情が社会参与の契機となると申しました事(>>12)と、
執拗に感情に拘る理由(>>63)を思い出して頂ければ、と存じ上げます。まあ、気長に議論にお付き
合い戴けるのであれば、問題は深まりつつも明らかになって来るでしょうし、小生の正体(考えてい
る妄想の実態)も知れてくるでしょう(化けの皮も剥がれて来る?)。

追伸
sageて置きました。暇な時にでも、(60〜70%の理解度で)流し読みして下さいましたら幸いでござ
います(数値は皮肉ではございませんよ。それ位で調整して戴ければ、早くお読みになれるでしょう
し、はっきり申して小生の文など、気張って・身を入れて読む様な代物では御座いませんのでネ。)。

104無精髭:2008/06/09(月) 22:15:20
>無精髭さんは自分が所属する社会は、所属しているという事実によって不可知になる、と主張しますが、(後略)
Ken様は上のように仰いましたが、小生は「所属している」という考えをあまり自明視しておらず、その事実を知る
には自ら観念の上で理解せざるを得ない、そこに社会の全貌(ととりあえずは申しておきます)を知る事の限界が
ある、と(Ken様の無精髭理解を受け継ぐのならこう)申し上げたら宜しいかと思われます。社会の全貌とは完全な
る(その構造の動態をも再現に含めた)社会像の事であり、Ken様も誰も(社会成員として)生きる上で認識する必
要が無いものでしょう。必要があるのは、今だ嘗ていなかったような絶対的な権力者だけではないでしょうか。因み
に「所属する」と言う事も、小生には良く理解できておりません。

Ken様と小生の意見の相違は、「文化」と「社会」の捉え方の相違に起因するのではないかと見ております。
今は詳しく考察する時間も根気も足りないのですけど、どちらかと言うとKen様は、その二つを重ねて見ているような、
それらの近似値を詳論する事を目的としているような観がございますようで、小生はと申すと、観念操作を第一とする
為にその二つの相違点に拘らず、人間の認識にとって、文化をより内在的に関わるもの、社会をより外在的に関わるも
の、としてその因果関係を論じる事に手を尽くされているのでしょうか? 実在的なものとしてその二つを論じられる
のであれば、観念的なものとして二つを論じようと企てる小生と致しましては、それらの(実生活における使用上の)
言語としての意味の曖昧さによって、二つの相違点に霞がかかるのも致し方ないのかも知れません。

話が飛びますけれども、
ミラーニューロンやTOMが、性善説と性悪説のどちらに転ぶかは見物でございます。
小生、実はミラーニューロンについてはKen氏にご指摘を受けるまでは知りませんでした。
少しでも粘り強く観念的に物を考えて行けば、少しは現実の事象と合致する事もあるのですね。
まあ、あれは(>>67-68)小生が曖昧な事象にとりあえず無理やりにでも合理的説明を加えようと
意図した所の仮説ですので、結果的に>>77で仰っていらっしゃるように見えたのは、
運良く(?)Ken氏がご自身の頭の中で補説なさって下さった事による偶然でございます。
小生自身はあの仮説の現実妥当性を頭から信じておるわけではございません。
所詮あんなものは、TOM云々と言わずとも、無意識下における他人からの借り物でございますよ。
勿論、小生自身にしてみても、言われてみれば、どこかで聞いた事がある気がする、
読んだ事がある気がする、といった既視感の類がございますから。
何はともあれ、ご指摘戴いた事は大変嬉しく、小生もこの件に関しまして、多少考える所が
ございます。いずれまたの機会になりそうですが。。。

ああ、それはそうと致しまして、Ken様や他の諸賢の皆様方に一度お聞き致して見たかった事が御座います。
皆様がお考えになります、「権力」のあり方について、そもそも権力をどのような条件で認めているのか、
と言った事でございます。国民や市民のあり方(あるべき姿)とは、また別の次元の問題で御座いますよね。
お時間に余裕が御座いましたら、お知恵をお貸し下さいませ。

またも追伸
Wikipediaの「刑罰」に、少年法を廃止しようと主張する識者に犯罪心理学者が多い、と書かれていましたが、
どうしてなのでございましょう? 自分たちの知識体系や理論的蓄積から導き出された考えに則っているのか、
それともその学問本来が持つ権力寄りの保守性からなのか。国民が考えるような、少年法を廃止するメリット
を同様に、犯罪心理学者が主張しているとは、とても思えませんけれども。

105無精髭:2008/06/09(月) 22:52:06
>>104
訂正でございます。
「Ken様と小生の意見の相違は、」で始まります所、途中

×>為にその二つの相違点に拘らず、人間の認識にとって、文化をより内在的に関わるもの、社会をより外在的に関わるも
○>為にその二つの相違点に拘らず、曖昧なままにしております。人間の認識にとって、(後略)

と、簡単な文を付け加えさせて戴きましたので、
上記のように直してお読み下さいましたら幸いでございます。

小生の文章を書く時の悪い癖が出ました(書き難い所はひとまず後回しといった)。
読み直すのも怠りました。
他にも可笑しな所がございますが、お見逃し下さいませ。

106無精髭:2008/06/10(火) 08:31:12
>>103
訂正ではないのですが、以下の如き可笑しな所が御座いました。

>そもそものスレッド趣旨の方へ話を戻しますが、小生が他者の心について執拗に拘るのは、他者の
>為ではなく自分の心の為です。そして社会認識の過程において認識主体がたち現れてこないのは、
>既に社会構造に参与しその一部となって動くからでございます。

「〜心の為です。そして〜」の箇所、話の展開が唐突に変わっていますけれども、
これも読み直しを怠った為の消し忘れか、更に解説の為の文を付け加えるのを忘れたか、
どちらかで御座います。どうしてこうなったのやら、最早全く記憶に無いのですが。。。
実を申しますと、>>103-104辺りは思い付きを書き溜めた所のコピペに過ぎません。
訂正致すのも億劫なので、そのままにして置きます。お読みの際はご注意(?)下さいませ。

他にも上記、構文的に直したら良い様な所が数箇所見受けられます。
こうしたら読みやすいのではないかと言った所もございますが、
小生が頑固な為、あえて訂正致したくない所も混じっておりますので、
小生の悪文をお読みになる皆様にはご迷惑な事と存じ上げますが、
やはりあえて訂正致しません。

本当は、ある程度のスピードを以って即興で書いた方が、
内容の良し悪しは別としても、読みやすいものが出来るのですよね・・・。
あと、文章はある程度纏まった量が出来たら、少しの間寝かしておいた方が
良いのだと言う事を、今回のミスで痛感致しました。

小生、多少ノイローゼ気味かも。。。

107無精髭:2008/06/10(火) 22:32:24
↑未だ完全に癒えてはおりませぬが。。。

>>84>>96>>101-102

上記が「相互性の原理」から「同情」を規定しようと試みた所のレス群でございます。

同情は可能なのか否か、と言った方法論的問題は、
現に同情が行われているという現実(「何となく分かる」と言う言説)でのその是非とは、
実は問題の位相が異なります(>>63)。

小生と致しましては、先ずは前者を解決しなければ、
後者に取り組む事に専念できないのです。
前者の方が本質的な問題だと思われてならず、この誤解がある為か、
皆様がお考えになるような問題に、簡単に触れるのが躊躇われます。
なかなか皆様の議論にまで到達する事ができず、
回り道をしないで、一直線の最短距離で走ればよいのですけど、
何故だか分かりませんが、小生にはそれが出来ません。
きっと前世は亀か蝸牛か海鼠と言った風な、そんな性分なのでございましょう。

上記4つのレスで何を申し上げたかったのかと申しますと、
一言で申せば、相互性の原理から可能とされた場合の同情行為には、
自己と他者の間に、必ず何らかの媒体が存在するのではないか、
と言った事でして、小生は相互性の原理に対して否定的でしたが、
>>91を読んで、それを克服するようなアイディアが浮かんだ気が致したのでございます。
別に自らの間違いに気付かされたという訳ではないのですが、新たな思考の切り口が
ある事を知らされたのでございます。

同情と言う現象を説明する場合、
自己の心と他者の心がどのような経緯でつながるのか(完全な一致はあるのか)、
或いは主観的に、どういった意識的な方法で他者への同情は行われるのか、
といった心を中心とした考え方とは別に、各人にとって或る存在が
どのような意味を持つのかを探る事によるアプローチもあるのでございます。
その方法とは正に小生が否定的であった、相互性の原理なのでございますが、
これが何故に世の中で、まがりなりにも可能とされているのか(小生は自分にとって不可能・詭弁と申しましたが)、
その方法や過程(仕組み)を考える事が、先の同情問題の解決の糸口になるのでは、
と思った次第にございます。それにはまず、心を中心とした考え方を一時保留する必要がございました。

