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犯罪に対する態度についてどう考えたらよいのでしょうか?

1無精髭:2008/05/25(日) 12:35:53
雑談&連絡スレッドでお断りいたしました通り、
珍妙なスレッドを立てました。

何だか、仰々しいタイトルになってしまいましたけど、
そこにはございませんが、「道徳」や「倫理」や「良心」
という語から連想されるがままに
どうぞお気軽にコメントをお寄せ下さいませ。
話題が一つに限定されないが為に、わざと
抽象的なテーマに致しましたので。

雑談&連絡スレッドの>2324の後半部分で
F様との議論の要諦をこちらでご提示致す事を
確約致しましたが、果たせませんでした。
この点、内心忸怩たる思いがございますが、
あの議論を読み返し・思い返して見ますと、
小生の頭の中で問題が、どんどん枝葉末節の方にまで
展開されてしまいましたので、結局何から書いていいのやら
分からなくなってしまったのです。

F様との議論に関連する問題につきましては、
とりあえずは、小出しにお出し致したく存じ上げます。

このスレでは一つのテーマに沿って論議が行われなくとも
構わないと思います。小生がお立て致したのは、
あくまで当のスレタイのみにございます。
つまり、議論の大枠を定めたに過ぎません。
その方針は、各々の論者に合った視点から、
その都度、自由闊達に決められればいいと思います。
小生はここではまず、F様との議論の為に投稿致しますが、
皆様がそれに沿ったレスをお付けになる必要はございません。
皆様も気の合う同士(?)このスレタイから外れぬ程度に
お好きなテーマを定めて議論なされば宜しいかと思います。
勿論、F様と小生の議論にご興味を持たれ、レスもいただける
という事なら願ってもなく、大歓迎でございます。

勝手な事を申しますが、ここでの議論の方向性は、
単線的なものではなく、複線放射的な展開を
小生としては望みます。
また、それがあるところでは一束に収斂したり
また解れたりしたら、尚の事いいなと思っております。

小生は当面はこのスレッドと雑談&連絡スレッド以外には
投稿致さないつもりでございます。
小生はあれこれと多方面にわたって考えを変えられるような
器用な人間ではありませんので。多分、単に頭が悪いだけ
だと思っておりますが。

小生はここに定住致す覚悟なので、小生のこの度の暴挙の程、
鎖にでもつないでおいた感覚で、突き放して扱って下さっても
こちらから何の非難を申す権利などございません由、
ここと雑談スレ以外から火種を飛ばさないという
誓いを以って、皆様のお許しを乞う次第にございます。

長文乱文失礼致しました。上記のように
形式上お断り致しましても、F様の他からコメントがあるとは
限らず、このスレッドが順調に伸びる見込みもございませんが・・・。

追記:小生の自己紹介とスレ立ての趣旨につきましては、
   雑談&連絡スレッドの>2310をご覧下さい。

31Ken:2008/05/28(水) 14:42:49
Matatabiさん江

いや、別に気を悪くしたとかじゃなくて、私「死刑を支持しない人」に該当するので
一言申し添えておきたかっただけです。こちらこそよろしくお願いします。

無精髭さん江

Ken>ちなみに、私は無精髭さんと同じで死刑には賛成しないが、他の人が賛成することや
Ken>今の日本社会に死刑が存在することは理解する、という立場です。

というのは、自分の立場を説明しておいたほうが私の意見を理解してもらいやすいかな、と
思っただけです。死刑に対する賛否と本村氏の言い分に対する賛否には正の相関が
あると思いますよ。(死刑に反対の人はしばしば本村氏の主張を目の敵にする。)

Matatabiさんの「死刑廃止論者=自分の生存権を放棄し他者の生存権も保障しない」
というのが私にはどうにも理解できないので、これは死刑の犯罪抑止力について
述べているのだ、というふうに無理やり見当をつければ、という話です。「俺は
お前の命をとらない代わりに、お前は俺の命をとるな」という契約なら理解できます。
でも「俺がお前の命をとるのなら、お前は俺の命をとってもよい」わけには行きませんよね。
なぜなら「お前はもう死んでいる」から。この場合、お前の代わりに国が俺の
命をとる、ということになると思いますが、それって誰と誰の間の契約なんでしょうか。
よくわかんない。

死刑が廃されている国・地域の話をしたのは、そこに住むことによって自分の
生存権が脅かされると感じるとはどうしても思えないからです。たとえば、私が
サン・アントニオからボストンに引っ越すことになったとして、死刑がなくなって
不安に感じるかというと???観念的なことじゃなくて治安とか具体的なことのほうが
もっと大事だと思うのですが...。

日本でも厳罰化のあおりで無期懲役の仮釈放までの期間がどんどん延びてますよね。
誰かがどこかに書き込んでいたと思いますが。あるいはこんなニュースもあります。

終身刑創設で超党派議連 死刑判決を避ける狙い (共同通信)
http://news.www.infoseek.co.jp/search/story/04kyodo2008050401000253/%25BD%25AA%25BF%25C8%25B7%25BA/

死刑に求める効能は大部分、他の手段で代替できると思うのですが。

32無精髭:2008/05/28(水) 19:28:39
>>31
Ken様
レスの程、誠にありがとうございます。
>(死刑に反対の人はしばしば本村氏の主張を目の敵にする。)
この点は、小生も全くの同感でございますね。
ですが残念な事に(面白い事に?)、その前の
>死刑に対する賛否と本村氏の言い分に対する賛否には正の相関が
>あると思いますよ
ここには首を傾げざるを得ないのです。
前にも申しましたように、本村氏のそれは、
殺人犯の死を求めるのか・その改心と更正を求めるのかという
相容れない指向を矛盾したまま持ち合わせているようなので、
特に小生のような変わり者から致しましたら、二つのうちの前者はなんとなく分かるが、
後者が全くの理解不能なため、氏の意見に賛同できないという場合がございますので
(おそらく小生のほかにもいるでしょうが、一般的でない?)。

>この場合、お前の代わりに国が俺の
>命をとる、ということになると思いますが、それって誰と誰の間の契約なんでしょうか。
この疑問には相当の正当性がございます。ですが社会契約というものを
個人間における生殺与奪権の放棄による生存権の確立と見做さず、
国家という超越的な生殺与奪権を生じさせる起因と見做すなら、
まあ契約とは言わず、単なるイデオロギーになるのでしょうね。
(吉本何某曰く、対幻想と共同幻想をちょっと思い浮かべました)。
小生もかなり深読み(浅読み)乃至は不可読み致してしまいました。

>観念的なことじゃなくて治安とか具体的なことのほうが
>もっと大事だと思うのですが...。
この点は、諸手を挙げて賛同致したいですね。
小生は死刑についてもそうですが、
刑罰一般の犯罪抑止効果も余り期待してはおりません(実は)。
その効果を社会における個人主体が実感するには、自らの社会的行為(反社会的ではない)が
自身によって犯罪行為として(もしくは法を破る罪悪感として)自覚されなければ、
その行為の末路が具体的に刑罰であると見えて来ないのではないか、と思っておりますので。
だからやんちゃな青少年は詰まらん事を仕出かして人様に迷惑をかけて後、
自らの社会的存在価値の小ささを身に染みて感じるのですな(と、どうでも良いですが)。
小生もKen様の仰るように、警察(大嫌いですが)とか自治体とかの
具体的に形ある物の方が、余程犯罪を抑止するのではないかと感じております。
勿論、警察などの背後にはちゃんと刑法体系やその適用である具体的刑罰が
控えておりますけどね。それをリアルに感じるよう努力するより、
日本の警察官が何の為に銃を所持しているのか、それを疑りだした方が余程怖いです(冗談)。
因みに、小生は犯罪行為を反社会的、とは言わず、社会的行為の大枠に収めておりますが、
これも小生がそれを社会への利益・損害を生むものという観点から捉えず、
社会というものを主観を持った人間同士の関係網と捉えておるからにございます(だから大雑把)。

>死刑に求める効能は大部分、他の手段で代替できると思うのですが。
効能について、詳しい分類をご提示いただければ幸いでございます。
おそらく具体的?には、犯罪抑止効果や犯罪被害者及び遺族感情の慰撫の事を仰っているのだと、
察せられますが・・・。
悪名高い?ウィキペディアの「目的刑論」の項を覗いてみましたが、
もし刑罰論という仮説が、そこに書かれてある通りの
一般予防効果(特殊の方は別)を条件無しで謳っているのなら、
大変お粗末としか言わざるを得ません。
所詮仮説にございますし、統計で示す事が適わぬ類もございます
(仮説を実証する方法も新たに考案されても良いかと。出来るものなら)。
無論何よりも小生が主観的にそれを構成し難いからですが(小生がお馬鹿さんなだけ)。
特殊予防についてはやや残酷な(非人道的な)?やり方が考えられますね。
詳しくは挙げませんが(気持ち悪いので)。
いずれに致しましても、Ken様のお考えは非常に興味深く存じ上げます。

33無精髭:2008/05/28(水) 20:20:53
>>21
紫煙狼様にはもう一度謝罪致さなければならない。
上記三度四度と読み返しましたところ、
段々と、細部が小生の中で具体的な意味を
実感として持ち始めて参りました。
「ガチガチ」と無礼にも称しましたが、それは
「凝縮」の間違えにございました(まるで噛めば噛むほど味の出る・・・)。
小生も「死刑」スレ他、紫煙狼様のお書き込みを
愛読致しておりましたつもりが、この度のお書き込みに限って、
全然場違いな雰囲気が芬々たるもの(錯覚でした)でございましたので、
小生には誰を指し、何を目指して書かれた物なのか
さっぱりにございました。小生はそれをこのスレ及びその進行を
紫煙狼様が快く思っておられないと、早計致しましたので
あのような無礼極まりないレスとなりました。重ねてお詫び致します。

その点、紫煙狼様の
>いきなりスレの存在意義を否定するかのように受け取られそうで心配なのですが、
という予感は見事に(?)的中致したのでございます。
ですがそれも小生にも思い当たる節があってのこと、紫煙狼様には何の非もございません。

紫煙狼様の仰る「自由」と仰るところに(おそらく簡単な憲法解釈も出来ない為)、
大分引っかかった為に、その後の文意を辿るのが容易でなかったのでしょう。
やはり言語の意味の捉え方が異なるようです。
小生は「自由」を自分の外には見出さず、その中に意志として感じているからだと存じます。
ですが自由は、欲望の自由が一切の意味でもありますので、やはり主体の外に関係性を
持つのですから、紫煙狼様の「自由」とも半分は重なっています。
結局は問題領域を言い訳に出さずとも、小生の読解力の無さを理由にすれば事足りたわけです。

従いまして問題領域云々は、大変に無礼極まりない物言いでございました。
お許し下さいませ。小生も(実感)できるだけ紫煙狼様の問題意識に
歩み寄ろうかと存じ上げます(どうぞ追い払わないで)。
ですが議論や思考以前の、言語の定義の問題を取り上げる事もございますので、
これも小生の思考の癖なのですが(屁理屈屋とか懐疑論者とかよく言われます)、
大目に見て頂けましたら幸いでございます。
言語使用の定義の問題を一緒に考えてくれましたら、
もう紫煙狼様にはどこまでも付いて行く(嫌だと言われようとも)決心にございます。

最後に遅れまして大変申し訳ありませんが、
白子屋菊右衛門様
>急遽訪れる不条理な死や、不条理な被害に対する怒り
>恐れ
これは小生も常日頃から感じておりました。
最早死語ですが、「実存」に関わる問題でございますね。
白子屋菊右衛門様の死刑に対するお考えには、まだ疑問符が多いようでございますが、
それを自力で考え抜く事が第一だと存じ上げます。
そしてある程度形になりましたら、それへの批判を仰ぐ為、
こうして議論に参加なされば良いのです。後はまたその批判を時間を持って解釈し、
批判を飲み込んでまた自力で考え抜く。それの繰り返しでございます。
ですからどんなに些細な事でも、気になりだしたら放って置かず、
自分で考えて形にして書き込むようになさってください。
小生からこんな事を申し上げるのも失礼・立場違いなのですが、
これからも「無限回廊」にどしどしご投稿下さいましたら宜しいかと。
小生の<F氏と髭との出会い>は、チンプンカンプンで当然でございます。
それで宜しいのでございます。小生と同じ事に悩む必要など、
本当は誰にもございません。小生と同じような事を
少しでも感じた者だけが読める類の内容でございますので、
頭の良し悪しどころか・・・これが全部分かったなら小生と同じ馬鹿か狂人でございますよ。
(冗談抜きに)

34無精髭:2008/05/28(水) 22:36:19
最後にKen様に追加の一言。
>>25
ソースご提示の程、ありがとうございました。
書評お読み致しました。

確かに「同感」の扱われ方が特に興味深いですね。
小生は「古典経済学」にも不勉強で(マルクスを先に読みたい・・・)
『道徳感情論』は未読ですが、確か岩波文庫で出てましたから、
今度買って読んでみようかと思います(小生、英語ダメというか語学力なし)。

書評の中の「ミラーニューロン」「セオリー・オブ・マインド」云々の件は
はっきり申しまして、小生には何の意味も持たない概念でございますが、
脳科学や行動経済学(何でしょう?)にも通ずるという
スミス思想の影響力は、マルクス主義思想関連の著作から伝え聞いてはおりましたが、
ちゃんと現代も射程に収めているとは驚きです。
否定的なコメントもございましたがね・・・。

古典経済学は小生が「社会」を考える上で唯一のよすがと、前々から思っておりましたが
なかなか読もうとせず、読まず嫌いを通しておりました(マルクスがあるから好いかみたいな)
が。小生は「社会」とは何を指すのかと、不思議に思っておりましたので
古典経済学などをとりあえずは客観像に据えて、自己の主観から身体性をどう用いて、
そこへ欲望のままに参与していくか、暇な時にでも考えていきたいですね。

>>24
>サイードだか日本の民俗学者だか、似たようなことを言ってる人がいましたね。
サイードとはまた・・・。
『オリエンタリズム』と知識人の役割について何か語った事位しか知らず、
彼の思想が小生の単なる思い付きのような発想に重なるとも思われず、
多分どこぞの民俗学者の戯言?でしょう(けれども日本民俗学を不当評価致しておりませんが)。
しかしながら小生と同じような事はマルクスも言っているようですし、
それこそA・スミスもそういった観点を有しているかも。
けれども「神の見えざる手」や「公平な観察者」というのは、
おそらくKen様の仰るような
>自分の所属する社会を飛び出して、よその
>文化・社会と接することによって、自分の社会を客観的に、それまでと違った
>視線で捕らえること
における、客観性とは異なるのでしょうね。
勿論小生とも異なり、小生が申しましたのは
社会の忠実な再現である客観像の中へ自己を投入するといった事ではなく、
他者とコミュニケーションをする上で、観念的に存在していなければならない、
ある種のイマージュなので、随分と主観的なものなのです(しかも独りよがり)。
自己を客観視することで必然的に社会が見えてくる(見えてこざるを得ない)
という事は、ある社会の外に出ればそれが別の社会の内に入る事になる事で見えてくる
複数の社会の相違点とかとは違うのでございます。そもそも小生の申す社会とは簡単に申して、
観念の事を指しているのですから、その観念の外などありえないわけです。
ですが、それがもし仮にも社会の忠実な再現であるなら、その外部も忠実に再現されていなければ、
内部すら忠実に再現されているかどうか怪しくなるので。
勝手に推測いたしますが、Ken様の仰る、社会間移動もしくは客観的往復視点
とも言うべき客観性は、兎小屋の乱立した小国に住む小生の与り知らぬところにございますが
それでもA・スミスの言う社会の内外の縁に観念的に存在する様な絶対性は
お持ちではないでしょう? その意味で主観性を脱し切れは致しませんが(ご本人が一番良くご存知の事と存じますので)
実はKen様は主観の射程が長いという事も言えるかと思われます(感覚的で適当ですが)。

全然関係ない話ですが、小生は偏見をある程度は重視致します。
程程の偏見であれば宜しいのですが、集団意識に属したようなそれはいけません。
個人の偏見は(集団に属さないと分かれば)絶対に肯定されるべきですが。
しかしそうなると、偏見そのものに社会性乃至は後天性が無いのかどうかが疑問ですよね・・・。

話が大きくそれました。Ken様と意見交換できたのは大変有意義でございました。
改めて御礼申し上げます。

35人間魚雷:2008/05/28(水) 23:14:47
無精髭さん、初めまして。
ちょっと横槍失礼します。
紫煙狼さんのお書きになった正論に、一つ補足させていただきたいのですが。
昨今では「量刑」と「感情」はまんざら無関係ではない、という方向に進んでいるように思われます。
裁判員制度導入もこの事に無関係ではないと思えます。
世論の流れも、加害者の人権より、被害者の立場を重視する傾向にあります。
そして、多くの場合国民感情と被害者感情は合致します。
国民感情も被害者感情も、生身の人間の心情に過ぎないものであり、
生身の人間ではない「国家」が、これに影響される事の善し悪しは別にしましても、
量刑を重くしていこうという傾向にあることも事実かと。

いずれにしましても、犯罪と刑事罰の関係を根本的見直す時期に来ている気はします。
因みに、死刑に代わる「刑」といのは存在しないでしょう。
たとえ懲役100年、200年だろうと。
死刑は死刑でしかなく、純然たる殺人であるから。

私も死刑に限らず、刑罰に犯罪抑止効果など無いと思いますし、
服役後の更正などほとんど期待出来ないと思っています。
さらに、更正したとしても(これを確認するのは不可能)、
懲役を減刑するべきではないと思っています。
模範囚を減刑するのは、単に刑務所の都合でしょ。

36無精髭:2008/05/29(木) 00:32:47
人間魚雷様
まだ起きていました・・・。
お書き込みどうもありがとうございます。
簡単なレスになりますが付けさせて頂きます。

>世論の流れも、加害者の人権より、被害者の立場を重視する傾向にあります。
この点を冷静に捉えておられるのには、正直敬服致しました。
この点が重要なのですよね。人権とは何か?を考えますと、
人権によって人権が傷付けられてその人権はどうなるのかは分かりますが、
傷付けた方の人権は果たしてどうなるのでしょう?
人権剥奪とは実に短絡的なことで、人権の認知は全て国家に委ねられている訳で、
その国家が人権を定義しているのなら、その定義は人権を剥奪する事も定義に含むのですか?
凄く子供じみた発想なのですが、小生はいつもこんな事を考えておりました。
・・・無論、それで国家が人権を軽んじると言いたいわけではなく、人権は人権同士で
殺し合わないようになっているのですよね。そういう風に国に保障されている。
なのに何故国家は人権を付与し・取り上げるという理由
(国がそういう権利を持つというわけではなく、憲法によって自動的に機能する)から、
人権を定義できるのでしょうか? 小生の感覚では、「人権が揺らぎ捲ってますよ」と
とても危なっかしいのですが。余り人権という言葉は、その意味がはっきりしない以上、
使いたくないのです。
>そして、多くの場合国民感情と被害者感情は合致します。
この点は「微妙に異なります」とも捉えて構いませんか?
合致する理由は余りお聞きしたくない(笑)。こういった弱者の視点を騙るような
国民感情は小生は気に入りません。人間魚雷様の上のレスについてでは勿論ありません。
微細な差異について、寧ろお聞き致したいです。
>国民感情も被害者感情も、生身の人間の心情に過ぎないものであり、
全くでございます。しかしながらこれらから「感情」なる語を外して考える事も容易で、
そうなれば実は国民の中に必ず被害者は存在するし、これからも生まれるリスクがある
といったことを自明視致せば、余り意味の無い区別ですよね。
ですが、これとは違った向きで、つまり生身の人間の心情云々の件を断固反対して
区別を明確化しろと訴える人も多分いらっしゃるかと思われます。それも充分に正しいのです。
>生身の人間ではない「国家」が、これに影響される事の善し悪しは別にしましても、
>量刑を重くしていこうという傾向にあることも事実かと。
左様でございます。国家と国民の間で刑の、その存在理由とその存在価値は
全くの別次元に捉えた方が好都合にございます。傾向がどちらに転ぶかはさておき、
両方にとって良い事など小生は期待しておりません。国家と国民、どちらをお取りになります?
>いずれにしましても、犯罪と刑事罰の関係を根本的見直す時期に来ている気はします。
>因みに、死刑に代わる「刑」といのは存在しないでしょう。
>たとえ懲役100年、200年だろうと。
>死刑は死刑でしかなく、純然たる殺人であるから。
Ken様と意見が違いますね。最後の一文には膝を打ちたい気分でございますよ。
小生は国家的暴力とやらの解釈から、以前は死刑制に反対を唱える事が可能では
と早合点致しておりましたが、暴力と権力をよくよく比較いたして見ますと、
死刑についてはなかなか違った面白い解釈もできるのですね。
大体死刑だけが国家的暴力ではありませんし、それを理由に否定できるわけではございません。
(無論それだけを理由に云々ではなく、暴力であれば無条件に退ける必要はあります)
>私も死刑に限らず、刑罰に犯罪抑止効果など無いと思いますし
この点、小生は期待はしておりませんが、多少あるとは思います。
小生が主観にこだわるのもそれで、もし社会的行動の結末に刑罰が上手く想定されるよう
仕組まれるのであれば、充分に機能するはずです。
ですがそれも学校などの教育機関の下でより効果を発揮すると思われ、あたかも
パブロフの犬(条件反射)とかスキナーボックス(閉鎖空間の規則的刺激)とかの
擬人化を理想としてしまいますね。主観的に犯罪を防ぐには、という意味で。
因みに国民に身近に機能する法律は言うまでも無く、道路交通法かと小生は思っております。
それには少なからず犯罪抑止効果が働いているように思えますね。
交通事故の死亡者数は多いですけど。

37Ken:2008/05/29(木) 02:20:48
魚雷さんの意見には大いに共感できますねえ(それはそうと同情・共感に相当する
専門用語はEmpathyでした)。司法が国民の処罰感情から乖離した結果、大衆が
司法に信頼を置かなくなる、などということになれば、法治国家にとって由々しき
事態なわけですよ。このギャップを手っ取り早く埋める方便として厳罰化と一般
市民の司法参加はひとつの手ではなかろうかと。

問題点はいったい司法はどこまで大衆の処罰感情に「迎合」すべきなのか、ということと
そもそも「大衆の処罰感情」なるものは客観的・公正に計ることなどできるのだろうか、
ということだと思います。本村氏に批判的な人というのは、メディアが不公正で
偏った報道姿勢を続けているために、大衆の処罰感情が本村氏に乗っ取られている、
というふうに感じているんでしょうね。

裁判員制度の導入は、それプラス、「量刑判断なんてちっとも面白くない!そんなに
文句があるなら自分たちでやったらいいじゃん!そうすりゃどんだけ難しいか
よくわかるよ!」と裁判所がやけっぱちになっているのかな、と考えてみたり。

38紫煙狼:2008/05/29(木) 10:30:19
とりあえず…。昨晩から自宅のPCがおかしくて、
掲示板投稿ができません。原稿も用意してあるのですが…。
と、いうわけで、I'll be back soon!!

