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日野OL不倫放火殺人事件

1麻美:2003/06/12(木) 22:49
あれから10年たつんですね・・・・・・。当時、私は大学1年生で
師匠、キャッシーと呼び合っていたというのが印象にあってこの事件
のことはよく覚えているつもりでしたが、テキストを読んでみて2度
も子どもを堕胎していたことが分かってショックです。放火によって
不倫相手の男の子どもが2人死亡したとはいえ、無期懲役は重い判決
だと思います。日本では判例主義によって量刑を決めていますが
現住建造物放火罪の法定刑は無期または死刑、もしくは5年以上の
懲役と殺人より重い罰則が規定されており、結果的に2人が死亡した
ことによって無期という判決を下したようにも思います。
民事訴訟での賠償金のことも考えるとどちらが被害者なのか
分からない事件ですね。やりきれない思いでいます。

702ufloat:2010/02/05(金) 05:42:23
やった、ついにKenさんに勝った!

>感情的で論理性がないようなので。
ギクッ!
えーと、その、私も「何の罪もないのに焼き殺された幼子2人」に関して
感情的にならず、できるだけ感情を排して論理性重視で論を唱えて
いたならば、圧倒的人気の無精髭さんには無理でも、
紫煙狼さんになら勝てたかもなあ、と(笑)。

703無精髭:2010/02/06(土) 08:02:24
2chの書き込みと無限回廊bbsの書き込みの違いは
次の点にありますね。すなわち、私も紫煙狼さんも
ufloatさんもKenさんも、ここで何を書いたかを
リアルでも相手を選ばずに話せるのだけど、あちらの
住人の大半にはどうやらそれが無理っぽいことw

704Ken:2010/02/06(土) 14:27:40
なるほど。確かにあの調子で面と向かってコミュニケートしてたらちょっと怖いですね。

705Sub:2010/02/07(日) 17:03:27
2ちゃんも夫婦避難派の原住民が、たまに来る異論派を叩き出すというやり方で
ごく少数の人間のみでまわしているんだと思いますけどね。
議論の域に達していないように見えます。あと言葉使いが下品すぎますね。

706泰子:2010/03/29(月) 22:35:09
グーグルの画像検索でキャシーの名前を調べたら彼女が出てきたんですが・・・
彼女がキャシーなのでしょうか?


http://images.google.co.jp/imglanding?q=%E5%8C%97%E6%9D%91%E6%9C%89%E7%B4%80%E6%81%B5&imgurl=http://www.nazoo.org/distress/anatahan1.jpg&imgrefurl=http://yomi.mobi/read.cgi/changi/changi_ms_1225927513&usg=__DOwEpOx4mG2Oh4A2llPp7E_NMIE=&h=222&w=172&sz=11&hl=ja&um=1&itbs=1&tbnid=_6YQDymno31kcM:&tbnh=107&tbnw=83&prev=/images%3Fq%3D%25E5%258C%2597%25E6%259D%2591%25E6%259C%2589%25E7%25B4%2580%25E6%2581%25B5%26um%3D1%26hl%3Dja%26safe%3Doff%26gbv%3D2%26tbs%3Disch:1&um=1&safe=off&gbv=2&tbs=isch:1&start=5#tbnid=_6YQDymno31kcM&start=9

707無精髭:2010/03/29(月) 22:46:52
>706
それは通称「アナタハンの女王」と呼ばれた比嘉和子ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

708ジジ:2010/04/05(月) 05:18:40
こんばんは。

「八日目の蝉」をググったらここに来ました。
読むともなしに読んでいたのですが、ついつい皆さんの議論に引き込まれて、最後まで3時間かけて読ませていただきました。事件自体は、ほんとうに哀しくて心が苦しくなるようなものでしたが、そこから様々な人の意見交換がはじまって、それぞれ人の感じ方、捉え方が違うのが見えてくるのは、とても意味のあることだと思います。なので、あまり上手に書けるかどうかわからないのですが、私も意見や感じたことを残していきたいと思います。

私は女性で、不倫経験もある独身女性です。そんな私から見ても、Kさんはあまりに独善的で自己中心的だと感じました。罪もない幼い子どもたちの命を奪い、誰が巻き添えになるかもわからない放火という罪に対する判決は、無期懲役で妥当だと思います。(その理由は、様々な見解から完全にシェンさんにアグリーという感じです)いや本来なら死刑が妥当かもしれませんが、女性として母としての「本当の痛み」を考える時間を与えられたという、未熟さに対する情状酌量的な判決だったのではないかと感じています。

ですから、「女性は守られるべき存在」だからという観点で不倫相手のSさんこそ事件の原因とする方、「子どもを亡くした悲しみが生んだ復讐」として大幅に情状酌量すべきという方などには、賛同できません。

私は、一人の人間は「個」として扱われるべきであり、女性も子どももそうでなくてはならないと思います。そして、その「個」は大人として成熟したなら、自らの行動を律していく必要があると。ですから、どんなに甘言があったとしても、Sさんの人間性を見抜き、自らの過ちを悔いてまっとうな方法で立ち直る責任がKさんにはあった。そういうチャンスはたくさんあったはず。それなのに、ずるずると関係を続け、それがギリギリの段階になって爆発したのは、あまりに未熟すぎます。

強い情動に突き動かされ、相手の甘い言葉に惑わされて、不倫という苦い恋を経験した女性の多くは、様々な合法的な方法で、必死になって自らを立て直し、生き続けています。それが、間違ってしまった場合の大人の“ケリ”の付け方でしょう。「Sさんに会わなければこんなことしなかった」と言い続けている彼女からは、「社会が悪いから」という通り魔と同じ匂いを感じます。

また母性による復讐説も、すごく違和感を感じます。「二人を中絶した」その事実に対して、“自分”の辛さの方が大きくて、“子ども自身”の苦しみや悲しみに対する観点が欠けているように思えるからです。火事で亡くなった子どもたちは、それぞれが生きる「個」ではなく、彼らの「所有物」だった。だからこそ「この悲しみを彼らにも味合わせてやりたい」という復讐心がトリガーになったのではないかと思うのです。その時に、自分たちの子どもと同じ思いをさせてはいけない、という気持ちがあれば、こんな残酷なことはできなかったはずなのに…。

大人になってからの未熟さって、、始末におえない。もちろん、未熟でも「犯罪」には至らず、周りに迷惑をかけて生きている人はたくさんいるのでしょう。そうSさんのように。そうならないよう、いろんなものの見方や考え方に触れ、自分でも考えることが大切なのでしょうね。がんばりますー。

いきなりきて、長いスレすみません。

709ジジ:2010/04/05(月) 05:42:55
続けて失礼します。

ずっと拝見していて、女性の意見に多かったのが、Kさんが相手を傷つける方法として子どもを復讐の対象にしたことに対する賛同(私もあるかも、的な)が多かったように思いました。「自分も傷つけられたのだから、相手も傷つけられるべきだ」と考えてしまったのは仕方がない、というご意見ですね。

時々子どものいる女性と接すると「自分の所有物」という感覚がすごく強くてびっくりすることがあります。たぶん、子どもは自分の分身であり、自己実現であり、存在意義であり、、みたいなものが、もうDNA的に皮膚感覚として女性にはあるのだと思います。私はまだ子どもはいませんが、その感覚は想像できます。だからこそ、身を呈してまで愛情を注ぐという利点もあるのですが、、実はこれってすごくコワイ感覚なのかなとも思いました。自分に対する攻撃と、子どもに対する攻撃を混同する。相手に対しても同様に。それで、八つ当たりなのか復讐なのかといった話にもなるのでしょう。

子どもを「個」として理性的に見る知性が、母親には必要なのかもしれないですね。多分、私も子どもを持った時、「自分の一部」という感覚と、「いやいや別の個体だから」という感覚の中で揺れ動くのでしょう。その感覚が女性にデフォルトであることをご理解いただけると、理論的にがしがしお話を進められる男性の方々も、女性のちょっとヒステリックな意見にも対応できるのではないかと思いました。

これって時々自分の夫に対してもやる人いるんですよね。夫がえらくなると自分も偉くなったような(笑)。この自己同一視というか?ホント厄介です。でも、愛の一種でもあるのかな?ちょっと違う気もするけど。ちょっと脱線しましたが。

710ami:2010/04/12(月) 14:15:33
この事件は本当によく覚えています。人間に宿る業を感じますね。
この事件の経緯をよく調べましたが、確かに加害者が放火殺人にまで至った動機が分かる気がします。
彼女は、自分ではどうすることもできない怒りをぶつける場所がなかったのでしょう。
不倫女性は世の中に沢山いますが、彼女のように純粋で真面目な人が泥沼化すると危険です。
私も不倫経験がありますが、本当に駄目だとわかっても好きだと引き寄せられてしまうんです。
彼女は結婚を考える年齢でもあったので、自分が結婚できると希望を抱いたんでしょう。
それが完全に裏切られた。残った自分の体はボロボロ。そして愛した人までが、いまや
裁判で訴えてきた妻の味方になってしまった現実。想像すると胸が痛みます・・・
罪を償って牢屋から出てきたら、新しい人生を元気に過ごしてほしいです。

711ami:2010/04/12(月) 14:33:21
前述の記載間違えました。裁判で訴えたのは、加害者でした。
調停の最中に事件を起こしたようです。
原田(夫)は、加害者に電話で「君は卑怯だ」といったそうです。
お前が一番卑怯じゃないかい・・・?
ともあれ、この裁判にまで発展したことが、殺人を犯す一番の要因になったかと思われます。

712ufloat:2010/04/12(月) 23:53:14
切り口の違うお2人の書き込み、興味深く拝見させていただいております。

>>708-709
>「自分の所有物」という感覚が〜
確かに、これによるのではないかとみられる事件はありますね。通称「お受験」殺人だとか。
ただ、そういう考えの人はその考えなりに想像力を働かせるべきかと。
「自分の分身というほどかわいい我が子2人が、本人は何も悪いことをしていないのに、
父親なり親戚なりといった別人への恨みが原因で殺された。あなたは温情判決にすべきと言えるか」。

>>710-711
>本当に駄目だとわかっても好きだと引き寄せられてしまう
ここはひとまず理解するにしても、なぜそういったダメだと分かっていることをやって、
破綻すると予想できるはずのものが破綻して、それで幼子を焼き殺そうとするのか。
不倫などしているからには、つらい結末になることは分かりきっていたはずですし、
もし分かっていないなら、「純粋で真面目」どころか単なるお子様でしょう。
ジジさんが良いことおっしゃっていますので、お借りしておきます。
「自らの過ちを悔いてまっとうな方法で立ち直る責任がKさんにはあった。(中略)ずるずると関係を続け、それがギリギリの段階になって爆発したのは、あまりに未熟すぎます」
「不倫という苦い恋を経験した女性の多くは、様々な合法的な方法で、必死になって自らを立て直し、生き続けています。それが、間違ってしまった場合の大人の“ケリ”の付け方でしょう」

>それが完全に裏切られた。残った自分の体はボロボロ。そして愛した人までが〜
それならどうして裏切り者の不倫相手を殺害しないのでしょう。
もし不倫相手があまりにもひどい(ほとんどの人が殺意を抱いておかしくないような)
態度を取っており、それに耐えかねて加害者が「不倫相手を」殺害したのであれば、
この事件はもっと多くの同情が得られていたはずです。
私が以前から不思議なのは、加害者擁護論の大半に「殺された子どもたち」の視点がない点ですね。
「父親が不倫相手を傷つけた」なんて理由で殺されるのは、誰だって嫌ではないですか?