108無精髭:2008/06/10(火) 23:25:58
小生は>>84で「家族」を引き合いに出して、言葉としての一般的な意味の他に、
人それぞれが違った(自分の・つまり固有の)家族を持っている事実から、
「家族」という現実の社会関係(人間関係)に適合した、
各人各様のイメージが存在し得るのではないかという可能性を示唆致したのでした。

しかし、それでは自分(小生)はともかくも、他者同士が家族の事で同情し合う事について
説明が出来ませんから、それを可能にする何らかの要因が存在するのではないかと
考えました。かと申して、各人各様が現実に対応した固有の「家族」価値を持っている可能性は
動かしがたく感じられますので、それぞれに固有の価値がどうして同情の対象になり得るのかが、
小生にとってとてつもない難問として浮上してしまいました。

蓋を開けてみればその原因も、他者同士が「(相手の気持ちを)何となく分かった気でいる」だけなのかも知れません。
結局は全て錯覚、と言う事なのかも知れません。しかしそうだとしても、彼らが自らの錯覚の中に何かしらの価値を
見出している事実は看過出来ないでしょう。そこに相互性の原理の要諦、つまり行為の結果としての同情ではなく、
正に行為それ自体としての同情が真実の姿で現れているのではないか、と思ったのでございます。

小生は、そこに一方の心と他方の心との働きあいを見る様な、今までの考え方をとりあえず捨て、
その間にだけ注目したと申し上げても宜しいのです。その間を埋め、その二つを繋ぐものは、
心のような実体の無いものではなく、もっと確固たる存在であり、例えば「家族」の様な、
現実の人間関係を価値として据える事で、思考上で同情・共感の媒体と見做しました。
しかしながら、人間関係だけにとどまらず、単なる物さえも同情や共感の媒体となりうる事をも
考察致しましたので、同情と言う主観作用の発動は、個々人の同情能力の差異(適性等)に左右される
ものと結論せざるを得ませんでした。そこで、結局は同情とは「価値観」による行為なのだと、
やや安直に理解する他無かったのです。無論、それで小生が満足致しておる訳ではございませんが。

以上、直接入力(笑)
にしても時間がかかりましたが。。。

109無精髭:2008/06/11(水) 19:39:28
>>108
>しかし、それでは自分(小生)はともかくも、他者同士が家族の事で同情し合う事について
>説明が出来ませんから、
ご説明致すまでもございませんが、自分が「家族」を亡くすと言った事で他人に同情出来ないと言う事が仮に真実だとしても、
ある他人が家族を亡くした事に対してもう一人の他人が同情すると言った事は、どういう経緯・内容かは全くの未知ですが
現に行われているようですし、また当事者でも何でもない赤の他人同士がその事で共感し合う様な事も同様に有り得てしまっている。
この事実は、小生が仮に同情の可能性を否定する根拠と致しました所の、相互性の原理の矛盾点と思われる、小生の人生において
だけの「<この>家族」と言った固有の現実・替え難い価値が、他人の「家族」のそれとは釣り合わないという事、換言致せば
小生の「家族」が他人の「家族」とは、その基本構造は言葉の意味としても実際の家庭関係としても合致しながらも、尚小生にとって
のみの「自分の家族」という特別な意味なり価値なりが、皆が共通して感じ・持つ様な「家族」と言う言葉・事実の一般性には
還元されずに残されるのではないかと言った事、これを理由にして否定する事が適わぬのでございます。それは他人にとっては
至極当たり前に行われている事なのかも知れず、小生にとってだけなされ得ない事実なのかも知れないからです。
つまり相互性の原理による同情は、小生の場合にのみ妥当せず、一切の他人には自然に訪れる感情である可能性が存するのです。
相互性の原理を否定出来たつもりで悦に入っていた小生が、実はその相互性の原理を理解出来ない安本丹であり、相互性の原理から
弾かれていた余計者であるかも知れない! とまあ、上記の文はこんな事を言いたかったのだと思います。

110無精髭:2008/06/11(水) 23:48:37
>>101
簡単に要約致せば、「代替がより困難であるほど、或る存在の価値は高まる」という事でございます。
その価値は他の価値には置き換えられない、言わば絶対的価値ですから、正にその存在の固有性や唯一性こそ、
価値の絶対性を生み出していると考えられます。否、正確には或る存在自体の性質から自発的に生ずるのではなく、
常に代替(この場合は交換と申しても良いのですが)を根源的な生活手段としている私たちの意識が、
物を捉える際に積極的に見つけ出しているものと言うべきでしょう。

ですが、全く代替が適わぬものと言うのは、畢竟相対的価値が無いものであるとも言えます。
とすれば私たちは、何の役にも立たない、潰しの効かぬものにも、それを理由に絶対的価値が見出せるでしょうか?
そこで、小生が申す絶対的価値とは相対的価値が無い為に、即ち利用価値や交換価値が失われた結果から事後的に
生ずるものではなく、代替を志向する意識を通して為される或る存在への価値解釈から生まれるものだと考えて
戴きたいのです。>>101で同情・共感行為に必須とされた代替不可能性とは、存在の唯一性の問題ではなく
存在解釈即ち価値観の問題ではないかと申し上げた事を思い出して戴きたいのです。
それを踏まえて戴ければ、或る存在における価値の絶対性が、有用性の有無の視点からそれが無い事を理由に
代替不可能とされる、その事から生ずるのではないと言う事がお分かりになるのではないでしょうか。
「失いたくない存在」つまり「掛け替えの無い」価値は相対的価値の無から反転して生ずるものではないのです。

「失いたくない存在」というのは、或る人間にとって特別な存在と言った程の意味でございましょう。
しかし、その存在がその人にとって「掛け替えが無い」と思わしめる程の価値があるものだとすると、
その絶対性は他者との価値基準に共有される様な性質として認識されないでしょう。
他者にとっても同じように代替が出来ぬものとして、絶対的価値を帯びて現実には存在していないでしょう。
かといって、そのような存在及びその価値には相対的価値が無いと即断する事が出来ないのも事実です。
小生は、(絶対的価値とは無関係に)相対的価値があるからこそ他者への同情は可能であると申したいのでございます。
一方、絶対的価値は主観でしか捉えられませんし、だからこそその主観にしか意味を持たないものなのです。
そしてそれは他者には認識し得ないが為に、同情の契機とはなり得ないのでございます(多分、>>101と言っている事が逆※)。
しかしながらこの粗過ぎる考えですと、問題を片付ける結論としてはとても成り立ちそうに無く、
最終的な解決には程遠い感が致します。おそらくはどこかに矛盾、乃至は観念の混同があると思われます。

※想像を絶する様な経験にこそ、真の意味での同情が出来るともいえますが・・・
 小生の不可解な疑問は、自分にとっての価値が他人にとっても価値である場合、
 その価値を持つとされる当の存在が、自他の認識や解釈や価値判断に関係なく、
 同一であり得るのか、と言う事です。自分と他人が示し合わせたように、
 その存在の価値を作り出しているとして、それが同一だと確認されても、
 その存在自体はやはり異なっていなければならないと思うからです。
 その存在の価値が自他で異なっていれば、存在が異なる必要も無い、つまり
 一つの存在でも好い訳なのですが。ですがこれも小生の勘違いで、
 結局は他人の主観は自己の主観からは知り得ないものだという、ありきたりな
 結論にこそ真実があるのかも知れません。だから価値も何も、人それぞれの
 見方次第でどんな風にでも変わり得るのかも知れません。

111無精髭:2008/06/11(水) 23:50:47
「失いたくない存在」は、その存在が存する事が「失いたくない」つまり「掛け替えが無い」事を指し示す事で
生まれるのではなく、私たちの「失いたくない」という気持ち、つまり切なる願いが存在に
結びついた時に概念として定着するのではないでしょうか。
何を「失いたくない」かを決めるのは主観の側であり、その想いがどこに向けられるのかも主観の価値判断に
委ねられている筈です。
要するに「失いたくない存在」は他者の間にも実在するようなものではなく、自己にだけ、
自己との関係においてだけ存在するものだと言いたい訳です。
なのに、その意味が他者にも容易に伝わってしまう事の不可思議さが、小生には上手く呑み込めないのでございます。