39人間魚雷:2008/05/29(木) 22:01:30
無精髭さん、早速のレスありがとうございます。
国民感情と被害者感情につきましては、私の早合点でありましたね。
なんとなく表面的に合致しているかのように見えて、
ここにはもっと複雑な事情が絡んでいるのでありましょう。

40無精髭:2008/05/29(木) 22:36:42
>>38
あれからお書き込みがございませんでしたので、
小生のレストこのスレの進行にご気分を害していらっしゃるものかと、
自責の念に居た堪れぬ気持ちにございました。
しかしながら紫煙狼様にそのようなご事情がおありとの旨。
小生もホッと胸を撫で下ろしております。
小生が申し上げるのもおかしいですが、
お書き込みを心待ちに致しております。

PCの調子がおかしいとの事、
小生の方もPCの具合ではないのですが、
今晩の7時頃から9時頃までかけて書いておりましたものが
ちょっとした手違いでおじゃんになってしまいました。
内容は、こちらのスレッドの趣旨が不鮮明である事と
小生の投稿内容の度外れな筋違いな事についての謝罪文、
新たに小生からご提案差し上げたいスレ趣旨(Ken氏が>>31
示唆された、治安問題やその対策について)、
並びに小生の態度&決意表明のようなもの、
以上、殆んど書き上げていたのですが・・・やってしまいました。

小生は一度書いた内容は、片っ端から忘れていく人間なので、
おそらく記憶力に欠陥があるのでしょうけれども、
再度同じ内容を書こうと致しましても、哀しい事に全く筆が進みません。

また時間をかけて文案を練らせて戴きたく存じ上げます。

上に謝罪の件とお書き致しましたが、
特に、人間魚雷様は御気分を酷く毒されたやも知れず、
此度の小生の知力・知識と節度に欠けたレスに関しまして、
小生は痛く恥じ入っておると同時に、ただただお許しを乞う所存にございます。
人間魚雷様、大変申し訳ございませんでした。
Ken様はおそらく、数々の修羅場を潜り抜けて来た猛者でいらっしゃるだろうと
お察しいたしますのであえてこの場はお詫び致しませんが、
Ken様のコメントは確かに、このスレッドに新たな光明を齎して下さった事と存じ上げます。
詳しいことにつきましては、後日お知らせできればと存じ上げます。

最近、小生の言葉使いが、返信速度と睡眠欲求の都合上ですが、
かなり乱れたものになっておりますことを
今になって痛感致しておりますので、
以後気を引き締めて努めたく存じ上げます。

因みに小生の使っているPCは、実は家族共有のものなので、
この掲示板の閲覧及び返信に掛ける時間は限られているのでございます。
このPCを使って文章を作成するのにも占有といった形になりますので、
家族にもだいぶ気を使わなくてはなりません。
情けない話ではございますが、何か小生の方で不都合があった場合、
こういった事情がございます事を知って頂く為、一応ご報告致します。

F氏のご復帰に備えて、小生の一人投稿はもう少し続けさせて戴きますが、
どうぞスレッドの進行とは無関係のものと断じて戴いて、
スルーなさって下さいませ。

最後に、紫煙狼様がこのスレッドに参加していただけるのは、
小生と致しましては望外の喜びに存じ上げます。
おそらくはF氏も同様の思いをお持ちの事と思われます。
もしこのスレッドの議題にと、何か良いものがございましたら、
ご提案戴ければ幸いでございます。
その時はどうぞスレッドの進行役を是非とも買って出て頂きたく存じ上げます。
小生も懐疑心爆発で行きとうございますので(自嘲)。

41紫煙狼:2008/05/29(木) 22:43:57
えーっと、Windows系OSは安定性にかけますねぇ(^^; 
まぁ、復元しやすいところは不幸中の幸いです。再インストールにならなくて良かった。

では、まずスレ主の無精髭さん、
非礼も無礼も何も、私は気を悪くしてはいませんよ。むしろ心配どおり、私がスレッドの
存在意義を否定してしまったように受け取られてしまったみたいで恐縮しきりです。
そりゃ、しょっぱなから「被害者がどんな態度を取ろうと自由だ」なんて書こうものなら、
「おいおい」と言われても仕方ない話でさぁね。ただ、自由勝手であるということと、
望ましいという事は必ずしも一致しないわけで、どうあるべきかという議論は有意義と
感じればこそ参加させていただいております。色々とご指導ください。

次にmatatabiさん、アナタは少々私を買いかぶりすぎですよ(汗)
論客ってのは、アタシみたいな穴だらけの中途半端な思考力で勤まるものではありません。
真理であるか否かは別として、一定の前提に於いて無穴の論理を展開できる者にのみ、
「論客」という称号が与えられると私は思っているので、恐れ多くて困ってしまいます。
アタシはタダのおしゃべり好きです。見解が相違するところも多々あるかとは思いますが、
色々な方のご意見を賜り糧とするのは私の喜びですので、今後ともご指導ください。

あと、kenさん、人間魚雷さん、他皆々様(中略)ご指導ください(笑)

42紫煙狼:2008/05/29(木) 22:44:48
さて、本題に戻りまして…。
私自身は本村さんとは面識も何もありません。マスコミ報道を通じて目に映る彼の姿、
彼の言動が私にとっての彼の全てです。そして、死刑廃止論者の私としても非常に
感銘を受けるというか、共感せざるを得ない発言の数々に、感情面では同情というより
むしろ、共に手を取り合って闘おうという気にさえなります。

ただ…私の理性は「刑罰は報復ではない」と訴えます。言い方を変えるなら、
「刑事裁判は被告人のために開かれる」という心の声です。
こういうと、被害者軽視・犯罪者偏重の考え方に聞こえるかもしれません。
しかし、私の考える「被告人のために」は、別スレでも書いた記憶があるのですが、
弁護人の言う「被告人に有利に」とは少々異質であり、時に厳罰を以って臨む事こそが
被告人の人生に於いて何倍も「ためになる」場合が得てしてある、ということを前提に、
被告人の人柄や性格も加味した上で、一番、更生を助けるような適切な刑罰を科す
ことこそが「被告人のため」になると思うのです。

この考え方の一番の欠点は、罪深さを自覚し、反省し、悔い改め、懺悔の日々を
過す様に人間的成長を遂げても、死刑が執行されるとすれば、受刑囚は悔恨より
むしろ自分の命を奪わんとする社会に対する恨みだけで死んでいくように思うのです。
実際、死刑に限らず元受刑囚の出版した本などを読む限り、獄中生活で罪深さに
気付く人間というのは極まれで、むしろ自業自得にもかかわらず獄中生活を送っている
身の不幸(私たち善良な市民は、これを不幸とは呼びませんが)を呪うばかり。
やがて、社会に出て、自分が獄中生活を送っている間に、家族がどのような苦しい
日々を送ってきたかを知って、ようやく罪の意識に目覚めるというのが大半。
これは日本の監獄内における更生プログラムのお粗末さを物語ると思うのですが。。。
従って、罰を軽くすることは言語道断ですが、このままなら厳罰を与えることも、
たいして被告人のタメになるとは思えないところが痛いです。

迫りくる死刑執行による死の恐怖が受刑囚を更生させるもっとも強力なプログラムで
あると仮定して、そのプログラムを経て罪の自覚に目覚めても受刑囚は処刑され、
逆に満期上等とばかりに更生のコの字もしていない輩が年限を終えて野に放たれる。
これはおかしな話ですよ。私は死刑囚にも著しい更生が認められれば仮釈放があっても
良いと思っていて、逆に刑期満了を迎えても更生の認められないものは娑婆に戻しては
いけないと思うわけです。この点、反省・悔恨の情の中で死を迎えて欲しいと願う系の
死刑賛成論者とは相容れないかもしれませんね。

上記を踏まえて本村さんですが、彼は被告人に対し「反省・悔恨」を要求している。
ここが私には重要な部分で、必ずしも同害報復を求めているとは思えないのです。
そして「国が犯人を死刑に出来ないなら、私がこの手で」とかいう発言も、
短絡的に被告人の死を願っているのではなく、死の恐怖以外に犯人を更生させる
手立てはなく、更生せず娑婆に戻りのうのうと生きていくなら、私がこの手で
死の恐怖を味あわせ、何が何でも罪の深さを味合わせてやる、と聞こえるわけです。

43紫煙狼:2008/05/29(木) 22:49:06
ドラマの見すぎで妄想(電波?)入っていますが、

被告人が更生することなく娑婆に戻る。
本村は闇ルートで拳銃を手にいれ元受刑囚を追い詰める。
必死の形相で逃げ惑い助けを求める元受刑囚。
本村の放った銃弾は元受刑囚の腕、肩、足を射抜き、
じわりじわりと本当の死の恐怖が受刑囚を襲う。

「悪かった、助けてくれ、命だけは、命だけは」
涙ながらに命乞いする受刑囚。本村は冷たく言い放つ
「俺の妻も命乞いしたはずだ。子供も生きるのに必死だった」

既に四肢の自由を奪われもがくことしかできない元受刑囚の額に
本村の構えた銃口が突きつけられ、引き金が絞られる。
ギリギリ、撃鉄が立ち上がり、恐怖のあまり尿を漏らす元受刑囚。

やがて、カチリと音がして気を失う元受刑囚。
既に本村さんの銃は弾切れを起こしていて、
それを誰よりも一番良く知っているのは本村自身だった。
一筋の涙が本村の頬を伝う。彼の復讐は今おわった。


と、まぁ妄想全開放の私の頭には、必ずしも本村さんが死刑を望んで
いるのではなく、更生せざるを得ないほどの死の恐怖で被告人を
反省させたい。むしろそちらが目的のような気がするのです。

44無精髭:2008/05/29(木) 22:49:36
>>40を書いていた内に、
人間魚雷様からレスが・・・。

>>39
そんなご謙遜(?)なさらなくても宜しいのに。
小生は>>36のレスを出してから後、
非常に拍子外れな事を書いてしまったものだと悔やんでおりました。
ですが今もその時も、
人間魚雷様のご見識を疑うような気持ちは皆無にございます。
ただ小生の懐疑癖(一種の病気)が再発いたしただけにございます。
狂人のたわごとだとお思いになって、余り気になさらずにお願いいたします。

>ここにはもっと複雑な事情が絡んでいるのでありましょう。
本当に申し訳ありませんでした。ですが、小生はその事情と申しますより、
感情の扱われ方にやや疑問があっただけでございますので、
一般の語法においては正当な使用でございます。
こんな事を申し上げるのも大変不躾ながら、
小生の言葉などよりKen氏のレスをお信じになられたほうが宜しいかと存じます。

これからも何かとお気に触ることを致すかもしれませぬが、
どうか無精髭の馬鹿を宜しくお願い致します。

45人間魚雷:2008/05/29(木) 23:06:14
被害者遺族が、犯人に対して一番望むものは何でありましょうか?
ある遺族は反省と更生を望む。
ある遺族は死刑を望む。
ある遺族は更正したうえでの死刑を望む・・・・

私が思う事は、どんな遺族でも望むことはたったひとつ!
なのではないかということです。

おそらく遺族は、犯人が犯罪者のままでいることが耐え難いのではないでしょうか。
遺族は犯人に対する激しい憎悪と、家族を失った強い悲しみを乗り越えようとする時、
しばしば犯人の更正を望む言葉を口にします。
反省、更正、償い・・・
これらが遺族の感情を幾ばくかなり癒すものであることは確かかもしれません。
それによって、被害者も多少なりとも浮かばれると思うこともあるでしょう。
私が言いたい事は、じつはこの更正を望む遺族(犯人を生かしておく)と同じベクトル上に
死刑を望む遺族(犯人を殺す)が存在するのではないかという事です。

犯人が本当に反省、更正しているかを計る道具が無い以上、
究極の更正が「仏」になることではないでしょうか。
肉体が死しても魂が仏になることで、犯人は「善」に戻ることが出来るのです。
遺族感情にとって、これ以上の癒しがあるでしょうか。
つまり遺族は怒りや憎悪の感情で犯人に死刑を望むのではなく、
犯人をあの世の仏にすることで、自らを深い苦しみから救い出そうとするのではないでしょうか。

46無精髭:2008/05/29(木) 23:19:02
>>41-43
紫煙狼様

>>44を書いている内、
レスがございました模様・・・。
大変嬉しく存じ上げます。もう涙が出そうで(半分冗談ですがね)。

早速拝読させていただきました。
議論相手を褒める事は自らの品を落すことだと思いますが
(「論客コミュニティ」の規律にございます、無論相手にも良くないでしょう)、
紫煙狼様のこの度のコメントには、ここの書き込みの中でも最上に位置する
感動を呼び起こしました(我ながら大げさ)。
おそらくは小生の疑問にかなり沿った内容であることが、小生の琴線に触れた為
にございましょう。
この件に関して、そこまで真摯にお答えになった方が今まで居ただろうか・・・。
Ken氏は、紫煙狼様が感情を排せ云々と仰っていましたけれども、
ちょっと事実誤認がございますようで。小生、真に受けてしまいました。
もちろんKen氏も熱い御仁にございますがね。

日野OL不倫放火殺人事件スレの308番に感情について触れていらっしゃった・・・
それと389番、これを読んだ時は小生もマウスをもつ手が震えました。
理由はあえて詳らかに致しませんが、小生も同様のことを考えておりましたので。
自分と同じ考えを他者に見出すと、何故こんなにも不思議な感覚にとらわれるのでございましょう?
小生が同情というものに疑問をいくら持とうが、こういう感覚だけは貴重だと思いますし、
決して他者には譲れません。それが世論に同調するという安易な意味での「同情」や「共感」
とはまるで異なっているが故に。

>>42-43は再度再読三読させていただきまして、
詳細に、思いの丈をぶつけて見たく存じ上げますが、
宜しいでしょうか?

再度、この度のレスの程、紫煙狼様にお礼申し上げます。

47人間魚雷:2008/05/29(木) 23:22:57
私が書き込みしている間に無精髭さんの誤解に満ちたレスがありましたので、
取り急ぎご返答いたします。
私に対して謝罪の必要などまったくござりませぬ!
もちろん私は気分を毒されもおりませぬ!
今後もお互いに、自由奔放な議論をさせていけますれば、これ幸いにございます。
私は面倒くさがりでありますので、文章を必要以上に簡素化してしまう癖があります。
恐らくは、氏と根本的なところで同意見であることが少なくは無いと感じております。
手前の方こそ、宜しくお願い致します。

48無精髭:2008/05/29(木) 23:37:12
>>47
こちらこそ宜しくお願い致します。
>今後もお互いに、自由奔放な議論をさせていけますれば、これ幸いにございます。
この旨、小生のほうも是非とも望むところにございます。
もしもこれからの議論の諸所で、皆様が前提とされているような事や
当たり前の常識に対してまで、小生が疑問を投げかけるような事がございましたら、
「ああ、また始まったよ」「髭の病気が」とでも解釈なさっていただければ宜しいかと。
スルースルーでお願い致します。
ですがもし小生の疑問にお付き合いいただけるのであれば、
何と申し上げたらよいか・・・。言葉になりません。
小生も人から屁理屈と断じられて、かなり敵(?)を作って参りましたので。
あと、レスが異様に長いなどと詰られまして。
文章もかなり抽象的でございますし。
きっと皆様のように、現実を良く生きていないからでございましょうね(時事に疎い)。

人間魚雷様、もうお休みになられていらっしゃいますよね?
小生のような暇人にお付き合い戴きまして恐縮の至りに存じます。
小生ももう寝ます。
実は昨日の事が気になって、仕事中もボーっと致しておりました。
おかげさまで今晩は良く眠れそうでございます(皆様に感謝×2)。

もう口数の多い口にはチャック致します。
皆様、お休みなさいませ。

49紫煙狼:2008/05/29(木) 23:59:01
無精髭さん、早速のレス本当にありがとうございます。お褒めのお言葉は素直に頂戴いたします。

ところで…。通常、被害者とか被害者遺族というのは「被害者面してるけど、実はコイツが
犯人なんじゃないの?」とか、まるで、犯罪が起きてくれて良かったかのような態度でも
とらない限り、ほぼ無条件に善良な一般市民の同情を得ることが出来ますよね。普通だったら
誰しもその苦しみに理解を示し、感情的で過激な発言も「無理からぬこと」と皆頷くはずですよ。

ところが、本村さんに対しては、必ずしもそうではない。被害には同情するし故人の置かれた
不幸を思うと身も引き裂かれぬばかりだが、遺族の本村氏には共感できないとか酷いのになると
単純に「好きになれない」なんて批判が飛び交った。これは一体、何によるものぞ?と考えると、
一般的被害者遺族と比較して本村さんは理屈っぽ過ぎたのかなぁと思うのです。
(本村さんに対する批判を意図するものではありません。)

強い被害者感情が根底にあるのは誰にでもわかるけれど、いっその事、感情論だけで怒りを
表現すれば誰だって共感しただろうと思うのですが、彼の主張には一つ一つに理屈があるのですね。
怒りを理論武装するというか、感情を理論武装して正当化しているかのように受け取られかねないほど、
彼は常に感情でさえ論理的なのです。これを深読みすると、本村さんは妻と子の死を自分の主義主張を
発表するために利用しているかのような違和感を与えかねない。これが決定的に彼を印象付けた。
(無論、それを扇動するかのようなマスメディアあってのことです。)

ただ、実のところ、私には彼が死刑賛成を訴えているようには聞こえないのです。
表現が難しいのですが「死刑には賛成、執行には反対」と言えばいいのでしょうか?
現在の犯罪者更生プログラムを見る限り、とてもじゃないが凶悪犯に通用するような要素は何一つない。
この手の輩には死の恐怖以外に更生させる術はない。だから死刑は必要だ。しかし心から犯人の死を
願って見たところで還らぬ者は帰らぬ。それが判っているから感情では諦めの様な違和感が残っていて、
それが彼を理論武装に駆り立てているように聞こえるわけです。本当に死刑にして殺しても意味なんか
ないじゃないか、でも、そうでもしなければ、誰も罪の重さに気付かない。そう感じるのです。
そして、執行のない死刑はただの終身刑で、それが受刑囚にわかっていたら、更生効果は生まれない。
だから執行して欲しいとは願わないが、執行しなければ、執行されるという恐怖感がなければ、
死刑そのものが無意味だ。そう聞こえるわけです。だから死刑確定後の反省文なら一瞥の価値ありと
言っているのではないか…そう思えるのです。そしてそれが正しければ、彼は自ら死刑を求めていながら、
確定後数年、十数年を経た後、助命嘆願の活動を始めるかもしれない。私にはそう映るわけです。

全て仮定と妄想に基づいて想像しているだけなので、実のところはわかりませんよ。
ただ、こういう風にでも捉えなければ彼の言動が(私には)不可解すぎるのです。
いや、不可解なのではないですね。哀しすぎるのです。なぜなら、私思いつく限りでは彼の言動を
合理的に説明出来る説は残りひとつしかない。それは彼自身がこの怒り恨みを生きる支えにしていて、
どんなに単調な日々が流れようとそれを忘れないために、自分自身に理由付けして言い聞かせている。
悔しいかな時間に癒されてしまう自分の心。妻も子もいない生活に慣れていってしまう自分の心。
しかし、それでは故人が浮かばれない。それ故に怒りや恨みに強固な理由付けをして、臥薪嘗胆を
実践している一人の男。どちらかしか私レベルの頭では思いつかないのです。そしてせめて、
前者であれば私の気持ちも幾分か安らぐ。それだけです。
なにしろ私も「情に棹差せば」にクチで、自分が被害者なわけでもないのに凶悪犯罪事件を耳にすると
涙せずにはいられない。感情移入せずにはいられないクチな者でして…でも感情は人それぞれ。
だからこそ、感情を廃した論理にこそ多くの人が納得しうる落しどころがあるのではないか、
そう思っており、自分に言い聞かせているというのが真実でございます(^^;

50人間魚雷:2008/05/30(金) 00:10:04
自ら強く死刑を望み、実際に死刑になったタクマのことを考えました。
殺された児童の中に私の子供がいたとしたら。
犯人が死刑を望んでいる時に、被害者遺族も死刑を望むものなのか?

終身刑があったとして、一生をかけての更正に期待するのか。
拷問刑があったとして、ありとあらゆる苦痛を与えたいのか。

私の答えは、どちらもNOだったのです。
犯人が望む望まないにかかわらず、
私は「死刑」を望むのではないか・・・・・

私の苦悩を最も効果的に柔らげてくれるもの。
それはタクマを仏にし、人間を超越した「善」にしてしまうこと。
これは日本人の宗教観と関係があるのではないでしょうか。
死刑を廃止している国・地域の宗教観との差異は何でしょうか。

51Ken:2008/05/30(金) 03:44:30
おお、今度は私が魚雷氏の心とつながったような錯覚に陥りました(ちょっと
気持ち悪い)。というのはちょうど宅間死刑囚の処刑に関する記事

<特集ワイド>凶悪事件、犯行動機に供述 映画監督の森達也さんと考える
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20080528dde012040065000c.html

を読んだのと、日本で死刑が圧倒的に肯定されているのは日本人の死生観と関係が
ありそうだとぼんやりと考えていたからです。米国は単純なんですよ。たとえば
テキサス。そもそも凶悪犯罪が多い、おそらく銃の所持率が高い、軍隊の志願率が
高い、差別がいまだ根強い(もう何十年前の話ですが私の母が貧乏旅行していたとき
アジア人だとの理由でガソリン・スタンドでトイレを使うのを断られて仕方なく
茂みで用を足したそうです。ただし、いまどきこんなことがあったらすごい騒動に
なりますよ。)、イラク戦争を熱心に支持して「テロリストなんて裏庭で撃ち殺すよりも
イラクでぶっ殺したほうが手っ取り早い!がはは!!」みたいなおっさんがわんさか
いる、マッチョで保守的な土地柄です。死刑が多いのも合点がいく。悪いやつは
ぶっ殺せばいいんだ、みたいな感じですね。

一方の東海岸。お高く気取ったリベラルが物知り顔でイラク戦争に眉をひそめ、
同姓婚が認められている、リベラルな土地柄です。そんなのだから、死刑は税金の
無駄遣いだからやめてしまおう、なんてことになるわけです。

日本はどう考えても東海岸に近い。まず凶悪事件がすごく少ないし、暴力や武器を
毛嫌いしている。大方は戦争には絶対反対の平和主義者で、銃に興味をもとうものなら
頭がおかしいと思われてしまうような土地柄です。「イラク戦争は反対、人殺しは
よくない」とかいってる私の母も女の子を誘拐して殺したペルー人は「絶対死刑だ!」
とか憤るわけですよ。暴力を普段から目の当たりにしない、暴力を毛嫌いして
暴力や殺人から縁遠い生活を送って日本人が、死刑になるとなぜか、圧倒的に
支持する。そこんところにすごいギャップを感じるわけですよ。

52Ken:2008/05/30(金) 04:05:38
一方で、日本人にとって死はいつも身近にあるわけですよ。自殺がすごく多い、
一家心中やほとんど面識のない者同士の集団自殺。こういうのは日本は変わった
社会だ、と米英で槍玉に挙げるのにいつも使われるネタです。女性アナウンサーが
自殺すると、同僚とか周囲がどれだけ悲嘆にくれているのか、非常に熱心に報道する
わけですよ。これも米国ではないですね。後追い自殺予防のためかもしれないですけど。

それでまあ、死刑ですけど、これは日本では究極の謝罪の仕方だと受け止められて
いるのではなかろうかと。「死んでお詫びする」という表現がありますけど、
米国人にはどうもこういう感覚がなさそう。死んじゃったらおしまいですからね。
謝罪もくそもない。でも、日本では昔から「死ぬこと」に特別な意味がこめられて
いるわけですよ。切腹は武士が最後に名誉を回復するための手段だったわけで。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」の世界ですよ。心中も昔から連綿と続く
日本の文化ですしね。そういう日本人の死生観、死にこめられているポジティブな
意義が、日本における死刑に対する圧倒的肯定の根拠になっているのではなかろうかと。
ちょっととりとめがないですけど。

53Ken:2008/05/30(金) 14:49:59
>>40今晩の7時頃から9時頃までかけて書いておりましたものがちょっとした手違いでおじゃんになってしまいました。

お気の毒に。ただ、私もたびたびやっちゃいます。BSキーがブラウザの「戻る」の
ショートカットになってるんですよね。それで、何かの弾みでコメント欄が非アクティブに
なっているにもかかわらず字を消そうとして別の画面に移動しちゃって、書いてたのが
全部無駄。もういいや、寝ちゃう!みたいな。これもビル・ゲイツの陰謀なのでしょう...。

魚雷さんと無精髭さんのやり取りが面白かったので(敬称略)

魚雷>>そして、多くの場合国民感情と被害者感情は合致します。
無精髭>>この点は「微妙に異なります」とも捉えて構いませんか?

魚雷さんは普通の人は被害者の姿に自分を重ねて犯罪を見つめる、というような
ことを言っていると思ったのです。それに対して無精髭さんは、すべての人が
そうだとは限らない、程度も違うだろうし、というようなことを言い返したのだと
読みました。たとえば、被害者ではなく加害者に自分の姿を重ね合わせる、ということも
考えられますよね?それで私が>>51であげた記事を読むと、私には鬼畜にしか
見えない宅間死刑囚でさえ、その心情が理解できると多数の人が支援に名乗り上げたと
書いてあるじゃないですか!この他人に共感・感情移入する能力にはリミットが
ないんだなあと。

これ前にも書いたことなんですけど、米国で10代の少女が妊娠したのに誰にも
打ち明けることができなくてそのまま自室で一人で出産してしまい、パニックになって
生まれたばかりの赤ん坊を絞め殺して川に遺棄した、という痛ましい事件のテレビ
ドキュメンタリーなんですけど、警察の懸命な捜査の結果逮捕されて、日本だと
少年院にも送られないような事案だと思いますし、英国だと嬰児殺しはそもそも
罪に問われないそうなんですけど、アメリカだと普通の大人の刑事裁判を受けて、
他の大人の犯罪者と一緒に刑務所に何年も入れられちゃうわけです。それで、
刑務所の中で彼女は自分のした過ちに気づいたらしく、涙ながらにテレビに訴える
わけですよ。もちろん名前も顔も出して。自分が今テレビに出ているのは自分と
同じように思いがけず妊娠してしまい、誰にも打ち明けられずに悩んでいる人が
いれば、ぜひ勇気を出して親や先生、周りの大人に相談してほしいからだと。
それで私も子供がいますし、将来、彼女のように準備もない状態で望まない妊娠を
しないとも限らないと、身につまされるような思いで見ていました。この次に
あなたが妊娠したときにはきっとよいお母さんになれるよと。

何が言いたかったかというと、被害者だけでなく加害者にも感情移入することは
ありうるということ。魚雷氏はシニカルだから刑罰には更生効果なんてないと
言い切りますが、それも受刑者の性格や犯罪の性質によりけりなんじゃないかと。
若い人はやはり可塑性が高いですよね。画一的である必要はないですが、未成年の
死刑に対して慎重になることには合理性がやはりあるかなと。

54無精髭:2008/05/30(金) 20:58:35
>>53

面白いですね〜☆
Ken様はっww

>お気の毒に。ただ、私もたびたびやっちゃいます。BSキーがブラウザの「戻る」の
>ショートカットになってるんですよね。それで、何かの弾みでコメント欄が非アクティブに
>なっているにもかかわらず字を消そうとして別の画面に移動しちゃって、書いてたのが
>全部無駄。もういいや、寝ちゃう!みたいな。これもビル・ゲイツの陰謀なのでしょう...。
正にこれなんですよねぇ。小生もこれには参りましたよ。

何やら雑談スレで一悶着あるようでございますけれども、
このスレの>>24でKen様が次のように仰っていました事が念頭に浮かびました。
>逆に言うと自分の所属する社会を飛び出して、よその
>文化・社会と接することによって、自分の社会を客観的に、それまでと違った
>視線で捕らえることは可能になると思います。私、個人的な実感としてありますけどね。
このような意味での客観性に拘ろうとする姿勢は、贔屓目に見ても
小生には感じ取れますので。
ですが実を申しますと、小生の自宅は米軍の基地のフェンス沿い、
しかもゲート間近にございますので、まあ強姦や強盗などといった
凶悪事件は良く聞きませんけれども(小生が能天気なだけかも)、
確かに交通事故、特に轢き逃げなどの問題が起こった場合、
zero氏やflower氏の言い分も確かに一理ございますなぁ、と思います今日この頃。
事の真相は、全てフェンスの影に(ならないですけど)・・・、といった感じで
泣き寝入りか迷宮入りの案件も、伝聞ですがございますようで。

因みに小生の母方の祖父母は沖縄の住人でございますから(小生は沖縄在住ではございません)、
これもまた何となくでございますけれども、地域住民の感情から致しますると、
なかなかKen様のような視点に立つ事がかなわぬのも事実かと思われます。

勿論、以上の様な事もKen様ほどの方であれば、
当然配慮された上でのご発言かとも存じ上げますけれども。

マア、小生には余り関係ございませんけれどもね。ご無礼。

55人間魚雷:2008/05/30(金) 21:37:55
<多くの場合国民感情と被害者感情は合致します。>

「微妙に異なる」ことと「合致しない人間」がいることは分かります。
「多くの場合」と書いたのはそういうことです。
実際私の身近に、いつも加害者の立場で事件を捉えている知人もおります。

刑罰に更正効果がないと断言したのは、頭の中にあったいくつかの
凶悪犯罪のこと思い浮かべながら書いたものですから、ついつい独断的になってしまいました。

>暴力を普段から目の当たりにしない、暴力を毛嫌いして
>暴力や殺人から縁遠い生活を送って日本人が、死刑になるとなぜか、圧倒的に
>支持する。そこんところにすごいギャップを感じるわけですよ。

そういう日本人だからこそ、凶悪な犯罪者に死刑を求める
ってことも言えませんか?
ギャップは無いのかもしれませんよ。

日本では確かに死ぬ事は究極の「お詫び」かもしれませんが、
死刑がお詫びかどうかってところは疑問です。
何れにしても、日本人には独特な「死の美学」がありますよね。

56人間魚雷:2008/05/30(金) 21:50:53
Kenさんの仰るところの、東海岸の先進的な部分、
テキサスの封建的(保守的)な部分。
日本人にはこの両方が混在しているような気がします。