(それと、もう1つ不思議で仕方ないのは、本件を「加害者に同情する」か
「不倫相手に同情する」かの二者択一と考えている人がいるらしいこと。
「特にどちらにも同情しないが、子どもたちには同情する」という選択肢はどこでございましょう)

713無精髭:2010/04/13(火) 03:25:05
ジジさんとamiさんはともにキャシーの人間性に注目しておられるようですが、
恋愛感情や復讐心(八つ当たり)を「人間に宿る業」として認めるかどうか
と言う点でいくつか見解が相違しているようですね。

その中で私が気になったのは、ジジさんとamiさんとが同じような問題意識を
お持ちでいながら、当の問題にどのように対処すればいいかでどうやら異なった
態度を表明されていらっしゃるらしいということです。

少し詳しく書かせてもらいますと、愛する人のパーソナリティを自分の一部として
しまうこと、つまりナルシシズム的な恋愛感情の自然さについて、ジジさんは厄介、
amiさんは危険と仰るけど、それを純粋と見るか不純と見るかでお二人は異なって
いるわけです。ジジさんは、相手がいかなる他者であってもその人を「個」と見なす
理性を自分が持つことで件の感情表出について対処できるとお考えなわけでして、
それを踏まえた上で、愛を口実に一個の人格を無視して自己同一視を正当化するのは
むしろ不純であると主張されています。これに対して、amiさんは、恋愛感情の自然な
流れには誰しも抗いがたく、まして気がある人物からの誘惑に対する耐性に関しては
個人差があるという事実から、理性の力が及ばないほどの強さを持った感情というもの
があるのだと主張されているようです。おそらく、理性と感情のバランスを欠いた状態、
理性と感情が別個に存在している状態、理性よりも感情が強いことが恒常化している
状態等々を、心が純粋であることの証左であると仰っているとお見受けしました。
私見では、amiさんは純粋な心という一見自明そうでありながら、それは具体的にどんな
心的状態を指すのかと問われれば説明に窮してしまうような難物を、「子ども」に対する
世間一般の見方を参考にすることで明確なイメージを導き出していらっしゃるようで、
これが正しいとすると、キャシーは「大人になりきれていなかった子ども」ということ
になりそうです。

私見を述べさせていただくなら、amiさんが「業」と仰っている(と思われる)ものの
表出は理性で抑えられなくはないですから「業」とは言えないのではないでしょうか。
そもそも理性ではその発現が抑えられない本能的なもの、例えば三大欲求なんかが「業」
と言うにふさわしいのではないかと思っております(狭い意味での性欲は理性で抑え
られるかも知れませんが)。

ただ、人を好きになる、恋をするっていうのは大抵の人にとってはごく自然なことなのでしょうね。
しかもamiさんによれば、心が純粋であればあるほど恋愛感情は表出されやすいということらしいですね。
そういうことを踏まえますと、純粋無垢な心が恋愛感情を持ったとき道徳的理性が無力化するというのは、
感情が理性を圧倒したということに他ならないわけですから、とにもかくにも理性なき人への同情は
禁じえないという理性的な判断が人々の間で生まれてもおかしくはないですね。。。

また、それと対になって、実生活において理性で感情を抑えられない人の心は純粋であると言えるかも
しれないけれども、この事件について語る上で、理性よりも感情を優位に置く人の心は純粋じゃないの
だろうなーとかいった感想も出てくるでしょうねw 作為的であるか否か、意志が介入する余地があった
かどうかで純粋であるかどうかも変わるということですかね。

714無精髭:2010/04/13(火) 03:56:22
しかしながら、私には「純粋な人」というのがやっぱりよく飲み込めないです。この事件に則して
私の疑問を手っ取り早く言ってしまうと、理性で抑えられない感情の表出という点でキャシーの行為が
正当化ないし同情の対象とされるのなら、そのことは師匠の不埒な言動や妻の暴言(事実かどうかは
分からない)にも当てはまるはずですよね。なのに、キャシーを純粋な人だという人は大抵、師匠は
不純だし、妻はキャシーほどに純粋でないと考えているみたいなんですよ。私のような未熟者からしても、
キャシーと同じくらい、師匠も子どもに見えて仕方がないのですが。

また、別の見方をさせてもらいますと、師匠を結婚詐欺師と同じくらいに狡猾であると解釈することが
できるなら、師匠ほどではないにせよ、情事や妻との会話においてキャシーも打算的に行動したかも
知れないという可能性を見出すことはさほど難しくないはずなんですけどね。キャシーが殺人を犯した
ことや自分が付けた火が隣家へ燃え広がる可能性を認識できなかったということから、犯行に及ぶずっと
前からキャシーが打算的でなかった(純粋だった?)と推定することは率直に言って間違っていると
思いますよ。だいいち、人間関係において将来を見据えて自分の有利になるように行動できなかった
からと言って、その人に打算的に行動しようとする意思が全くなかったとは言えないでしょう。
自分では打算的に行動してきたつもりが、意思に反する結果となってしまったなんてことはよくあるので。
おそらくそれを他人が一連の行動過程を無視し結果だけをみて、理性的でない行動と判断するだけですね。
目的を遂行することに失敗してしまえば、その途中経過においては打算的であるとしか言えない言動であっても、
もはや打算的ではありえないことになる、というところでしょうか。それはそれですっきりとした魅力的な
考え方であることは否定しませんが、色々と反論を思いつくことができるので、やっぱり私は違うと思うなー。

ちなみに、>708-711を注意して読ませていただきますと、恋愛や心の取り扱いに関する見解
ばかりでなく、子どもに関する見解においてもジジさんとamiさんの違いが表れているようで
非常に興味深いと思いましたね。

ん?

>711にある「この裁判にまで発展したことが、殺人を犯す一番の要因になった」ってどういう
ことでしょうか。師匠の妻が訴訟を起こしたことがキャシーが殺人を犯す要因になったというのなら
分かりますが(事実とは異なりますが)、キャシーが自ら起こした訴訟が要因となって殺人を犯した
のなら、自業自得としか言えないんじゃぁ。。。でなければ、人を殺すための理由をわざわざ自分
から作り出したんじゃないかといった、身の毛立つほど恐ろしい発想が。。。

そうじゃなくて、何かが裁判にまで発展したってことが、キャシーが殺人を犯す一番の要因になった
ということを仰りたいのでしょうか。だとすれば、一体何が裁判にまで発展したのでしょう? 
しかも、その発展した何かとは、おそらくキャシーの意思とは全然関わりがないのですよね?

715無精髭:2010/04/13(火) 04:11:30
>712
>(それと、もう1つ不思議で仕方ないのは、本件を「加害者に同情する」か
>「不倫相手に同情する」かの二者択一と考えている人がいるらしいこと。
>「特にどちらにも同情しないが、子どもたちには同情する」という選択肢はどこでございましょう)

子どもたちに同情しない人がいる背景にはたぶんこういう事情が絡んでいるのでは?

どこにでもあるような情事がこんな事件に発展してしまったのは、この事件の関係者が
揃いも揃って稀に見るバカだったからだ、と考える人が意外に多くいて、バカどもが起こした
バカな事件の被害者なんて、しょせんバカな夫婦によるバカな愛の営みから生まれたのだから
バカな子どもだったに決まっている、そんなバカな被害者に同情するのもバカな話だ、
などと吹聴していたりなんかして。

まぁ、「特にどちらにも同情しないし、関係者全員が非難されて当然」という人は
珍しくないと思いますけど、そういう人が更に過激になって、子どもを親の所有物
と見なすことを比喩以上の意味で捉え出してしまうと、深く考えもせずに「子ども
の犠牲は器物の損壊に比することができる」と思ってしまうみたいなんですね。
その人個人にとってはそれでもいいんでしょうけど、他人を評価するのにまで
そんな考えを持ち出してきてしまう必要性はない気がします。他人がどんな理由で
子どもを作ったのか、子どもに対してどういうふうに接しているかを論じることには
慎重にならなければなりませんよね。

ふと思ったのですが、自分の子どもをどういうふうに捉えればいいかということは、
たとえば臓器移植が必要な子どもを救うために両親がもう一人子どもを作ってその
臓器を用立てる、いわゆる救世主兄弟の問題とかにも繋がるんじゃないですかねぇ。
子どもを作る目的がどんなものであるかによっては、たとえ子どもをモノ扱い
することでも一概に悪いとは言えなくなるのではありませんかねぇ。

何はともあれ、事件後に縒りを戻して子どもを作った被害者夫婦を非難する人たち
の論旨は、なぜだか省略されすぎていて、よく分からないことが多いです。
表面上、見解の異なる者同士がお互いに言葉を尽くすことによって、自分にとって
自明であることが他人にとっては全く違うということに気づかされたときの驚きを
味わえるというのも、えも言われぬ議論の醍醐味だと思うのですが。
(実のところ、その人が子どもに同情しないのはジジさんが仰るように子どもを
モノとしてしか見ていないからなのかも知れませんねぇ。だけど、そうなると
事件後に縒りを戻して子どもを作った被害者夫婦を同じ理由で非難することは
言動不一致ということになりますよね。同じ人が、子どもに感情移入できない
ような認識を持っていて、なおかつ事件後の被害者夫婦の行動を非難している
なんてことはたとえストレス発散のための書き込みであっても馬鹿げたことに
変わりはありませんから、万に一つもありえないだろうとは思っておりますがね。)

716ufloat:2010/04/13(火) 20:23:51
>>715
無精髭さんが誤解されていないことは十分承知しておりますが、他の方々への
補足として、あえて揚げ足を取らせてください。

>子どもたちに同情しない人がいる〜
子どもたちに同情しないこと自体は、私は「あり」だと考えております。
私自身は子どもたちに同情しますが、あえてそれをしないのも選択肢の1つではあろうかと。
ちょうど無精髭さんが、「宮崎勤死刑執行」で「被害者に同情しない」とおっしゃったのと同じですね。
ただ、私がここで言いたかったのは、
「加害者、不倫相手、その妻、殺された子どもたち、その他様々な関係者の行動や態度、被害は、
それぞれ個別に(同情でも非難でも)評価されてよいし、そうすべきではないか」ということです。
要は、凶悪放火殺人犯を非難する人について、なぜか不倫相手に共感していると勝手に決め付けてしまう
(どちらに同情するかの二者択一)、特殊な思考回路の人々に対して疑問を呈したわけです。

>事件後に縒りを戻して子どもを作った被害者夫婦を非難
私、これが不思議で仕方ありません。
世の中、不倫をしている夫(妻)などいくらでもいるわけですが、それが妻(夫)に
バレた際、相手を許すも、離婚して慰謝料を取るも、当然ながら妻(夫)の勝手です。
「夫(妻)の不倫が発覚。しかし妻(夫)は耐えがたきを耐え、それを許す決断をした」
などという話、その辺の低俗ゴシップ誌や三流ドラマのお涙頂戴シーンにさえあふれているでしょう。
私が疑問なのは、世の中に五万と存在する「より戻し」夫婦に対しては批判を加えようともしないくせに、
たまたま不倫した相手が狂人で、夫婦の子どもを焼き殺した場合には、なぜか夫婦を批判する人。

>「子どもの犠牲は器物の損壊に比することができる」
ここ、ぜひとも加害者擁護の方にお伺いしたい点ですね。
「加害者の不倫相手(暴言を問題にする人はその妻も)は人間である。
いくら不倫相手を殺してやりたくても、人殺しはやってはいけない。
だから不倫相手が所有している器物(子どもたち)を代わりに破壊すればいい」
などという空恐ろしい想像さえしてしまいましたので、ぜひともこれを否定して欲しいです。

717かもめ:2010/04/14(水) 04:51:20
「八日目の蝉」から探して来ました。あれですらファンタジーだったのかと、
びっくりしています。

思い返してみれば私も、職場の既婚者の男性から、
師匠のようなことを言われたことがあります。
でも、まず既婚であると思っていたので、ご家庭の悩み(特にお相手の対人関係)
を聞くにとどまりました。

また、何の約束もしてない人と深い関係になりそうになったこともあるのですが、その時は
子供は産んでくれる親を選べないので不道徳なことをしてはいけない
といったような話をして、防止しました。

あまり理解がないのに意見して申し訳ありませんが、多分(古いですが)
「生涯の伴侶」「操を守る」「結婚前の娘さんに傷がついてはいけない」
などの基本的な倫理、
子供をまだ持っていない人は、
自分がその後生まれた子供だったらどうしよう
と、ことが起こる前に考えればよかったのではないでしょうか。
そしてここまで異常な状態になる前に、
第三者がその問題を聞いてあげればよかったんじゃないでしょうか。

そんなのわかってたら誰も苦労しないよという声が聞こえそうですが、
どうかしたら起こりそうな事件なだけに、私も気をつけ、
周りの人などそのようなことで悩んでいたら、できるだけ気づいて声をかけるようにしたいと思います。

718無精髭:2010/04/14(水) 06:35:03
>710-711
そうそう。amiさんにこれだけはお聞きしたかった。
キャシーが不倫の泥沼にはまり込んでしまい、結果的に殺人を犯してしまったのは、
自らの業の深さゆえとお考えなのでしょうか? それとも純粋で真面目な人だったから
とお考えなのでしょうか? このいずれでもないとすれば、amiさんの考えでは、業が
深いことと純粋で真面目であることとは同じことだとされているのでしょうか?