因みに「失いたくない」と思う気持ちと「代替したくない」と思う気持ちは同じものではありません。
なぜならば、或る物が代替出来るのであればそれを失う心配はあり得ないからでございます。
「代替したくない」と感じるとすれば、形だけでも代替することにより「失いたくない」存在を失ってしまう
かも知れないと恐れるからでしょう。それは取り返しのつかない事をしてしまう事に対する危惧であり、
もし完全に代替可能なのであれば、感じたくても感じられないようなものでしょう。

一方、「代替をしたい」と言う風な望みがあるような場合、それは「失いたい」と言う気持ちと一致するでしょうか。
代替をする目的は所有する価値の増幅にあると考えられますが、よもやそれを失いたいとまでは思わぬでしょう。
確かに代替で失われるものはございましょうが、希望された代替によって所有する価値が減じる可能性はない訳ですから、
そこに「失いたい」といったマイナスな語感が入り込む余地などございませんでしょう。
この事からあえて極論を言わせて戴くならば、
代替を望むのにそれが出来ぬという動かし難い現実に直面した時、
当の代替されぬものの実在が現実での代替存在の不在を確定付けると認識される事によって、
その存在の代替を目論む事で他の存在(との交換)から得られると期待された架空の価値が、
当の代替されぬ存在へと付与されるのではないでしょうか。
・・・これは有り得ない仮説でしょうね。

112無精髭:2008/06/12(木) 00:46:18
と、長長と一人投稿を、周りのご迷惑を省みずに(特にboro様に?)
断行致しておるのですが、これをやっていたら何だかキリが無いような
気が致してきましたので、そろそろsageでの進行も打ち切りに致そうかと
存じ上げます所。とにかくこの一連の問題はなかなか一筋縄には行かず、
小生もここいらで別の問題を考えて、気分転換を致したく存じます。
まぁおそらくは、ここ最近の神経質な投稿を一旦止めてしまう方が、
一番精神的には宜しいのでございましょうが。。。

秋葉原の例の事件もございました事ですし。。。
小生もあえてあれには触れませんでしたが。
勿論、sageていては何の意味もございませんけど。

誰もご覧でない事を前提に、そして多分F氏はお読みになるであろう事を
楽観視致して、粛々と申し上げますが、
おそらくあの事件には、或る程度の距離をとった方が無難かなと思いました。
あの事件について何か言うにしても、一時的な喧騒が治まってからにして置いた方が
良いような気が致しました。
2ちゃんねるなどでは、事件後すぐに複数のスレッドが立ち上げられ、ものすごい速さで
消費されております。内容はともかくと致しましても、
ああいった言説の流れには何か生理的に受け付けぬものを感じざるを得ません。
それは2ちゃんねるに限らず、個人のブログでの発言、ちょっとした評論染みた趣旨の
それなども該当しますけど。

ああいった言説に飲み込まれて自分を失うくらいなら、あの事件に無関心でいた方が
よっぽどマシと言うものでございます。が、多分F氏なら反対の事を仰るでしょうね。

加害者に共感するか、被害者に同情するか、などといった瑣末な悩みを吹き飛ばす
インパクトがあの事件にはございました。あるコメンテーターに言わせれば、
テロと同一なのだそうです。安直だな、と思いましたけど。
自分たちの(夢想する)社会から異物や余計なものは排除して考えたいのでしょう。
ああいう輩が出てくる必然性が社会に存するのではないかと言う、視点の切り替えを
試す事もできないようです。時間の無駄には成るかもしれないが、試してみる価値は
あると思うのですがね。

取り留めの無い世迷言を発しましたが、あの事件に関する小生の
今のところの雑感はこんなものでしょうか。
最後に余計なことだとは存じますが、一言。
あの事件の被害者の方々には同情できません。もう亡くなっていますから。
亡くなった方に対して同情できるなんて人がいたら顔を見てみたい。
死者への冒瀆とまでは申しませんが、そんな事をするのは良心に呵責のようなものを感じます。
被害者遺族の方々にも同情できません。これは良心の問題ではなく、する必要を感じないからです。
あの方々にもそれは大きなお世話というものでしょう。ですから小生は自分の心の中でもそれを
意識的に殺しますし、許しません。
正直申してあの事件には恐怖しか感じません。
それに関連して、模倣犯とか類似犯(同じか?)が出てくる可能性への恐怖もございます。
それでも街の通行人を、人の流れを信用し切って生きている小生って
一体何なのでございましょうね?

もしかすると、加害者に共感する人間って、それで精神の安定を図っているのかもしれません。
殺人犯の心理を把握しているから、俺は殺されないなんて、凄い飛躍でどこがどう繋がれば
こんな結論が出てくるのか不思議ですが、人を信用しなくなる事が自分への信用を高めるのかも
知れません。毎日をポリシーを持って生きることは、その良し悪しに関係なく好い事なのですね。

一言と申しておいて、また長くなってしまいました。
もう就寝致します。明日はもうちょっと頭がスッキリしておれば良いのですが。

113無精髭:2008/06/12(木) 23:43:01
>>111
以下、解り難い部分かと思われますので補足説明を致します。
>因みに「失いたくない」と思う気持ちと「代替したくない」と思う気持ちは同じものではありません。
・「失いたくない」とは存在への価値解釈であり、これがその価値の絶対性へと結びつきます。
 「失いたくない」という意識の下に捉えられた存在は、代替における相対的価値の基準から脱し、
 またその領域とは別の位相を持つ事で、私たち主体に直接関わるような新しい価値を生み出します。
 或る存在が或る者(の主観)にとって生き甲斐になる(ように映ずる)、とはこの事を指すのでしょう。
・「代替したくない」とは、一言で申すと、(或る一つの)代替可能性の拒否であります。
 ですから、代替それ自体を拒絶する様な意図ではないのです。
 よって、代替不可能性を希求するものでもない訳です。
 そもそも代替は、日常生活の意識の深い部分にまで根差しておりますから。
 「代替したくない」とは代替によって元の所有価値を減ずる虞から来るもので、
 代替(から来る)価値を捨てて所有価値を守る意図であります。
 客観的にはこの世の全ての存在が一様に、相対的価値の基準に浸されている事から、
 最終的には逃れられないという認識が確然としている為、そこにまた代替の可能性も生じますので、
 所有する価値の固有性が脅かされる可能性も同時に生じます。
 代替によって「失いたくない」と感じる事は、所有価値が代替によって減ずる可能性を否定できない、
 そのもがき苦しみを表した心の声でしょう。
 ここで注意して置きたい事は、所有価値はその嵩は増減するといっても宜しいのですが、
 その有無が問われる事はありません。所有価値はその所有者のアイデンティティーに密接に係わり、
 その者の価値解釈にも深く関わっているからであります。つまり、その者の生きる為の元手に相違ありません。
 
 (存在の)絶対的価値と(主体の)所有価値は異なります。所有価値はある意味では絶対性を有していますが、
 それは代替の場においての主体による一時的保留であり、代替意識の中でしか存在し得ない性質です。
 所有価値には実質はなく、常に代替の場に晒されています。それは価値を所有する事の目的が、それよりも
 もっと高い・多い価値を望むからで、且つその事実を現所有価値との比較により確かめた上で実行する打算であるからです。
 言うまでもなく、絶対的価値はそのような代替の場で決められる(相対的)価値とは異なり、
 寧ろ全く関係がないからこそ絶対なのです。その価値は、或る存在と主体との関係のみに生ずるものと思われます。
 であるからこそ他者には認識できない価値であると思われます。

 存在は、常に他の存在との相対的な関係の相で捉えられますので、純粋認識のみでなく価値判断においても、
 相対的価値の基準に配される事は避けられません。これは存在の唯一性や固有性をどんなに認識した(探した)ところで、
 絶対的価値を見つけ出す事に繋がらない事を意味しております。存在の唯一性や固有性、つまり存在のあるがままの姿形は、
 有っても無くても・どう有ろうが無かろうがどうでも良い、そもそも代替の事実とは無縁である、そんな事は考慮する必要も無い、
 と言った事は既に過去の書き込みで触れました(>>102)。
 絶対的価値は存在自体に内属するものではないと思われます。

 追記:主体と客体という根源的関係を取り結ぶ媒体は意識であると考えられます。
    これに、誰かとその誰かから「失いたくない(愛されている?)」とされているものとの
    絶対的関係(それ以外の他との関係から絶していると言う意味で)を重ねる事は出来るかどうか、
    意識とは何かと良く考えてみなければなりません。現象学の本でも読めば早いのですが。

114Ken:2008/06/13(金) 02:45:42
無精髭さんはウィキペディア「心の理論」を読むべし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
例によって日本語版は分けの分かんないことしか書いてないので、英語版を強く
お勧めします。