57無精髭:2008/05/30(金) 22:20:15
>>53へのレスの追加にございます。
その後半部分、
>被害者だけでなく加害者にも感情移入することは
>ありうるということ。
鋭い読みに驚きました。
実を申しますと、お頭の可笑しな小生は常日頃から、
社会を客観視、と言いますよりその外に立って眺める為には、
被害者の立場より加害者の立場に立った方が合理的ではないかと、
漠然とですが考えておりました。
否、立場と言うのでは物足りない(何か公平な第三者の視点を想起させるので)。
自己の意識を加害者の内奥に食い込んで、犯行時からそれ以前に
行われたであろう日常生活の細々とした印象まで遡及し、犯罪者から見た
冷たい肌触りの社会像を覗き込むことの方が、感情移入しやすい(つまり私たちと
生活形態が似たものと錯覚しやすい)被害者側の心理を思い描くよりも(つまり
被害にあった時の苦痛を再現してみる徒労)背徳的ですが、事件に対して
ずっと冷静で居られるかと。何故冷静である事にこだわるかと申しますと、
それは私たちの社会で起こったことであり、同時にそれは私の観念する社会像に一致するから。

それはそうと少し前に、刑罰一般に犯罪抑止効果が余り期待できない、と申し上げたと存じますが、
体罰であれば、その効果を主観的に再現乃至は更正しやすいのではないかと気が付きました。
小生の言葉で言えば理由は、形あるものだから(体罰に使われる器具、
若しくは自らの身体感覚上の仮想体験)。ですが良く考えて見ますと、
それは犯罪を未然に防ぐような高級な効果ではなく、単なる(権力の)威圧効果であり、
ある種の精神的暴力でもあるとも解釈可能ですけれども。

>>52
順序が逆になりますが、死生観と言うキー・ワードが出ましたのでレス致します。
>日本では究極の謝罪の仕方だと受け止められて
>いるのではなかろうかと。「死んでお詫びする」という表現がありますけど、
>米国人にはどうもこういう感覚がなさそう。
これは意外でございました。やはり一度国を出て見ないと分からない事もあるのですね。
小生、アメリカ人は切腹大好きかと思っておりました。
そういえばアメリカ人に限らないとは思いますが、外国の方は日本の「サクラ」を見て
それを綺麗だとしか思わぬが、日本人は「桜の木の下には死体が埋まっている」
と言うように、桜に死のイマージュを重ねていて、それを不気味なものとしても見ている、
とか何とかいう話を新書で読んだ覚えがございます(それが無くとも有名な話でしょうが)。
それと、椿の花の落ちる瞬間が斬首を連想させるとか(初め大輪の菊かと勘違いしておりましたが)。

葉隠れ(三島由紀夫から知りましたが)とか心中(たとえば近松の浄瑠璃)とか、
江戸時代に花開いた文化が現代の日本人の心性に深く根差しているとは、
最早定説なのでございましょうかね? 江戸幕府や独特の農民性が
日本の近代化を早める為の素地を作ったなどという話も有名のようで。
>これは日本では究極の謝罪の仕方だと受け止められて
>いるのではなかろうかと。
その通りだと思います。おそらく実質的に反省してようが何だろうが
まずは形を示せ、と言うのが日本人の心にございます(死刑では死んで終わりですが)。
晒し首や引き回しなども見せしめの為というよりは、当の罪人の為に恥を掻かせる為に
やっていたのではないかと思われもします。

>>51でのお母様の武勇伝。
現代はジェンダー・フリーの世の中ですからな〜(意味不明)。
・・・(威儀を正して)コホンッ、アメリカにも未だ差別意識が根強いとは伝え聞いておりました。
もしかすると、その頃とは違った(別の次元の)差別が新たに生まれているのかもしれません。
日本の差別意識も時代とともに変化致しております(時事に疎いので憶測ですけど)。

人間魚雷様・紫煙狼様へのレスは後日時間を取って致したく存じ上げます。

58人間魚雷:2008/05/30(金) 23:00:38
>>自己の意識を加害者の内奥に食い込んで・・・・・・・

この辺の無精髭さんのお考えにはまったくもって賛成です。
被害者感情(市民感情といっても差し支えないでしょうか?)
はあくまでも感情ですから「冷静」さとは同居しにくい部分があります。
そしてそれは、私の想像を裏切ったことがほとんど無い。
誰にでも分かる、だれもが感じる「常識」や「道徳」にすぎないでしょう。

私自身は、事件そのもについては加害者、被害者、双方から。
裁判や刑罰に関しては被害者の立場になる傾向があると思います。

59無精髭:2008/05/30(金) 23:34:51
>>58
>被害者感情(市民感情といっても差し支えないでしょうか?)
宜しいでございますよ。
先にも申しました通り、Ken氏は深読みしていらっしゃるが
後々のレスを拝見致しました所、
人間魚雷様はあのままのご理解で構わない、と小生は思っております。
全ては各々の言語感覚と、とりあえずは申しておきたいと存じます(飽く迄も、とりあえずは)。

前半の部分を拝見致しましたが、ご卓見にございます。
しかしながら後半の部分で、人間魚雷様自身が
(裁判は良いのですが)刑罰に関して被害者の立場になる
傾向がおありとの旨、小生はこの点だけは逆で、
刑罰の被害者が寧ろ事件の加害者で、同じくその加害者というのが
実は事件の被害者と言う風に立場が逆転しやしないかと、
そこまで思い詰めてこその>>自己の意識を加害者の内奥に食い込んで・・・・・・・
なのでございますね。それも小生の倫理感の為ではなく、
認識の強度訓練の為なのでございます。
小生は死の瞬間と言うものに興味がございます。

・・・人間魚雷様、上のレスで「ホトケ」についてお触れになっていらっしったが、
その件、お時間に余裕がございましたら、是非とも詳しくご説明願えませんでしょうか?
紫煙狼様のレスとはまた別に、大変興味がそそられましたので。
「究極的には加害者を許す」という祈りにも似た行為とはまた違うものと思われます。
上に関しまして、死刑スレにおいて紫煙狼氏は否定的でしたが、小生は氏とは違いそれを
復讐感情、応報連鎖が人間本能として拭い去れない程根源的であるという
徹底した現実認識及び自己認識によるものから、あえて自らそれを禁じることで
世界にもそれを禁じさせようとする、途方も無く殉教的な宣言であると理解致しておりましたので。

・・・無理にとは申しません。

60紫煙狼:2008/05/31(土) 02:44:00
それこそ、被害者や被害者遺族の感覚によって大きく異なるものだとは思うけれど…。

どこぞの信販会社のCMではないけれど、他の人には単なるガラクタでも、持ち主には
思い出の一杯こもった、物凄く大切な品物(プライスレス)って奴かもしれない。そうすると、
一般的商品価値とは別に、本人評価額(無論、天文学的数字)的には、そのものずばり実物が
元の状態のまま帰ってこないことには許せないでしょう。家族・親族・恋人を殺されるってのは、
もとより価格評価不可能な人命を奪われる事で、元の状態のまま帰ってくることはないのですから、
なにをどうされたって、いくらお金を積まれたって、許すのは難しいですよ。私なら泣いて謝る
加害者に「泣く事なんてないんだよ、喩え血反吐はくほど泣き叫んで謝っても絶対に許すことなんて
ないんだから」と笑顔で応えそうです。(性格悪いですか?悪いですね?お褒めに預かって光栄です)

実は私には一生涯許すことの出来ない人が居ます。別に犯罪に遭った(ある面、遭ったけど)わけでは
ないのですが、本当に殺しても飽き足りないと思うほど憎い人が居ます。この地球上の遠く離れたどこかで、
そいつが吐いた息の二酸化炭素が、自分の食べている野菜に涅槃寂滅(10のマイナス26乗)ほどでも含まれて
いると思っただけで一気に食欲を失うほど、極端に言えば、その息を吸ってしまうくらいなら窒息死しようか
と思うほど憎くて憎くて仕方がない人が居ます。
でも、私の感情のために他の人を悲しませたり苦しませることは許されません。だから、許さないけれど、
許せないけれど、その感情は決して消えはしないけれど、その人を大切に思う人のことを考えて我慢します。
我慢しているから、余計に恨みつらみ憎しみは増強されて負の無限回廊の中をさまよい続けています。

別に肉親を殺されたというわけでもないのに、こんなにも人を恨み憎み呪う事の出来る私なのですから、
たぶん、私は私の大切に思っている人が凶悪な犯人に勝手な欲望のために残忍な方法で奪われたら、
犯人を殺しても飽き足りないと感じるし、たとえ死刑になろうと決して許せない。許す必要も感じない。
更生しようとしなかろうと、私自身には何の影響も与えない。根本的に許す気がないんだから。
どんな謝罪文を書いて来ようと一瞥の価値も感じない。犯人の命に価値を見出せない。逆説的に
犯人の命を奪う価値すらも見出せない。でも、私には害獣でしかない犯人にも家族や親族や恋人が居たり
したくらいにして、そういう人(犯罪には関係ない人たちですよね。)にとって犯人はプライスレス
なのかもしれないと思ったりして、私は犯人を決して許す気はないけれど、犯人の身内の人々のため、
決して死刑を求めたりはしないし、下手をすると証言台で有期懲役を求めるかもしれない。
あくまで犯人のためではなく、犯人を大切に思っている人々に私と同じ悲しみを与えたくないから。
極端な話、再犯して誰かがまた被害者になりさえしなければ、犯人のその後なんて知ったことではない。
だから適切で効果的な更生プログラムは求めたいし、犯人の関係者には未来永劫、再犯しないように
常に近くで監視し続けて欲しいとは思う。犯罪者に社会は冷たいもので、その冷たさが犯罪者の独善的
被害意識に火をともし、再度犯罪に走ることがないように支えてあげて欲しいとは願う。
私の心の闇の負の無限回廊より暗くて悲しい無限回廊をさまよう人なんて少なければ少ないほうがいいんだ。

ごめんね、私はどうも人間に必要な何かが欠けているんだ。だから私には「人が人を裁く」という
厳粛にして深遠なテーマについて語る資格なんて、本当はないんだ。
でも、自分に欠けているものが何か判らなくて、みんなに教えを乞うて居る。

甘えだな。

61Ken:2008/05/31(土) 05:19:46
犯罪に遭って生き残った人というのはまだまだ人生が続くわけですよ。苦しみと
悲嘆の中にいても毎日を生きて行かなければならない。だから、どこかの時点で
そういうのに区切りをつけたいと思うんじゃないかなあ。被害者や遺族が裁判を
傍聴するのは、加害者の言葉で、なぜ、どうして自分や愛する人が犯罪に遭わなければ
ならなかったのか、説明して欲しているからではないかな。少年事件では加害者の
プライバシーが最優先されて被害者側は答えをいくら求めても得られない、疎外感しか
得られないわけですよ。だから特に不満が大きいのではないかと。説明が得られない
ことを知ると別の形の区切りとして死刑を求めるのも自然ではないかと。

本村氏はそうではなくて一貫して正面から真摯に自分が巻き込まれた犯罪に付き合って
きましたよね。立派なことですけどそういう気持ちをずっと持続させるのは大変
なんだろうなあと。しんどい生き方だなあとおもいます。

62Ken:2008/05/31(土) 05:38:11
>>江戸と現代

私のお勧めは渡辺京二の「江戸という幻景」と「逝きし世の面影」です。渡辺氏というのは
在野の歴史家なのですがその著作の中で、今まで私が主張してきた外から自分たちの
社会を見つめる、という手法を用いています。具体的に言うと江戸を訪れた西洋人の
証言を通して江戸の社会を再構成しています。それで、タイトルを見ればわかるとおり、
渡辺氏は江戸と現代は断絶していると結論するわけですが、私はそのまったく逆で
日本人は江戸時代からぜんぜん変わってないなあ、と感じました。江戸の人々というのは
朗らかで猥雑、自由闊達で人生を楽しんでいる。封建社会というのは身分制とか
主従の関係とかなんかダークな時代を連想させるのですが、西洋人たちの目には
日本の人々は誰もが(遊女までもが)蔑まれることなく自由を謳歌していると
映ったようです。お上が絶対的な権力として君臨はしているものの。でも、この
お上を絶対視するのも現代に通じるような。江戸時代って意外と現代に通じる
自由と民主主義の気風にあふれていたんだなあと。私が>>24で気になってたのも
渡辺京二でした。

無精髭さん>>人は社会にいる以上社会を離れてその外側から論じる事は、厳密に言えば出来ません。
渡辺氏>>文化人類学的方法の要諦、ある文明の特質はそれを異文化として経験するものにしか見えてこない。

並べてみたら対偶命題になってるような気もしますが、あんまり関係なかったかも。
興味があれば『猥褻凶悪事件』
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/download.cgi/study/2776/1188554082/
の私とMayumiさんのやり取りを覗いてみて下さい。

63無精髭:2008/05/31(土) 20:58:58
>>60
紫煙狼様

本当は、明日と明後日をかけてじっくりと>>42-43>>49へのレスの文案を
練ろうかと思っておりましたが、そうも申してはいられないようでございます。

もしも紫煙狼様のお辛い過去を思い出させるような乱行を致したのであれば、
そのようになることを予め見抜けなかった小生に致しましては、
どうやって謝罪致したら良いのかも分からず、虚しく言葉を手繰るのみにございます。
お書き込みされる際にはどんなに冷静でいようとも、
その時の辛さや恨みを再び感じるように思い出さなければならない事でしょう。
たとえ紫煙狼様が、ご自身でまだこのスレッドに意義を感じた上でご投稿なされたのであっても、
やはり小生のこの度の不用意な発言が、紫煙狼様に上のような事態を招いた事は必至でございますので、
ここで深くお詫び申し上げます。この上更に、小生も紫煙狼様に許して戴こうなどと不遜な考えを持ってはおりませぬ故。

しかしながら、紫煙狼様のお気持ちに対して、安易に同情を致す事は自らに禁じさせて頂きとうございます。
一つは、小生にそれが厳密には出来ないであろうという理由からです。
もう一つは、同情する事とは果たして善なのかという疑問からです。
後者には二つの立場における場合が考えられる事でしょう。
一つ目は、同情する行為者の側にとっての善があるのかないのか。
二つ目は、同情される対象者の側にとっての善があるのかないのか。
善と言う言い方が堅苦しいのであれば、得や快とでも呼べば宜しいかと思われますけれども。

F氏はどうなのかは分かりませんが、と申しますより多分違うのでしょうけれども、
小生がそもそもF氏と議論する最大の動機がこれなのでございます。
ですから実を申しますと、小生が感情に拘るのは以前書きましたように、
社会参与の為であるとか犯罪被害を考える為であるとか言うような、
少なからずも世の中の為になるような思想なり態度なりを形成したいが為ではなく、
小生自身が感情と言うものを実感として良く掴めずにいるからでございます。
感情希薄と申すのでしょうが、自分自身にも何かの衝動としては感じられるのですが、
それが何に向けてなのか、どうしてそのような形を取るのかといった事が、
自分の中で起こっている事なのにも関わらず、今一良く分からないのでございます。
自分の感情が制御出来ないと言った病気ではない事は確かでしょうけれども。
小生にとっては、思索の上で自明だとして放っておけない問題なのでございます。

とは申しましても、感情とは何かと思索を巡らしても、自分にとって自身の心が
不明瞭であるのならば、その唯一の足掛りとなるものも途絶えた事になります。
小生が「感情」ではなく「同情」に重点を置くのは、正にこれが理由でございまして、
小生もかなり冷淡な人間ですが、印刷物や映像物などに出てくる人物に少しく、
時には心が揺り動かされるような程、感情移入なり同情なりを致しますので、
要するに他者との関係、広く言って世界との関係において、小生の感情は小生なりに
活き活きと感じられる事から、それを観察対象にする事で、心の実態を突き止める
足掛りに出来るのではないかと思った次第にございます。

・・・
自らの心が感情として作用し、他者のそれと合わさって同情となる。
外部で同情として認識された事で、自らの心は初めて確たる実感を得、
他者の感情という確かな指標を自らの方へ持ち帰る事で、
自らの心が世界でどのような意味を持つものなのかが認識される。
換言すれば、肉体の外部に係わりを持たない心など存在しているとは言えず、
その感情作用が対象を持たなければ、自己にとっては何の意味も感じられない。
・・・

64無精髭:2008/05/31(土) 21:00:19
以上、長長とお書き致しましたが、
小生が>>60の紫煙狼様に同情出来ないと言うのは、死刑制度の賛否と同じように、
何となくではありますが同情出来てしまう不思議さを、不謹慎だと感じて自らに強く禁じるからでございます。
不謹慎でなくとも、何か悪い事をしているような後ろめたさをぬぐえないのでございます。
これもまた不思議な事なのですが・・・。

小生の事情はともかく、紫煙狼様は許す事など必要が無いと存じ上げます。
無論>>61でKen氏が仰っている様な心境から加害者を許す遺族の方々もございますでしょう。
真実を知った上で判断して殺したい、というのが本心だとは思いますが。

紫煙狼様
小生はこれまでの人生において、貴殿のような怨恨の念を抱いた事はございません。
貴殿のようなきっかけが欠けているのか、能天気なのか、
ただ逃げてきただけなのか、小生には分かりませんがそれがなくとも、
おそらく小生も人を許した事などございません。
起伏の無い、人とも大して関わって来なかった半生にございますけれども、
憎いと思った人間を許した覚えなどございません。
ですが忘れてしまうのです。悲しい事に、憎いと思った人間・自分自身さえも
歳を取るごとに希薄になってくるのです。過去の記憶は薄れていきますし、
自分自身に対しては漠然とした存在感しか感じられない・・・
人の道に外れるのを覚悟して申し上げますが、小生は
貴殿が羨ましい。そのような強く激しい感情を持って、今も生きていらっしゃるのがとても。

・・・おそらく貴殿は、その怨嗟を成就する術を見失っていらっしゃるのではなく、
超倫理的に見て小生としてはそれを成就なさった方が宜しいのだと思いますが、
あえてそれをせず、その気持ちを自ら慰撫なさる術を見つけようとなさっているのではございませんか?
貴殿のレスを拝見致しますと、その半分は既に癒されているのかも知れませんが。
ですが残りは絶対に癒される事はございません。何となくですがその理由がわかる気が致しますが
あえて明言致しません。
しかし、それでこそ良いと存じ上げます。

所詮人の痛みの分からぬ畜生の戯言にございます。スルーなさって下さいませ。

65紫煙狼:2008/06/01(日) 11:28:51
>無精髭さん
何をどこから説明すればいいのか、私もあわてておりまして(^^;
とりあえず「無精髭さんがどう」って話では全然ないです。

>>60では、「許す必要性」「許すって何よ」「償うって何よ」について言及したつもりでした。
はたして「刑罰によって被害者の感情慰撫は可能なのか」という所を掘り下げて見たいのです。
と、いうのも、実際のところ、加害者に対して何らかの補償を求めたところで、「気持ち良く許す」
ことができる場合なんて限られていて、大半の場合では「許すことなんて…」と思いませんかしら?

子供の頃の喧嘩とかで、先生なり大人が介入してきて「はい、○○君は○○君に謝りました。
これでお仕舞い。いいね?」って無理やり「許すことを強要され」て不承不承引き下がった
経験ってありません?挙句に無理やり握手させられたり…あれ、大嫌いです(笑)
そんな簡単に感情にケリがつくものではないでしょう?

被害者が事件を乗り越えるって言うのは許す事ではなく、忸怩した思いを自覚している時間が
減っていく事を指すのではないでしょうか?結局、私の場合も「事あるごとに思い出す」程度で
普段はテレビを見て笑ったりしてて、特に支障は感じないし、確かに年々、そういう感情が希薄に
なってきていて「時が全てを解決する」ではないですが、思い出す機会も減ってきています。
相手が心底反省してワビを入れてきたなら、もっと早く気持ちが整理できていたかもしれないので、
加害者に反省を求める意見を全否定はしないけれど、私の信条は「反省しても許さない」です(笑)

もちろん、何らかの形で被害者側が「一定の条件を満たすこと」で犯罪者を許したいのであれば、
それは私も否定しないけれど、「許すための一定の条件」が事件とは関係ない第三者を悲しませる
ことに繋がるなら、いっそのこと「別に許さなくっても良いのではないか」と感じているのです。
そして、そのような考え方も「私自身に何か欠けているものがあるから成立するのだろうなぁ」
なんて漠然とした「自分が他の人とは何か違う」感があって、無精髭さんの「許した事などない」
という見解には「一人じゃない安心感」を感じました。そうですよね。許さないですよ(笑)

66無精髭:2008/06/01(日) 15:15:21
紫煙狼様へ

>>64にて「ウラヤマシイ」だなんて・・・。
他人の心が分からぬ自分に、他人の立場に立つ事などできましょうか?
もし貴殿の立場に、完全な意味で立てば、と言うより貴殿に生まれ変わってしまえば、
あんな軽はずみな言葉を吐く事も出来ないでしょう。こんな軽率な人間ですから、
自分でも気づかぬ内に、誰かに一生怨まれるような事を仕出かした可能性だって
考えられなくはございません。

小生、学校は嫌いでございました。楽しかった記憶もございますが、他人との関係
(特に暗黙の力関係)が今思えば上手く行ってなく、一々のきっかけも
疾うに忘れましたが、訳も分からずカッとなったり泣きたくなったり。
教師も小生の事を少々変わった奴だと思っていたようで、これも今思えば
教師全般に否定的にならざるを得ません。
まぁ昔から小生には、そもそも自覚と言うものが欠けておりますから、
人を憎むような過去にさえ、もしかすると自分にも非が、イヤイヤ、
自分にだけ非があるんじゃないかと、考え込んでしまう事もございます。

マア関係の無い話ですが、自覚に欠け能天気な小生にも、
自分の存在をやけに否定したくなる気分に陥る事がございますので、
そんな時は自分の思い通りに行かぬ子供が良く口にする(?)
「(親に向かって)私なんか産んでくれなくても良かったのに!」と言う常套句
にも似た感情を抱く事もございます。即ち、それを
「自分など生まれて来ても(誰・何にとって?)意味がなかったのぅ〜」と
変奏してしみじみと感じ致します。
小生は、この世に真理が存在するとは最早思っておりませぬが、
小生の存在から生じる、自分にとっての意味と
世界(他者も含まれます)にとっての意味は、実は異なるんじゃないかと
一人妄想致しております。マアこれを云うだけでは、小生のオリジナルな
問題とはなり得ませんけれども(そもそも小生だけに関わる問題などあるのか?)。

脱線致しましたが、小生は故意に凶悪な犯罪を犯す因子は無いと存じますけれども
(それすら自覚していないだけかもしれませぬが)、
詰まらぬ犯罪なら何かの拍子に犯してしまいそうな気も致します。
元々小生も紫煙狼様とは違った意味で、「人間に必要な何か」が欠けておるのでしょう。
残虐な事とか暴力とかを好みませんが(好んでいないつもり)、
自分の衝動に対して理性的でいられるかどうか心配な面もございます。
小生が思考に拘る理由はそれを抑える為、つまり、考えている間はそれに集中して
冷静でいられるからでもございます。その為には、四六時中考えられるような
問題が必要なのでございますが・・・。

>「許す必要性」「許すって何よ」「償うって何よ」
>「刑罰によって被害者の感情慰撫は可能なのか」
この問題は小生もこのスレッドで取り上げる議題として最重要かと存じ上げます。
小生は特に前者の抽象性について考えてみたいと思います。

勿論、犯罪を未然に防ぐと言う課題(治安等)も、別に論議されても宜しいかと存じ上げますが。
それには、このスレッドに参加して戴ける方がもう少しいらっしゃる事が肝要でございますね。

67F氏と髭の出会い③上:2008/06/02(月) 05:02:38
(唐突ですが、>>4の続きとして投稿させて戴きます。議論に水を差すつもりは更々ございませんので。出来ましたらスルーでお願い致します。一瞥もくれてやる必要はございません。)

某掲示板の光市母子殺害事件スレにて、聊か暴走気味の小生に対する批判が、
(前記にございます)小生が初めにレスを付けた相手から発せられました。
無論その小生のレスに対するレスでして、内容はと申しますと、

誰かの行動を理解するのに、その内面を理解する以外に方法はないだろう。
君(小生)にとって、その内面を理解できない以上、その行動を理解できないのは当然。
君のように長々と拘る必要は全くない問題。
相手の心情を想像できないとそれを放り投げて、行動に違和感を持ったなどというのは、
ただの馬鹿以外の何者でもない。君は相手の心情を理解しようとすべき。

とかなり原文に近いですが、このような感じの文でございました。
これを読んだ時は、相手が小生のレスの要点を読み逃しているなと感じたのと、
相手が小生のレスの趣旨をきちんと読み取れないのは意見の食い違い以前に、
他者理解に対する認識の違いに起因していると思ったものです。
今ではこの相手の言い分も尤もだと思いますし、それどころかその意見を小生の説に
対して有効な反論と信じ、こちらもそれを擁護するために補足的に展開する事も
出来ます。当分はF氏のご投稿を待つ間、この説を反論として小生の仮説と
衝き合わすよう、こちらの議論で利用させていただきます。

小生も暫くして上のレスに対して、以下のようにレスを付けました。

行動を理解するのにはその外側を理解して、つまり自分もその行動をとりうるか
どうかを想定して理解する方法がある。
言い換えれば、言語を理解するとはそういう事だろう。
違和感については、それをこの事件で第三者が持つ事が思いの外、重要ではないか
と主張する。
簡単に同情する事やそれによって安易に相手の立場に立つ事は果たして善い事なのか?
そしてそのようにして相手の内面を理解した気になるのは錯覚かも知れないではないか?