ウソを見抜けなかったり、
まぁ同じことかもしれませんが、簡単に騙されたり(誘惑に弱かったり)、
意志が弱く、自立心に欠け、人に言われるがままに行動してしまったり、
秩序や道徳を無視して自分の欲求の赴くままに行動したり、
まぁ同じことかもしれませんが、理性よりも感情に重きを置く姿勢を貫いたり、
善悪の区別が付かなかったり、などなど、
こういった性向を世間一般では「純粋さ」と呼んでいるのでしょうかねぇ。

キャシーを「純粋な人」と呼ぶ人はちょこちょこ見かけますけど、私には
キャシーのどこらへんが純粋なのかがイマイチ理解できませんねぇ。
いや、むしろキャシーを「純粋な人」と言う人が「純粋」という言葉を
どのように定義しているのかが全く分からないということこそ、
問題の本質なのでしょう。マジで教えていただきたい。

まぁ、それはともかくとして、キャシーが仮に純粋であったとしても、
それを強調することは少しもキャシーの擁護にはならないと思うのですがね。
というのも、キャシーが本当に純粋無垢であったとしても、それゆえに罪なき
幼子を二人も殺し、あまつさえ放火が甚大なる二次被害を生む可能性に思い至ら
なかった以上、その冷酷無情な純粋性は社会にとって有害でしかないということ
にならざるを得ないからです。つまり、法や道徳に依拠した観点から、純粋である
ことは悪いことだと言ってしまえばよいことになります。キャシーに同情する人や
キャシーを擁護する人が「純粋さ」という美辞麗句を活用することによって
結果的にキャシーに対する世間の見方(キャシーの社会的評価)が変わっても、
相変わらずキャシーは何を仕出かすかわからないようなキチガイというレッテルを
貼られ、頭の治療が終わるまでの間、牢屋に繋がれることになるでしょう。
純粋であることは責任回避のための免罪符にはならないわけで、結局は何らかの形
で責任を取らされる(割りを食わされる)のです。

これは蛇足ですが、仮にキャシー本人が刑事責任を免れたとしても、今度はそんな
手に余る純粋性をキャシーが持っているのはなぜだ、なんて疑問の声が上がりそう
ですね。つまり、キャシーが勉強や仕事はできたが、社交術において白痴だったのは
ひとえに親の教育が間違っていたからではないか、などといったような一種の犯人
探しが盛んに行われそうですね。

あとまぁ、繰り返して言うようですが、「純粋な人」というイメージを作り出すこと
によって、キャシーを擁護するだけならまだしも、更にその純粋な人をコテンパン
に痛めつけたということを理由に師匠や妻を非難する人は、純粋な人をコテンパン
に痛めつけたということが逆に師匠や妻の純粋性を証明しているということを失念
しています。言葉の意味が持つ普遍性に気づかずに危ない綱渡りをしているわけです。
定義のあいまいな純粋性によってキャシーを擁護できるのであれば、それと同じ理屈
によって師匠や妻にもあいまいな純粋性を見出すことができないはずはありません。
そして、本件は純粋な人たちが起こした悲劇なのだと言って片付けてしまうことに、
いったいどんな意味があるのでしょうか?

719無精髭:2010/04/14(水) 06:36:55
>716
白状しますと、私は事件が起きたのはキャシー、師匠、妻がそれぞれ前代未聞のバカっぷりを
余すところなく発揮したからではあるまいかという考えには少なからず共感しているところも
あるんですよ。ただ、彼らを3馬鹿トリオと呼ぶ人たちの言い分に共通して言えることは、
彼らのバカさ加減がどのように本件を有機的に構成し、事を最悪な結末へと一歩ずつ着実に
進展させていったかについての詳細な分析が全くと言っていいほど見当たらないことなんです。
あえて避けているのか何なのかは知りませんが、それが私には不満この上ないですね。極端な話、
「師匠は下半身でものを考えるようなバカ。そんなだめんずに惚れたキャシーも当然バカ。
そして、下半身バカと結婚した妻が別の意味でのバカであることはもちろんだが、彼女が
身の程知らずなキャシーとバカな男の取り合いをして、自分が劣勢と見るや前後不覚に陥り、
前代未聞なバカ発言をしてしまったとしても、何の不思議があろうぞ」といった程度の見解を
ここで披露したとしても、何も言わないに等しいと思いますし(バカという言葉の乱用・
同義語の頻出によって事件を画一化しているに過ぎない)、この事件についての新たな
見識を得ることは誰にもできないと思います。たとえばバカという人間に酷似した動物の生態を
解明することに関して、私たちはバカではなく人間だからバカの気持ちは分からないと匙を
投げたようなものですから。ちなみに、三人のうち誰か一人でも賢ければ、この事件は起き
なかったとか書く人がいますが、これもよく分かりません。こういうことを書く人はこの三人が
それぞれどうしようもないことを仕出かしたのを根拠に矯正不可能なまでにバカであることを
論っているわけで、そんなふうに事件当事者がバカであることを言い立てれば、同時に彼らに
対して「少しでも賢ければ…」などと想定したりすることに何の意味もなくなりますからね。
言い換えれば、常人を逸した三者のバカさ加減が事件発生のファクターとして三つ巴のように
絡まっていることを強調すればするほど、彼らに賢さの片鱗を見出そうとしたりする努力は
無駄だと言っていることになるわけです。

ところで、誰も擁護しないよとうそぶく人たちに限って、キャシーに対する非難よりも師匠や妻に
対する非難により大きなウェイトが置かれているように感じられるのは、私の勘違いですかね?
他にも、キャシーを擁護する発言には寛容なのに、師匠や妻を擁護する発言には排他的だったり
するんですよねぇ。で、被害者を叩いて犯罪者を擁護するなんてお前ら人間の屑だなというふうに
言われても、もし本当に自分が誰も擁護しない派だったらスルーすればいいだけのはずなのに、
大抵はスルーできないみたいなんですよ。おそらくキャシーが叩かれたからではなく自分が
叩かれたから、自分を擁護するために言い返すのでしょうが、事件関係者を擁護しないという
ことを徹底している人が、なんで自分を擁護しないということも徹底できないのかが不思議なんです。
そもそも事件関係者を擁護するということは、その事件に関して限られた情報しか持ち合わせて
いない第三者が、その事件を詳細に語るため・真実に近づくために、事件関係者の目を借りて
事件の経過を辿ったり、事件関係者の主張によく耳を傾けようという意図から彼と同じ立場に
立ったりすることに他ならないわけでしょう。そういったことを一切試みることなく、事件を
再構成、あるいは関係者の動向を客観視できるというんですからね! だったら、誰も擁護
しないイコール自分の意見にだけすがりつくというのは、第三者に求められる当然の倫理的要請
として今言った目的を完遂しなければならないことを考えると、非常に危うい姿勢だという気が
するのですが。この点について、あまりにも無神経な人が多すぎることに私は驚いていますよ。

誰に対しても同情しないよと言う人たちの多くが、キャシーを擁護する発言をしてさえいなければ、
被害者に対して自分勝手なことがいえるのだと勘違いしているのであれば、私たちは彼らが何らか
の秩序に基づいた良心から発言していると見なすことができなくなります。見方を変えればキャシー
が被害者で師匠夫婦が加害者とも言えるなどとのたまう過激な人もその事例に含まれるでしょう。
誰にも同情しない者がなぜ事件に並々ならぬ興味を持つのか(他人から指摘されればそれすら否定
しかねませんが)、彼らにはなぜそんな批判をする必要があるのかを無闇に分からなくさせなくても
いいものなのに。

720無精髭:2010/04/14(水) 06:37:30
「特殊な思考回路」云々に関しては禿同ですねぇ。私の場合も師匠の妻を擁護しているのはある種の
ポーズに過ぎないものがあって、私のレスをよく読んでくれる人には何となく分かるかと思うのですが、
私は自分が関与していない事件における人間関係について何か発言する際には、その人間関係をリアルに
感じるために必ずその中の誰か一人を選んで、その人の立場に立ってみて色々と考えを巡らすように
していますね。それが加害者擁護の人たちとか夫婦批判の人たちとかには全然分からないみたいなので
辟易していますよ。

重千代さんとのやり取りの辺りから、子どもたちを擁護するには無理やりにでも師匠の妻の立場に
立たなければならないのかなぁと感じるようになって来ましたよ。だいたい被害者が子どもで、
しかも不倫騒動とは直接は無関係だったためか、生前の被害者に関する情報が致命的なまでに
不足しているでしょう? だから、半ば補完的に子どもたちについて誰よりも詳しく、また同情的
でもあろう妻の立場というものに固執せざるを得ませんでしたね。

ですから、師匠の妻を擁護するのは子どもに感情移入するためで、便宜上やっているに過ぎない
ところが私にはありますね。本音を言うと、私は子どもに同情すること自体かなり困難(というか抵抗)
を感じていたのですが、妻が持つ被害者としての目線を利用することで幾分かすんなりと子どもについて
語れるようになりました。子どもたちも母親同様に不倫の被害者であるとかいった行き過ぎな観点を
事ある毎に私が強調するのは、私が子どもを被害者として見ることに実は抵抗を感じていて、それを
乗り越えるためにしているからなのかも知れないなと思い至りました。

そろそろ師匠の妻に同情するのにも飽きたので、今度は難易度が更に高い師匠にでも同情するとしますか(笑)。

前に書いたことですが、事件当事者の誰にも同情しない人は、人間関係の外部にとどまることで
一見公平で客観的な姿勢を保持しているように思われますが、実は事件当事者の誰に対しても
同じような評価しかできない立場に陥ることになりかねませんし、そういう自己本位な立場に立った
見解に固執しているがゆえに、ともすれば自分とは異なる心を持つだろう他者を自分が理解できる範囲で
矮小化してしまう危険性があります。誰にも同情しないと言うことがこの事件を語る上で何らかのポーズを示す、
よほどの道徳的な動機に支えられているのでない限り、底が浅い不毛な議論を繰り返すだけになるかと思われます。

ところで、私にも気になっていることがあるんです。それは、子どもたちに同情する人たちの中に、
子どもが殺されたことを親のせいにする人たちがいるってことですね。人によって、師匠の不埒な
言動のせいにしたり、妻の暴言のせいにしたり、またはその二人のせいにしたり、とさまざまですが、
こういう人たちが子どもたちに向ける感情って、他方で子どもたちの死に関しては殺したキャシーが
悪いに決まっていると主張する人たちが子どもたちへ向ける同情と同じものなのでしょうか?
非難の念と同情の念は表裏一体であるのだとすれば、たとえばキャシー非難派と師匠夫婦非難派とで
非難の内容が異なれば、同情の内容も異なるのが当然ではあるまいかと今のところ私は考えているのですが。

子どもたちへの同情から出発してキャシーへの非難に帰結するのはまぁ分かるのですが、
子どもたちへの同情から出発して師匠夫婦への非難に帰結するのはどういうことなのでしょう?
前者の場合、出発点である子どもたちへの同情が比較的明瞭であるという感じがするのに対し、
後者の場合、出発点である子どもたちへの同情が捉えどころのないものに感じられるのです。

721紫煙狼:2010/04/15(木) 00:46:22
>>710
>彼女のように純粋で真面目な人が泥沼化すると危険です。
うーん…彼女は本当に純粋で真面目な人だったのでしょうか。こういう言い方をすると手ひどく
叱られそうですが、純粋な人が純粋な気持ちのままで誰かを強く愛する、とした場合、その相手が
妻帯者であり、それでもその愛を貫こうと思うのであれば「日陰の女」を受け入れませんか?

一番でなくても構わない。妻になれなくても構わない。子供を持てなくても構わない。
ただ、ただ、その人と過ごす時間を持てるのであれば、いや、その人を影からでも見つめることが
出来るのであれば、それだけで構わない。片思いでも構わない。一生彼のことだけを思って、
彼との思い出だけを宝物に生きていこう…。

こんな女性の方が何万倍も何億倍も純粋だと私は思いますね。私はそういう考え方だから、
彼女に対しては逆に「不必要に高いプライドとそれを守るためには手段を選ばない怖さ」を
感じるのです。決して道化では終わらないというプライドの高さ。常に自分が勝者でなければ
ならないという強迫観念。そのためには不道徳なことも非合法なことも厭わぬ捨て身さ。
そんなものしか感じられないのです。そして、彼女の行動パターンは、そういう性格であると
したとき、もっとも矛盾無く手に取るように説明がつくと思います。


むしろ、師匠の妻の方が何千億倍も純粋だと思いますよ?師匠の妻が守ろうとしたものは
「妻の座」ではなく「子供達にとって良き両親」「子供達にとって良い家庭環境」であり、
それは必ずしも「自分のため」ではないのですから。
私は北海道出身だからか、師匠の妻からは「子を守るために身を捨てる母熊の凶暴さ」を
感じても、キャシーからは「自分を守るための凶暴さ」しか感じられないのです。

722紫煙狼:2010/04/15(木) 01:16:31
こんな事をキャシーに求めるのは酷な話ですが「愛すればこそ身を引く」
純粋な不倫女に残された、ただひとつの道ではないですかね?