ヒトには他人の行動を通して、その人が何を知っているのか何を考えているのか
他者の視点として理解する能力が備わっています。当たり前のようですが、これは
発達を通して身につく能力であって、他の動物や自閉症ではこの能力が限られています。
これが人が他者に共感や感情移入ができる根本原因であって、人間の社会が成り立っている
重要な要因だと言われています(人間の社会では共感とそれと相反する罰という
二つのメカニズムによって高度な協力状態を持続させている)。

自分で意識しなくてもこういう心の作用は勝手に働いちゃうんじゃないでしょうか。
本質的に他人の心情を理解しているかどうかにこだわる意義がよくわかんないです。

115無精髭:2008/06/13(金) 21:08:46
Ken様へ

レスの程、有難う御座います。早速御読み致しました(他のスレにご投稿されたものも含めて)。

ウィキペディア日本語版の「心の理論」の項目には、既に目を通しております。
確かに、腑に落ちないと言うか、小生の疑問を解消してくれるものではございませんでしたね。
英語版がお勧めとの事ですが、はっきり申して、小生の語学力では歯が立ちません。
ですので、替わりと申しては何なのですが、「心の理論」や「ミラーニューロン」等の
文字で検索を掛けて、色々とクグっております次第。

>自分で意識しなくてもこういう心の作用は勝手に働いちゃうんじゃないでしょうか。
仰りたい事はわかります。例えば、目の前にいる他人が怪我をして痛がっている時、
或いは、TVで注射のシーンが出て来た時など、それに無反応でいようと努めても、
何かしらは感じてしまいますからね。
他人が痛がっている振りをしている場合(役者の演技)や、
手術シーンが精巧な作り物の人体を使って撮影されている場合なども、
実質的に痛みの内容が存在していないにもかかわらず、やっぱり何かいや〜な感じを身体に感じます。
ミラー・ニューロンやセオリー・オブ・マインドなどといったものを持ち出さずとも、
こういった事実がある事には、小生は疑いを差し挟みは致しません
(無論、この事実は事実として認めたままでも別様に解釈する事は出来ます)。

>本質的に他人の心情を理解しているかどうかにこだわる意義がよくわかんないです。
これはおそらく小生だけの問題なので御座いましょう。自分の心が良く把握できないので、
他人の心の在り方にも疑問を持たざるを得ない。
つまり、自他の別なく「心」の存在自体が疑わしいので御座います。
小生は自分に皆様(自分以外の一切の他者)の様な心があるとはとても思えないので御座います。
病気かと言われれば、それまでなので御座いますけれども。
皆様は自分の心をどのように扱っていらっしゃるのか、そして他人の心との区別をどう為さっていらっしゃるのか、
小生には気になりますし、そのお答えから結論される「心」の扱われ方・意味内容の実際が小生自身に妥当するのか、
これを明確に致す事が小生の目指す所のもので御座います。
要するに、小生は皆様が通念として抱いている(と思われる)「心」を同じように持ちたいので御座います。
それは小生が固有に感じる心、つまり他者を見て己の意思とは無関係に感じてしまう様な、
自然な反応とは違うのは言うまでもないでしょう。
なぜと申して、これが皆様がしばしば口になさる様な「私の心」であるとは限らないからでございます。

ミラー・ニューロンが自然と働くのなら、それに越した事はございません。ですが、それが人の意思とは無関係に
本能的に働くにもかかわらず、なぜ自分の心と他人の心が、それを有する(?)存在と共に別れてしまう必要が
あったのでございましょう?(これが小生には理解出来ない。)
この点で、それは不完全な働きとは言えないでしょうか?
ミラー・ニューロン=心だと申しても、他者の心情について「何となく分かる」としか言えなかった事態に、
何の変更も加えられない様に思われますから。
これを現実として肯定するか、あくまで個人の立場に立って拒絶するか、これが同情・共感行為に対する、
Ken様と小生の態度の違いで御座いましょう。
小生には、倫理的問題として取り上げ、粗略に扱わずに徹底的に他の可能性を追求する事が、良心の在り方として
正しいように思われてならないので御座います(おそらくはご理解戴けないでしょう)。
無意識に働く力を信じるよりも、それを一度括弧に入れて意識的に反省を加え、
ミラー・ニューロンは人間にとってただあるだけで、その存在の善悪は容易に決められないでしょう。
もしKen様がそれや「心の理論」等に拘泥なさるのであれば、同情過程や心の実在性を実証不可能と腐すよりも、
それが今正に個人の自我にとって存する意味を問い直して頂きたく存じます(社会にとって・人類にとってではなく)。
小生もボノボとかチンパンジーとか、動物の生態には多少興味も御座いますが(動物にも優れた社会性がある事など)、
人間がその中間ですよ、と言われましても何が何だか・・・。マア、それはどうでも宜しいでしょう。

116無精髭:2008/06/13(金) 21:10:06
独我論と言うものが御座いますけれども、小生は何とかそれを克服したい、要はその仕方に拘っておるのです。
「実際には確かめられなくとも、他人に心があると信じて生きなければやって行けない」とたまに見聞致しますが
これって本当かなぁ?と良く思う訳で御座います。無いなら無いでも好いからはっきりしてくれよ、と他人を
問い詰めたくなるので御座います(笑。。。と、これは不謹慎ですね)。

若しかするとKen様は、一人観念に閉じ篭る思索や一般的に常識について疑っても無益な懐疑心を、
酷く毛嫌いなされていらっしゃるのではございませんか?
これは正しい事でございます。小生に否定する権利など全くない。
同情問題に関わるこれ以前の一連のsage投稿など、Ken様には何の意味も無いもので御座いましたでしょう。
お読みではないとお察し致しますが、それで正解で御座いますよ、本当に
(もし義理をお感じになって(?)お読み下さっていましたならご愁傷様、ではなく尊敬致します。)。
しかしながら、小生は小生なりにあの問題の袋小路的状態において(無論小生が勝手に拘っているだけに御座いますが)
活路を見出したので御座います。打開策として、Ken様がTOMといったお考えをご提示なされた様に、
小生も、自他の心は混じり合わねども、何か共通の認識や共有財の様なものが媒体となる事で、
真の意味での同情は可能とされるのではないか、或いは同情の内容の真偽は自他共に互いに確認し得るのではないか、
こう考えたので御座います。それによって、同情や共感は小生が思っているよりも、
案外すんなりと行くのではないかと思いました。何せ、「心」と言う訳の分からぬ実体の無いものを扱うよりも、
(欲望に結びついた)「価値」とか現前している確固たる「存在」とかを中心に論じた方が、
まだ小生には実感した上でものを考えられるという点で、遥かにマシだと言うものでしょうから。
ですが、この方法は自分にとっては観念上の混乱を招き、他人にとっては晦渋を極めるものでございます。
止める気は毛頭御座いませんが、続けるのならもう少し問題と用語を整理致してからの方が良さそうな気も致します。
しっかりとした定義付けが必要なのだと痛感しております。
・・・皆様には、こんな事は「もう止めてしまえ!!」とお思いの事と存じ上げますが。

Ken様には、この度の小生の駄文連投によって、ご不快なお気持ちにさせてしまって、
何とお詫び申したら宜しいのか、適切な言葉が御座いません。大変失礼致しました。
>>114のレスの程は、有り難い忠言として賜りたく存じます。・・・全然すっきりしないのですがね

もう少しお時間をいただけるのであれば、もうちょっとマシなレスもできるかと思われます。
以上の内容に何か不可解な点がございましたら、その旨お知らせ下さいましたら大変助かります。

失礼な表現、並びに誤字脱字、構文相違など御座いましても、ご容赦下さいませ。

117無精髭:2008/06/13(金) 21:18:39
訂正。>>115

無意識に働く力を信じるよりも、それを一度括弧に入れて意識的に反省を加え(る事。)、
ミラー・ニューロンは人間にとってただあるだけで、その存在の善悪は容易に決められないでしょう。

以上、()内が訂正箇所になります。いつもの小生の癖ですね(ショボン)。

118無精髭:2008/06/15(日) 00:41:51
>>117
あの訂正ではおかしいですね(笑)
()内は「なければ」にした方が、後の文を受けるのには良さそうで御座います。
おそらく、文脈を無視して書き易い所から書いた為に、継ぎ足しをせずに
書きっ放しで置かれた文章が、忘れられて虫食い状態になったので御座いましょう。