少し文章を整えましたが、こんなものです。
分かりにくい・意味の通らない箇所が幾つかございますが、以下
こちらで出来るだけその趣旨をご説明致します。

>行動を理解するのにはその外側を理解して、
これは相手のレスにある>行動を理解するのに(中略)内面を理解する
に聊か強引に対応付けた為、二重な言い回しに堕しております。
行動には、厳密には内側がありませんから、従って外側と言う事も厳密には不可能に
なります(もしかするとここにも当の相手との他者理解の考え方の違いがありそうです)。
行動を理解するにはただそれが何の行動かを知れば良く、特別その行動者の内面まで
探る必要はないと言いたいのです。他者に内面が存在するか否かと言う問題は
非常に難しい問題で、すぐに答えの出るようなものではないです。
しかしその問題とは無関係に、他者の内面に自己の内面を重ね合わせる方法、つまり
感情移入もしくはもっと正確に、他者の視点からものを見たり考えたりするような
意識転換(ある種の妄想)が出来るかも知れません。そうすれば、他者の内面を理解する
事は可能と言う事になり、その行動も理解できるのではないかと思われましょう。
ですがそれは私見ではやや論理に飛躍があると思います。
そもそも他者の視点からものを見ると言う事は、すべて自己意識の中で行われているのだ
と言う事実は見過ごせません。ですからそれを中断する事も出来ますし(つまり好きな
ときに自分の立場・意識に立ち返ることが出来る)他者の意識を念頭に置いて意識しても
自己の身体感覚に対する意識が残存しているからこそ、他者の見方考え方だけでなく
他者の身体を動かす意志さえも想定する事が出来ます(つまり他者の身体を自己の身体
を動かすのと同じように扱える事が無条件に認められている。※)
ですがそれはあくまでも自己の内面の中で他者の内面を仮想するに過ぎず、他者の内面の
完全な理解とは言い切れません。言わずもがな、他者の内面の実相を示す確証を見付ける
手立てがないからです。それを探す道程には先にも触れました、他者の内面は実在する
のかと言う難問が控えております。

(タイトルの通り、<F氏と髭の出会い③>の中か下に続きます。上記、実はmatatabi氏から>>10のレスがあった時にはすでに完成しておりました。レスがあった為に投稿が遅れたわけではないのですが、その後のスレの進行具合にちょっと気圧されたと申しますか何と申しますか・・・。それが無くとも続きが書きにくかったと言うのもございます。)

68>>67※:2008/06/02(月) 05:06:39

噛み砕いて言えば、人間には、
他者の身体はきっと自分の身体と同じように動くだろうと言う信念、思い込みが
確固としてある、と思われる。
自己の身体のあり方は、他者のそれとは全く異なり、単一・特殊なあり方をして
いる。他者同士の身体の区別の仕方を以って、自己の身体を区別する事は出来るが
それ以前に、自己の身体はそのあり方の唯一性によって、他者の身体のあり方から
隔絶して存在する。私達は他者達の身体の区別の立て方、つまり身体一般に対する
見方によって、自己の身体からその唯一性を剥ぎ取る事で、他者達の身体と
並列する事が出来る。

お気づきの事かと存じ上げますが、
小生はあえて意識と立場に同一の意味を持たせております。
これも小生の考えの要(別段独自性もないですが)となるものなので、
ご批判を仰ぐ為にあえて弱点を晒して置きます。
小生の仮説・主張がおかしいと思われましたら、
ここに的を絞って徹底的に叩けば宜しいかと思われます。
勿論、これだけが小生の論議の要とは参りませんが。

(これも>>67と同様、以前から用意して置いたのをコピ&ぺしたものでございます。)

69無精髭:2008/06/02(月) 05:16:09
>>61
>本村氏はそうではなくて一貫して正面から真摯に自分が巻き込まれた犯罪に付き合って
>きましたよね。立派なことですけどそういう気持ちをずっと持続させるのは大変
>なんだろうなあと。しんどい生き方だなあとおもいます。

左様でございますね。・・・ですがもしそれが紫煙狼氏が>>49で仮説として提出されている

>それは彼自身がこの怒り恨みを生きる支えにしていて、
>どんなに単調な日々が流れようとそれを忘れないために、自分自身に理由付けして言い聞かせている。
>悔しいかな時間に癒されてしまう自分の心。妻も子もいない生活に慣れていってしまう自分の心。
>しかし、それでは故人が浮かばれない。それ故に怒りや恨みに強固な理由付けをして、臥薪嘗胆を
>実践している一人の男。

という、謂わば自己との葛藤において成されているのであれば、私たち第三者(と言うより部外者)
の見方も自然と異なって来ざるを得ない事でございましょう。
(小生がこのスレッドのテーマとして提出致しました「犯罪に対する態度(=本村氏の言動)を
どう考えればよいのか」という問題は、正にこの地点から始まるものと小生には思われます)
犯罪被害に対する態度につきましては、本村氏のような態度とは別に、
引用ばかりで恐縮でございますが、Ken様が以下のように考察されている、

>被害者や遺族が裁判を
>傍聴するのは、加害者の言葉で、なぜ、どうして自分や愛する人が犯罪に遭わなければ
>ならなかったのか、説明して欲しているからではないかな。

即ち加害者側の真実(殺人の場合は被害者側の真実は明らかにされない)を知りたいといった、
ある種の貪欲さを以って、人間の内面にまで世界事象の成立原理を見出そうとするかのような態度も
当然あり得えますし、曖昧ですが、本村氏のと同等かそれ以上の正当性(辛苦)があるように感じられます。
ですから正義と言うものが絶対でなく、(主観からすれば)災禍は偶然に起きてしまう世の中の不条理に
耐え切れずに、止む無く「区切りとして死刑を求める」のかも知れません。

かなり大げさに「人間の内面にまで世界事象の成立原理を見出そうとする」云々と申しましたけれども、
仮に(少年に限らずに)加害者のプライバシー(人権?)が守られず、被害者側の望むがままに
加害者側の情報を引き出す事が可能だとしても、加害者の心理や犯行動機、つまり真実を構成する一部が
被害者側に理解できない可能性はございます(この場合の「理解」という言葉は難しいのですが)。
被害者側が知りたいのは、「何故(他の者ではなく)自分(達だけ)がこのような目に遭わなければ
ならなかったのか」という問いへの答えとしての真実でございましょう。ですから、その問いはまず、
裁判のように事件の責任を問う形としてではなく、その因果を探る為のものになるでしょう。
(ここで云う因果とは加害と被害の事実関係だけの意ではなく、
第三者や社会をも巻き込んだ世界での必然的な関係の意。)

70無精髭:2008/06/02(月) 05:17:32
真実を構成する(知る)手段として、加害者側の事件解釈と被害者側の事件解釈を想定できますが、
殺人の場合、被害者側はもう死んでいますから事件解釈の真実性は、厳密に言うと全くございません
(生存している場合でも、被害者当人の意識の状態によって真実性は失われます)。否、そういった
被害主観体に限定すれば、事件解釈すら存在しておりません。例えば、ある二人の人間が同じ人間から
同一の場所・時間に同じ方法で被害を受け、一方は死んでしまい、他方は生き残ったとしても、
後者が前者の立場に立つ事は適いません。後者の立場による事件解釈の真実性は、前者が対したであろう
事件解釈の真実性をも包含し得るでしょうか? 被害実態が二人の人物にとって同一の内容であると
証明されるのは、厳密な意味でいかなる方法によるのでしょうか?
(僭越ながら皆様に注意を促しておきたいのですが、小生にとってこの問題はとても重要です。
別の機会を作って考えてみたいと思います。情けない事に今は難しくてよく分からないので。)

問題性の粗描だけでも述べますと、(生き残った)被害者側の事件解釈が加害者側の事件解釈と一致した場合、
その事件の事実関係は証明されたと言っていいかもしれません(何らかの秘密を双方が、別々の意思で
共有・隠匿している可能性もございますが)。けれども被害者側が死んでいる場合、加害者側の事件解釈のみ
で事件の実態を再構成するのは事実誤認・認識不足や歪曲・作為・隠蔽を免れませぬ。
これは生き残った被害者が死んだ被害者の被害実態を己のものと混同する事で(厳密に言えばそれらは
異なります。なぜなら極言すれば、被害者側の間でも被害実態が生と死に分かれているから。)、
回避できるかと思われますが、その二つの被害実態が同じものであると証明する為には、生きている側の
証言(解釈)だけでは足りません。言うまでも無く、その事件の被害事実を証明するには被害者側の証言
だけでは証拠不十分なので不可能です。それには加害者側も被害事実を供述(証言)する必要があります。
逆もまた然りで、それらが利害関係において符合した時に初めて、それぞれが事実として成立するのです。
ですから互いに相手の存在証明の役を担いながら、相手によって存在を保障されているわけでございます。
(何故被害者側や加害者側が、自らの側の利害実態の真実性(利害事実)を証明できないのかと言うと、
上でも申しましたが、(被害と加害と言う本質的関係は既に決まっているので動かせませんが)
自らの利害実態の真実性を自らの利害解釈で説明する事には、それを他人に完全に信じさせる要素が欠けている
からでございます。加害者側は犯罪によって得た(架空)利得を出来るだけ減らさないように努めますし、
被害者側は犯罪によって損じた現実の利得を不当に取り戻そうとする傾向にありますから。)

ここで困った事には、生き残った者の被害実態に混同された死んだ者の(未知なる)被害実態の真実性は、
加害者側がその被害実態を証言する事の他に、死んだ被害者本人によって加害実態が証言されなければ、
全く証明不可能な事になるのです。生き残った方の被害者がどんなに死んだ被害者との犯罪体験の一致を
被害−加害(利害)現場での自分と死体の関係によって、同位置・同時間の事実や同一の犯罪被害の実態を
証明しようとしても、彼等が被害者側の人間である限り、(たとえ死体が生き返ったとしても)証明できるのは
事件解釈による加害事実だけなのです。つまり被害者側の複数人は利害関係を同じくしている都合上、
加害者側の解釈抜きによるお互い同士の事件解釈では、相手(仲間?)の被害事実を証明する事が出来ないのです。
繰り返しになりますが、被害者側も加害者側も事件当時における自らの行為を、自らの立場から説明する事自体には、
何の真実性も無いのでございます(信憑性と言わず、あえて真実性と言うのは正確な意味で事を捉えるが為です)。

・・・続く・・・かどうかは分かりません。

71無精髭:2008/06/02(月) 05:22:47
>>69-70の内容に沿って、小生の申し上げたい事を以下に纏めました。↑を読み下すのが面倒臭いのでしたら、↓をだけ読めば宜しいかと存じ上げます。いずれに致しましてもスルー必須の寝言の類にございます。

被害者側が求める真実

犯罪者の悪の度合い、社会から見たその必然性・正当性というより、被害者側から見たそれら。
それが乗った天秤のもう一方の端にある被害者の命、加害者側の真実に照らされたその重さ。

被害者がもしかしたら悪かったのかもしれない。
悪かったと言うのは、他者に対するそれ。自分に対するそれ。
二つの次元が存する。
被害者は殺されたのに、そうなる前に過失があったとしたら、
その点では悪いと言う事になるらしい。(過失とは何か? 誰に対して何に対して悪いのか?)
即ち自己責任が問われる事になる。死んだ人間に対してするのも、可笑しな事だが。
自分に対して悪い、と言う事は馬鹿げている。
もちろん、被害者側の人間に対して言うのも同様に。

真実を知っても何も変わらない事があり得る。
加害者が、一点の曇りも無く自覚された動機、犯行の細部・一部始終、被害者の最期、等々等、
事件(犯行)の真相の全てと思われる事を話したとしても、
被害者側が加害者を憎悪し(更に増し)、その死を求める事はあり得る。
しかし真実を知った為に、それまで保留にしていた態度から翻って、
その死を求め始める被害者側もあり得る。

被害者側にとって真実とは何か
被害者側にとって被害者が殺されたと言う真実以上に、どんな真実があるのだろうか
被害者側が真実を求めるとは、何かの間違いであってほしい、という祈りなのか
被害者側にとって被害者が殺されたと言う真実とは、
真実として受け止められぬほどに大きなものなのか

彼等はこの世の地獄とも言うべき真実を目にしたのではなく、
心身の全てで生きてしまったのだと思います。
このような「真実」を、言葉を使って掴むのは不可能でしょう。
別に言葉が無力だと申したい訳ではなく、
そのような真実を知らない者にはどうやっても確かめようが無い、と言う事です。
ですから、被害者側が「真実」と言っていても、私達の、
こちら側の考える「真実」とは全く異なる可能性がございます。

その「真実」の次元の違いに思いを馳せて、
「真実」そのものに触れられないのだと分かっても、
その次元の違いを言葉で掴む事は出来るかもしれませんけれども。

72無精髭:2008/06/03(火) 19:50:49
>>62
Ken様
ご提示のソースくぐりました。

渡辺京二と小生を並べていらっしゃいますが、対偶などと難しい言葉を使わずとも、文化を内外から
見渡す視点などに小生が縁を持たない事は、その一文からでも明白にございますよ。

無精髭さん>>人は社会にいる以上社会を離れてその外側から論じる事は、厳密に言えば出来ません。

「人は社会にいる以上社会を離れてその外側から論じる事」という部分は字義通りに解釈なされば、
すぐに矛盾に気が付かれるはずです。
「人は社会にいる以上」と言い切っている以上、その当の「社会を離れて」しまう事はできません。
なぜならば、その当の「人は社会にいる」のだから。厳密に言えばこうなります。
しかしながら、上のように現に社会にいる私たちは、なぜか自分たちのいる「社会」の外と言う
観念を持つ事が出来ます。これは実に不思議な事でございます。
社会として名当てられたものが、眼前にあるからこそそれを自分のいる社会と呼べるのでしょうか。
もし呼べるのだとすれば、眼前に無い一切が目の前の社会の外部となるでしょう。
と、こう簡単にも断言できなく、とても難しいです。
まあ、ただ単に内外という観念を「社会」概念に付け加えただけとも言えるのですが。

いきなり引用で恐縮ですが、どうやら学問の世界には「現象学的社会学」などというものがございますようで。
「現象学的アプローチの主要なテーマのひとつは個人と社会の相互内在化である。社会学において、社会を個人の集まりとして考察するか、逆に社会こそ実在であって個人を

規定するものと考えるかという問題は長い歴史を持つ。現象学的アプローチを持つ社会学がその問題に与えたひとつの解答は、個人の意識の内部に深く内在化された社会性と

、そうした個人がつくりあげている社会という考え方である。(中略)われわれが社会学的考察のなかに意識することなく持ち込んでしまっている社会的世界に生きる日常生

活者としての常識に反省を加え、そうした知識を明らかにしようとする。そして同時に社会学的考察が日常生活者の知識の上にのみ成り立つことを示し、社会科学的な認識の

性質についての社会学者の素朴な科学主義的思い込みについて、反省を促す。この立場からは、認識において、主体と客体を峻別する方法は批判を加えられ、社会成員として

われわれが持っている「共同主観性」「間主観性」こそ、社会学的考察の成立根拠であり、同時に社会学的考察の対象となる。」(『現代思想を読む事典』講談社現代新書)
以上、大変に長いですけれども、どうやらこちらの方が小生の考えには近い気が致します。
かなりマイナーな学問らしく、体系理論として確立されているわけでもなく、
どちらかと言うと、現象学徒個人によって手法化された社会理論と言った体のものらしいです。
勿論、小生の考えが深まるとこのようになる、というわけではございません。
一応参考までに挙げておきました。

73無精髭:2008/06/03(火) 19:51:37
渡辺氏>>文化人類学的方法の要諦、ある文明の特質はそれを異文化として経験するものにしか見えてこない。

例えば日本(ある文明)を外国人(異文化人)が経験する(日本に居る)とその特質が見えてくる、
と言う事ですね。
特質と言うのが、つまり日本に居てその文化を当然のように受容している人間には見えて来ないもの、
捻って言えば、そのような人間がその文化をどんなに客観視しても取りこぼしてしまうものが存在する、
そう言ったものの事をこの文章は指している訳でございますね。

文化人類学はそもそも植民地時代に生まれた学問であると聞きました。(所謂、進化主義に於ける自文化中心主義(エスノセントリズム))
植民地主義的支配を肯定する為に作られた学問であると言うレッテルが、
文化相対主義などの学問的反省もありながら、未だに根強く刻印されているとも聞きます。
参与観察等のフィールドワークが手法として取り入れられたのも、文化を外部の視点から見る事が
如何に支配的な態度であるかを自省した上で、それを避ける為の試みであったと言う事です。
つまり、ある文化を見ると言う行為の内に、すでに自分にとって都合のよい解釈の紛れ込む危険性が存するのでしょう。
自分にとってとは、自国にとって・その者が(自分の)文化とする当のものにとって、でありましょう。
支配するとは、自分の考える文化が本当の文化であり、それを理由になされる侵略及び同一化行為の意を言うのでしょう。
文化の同一化と申しましても、それによる変化の基体となって他の文化を取り込むのでしょうから、「中心と周縁」という概念を
使わせて戴けるのなら、前者が正にそうでございましょう。
言うまでも無く、大航海時代に於ける西洋諸国はキリスト教の布教活動を啓蒙と称す事で自己肯定しながら、
ヨーロッパ外を暴力で我が物としました。
その当時の西洋人はキリスト教圏からどんなに遠く離れようが、広がり続ける世界像の中心に自らの国を据えていたに
違いありません。
ですから、渡辺京二が言う異文化人は江戸をまっさらな気持ちから見ていたわけではなく、自国との比較と称して
自ら強めた偏見による見方をしていたのだと思います。それはストレートな支配欲求とは言い得ませんけれども、
そもそも特質として見えてくると言うことは、言い換えればものを公平に見ていない(自らの文化基準で判断している)
からでございましょう。
極論を申しますと、自文化に翻訳された(つまり自文化に対して考える方法と同じ方法で他文化を考える)
他文化を見ることで再度自文化を再認識する形を取っており、その反省的態度は自国に無いものを見出す事の驚きを含んでいるので
実に好ましいものですが、自国の文化との比較に於いて他国を見る事による本質上の発見が、どうして新たに見出された他国のものであり
比較において再認識された自国のものでないと断言出来るのでしょうか。
はたまた、ある文化及びその解釈に、外部的にまるまると保存された文化が、それ以前のままの無傷な状態であると断言できるでしょうか。
小生が考えていた疑問はこんなものでございます。全く以って突拍子もございませんね。

後、関係無いのですけど気になりましたのが、果たして江戸時代の西洋の使節が、江戸文化の表象をしか見ていなかったのではないかと言う事や、
当時の江戸を中心とした文化しか見ていなかったのではないかと言う事や、農村等の文化の周縁を見ていたのかと言う事です。
(時代は違いますが、イザベラ・バードは見ていますね)

まっ、上記のような事はサイードが既にポストコロニアリズムでは常識でしょうが。
サイードと渡辺京二って似ているようで、文化人類学的手法の是非については立場が正反対のような気がするのですけれども・・・
・・・きっと小生の勘違いでございましょう。
ところで、渡辺京二は小谷野敦に批判されているようで。ですが、その批判の正当性の是非は兎も角も、あの小谷野ですから…。
江戸幻想批判は別にしても、日本人は自国の文化を知らな過ぎるという批判は尤もですが、
江戸文化を自国の文化として、抵抗無く且つ無批判に受容できるという先入主が、その批判の暗黙の前提となっているのだとしたら、ヤバイです。
Ken様からすれば、正に井の中の蛙という事になるのでしょうな。

Ken様には、小っ恥かしいですが、本当に感謝致しております。
魯鈍な小生なぞのお相手をして頂きまして、誠にありがとうございました。

74無精髭:2008/06/03(火) 20:25:32
訂正でございます。
>>73
×>まっ、上記のような事はサイードが既にポストコロニアリズムでは常識でしょうが。
○>まっ、上記のような事は(サイードが既に指摘しているであろう事で、)ポストコロニアリズムでは常識でしょうが。

まっ、どうでも宜しい事なんですけど。

因みに、>>31-32で社会契約について触れられていますけど、
小生の考えは人民の主体的合意による契約と言うルソーの考えより、
自然権の(主権者への)相互譲渡による契約の事が念頭にあり、正にホッブスのそれです。
Ken様はルソー的な意味でおっしゃっていたのでございましょうが、
既に社会があることが前提になってこそ、個人間の殺人抑止の為の約束が成り立つのだと思います。
それでもmatatabi氏の仰る生存権を相互で認めると言う事は、これ以上の意味を持っているような気が致します。
「俺はお前の命をとらない代わりに、お前は俺の命をとるな」
自分が他人の命をとらないという意思表示が契約を生む契機となっています。
「俺がお前の命をとるのなら、お前は俺の命をとってもよい」
自分が他人の命をとるというのは意思表示ではなく行為ですね。もし他人に命をとる意思表示をして
それが他人に伝わってしまえば、それは契約ではなく自然権をお互いに認め合う事になり、
ひいては戦争を引き起こす事になるでしょう。ここまではKen様の仰る通りです。
ですがmatatabi氏の考えにはおそらくまだ続きがあって、その戦争状態を引き起こすと言う虞を
個人間で共有した時に、それを避ける考えが当然生まれますが、自然権つまり
生存権とは社会成立以前・社会外では、私は死にたくないと言う意図によって生じるのでなく、
己以外の者を殺す事で生じるのです。なぜなら、そこに個人というものが存在するとは仮定されておらず、
また個人間も必然的に存在しませんから。契約もそこに生じようが無いのでございます。
死刑を認めない=生存権を認めないとは、畢竟お互いに「死にたくない」事を確認しあう唯一の術を放棄し、
「相手は死にたくない」と「自分は死にたくない」を結合を本来の状態に戻す事を指しているのではないでしょうか。
(それでも小生には難しすぎて良く分かりませんけど。そう言えば、Ken様の「お前の命をとるのなら、云々」も
初見の時はイマイチ理解できませんでした。御免なさいです)
matatabi市の考えを手前勝手に要約致しますと、
「自らの命を担保として国家権力に差し出せ」「そうしなかったらお前は俺を殺すだろう」
「なぜなら俺は生存権を既に国家に受け渡しているので、自らを守る為にそれを行使できないのだから」
といった感じでしょうか。小生にはこう理解するしかありません。

申し訳ございません。もうお忘れになっていた事と思いますが、ずっと頭の隅に引っかかっていたので。
この機会に書かせて頂きました。ご了承下さい。

75無精髭:2008/06/03(火) 20:36:53
連投申し訳ございません。(と申しますより、連日、小生の連投と言った形になっているのですけど)

以下、訂正です。
>死刑を認めない=生存権を認めないとは、畢竟お互いに「死にたくない」事を確認しあう唯一の術を放棄し、
>「相手は死にたくない」と「自分は死にたくない」を結合を本来の状態に戻す事を指しているのではないでしょうか。
「を結合を」の箇所を「の結合を」に直してお読み下さいませ。
本当にどうでも宜しいのですけど。

あと、小生のへんちきりんな書き込みなどに無理にレス致す必要もございませんので、
何かお考えがありましたら、どうぞご自由にお書き込み下さいませ。
無限回廊の皆様には、本当にお世話になりますです、ハイ。

76Ken:2008/06/03(火) 22:03:23
渡辺氏はもちろん、サイードの言うところのオリエンタリズムにも注意を払って
いますよ。『猥褻凶悪事件』で私が引用したとおり、渡辺氏の態度は、そのような
偏見にもかかわらず、西洋人たちが自分たちの文化に特有のコードを用いて当時の
社会を読み解いた、当時の社会の何かを証言しているという事実には変わりがない、
というものです。

オリエンタリズムというのは東洋という他者に関する記述ではなくて、東洋とは
何であるべきか、何であってほしいのかという、西洋人の自意識である、つまり
主体と客体の関係は実は逆転しているのだ、ということを指摘したのがサイードの
手柄ですよね(←実はこれ上野千鶴子の受け売り)。それで、我々も「西洋人」
などと一くくりにしがちなのですが、渡辺氏の本では実にさまざまな国の人々が
証言している。イギリス人、オランダ人、アメリカ人、ロシア人、プロシャ人などなど。
それで人によって微妙に証言内容が違うのです。日本は豊かな国と見るのか貧しい
国と見るのか、日本人は信心深い、という人もあればそうではない、という人も
いる。こういう違いはおそらく彼らのバックグラウンド、出身社会に由来しているので
あって、彼らが日本を見つめる視線を通して当時の西洋の社会の様子とその違いを
窺えるのが興味深いです。

たとえば、私が米国に来て米国とはこんな社会だ、と記述するときに私は自分の
中で培われた日本の社会に由来する視点を用いるわけです。つまり、他者の観察を
通して、他者を測っている自分の物差し、それは自分の所属する社会に由良している
のですが、それにも気付くわけです。無精髭さんは自分が所属する社会は、所属している
という事実によって不可知になる、と主張しますが、私は異文化との交流を通して
自分の社会は知ることは可能だと思います。

ちなみに、渡辺氏の著作には農村の風景もイザベラ・バードも出てきますよ。

77Ken:2008/06/03(火) 22:30:06
無精髭さんとFさんのやりとりは無精髭さんの方に分があるんじゃないかなあ。
本村氏の感情が理解できないからその行動が理解できないのだ、というのは乱暴な
議論ですよね。本当の意味で彼が何を考えているのか理解することなど不可能でしょう。

私が一般大衆は被害者に共感・感情移入する、と言ったときにはそんなだいそれた
ことを考えていたのではなくて、どちらかといえば加害者よりも被害者に、とか
「家族を失うのは大変つらいだろうなあ」などといったレベルでのことです。

67>>他者の見方考え方だけでなく他者の身体を動かす意志さえも想定する事が出来ます
68>>他者の身体はきっと自分の身体と同じように動くだろうと言う信念、思い込みが確固としてある、と思われる。

これは無精髭さんが興味がないといったTheory of Mind(TOM)とほぼ同じ内容ですね。
特に「他者の見方考え方(を)想定する事ができます」の部分。それで、TOMや
ミラー・ニューロンはヒトでは前頭前野下部に存在していると言われていますが、
同じ部位が同族殺しに対する禁忌を司っているようだ、という研究が最近出ました。
人を殺してはならない、という倫理観は先天的にヒトの脳に備わっているじゃ
ないか、ということですね。だから、「他人を殺さない」というのは必ずしも
何かの契約や理性の働きの結果として大上段に議論する必要もないんじゃないかな、
と思ってます。別に理性のない動物もむやみやたらと殺し合っているわけじゃない
ですからね。ボノボ(ピグミー・チンパンジー)とか。ちなみにゾウにもTOMは
あるんじゃないかと言われてます。

78flower:2008/06/03(火) 22:52:28
横からすみません。
>>77
> 人を殺してはならない、という倫理観は先天的にヒトの脳に備わっているじゃ
> ないか、ということですね。
>
そうなんですか?そうするとイラクでイラク人を上官の命令で殺している
アメリカ人の脳のなにかを説明する必要が出てきませんか?
彼らはなんでイラク人を殺せるんですか?
最終的に殺人に至ったそのメカニズムを解明しようとした研究には、
フォリ・ア・ドゥとか服従実験とかあったりして、
自分にはそれらの学説がしっくりきています。

79Ken:2008/06/04(水) 01:01:23
>>彼らはなんでイラク人を殺せるんですか?