大岡裁きの逸話を引き合いに出すなら、母親を名乗る二人の女。
赤子の手足を引っ張り合うが、赤子可愛さゆえに先に手を放したほうが真の母親。

師匠という赤子の手足を引っ張り合う妻とキャシー。
妻は師匠を愛するが故ではなく、あくまで子供にとって最適な環境の一部品として
師匠の手を放さない。キャシーは師匠を愛するが故ではなく、自分が勝者である
ために師匠の手を放さない。二人とも「師匠自体はどうでもいい」から師匠が
二つに引き裂かれようとも手を放さない。かくして力負けしたキャシー。

しかし、若くも美しくも無い妻にキャシーが負ける。そんなこと認められない。
キャシーのプライドはそんな不名誉に耐えられない。キャシーは妻に負けたわけでは
ない。妻は単に子供達の代理人にすぎない。キャシーは師匠と妻の間に生まれた子供達に
負けたわけです。あの子供達さえ居なければ、自分は決して負けなかったのです。
だから怒りが、だから殺意が子供達に向けられるのです。
キャシーは復讐する相手を間違えたのではなく「純粋に」子供達を殺したかったのです。

おお、キャシーにも純粋なところがありましたね。

723ラフマニノフ:2010/04/16(金) 00:08:53
女:優秀でお堅く真面目一辺倒。その反動か、一度肉体的快楽を伴う関係に
  陥ると男の甘言に騙され続ける。しかし、恐らくその事実は認めたくは
  ない。結果、ドロ沼の不倫関係から抜け出せなくなる。そして、今は
  法律上の婚姻を結べないと分かってはいるが、快楽を求め男の要求に応
  じ無計画にも妊娠してしまう。結果、2度も堕胎。

男:始めは好意を持っていたかも知れないが、要は、妻以外にもタダで性欲
  処理をする相手が欲しかっただけ。「妻とは離婚する」、などの甘言は
  ご都合主義人間の常套句。欲望のおもむくまま無計画にも妊娠させた。
  一方で、恐らくは離婚によるリスクを恐れて、何食わぬ顔で夫婦生活を
  営んでる小賢しさ。(こんな男はゴマンといるだろう)

この男女と妻、3人の思惑と感情がもつれあい最悪の結末を迎えた。
ほぼ思考停止状態の、後先考えない短慮な女による現住建造物放火。
何の罪もない幼子2人が生きたまま焼き殺された。この事実は重い。

キャシーは中年になった。何を思っているだろう。達成感か?後悔か?
もう少し、いい意味いい加減だったらこんな結末は無かったかもしれない。
小狡い師匠のような男と出会わなければ。
しかし、キャシーを擁護するものではない。放火殺人は重罪である。

724ufloat:2010/04/19(月) 06:31:40
amiさんのご主張が正しいならば、加害者に同情すべき部分はあれど、なぜその矛先が
子どもたちに向いたのか明白ではない(不倫相手を殺したなら「復讐」として同情も
ありうるが、子どもたちを殺したのは八つ当たりなので同情のしようがない)のに比べ、
紫煙狼さんのご意見では子どもたちに矛先が向いた理由が明白ながら、同情ができませんね(笑)。

さて、実は私、本件においてあまり「妻」を批判する気にはなれないのです。
関係者は「3バカ」ではなく「2バカ」であるか、せいぜい「2.5バカ」ではないかと。
もし妻が、一部の人々が盛んに喧伝しているような「度を越した行為」を取っていたのなら、
妻にも一分の問題があったということになりましょうが、今のところ証拠が存在しない以上、
とりあえず「妻は暴言を吐いた可能性がある」と仮定する以上のことはできません。
その上で、それぞれ関係者が取った以下の4つの行為のうち、より罪が重い行為と
さほどでもない行為、あるいは無精髭さんの言うところの「関係者の立場に立って」考えた際、
自分も取ってしまうかもしれない行為とそうでない行為を考えるとしたら、一体どうなるでしょう。

1.不倫をめぐるイザコザから、不倫相手の子ども2人を焼殺する。
2.未婚者を甘い言葉で誘い、しばらく不倫を続けた後、配偶者とよりを戻す。
3.配偶者の不倫を知り、不倫相手をなじる。
4.この世に生を受けて数年生きる。

まず4に何の過失もないのは明白ですね。これで殺されなくてはならないのなら、
今ごろ皆様と議論などできていません(笑)。
次に3、これは厳密には法に触れる可能性のある行為ですが、そもそも不倫は自分または
相手の配偶者を裏切る行為ですから、なじられる覚悟もなしに不倫などしてはダメ
(覚悟があってもダメですが)で、ある意味暴言を吐かれて当然ではないでしょうか。
正直、自分が妻の立場にあって、夫の不倫が分かってパニックや憔悴状態に陥れば、
私も不倫相手に暴言の1つも吐いてしまうかもしれません。
社会的・道義的に考えれば、この程度はやむを得ないとみなされるのではないかと
(繰り返しますが、相当に度を越した行為についてはまた別の問題です)。
2の行為は道徳的に問題がありますが、困ったことに世の中にはこのような人が大勢います。
さだまさしの歌でも「俺は浮気はしない。多分しないと思う。しないんじゃないかな」などと
言われるほどですからねえ。無論、発覚の際には配偶者に訴えられ、慰謝料を支払った上に
離婚され、さらには社会的評価を落とすリスクを甘受しなくてはなりません。
さて、肝心の1ですが、普通の人はこんなことはしません。

妻を批判し、加害者を擁護している人からすれば、妻が暴言を吐くのは
「突拍子もない、あり得ない」行為で、加害者の放火殺人は
「自分もやってしまうかもしれない、共感できる」行為なのでしょうか。
私はむしろ、暴言は不倫の被害者の行動として想定可能な範疇に入ると考えているのですが。
さらには前に書いたように、妻が夫とよりを戻した行為については、妻に責められるべき点は
何一つないわけですから、妻が「暴言」程度では済まないほどの暴挙に出ているのでもない限り、
犯人を擁護しつつ妻を「事件の責任者」とみなす意見にはもちろんのこと、
「3バカ」の一角として扱うのにも、正直言って抵抗があります
(ただ、無精髭さんは「妻にかなりの暴挙があった」という最悪のケースを前提にした上で
考察を進められているのではないかと推察しておりますが)。

725紫煙狼:2010/04/19(月) 12:38:12
妻を批難する心理には少なからず逆算の構図があると思います。

キャシーはダメ男に騙されるようなウブで純情な女性です。
愛する人と結ばれることだけを願い、断腸の思いで中絶すら受け入れた
耐える・かよわき女性です。彼女は誰かに迷惑をかけるくらいなら、
自分の死をも受け入れるでしょう!!
しかし、そんな彼女が、こともあろうか、子供を放火殺人したのです。
ウブで・純情で・我慢強くて・かよわい女性が放火した。人を殺した。
そこには「通常では考えられないような凄惨な切欠」が必要です。

そして、キャシーの証言では彼女を狂わせるに充分な発言が妻から
浴びせかけられた…となっている。ならば、それが事実でもない限り
こんな放火殺人をキャシーが起こすわけが無い。故に妻の暴言は事実だ。
キャシーに殺人を犯させるほどの暴言を吐いた妻、許すまじ!!!

まぁ、キャシーが弱い者であるという大前提が誤っていますけれどね。

726かもめ:2010/04/20(火) 02:38:44
>キャシーに殺人を犯させるほどの暴言を吐いた妻、許すまじ!!!
変なたとえですみませんが、もし必殺仕事人がいたら始末されるべき人
・・といったような感覚なのかも。

私は前述の方々のようにすごい考察はできないので、
普通にもしそれぞれの人だったら、どうすれば犯罪が防げたのか?
という視点で考えてみようかと思います。

師匠:不倫はいけません。避妊なしもダメです。
 特に家に子供ができ、訴訟まで起こされようというところまで来れば
 早期に既婚男性なり、弁護士に相談して、自分が社会的にどうなるのか
 予期すべきだったと思います。
キャシー:おおむね師匠と同じですが、こちらは
 遅くとも一度目の中絶の時点で医師によく相談し、将来の体調、自分の
 家庭生活について熟慮すべきだったと思います。
 また、法的措置を求めるならその間の不利な行動など、控える。
妻:関係が終わってるのに、相手に向かって直接ファイアーさせるようなまねをしては
 ダメです!いくら腹立たしくても、ストーカーを刺激するようなものだと思います。
 師匠とまだ続いてるのでは・・ということなら興信所や弁護士にまかせる
 (そのくらいの資金ありそうだし)またもし暴言をしたのなら、その後の警戒を
 怠るべきではなかったと思います。

全員こんなに理性的だったら大事は起こらなかったとは思いますが・・・
不倫や中絶が軽犯罪にでもなれば少しは抑止力になるのかな?
ストーカー被害にあった人の話なら聞いたことがありますが、警察からは、
事が起こらない限り介入できないと言われたそうです。

個人的にはキャシーは再犯しなさそう(法的措置のアプローチもなしにいきなり
犯罪に及んだら別ですが)だし、夫妻もあまり子供を大事にしてるように見えないので
極刑はしなくていいと思います。

事件後まもなく子供をもうけたのは、師匠がまた不倫をするかもしれないから
だったかもしれませんが・・・

727無精髭:2010/04/20(火) 06:21:49
(以下に連投させていただくのは、重千代さんとやり取りをしてまもなく大半を
書きあげたものをこの度加筆修正したものです。なのでスレの流れから浮いて
しまう部分もあるかと思いますが、その点、ご容赦いただきたく思います。)

『現代』※と無限回廊その他の事件サイトとの事実関係における食い違いは、
この事件に興味のある人にとっては周知の事実なんですかね。以下、2chの
関連スレの頭によくコピペされている資料を元に書き込みたいと思います。
(2chのソースと言えども出典は明記されているし、その扱いにもぞんざい
という感じは受けないので、一応その情報と分析は真実を物語っているものとする。)
 http://yomi.mobi/read.cgi/human7/human7_ms_1195568678
 http://www.unkar.org/read/human7.2ch.net/ms/1213756624
 http://logs.dreamhosters.com/html/1/215/151/1215151126.html

 ※『月刊現代1997年9月号・10月号 獄中手記 私が落ちた愛欲の地獄』講談社

キャシーが親元を離れて一人暮らしを始めた理由を「毎日でもデートしたかった
から」とするのは、以下が事実だとすると時系列的に無理があるとのこと。

師匠とキャシーの仲が上司・部下の関係から男女の関係に深まっていったのは、
90年10月にキャシーが他の職場へ異動になっていた師匠と偶然再会してからの
ことだそうです。そして、師匠がキャシーを初めてデートに誘ったのが12月。
ところが、キャシーが一人暮らしを始めたのはその年の8月だそうですから、
それ以前から二人の間が親密なものであったといったことがなかったとすれば、
引越しの件については師匠のこととは別の理由がキャシーにはあったとしなけ
ればならないのではないかと。

以上により、「時間に余裕をもって仕事したいから」というのが一番の理由
だったとしても不思議はありませんね。

キャシーの体重が激減した時期についても異説があるようです。無限回廊の
記事に従えば、師匠の妻による「執拗な電話攻勢」が始まってから「お腹から
掻き出す」発言が出てくるまでの間に起こったことという風に捉えざるを
得ないですが、『現代』によれば、問題の発言があった同じ日に師匠が別れ話
をしにキャシーのアパートを訪ねたらしく、キャシーの友人を間に挟んだその
話し合いの途中から猛烈な下痢となり、以降、体調を崩してしまったらしい
です。つまりそこでは問題発言以後の出来事とされています。

ちなみに体重激減の原因については、無限回廊の記事では師匠の妻による
「執拗な電話攻勢(その中で発せられたであろう罵詈雑言)」とされている
のに対し、『現代』を参考にした2chの書き込みでは、問題の発言と別れ話の
ショックが原因、みたいな分析がされています。

ただ原因に限って言えば、この二つの説は相補し得るのではないかと思われ
ます。不倫が発覚した5月18日から妻の発言&別れ話があった7月26日まで
の間に師匠の妻によって行われたとされる電話攻撃が、実はいつ変調を来た
してもおかしくない状態にまでキャシーの精神や身体を追い詰めていたので
あり、師匠の妻による問題発言や師匠から切り出された別れ話なんていうのは、
消化器が悪くなったり不眠症になったりするかしないかの一歩手前のところ
でそれらを引き起こすような、単なるきっかけに過ぎなかったのだ、というふうに。

『現代』と無限回廊その他の事件サイトとの事実関係における食い違いについては、
この他にも、キャシーが犯行時に使った合鍵をどこで手に入れたのかということが
ありますが、以下に展開させていただく私の愚考には関係がないので省略させていただきます。

728無精髭:2010/04/20(火) 06:26:54
師匠の妻が取ったと伝えられる言動については以前から疑問に思っていた
ことがあります。

・なぜキャシーに電話を掛け続けたのか?