小生自身、>>115-116のレスで満足致しておる訳では御座いません。
自己満足的な空言の連発は一旦中止し、暫くはKen様のレス(>>114
の内容に沿った投稿を心掛ける事と致しましょう。
説明責任は果たす覚悟に御座います(お付き合い戴けるのであれば)。

紫煙狼氏や人間魚雷氏のお考えに関連したレスにつきましては、
再び後回しと言った形になりそうで、大変に申し訳なく存じ上げます。
特に、紫煙狼氏の>>60に於かれましては、小生の一連のsageた投稿の中で、
遠回しに論じた心算に御座います(と申すのは流石に無理ですかナ)。
・・・いや、ちょっと関係する所もあろうかと存じます。
Ken様のレスがなければ、>>60の内容についてそこで考察致す計画で御座いました。特に
>他の人には単なるガラクタでも、持ち主には思い出の一杯こもった、物凄く大切な品物(プライスレス)

>一般的商品価値とは別に、本人評価額(無論、天文学的数字)的には、そのものずばり実物が
>元の状態のまま帰ってこないことには許せないでしょう。

>家族・親族・恋人を殺されるってのは、もとより価格評価不可能な人命を奪われる事
などの部分が、非常に興味深い。

人間魚雷様の「死刑囚仏説」は、勿論小生の「同情論」とでも申すべき愚説とは
何の関係も御座いませんけれども(無理矢理関連付ける事はなお可能ですが)、
色々と思う所は御座いますね。例えば、親鸞聖人の歎異抄にある有名な言葉、
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」を連想致します(人間魚雷様も
当然ご念頭に置かれていらしたでしょう)。
Ken様に倣ってソースでも張ってみますか(ウィキペディアですけど)。

悪人正機 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA%E6%AD%A3%E6%A9%9F

既にお聞き及びの事と存じますが、、山折哲雄は『悪と往生』で、
親鸞の上の言葉も含めて、歎異抄は全て弟子唯円の曲筆であるという仮説を立てておりますようで。
山折哲雄に関連したソースで参考になりましたのは、

『歎異抄』と誤解された親鸞 http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-32.html
「山折哲雄氏の『悪と往生』」http://www5b.biglobe.ne.jp/~yamayosi/public_html/memo95.htm
闇を抱える人間を見つめた親鸞http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d000408.htm

まぁ、普通に検索を掛ければすぐに見つかるものですけど(ちゃんとリンクが張れているかどうか心配だ・・・)。
許可なしで張ってしまいましたが、おそらくは大丈夫でしょう(小生、余りこう言った事はしない)。
あと、amazonのレビューもご覧になった方が宜しいかと。批判的なものが多いですが。

タクマやサカキバラやミヤザキの出現及び犯行を「事件より事故」と仰いましたが、
これは一般的に考えれば、被害者側に立った視点での感想だと受け取れますが、
人間魚雷様のお考えは、それには限定されない様な、加害者側の視点も含めた様な
何だか不穏な(?)印象も受けます。

119人間魚雷:2008/06/15(日) 08:54:28
取り急ぎ、とりあえずレスさせて頂きます。
私の「死刑囚仏説」と言いますのは「善人も悪人も同じ人間」
といった感じのものとは少々方向性を異にするものです。
基本的には、犯人が死ぬ(死刑)ことによって「善」に戻る(仏になる)
それが被害者遺族にせめてもの癒しになるのではないかというものです。

120無精髭:2008/06/15(日) 12:48:13
>>119
レスの程、誠に感謝致します。
取り急ぎ、小生もレスを。

>犯人が死ぬ(死刑)ことによって「善」に戻る(仏になる)
善に「成る」ではなく、「戻る」とお書きの所がミソでございますね。
と言うことはです、人間魚雷様のお考えでは、人間は元々善的存在として
生まれて来るものと捉えられている、こういう理解で宜しいですか。
つまりは性善説を御取りなのだと推察致しております。

そうであれば、秋葉原通り魔事件スレで親の責任を重要視なさる理由も分かる気が致します。
勝手に推察致しますが、おそらく人間魚雷様の「子ども」への見方がそこに基因しているの
ではございませんでしょうか。人間の最初の段階、大雑把に申して「子ども」(幼児に近いそれ)
はこの世に対して何の罪もなく存在する、産み落とされる赤ん坊は言わずもがな、自分が作られる事は
本人が望んでいた訳ではございませんから。「子ども」の存在の善悪を決めるのは、大人の都合からで
ございましょう。そして、人間魚雷様は「子ども」がそれ自体で悪いものなどとはどうしても思えない。
犯罪心理学に懐疑的でいらっしゃるのも納得出来ます。生来性犯罪人説やその先天的遺伝素質を云々する
事など以ての外、と言った所でしょうか。

「子ども」を本質上白紙(タブラ・ラサ)の状態であると見做す事、それに既存の大人が自らが憬れる善性を
投射せざるを得ない事。これも人間の業であり、その善悪も容易には感得されず、浅い性善説による見方では
無い事は確かでございます。性善説も性悪説も本質的には同じもので、要は人間の願望がそこに深く刻印され
ておるのでしょう。ですから、主張を展開する上でどちらの説を採るかはさして重要ではなく、人生の決意選択
の場面で、実際にどちらの説を採って生きるかが重要とされているのでございましょう。

一方、「仏とは何か」とは、「悟りとは何か」という問いを必然的に呼び込む為に非常に難しく思われます。
小生は仏教には全くの無知でございますから、その方面でなかなか突っ込んだ議論が出来ませんけれども。

>「善人も悪人も同じ人間」といった感じのものとは少々方向性を異にするものです。

>>118で挙げさせて頂きましたリンク先には、悪人正機の「悪人」とは刑法上や道徳的なそれと異なる
と書いてありました。と言う事は、善人の場合も洩れなくそれに該当するのでしょう(刑法上、善人など定義の
仕様が無い。せいぜいが「(刑法で定められた)罪を犯していない」と言った程度の否定的な意味しか持ち得ない)。
善悪がハッキリしていない、つまり現世利益が定まらない。本当に、仏教って難しいですよね。

>それが被害者遺族にせめてもの癒しになるのではないかというものです。

これは難し過ぎます。単なる遺族感情の慰撫を、効果として求めている訳ではないのですよね?
もし求めているのでしたら、別に死刑囚が仏になる(善に戻る)必要もない事になりませんか?
犯罪被害者遺族の立場にしてみれば、死刑囚が死ぬのはせめてもの癒しにはなるでしょうが、
殊更それを善にまで仕立て上げなければならぬとは思えないのですが。却って死刑囚を仏として
見る事に怒りを覚えるのが自然ではございませんか?(勿論、仏は現世的な意味での善人とは意を
異とするのでしょう)死刑囚が死刑に処される事、その過程を悪人が善に戻る成り行きとして
認識する事が、遺族にとって善であると言う事なら理解出来ますけれども。
しかし、それでは話が単純過ぎますし、それは遺族にとってのみ善であり、社会にとってや
第三者の私たちにとって、尚も善である必要性は無いような気も致します。少なくとも社会や私たち
にとっては、死刑は癒し(という善)にはなり得ませんから。
そもそも癒しが善であるかどうかも容易には決められません。

人間魚雷様には、どうしたら犯罪被害者遺族が犯罪者の死刑を善として認識できるのかを
ご説明して頂きたいものです。多分、小生が問題をややこしくしているだけかも分かりませんが、
その誤解をこそ解いて頂きたいものでございます。
お暇な時にでもレスして下さいましたら、大変に有難く存じ上げます。

121無精髭:2008/06/15(日) 12:58:24
>人間魚雷様には、どうしたら犯罪被害者遺族が犯罪者の死刑を善として認識できるのかを
>ご説明して頂きたいものです。

と書きましたが、当たり前な質問でございますよね。
これでは小生の望むお答えが返ってくるとは思われませんので、もっと正確に、

>人間魚雷様には、どうしたら犯罪被害者遺族が死刑によって犯罪者を善として認識できるのかを
>ご説明して頂きたいものです。

と変えましょう。これで質問の趣旨は大体お分かりになるかと存じます。

122人間魚雷:2008/06/15(日) 21:32:28
大前提ですが、私は殺人事件の被害者遺族になったことはありませんので、
すべて想像で書いております。妄想と言ってもかまいません。

>>つまりは性善説を御取りなのだと推察致しております

私は性善説も性悪説も取りません。
地球規模で強いて言うなら人間は「悪」だと言わざるを得ませんが。
「戻る」と書いたのは犯人が殺人を犯す前の自分に戻るという程度の意味です。
それがどんな人間かは、被害者遺族には関係なく、実際には善人でも悪人でもいいのです。