唐突にイラク戦争を持ち出す必要性はまったく感じられませんが、戦場で兵士が
敵兵を殺害できるのは
・自分の命をまもるため
・仲間の命を守るため
・自分は兵士であり上官の命令には従うものだという職業意識
・それが故国の独立を守るという使命感
といったところじゃないですかね。別に日本でも合法的な人殺しである死刑は
国民に圧倒的に支持されてますし、実際に刑務所でその人殺しを執り行っている
人たちがいるわけですが、それが社会にとっていいことだからとか、それが自分の
仕事だから、といった理由で人殺しを許容できてるんじゃないでしょうかね。

この研究は前野腹内側部の損傷患者を対象にしているのですが、別にこれらの
患者が殺人者だとかいうわけではなくて、ただ単に質問に対して人殺しを厭わない
冷徹な判断を下す割合が健常者に比べて高くなるというだけです。

同族殺しに対する先天的な禁忌というのは何も絶対唯一のものではなく、それとは
別に人は文化や経験を通して人を殺すのはよくないことだということを学びますし、
その一方で多数のために一人を犠牲にするといった損得勘定をすることもできるわけで、
そういうことをわざわざ書かなかったのは悪かったですが、あまり驚くようなことでは
ないと思いますが。

80Ken:2008/06/04(水) 01:04:03
誤:前野腹内側部
正:前頭前野腹内側部(ventromedial prefrontal cortex)

81flower:2008/06/04(水) 01:48:55
別に例として挙げるのは日中戦争でも太平洋戦争でもよかったのですが、
医学・心理学の学説を例示したいと思ったので書き込みました。

82無精髭:2008/06/04(水) 08:25:20
>>76-77>>79-80
Ken様

>>78>>81
flower様

お書き込みの程、誠に感謝いたします。

>無精髭さんは自分が所属する社会は、所属している
>という事実によって不可知になる、と主張しますが、私は異文化との交流を通して
>自分の社会は知ることは可能だと思います。

上記のKen様のお考えには正直申し上げて、舌を巻きました。
良くぞそこまで要約なされたものです。皮肉ではございません。
何だか、Ken様の仰っている事の方が正しい様に思えて来ました・・・。
所詮小生には多文化経験は愚か、国外旅行すらした事がないので
(元々旅行嫌い、出不精でもあるのですが)、
小生の経験則にはそもそもそういった観点が生まれてくる余地が
無いのかも知れません。こればかりは致し方ございません。

>無精髭さんとFさんのやりとりは無精髭さんの方に分があるんじゃないかなあ。

大変申し訳ございません。小生の説明不足により、
ある意味、Ken様を期待させてしまったのかも知れません。
F氏と小生の議論は、どちらの主張が正しいかを巡るものではないのです。
何と申し上げたら宜しいのか・・・。
もしF氏が議論の勝敗に拘るような御仁なら、雑談スレでわざわざ小生にレスをお付けなさる事も
無いと思われますし、尚更ご病態を押してまで議論をする事に何かしら価値がございますでしょうか?
Ken様がこの無限回廊にご参加される理由は過去ログを拝見いたしておりますので、
既に承知いたしております。小生はそのお考えを正しいものだと存じ上げます。
「誰にでも(議論の上では)一線を譲れないものがある」でございましたっけ?
小生はどちらかと申しますと、自分だけの利益の為に議論を致しておりますので、
勝っても負けても何らかの利益を得られるよう、上手く立ち回るつもりなんですw
ですが、そんな議論の姑息な手段が相手の損失にならないように、
できるだけ相手を傷付けない様にする事は忘れないように致したく存じ上げている所にございます。

flower様
>>81のお考えはナイス・アイディアにございます。
その方面でも続けてお書き込み下されば幸いにございます。
色々とご教示下さいませ。

83無精髭:2008/06/04(水) 20:04:14
Ken様への追加レスにございます。

>>77
>無精髭さんとFさんのやりとりは無精髭さんの方に分があるんじゃないかなあ。
>本村氏の感情が理解できないからその行動が理解できないのだ、というのは乱暴な
>議論ですよね。本当の意味で彼が何を考えているのか理解することなど不可能でしょう。

>>82の小生のレスは、朝の出勤前にございましたので、上記のKen様のレスを斜め読みした程度の認識の上でレスを致しました。
よって、そこでのF氏の為の弁明には多少言葉が足らなかったのかも知れません。
しかしながら、Ken様が>>67-68をお読みになって下さっていたのには、小生と致しましては、
ただただ歓喜の坩堝にございます。本心を申し上げますと、「アンナ抽象観念の塊など犬でも喰わぬワ」
などと思われているのではないか、自分でも少々自嘲気味にそう感じてもおりました。

ですけれども、Ken様は危うい所で勘違いをなさっているご様子。
>>67にございます、

>某掲示板の光市母子殺害事件スレにて、聊か暴走気味の小生に対する批判が、
>(前記にございます)小生が初めにレスを付けた相手から発せられました。

この部分で言われている、小生に素っ頓狂な(?)因縁を吹っかけて来ました者は、
F氏ではございません。その人物につきましては、>>3の初めの方で

>ある人物が
>本村氏の苦悩は分かるが何故あそこまで執拗に死刑を求めるのかが
>分からない、といった事に対して他の人物が、本村氏が死刑を求めるのが分からないのは、
>彼の苦悩をお前が分かっていないからだ、といった事に、更に小生が
>最初の人物の発言を擁護する形でレスを付けた事に始まります。

とございますが、書き込みの順番として2番目に書き込んだ人物がおりますね。
「本村氏が死刑を求めるのが分からないのは、彼の苦悩をお前が分かっていないからだ」と言った
「他の人物」の事を指しております。それに小生がレスを長めに付けたのと、しかもその内容が
揚げ足取り気味だったせいもあってか、おそらくはちょっとカチンと来たのでしょう、
>>67で言われているように書き込んで来たのでした。

>小生が初めにレスを付けた相手から発せられました。

とあります通りにございます。
この時、F氏は病床に臥せっていらっしゃったろうとお察し致します。
因みに、上で申し述べました小生のレスに、後からF氏がレスをお付けになりました。
その時のF氏の考えは>>4に小生が要約しておりますので、ご参照戴ければ幸いでございます。
その時もF氏は激務による過労の為か、風邪をこじらせた挙句、肺炎になりかけたとの事でしたので、
レスをお付けになるのも一苦労だったようにございます。
いずれに致しましても、>>4だけを以ってF氏のお考えの全てであるとは決め付けるのは早計にございます。
勿論、Ken様がそうだと申しておるわけではございませんよ。
実のところ、小生が投稿致したF氏との経緯についての書き込みでは、
まだF氏との直接議論に言及した段階にまで達しておりません。
しかもその時は、死刑制度や犯罪についてもあえて触れず、同情論の入り口に差し掛かった辺りで、
F氏のご都合で時間切れとなりましたから、小生もF氏のお考えの全貌を把握しておるわけでは
ないのです。プライベートな部分に支障がない部分をお知らせ致しますと、
F氏は、少年法にお詳しく、刑法39条反対論者であり、精神疾患について何か特別なお考えがあり、
正当なる死刑制賛成論者でございます。雑談スレで、松本サリン事件の被害者である河野氏と会見した
とございますよね? 
後、蛇足かも分かりませんけれども、F氏は「無限回廊」BBSではご常連でございますし、
5年前からお書き込みをなされているとの事ですから、申すまでも無く最古参の部類に入ります。

・・・こんな事を書いてしまっては、ご復帰の際に、余計なプレッシャーをF氏に与えるだろう事は
必至かと存じますけど、ご容赦下され(ペコリ)。

84無精髭:2008/06/04(水) 20:54:00
Ken様へのレスの追加の追加にございます。お許しください。

と申しましても短いのですが、

>本当の意味で彼が何を考えているのか理解することなど不可能でしょう。
もしこの文に「本当の意味で」が欠けていましたら、小生はKen様のご意見など、
正直申して、取るに足らんと一蹴致しておった所でございます。
実にこの部分が肝要なのです。なのですけれども、

>私が一般大衆は被害者に共感・感情移入する、と言ったときにはそんなだいそれた
>ことを考えていたのではなくて、どちらかといえば加害者よりも被害者に、とか
>「家族を失うのは大変つらいだろうなあ」などといったレベルでのことです。

と続く以上の文章がございましたので、ちょっと拍子抜け致しました。
はっきり申し上げますと、あのKen様が・・・? という風な感じを受けました。
ですがこの点が正にF氏の意見と重なる部分なのでございます(反論をまだ聞いていないので推測ですけど)。
小生が同情の正確な手続き上の不合理性と申しますか、同情過程の矛盾点を挙げました所に、
小生の仮定する様な、自他の心の一致と言う完全な意味での同情などあり得ない、とF氏が異議を挟んだのでした。
その続きはこの無限回廊でやりたいのですけれども、小生と致しましては、
F氏の反論が果たしてどんなものなのか、楽しみで楽しみで仕方ないのです。

小生は心の問題では、ある意味経験論者でもございますから、
経験上心が感じた事もない感情があるのではないか? つまり他人が当たり前のように感じている
感情を、自分が一切感じたことが無いという事はあり得るのではないか。
と言う様な疑問を逞しゅうしております。
ですので、犯罪被害についても同様の事が言えるわけでございまして、
犯罪被害に遭った事もない人間が、どうして犯罪被害者の気持ちを分かってあげる事などできるのか?
と思うわけでございます。その人たちへの同情・共感が何となく出来てしまうのは言わずもがな、
小生も100%認めますけれどもね。

そこで良く使われるのが、相互性(利害)の原理でございます。
「お前の(愛する人としての)家族・友人が殺されたらお前も辛いだろう」とか言うあれです。
小生はこれはどうしても詭弁、としか受け取れないのでございます。
こう申すと、小生は即刻人非人と烙印を押されるか、村八分に処される事でしょう。
ですが、これは小生にとって本当に不思議で不思議で堪らなく、良く分からない事なのですね。

例えば、「お前に愛する家族はいるか」と問われたとき、「家族はいるけど、愛するって意味分かってんの?」
とか、「俺の家族への愛が、お前の家族への愛と同じだって事がありうるのか?」と答えたくなります(笑)。
或いは、「家族と言うものを概念でだけ捉えるのは止めてくれ、俺が家族と言う場合、
おそらく君が家族と言う場合も、「家族」という言葉から真っ先にイメージするのは、
自分たちの家族の事だろう? 俺が家族を連想する場合は、自然に俺の<この>家族の
イメージから手掛りを得、そして学んだものがその言葉の使用の基底となっている」
などと、屁理屈ここに極まれりでございますよね?(大笑)

べつにKen様を小馬鹿に致しておるわけではございません。
Ken様は小生よりも遥かに、そして確かに怜悧な頭脳をお持ち遊ばされていらっしゃる様で。
小生「ウラヤマシイ」のですが。
・・・もしかすると、上記のようなしちめんど臭い事を言わずとも、
Ken様が妻子持ちでいらっしゃり、ご家庭を守っていらっしゃる事と、
小生がいい歳してまだ独身でパラサイト・シングル状態なのとを
よくよく比較致せば、自ずと解消する問題なのかも知れませんね。
これも経験則の違い、と申しますか、経験の深さ?が違っている為なのかも。

乱筆乱文の程、ご無礼致しました。

85紫煙狼:2008/06/05(木) 00:21:32
知り合いの心理学の先生が言っていた話なのですがね…。

犯罪者の心理を研究することの切欠となったのは、「犯罪者は自分達とは違う生き物である」
ことを確認するためなんだそうです。同じ境遇に立たされても、みんながみんな犯罪に走る
わけではない、とすれば、犯罪者というのは思考回路や感情的神経構造が通常の人とは異なる
はずだ、というのがそもそもの発端。自分達と異種のものに対して、なんの同情を示す必要が
あろうか?気持ちよく地獄に送り出すためには、犯罪者が極めて特殊であり我々とは異なる
ということを科学的データとして明示すれば、どのような厳罰を下すにも気に病む必要はない。

中国では「未病」とかいう表現があって病気ではないが病気になる要素がある人を
そういう風に表現するらしい、とCMで見ましたが、犯罪心理学の延長線上には、
「未犯」の人(犯罪者予備軍)を事前に社会から抹殺する計画をも見据えたものだったとか。
無論、そんなのを肯定する人は今では殆どいないだろうが、結局は国家が危険分子を
排除するための研究の一部に過ぎなかったそうな。

ところが…研究していたら非情に恐ろしいデータが露見してしまった。
自己中心的であるとか、短慮であるとか、そういう共通点のいくつかは見つけられたものの、
結局のところ、それが一般人と大きく異なるといえるほどの優位性を見出すほど、
特殊性が逆説的に否定されてしまい、犯罪者も一般人も特に変わりがないと判ってしまった。
そこで路線変更をして、犯罪のプロファイリングのような方向に転換してきている…そうな。


つまり、犯罪者の心理も一般人の心理も、さほど変わりはなくて、犯罪者の心理を理解する
ことを拒んでいたのは、実のところ「自分は犯罪など犯さない」と思い安心したがっている、
自分はヤツ(犯罪者)達とは違うと思いたがっていた一般人のほうなのだそうです。
「人殺しなんて犯さない」という人でも「急いでいるからスピード違反くらい」とか、自分の
中でその行為を正当化できる「理由」と「目的」があれば、多少の違法行為は「露見しない」
事を条件として許容してしまう部分が誰しもあって、もし自分の頭脳に自信があれば、
「完全犯罪」を犯す自信があれば「露見せず捕まらない」のだから歯止めが利かなくなる。
これは「匿名性」に守られれば普段は口にできないような悪口雑言も平気でネットに書き込み
できるという心理とさほど変わりはない。警察の力を甘く見ている人ほど大きな犯罪を犯す
ことに対する「心理的葛藤が少ない」ということだそうです。

自分は「被害者の味方でありたい」「自分が犯罪者の仲間(予備軍)とは思いたくない」
そういう気持ちが「被害者に同情し加害者をゴミの如く扱う」原動力だそうですね。
私は、どのような条件がそろえば自分が犯罪を犯すか?という点で良くわかりません。
基本的に小心者なので、私に凶悪犯罪を犯させるだけの条件がそろうとも思えないのですが、
ただ、犯罪者に感情移入することは、私にとっては被害者に感情移入するのと難易度に差は
なくて、なるほどなぁ、こういう人ならこう考えて犯罪を犯すだろうなぁ、とか、
案外簡単に理解できてしまう。理解できるということは、私がいつそうならないとも
限らないということで、自分で自分が怖いこともあります。

86無精髭:2008/06/05(木) 20:39:27
・・・ただいま茫然自失の態にございまする。
>>40
並びに、
Ken様の>>53
にございます事と同じ事をまたやってしまいました。
もう泣きたくなります。
Ken様ではございませんけれども、
「もういいや、寝ちゃう!」

・・・消えてしまったのは>>85へのレスでございました。
紫煙狼様、毎度ご丁寧なレスの程、誠にありがとうございました。

87人間魚雷:2008/06/06(金) 21:11:02
心理学の先生が言った事って、あまり納得出来るところがないですね。私個人としては。
一部の計画的殺人についてはあてはまるかもしれませんが。
これでは犯罪者の心理など、とても理解出来るような研究とは言えないと思いますね。

88無精髭:2008/06/06(金) 21:27:17
仕切り直しとさせて頂きまして・・・。

>>85のお書き込みの程、紫煙狼様には再度お礼申し上げます。近頃の小生は、やれ社会認識だ文化形態だ
のと大風呂敷を広げて、ともすればスレッドの趣旨にそぐわぬ書き込みを連ね、垂れ流しておりました
ようですので、時機を得た>>85の紫煙狼様のお書き込みには、目が覚めた思いにございます。

さて、早速レスを致したいと存じますが、

>犯罪心理学の延長線上には、「未犯」の人(犯罪者予備軍)を事前に社会から抹殺する計画をも見据えた
>ものだったとか。(後略)

これは、一種の優生学でございますね。詳しくはWikipediaをご覧戴くと致しまして、このような学問が
提供する認識が、民主主義体制の下でバラバラな民心を一つに掌握するような手段として、国家権力に
よって正当化された暁には、国民は互いに疑心と不安に駆られながらも、やはり纏まってそれを受け入れ
ざるを得ないのではないでしょうか。極言すれば、こういった学問の理論的な正当性の有無に関わらず、
そこに何らかの信憑性を臭わせるような格好のレトリックさえあれば、民衆の不安が高まるのは確実
であり、ひいてはそれを現実認識の手段とする国家への信頼は、元来の権力行使の正当化と相俟って、
実に揺るぎなく絶大なものとなるでしょう。監視社会や権力の遍在化などが徹底化されれば、その効果は
弥増す事でございましょうし。まぁ、話が大分大きくなり過ぎまして、恐縮にございますけれども。

>つまり、犯罪者の心理も一般人の心理も、さほど変わりはなくて、犯罪者の心理を理解する
>ことを拒んでいたのは、(中略)一般人のほうなのだそうです。

何と申したら宜しいのか・・・凄いですね(怖)。以下飛びまして、

>自分は「被害者の味方でありたい」「自分が犯罪者の仲間(予備軍)とは思いたくない」
>そういう気持ちが「被害者に同情し加害者をゴミの如く扱う」原動力だそうですね。

得てしてこういった人間は、死刑よりも私刑を望むのでしょう。「人が人を殺す」事と同じ程に、(否、
それ以上かも知れませんが)「人が人を裁く」事は不条理である事に気が付けず、もしかすると気が付き
たくないが為に、野次馬根性宜しく自ら勇んで犯罪者を断罪する瞬間に、立ち会おうとするのではないで
しょうか。ややもすれば、自ら刑の執行人を買って出るお調子者も出てくる事でございましょう。
自分の眼前に、刑の執行を目前に控えて萎縮した犯罪者がいるという事実が、彼の嗜虐心を煽り、頭に
上った血が、刑罰と言う暴力のカタルシスをきっと正義の回復だと誤認するのでしょう。

>ただ、犯罪者に感情移入することは、(中略)案外簡単に理解できてしまう。(後略)

これは、これまで「なんとなく(だが分かる)」とKen様や小生が幾度となく口にして来た事かと思われ
ます。Ken様は、これについては結構淡白なご意見をお持ちのようでございますけれども、小生の方は、
何だかはっきりしないこの状態に対して、何とか白黒付けたい思いに駆られます。実を申しますと>>69
「理解」の位相について、多少触れたつもりでございます。私たちが普通「理解した」と言える事も、
実際の所は理解していないのではないかと、どこまでも疑う事は可能である事や、私たちが真実はこれ
一つだと思い込んでいても、本当は真実にも多面性が存在し得る事などを、皆様にお示し致す事を意図に、
かなり観念的に婉曲に書き込んだのでした。

89無精髭:2008/06/06(金) 21:30:52
最後に前後致しますが、以下

>同じ境遇に立たされても、みんながみんな犯罪に走るわけではない、とすれば、犯罪者というのは(後略)

こちらにつきましては、お知り合いの先生に少し異議がございます。と申しましても、話は簡単でござい
まして、別々の人間が「同じ境遇」であると言う事実を、どうやって実証するのかという、至極当たり前
の疑問が湧いて来るのでございます。「境遇」を「環境」と言い換えても話は同じで、仮令環境が同じ
であると証明されたとしても、同環境に全く違う個人が入っていた訳ですから、結局は違う環境であると
解釈出来ませんかしら? 小生の感覚では、環境と人間は互いに影響し合いながら、共に変化するものと
捉えておりますので。個々人を取り巻く環境のみを取り出して、やあこれは同じだ、とか、むむぅこいつ
は違うぞ、とか決められるとはとても思えないのでございます。「境遇」は「環境」と言う外部的事象
のみの意味ではなく、「過去」とか「体験」とかの記憶や心的事象の意味も含むのでございましょうけれ
ども。まさか、日本社会という最大の環境を持ち出してきて、その中の類似性を以って、日本人同士は
大体「境遇が同じ」なのだと結論する訳ではございませんでしょう。この点に関しましては、後々時間を
掛けて考えて行きたい事でございます。

P・S >>65-66にございます、「許すとは何か」というテーマにつきまして、何か引っかかるものを
    感じるのですが、それがまだちゃんとした形になって浮かんで来ません。忘れていた訳では
    ないのですが、中々そちらへ考えを傾注致す事が適わなく、結果として後回しになってしまっ
    ておりますけれども、どうかもう少しお待ち戴ければと存じます。因みに、全然関係のない話
    でございますが、小生とKen様の議論は、とりあえずはこちらのテーマを優先致したいので、
    当面は棚上げにさせて頂く格好となります。小生は未だ止めるには惜しいと存じ上げます(笑)

(と、とりあえず昨日の分(>>86で述べましたもの)のレスを書き終えましたが、内容は一変しております。
一々お知らせ致す事でもございませんが、昨日消した内容を思い出しながら書くのは疲れました。
いや、その殆んどは記憶から失われておりますので、当てずっぽうで書いた所が実に多く、必ずしも小生の
意にそぐうものではございませんが、紫煙狼様へ献上致したく存じ上げます。お許し下さいませ。)

それと、人間魚雷様へ
お久しぶりでございます。お元気でしたか?
ちょっと小生心配でございました。
また小生の悪い癖の為に、ご気分を害されたのかと思い、
やきもきしておりました。

90紫煙狼:2008/06/06(金) 23:18:42
>>87
その見解は間違いではないと思います。
そして、私自身がそのような考え方をしているわけでもありません。
ただ、そういう物事の見方もあるという部分で興味を持ったので、
他にも興味を持つ人がいるやも、と思って書き込んだものです(^^)

>>88 >>89
確かに、育成環境の差とか色々な要素があり、同じ境遇と一括りにするのは
無理があるという意見はもっともだとおもいます。ただし犯罪心理学の研究の
始まった当初に、そこまで厳密に環境を重視していたかというと、そうでもないと
思うのです。人間の性格は持って生まれたものか育つ中で形成されるものか?
という議題が真剣に交わされていた頃の命題ですからね(笑)おそらく、
目の前にお金が落ちているときに、拾う人もいれば拾わない人もいて、
届け出る人もいればネコババする人もいる…程度でも当時は同じ境遇と
考えることにしていたのだと思います。

あと「理解できてしまう=理解したつもりになっているだけ」は正しいです。
それは主観と客観という概念に於いて、究極的に客観というものは存在せず、
客観的なツモリになっているだけの主観に過ぎないという一つの真理と同義でしょう。
最終的に人の気持ちなんて本人以外には完解できないし、本人にすら完解できない
場合のほうが多いかもしれません。
ただ、それが必ずしも人の気持ちを推し量ることを否定するものでもないのは、
無精髭さん自身が一番ご存知でしょう。どうやっても完解できないのですから、
そんな無駄な努力はしません、と切り捨てることが出来ないから、無精髭さんも
色々お考えになるのだと私は推し量っています(笑)

<閑話休題>
kenさんの書き込みとか無精髭さんの書き込みとか見てて不思議というか、
スゴイなぁと思うんですよ。この「書き込み欄」に直接入力しているって事でしょう?
それでよくまぁ、あんなにマトモな文章が書けますね。

私は毎回、校正するためにWordで書いてコピペしてます。
それでもこの程度の文章しか書けないんですから、
はっきり言って文才ないですね<私(笑)

ただ、間違えてよく消してしまう人の場合、Wordを使うと
一定時間ごとに自動的にバックアップを取ってくれる設定もあるので、
泣かずにすみますよ(^^)

91mayuminh:2008/06/07(土) 04:01:45
犯罪心理学の初期段階というのは、ロンブローゾなどの生来的犯罪者説とかで、
骨相学なども大きなポイントになっていた例のアレですよね。アレはちょっと
困るんです、「大きな眼窩」「高い頬骨」うんぬんなどと言われると、ウチの
夫などもじゅうぶんお仲間です。すたれて当然というか、勘弁してくれ、と。
また、階級差が非常に大きい時分のことですから、環境だの境遇だのといったと
ころで、自分の所属する階級外の者にたいして細やかな見方ができたとは思えません。

それと「被害者に感情移入しやすい」という点についてなんですが。
またウチの夫を例に出して恐縮ですが、子どもを持ってからの、子どもが犯罪
にあうニュースなどを見た時の彼の反応が、ただごとではない。
被害者家族に感情移入をしすぎて辛くなり、いきなりテレビのスイッチを切ってし
まいます。週刊誌などもその頁は飛ばしているようです。
絶対に失いたくないものができてしまうと、これはもう仕方がないんじゃないか。
知人が鑑別所の所長さんと話す機会があり、更生できるかできないかのポイントは、
誰かひとりでも大切な人の顔が浮かぶか否かだと聞いたらしいのですが…
どちらサイドに感情移入しやすいか、実際の行動についてどうか。
あまりにも大雑把な見方でお馬鹿さん認定を受けそうだけど、失いたくない
存在があるかどうかに左右される面が大きいのじゃないですかね。
失いたくないものを奪われてしまったから、犯罪に走るというのもあるでしょ
うし、愛するあまり視野狭窄に陥って過剰に傷つけるケースもあるのでしょうが。

92Ken:2008/06/07(土) 06:16:49
魚雷さんとMayumiさんに禿同。

本村氏の場合、家族を皆殺しにされたら自分だったら生きていけないだろうな、と
自分に置き換えて想像しやすくて、それで彼の主張には疑問もあるのですが、
それでも彼を応援したい気持ちに駆られます。逆に加害者というのは何かしら
社会に疎外感・恨みを持っている人が多くて、そういう経験のある人は加害者に
共感する場合もあるようです。日野OL殺人事件でも被害者側に同情的なのは子供を
持つ人たち、加害者側に同情するのはもっぱら不倫の経験のある人たち、という風に
分かれてますね。

ここでは、共感する・同情するというのは本質的に他人の気持ちを理解すると
いう意味ではなくて、本人なりに理解した気になっている、というくらいの意味です。
それでも意味はあると思いますよ。

無精髭さん、ワードやメモ帳を使いましょう。セーブして後で書き足すこともできるし。
私もときどきメモ帳を使います。

93無精髭:2008/06/07(土) 08:28:02
>>90>>92
下品ですけど、2ちゃんねるの用語で申せば、
「禿同」でございますな。

しかしながら、実は小生も、メモ帳と直接入力を併用致しておるのですよ。
小生の長文レスの連投がございますけれども、投稿時間をごらん戴ければ
お分かりになると存じ上げますが、前後のレスの時間差が1分程度に
収まっているでございましょう? その場合、事前に用意したメモ帳の文章
をコピペしたものだと考えて頂ければ、と存じます。 