師匠の妻が夫の不倫を知った5月18日から問題の発言があったとされる7月26日
までの間、師匠の妻がキャシーに電話を掛け続けたというのは、どう考えても
尋常ではないでしょう。だからこそ、そこに師匠の妻の異常性を見て取る
ことは容易いのです。しかし、だからと言ってそれが他の解釈を退けるほど
説得力のある見方でないのは言うまでもありません。むしろ師匠の妻は至って
普通であったとした上で、しつこく電話を掛けたのはそうしなければならない・
止むに止まれぬ事情があったからではないかという方向で考えていく方が
適当ではないかと思うのです。

無限回廊の記事によればキャシーは「妻子ある男と不倫したのだから自分が
悪いという気持ちがあり、ひたすら謝るだけだった」とあり、師匠の妻は
その素直な応対に拍子抜けがしたと書かれていますが、ならばなぜ師匠の妻は
その後もキャシーへ執拗に電話を掛け続けた(挙句の果てに件の言葉を発する
まで電話攻勢がエスカレートした)のでしょうか。

自ら非を認めて、電話口でとは心から言え反省していることを態度で示している
相手に対して、二ヶ月強も続けて一方的に、しかもだんだん攻勢を強めていきながら
(相手の都合を無視して)電話を掛け続けるなんてことが普通考えられますでしょうか。

(ちなみに私は、師匠の妻が「頻繁に電話を掛けた」とか「電話口で一方的
にまくし立てた」とかいった情報についても、実際にあったこととの間に
ズレないし隔たりがあるのではないかと疑う。)

いやあり得ないことではない、実際師匠の妻はそんな心性の持ち主だった
のだろう、と結論するのは先に書いたように簡単ですが、冒頭で挙げたよう
に、不倫が発覚した後も師匠とキャシーの関係は完全に切れていたわけでは
ないということを暗に示す資料もあるわけです。

さて、不倫がバレて、一度は愛人と手を切ると約束したにも関わらず、夫が
愛人と手を切ったという確証が一向に得られず、それどころか愛人に対する
未練をいまだ断ち切れずにいる様子を目の当たりにすれば、いても立っても
いられずに愛人宅へ電話を掛けて、あんたの方から振ってくれと要求するの
は、別に不自然な言動ではないと言えるでしょう。

もしキャシーが無限回廊の記事にもあるように心から反省していたのだと
すれば、妻の要求を聞き入れることに何の躊躇いがあるでしょう。そして
キャシーが妻の要求に応えて自ら師匠から手を引きさえすれば、妻の方では
少なくともしつこく愛人宅へ電話を掛ける必要はなくなるはずです。ですが、
実際はそのようにならなかった模様。

不倫が妻にバレた師匠は、自分の意思でか妻に指示されてかは不明ですが、
ともかくその日にキャシーのアパートを訪ねて、借金があることなどを理由
に別れ話を切り出します。しかしキャシーは、おそらく妻にこっぴどくやら
れて意気消沈していたであろう師匠を見て、奥さんと離婚すれば色々とお金
が掛かるのは分かっている、一緒に働いて返していこう、と逆に励ました
そうです。無限回廊の記事では、2度目の中絶を自ら決行した際には師匠との
関係を終わらせる気持ちが強まっていたと書かれてありますが、(これも
併せて考慮した場合)その一ヵ月後、不倫が師匠の妻にバレたのがきっかけ
で、師匠との関係に未練を感じ始めたということになるかと思われます。
つまりキャシーの目には、師匠の離婚が現実味を帯びてきたことに便乗して、
再び師匠の心をこちらへ傾かせることができ、あわよくば師匠との結婚を
実現するための好機という具合に、不倫発覚が映っていた可能性があります。

729無精髭:2010/04/20(火) 06:28:50
(それまでは不倫を続けるも止めるも、師匠とキャシーの判断如何によって
いたので、結婚する約束を破っただの子どもを堕ろしただのと言っても、
結局はこの二人が自分たちにしか関わらない揉め事を周りに内緒で自己生産
していたに過ぎませんでした。が、師匠の妻にその関係がバレたことにより、
良くも悪くも自分(たち)で終わらせるつもりだったものが、否応なく
部外者の手で終止符を打たれるかも知れなくなったのです。夢が夢の
まま朧気に立ち消えていくのではなく、現実との衝突でだしぬけに壊れて
しまうこと。夢から覚めると決まっているなら、誰であろうとも、人から
叩き起こされるより、自ずからの心地よい目覚めを期待するものでしょう。
不倫の失敗と不倫の発覚は、二つとも破局という同じ結末を迎える事態
なのでしょうが、キャシーにとって師匠との結婚を断念することは、
一から十まで他人(当の師匠は含まれるかどうか)に強制されるような
ことではなかったのかも知れません。意中の相手、そしてその人との
共同生活(の基盤)を手に入れるということは、自らの意志でその相手を
捨てたりも出来るような自由を持つということでもあるのです。)

一方師匠の方も、自分に対するキャシーの愛が冷めていないことを知って
別れ話を引っ込めたらしいです。以後、師匠は離婚するか否かについて
優柔不断な態度を取り続けたとのこと。

7月26日に師匠からキャシーに電話があり、「やっぱりキャシーと一緒に
なれそうもない」と悲痛な声で訴えたと言います。これに対しキャシーは
「何言ってんの。また奥さんに何か言われたんでしょう。 今まで頑張って
きたんでしょ、夢をあきらめてもいいの? 自分で考えたことをすぐに
放り出すの?」と言ったそうで、これが事実だとするなら、不倫発覚後も
師匠はキャシーと連絡を取りつつそれに後押しされて、妻に対し何度か
離婚話を持ちかけていたと見るのが順当かと思われます。そして、妻の
説得に失敗する度にキャシーと一緒になることを諦め、その意をキャシー
に伝えると逆に思い直すよう説得されて、再び離婚しようと考える、
この繰り返しだったのではあるまいかと。(あるいは、持ちかけようとは
していたが踏ん切りがつかず、結局妻に対しても優柔不断な態度を取って
いたかも知れない。)

以上を考慮すると、妻からの電話に対するキャシーの対応には何らかの
問題があったと推測できるかと思います。例えば、不倫していたことに
ついて謝るだけで師匠から手を引こうとは確約しない・「自分も悪いが
師匠も悪い、私だって中絶しているのだから被害者なんです」と妻の感情
を逆なでするような言葉を吐く・関係のない話でお茶を濁す等々が考え
られます。結果、妻の不満を募らせてしまったとしても不思議はありません。
不満が募れば話が長くなり、話が長くなればそれは縺れてほどけなくなり、
電話を切っても不満は収まらず、頭では無駄と分かっていても今度こそは
という意気込みで再び電話を掛けてしまうという悪循環。私としては、
妻はキャシーの煮え切らない態度にだんだん腹が立ってきて、暴言が
混じるようになり、果ては単なる口論に発展してしまったのではないかと
考えています。

師匠の妻は夫と別れるつもりはなかったみたいですから、夫が自分や
子どもたちの元を去っていくのを防ぐという目的で、キャシーをどうにか
説得したかったのかも知れません。当然、妻にとっては夫の愛人と長々と
電話するのは苦痛でもあったでしょう。しかしそれを耐えてまで(あるい
は気にならなかっただけかも知れませんが)キャシーに電話しなければ
ならない事情、元い、家庭を守るためには愛人に苦汁を嘗めてもらわねば
ならない、正にそういうことを愛人に対して行う権利が不倫の被害者には
あるのだといった大義名分が妻にはあったわけで、これはキャシーとの
電話でのやり取りが口論に成り下がっていた時点でも、妻の念頭には
常にあったのではないでしょうか。

730無精髭:2010/04/20(火) 06:30:24
ちなみにキャシーは8月3日に弁護士に会って、訴訟の準備を始めます。
11日には前日に師匠から訴訟の件を聞かされたであろう妻と電話で話をし、
「もし訴えたらあなたを恨む」と言われたそうです。ところで不倫発覚から
その日までの間、妻の方もキャシーを相手取って訴訟を起こすことが出来た
にも関わらず起こさなかったのには相応の理由があったと考えるべきです。
不倫の一部始終が会社にバレれば、夫が仕事を続けられなくなる可能性が
あったというのも一つでしょう。訴えられたキャシーが沈黙を守るとも
思われませんし。だとすれば、「もし訴えたらあなたを恨む」という発言も、
妻はキャシーの父親に対して訴訟を思いとどまるようにと言って説得した
というのも、妻の立場からすれば至極当然の行為だったと思います。
この時点でも例えば妻が逆に訴訟を起こせばキャシーにとって分が悪い
のは言うまでもないことですから、訴訟まで起こす必要は無い、元の鞘に
収まるのが一番、という妻の言葉についてはむしろ好意的に捉えるべき
だと思います(キャシーが起こした訴訟においても事がキャシーに対して
有利に動いたとは限らない)。

・なぜ「お腹から掻き出す」などと発言したのか?

師匠の妻当人は発言を否定していますが※、仮にキャシーの証言が正し
かったとしても、言った当人である妻の心境を離れてその発言だけが一人
歩きしてしまっているとの印象は否めません。どんな言葉であれそれが
発せられ伝達される以上、その背景には、それを発する者の立場は勿論、
それを向けられた当の相手や、それが向かう先の状況、つまり何が話題
となっているとか、会話のつながり(先後関係)などといった要素が密接
に絡み合っているのです。これを考慮に入れることが出来なければ、その
発言意図(その言葉の修辞的意味)にもまた理解が及ぶことはないでしょう。

 ※横に逸れますが、他所の事件サイト「事件史探求」の当該記事には
  「Xさんの妻は公判でそのような事を言ったことは無いと否定して
  いる」という記述があるのですが、
  http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage243.htm
  そもそも妻が証人として出廷したという事実はあるのでしょうか?
  一方では>>16-17にもあるように、その事実を否定するような情報が
  あるのですが。師匠が証人として出廷した際に(>>62)、妻の言葉
  を伝えたのでしょうかね?

断るまでもないことですが、キャシーは師匠の妻が一方的にまくし立てる
のを黙って聞いていたわけではないです。件の暴言があったとされる日、
好い加減夫から手を引け、堕ろした子供についても責任は取れない、と
いう風に妻から言われて、「あたしと彼のことだから言わないでください」
と言い返したそうです。更に「彼が(2番目の)子どもが流れちゃえば
いいって言っていたんですよ」などと、わざわざ言わなくても良さそう
なことまで言ったらしいです。これに関してはそれ以前の妻とキャシー
の会話が省略されているので、なぜキャシーが今になってそんなことを
告げたのかについて事実関係は不明(真実を述べたものであるかも不明)
ですが、もしかしたら子どもを堕したことについて師匠が責任を分かち
持ってくれないことに業を煮やし、あまつさえ自分と二人っきりの時と
言い分が違うから、妻に隠しておいても仕方ない、もう言ってしまえ、
などと勢い任せ(破れかぶれ?)に言ってしまったのではないでしょうか。
師匠は師匠で自分に面と向かって言えないから妻に言わせているみたいだし、
妻は妻で関係ないくせにしゃしゃり出てきてうっとおしいから、いっちょ
黙らせてやるか、という意図がキャシーにあったとも考えられます。

不倫発覚当初の「うちの主人が無理やりレイプでもしたと言うんですか」
発言も、それ以前にキャシーの弁明が全くなかったとしたら、頭に血が
上った妻が口を滑らしたというだけの、ただの突拍子もない発言になって
しまうでしょう。与えられた情報に対して客観的な姿勢を保ち、全ての
事件当事者に対して公平であろうと努める者であれば、不倫発覚直後から
キャシーが「師匠から交際を迫られた」「誘惑されたのは自分だ」「身体
を積極的に求めてきたのは師匠の方だ」などと言い訳していたと考える
べきではないかと私は考えます。(事実関係に不明な部分が多すぎるからこそ)
その上で妻の発言を考慮すべきだと思うわけです。

731無精髭:2010/04/20(火) 06:31:01
また、8月11日に「子どもを抱いたあの気持ちは…」とキャシーに言った
ことや「知り合いに5回も6回も中絶している人もいるから、あなたも2回
なら大丈夫かも」などと言った件についても、キャシーの主観によって
妻の発言意図が歪められている可能性があります。前者については必ず
しもキャシーに対して自分の母性愛を見せ付けたいとの意図があっての
ものではなかったかも知れませんし、後者についてはキャシーの身を
ある程度気遣っての言葉かも分かりません(「普通こんなこと言って慰め
ようとするかあ?」「あまりに無神経だろ」という声が聞こえてきそうですが、
師匠の妻が私たちと同じ常識を持っていたらもっと違ったことを言ったはず
などといった問題にかかずらうのを極力避けて、あくまで妻にどのような
意図があってそのような発言をしたのかを発言内容から考えてみる必要が
あると私は感じるのです。前者のような問題にかかずらっていると、真偽の
ほどは分からないが、とりあえず本件について考察するために今分かっている
情報を真実だと仮定し、それを元に本件を再構成する必要があるということの
諸々の重要性がおそらく霞んでしまうでしょう)。しかし、不倫の被害者であり
キャシーを憎んでいたはずの妻がキャシーを気遣うなんてことはありえないようにも
思われますので、もしかしたら訴訟を思い止まらせるために単にキャシーの
機嫌を取ったつもりだったのかも知れません。いずれにしろ、キャシーが
中絶のことで師匠の妻に対し何らかの恨み言を述べたのは想像に難くないです。
ひょっとしたら先月末の「お腹から掻き出す」発言(あるいは堕胎・流産にまで
及んだ口論で不愉快な思いをした件)を根に持っていたのかも知れませんが。

このように「子どもを掻き出す」発言前後の状況を考慮すると、キャシー
と師匠の妻との間には不倫発覚時から「そもそも被害者は誰であるか」
という点で見解に食い違いがあり、それに端を発して徐々に深まって
いったと思われる二人の確執が、7月のあの日に最悪な形で結実して
しまったのだと考えるべきではないでしょうか。加えて、不倫発覚後
もキャシーと師匠の関係がまだ終わっていず(これも双方に責任アリ)、
師匠の優柔不断な態度(あるいはその場凌ぎの逃げ口上)が事態を
ややこしくした可能性が否めませんので、この二人の確執が取り返し
の付かないところまで深まってしまった背景を考える上で、意外にも
師匠の存在(不倫発覚後の立ち回りに関する推察)は欠かせないのだ
と考えます。