>>生来性犯罪人説やその先天的遺伝素質を云々する
>>事など以ての外、と言った所でしょうか。

先天的遺伝素質を否定するわけにはまいりませぬね。
しかしながら、生まれてからの環境の重大さがそれを上回ると私は思います。
どちらがどれくらいの割合で、どう人格形成に影響するかなんてことは分かりませんが。

>>「仏とは何か」とは、「悟りとは何か」という問いを必然的に呼び込む為に非常に難しく思われます

ここで私が言う「仏」とは「悟り」とは関係ありません。
我が国では死んだ人のことを「仏さん」と呼ぶことがありますが、
それと同時に、仏は最高の善であり、生きている人間が絶対に到達できないもの。
なにも仏教を知らなくても、我々の潜在意識の中になんとなく鎮座している観念。
「死ぬ」=「仏になる」=「善に戻る」
これも想像の中の前提です。

>>殊更それを善にまで仕立て上げなければならぬとは思えないのですが

まさにそこなんです!
犯人が国家によって殺されることで癒される、せめてもの癒し。
この癒しは高が知れている、と私は想像するわけです。
被害者遺族は犯人を強く憎み、恨み、止め処も無い怒りは時間ですら解決してくれず、
むしろ悲しみは深まっていくばかり。
遺族はその苦しみから逃れようと、意識するしないに関わらず、
精神をノーマルな状態に戻そうとしはじめる。
ところが、犯人を憎んでいる限り、その苦悩から逃れられない。

123人間魚雷:2008/06/15(日) 21:53:09
犯人に分かりもしない反省や更正を望むのではなく、
死刑によって(死ぬ事によって)究極の「善人=仏」にする。
ここで初めて遺族は犯人を憎む苦悩から解放されていくのではなのか?

つまり報復としての死刑ではなく、凶悪な殺人犯を「善」に仕立て上げ、
極限状態にある自己の精神を解放するために死刑が必要不可欠なのではないのか?
こんなことを想像するわけであります。

124人間魚雷:2008/06/15(日) 22:13:47
なんとも分かりにくい文章で恐縮です。
単純な報復としての死刑では苦悩は消えないが、
そこに「死刑囚仏説」を挟み込むことで、
遺族はひとつ前に進む事ができるとしたら・・・・・

この観念は日本に死刑制度が無くならない事と関係しているのかもしれません。

125無精髭:2008/06/16(月) 21:43:50
>>122-124
人間魚雷様へ
詳細なご回答の程、誠に深謝致します。

小生の読みも勿論、想像の上でございました。相手の考えを理解するには、ただ読んだり聞いたり
するだけでは足りず、自分の言葉でなぞる必要がございます。先回の様に、誤解や誤読を恐れても
いられず、寧ろ必須と言えるでしょうが、ともすると相手には不愉快な気持ちを抱かせる原因、下
手をすれば相手にすらして貰えなくなる虞ともなり得ます。
小生による曲解を修正する事を無理矢理押し付けてしまったようで、人間魚雷様には大変に申し訳
なく存じ上げます。

前置きはこの位にして、早速レスをお付け致したいのですが、未だご回答について充分な理解に
達しているとは言えません。人間魚雷様のお考えと当方の問題をちゃんと整理致す必要に迫られて
おりますので、返信は遅れそうでございますが、どうかご容赦下さいませ。
無論、それだけが理由で返信が遅れる訳ではありませんけど。
ちょっと小生も私的な悩みに囚われておりまして...なかなか思うようにこの件(及びこのスレ)に
関する思索に集中出来ておりません状態でございます。
秋葉原通り魔事件スレに投稿致しておるのもその現れでございます。
と申しましても、今に始まった事ではございませんが...
(このスレの過去ログをご覧になれば一目瞭然)

>なんとも分かりにくい文章で恐縮です。
いえいえそんな......
確かに小生には難しいお考えでございますけど、それは偏に小生の理解力の問題でしょう。
そんな事を仰るなら、小生の文章の方がもっと酷いです。
これからは良く考えて、焦らずゆっくりと書き込んでゆくことに致します。

かと申して、スレを放置する様な無責任な事は、曲がりなりにもスレ主なので自らに
禁じます(勿論、スレ主を気取っている訳ではございません)。
このスレのテーマはかなり自由なものだと考えておりますし、「無限回廊」をご閲覧
の皆様でございましたら、そのご関心に沿ったお書き込みも色々とお出来になるかと
存じ上げますので、小生の議論にはかかずらう事なく、ご遠慮せずにどんどんお書き
込み下さいましたら宜しいかと存じ上げます。

126紫煙狼:2008/06/23(月) 13:08:43
無精髭さんにお誘いいただいたので、スレッドをお借りしますね。

>>ケットシーさん
貴方は「人の命が一番尊い」という認識でいらっしゃって、私はそこに敢えて異議を
唱えるつもりはありません。ただ、私なりの解釈は少々異なるもので、もしかすると
最終的に、両者共通の認識に到達しうる可能性に期待して返答いたしますね。

食卓に上る肉類や野菜類。これも尊い命であることは間違いありません。動物というものは、
自らが生きるために他者の命を糧としなければならない宿命(仏教的には業と表現しますか?)
を持っています。これは避けようのない事実ですから受け入れざるを得ませんが、不必要な
殺生は禁忌ですよね。例えば鯨が絶滅危惧種であるとして、鯨を食べることを我慢するのは
極めて当然のことだと思いますが、日本の食文化を守るという視点もあってよいと思います。
従って、むやみに乱獲せず、殺生した以上は可能な限り人間に生活に有用な物資として利用し、
努々冷蔵庫の中で腐らせるようなことを避けなければなりません。それも食育の一環かな。
あまりに酷い飢饉に見舞われると、野生動物はもとより、人でさえ共食いを始めます。
これも自分が生きるために不可避なことであり、一概に悪と決め付けることはできません。
こういうのは「最大の禁忌」と「業」の狭間の深遠な部分ではないでしょうか?
少なくとも「相手が人間ではないから命の価値を軽視できる」のではなく、
相手に強い思い入れがないから非常に徹することができるのだとおもうのです。
実際、私は私の飼い犬のために自分の腕をくれてやってもかまわないとさえ思っています。
しかし、よそ様の犬のために指一本くれてやる気にはなりませんものね。

ただし…非常に徹するということも限度問題で、私の場合、それが生きる上で必要であるという
制限は最後の最後まで堅持したいと思っています。それは相手が命を弄ぶ様な外道であっても。
例えば、腐れ外道が銃を乱射していて、放置すればより多くの尊い命が散ることが分かっていて
この外道を成敗することに私は躊躇しません。しかし、それは現場緊急性のためであって、
逮捕し身柄を拘束し武器凶器となりうるものを奪い、身体の自由をも一部制限してなお、
この外道の命を奪うことが現場緊急性によるものであるか、我々が生きるうえで必要なことか
私には疑問であり、このような外道畜生のために私たちが「やむにやまれぬ理由とはいえない
事情で命を奪う」ことで罪悪感を感じなければならないのか疑問なのです。

(続きはまた後ほど。)

127紫煙狼:2008/06/23(月) 22:12:34
(続きです。)

そう言えば「人を殺すという最大の禁忌を犯すことによって、人外の存在となる」なんて解釈がどこかで
挙げられていましたね。これはケットシーさんの言う、「人の命が最も尊い」ものであるとした上で
「人外の命は簡単に奪える」を肯定する解釈だと感じます。

仰るとおり、ハエ・ゴキブリetc.etc...我々にとってこれらの命を奪うことは不衛生であるという理由や、
気持ち悪いという理由で十分なのかもしれません。そしてそれは「思い入れするに困難で、ちっぽけな虫」
だから可能なのだという推察は見事に真実を射抜いていると思われます。
しかし、人の命に比較して虫の命は尊くないから殺生しているのかと言うと、それは少々違うのかな、とも
思うのです。殺虫剤を使うとき、ハエやゴキブリの命について考えている人が何人居ましょうか?私は虫の
命が尊くないから殺せるのではなく、虫を殺すとき虫の命の尊さを考えている人は居ないと思うのです。
それは、殺人を犯すとき、対象の命の尊さを考えないのと変わりません。

ハエと違ってゴキブリは殺虫剤を浴びてから死に至るまで少々時間がかかります。殺虫剤を浴びて、もがき、
苦しみながら死んでいくゴキブリを目に我々は、なお暫く動き続けるゴキブリに恐怖を感じます。その恐怖は
決して殺虫剤という薬がいかに恐ろしい薬で、ゴキブリがいかに苦しんでいるかという自分自身の行為の恐ろ
しさに慄くと言うより、強力な殺虫兵器を使用してなおすぐには死なないゴキブリに対する恐怖であり、
苦しみに対する同情でもなく、簡単に排除できない外敵に対する過剰な憎しみです。それはあたかも殺人犯が
殺害相手に対し「生き返ること」を恐れ、死体をなおも切り刻み続ける恐怖心と同等といってよいでしょう。
そこに命の尊さを考える余裕など存在しうるとは思えないのです。そして、事後やや経って、何かの機会に
虫にも命があるという事実を考えなければならないとき、虫の命の尊さは人の命の尊さに劣るとすることで、
罪悪感を減じようとしているに過ぎないのではないでしょうか?

カエルだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ。

そうやって命の尊さを子供に教えてきた我々が、我々を死に誘うわけでもないゴキブリを、不衛生であるとか
気持ちが悪いという理由だけで殺すには「虫けらの命は尊くない」と思うことによって命を奪った事実を、
奪う瞬間に虫の命の尊さなど考えもしなかった自分を正当化しているだけに思うのです。

128人間魚雷:2008/06/23(月) 22:46:25
ハエ、ゴキブリ、ぜひ「蚊」も仲間に入れて下さい。
私はこいつらを殺す時に快感すら覚えます。
特に「蚊」です。
少なくともハエ、ゴキブリは身を守るために逃げますよね。
蚊はどうです?逃げるどころか人間様に向かってくるではありませんか。
しかも、あざ笑うかのよに飛び回っております。

ところが、こんな私でもこいつらを殺した後に微かな「罪悪感」が残るのです。
この快感と罪悪感って何でありましょうか?
我々が普段あまり感じる事の無い罪悪感とは、時として快感と表裏一体ということでしょうか。
薬師丸ひろ子を持ち出すまでもなく、「殺す」ことは「快感」・・・・
いや人間というものは、げに恐ろしきものであります。

129紫煙狼:2008/06/23(月) 23:14:58
では、その「尊い人間様のお命」について考えて見ましょう。

どの生き物の命より尊い「人間様の命」を奪った凶悪犯は、既に人外の存在なのでしたね?
であるからして死刑は「ハエやゴキブリ、シロアリと同等かそれ以下の害獣」を駆除する、
人としてごく自然で当たり前の行為であり、そこに罪悪感を感じる必要はない。

ところが、魚場を荒らすという理由で漁師さん達がイルカを大量に駆除すると、
「かわいそう」って言うんですよね。某、欧米諸国の人々は羊、豚、牛を殺して食べるのは
かわいそうではないと言いつつ、韓国のように犬を食べるとか言うと「動物虐待だ」って
身勝手なことを言うんですよね。クジラは賢い動物だから殺してはいけない、なんて
平気な顔をして命の優先順位をつけるんですよね。アヒル(ガチョウ?)に無理やり
餌を飲ませ続けて肝脂肪にさせたのが世界三台珍味のひとつ。ヨーロッパの誇る食文化。
私にはただの身勝手にしか思えないのですよ。。。

前述したように、人が生きる上では、確かに他者の命を奪わざるを得ない。だったら、なぜ、
必要最低限の命しか頂かないと考えないのでしょう?かくいう私も、ゴールデンウィーク明け
まで3桁近い肥満体形でした。私は、自分が食べてきた食材としての尊い命に恥じないような
生き方をすれば、きっと、その命に報いることができる、そう勘違いしていました。
でも、私は明らかに肥満するほど不必要に命を奪い続けていたのですよ。不必要に過剰に他者の
命を奪い続け、成人病予備軍に仲間入りするほど馬鹿げたことってないですよ。それに気づいて
6週間。私は13キロ体重を落としました。まだ続けます。可能な限り生きるのに必要な分だけの
食物しかとらず、食べるときには食材の命に感謝し、自分の業の深さに苦悩しますよ。

もちろん、それを他者にも強要する意図はありません。しかし、生きるために命を頂くという
基本的で宿命的なことですら、本当は深く深く意味を考えなければならないことなんですよね。
そう考えると、人間の命は尊くて、それ以外の生き物の命はそれほど尊くないなんて傲慢で
だいそれた発想は浮かばないように思うのです。命の尊さを比較するということ自体が、
本当は理性ある人間として、やってはいけない事なんですよ。きっと。

では、死刑囚の命はどうでしょう?死刑囚は死刑になるほど凶悪な犯罪…ほぼ100%殺人を
犯しています。その罪自体は決して許すことはできないし許されるものではないと思います。
「自分が生きるために必要不可欠」でもないのに殺生を犯し、人間社会のルールから外れた
人外の存在。私はその死刑囚の人生の価値を認めません。しかし、その命は尊いものです。
人間としての価値は限りなく低いものであったとしても、命の価値はみな同じなのです。
私はそう考えるのです。

130紫煙狼:2008/06/23(月) 23:28:21
ごめんなさい。途中で人間魚雷さんにツッコミをいれられたら、
思わず面白くてそっちのほうに引きずられてしうことにしますね(^^)

私は成人してから喫煙を始めたので共感できる経験がないのですが、
「トイレでセンコーの目を盗んですったタバコはうまかった」
なんて嘯く人、いますよねぇ(苦笑)
かく言う私、一度だけ妻に内緒でパチンコに行った事があるんですよ。
あの内緒で隠れて何かをする罪悪感に裏打ちされた快感って何でしょうね。
当然、バレて後でこっぴどく叱られたのですが(笑)

では、人間魚雷さん、アナタ、蚊を生け捕りにした事ってありますか?
いや、私、たまたま何かの拍子で「生け捕り」してしまったことがありまして。
おかしなものでね。殺すのが忍びないんですよ。窓の外に逃がしてあげました。

まぁ芥川龍之介の「くもの糸」のように、天国から大量の蚊が助けに来ても、
前門のトラ、後門の狼のごとく、困るだけでしょうがね(笑)

131紫煙狼:2008/06/24(火) 00:12:26
被害者の命が尊いのは(加害者以外の)誰にだってわかることですよね?
でも、被害者の命が尊いからといって、加害者の命は尊くないなんてのは、
やっぱり命というものの価値を比較している点で誤りに思えるのですよ。

比較するなら命の価値ではなく、人間としての価値や、人生の価値だとおもうのです。
これなら私も気持ちよく加害者の人間的価値は限りなく低く、加害者の人生の価値を
高く評価しなければならない理由は全くないと断言します。

ただ…命の価値は比較不能です。数学的に言えば虚数の大小を比較するようなものです。

5+3i>2+3i

素人目には正しそうに見えますよね。でも数学的には誤りなんです。でも…
5+3>2+3
は正しいですよ。なぜでしょう?
それはi(あい)が無いからなんです。命の尊さを比較しないのはiがあるからなんです。
被害者も加害者も等しくiせば、人間的価値の大小を比較することはできても、
人生の価値を比較することはできても、命の尊さを比較することはできない。
それが私の考える人間愛だと思います。

132ケットシー:2008/06/24(火) 01:28:11
紫煙狼さんに倣いスレッドを少しお借りいたします。
無精髭さんお誘いいただきありがとうございました。m(__)m

なるほど。紫煙狼さんが命を価値を比較しないという意味が少しわかってきた
気がいたします。ただ、自分の不明瞭な文章のせいで紫煙狼さんに誤解を与え
たかも知れないので一応断っておきますが、自分自身としては人間の命が一番
尊い等と思ったことは一度もありません。あくまで人間社会において根幹の部
分においてそれがあるのではという話です。自分も命の価値を比較するという
のはやはり違うとは思うのです。ただ種として見た場合、命の価値比較すると
言うより優先順位の問題なのですが、人間に重きを置かざるを得ないのかなと、
自分はそう考えているのです。
種の危機に瀕しては他の種を淘汰してでも生き残らねばならない。これは生命
としての根幹であると考えています。もし鯨を絶滅させねば人間が滅ぶという
のなら自分は迷うことなく鯨を絶滅する側にまわることでしょう。
もっともやはり何らかの十字架を背負う事になるとの覚悟の上でですが。
こういった考え方は種としてのプログラム、人間社会における刷り込みや教育
で醸成されていった物ではあるのでしょうが、やはり必要ではあると感じるのです。
まぁ、あくまでこれらは有事の話で余裕があるのであれば他の種にも優しくし
てあげたいものです。それが出来ると言うことが人間であるという事のちっぽ
けなプライドなのではないかと思います。
もっともこんなもの欺瞞な上に偽善でしかありません。現在の環境問題だって
結局のところ自分たちのケツを拭いてるに過ぎませんし、『地球に優しい』な
んて標語には正直辟易しています。ですがまぁ、これだけはいえると思うのです。
『情けは人の為ならず』。これは他の生命や自然にも当てはまると思うのです。
結局は自分達の為だと言う虚しい考え方かもしれませんが、自分には地球の為
にだとか言うおためごかしよりはよっぽどしっくりくるように思います。