ですが、簡単なレスを付けているつもりが、次第に興が乗って(?)、
当初の計画よりも長くなってしまう事が、少なからずございます。
こういったときに油断して・・・よくやってしまうのです。

直接入力を致すのも、文才云々ではなく、
ただ、名前の通り「不精」だからなだけでございますが・・・。

>>91
mayuminh様
お書き込みの程、誠に感謝致します。
小生、今は出勤直前でございまして、誠に勝手ながら「忙しい」ので、
帰宅してから改めてレス致したく存じ上げます。ご容赦下さい。
ロンブローゾですか・・・、来たなって感じですね(笑)
小生はそういったお話も、不謹慎(不合理?)ですが好きにございます。

改めまして
皆様、沢山のお書き込みの程、誠にありがとうございました。
では

95loveless:2008/06/07(土) 19:12:24
>>77-78
ミラーニューロンかあ。。

これは、男女でも(多少の)差異が認められる箇所という学説を見た覚えがあります。
また、特に男性の場合は、この箇所を一時的に "disable" にする能力も女性に比べると高いそうです。

つまり戦争のような特殊な状態では、(おそらく訓練によって)意図的にこの部分を "disable"にすることで、
非常に冷徹に殺人行為を行うことができるとのこと。

普段は気の優しい人たちが、戦争の場面では恐ろしいほど残酷になれるのは、このような脳の働きによる
ことだそうで。。(小平事件のエピソードを思い出す)


一説によると、現生人類がこのような能力を獲得したのは、その発生時にすでに地球上に存在したライバル、
すなわちネアンデルタール人と呼ばれる我々の「いとこ」とも言うべき存在と競争するためだった
というのもあります(ネアンデルタール人を駆逐するために彼らを殺害する必要があった)。

これらが正しいとすれば、現生人類は先天的に殺人を嫌う倫理観が備わっているのではなく、
逆に、同族ですら簡単に殺害できる能力が先天的に備わっている、と言えるかもしれません。

96無精髭:2008/06/07(土) 21:35:14
>>91
mayuminh様
改めまして、ご挨拶申し上げます。
この度のお書き込みの程、誠にありがとうございます。
さて、早速でございますがレスさせて頂きたく存じ上げます。

>失いたくない存在があるかどうかに左右される面が大きいのじゃないですかね。

この点は、小生が先に申しました「相互性の原理」に妥当するお考えかと存じます。
確かに、他者などの自己外的な「存在」に注目すれば、その実在性をあえて問わない
事を条件に、小生が疑義を抱く論拠として挙げましたような、愛情の個人差や「愛す
る」と言う事の意味の捉え方の特殊性、並びに言葉を習い覚える上で、原初的な意味
(価値と言って良い)として言語に対応する原体験の固有性など、つまり言語に関わ
るアポリアの一切を考慮の外に置く事が可能かとも思われます。畢竟、これらは全て
「観念」であり、私たちの目の前において認識できるものではないからです。しかし、
他者(別段、目前の木やそこら辺に落ちている石ころでも構わないのですが)のよう
な「存在」は、全てのものは自己意識を通してその中で把捉されるものだとしても、
疑いようもなく確かな実感として感受されます。そして、自己による認識により一層
の明瞭さを与える事で、ややもすれば独我論的な雰囲気に陥りがちな自己意識を、そ
の内向的な働きの呪縛から救い出してくれもします。対象の性質の別なく、有る事と
無い事の区別は、個人差云々や自己と他者の意識性及び内面性の問題を度外視しても、
皆が共通に感覚し且つ概念的に理解できると言えるのではないでしょうか。

ですから、「相互性の原理」を考える上で、こういった「存在」をまず最初に中心に
据えてしまえば、小生が詭弁だと退ける当の理由に拘泥することなく、それを肯定す
る事が出来るかも知れません。

ですが「失いたくない存在」の有る事が、それを失った者への感情移入の素因をなす
のだとすれば、失った者の心とそれに感情移入する者のそれとを繋ぐものは、尚も同
じ「失いたくない存在」なのでしょうか。例えば「失いたくない存在」が「子」であ
る場合、「相互性の原理」の有効と限界の事実を確証付けるには、誰でも自分の子ど
もを失う事は悲しい事であり、自分の子どもを持たぬ者にその辛さは分からない、と
さえ言えば充分でしょう。しかし、それは「失いたくない存在」と言う概念をその完
全な理解と共に他人と共有する事を前提にしているからこそ、説得力を生む議論なの
です。

「失いたくない存在」と言う概念は無論、「失いたくない」という危機感が強く意識
されている最中に捉えられる「存在」一般を指すのでしょう。ですから、自己も他者
も、「存在」把握においてはカテゴリーが同一の形式である事で繋がっていますが、
自己意識においては「失いたくない」という志向が向けられる当の「存在」に先立っ
ているのです。小生が感じる、「失いたくない」という危機感が共有される事の不可
思議さは、正にこれなのでございます。

と申しましても以上、冗長な抽象観念の塊にはもう辟易されている事と存じ上げます
ので、一旦止めに致します。小生も、牛の歩みの如き思考には大分疲れました。正直
申し上げて、問題自体も掴み難くなって参りましたので。そこで、以下簡略に小生の
疑問を幾つか挙げて見る事に致します。

「失いたくない存在」が何故、素知らぬ者同士の間でも一致を見ることが多いのか。
「失いたくない存在」の意味が両者でどのように共有されているのか(理解からか、
それとも感覚からか)。果たして「失いたくない存在」の有無という発想は、小生の
疑問を内破してくれるものなのか。あと冗談ではなく、「失いたくない存在」が有り
過ぎる事と一切無い事はあり得るのかと言う事、等等。

mayuminh様へのレスという形で始めさせて頂きましたが、途中から(最初から?)方
向違いな代物になってしまいまして恐縮の至りにございます。>>91への反論として提
出致している訳ではございませんので、ご安心(?)なさるともなさらずとも構いま
せんが、兎も角、誰からのレスも特に期待しておりませんし、意味不明であれば気持
ち良くスルーなさって下さいませ。末尾に書いて置くのもおかしいのですけれども。

追伸 一点に絞ってレスを致したのは、わざとです。小生にはとても難しくも興味の
   掻き立てられる一文に御座いました故。陳謝。

97人間魚雷:2008/06/08(日) 00:15:26
>無精髭様
「死刑囚仏説」ですが、時間がなくてなかなか詳細な説明を
書き込みできませんが、機会があります時にでも・・・・(謝罪)

まあ極端な例を出しますれば、タクマやサカキバラ、ミヤザキと我々一般人の心理が
さほど変わりが無いとも考えられず、彼らの心理を理解する事が容易ではないので、
その辺のところを研究して頂きたいものです。
人間とて動物。様々な条件が重なると、稀にこういった犯罪者が出現する。
事件というより「事故」に近いものだ。
てなことであれば私にも理解出来ますが。

98無精髭:2008/06/08(日) 12:30:44
同情は可能か否か?

同情の定義付けには色々と方法があるだろうが、

<一者が他者の感情を理解する>
一者が他者の感情を理解するのに、他者の感情を自らの感情に置き換える
必要はない。同情とは、他者の心情を理解する事というより自身の心情において
それに感応するような想像行為という方が相応しいのではないか。
他者がどんな感情を抱いていようとも、一者が他者の立場に仮託して
他者が感じるように感じる必要はなく、自身の立場を堅持したまま
他者の感情をその言動などを観察することから推測する事はできる。
推測はあくまでも推測であり、他者の心を見通すことは当人の他には出来ない。
だとすれば何故(ある程度でも)理解できるのかというと、まず、
心的状態という観察対象の枠を類型化して、実際の観察上では、
他者からそれを切り離す事は出来ない(他者とその心はそもそも切り離されたものではない)
のだが、思考上で他者に当て嵌めるという方法が考えられる。
現実では、他者の中に心が含まれているとされるが、
理解の過程では、ある心的状態を理解する事が、現実の他者の存在に先立つのである。
例えば、悲しむ、という心的状態を理解するのに、実際に悲しんでみる必要はなく、
また誰か悲しんでいる人を周囲に探す必要もない。悲しみは、特定の誰か及びその心に付随した
性質ではなく、特定の誰かの外面的特徴に合わせてこちらから付与するようなものである。
・・・(未完成)・・・

(上記は>>67に関連した思考の残滓にございます(書いたのもその時です)。
これも含めて、このスレでの一切の小生の書き込みは、手前勝手な妄想的
思弁の軌跡にございますので、覚え書き程度の認識でしか書き込んでおりま
せんでした。はっきり申し上げて、思い付きをだらだらと書き込んでいる感
じが拭えませんので、今後神経質になってまで小生のレスに目を留める必要
も無いかと思われます(内容によってはsageでの投稿も考えております)。
文法的にかなり不味い所も多々見受けられますが、それも曖昧な日本語の恩
恵に肖って、ごり押しで論理を築いてしまったせいで、今に至って見るも無
残なジャンガ状態に・・・。軌道修正には骨が折れますが致し方ございませ
ん(文の見直しも余りせず、訂正もいい加減なのが悪いのですけど)。因み
に、上記は小生による自身の考えへの批判でございます。一見してそうは見
えないかも知れませんが、同情を不可能だとする疑いを、その定義付けをず
らすような仮説を以って、緩和しようと企図したものでございます。)


>>95
loveless様
お書き込みありがとうございます。
ミラーニューロンへの補説、どうもでございます。
末尾でKen氏のお考えを相対化する仮説をお出し下さいましたが、
とても興味深いですね。色々と考えさせられます。
以上、短文でのレスになりましたが、ご寛恕下さいませ。

>>97
人間魚雷様
お返事戴けましたので、ホッと致しました。
その件につきましては、小生も急かす気など更々ございません。
こんな事を申し上げるのは無礼極まりないのですけど、
お互い気長にやろうではございませんか。
結論を急いで即席に主張を持つ事は小生の本意ではなく、
問題を明確化する事こそ小生が議論致す目的でございます。
その件につきましても、余り一人で思い詰めず、このスレで
皆様と議論を交わす事で、段々と浮き彫りになってくれば宜しいかと
存じます。しかしながら、貴殿が>>59の旨を覚えていて戴いたのには、
とても嬉しく存じ上げます。小生も何か良い策(?)が浮かびましたら、
ご報告致したく存じ上げます。

99Ken:2008/06/08(日) 15:01:39
無精髭さん、本当に「不精」なんですか?少なくともちっとも筆不精ではない
ですよね...。

チンパンジーも殺人、嬰児殺し、戦争みたいなことしますよ。ボノボはそれとは
まるっきり逆で平和主義のようですね。ヒトは両方の特徴を受け継いでいるみたいです。

100無精髭:2008/06/08(日) 16:27:22
>>100

Ken様、小生が「筆不精」では無いとの事、確かにそうでございますね。
色々と書き込みたい事は山ほどあるのですが。。。その欲求に小生の
文章力が追い付いて行かない事を深く恥じている為、そのように申した
のでございます。書きたくても書けない事、これも「筆不精」と申し上
げても宜しいのでは? 小生にも良く分かりません。

まぁそれと、長文による投稿が多い理由は、普段からそんな事ばかり
考えておる証左でございまして、書き溜めておいた物が完成を見ずに、
整理も億劫と成る程に溜まり過ぎた為、精神衛生上暫くその問題から
距離を取る目的で、こちらに投稿させて頂いておる訳でございます。
こちらの住人の皆様には、大変に迷惑千万な事とお察し致しますけれ
ども。

人と議論をするには、とりあえず自らの考えを纏めて形ある論を提出
しなければなりません。その為には、論者は自ら一人で思考しなけれ
ばなりませんから、たとえ多少の妥当性を有する論が形成されたとし
ても、どうしても独り善がりな観点を抜け出す事はできないでしょう。
その蛸壺状態から脱する為に、論者は人から批判を甘んじて受ける必
要があり、そこでまた一人の思考から議論へ戻って行かなければなら
ないと存じ上げます。延々と、その繰り返しでございますね。

以下、小生の最後っ屁にございまする。

(本村氏の)心情は理解できるが、心情を感じる事は出来ない。
理解と共感は違う、ということ。

ただ単に、小生と>>3の冒頭の人物が(その後の人物が言ったように)馬鹿なだけで、
本村氏の心情を理解する能力が足りないだけなのか。その結果が、本村氏の一連の
言動に対して違和感を持つ、という形で自分に表れるだけなのか。つまるところ、
その違和感は社会に対して正当性の意味を持たないのか。持っても意味がないもの、
否、本来は持ってはいけないものなのか。
以上、すべてそういう事実なのかもしれない。

書き溜めて置いて、(時間の都合上もございますが)考察がこれ以上
加えられなかったのは、以上で最後にございます。

因みに小生は、Ken様並びに諸賢の皆様方のお考えを否定している訳
ではございません。反対もしていないのでございます。小生が「同情」
に拘る理由は、>>63で簡単に触れました通りでございます。おそらくは
社会及び文化の認識問題以外なら、ここのスレの話題に限って申せば、
Ken様のお考えを全面的に受け入れる覚悟はございます。

ですがわざと議論を面白くする為、ではございませんが、否こうも考え
られるのではないかという事を指摘させて頂いたり、議論相手の言語解
釈による定義付けを戦略的に、こちらの方へ徐々にずらしたりする事は、
卑怯と申すよりこちらの理解の為にも大変に有効でございますから、是
非とも皆様にも推奨致したい事でございます。

えー、また話が長くなりまして恐れ多いでございます(笑)。
ですが結局、議論もそうですが、普段の何気ない会話と言うのも、最終
的には自分が得をする為に、始めるものでございます(そうでないと続
かない)。本当に、こんな小生にお付き合い戴きまして恐れ入ります。

101無精髭:2008/06/09(月) 20:22:22
不遜にも、もう少し皆様の問題領域へ歩み寄らせて頂きとう存じます。

小生は>>91で言われている様な「失いたくない」気持ちをそこまで強く感じた事はございません。
おそらくかけがえのない程の「失いたくない」ものを持った試しが無いからでしょう。適当に思
い浮かぶ「失いたくない存在」と致しましたら、一番先に「家族」が挙げられますが、小生自身
の家族への愛もその各人に従って様々で、兄弟よりは父母に比重が傾きますし、父母に対しても
愛情の重さの違いはあるかも知れません。勿論、愛情の量の違いを論うよりもその質の違い、つ
まりは各人に対する各様の接し方・愛し方の使い分けを正当付ける方が、重要かと思われます。
換言致せば、誰を最も愛するかを優先してその対象を序列化するよりも、相手に合った愛し方で
愛せば良い(相手によって自然に愛し方が変わっても良い)と存じます。小生は皆を同じ愛の相
で眺める博愛精神や、誰か一人だけを愛する恋愛至上主義には無縁でございます。後者に限って
申せば、若い頃は確かに特定の個人に恋焦がれた経験もございますけれども、小生の場合それは
熱し易く冷め易いもので、数あるうち一度もそのような恋が愛にまで高まった事は無かったと存
じます。ただ単に惚れ易い人間だったのでございましょう。もう十年以上もそのような青臭い恋
愛(主に片思い)をした事はございませんし、これからもする気もございませんが(歳を考えれ
ば、もう遅いです)。否、人生を振り返ってみると、これまでの恋も純愛のように褒められたも
のではなく、きっと異性だと言う事で、何となく「好いな」と思って、ただ目移りしていただけ
なのでしょう(最低です)。

他に「失いたくない存在」はと申せば、人を除けば、住居とか職とか金銭とか趣味に関わる物と
か、一応形だけは代替の利くものとなりましょうか。こういったものは利他心ではなく利己欲に
結びついているので、他人が失くしたとしても同情はしにくいです。しかしながら、物にも代替
出来ぬものがある位は分かります。極端な例を挙げれば、考古学的遺産等の新たに生成されぬも
のや、制作者が故人となった為にオリジナルの価値が高まった美術骨董品の類、コレクターの収
集物、それと特定の物ではありませんが、個人のフェティッシュな欲望に捉えられたものなどが
ございます。もっと身近な例では、個人的な思い出の品、誰彼からの贈り物、などは何物にも替
え難い物として私たちの心に影響を及ぼします。これらを他人が失した場合、私たちはまるで自
らが失したかのように感じる事は出来るでしょうか。丁度他人が失した物と概念上同じ物や錯覚
を起こす程に似た物を持っていれば、同情は可能とされるかも知れません。しかしながらこれら
の例は、同一物の存在否定と言う、認識論上に代替が出来ぬという事自体が同情の契機となると
言う事を示すのではなく、ある人にとってある物の代替が出来ぬと言う事実が認識された時に、
初めて同情の契機が生ずる事を示しているのです。ですからある人が貴重視している物が他の人
に何ら価値を持たない場合は、認識上そこに代替の可能性が生じてしまう事で、同情の困難性も
増すという事になるでしょう。即ち、個人にとって「失いたくない存在」が存在する為には、人
であれ、物であれ、それが代替出来る(存在ではなく)価値か否かが問われなければならず、絶
対に代替が出来ると考えられては(代替の可能性が捉えられては)いけないのでございます(考
えられても代替の可能性は否定されなければならない)。これは存在の唯一性の問題ではなく、
寧ろ存在解釈(何の為に在るのか)という価値観の問題ではないでしょうか。以上小生は、「失
いたくない存在」を代替不可能な「掛け替えの無いもの」と解釈(曲解?)致しました。

102無精髭:2008/06/09(月) 20:23:03
ところで、存在の唯一性云々と申しましたけれども、既にお気づきの事かと存じますが、完全な
意味で代替の利くものなど、この世の中にはございません。概念を度外視して個々の物を見れば、
何一つ同じものは存在しないからでございます(例えば葉や石の場合、似たようなものでもよく
見れば形や色や触感が異なる、など)。否、この世に何一つ同じものが無いという事が事実だと
しても、代替は現に行なわれている訳ですから※、個々の存在の唯一性や固有性はそれを理由に
は代替されず、物そのもの(無記銘の存在)が互いに代替されている訳でないのは確かでござい
ます。であるならば、同一物の概念において、一体何が代替可能とされているのでしょうか。或
る特定の物体、例えば目の前にある様な椅子Aや石ころAやりんごAなどは、それぞれ同じ概念
に含まれる様な椅子Bや石ころBやりんごBなどに代替可能かと思われましょう。正確に申せば、
その性質上の一致(使用目的の一致)が代替可能性を生み出しているので、個別の物それ自体が
同じ概念に含まれると言う理由で代替される訳ではないのでしょう。無論、概念把握や認識上の
一致も重要ですが、性質上の代替は私たちの価値観が成せる業なので、これが最初に果たされて
しまえば、他の一致はこれに比べれば然程自覚的に優先すべき事実ではないと思われます。私た
ちは腰を掛けるのに椅子しか用いる必要は無く、腰掛けやすいと言う理由から手ごろな形の石を
選んで座る事もできますし、空腹を満たすのに選り好みしてりんごを食べる必要は必ずしも無く、
みかんでも芋でも食べればいい訳です(別に食べ物でもなくとも石炭でも食べて見せる事は出来
ます。自由意志の問題として)。物を食べる事には好悪が強く関わってきますが、余程味にうる
さい人でもなければ、その果物(更に品種への拘り等も)固有の甘さ(他の食べ物でも、それに
固有な味・匂い・食感がございましょう)だけに拘って、他の食物(果物であれば他の品種への
冷淡)の甘さ(その食物にしか「甘さ」と言うのを認めない)との比較を意識的に断つ、つまり
代替可能性を拒否する等と言うことはまずあり得ない事でしょう。

※代替は現に行われている訳ですから・・・人間社会のみでなく、自然界においても物の代替は
行われております。捕食行為(その手段や餌と見做す認知)やマーキングや巣作りなどの縄張り
行動、等に見られます。つまり自然欲求、本能的衝動においてすら、物の代替はスムーズに行わ
れているのです。難しくなりますけど、「環境下の行動領域の拡大における自然物の分類化及び
生活利用」とでも言わせて頂きたい。

因みに、代替が出来るとされている物も本当は代替出来ぬのではないかと疑っております。
更にはこんな事も考えてみました。
この世に二つでも全く完全無欠に同じものがあるとすれば、それらの差異はただそれらが別々に
在ると言った、場所の差異しかない事になり、それらの物はただの位置関係でしか自らと他との
違いを示す事が出来ない事になるというものです。これは純粋な量の問題でありましょう。この
ような場合における代替(可能性)はどうなってしまうのか、これは純粋に思弁的な問題なので、
これ以上妄想を膨らませるのは止めましょう。

103無精髭:2008/06/09(月) 21:23:09
閑話休題。
長広舌を振るいまして恐れ入りますけれども、>>91での旦那様のご心配の程も、やはり「何とな
く」と繰り返さざるを得ないのですが、分かってしまうのは人間の性でございましょうか。小生
もKen様(何度も引き合いに出して恐縮ですが、どうか我慢なさって下さい)も、それが完全な
理解ではない事は認めているのですが、Ken様は「何となく」分かる事に、他者の内心の実際と
は全く関係ないながらも、ご自身にとって社会性につながる内実を見出しているのに対し、小生
は他者の内心の実際の正確な理解、及び自他の完全な一致があり得ない事を理由に、その重要性
を容易に受け入れようとはしない※。Ken様のお考えは今度は何となく分かるとも簡単にはいえな
いのですが(と申しますより同調するのが躊躇われる)、その重要性については多少議論させて
頂きましたから、理屈では遥かにこちらの方が分かりやすい。ですが分かり難さが別の位相に移
っただけ(つまり感覚的なものから思弁的なものへ)とも言えます。

※これは言い方を換えれば、愚鈍にも他者の内心の実際の正確な理解、及び自他の心の完全な一致
を目指しているとも言えます。小生は必ずしも、論理によってそれを企図している訳ではございま
せん。しかし小生にはまだこの問題の正否について(且つ問題の立て方の正否についても)腑に落
ちない事がございます。・・・まだ道は長く険しいようです。

そもそものスレッド趣旨の方へ話を戻しますが、小生が他者の心について執拗に拘るのは、他者の
為ではなく自分の心の為です。そして社会認識の過程において認識主体がたち現れてこないのは、
既に社会構造に参与しその一部となって動くからでございます。社会で自らの位置を知ると言う行
為は、正にその状態でしかなされないのでございます。これが小生が先に申し上げた「自己を客観
視する事」「社会認識における自己客観性」とでも申してもよろしいのかな〜? 自分で申してい
て馬鹿みたいに感じますが、観念的な社会像、社会像の観念化、というのはKen様の仰るような、
>私は異文化との交流を通して自分の社会は知ることは可能だと思います。
的な「自分の社会」とは異なる、と申しますか、上手く重ならないのでございますよ。紫煙狼氏が
>>90でいみじくも仰ったような、
>それは主観と客観という概念に於いて、究極的に客観というものは存在せず、
>客観的なツモリになっているだけの主観に過ぎないという一つの真理と同義でしょう。
的な考えを他者のみにではなく、社会にも向けてみればその原因も自ずと知れる訳でございますが。
多分、Ken様のお考えと小生のそれは、対象を言い当てる論の方向性が食い違っているだけで、案外
意識して話を合わせれば、重なる部分も多いかと存じます。ただそれも、「自分の社会(だけ)」に
拘るか、「自分の社会と他者の社会(の差異)」に拘るか、どちらのスタンスを取るのかを相手に悟
られないようぼやかすとか、或いは一つの社会を論じる上でも、「自分(だけ)の社会」に拘るか、
「自分と他者の社会」に拘るか、をわざと明確化しないとかを必須とした場合に限られますけれども。
僭越ながら申し上げますが、小生が以前、感情が社会参与の契機となると申しました事(>>12)と、
執拗に感情に拘る理由(>>63)を思い出して頂ければ、と存じ上げます。まあ、気長に議論にお付き
合い戴けるのであれば、問題は深まりつつも明らかになって来るでしょうし、小生の正体(考えてい
る妄想の実態)も知れてくるでしょう(化けの皮も剥がれて来る?)。

追伸
sageて置きました。暇な時にでも、(60〜70%の理解度で)流し読みして下さいましたら幸いでござ
います(数値は皮肉ではございませんよ。それ位で調整して戴ければ、早くお読みになれるでしょう
し、はっきり申して小生の文など、気張って・身を入れて読む様な代物では御座いませんのでネ。)。

104無精髭:2008/06/09(月) 22:15:20
>無精髭さんは自分が所属する社会は、所属しているという事実によって不可知になる、と主張しますが、(後略)
Ken様は上のように仰いましたが、小生は「所属している」という考えをあまり自明視しておらず、その事実を知る
には自ら観念の上で理解せざるを得ない、そこに社会の全貌(ととりあえずは申しておきます)を知る事の限界が
ある、と(Ken様の無精髭理解を受け継ぐのならこう)申し上げたら宜しいかと思われます。社会の全貌とは完全な
る(その構造の動態をも再現に含めた)社会像の事であり、Ken様も誰も(社会成員として)生きる上で認識する必
要が無いものでしょう。必要があるのは、今だ嘗ていなかったような絶対的な権力者だけではないでしょうか。因み
に「所属する」と言う事も、小生には良く理解できておりません。

Ken様と小生の意見の相違は、「文化」と「社会」の捉え方の相違に起因するのではないかと見ております。
今は詳しく考察する時間も根気も足りないのですけど、どちらかと言うとKen様は、その二つを重ねて見ているような、
それらの近似値を詳論する事を目的としているような観がございますようで、小生はと申すと、観念操作を第一とする
為にその二つの相違点に拘らず、人間の認識にとって、文化をより内在的に関わるもの、社会をより外在的に関わるも
の、としてその因果関係を論じる事に手を尽くされているのでしょうか? 実在的なものとしてその二つを論じられる
のであれば、観念的なものとして二つを論じようと企てる小生と致しましては、それらの(実生活における使用上の)
言語としての意味の曖昧さによって、二つの相違点に霞がかかるのも致し方ないのかも知れません。

話が飛びますけれども、
ミラーニューロンやTOMが、性善説と性悪説のどちらに転ぶかは見物でございます。
小生、実はミラーニューロンについてはKen氏にご指摘を受けるまでは知りませんでした。
少しでも粘り強く観念的に物を考えて行けば、少しは現実の事象と合致する事もあるのですね。
まあ、あれは(>>67-68)小生が曖昧な事象にとりあえず無理やりにでも合理的説明を加えようと
意図した所の仮説ですので、結果的に>>77で仰っていらっしゃるように見えたのは、
運良く(?)Ken氏がご自身の頭の中で補説なさって下さった事による偶然でございます。
小生自身はあの仮説の現実妥当性を頭から信じておるわけではございません。
所詮あんなものは、TOM云々と言わずとも、無意識下における他人からの借り物でございますよ。
勿論、小生自身にしてみても、言われてみれば、どこかで聞いた事がある気がする、
読んだ事がある気がする、といった既視感の類がございますから。
何はともあれ、ご指摘戴いた事は大変嬉しく、小生もこの件に関しまして、多少考える所が
ございます。いずれまたの機会になりそうですが。。。