(不倫発覚前の師匠による無責任な・あるいは仁義に悖る(?)発言
についても、その聞き手が不倫相手(キャシー)だったことに着目できる
者からすれば、相手側の発言やその二人の会話の流れというものを他の者が
度外視して一方の発言のみを評価の対象とするのを見て、間が抜けていると
思わざるを得ないでしょう。誰にも邪魔されぬ二人だけの空間において、
例えば師匠にそんなことを言わせるような雰囲気をキャシーが醸し出したの
かも知れません。その際のキャシーの表情、口調、相槌の調子がどんなもの
だったかをぜひ想像して見て下さい。)

732無精髭:2010/04/20(火) 06:32:34
あと、忘れてはならないのは、「子どもを掻き出す」発言について、
キャシーは実際にそれがあったとただ主張しているだけで、それが
言われたところの背景―――その発言前後の会話のつながりはどう
だったのかについての説明が不十分な点です。これは師匠の妻に対し
ても言えることですが(しかし彼女にそれを説明する義務があるとも
思われない)、ただ彼女の方は、後年その発言を否定するだけではなく、
二人目の子を流産してしまった際に産科医から言われた言葉をキャシー
に伝えたことは認めています。そして、その際キャシーを愚弄する
つもりはなかったのだということを付け加えています。すなわち、
キャシーと師匠の妻との間でどういった会話が行われていたかについて、
こと問題発言の件に限って言えば、(その信憑性はともかく)その時の
状況を具体的に説明したのはキャシーではなく師匠の妻だったという
ことです。キャシーは他人から何を言われたか・何をされたかについて
は実に多弁でありますが、その口調からは散漫な印象を受けざるを
得ません。特に師匠の妻との口論に関しては、実際に自分が相手に対し
何を言ったのかについての説明が不足しているとの観が否定できない
です。こういったことを看過して、一方の言い分にのみ耳を傾けて
いる者には、厳しい言い方ですが、口喧嘩を裁く資格などないでしょう。

口が裂けても言ってはいけないことがあるのだとしても、それに該当
することを他人から言われた際に暴力が正当化されるかどうかは別の
問題であるべきです。別の文脈ですが、たとえ暴言によって追い詰め
られたのはキャシーであったとしても、不倫によって追い詰められた
のは師匠の妻であるということを忘れてはなりません(繰り返すよう
ですが、不倫が発覚しても不埒な男女がきっぱりと手を切らなかった
ことも師匠の妻を追い詰めた原因だったと思われます)。ちなみに、
男が避妊しなかったために中絶せざるをえなかった女性に「よくそんな
ひどいことできたね。人殺しみたいなのに」と言うことが不倫よりも
道徳的に悪いことになるのは、そんなふうに侮辱的な言葉をかけた者が
相手の女性が中絶せざるをえなかったという事情を理解していた場合に
限られるでしょうね。個人的には、夫の不倫発覚から2ヶ月弱も師匠の妻が
「口が裂けても言ってはいけないこと」を言わなかったことについて、
よく我慢できたなぁと感心します。

・いや、ちょっと待てよ。そもそもなんで師匠の妻とキャシーのやり取り
 で話題が不倫のことから堕胎した子どものことにシフトしたんだ?

そこらへんについてboroさんが簡潔明瞭な記述をしているせいか、
大半の人は油断して読み流してしまっているのかも知れませんが、
注意深く読めば、本来口論の種となるべきものからとてもそうとは
言えないものへと話が飛躍していることが自ずと知れるでしょう。
傍から見れば、犬も食わぬような痴話喧嘩にだって規則性や一貫性が
あるものです。なので、口論になれば攻撃の的を増やすため枝葉末節
にまで話が広がるものだといった考えを捨て、この飛躍の原因を探る
ことに傾注すべきです。

とは言え、当の電話でのやり取りに関する情報は事実関係を解明する
ほど充実しているわけではないのは勿論、むしろどこまで信用するに
足りるか怪しいくらいですから、原因を求める思索の精度はおそらく
その者の想像力と価値観に左右されるでしょう。しかしながらそうい
った個人の限界以前に、二人の会話の展開について考える上で出来る
だけ中立的な観点を取ろうとする者にとっては、秋の空のように変わ
りやすい心に分け入ってその動きを調べるよりは、限られた情報や
二人が置かれた状況を頼りに、両人において理性の存在をどうにか
推定した上で思索を進めた方が好いのではないかと思います。

733無精髭:2010/04/20(火) 06:33:33
妻にとってキャシーに電話を掛ける目的は、不倫の被害を訴え、夫と
別れるように要求するため、そして後腐れのないように相手が夫から
被った不利益については我慢してもらうため、そうすることで家庭を
守るためでしょう。他方、キャシーにとって妻との電話のやりとりを
続ける理由があったとすれば、師匠との関係を続けるために電話相手
の女と師匠を別れさせるためではないでしょうか。

さて、繰り返しますが、発話状況、発話者の個性からその発言だけを
切り離して評価するのはキャシーと同じ過ちを犯していることになります
(詳しくは紫煙狼さんと酒井さんのやり取りを見よ)。尤も、師匠の言葉を
真に受けたキャシーならば、妻の暴言を真に受けるのは必然と言えるのかも
知れませんが。

以上を踏まえて、妻の発言の意図を汲みつつ、妻による問題の発言を
補完してみましょう。

「子どもをおろしてしまったことの辛さは分かる。でも、私に分かるのは
あなた自身が受けた中絶手術の痛みだけ。あなたが必死に訴えている、
おろされた子どものことまでは私は知らない。あなた自身のことでさえ
全てが夫の責任とは言えないのに、そればかりか中絶で死んだ子どもの
ことにまで話を広げようとするなんて…。第一、おろすと決めたのは
あなた自身でしょう? 夫に責任を押し付けるためにあなたがどう言い
繕ったとしても、『生きた子どもを平気でお腹から掻き出すような人
なのよ、あなたは』」

かなり印象が変わったと思いますが、逆に問題の発言が問題である
所以も浮き彫りになっちゃったかも。「掻き出す」よりも「平気で」
の方がよほど問題かと。

「お腹から掻き出す」という言葉は産科医からの受け売りだそうですから、
妻の言うとおり、その産科医がこの言葉に特別な意味を持たせておらず、
ごく普通に使っていたのだとしたら、妻も産科医と同じ感覚で堕胎を
表現したと見なすべきだと思います。「生きた子どもを平気で中絶する
ような人なのよ、あなたは」これなら意味は同じでも若干インパクトが
落ちるのではないでしょうか。

「あんたは生きている子を平気でお腹から掻き出すような人なのよ。
そんな恐ろしい人のくせに」という発言だったという情報もあるよう
ですね。「そんな恐ろしい人のくせに」の部分を何の疑いもなく読んで
しまえば、妻の言い分は全くの言い掛かりにしか聞こえないでしょう。
しかし一般的に「○○の癖に…」という表現は、自分に向けられた
非難を、その非難の主である者の欠点を指摘することで相殺するため
のものです。例えば、ああだこうだと非難してくる相手に対して、
お前だって斯く斯く云々だから人のこと言えないだろとやり返すときに
使われます。これは終助詞として用いられる場合でも、相手からの
非難を前提にしますから意味は変わりません。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%81%8F%E3%81%9B%E3%81%AB&enc=UTF-8&stype=1&dtype=0&dname=0ss
接続助詞的用例:「バカの癖に俺のことをアホと言うな」
終助詞的用例:「(アホだと言ってくる者に対して)黙れ、バカの癖に」

さて、妻の言葉は「癖に」の終助詞的用例に当てはまりますから、
接続助詞として用いられる場合に明記・明言されるところの
相手からの非難の部分が省略されています。ですからこれを浮かび
上がらせるには、あの言葉を放った上で妻の中で暗黙の前提となって
いるキャシーからの非難について、それが現にあったとすればどんな
ものだったのかを推理しなければならないのです。

「そんな恐ろしい人のくせに」の部分については勿論のこと、問題の発言
全体についても「(あんたは)生きている子を平気でお腹から掻き出すような人の
くせに」と言い換えることが出来ますから、もし師匠の妻がこんなこと
を言ったのだとすれば、その直前にキャシーもキャシーで相当無神経な
ことを妻に対して言ったのではないかと思われます。

734無精髭:2010/04/20(火) 06:35:19
師匠の妻は平謝りに謝っていたキャシーに対して嘲笑しながらあの言葉
を言い放ったんだ、こりゃもう鬼としか言えないだろ、という感想を懐く
方はいるでしょう。しかし、キャシーと妻の電話でのやり取りは終始一貫
して妻による一方的な攻撃だったのではなく、無限回廊の記事にもある
ように実際は「応酬」だったのかも知れません。だとすれば、流布して
いる情報とは逆に、キャシーが電話でのやり取りにおいても妻を追い
詰めた可能性さえ否定できないのです。

5月18日に不倫が発覚してから2ヶ月弱経って、やっとこさ師匠の妻に
夫の元愛人を嘲笑する余裕が出来たのだとしても、その余裕がキャシー
の受け身な態度に起因していたとすれば、不倫のショックから立ち直った
妻にわざわざキャシーを嘲笑する必要などあるのでしょうか。
嘲笑したのが事実だとすれば、単なる空元気によるものだったとも
考えられます。その場合、キャシーに対して虚勢を張らなければ
ならない理由が妻にはあったのではないかと考えるべきでしょう。

妻のあの発言がなければキャシーは犯行に及ばなかったのだということ
を理由に妻を非難する人は、妻の発言が直前のキャシーの何らかの
アクションによって引き起こされた可能性があるということを
失念しているのでしょうか。キャシーの犯した罪が重いのは重々承知
しているが、妻の発言だって人道的に許されるものではないと考える
人は、仮にその人道的に許されない発言も誰かの言動によって引き起
こされたのだとすれば、その誘因となった事象については特に人道に
背くような問題点はないと考えるのでしょうか。こういう人はおそらく
不倫をすることは中絶を侮辱することよりも悪くないと考えて恥じない
ところがあるのでしょう。

私が口喧嘩を裁く立場なら、人道的に許されない発言の誘因となった発言も
人道的に許されないかも知れないのでそれを、いやそれが出されたところの
話題に関係する発言全てをできる限り明るみに出そうと努力しますが。

二ヶ月以上に亘る電話でのやり取りの終盤において、妻が以上のような
心境であったということから、キャシーが堕胎によって自分も相当に
傷ついたのだと執念深く訴えていた、ということが想像できます。
ただし序盤においては、師匠の妻に不倫がバレたことは、今まで暖簾に
腕押しだったことに不満だったキャシーにとっては却って事態が好転した
に等しかったのではないかと私は考えております。

私の思い描くキャシー像(不倫発覚当初)は以下の通りです。

確かに不倫が相手の家族にバレたこと自体は決まりが悪いに違いないが、
落ち着いて考えてみれば、諦めかけた夢を叶えるチャンスが巡って来た
のだとも言える。このいざこざに乗じて、師匠と妻の仲が悪くなるように
画策すれば、晴れて公に師匠と結ばれることも夢ではない。

そのためには師匠よりもむしろ妻を篭絡しなければならない。弱みを
握っているとは言え、師匠を言い含めて妻の説得に向かわせるよりも、
妻が師匠に対し愛想を尽かすようにこちらが色々と証言した方が、
この二人が離婚する確率は高まりそうだ。妻に師匠を嫌わせるために
やるべきことが二つある。一つは、不倫に関しては自分にも非があるという
ことを反省の意を込めて素直に認めること。狙いは妻に師匠を嫌わせ
ることであり、自分が嫌われることではない。もし師匠よりも自分の
方が嫌われてしまえば、自分の口からそれとなく師匠への嫌悪感を
煽るようなことを話しても全く効果が出ないだろう。おそらく夫よりも
更に深刻な憎悪の対象であろう自分には、これ以上妻に嫌われない
ように媚び諂う必要がある。

もう一つは、師匠が不倫中に語ったことや自身の中絶について妻に
打ち明けること。思ったほど悪い女ではなさそうだと妻に印象付ける
ことに成功したとしても、本当の狙いは師匠を嫌わせることである。
たとえ夫の浮気を知ったとしても、離婚したいと思うほど妻が嫌う
とは限らない。それどころか、家庭を守るためにあえて夫の不始末を
許すことだってあり得る。ならば、師匠の弱みを握っている自分が
全てを打ち明けさえすれば、妻を自分の思惑通りに操縦することは
簡単なのではないか。師匠との不倫において非があるのは、一切の
経緯を知った者であれば誰から見ても師匠の方だと感じざるを得ない
だろうから。

735無精髭:2010/04/20(火) 07:10:12
先ほど投稿した長文群にある、「二ヶ月弱」というのは「二ヶ月強」の間違いです。
ざっと確認した限りでは>>732>>734に一箇所ずつ記述ミスがありました。

>>726
>(上略)夫妻もあまり子供を大事にしてるように見えないので極刑はしなくていいと思います。

なんかスゴイことをさらっと書いておられるけど、、、
かもめさんの目にはどうしてそう見えたのでしょう?