133ケットシー:2008/06/24(火) 03:16:31
さて、相当脱線してしまいましたが、以前書いた人外だから簡単に命を奪える
のくだりについて紫煙狼さんからレスを頂いて少し考える所がありました。

まず『虫の命は人の命より尊くない』、これは実際に虫の命がそうだとか言う
わけではなく、人が無意識に持っている認識だと思います。
確かにいざ虫を殺そうとする人間が虫の命の比較なんて考えているわけはあり
ませんが、無意下にこの認識を持っているからこそ行動に移せるのだと思います。
さらに、これに紫煙狼さんが仰っていた『思い入れがないから非情に徹する事
ができる』というの当てはめるとしっくりくるように思います。
『思い入れがない』とは『無関心』であること。
つまり言い換えれば『虫の命に無関心だから殺せる』ということになります。
これを凶悪犯に置き換えて『他者の命に無関心だから殺せる』とした場合正直
薄ら寒く感じました。
まぁ、こう感じるのもあくまで自分が『人間』であるからなのでしょうが。

兎にも角にも命を天秤で量る事の是非は言わずもがなですが、我々の無意識
下には『命の天秤』が必ずどこかにある。それは認めなければならない。
自分はそう考えているのです。

最後に紫煙狼さんの仰る命の価値という部分がどうやら自分の捉え方とは異
なっていたようです。
自分は命の価値と聞いてそれまでの人生、これからの人生また生を全うする
までをもろもろ含めて『命の価値』と捉えていました。
もちろんそれで単純比較できるようなものとは考えておりませんでしたが。
間違って居たら申し訳ないのですが、紫煙狼さんはそれらを別の物と捉えて
考えておられたのですね?
手前勝手ですがなんとなくすっきりしましたw

駄文失礼いたしました。m(__)m

134人間魚雷:2008/06/24(火) 20:29:46
さすがに蚊を生け捕りにしたことは無いですが、
一旦生け捕りにしてしまうと殺すに忍びないというのはよく分かります。
「犯人を殺してやりた」と叫ぶ被害者遺族でも、
後ろ手に縛られた犯人を目の前に出され、殺してもいいですよと言われても
実際に殺せる人は少ないのではないでしょうか?
そこで「国家」という感情の無い「化け物」のカを借りることになるのでは?

135紫煙狼:2008/06/25(水) 00:44:40
ケットシーさん
仰るとおりです。もし「命の価値」が複合条件で成立するものであれば、
しかもそれが第三者から評価しうるものであったとすれば、「ゴキブリは気持ちが
悪いから命の価値が無い」とか「クジラは賢い動物だから命の価値がある」とか
傲慢で身の程知らずな第三者によって生き物の命の価値が比較されることを
肯定せざるを得なくなります。

「命の価値は、絶対不可侵で、生き物万物に等しく与えられた価値である」
こう定義することによって、全ての生物の命は等しく尊いものであるから、
不必要に手前勝手な尺度で与奪を決定付けることは許されないと結論できるのです。
そして、これを以ってはじめて、不必要な殺生の罪深さが明確になるのです。
しかし…人間の価値というのは、与えられるものではなく自ら作り上げるものです。
だから人間の価値というのはその人の生き方ひとつで上がりも下がりもするのです。
この前提に立って、もう一度繰り返すと、宮崎元死刑囚の命の価値は万人と同じく
尊いものであると確信する。しかし宮崎元死刑囚の人間としての価値は評価に
値しないと断言する。私は断固として宮崎元死刑囚を永遠に許さない。

他者の命の価値を軽んじた宮崎元死刑囚の犯行は人間としてではなく、生きとし生ける
ものとして決して許されるべきではない。しかし、それを理由に宮崎死刑囚の命を奪う
ことは、単にその論拠が世間一般に受け入れられるものであったか否かの差でしかなく、
合法であろうが非合法であろうが「殺人者」の謗りを免れるものではない。なぜなら、
合法、非合法の境界線は「世間一般による多数決の原則」でしかないのだから。
そう言う事が言いたかったわけです。(ケットシーさんには伝わったようで嬉しいです。)

もちろん、無理に賛同していただく必要はありません。そういう変わった考え方の人も
居るんだな程度に思って記憶に留めておいていただければ、何かの折に考え方のツールの
一つ、もしくは愚な考え方の一例として役立つかもしれない。その程度で十分です(^^)

136紫煙狼:2008/06/25(水) 01:59:43
>>134
>そこで「国家」という感情の無い「化け物」のカを借りる

私の個人的意見では、法廷で被告の死刑を求めた被害者と被害者遺族は
死刑に立ち会う権利、それも放棄してはいけない権利があると思うのですよ。
自分たちが受けた被害が同害報復される瞬間を目に焼き付けてほしい。そして
お亡くなりになった被害者の墓前で胸を張って正義が行われたことを報告して
いただきたい。

死刑判決を受けるような凶悪な犯行に比べれば、絞首刑というのは比べるまでも
無く人道的な方法で命を奪うわけですから、身内が殺された瞬間を思えば、
とても生易しい方法で死刑は執行される。
ぜひとも、いかに死刑が生ぬるい刑罰であるかを見てきて皆に知らしめてほしい。
よりジワリジワリと恐怖を与え時間をかけて苦しめながら死に至らしめる刑罰が
必要であることを皆に知らしめていただきたい。
そうすれば、他人事であることを良いことに被害者遺族の気持ちも考えず
死刑廃止を唱えるような螺子の外れたヤツもいなくなるでしょう。

しかし、加害者の死を願い、それを主張しつつも、自ら手を汚すこともせず、
あまつさえその願いがかなう瞬間に立ち会うことすら躊躇い拒むのであれば、
目を背けるのであれば、私はそれを「卑怯」と表現しかねない。

137ケットシー:2008/06/25(水) 02:49:27
紫煙狼さん
いえ、紫煙狼さんの仰る通りです。愚かな考え方なんてとんでもないですよ。
前回のレスで自分は命の価値を複合的に捉えたと書きましたが、まず始めに奪
われた命の先にある未来、其処に目が行ってしまったんです。
実は自分の住んでいる家の隣が保育園だったりするのですが、毎日楽しそうに
騒いだり泣いたりそんな子供たちを見ているせいでしょうかね。この子達は大
きくなったら何になるんだろう?等と時折考えるのです。
その子供たちとそう年端も変わらない子供たちの命が奪われたのです。
自分にはまぶしい未来が突然摘み取られたのです。
何とも遣る瀬無い。とてもではないが許せない。
だからこそ宮崎元死刑囚の命の価値を認めることが出来なかった、認めるわけ
にはいかなかった。自分を振り返ってみるとおそらくそういうことなのだと思います。

仰るように命の価値を複合的に考えれば、人間の秤によって勝手に命の大小が
定義される危険があります。ただ、自分の以前までの『命の価値の比較』はあ
くまで人間社会で人間のみを対象としたもののつもりでした。それも、何を残
しただとかで比較する事ではなく、いうなれば皆罪を犯したものでなければフ
ラットの状態でありそれこそはかりかねる物という曖昧な定義でした。
(この辺のニュアンスの説明が難しいのですが^^;)
あくまで人間社会でと定義したのは、紫煙狼さんの危惧された事柄を避ける為
です。基本人間には他の生物の『生』を推し量る事などはできません。
(もちろん人間自身であってもはかることなどできないのですが)
さてそんな浅薄な考えではあったわけですが、紫煙狼さんの仰るように『命の
価値』を不可侵と位置づけて『人生の価値』、『人間としての価値』と分けて
考えた時、自分の考えもよりしっくりくるように思います。
結局のところ自分の考えの中でも違和感のある所を紫煙狼さんに埋めていただ
く形になり、大変ありがたく思っております。m(__)m

138無精髭:2008/07/25(金) 23:23:30
>>126-137での紫煙狼氏とケットシー氏のやり取りのきっかけとなった、両氏による一連の書き込みです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1213666022/17-20
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1213666022/26-28
以上、「宮崎勤死刑執行」スレッドより。未見の方は、宜しければ是非これらを>>126-137の前に接続してお読み下さい。


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