ああ、それはそうと致しまして、Ken様や他の諸賢の皆様方に一度お聞き致して見たかった事が御座います。
皆様がお考えになります、「権力」のあり方について、そもそも権力をどのような条件で認めているのか、
と言った事でございます。国民や市民のあり方(あるべき姿)とは、また別の次元の問題で御座いますよね。
お時間に余裕が御座いましたら、お知恵をお貸し下さいませ。

またも追伸
Wikipediaの「刑罰」に、少年法を廃止しようと主張する識者に犯罪心理学者が多い、と書かれていましたが、
どうしてなのでございましょう? 自分たちの知識体系や理論的蓄積から導き出された考えに則っているのか、
それともその学問本来が持つ権力寄りの保守性からなのか。国民が考えるような、少年法を廃止するメリット
を同様に、犯罪心理学者が主張しているとは、とても思えませんけれども。

105無精髭:2008/06/09(月) 22:52:06
>>104
訂正でございます。
「Ken様と小生の意見の相違は、」で始まります所、途中

×>為にその二つの相違点に拘らず、人間の認識にとって、文化をより内在的に関わるもの、社会をより外在的に関わるも
○>為にその二つの相違点に拘らず、曖昧なままにしております。人間の認識にとって、(後略)

と、簡単な文を付け加えさせて戴きましたので、
上記のように直してお読み下さいましたら幸いでございます。

小生の文章を書く時の悪い癖が出ました(書き難い所はひとまず後回しといった)。
読み直すのも怠りました。
他にも可笑しな所がございますが、お見逃し下さいませ。

106無精髭:2008/06/10(火) 08:31:12
>>103
訂正ではないのですが、以下の如き可笑しな所が御座いました。

>そもそものスレッド趣旨の方へ話を戻しますが、小生が他者の心について執拗に拘るのは、他者の
>為ではなく自分の心の為です。そして社会認識の過程において認識主体がたち現れてこないのは、
>既に社会構造に参与しその一部となって動くからでございます。

「〜心の為です。そして〜」の箇所、話の展開が唐突に変わっていますけれども、
これも読み直しを怠った為の消し忘れか、更に解説の為の文を付け加えるのを忘れたか、
どちらかで御座います。どうしてこうなったのやら、最早全く記憶に無いのですが。。。
実を申しますと、>>103-104辺りは思い付きを書き溜めた所のコピペに過ぎません。
訂正致すのも億劫なので、そのままにして置きます。お読みの際はご注意(?)下さいませ。

他にも上記、構文的に直したら良い様な所が数箇所見受けられます。
こうしたら読みやすいのではないかと言った所もございますが、
小生が頑固な為、あえて訂正致したくない所も混じっておりますので、
小生の悪文をお読みになる皆様にはご迷惑な事と存じ上げますが、
やはりあえて訂正致しません。

本当は、ある程度のスピードを以って即興で書いた方が、
内容の良し悪しは別としても、読みやすいものが出来るのですよね・・・。
あと、文章はある程度纏まった量が出来たら、少しの間寝かしておいた方が
良いのだと言う事を、今回のミスで痛感致しました。

小生、多少ノイローゼ気味かも。。。

107無精髭:2008/06/10(火) 22:32:24
↑未だ完全に癒えてはおりませぬが。。。

>>84>>96>>101-102

上記が「相互性の原理」から「同情」を規定しようと試みた所のレス群でございます。

同情は可能なのか否か、と言った方法論的問題は、
現に同情が行われているという現実(「何となく分かる」と言う言説)でのその是非とは、
実は問題の位相が異なります(>>63)。

小生と致しましては、先ずは前者を解決しなければ、
後者に取り組む事に専念できないのです。
前者の方が本質的な問題だと思われてならず、この誤解がある為か、
皆様がお考えになるような問題に、簡単に触れるのが躊躇われます。
なかなか皆様の議論にまで到達する事ができず、
回り道をしないで、一直線の最短距離で走ればよいのですけど、
何故だか分かりませんが、小生にはそれが出来ません。
きっと前世は亀か蝸牛か海鼠と言った風な、そんな性分なのでございましょう。

上記4つのレスで何を申し上げたかったのかと申しますと、
一言で申せば、相互性の原理から可能とされた場合の同情行為には、
自己と他者の間に、必ず何らかの媒体が存在するのではないか、
と言った事でして、小生は相互性の原理に対して否定的でしたが、
>>91を読んで、それを克服するようなアイディアが浮かんだ気が致したのでございます。
別に自らの間違いに気付かされたという訳ではないのですが、新たな思考の切り口が
ある事を知らされたのでございます。

同情と言う現象を説明する場合、
自己の心と他者の心がどのような経緯でつながるのか(完全な一致はあるのか)、
或いは主観的に、どういった意識的な方法で他者への同情は行われるのか、
といった心を中心とした考え方とは別に、各人にとって或る存在が
どのような意味を持つのかを探る事によるアプローチもあるのでございます。
その方法とは正に小生が否定的であった、相互性の原理なのでございますが、
これが何故に世の中で、まがりなりにも可能とされているのか(小生は自分にとって不可能・詭弁と申しましたが)、
その方法や過程(仕組み)を考える事が、先の同情問題の解決の糸口になるのでは、
と思った次第にございます。それにはまず、心を中心とした考え方を一時保留する必要がございました。

108無精髭:2008/06/10(火) 23:25:58
小生は>>84で「家族」を引き合いに出して、言葉としての一般的な意味の他に、
人それぞれが違った(自分の・つまり固有の)家族を持っている事実から、
「家族」という現実の社会関係(人間関係)に適合した、
各人各様のイメージが存在し得るのではないかという可能性を示唆致したのでした。

しかし、それでは自分(小生)はともかくも、他者同士が家族の事で同情し合う事について
説明が出来ませんから、それを可能にする何らかの要因が存在するのではないかと
考えました。かと申して、各人各様が現実に対応した固有の「家族」価値を持っている可能性は
動かしがたく感じられますので、それぞれに固有の価値がどうして同情の対象になり得るのかが、
小生にとってとてつもない難問として浮上してしまいました。

蓋を開けてみればその原因も、他者同士が「(相手の気持ちを)何となく分かった気でいる」だけなのかも知れません。
結局は全て錯覚、と言う事なのかも知れません。しかしそうだとしても、彼らが自らの錯覚の中に何かしらの価値を
見出している事実は看過出来ないでしょう。そこに相互性の原理の要諦、つまり行為の結果としての同情ではなく、
正に行為それ自体としての同情が真実の姿で現れているのではないか、と思ったのでございます。

小生は、そこに一方の心と他方の心との働きあいを見る様な、今までの考え方をとりあえず捨て、
その間にだけ注目したと申し上げても宜しいのです。その間を埋め、その二つを繋ぐものは、
心のような実体の無いものではなく、もっと確固たる存在であり、例えば「家族」の様な、
現実の人間関係を価値として据える事で、思考上で同情・共感の媒体と見做しました。
しかしながら、人間関係だけにとどまらず、単なる物さえも同情や共感の媒体となりうる事をも
考察致しましたので、同情と言う主観作用の発動は、個々人の同情能力の差異(適性等)に左右される
ものと結論せざるを得ませんでした。そこで、結局は同情とは「価値観」による行為なのだと、
やや安直に理解する他無かったのです。無論、それで小生が満足致しておる訳ではございませんが。

以上、直接入力(笑)
にしても時間がかかりましたが。。。

109無精髭:2008/06/11(水) 19:39:28
>>108
>しかし、それでは自分(小生)はともかくも、他者同士が家族の事で同情し合う事について
>説明が出来ませんから、
ご説明致すまでもございませんが、自分が「家族」を亡くすと言った事で他人に同情出来ないと言う事が仮に真実だとしても、
ある他人が家族を亡くした事に対してもう一人の他人が同情すると言った事は、どういう経緯・内容かは全くの未知ですが
現に行われているようですし、また当事者でも何でもない赤の他人同士がその事で共感し合う様な事も同様に有り得てしまっている。
この事実は、小生が仮に同情の可能性を否定する根拠と致しました所の、相互性の原理の矛盾点と思われる、小生の人生において
だけの「<この>家族」と言った固有の現実・替え難い価値が、他人の「家族」のそれとは釣り合わないという事、換言致せば
小生の「家族」が他人の「家族」とは、その基本構造は言葉の意味としても実際の家庭関係としても合致しながらも、尚小生にとって
のみの「自分の家族」という特別な意味なり価値なりが、皆が共通して感じ・持つ様な「家族」と言う言葉・事実の一般性には
還元されずに残されるのではないかと言った事、これを理由にして否定する事が適わぬのでございます。それは他人にとっては
至極当たり前に行われている事なのかも知れず、小生にとってだけなされ得ない事実なのかも知れないからです。
つまり相互性の原理による同情は、小生の場合にのみ妥当せず、一切の他人には自然に訪れる感情である可能性が存するのです。
相互性の原理を否定出来たつもりで悦に入っていた小生が、実はその相互性の原理を理解出来ない安本丹であり、相互性の原理から
弾かれていた余計者であるかも知れない! とまあ、上記の文はこんな事を言いたかったのだと思います。

110無精髭:2008/06/11(水) 23:48:37
>>101
簡単に要約致せば、「代替がより困難であるほど、或る存在の価値は高まる」という事でございます。
その価値は他の価値には置き換えられない、言わば絶対的価値ですから、正にその存在の固有性や唯一性こそ、
価値の絶対性を生み出していると考えられます。否、正確には或る存在自体の性質から自発的に生ずるのではなく、
常に代替(この場合は交換と申しても良いのですが)を根源的な生活手段としている私たちの意識が、
物を捉える際に積極的に見つけ出しているものと言うべきでしょう。

ですが、全く代替が適わぬものと言うのは、畢竟相対的価値が無いものであるとも言えます。
とすれば私たちは、何の役にも立たない、潰しの効かぬものにも、それを理由に絶対的価値が見出せるでしょうか?
そこで、小生が申す絶対的価値とは相対的価値が無い為に、即ち利用価値や交換価値が失われた結果から事後的に
生ずるものではなく、代替を志向する意識を通して為される或る存在への価値解釈から生まれるものだと考えて
戴きたいのです。>>101で同情・共感行為に必須とされた代替不可能性とは、存在の唯一性の問題ではなく
存在解釈即ち価値観の問題ではないかと申し上げた事を思い出して戴きたいのです。
それを踏まえて戴ければ、或る存在における価値の絶対性が、有用性の有無の視点からそれが無い事を理由に
代替不可能とされる、その事から生ずるのではないと言う事がお分かりになるのではないでしょうか。
「失いたくない存在」つまり「掛け替えの無い」価値は相対的価値の無から反転して生ずるものではないのです。

「失いたくない存在」というのは、或る人間にとって特別な存在と言った程の意味でございましょう。
しかし、その存在がその人にとって「掛け替えが無い」と思わしめる程の価値があるものだとすると、
その絶対性は他者との価値基準に共有される様な性質として認識されないでしょう。
他者にとっても同じように代替が出来ぬものとして、絶対的価値を帯びて現実には存在していないでしょう。
かといって、そのような存在及びその価値には相対的価値が無いと即断する事が出来ないのも事実です。
小生は、(絶対的価値とは無関係に)相対的価値があるからこそ他者への同情は可能であると申したいのでございます。
一方、絶対的価値は主観でしか捉えられませんし、だからこそその主観にしか意味を持たないものなのです。
そしてそれは他者には認識し得ないが為に、同情の契機とはなり得ないのでございます(多分、>>101と言っている事が逆※)。
しかしながらこの粗過ぎる考えですと、問題を片付ける結論としてはとても成り立ちそうに無く、
最終的な解決には程遠い感が致します。おそらくはどこかに矛盾、乃至は観念の混同があると思われます。

※想像を絶する様な経験にこそ、真の意味での同情が出来るともいえますが・・・
 小生の不可解な疑問は、自分にとっての価値が他人にとっても価値である場合、
 その価値を持つとされる当の存在が、自他の認識や解釈や価値判断に関係なく、
 同一であり得るのか、と言う事です。自分と他人が示し合わせたように、
 その存在の価値を作り出しているとして、それが同一だと確認されても、
 その存在自体はやはり異なっていなければならないと思うからです。
 その存在の価値が自他で異なっていれば、存在が異なる必要も無い、つまり
 一つの存在でも好い訳なのですが。ですがこれも小生の勘違いで、
 結局は他人の主観は自己の主観からは知り得ないものだという、ありきたりな
 結論にこそ真実があるのかも知れません。だから価値も何も、人それぞれの
 見方次第でどんな風にでも変わり得るのかも知れません。

111無精髭:2008/06/11(水) 23:50:47
「失いたくない存在」は、その存在が存する事が「失いたくない」つまり「掛け替えが無い」事を指し示す事で
生まれるのではなく、私たちの「失いたくない」という気持ち、つまり切なる願いが存在に
結びついた時に概念として定着するのではないでしょうか。
何を「失いたくない」かを決めるのは主観の側であり、その想いがどこに向けられるのかも主観の価値判断に
委ねられている筈です。
要するに「失いたくない存在」は他者の間にも実在するようなものではなく、自己にだけ、
自己との関係においてだけ存在するものだと言いたい訳です。
なのに、その意味が他者にも容易に伝わってしまう事の不可思議さが、小生には上手く呑み込めないのでございます。

因みに「失いたくない」と思う気持ちと「代替したくない」と思う気持ちは同じものではありません。
なぜならば、或る物が代替出来るのであればそれを失う心配はあり得ないからでございます。
「代替したくない」と感じるとすれば、形だけでも代替することにより「失いたくない」存在を失ってしまう
かも知れないと恐れるからでしょう。それは取り返しのつかない事をしてしまう事に対する危惧であり、
もし完全に代替可能なのであれば、感じたくても感じられないようなものでしょう。

一方、「代替をしたい」と言う風な望みがあるような場合、それは「失いたい」と言う気持ちと一致するでしょうか。
代替をする目的は所有する価値の増幅にあると考えられますが、よもやそれを失いたいとまでは思わぬでしょう。
確かに代替で失われるものはございましょうが、希望された代替によって所有する価値が減じる可能性はない訳ですから、
そこに「失いたい」といったマイナスな語感が入り込む余地などございませんでしょう。
この事からあえて極論を言わせて戴くならば、
代替を望むのにそれが出来ぬという動かし難い現実に直面した時、
当の代替されぬものの実在が現実での代替存在の不在を確定付けると認識される事によって、
その存在の代替を目論む事で他の存在(との交換)から得られると期待された架空の価値が、
当の代替されぬ存在へと付与されるのではないでしょうか。
・・・これは有り得ない仮説でしょうね。

112無精髭:2008/06/12(木) 00:46:18
と、長長と一人投稿を、周りのご迷惑を省みずに(特にboro様に?)
断行致しておるのですが、これをやっていたら何だかキリが無いような
気が致してきましたので、そろそろsageでの進行も打ち切りに致そうかと
存じ上げます所。とにかくこの一連の問題はなかなか一筋縄には行かず、
小生もここいらで別の問題を考えて、気分転換を致したく存じます。
まぁおそらくは、ここ最近の神経質な投稿を一旦止めてしまう方が、
一番精神的には宜しいのでございましょうが。。。

秋葉原の例の事件もございました事ですし。。。
小生もあえてあれには触れませんでしたが。
勿論、sageていては何の意味もございませんけど。

誰もご覧でない事を前提に、そして多分F氏はお読みになるであろう事を
楽観視致して、粛々と申し上げますが、
おそらくあの事件には、或る程度の距離をとった方が無難かなと思いました。
あの事件について何か言うにしても、一時的な喧騒が治まってからにして置いた方が
良いような気が致しました。
2ちゃんねるなどでは、事件後すぐに複数のスレッドが立ち上げられ、ものすごい速さで
消費されております。内容はともかくと致しましても、
ああいった言説の流れには何か生理的に受け付けぬものを感じざるを得ません。
それは2ちゃんねるに限らず、個人のブログでの発言、ちょっとした評論染みた趣旨の
それなども該当しますけど。

ああいった言説に飲み込まれて自分を失うくらいなら、あの事件に無関心でいた方が
よっぽどマシと言うものでございます。が、多分F氏なら反対の事を仰るでしょうね。

加害者に共感するか、被害者に同情するか、などといった瑣末な悩みを吹き飛ばす
インパクトがあの事件にはございました。あるコメンテーターに言わせれば、
テロと同一なのだそうです。安直だな、と思いましたけど。
自分たちの(夢想する)社会から異物や余計なものは排除して考えたいのでしょう。
ああいう輩が出てくる必然性が社会に存するのではないかと言う、視点の切り替えを
試す事もできないようです。時間の無駄には成るかもしれないが、試してみる価値は
あると思うのですがね。

取り留めの無い世迷言を発しましたが、あの事件に関する小生の
今のところの雑感はこんなものでしょうか。
最後に余計なことだとは存じますが、一言。
あの事件の被害者の方々には同情できません。もう亡くなっていますから。
亡くなった方に対して同情できるなんて人がいたら顔を見てみたい。
死者への冒瀆とまでは申しませんが、そんな事をするのは良心に呵責のようなものを感じます。
被害者遺族の方々にも同情できません。これは良心の問題ではなく、する必要を感じないからです。
あの方々にもそれは大きなお世話というものでしょう。ですから小生は自分の心の中でもそれを
意識的に殺しますし、許しません。
正直申してあの事件には恐怖しか感じません。
それに関連して、模倣犯とか類似犯(同じか?)が出てくる可能性への恐怖もございます。
それでも街の通行人を、人の流れを信用し切って生きている小生って
一体何なのでございましょうね?

もしかすると、加害者に共感する人間って、それで精神の安定を図っているのかもしれません。
殺人犯の心理を把握しているから、俺は殺されないなんて、凄い飛躍でどこがどう繋がれば
こんな結論が出てくるのか不思議ですが、人を信用しなくなる事が自分への信用を高めるのかも
知れません。毎日をポリシーを持って生きることは、その良し悪しに関係なく好い事なのですね。

一言と申しておいて、また長くなってしまいました。
もう就寝致します。明日はもうちょっと頭がスッキリしておれば良いのですが。

113無精髭:2008/06/12(木) 23:43:01
>>111
以下、解り難い部分かと思われますので補足説明を致します。
>因みに「失いたくない」と思う気持ちと「代替したくない」と思う気持ちは同じものではありません。
・「失いたくない」とは存在への価値解釈であり、これがその価値の絶対性へと結びつきます。
 「失いたくない」という意識の下に捉えられた存在は、代替における相対的価値の基準から脱し、
 またその領域とは別の位相を持つ事で、私たち主体に直接関わるような新しい価値を生み出します。
 或る存在が或る者(の主観)にとって生き甲斐になる(ように映ずる)、とはこの事を指すのでしょう。
・「代替したくない」とは、一言で申すと、(或る一つの)代替可能性の拒否であります。
 ですから、代替それ自体を拒絶する様な意図ではないのです。
 よって、代替不可能性を希求するものでもない訳です。
 そもそも代替は、日常生活の意識の深い部分にまで根差しておりますから。
 「代替したくない」とは代替によって元の所有価値を減ずる虞から来るもので、
 代替(から来る)価値を捨てて所有価値を守る意図であります。
 客観的にはこの世の全ての存在が一様に、相対的価値の基準に浸されている事から、
 最終的には逃れられないという認識が確然としている為、そこにまた代替の可能性も生じますので、
 所有する価値の固有性が脅かされる可能性も同時に生じます。
 代替によって「失いたくない」と感じる事は、所有価値が代替によって減ずる可能性を否定できない、
 そのもがき苦しみを表した心の声でしょう。
 ここで注意して置きたい事は、所有価値はその嵩は増減するといっても宜しいのですが、
 その有無が問われる事はありません。所有価値はその所有者のアイデンティティーに密接に係わり、
 その者の価値解釈にも深く関わっているからであります。つまり、その者の生きる為の元手に相違ありません。
 
 (存在の)絶対的価値と(主体の)所有価値は異なります。所有価値はある意味では絶対性を有していますが、
 それは代替の場においての主体による一時的保留であり、代替意識の中でしか存在し得ない性質です。
 所有価値には実質はなく、常に代替の場に晒されています。それは価値を所有する事の目的が、それよりも
 もっと高い・多い価値を望むからで、且つその事実を現所有価値との比較により確かめた上で実行する打算であるからです。
 言うまでもなく、絶対的価値はそのような代替の場で決められる(相対的)価値とは異なり、
 寧ろ全く関係がないからこそ絶対なのです。その価値は、或る存在と主体との関係のみに生ずるものと思われます。
 であるからこそ他者には認識できない価値であると思われます。

 存在は、常に他の存在との相対的な関係の相で捉えられますので、純粋認識のみでなく価値判断においても、
 相対的価値の基準に配される事は避けられません。これは存在の唯一性や固有性をどんなに認識した(探した)ところで、
 絶対的価値を見つけ出す事に繋がらない事を意味しております。存在の唯一性や固有性、つまり存在のあるがままの姿形は、
 有っても無くても・どう有ろうが無かろうがどうでも良い、そもそも代替の事実とは無縁である、そんな事は考慮する必要も無い、
 と言った事は既に過去の書き込みで触れました(>>102)。
 絶対的価値は存在自体に内属するものではないと思われます。

 追記:主体と客体という根源的関係を取り結ぶ媒体は意識であると考えられます。
    これに、誰かとその誰かから「失いたくない(愛されている?)」とされているものとの
    絶対的関係(それ以外の他との関係から絶していると言う意味で)を重ねる事は出来るかどうか、
    意識とは何かと良く考えてみなければなりません。現象学の本でも読めば早いのですが。

114Ken:2008/06/13(金) 02:45:42
無精髭さんはウィキペディア「心の理論」を読むべし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
例によって日本語版は分けの分かんないことしか書いてないので、英語版を強く
お勧めします。

ヒトには他人の行動を通して、その人が何を知っているのか何を考えているのか
他者の視点として理解する能力が備わっています。当たり前のようですが、これは
発達を通して身につく能力であって、他の動物や自閉症ではこの能力が限られています。
これが人が他者に共感や感情移入ができる根本原因であって、人間の社会が成り立っている
重要な要因だと言われています(人間の社会では共感とそれと相反する罰という
二つのメカニズムによって高度な協力状態を持続させている)。

自分で意識しなくてもこういう心の作用は勝手に働いちゃうんじゃないでしょうか。
本質的に他人の心情を理解しているかどうかにこだわる意義がよくわかんないです。

115無精髭:2008/06/13(金) 21:08:46
Ken様へ

レスの程、有難う御座います。早速御読み致しました(他のスレにご投稿されたものも含めて)。

ウィキペディア日本語版の「心の理論」の項目には、既に目を通しております。
確かに、腑に落ちないと言うか、小生の疑問を解消してくれるものではございませんでしたね。
英語版がお勧めとの事ですが、はっきり申して、小生の語学力では歯が立ちません。
ですので、替わりと申しては何なのですが、「心の理論」や「ミラーニューロン」等の
文字で検索を掛けて、色々とクグっております次第。

>自分で意識しなくてもこういう心の作用は勝手に働いちゃうんじゃないでしょうか。
仰りたい事はわかります。例えば、目の前にいる他人が怪我をして痛がっている時、
或いは、TVで注射のシーンが出て来た時など、それに無反応でいようと努めても、
何かしらは感じてしまいますからね。
他人が痛がっている振りをしている場合(役者の演技)や、
手術シーンが精巧な作り物の人体を使って撮影されている場合なども、
実質的に痛みの内容が存在していないにもかかわらず、やっぱり何かいや〜な感じを身体に感じます。
ミラー・ニューロンやセオリー・オブ・マインドなどといったものを持ち出さずとも、
こういった事実がある事には、小生は疑いを差し挟みは致しません
(無論、この事実は事実として認めたままでも別様に解釈する事は出来ます)。

>本質的に他人の心情を理解しているかどうかにこだわる意義がよくわかんないです。
これはおそらく小生だけの問題なので御座いましょう。自分の心が良く把握できないので、
他人の心の在り方にも疑問を持たざるを得ない。
つまり、自他の別なく「心」の存在自体が疑わしいので御座います。
小生は自分に皆様(自分以外の一切の他者)の様な心があるとはとても思えないので御座います。
病気かと言われれば、それまでなので御座いますけれども。
皆様は自分の心をどのように扱っていらっしゃるのか、そして他人の心との区別をどう為さっていらっしゃるのか、
小生には気になりますし、そのお答えから結論される「心」の扱われ方・意味内容の実際が小生自身に妥当するのか、
これを明確に致す事が小生の目指す所のもので御座います。
要するに、小生は皆様が通念として抱いている(と思われる)「心」を同じように持ちたいので御座います。
それは小生が固有に感じる心、つまり他者を見て己の意思とは無関係に感じてしまう様な、
自然な反応とは違うのは言うまでもないでしょう。
なぜと申して、これが皆様がしばしば口になさる様な「私の心」であるとは限らないからでございます。

ミラー・ニューロンが自然と働くのなら、それに越した事はございません。ですが、それが人の意思とは無関係に
本能的に働くにもかかわらず、なぜ自分の心と他人の心が、それを有する(?)存在と共に別れてしまう必要が
あったのでございましょう?(これが小生には理解出来ない。)
この点で、それは不完全な働きとは言えないでしょうか?
ミラー・ニューロン=心だと申しても、他者の心情について「何となく分かる」としか言えなかった事態に、
何の変更も加えられない様に思われますから。
これを現実として肯定するか、あくまで個人の立場に立って拒絶するか、これが同情・共感行為に対する、
Ken様と小生の態度の違いで御座いましょう。
小生には、倫理的問題として取り上げ、粗略に扱わずに徹底的に他の可能性を追求する事が、良心の在り方として
正しいように思われてならないので御座います(おそらくはご理解戴けないでしょう)。
無意識に働く力を信じるよりも、それを一度括弧に入れて意識的に反省を加え、
ミラー・ニューロンは人間にとってただあるだけで、その存在の善悪は容易に決められないでしょう。
もしKen様がそれや「心の理論」等に拘泥なさるのであれば、同情過程や心の実在性を実証不可能と腐すよりも、
それが今正に個人の自我にとって存する意味を問い直して頂きたく存じます(社会にとって・人類にとってではなく)。
小生もボノボとかチンパンジーとか、動物の生態には多少興味も御座いますが(動物にも優れた社会性がある事など)、
人間がその中間ですよ、と言われましても何が何だか・・・。マア、それはどうでも宜しいでしょう。