それと、仮に夫妻が子どもを大事にしていなかったとしても、
それでキャシーの罪が軽くなるというのはずいぶんと理不尽な気が
するのですが。

かもめさんは、子どもの死に関しては、妻にも果たすべき何らかの
責任があって、それが満足に果たされていなかったとお考えなのですね。

はてさて、この事件以前に(あるいは現在この事件を知らない人の中で)
中絶を侮辱すると自分の身内に危害が及ぶかも知れないという認識に
至ることができた(できる)人がいったい何人いた(いる)ことやら。

736紫煙狼:2010/04/20(火) 14:06:31
>>726
>全員こんなに理性的だったら大事は起こらなかったとは思いますが・・・
理性を求めるとすれば相手は師匠とキャシーですね。妻に求めるのはお門違いです。

>不倫や中絶が軽犯罪にでもなれば少しは抑止力になるのかな?
何を抑止したいのでしょう???
不倫を罪と規定しても未婚のスケコマシーが2マタ3マタかけて女を泣かすのは裁けませんね。
中絶を罪と規定することによって、本当に望まれない子供が生まれてきて育児放棄されて虐待されて
何か良いことはありますか?そういう無責任な親を保護責任者遺棄や殺人で罰することが出来るように
なるだけですよね?無責任な性交による妊娠はもちろん道義的責任と負うべきではありますが、
何でも罪と規定することにより抑止効果が望めると考えるのは愚の骨頂です。

>個人的にはキャシーは再犯しなさそう
確かに、再犯の可能性は低いでしょうね。

>(法的措置のアプローチもなしにいきなり犯罪に及んだら別ですが)
理解不能。むしろ訴訟の最中に犯行に及んだ事の方が許されないと思いますが。

>夫妻もあまり子供を大事にしてるように見えないので極刑はしなくていいと思います。
ここはもう少し丁寧に説明しないと貴方が子供の命を軽視していると受け取られかねませんよ。
確かに極刑を言い渡す理由の一つとして被害者遺族の処罰感情の強さを挙げる判事が居ますね。
かもめサンはそこを皮肉ったわけですね?
こんなの当たり前の話ですが、遺族の処罰感情が強かろうと弱かろうと、そんなのは極刑を選択する、
もしくは回避する主たる理由になり得ません。まして被害者遺族に制裁的苦痛を与える目的で
加害者の罪を軽くするなんてのは絶対に許されません。

以上、かもめサンの思惑通り釣られてみました(^^)

737ufloat:2010/04/20(火) 19:04:20
>>725
逆算の論理については、いかに発想力貧困な私といえど、妻批判の人々の書き込みから
ある程度読み取ってはおりました。
ただ、それはそれでやはり全く理解不能なのです。
「こんなことで加害者が重大行為に及ぶはずがない」から「被害者サイドに問題があった」と
根拠もなく決め付け、あろうことかそれをもとに批判を行うのが許されるならば、
例えば「駅で肩がぶつかった」からと相手を攻撃し、死に至らしめた事件。
普通、肩がぶつかった程度で命を奪ったりはしませんが、逆算の理屈でいくならば、
「被害者は肩がぶつかる以上のことをやったはずだ。でなければ加害者は命までは奪わない。
何らかの暴挙に出たであろう被害者許すまじ!」という意味不明な結論が出されかねません。
これに対しては「肩がぶつかる程度で人を殺す野蛮人と、「純粋」な本件の加害者は違う」という
反論がなされそうですが、世の中「おとなしくて親切な人」や「物静かでやさしい少年」が
起こす事件など山のようにあるわけです。
まして、本件の加害者は不倫の加害者でもあり、妻は不倫の被害者の立場にあるのですから、
妻がそれを非難するのはある意味当然です。いかなる定数をどれだけ恣意的に用いて逆算すれば、
「加害者が非常に特異な人間であった」とか、せいぜい「夫にも原因があった」といった結論
ではなく、「妻が非道な行為に出た」という結論が出せるのか、それが全く分からないのです。

>>726
すでにお2方が指摘されている点について、私がまた何か書くのもどうかという気は
しないでもありませんが、かもめさんが子どもたちの命や人格について理解していない
とは思えませんので、真意を確認させてください。
>夫妻もあまり子供を大事にしてるように見えないので極刑はしなくていい
とのことですが、もし>>721-722で紫煙狼さんが推測された通りなら、少なくとも妻には
子への愛情があったかもしれませんし、夫も甲斐性なしなりに愛情を持っていたかもしれません。
ただ、こればかりは確かめようのないことですので、とりあえず
「夫婦は子を大事にしていなかった」と仮定して考えてみましょう。

人間誰しも、愛情あふれる暖かな家庭に生まれ育ちたいと考えるものです。
しかし、それは必ずしも実現されるとは限りません。まさに
>子供は産んでくれる親を選べない
のです。
さて、そのような家庭に生まれた不幸な子どもが、自分には何も非がないのに、
誰か他人(例えば父親の不倫相手)に人生を断たれたとしましょう。全く救いのない話ですね。
ところが、「夫婦が子を大事にしていない」からといって、子を殺した加害者への罰を軽減
することが許されるならば、この子を殺した犯人への罰は、愛情を受けて育てられていた子を
殺害した犯人への罰に比べ、相対的に軽いものであって構わないということになります。
これは大変に理不尽ではないでしょうか。

738紫煙狼:2010/04/21(水) 00:26:19
>>737
>まして、本件の加害者は(中略)結論が出せるのか、それが全く分からないのです。
これは物語の前半と後半を区別できる人の言い分…なのでしょう。そしてそれが出来ない人が
世の中には大勢居るということなのでしょうね。

たとえば、Uさんの出した「肩がぶつかった程度で人を殺す優しい少年」ですがね?
その事件をいきなり新聞で読んだら「そいつおかしくない?」と10中8〜9はなるのですが、
この少年があらゆる困難を知恵と勇気で乗り越え、ようやく全てが軌道に乗ったというところで
不幸にも全てが水泡に帰して、あげく、それまでにない失意のどん底に落ちて、もはや身も世も無い
心境で街を歩いていたら肩がぶつかった。そのぶつかった相手は見るからにヤクザ風の男で、
「どこに目ぇつけとんのじゃい!いわすぞワレぇ!!」とすごんだ。その瞬間、少年の全ての怒りが
この男に向いてしまった…。そして、何たる運命の悪戯。少年の手にはナイフが握られていた…。
なんてフィクション小説ならば、読者の多くは「あぁ、なんて不幸な少年」と、いっそう憐憫の情に
駆られるのではないでしょうかね。

でも、ぶつかられた方が、ぶつかってきた方に文句を言うのは珍しいことではないし、たまたま言葉
遣いの粗暴な男だっただけで、人相が悪いのも単に生まれつき…。なんてのが現実でよくよく考えれば、
「そんな事で刺してはいけない」わけですよ。

つまりね。キャシー可哀想さに妻を中傷する人というのは、実は、この事件が現実のことであるという
視点を忘れて「悲恋に始まり悲劇に終わる」メロドラマのように受け止めているのではないでしょうか?
キャシーは師匠に騙されていた(個人的にはここにも異論があるのですが)という導入部を経て、
読者はキャシーにのみ感情移入を許され、このヒロインの視線で物事を見れば、その後の登場人物は
全て敵。全て憎むべき悪人。全て死んでも良いような奴で構成されているわけですよ。

だからこそ
>キャシーが弱い者であるという大前提が誤っていますけれどね。
言い換えるなら「キャシーが感情移入するに値する人物である」という大前提が間違っていると思うのです。

739無精髭:2010/04/21(水) 05:53:59
>>個人的にはキャシーは再犯しなさそう(法的措置のアプローチもなしにいきなり
>>犯罪に及んだら別ですが)だし、(中略)極刑はしなくていいと思います。
>理解不能。むしろ訴訟の最中に犯行に及んだ事の方が許されないと思いますが。

ああ。確かにシェンさんの仰ったような読み方もできますね。
私は、「法的措置のアプローチもなしにいきなり犯罪に及ぶような
人間だったら再犯しそう」ぐらいの意味だろうなと思ってましたが。


とりあえずかもめさんは私が>>727で張ったリンク先に跳んで
スレ冒頭にコピペされた資料をお読みになった方がよろしいかと。


かもめさんは、連日連夜に亘る抗議(嫌がらせ?)の電話とか、
例の中絶を侮辱するような発言とかいった妻の言動こそ、放火
殺人事件が起きた直接的原因なのだとお考えなのでしょうか。
でなければ、妻がキャシーの犯行を煽るような真似をしたなど
とは口が裂けても言えないでしょうから。しかし、本当の放火殺人
の直接的原因は何かと問われれば、放火殺人を行った当の者の
意志であるとしか言えないんですけどね。

法定上の親に子どもに対する保護責任があるのは当然のことですから、
子どもに何かあった場合、その親の責任を追及することを前面に押し
出してくる他人が出てきても別に不思議はないんですが、そういった
責任論に依拠した問題提起では犯罪原因論は語り尽くせない、と言うか
議論が果てしなくずれてしまいそうです。殺人者と単なる無責任者を
同列に扱おうとすること自体が、異なる文脈の混同を表しているでしょう。
本件において、果てしなき責任追及という形を取った保護責任論に
よって犯罪原因論をカバーしようとすれば、妻の場合、暴言や執拗に
電話を掛けることで犯行を煽ったのでなければ、次はキャシーの凶手
から子どもを守れなかったことが問題とされるのだからヒドイ話です。

かもめさんは本件の妻の行動を、炎天下に子どもを車に寝かし
つけたまま、親はパチンコやりにレッツゴーとかいった事例と
一緒にしていませんか? 炎天下にエアコンもかけずに子どもを
車に置き去りにすりゃ死ぬのは当たり前ですが、もはや配偶者との
関係が切れた不倫相手をなじり続けると自分とか親しい者が殺され
ちゃうのは物理的に当たり前なことと言えますかね? 不倫する
ような人間っていうのは第三者から不倫したことを非難されると
反論もできずに意志も何もない物体―――その代わり道徳的非難に
対しては一定(想定内)の暴力的動作を出力するような機械と化して
しまうのでしょうか? まぁ、キャシーがそういった世にも珍しい
人間だったのであると証明されたら、誰も文句は付けられないのですが。

そうそう。ためしにこの事件を知らない人に、キャシーが子供を
焼き殺したという結末だけを伏せて一連の経緯を話して聞かせる
んです。そして、例の妻の一言でキャシーは何をしようと思った
のかと質問するんですよ。キャシーをか弱き純情な乙女と捉えて
いる人なら、自殺しようと思ったと答えるんじゃないかな。
純粋で一途な人とは思わないがキャシーに同情くらいはする
という人でさえ、復讐しようと思ったという答えを思いつくことは
できても、子どもだけをターゲットにした放火殺人を行おうと思った
と答えられる人がどれだけいるか気になりますね。

740かもめ:2010/04/21(水) 06:48:21
こんにちわ。
丁寧なご指摘やご説明、とても参考になりました。
また、重複してはいけないと思いおおざっぱな書き込みになり、
ご不快をかけてしまったとしたら誠に申し訳ございません!

個人的には、法を抜きにすると
3者3様、度合いの差こそあれど、何らかの犯罪を誘発する原因があり、
本当に被害を受けたのは4人(ないしは6人)の子供だと思います。

極刑についてそこまでしなくてよいと意見したのは、
事故、犯罪の現場や、事故や処刑の画像を見てしまったことがあるからです。
正直人間以前に生き物の本能として恐ろしく、
私がもし火災の現場やキャシーの死刑執行など見てしまったら、とてもこれ以上
意見できないと思います。
それを踏まえ、このような悲惨なことが身近に起こらないにはどうしたらいいか?
という視点からカキコしました。
(スレ違いになるのでこれ以上は遠慮させていただきます・・・)

夫妻の子供についての思いについては、少々乱暴な書き方をしてしまったかと
反省しています。
ただ願わくば、現在養育している子たちには、今件のようなことがないように
健全な家庭を営んでほしいと思います!