116無精髭:2008/06/13(金) 21:10:06
独我論と言うものが御座いますけれども、小生は何とかそれを克服したい、要はその仕方に拘っておるのです。
「実際には確かめられなくとも、他人に心があると信じて生きなければやって行けない」とたまに見聞致しますが
これって本当かなぁ?と良く思う訳で御座います。無いなら無いでも好いからはっきりしてくれよ、と他人を
問い詰めたくなるので御座います(笑。。。と、これは不謹慎ですね)。

若しかするとKen様は、一人観念に閉じ篭る思索や一般的に常識について疑っても無益な懐疑心を、
酷く毛嫌いなされていらっしゃるのではございませんか?
これは正しい事でございます。小生に否定する権利など全くない。
同情問題に関わるこれ以前の一連のsage投稿など、Ken様には何の意味も無いもので御座いましたでしょう。
お読みではないとお察し致しますが、それで正解で御座いますよ、本当に
(もし義理をお感じになって(?)お読み下さっていましたならご愁傷様、ではなく尊敬致します。)。
しかしながら、小生は小生なりにあの問題の袋小路的状態において(無論小生が勝手に拘っているだけに御座いますが)
活路を見出したので御座います。打開策として、Ken様がTOMといったお考えをご提示なされた様に、
小生も、自他の心は混じり合わねども、何か共通の認識や共有財の様なものが媒体となる事で、
真の意味での同情は可能とされるのではないか、或いは同情の内容の真偽は自他共に互いに確認し得るのではないか、
こう考えたので御座います。それによって、同情や共感は小生が思っているよりも、
案外すんなりと行くのではないかと思いました。何せ、「心」と言う訳の分からぬ実体の無いものを扱うよりも、
(欲望に結びついた)「価値」とか現前している確固たる「存在」とかを中心に論じた方が、
まだ小生には実感した上でものを考えられるという点で、遥かにマシだと言うものでしょうから。
ですが、この方法は自分にとっては観念上の混乱を招き、他人にとっては晦渋を極めるものでございます。
止める気は毛頭御座いませんが、続けるのならもう少し問題と用語を整理致してからの方が良さそうな気も致します。
しっかりとした定義付けが必要なのだと痛感しております。
・・・皆様には、こんな事は「もう止めてしまえ!!」とお思いの事と存じ上げますが。

Ken様には、この度の小生の駄文連投によって、ご不快なお気持ちにさせてしまって、
何とお詫び申したら宜しいのか、適切な言葉が御座いません。大変失礼致しました。
>>114のレスの程は、有り難い忠言として賜りたく存じます。・・・全然すっきりしないのですがね

もう少しお時間をいただけるのであれば、もうちょっとマシなレスもできるかと思われます。
以上の内容に何か不可解な点がございましたら、その旨お知らせ下さいましたら大変助かります。

失礼な表現、並びに誤字脱字、構文相違など御座いましても、ご容赦下さいませ。

117無精髭:2008/06/13(金) 21:18:39
訂正。>>115

無意識に働く力を信じるよりも、それを一度括弧に入れて意識的に反省を加え(る事。)、
ミラー・ニューロンは人間にとってただあるだけで、その存在の善悪は容易に決められないでしょう。

以上、()内が訂正箇所になります。いつもの小生の癖ですね(ショボン)。

118無精髭:2008/06/15(日) 00:41:51
>>117
あの訂正ではおかしいですね(笑)
()内は「なければ」にした方が、後の文を受けるのには良さそうで御座います。
おそらく、文脈を無視して書き易い所から書いた為に、継ぎ足しをせずに
書きっ放しで置かれた文章が、忘れられて虫食い状態になったので御座いましょう。

小生自身、>>115-116のレスで満足致しておる訳では御座いません。
自己満足的な空言の連発は一旦中止し、暫くはKen様のレス(>>114
の内容に沿った投稿を心掛ける事と致しましょう。
説明責任は果たす覚悟に御座います(お付き合い戴けるのであれば)。

紫煙狼氏や人間魚雷氏のお考えに関連したレスにつきましては、
再び後回しと言った形になりそうで、大変に申し訳なく存じ上げます。
特に、紫煙狼氏の>>60に於かれましては、小生の一連のsageた投稿の中で、
遠回しに論じた心算に御座います(と申すのは流石に無理ですかナ)。
・・・いや、ちょっと関係する所もあろうかと存じます。
Ken様のレスがなければ、>>60の内容についてそこで考察致す計画で御座いました。特に
>他の人には単なるガラクタでも、持ち主には思い出の一杯こもった、物凄く大切な品物(プライスレス)

>一般的商品価値とは別に、本人評価額(無論、天文学的数字)的には、そのものずばり実物が
>元の状態のまま帰ってこないことには許せないでしょう。

>家族・親族・恋人を殺されるってのは、もとより価格評価不可能な人命を奪われる事
などの部分が、非常に興味深い。

人間魚雷様の「死刑囚仏説」は、勿論小生の「同情論」とでも申すべき愚説とは
何の関係も御座いませんけれども(無理矢理関連付ける事はなお可能ですが)、
色々と思う所は御座いますね。例えば、親鸞聖人の歎異抄にある有名な言葉、
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」を連想致します(人間魚雷様も
当然ご念頭に置かれていらしたでしょう)。
Ken様に倣ってソースでも張ってみますか(ウィキペディアですけど)。

悪人正機 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA%E6%AD%A3%E6%A9%9F

既にお聞き及びの事と存じますが、、山折哲雄は『悪と往生』で、
親鸞の上の言葉も含めて、歎異抄は全て弟子唯円の曲筆であるという仮説を立てておりますようで。
山折哲雄に関連したソースで参考になりましたのは、

『歎異抄』と誤解された親鸞 http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-32.html
「山折哲雄氏の『悪と往生』」http://www5b.biglobe.ne.jp/~yamayosi/public_html/memo95.htm
闇を抱える人間を見つめた親鸞http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d000408.htm

まぁ、普通に検索を掛ければすぐに見つかるものですけど(ちゃんとリンクが張れているかどうか心配だ・・・)。
許可なしで張ってしまいましたが、おそらくは大丈夫でしょう(小生、余りこう言った事はしない)。
あと、amazonのレビューもご覧になった方が宜しいかと。批判的なものが多いですが。

タクマやサカキバラやミヤザキの出現及び犯行を「事件より事故」と仰いましたが、
これは一般的に考えれば、被害者側に立った視点での感想だと受け取れますが、
人間魚雷様のお考えは、それには限定されない様な、加害者側の視点も含めた様な
何だか不穏な(?)印象も受けます。

119人間魚雷:2008/06/15(日) 08:54:28
取り急ぎ、とりあえずレスさせて頂きます。
私の「死刑囚仏説」と言いますのは「善人も悪人も同じ人間」
といった感じのものとは少々方向性を異にするものです。
基本的には、犯人が死ぬ(死刑)ことによって「善」に戻る(仏になる)
それが被害者遺族にせめてもの癒しになるのではないかというものです。

120無精髭:2008/06/15(日) 12:48:13
>>119
レスの程、誠に感謝致します。
取り急ぎ、小生もレスを。

>犯人が死ぬ(死刑)ことによって「善」に戻る(仏になる)
善に「成る」ではなく、「戻る」とお書きの所がミソでございますね。
と言うことはです、人間魚雷様のお考えでは、人間は元々善的存在として
生まれて来るものと捉えられている、こういう理解で宜しいですか。
つまりは性善説を御取りなのだと推察致しております。

そうであれば、秋葉原通り魔事件スレで親の責任を重要視なさる理由も分かる気が致します。
勝手に推察致しますが、おそらく人間魚雷様の「子ども」への見方がそこに基因しているの
ではございませんでしょうか。人間の最初の段階、大雑把に申して「子ども」(幼児に近いそれ)
はこの世に対して何の罪もなく存在する、産み落とされる赤ん坊は言わずもがな、自分が作られる事は
本人が望んでいた訳ではございませんから。「子ども」の存在の善悪を決めるのは、大人の都合からで
ございましょう。そして、人間魚雷様は「子ども」がそれ自体で悪いものなどとはどうしても思えない。
犯罪心理学に懐疑的でいらっしゃるのも納得出来ます。生来性犯罪人説やその先天的遺伝素質を云々する
事など以ての外、と言った所でしょうか。

「子ども」を本質上白紙(タブラ・ラサ)の状態であると見做す事、それに既存の大人が自らが憬れる善性を
投射せざるを得ない事。これも人間の業であり、その善悪も容易には感得されず、浅い性善説による見方では
無い事は確かでございます。性善説も性悪説も本質的には同じもので、要は人間の願望がそこに深く刻印され
ておるのでしょう。ですから、主張を展開する上でどちらの説を採るかはさして重要ではなく、人生の決意選択
の場面で、実際にどちらの説を採って生きるかが重要とされているのでございましょう。

一方、「仏とは何か」とは、「悟りとは何か」という問いを必然的に呼び込む為に非常に難しく思われます。
小生は仏教には全くの無知でございますから、その方面でなかなか突っ込んだ議論が出来ませんけれども。

>「善人も悪人も同じ人間」といった感じのものとは少々方向性を異にするものです。

>>118で挙げさせて頂きましたリンク先には、悪人正機の「悪人」とは刑法上や道徳的なそれと異なる
と書いてありました。と言う事は、善人の場合も洩れなくそれに該当するのでしょう(刑法上、善人など定義の
仕様が無い。せいぜいが「(刑法で定められた)罪を犯していない」と言った程度の否定的な意味しか持ち得ない)。
善悪がハッキリしていない、つまり現世利益が定まらない。本当に、仏教って難しいですよね。

>それが被害者遺族にせめてもの癒しになるのではないかというものです。

これは難し過ぎます。単なる遺族感情の慰撫を、効果として求めている訳ではないのですよね?
もし求めているのでしたら、別に死刑囚が仏になる(善に戻る)必要もない事になりませんか?
犯罪被害者遺族の立場にしてみれば、死刑囚が死ぬのはせめてもの癒しにはなるでしょうが、
殊更それを善にまで仕立て上げなければならぬとは思えないのですが。却って死刑囚を仏として
見る事に怒りを覚えるのが自然ではございませんか?(勿論、仏は現世的な意味での善人とは意を
異とするのでしょう)死刑囚が死刑に処される事、その過程を悪人が善に戻る成り行きとして
認識する事が、遺族にとって善であると言う事なら理解出来ますけれども。
しかし、それでは話が単純過ぎますし、それは遺族にとってのみ善であり、社会にとってや
第三者の私たちにとって、尚も善である必要性は無いような気も致します。少なくとも社会や私たち
にとっては、死刑は癒し(という善)にはなり得ませんから。
そもそも癒しが善であるかどうかも容易には決められません。

人間魚雷様には、どうしたら犯罪被害者遺族が犯罪者の死刑を善として認識できるのかを
ご説明して頂きたいものです。多分、小生が問題をややこしくしているだけかも分かりませんが、
その誤解をこそ解いて頂きたいものでございます。
お暇な時にでもレスして下さいましたら、大変に有難く存じ上げます。

121無精髭:2008/06/15(日) 12:58:24
>人間魚雷様には、どうしたら犯罪被害者遺族が犯罪者の死刑を善として認識できるのかを
>ご説明して頂きたいものです。

と書きましたが、当たり前な質問でございますよね。
これでは小生の望むお答えが返ってくるとは思われませんので、もっと正確に、

>人間魚雷様には、どうしたら犯罪被害者遺族が死刑によって犯罪者を善として認識できるのかを
>ご説明して頂きたいものです。

と変えましょう。これで質問の趣旨は大体お分かりになるかと存じます。

122人間魚雷:2008/06/15(日) 21:32:28
大前提ですが、私は殺人事件の被害者遺族になったことはありませんので、
すべて想像で書いております。妄想と言ってもかまいません。

>>つまりは性善説を御取りなのだと推察致しております

私は性善説も性悪説も取りません。
地球規模で強いて言うなら人間は「悪」だと言わざるを得ませんが。
「戻る」と書いたのは犯人が殺人を犯す前の自分に戻るという程度の意味です。
それがどんな人間かは、被害者遺族には関係なく、実際には善人でも悪人でもいいのです。

>>生来性犯罪人説やその先天的遺伝素質を云々する
>>事など以ての外、と言った所でしょうか。

先天的遺伝素質を否定するわけにはまいりませぬね。
しかしながら、生まれてからの環境の重大さがそれを上回ると私は思います。
どちらがどれくらいの割合で、どう人格形成に影響するかなんてことは分かりませんが。

>>「仏とは何か」とは、「悟りとは何か」という問いを必然的に呼び込む為に非常に難しく思われます

ここで私が言う「仏」とは「悟り」とは関係ありません。
我が国では死んだ人のことを「仏さん」と呼ぶことがありますが、
それと同時に、仏は最高の善であり、生きている人間が絶対に到達できないもの。
なにも仏教を知らなくても、我々の潜在意識の中になんとなく鎮座している観念。
「死ぬ」=「仏になる」=「善に戻る」
これも想像の中の前提です。

>>殊更それを善にまで仕立て上げなければならぬとは思えないのですが

まさにそこなんです!
犯人が国家によって殺されることで癒される、せめてもの癒し。
この癒しは高が知れている、と私は想像するわけです。
被害者遺族は犯人を強く憎み、恨み、止め処も無い怒りは時間ですら解決してくれず、
むしろ悲しみは深まっていくばかり。
遺族はその苦しみから逃れようと、意識するしないに関わらず、
精神をノーマルな状態に戻そうとしはじめる。
ところが、犯人を憎んでいる限り、その苦悩から逃れられない。

123人間魚雷:2008/06/15(日) 21:53:09
犯人に分かりもしない反省や更正を望むのではなく、
死刑によって(死ぬ事によって)究極の「善人=仏」にする。
ここで初めて遺族は犯人を憎む苦悩から解放されていくのではなのか?

つまり報復としての死刑ではなく、凶悪な殺人犯を「善」に仕立て上げ、
極限状態にある自己の精神を解放するために死刑が必要不可欠なのではないのか?
こんなことを想像するわけであります。

124人間魚雷:2008/06/15(日) 22:13:47
なんとも分かりにくい文章で恐縮です。
単純な報復としての死刑では苦悩は消えないが、
そこに「死刑囚仏説」を挟み込むことで、
遺族はひとつ前に進む事ができるとしたら・・・・・

この観念は日本に死刑制度が無くならない事と関係しているのかもしれません。

125無精髭:2008/06/16(月) 21:43:50
>>122-124
人間魚雷様へ
詳細なご回答の程、誠に深謝致します。

小生の読みも勿論、想像の上でございました。相手の考えを理解するには、ただ読んだり聞いたり
するだけでは足りず、自分の言葉でなぞる必要がございます。先回の様に、誤解や誤読を恐れても
いられず、寧ろ必須と言えるでしょうが、ともすると相手には不愉快な気持ちを抱かせる原因、下
手をすれば相手にすらして貰えなくなる虞ともなり得ます。
小生による曲解を修正する事を無理矢理押し付けてしまったようで、人間魚雷様には大変に申し訳
なく存じ上げます。

前置きはこの位にして、早速レスをお付け致したいのですが、未だご回答について充分な理解に
達しているとは言えません。人間魚雷様のお考えと当方の問題をちゃんと整理致す必要に迫られて
おりますので、返信は遅れそうでございますが、どうかご容赦下さいませ。
無論、それだけが理由で返信が遅れる訳ではありませんけど。
ちょっと小生も私的な悩みに囚われておりまして...なかなか思うようにこの件(及びこのスレ)に
関する思索に集中出来ておりません状態でございます。
秋葉原通り魔事件スレに投稿致しておるのもその現れでございます。
と申しましても、今に始まった事ではございませんが...
(このスレの過去ログをご覧になれば一目瞭然)

>なんとも分かりにくい文章で恐縮です。
いえいえそんな......
確かに小生には難しいお考えでございますけど、それは偏に小生の理解力の問題でしょう。
そんな事を仰るなら、小生の文章の方がもっと酷いです。
これからは良く考えて、焦らずゆっくりと書き込んでゆくことに致します。

かと申して、スレを放置する様な無責任な事は、曲がりなりにもスレ主なので自らに
禁じます(勿論、スレ主を気取っている訳ではございません)。
このスレのテーマはかなり自由なものだと考えておりますし、「無限回廊」をご閲覧
の皆様でございましたら、そのご関心に沿ったお書き込みも色々とお出来になるかと
存じ上げますので、小生の議論にはかかずらう事なく、ご遠慮せずにどんどんお書き
込み下さいましたら宜しいかと存じ上げます。

126紫煙狼:2008/06/23(月) 13:08:43
無精髭さんにお誘いいただいたので、スレッドをお借りしますね。

>>ケットシーさん
貴方は「人の命が一番尊い」という認識でいらっしゃって、私はそこに敢えて異議を
唱えるつもりはありません。ただ、私なりの解釈は少々異なるもので、もしかすると
最終的に、両者共通の認識に到達しうる可能性に期待して返答いたしますね。

食卓に上る肉類や野菜類。これも尊い命であることは間違いありません。動物というものは、
自らが生きるために他者の命を糧としなければならない宿命(仏教的には業と表現しますか?)
を持っています。これは避けようのない事実ですから受け入れざるを得ませんが、不必要な
殺生は禁忌ですよね。例えば鯨が絶滅危惧種であるとして、鯨を食べることを我慢するのは
極めて当然のことだと思いますが、日本の食文化を守るという視点もあってよいと思います。
従って、むやみに乱獲せず、殺生した以上は可能な限り人間に生活に有用な物資として利用し、
努々冷蔵庫の中で腐らせるようなことを避けなければなりません。それも食育の一環かな。
あまりに酷い飢饉に見舞われると、野生動物はもとより、人でさえ共食いを始めます。
これも自分が生きるために不可避なことであり、一概に悪と決め付けることはできません。
こういうのは「最大の禁忌」と「業」の狭間の深遠な部分ではないでしょうか?
少なくとも「相手が人間ではないから命の価値を軽視できる」のではなく、
相手に強い思い入れがないから非常に徹することができるのだとおもうのです。
実際、私は私の飼い犬のために自分の腕をくれてやってもかまわないとさえ思っています。
しかし、よそ様の犬のために指一本くれてやる気にはなりませんものね。

ただし…非常に徹するということも限度問題で、私の場合、それが生きる上で必要であるという
制限は最後の最後まで堅持したいと思っています。それは相手が命を弄ぶ様な外道であっても。
例えば、腐れ外道が銃を乱射していて、放置すればより多くの尊い命が散ることが分かっていて
この外道を成敗することに私は躊躇しません。しかし、それは現場緊急性のためであって、
逮捕し身柄を拘束し武器凶器となりうるものを奪い、身体の自由をも一部制限してなお、
この外道の命を奪うことが現場緊急性によるものであるか、我々が生きるうえで必要なことか
私には疑問であり、このような外道畜生のために私たちが「やむにやまれぬ理由とはいえない
事情で命を奪う」ことで罪悪感を感じなければならないのか疑問なのです。

(続きはまた後ほど。)

127紫煙狼:2008/06/23(月) 22:12:34
(続きです。)

そう言えば「人を殺すという最大の禁忌を犯すことによって、人外の存在となる」なんて解釈がどこかで
挙げられていましたね。これはケットシーさんの言う、「人の命が最も尊い」ものであるとした上で
「人外の命は簡単に奪える」を肯定する解釈だと感じます。

仰るとおり、ハエ・ゴキブリetc.etc...我々にとってこれらの命を奪うことは不衛生であるという理由や、
気持ち悪いという理由で十分なのかもしれません。そしてそれは「思い入れするに困難で、ちっぽけな虫」
だから可能なのだという推察は見事に真実を射抜いていると思われます。
しかし、人の命に比較して虫の命は尊くないから殺生しているのかと言うと、それは少々違うのかな、とも
思うのです。殺虫剤を使うとき、ハエやゴキブリの命について考えている人が何人居ましょうか?私は虫の
命が尊くないから殺せるのではなく、虫を殺すとき虫の命の尊さを考えている人は居ないと思うのです。
それは、殺人を犯すとき、対象の命の尊さを考えないのと変わりません。

ハエと違ってゴキブリは殺虫剤を浴びてから死に至るまで少々時間がかかります。殺虫剤を浴びて、もがき、
苦しみながら死んでいくゴキブリを目に我々は、なお暫く動き続けるゴキブリに恐怖を感じます。その恐怖は
決して殺虫剤という薬がいかに恐ろしい薬で、ゴキブリがいかに苦しんでいるかという自分自身の行為の恐ろ
しさに慄くと言うより、強力な殺虫兵器を使用してなおすぐには死なないゴキブリに対する恐怖であり、
苦しみに対する同情でもなく、簡単に排除できない外敵に対する過剰な憎しみです。それはあたかも殺人犯が
殺害相手に対し「生き返ること」を恐れ、死体をなおも切り刻み続ける恐怖心と同等といってよいでしょう。
そこに命の尊さを考える余裕など存在しうるとは思えないのです。そして、事後やや経って、何かの機会に
虫にも命があるという事実を考えなければならないとき、虫の命の尊さは人の命の尊さに劣るとすることで、
罪悪感を減じようとしているに過ぎないのではないでしょうか?

カエルだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ。

そうやって命の尊さを子供に教えてきた我々が、我々を死に誘うわけでもないゴキブリを、不衛生であるとか
気持ちが悪いという理由だけで殺すには「虫けらの命は尊くない」と思うことによって命を奪った事実を、
奪う瞬間に虫の命の尊さなど考えもしなかった自分を正当化しているだけに思うのです。

128人間魚雷:2008/06/23(月) 22:46:25
ハエ、ゴキブリ、ぜひ「蚊」も仲間に入れて下さい。
私はこいつらを殺す時に快感すら覚えます。
特に「蚊」です。
少なくともハエ、ゴキブリは身を守るために逃げますよね。
蚊はどうです?逃げるどころか人間様に向かってくるではありませんか。
しかも、あざ笑うかのよに飛び回っております。

ところが、こんな私でもこいつらを殺した後に微かな「罪悪感」が残るのです。
この快感と罪悪感って何でありましょうか?
我々が普段あまり感じる事の無い罪悪感とは、時として快感と表裏一体ということでしょうか。
薬師丸ひろ子を持ち出すまでもなく、「殺す」ことは「快感」・・・・
いや人間というものは、げに恐ろしきものであります。

129紫煙狼:2008/06/23(月) 23:14:58
では、その「尊い人間様のお命」について考えて見ましょう。

どの生き物の命より尊い「人間様の命」を奪った凶悪犯は、既に人外の存在なのでしたね?
であるからして死刑は「ハエやゴキブリ、シロアリと同等かそれ以下の害獣」を駆除する、
人としてごく自然で当たり前の行為であり、そこに罪悪感を感じる必要はない。

ところが、魚場を荒らすという理由で漁師さん達がイルカを大量に駆除すると、
「かわいそう」って言うんですよね。某、欧米諸国の人々は羊、豚、牛を殺して食べるのは
かわいそうではないと言いつつ、韓国のように犬を食べるとか言うと「動物虐待だ」って
身勝手なことを言うんですよね。クジラは賢い動物だから殺してはいけない、なんて
平気な顔をして命の優先順位をつけるんですよね。アヒル(ガチョウ?)に無理やり
餌を飲ませ続けて肝脂肪にさせたのが世界三台珍味のひとつ。ヨーロッパの誇る食文化。
私にはただの身勝手にしか思えないのですよ。。。

前述したように、人が生きる上では、確かに他者の命を奪わざるを得ない。だったら、なぜ、
必要最低限の命しか頂かないと考えないのでしょう?かくいう私も、ゴールデンウィーク明け
まで3桁近い肥満体形でした。私は、自分が食べてきた食材としての尊い命に恥じないような
生き方をすれば、きっと、その命に報いることができる、そう勘違いしていました。
でも、私は明らかに肥満するほど不必要に命を奪い続けていたのですよ。不必要に過剰に他者の
命を奪い続け、成人病予備軍に仲間入りするほど馬鹿げたことってないですよ。それに気づいて
6週間。私は13キロ体重を落としました。まだ続けます。可能な限り生きるのに必要な分だけの
食物しかとらず、食べるときには食材の命に感謝し、自分の業の深さに苦悩しますよ。

もちろん、それを他者にも強要する意図はありません。しかし、生きるために命を頂くという
基本的で宿命的なことですら、本当は深く深く意味を考えなければならないことなんですよね。
そう考えると、人間の命は尊くて、それ以外の生き物の命はそれほど尊くないなんて傲慢で
だいそれた発想は浮かばないように思うのです。命の尊さを比較するということ自体が、
本当は理性ある人間として、やってはいけない事なんですよ。きっと。

では、死刑囚の命はどうでしょう?死刑囚は死刑になるほど凶悪な犯罪…ほぼ100%殺人を
犯しています。その罪自体は決して許すことはできないし許されるものではないと思います。
「自分が生きるために必要不可欠」でもないのに殺生を犯し、人間社会のルールから外れた
人外の存在。私はその死刑囚の人生の価値を認めません。しかし、その命は尊いものです。
人間としての価値は限りなく低いものであったとしても、命の価値はみな同じなのです。
私はそう考えるのです。

130紫煙狼:2008/06/23(月) 23:28:21
ごめんなさい。途中で人間魚雷さんにツッコミをいれられたら、
思わず面白くてそっちのほうに引きずられてしうことにしますね(^^)

私は成人してから喫煙を始めたので共感できる経験がないのですが、
「トイレでセンコーの目を盗んですったタバコはうまかった」
なんて嘯く人、いますよねぇ(苦笑)
かく言う私、一度だけ妻に内緒でパチンコに行った事があるんですよ。
あの内緒で隠れて何かをする罪悪感に裏打ちされた快感って何でしょうね。
当然、バレて後でこっぴどく叱られたのですが(笑)

では、人間魚雷さん、アナタ、蚊を生け捕りにした事ってありますか?
いや、私、たまたま何かの拍子で「生け捕り」してしまったことがありまして。
おかしなものでね。殺すのが忍びないんですよ。窓の外に逃がしてあげました。

まぁ芥川龍之介の「くもの糸」のように、天国から大量の蚊が助けに来ても、
前門のトラ、後門の狼のごとく、困るだけでしょうがね(笑)


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