741村雨:2010/04/23(金) 01:07:34
>丁寧なご指摘やご説明、とても参考になりました。
と書いておきながら
>3者3様、度合いの差こそあれど、何らかの犯罪を誘発する原因があり、
 本当に被害を受けたのは4人(ないしは6人)の子供だと思います。
と言い放ってしまう所に、どうなんでしょうと思わずにはいられないですね。

742かもめ:2010/04/23(金) 05:00:07
取り急ぎ。一凡人の思ったことですので、細かいことはあまり気にしないで下さい 汗

>>741
・・・(困)何が言いたいの?どうしてほしいの?もしどうしても私からの
レスが必要なら忌憚なくお知らせ下さい。

くどいようですが、私の視点はあくまで防犯です。
また、議論ですので、既出の方々の意見を否定したり、
自分の意見だけを正当化するつもりはありません。

スレを無駄に沸き立ててしまったようですみませんでした。
今後は何がしか役に立つ発言や、特に参加者様が疑問に思うことなどがもしあれば、
レスさせていただきます。

743ufloat:2010/04/23(金) 06:56:25
>>740
文章が短いので、>>741の方の真意は分かりませんが・・・。
「関係者の行為が犯罪の引き金となったか否かと、その人に責任があるか否かは違う」
のではありませんかねえ。

例えば、このスレッドにかもめさんが投稿された記事を読んで、
「この事件の関係者は生きている価値がない。殺害してやる」
などというおかしな人が出現し、事件が発生してしまった場合を考えてみましょう。
この場合、「かもめさんの記事が事件を誘発した」「かもめさんの記事がなければ
事件は発生しなかった」わけですが、これでかもめさんまで殺人の責任を追及
されるとしたら、ずいぶん理不尽な話ですね。

したがって、仮に「妻の行動がこの放火殺人を誘発した」のであるとしても、
それすなわち「妻にも責任がある」とはいえないのではないか、と私は考えるのです。
もちろん暴言を吐くのはよくないことですから、そういう意味では妻にも非があると
いえなくはありません。しかし、それによって妻が負わなくてはならない責任の大きさは
「世間一般において、配偶者が不倫をしていたことが分かり、その不倫相手をなじった不倫被害者」
より上でも下でもないはずで、むしろ世間一般の価値観からすれば、不倫被害者が配偶者の
不倫相手をなじるのは、ある程度自然な行為であるとみなされてもおかしくありません。
これで妻に放火殺人の責任の一端まで求めるのは、いくらなんでも無茶な話でしょう。

かもめさんがおっしゃる「防犯」の観点から考えても、
「配偶者に不倫されて憔悴し、不倫相手に暴言を吐く」という行為が放火殺人を誘発すると
予想するのはまず不可能ですし、またそのような観点から犯罪の誘発を予防しようとすると、
駅で肩がぶつかるとか、電車内の携帯通話を注意するとか、夜道を歩くとか、BBSに書き込むとか、
そういった無限の事例について、「犯罪を誘発する可能性がある」ということがいえてしまいます
(この放火事件で妻の行為が「放火殺人を誘発した」と言えるのは、結果論だから)。

誰かの行為が(結果論として)犯罪を誘発したかどうかと、その人に犯罪の責任があるかどうかは、
分けて評価されるべきではないでしょうか。

744Ken:2010/04/23(金) 13:20:20
>>740に対しては私も村雨さんと同様の感想を抱いたわけですが...

二人の子供の死は両親にも責任があると考えるのは個人の自由なわけで別に構いませんが、その場合は紫煙狼さんの投稿に納得していないわけで「丁寧なご指摘やご説明、とても参考になりました」などと思ってもないこと書いちゃダメですよ。

悲しいことに世間には不倫なんてごまんとあるわけですが、その結果子供が焼き殺されるというのはこの事件しかないわけで、非常に特殊な例なわけです。そういう特殊な事例から防犯上の教訓を汲み取ることは不可能かと。

一方で、家や車に置き去りにされた子供が事件・事故に巻き込まれるというのはたびたび起きるわけで、そこから防犯上の教訓は導けるわけですが、その場合、子供を置き去りにするという行為と不倫との間にはなんら関連性はないです。

745:2010/09/19(日) 08:24:59
http://wakaresase.iga-log.com/

746bigpink:2011/01/10(月) 10:57:26
ココの書き込み止ってますね。
偶然発見して3日間読みふけってしまった。
連休を返せw

ところで、シェンさんの書き込みは、僕も同郷ということもあって、
すごく判りやすく、納得できる意見だと思いながら読んだ。
道民気質が感じられると思うよ。

そんで、ひとつだけ言いたい事があるので、書き込む気になった。

キャシーに同情する人は、はっきりは言わないけど、
自分の同じ状況になったら同じことしてしまうだろう、、
ということを暗に仄めかしてるんだと思います。

恨みに思った直接の相手を殺してもそれで終わりだが、
相手が大切にしてるものを奪えば、相手は一生悲しみ続けるからね。
そのほうが「恨みを晴らす」なら効果的ですね。

そう考える人が居るのは別に普通だと思うなあ。

もちろん良い悪いは別にしてですよ。

でも実際にそういう人は居るのだから、
そういう人の被害に遭わないよう僕らは気をつけましょう、
また、自分もそんなことしないよう常に自分を抑えていましょう、
という戒めですね。この事件で思ったのはそういうことです。

747:2011/01/14(金) 22:01:26
もし、この事件が起こった時、裁判員制度があったとしたら、
果たして無期懲役の判決が出たであろうか?懲役15年程度が妥当と思うのだが?
あの男と出会っていなければ、今頃まだNECにいたのでしょうね。

748紫煙狼:2011/01/16(日) 02:30:23
>>747
>懲役15年程度が妥当と思うのだが?
この事件が発生した当時の有期懲役は加重なしの場合で15年、加重して20年でしたね。
キャシーの罪状は「現住建造物等放火」と「殺人」ですから、有期懲役の判決を下す場合、
最長で20年の有期懲役を言い渡すことができたと思いますが、15年が妥当ですか…。

俺さんが15年が妥当、と考えるのには、おそらく何らかの情状酌量をした結果ですよね?
そこで、逆に、情状酌量を一切行わなかった場合は、俺さんの価値観ではどれくらいの
罪に値するのでしょう?俺さんの考える「情状酌量すべき事由」によって「刑罰をどれくらい
割引き」した結果が「懲役15年」なのでしょう?

つまり、俺さんの考える「現住建造物等放火&殺人」への見積もりと、キャシーが置かれた
状況に対する「酌量」の見積もりのバランスを知りたいです。

と、言うのもですね、この事件ではキャシーに情状酌量すべき事由を認めるか否かという、
非常に大きな要素があるのではないか、と思うわけです。なにしろ、この事件の犠牲者は
事件発生の要因に対して何ら落ち度がない。師匠夫妻と血のつながりがある以外は、全く
の部外者ですからね。キャシー視線でどうなるかは別として「たまたま師匠夫妻と同じ
建物に住んでいた赤の他人」レベルの関わりですよ。

「色々と苦汁をなめさせられ、心身ともに疲れ果て、ズタボロになった不幸な女」には
第三者を事件に巻き込む正当性がある、と考えるか否かですね。そのあたりの俺さんの
見解を伺えたら、勉強になります。

749Ken:2011/01/16(日) 13:11:01
>>747
いや、逆でしょう。この20年でずいぶん厳罰化が進んだので、放火で二人殺人で有期刑というのは厳しいと思います。

750ufloat:2011/01/16(日) 16:51:08
>>746
確かに、「相手に直接危害を加えるより、相手が大切にしているものを攻撃する」
ことで相手に苦しみを与えようと考えるのは、分からないではありません。
ただ、この問題が厄介なのは、その「相手が大切にしているもの」が器物ではなく、
苦しめたい相手とは別個の生命・人格・人権を持った人間である、という点ですね。

もし他人の恨みを買ってしまえば、自分の大切な人が被害にあうかもしれないから、
他人を苦しめるようなことはしないようにしよう、という心がけは、それはそれで
立派なこととは思いますが、逆に言えば「自分は何も悪いことをしていないのに、
誰かの行為のとばっちりを食い、面識すらない人から殺されるかもしれない」わけで、
これはものすごく理不尽な話ではないでしょうか。
ましてや、本件の被害者は幼子で、本人には何の落ち度もなければ、
殺人犯から自分の身を守ることもできないわけですから。

bigpinkさんご自身のお考えは違うものと思いますが、仮に
>自分の同じ状況になったら同じことしてしまうだろう
とお考えの人が本当にいるのなら、そこを今一度考えてほしいですね。

>>749
>>747には
>もし、この事件が起こった時
とありますから、たぶん「あの当時に裁判員制度があって、当時の基準で判断した場合」
ではないかと。最近なら検察も死刑を求刑したのではないかと思います。

751:2011/01/17(月) 22:04:40
>>748
>第三者を事件に巻き込む正当性がある、と考えるか否かですね
正当性はないです。
>>749
厳罰化と言っても裁判員はその枠外にいます。どういう判決が出るかは
判りません。
>>750
>最近なら検察も死刑を求刑したのではないかと思います
最近でもさすがに死刑判決までは出ないでしょうね。

752紫煙狼:2011/01/17(月) 22:42:13
>>751
俺さんの考え方では「放火殺人で犠牲者2人」という事件の被告人に対し、
死刑判決は、まず、ないだろう、お考えということですか?

753それは:2011/01/17(月) 23:46:14
これが、大奥の中で繰り広げられた事件だったならば、「女の戦」なんとかいうタイトルになってしまう子殺しなのに、今の時代は、なんでもない一般市民の男がやらかしちゃった残念な話になってしまう。小さな命を無駄に消す国の戦争と同じ・・・今の時代も終わりなく続く殺し合い・・・。私の親もこんな親だったから、被害者になった自分を残念に思いますが、父の不倫相手を憎む気にもなりませんね。いつの時代もどんな場合でも、犠牲者は小さな子供であり、やがて大人に成長した子供もまた、犠牲者を出す大人になり、ただただ、そんなくだらないことが永遠に繰り返される。そんな世の中でも生きていたいと願う自分って??

754無精髭:2011/01/18(火) 08:23:01
>>747
当時、裁判員制度があっても、無期懲役の判決が出たんじゃないですかね。
全ての審理において無期懲役の判決が下ったということには、おそらく
当時の裁判官の量刑判断における一般的な傾向が現れているのだと思います。
また、検察の求刑通りの判決だったわけですから、当時の裁判官の立場からすれば
本件に関して被告を厳罰に処したという実感があったのではないでしょうか。
これらを踏まえますと、事件当時に導入されたとする裁判員制度が現行と同じ
ものである限りは、仮に全ての裁判員が有期懲役との判断で一致したとしても、
その判断が判決に反映されることはなかったと考えるのが妥当かと思われます。

>>751
>厳罰化と言っても裁判員はその枠外にいます。

裁判官と一緒に審理するので、さすがに「枠外」にはいられないですよ。

>最近でもさすがに死刑判決までは出ないでしょうね。

「どういう判決が出るかは判らない」と仰いましたよね。裁判員が
「厳罰化の枠外」にいるとすれば、なお更ではありませんか。

要は、俺さんはキャシーの弁護人と同じことを仰りたいのでしょう。
キャシーを擁護する主張の中で、唯一まともだと思えるのはそれくらいですし。

755無精髭:2011/01/18(火) 20:49:14
付け焼刃の知識でレスしたから、不安になってググったら間違ってた。

裁判官3人が有期刑、裁判員6人が無期刑だったら、裁判官の意見が採用されますが、
裁判官3人が無期刑、裁判員6人が有期刑だったら、裁判員の意見が採用されますね。

ある意味で良心設計だと分かり、安心しました。

もし当時、裁判員裁判が行われていたとすれば、キャシーに有期刑の判決が下った
可能性はあったかも知れないですね。ただ、裁判官たちからすれば、裁判員2人を
抱き込めば、自分たちの判断を判決として成立させることができるわけですから、
必死になって(あの手この手で?)説き伏せにかかってくるかと。

それに法律の素人が堪えられるでしょうか? まぁ、法律のプロよりも論理的な
(というより議論に強い)素人がいたら、それはそれでドラマチックですが。

756紫煙狼:2011/01/19(水) 00:48:59
この事件、有期懲役が妥当であると考える人って、そんなに多いのでしょうか?
つまり、裁判員制度が当時すでに導入されていたとして、有期懲役判決が出た可能性は
そこまで高いでしょうか?

自分にも非がある不貞行為の挙句の果てに、恨みの対象としてはお門違いな相手に明確な殺意を持ち、周到に
準備し、多くの人を巻き込みかねない方法(被害の限度を特定できない方法)で殺害した事実に対する刑罰が
有期懲役で充分とする見解が多くの人々にとって「ごく普通の感覚」なのでしょうか?

俺さんの意見には説明が全くなくて、ただ見解としての結論だけ端的に…なので
その結論に至った根拠が一切わからなくて、私には理解(共感)しづらいです。

757ななし:2011/02/10(木) 18:53:24
八日目の蝉で検索してたどり着きました。
すれ違いですが書かずにはいられなかったので、お目汚し失礼します。

私は数年前この事件と似たような状況におり、相手の女性に何度も電話したことがあります。
理由はもちろん主人がどちらも選べないというので向こうから手を離してもらいたかったからです。
その際、相手はかなり高圧的でした。主人とはしおらしくやりとりしていましたが、私にはかなり「あんたの旦那が来るのがいけない」と強気でした。
私は「うちの子ども達の立場にもなって考えて欲しい、もし貴方のお父様が同じ事をし両親が離婚したら貴方はどう感じますか?」と言ったことがあります。
その時から「あんたは私だけでなくうちの親まで侮辱した」と言うようになりました。

この事件の記事を見て、当時私が売り言葉に買い言葉で同じように罵ったりしていたら、もしかしたらうちの子ども達に何かあったかもしれないと思うと
改めて怖くなりました。

事件の加害女性と、元不倫相手の妻、どちらの言うことが本当なのか(どちらも本当でない可能性もありますが)わかりません。
しかし、相手を罵倒するような言葉でなくとも「侮辱された」と受け取られることは実際にあるので、私には妻の言っていることの方が真実に近いのではないかなと思います。

まぁ私の場合は完全に妻側に感情移入しがちな立場ですので、参考にはならないでしょうが。

でも実際経験したのです。とにかく冷静に、言葉を選んで、相手を非難することを極力避けて「お願い」をする中で、
すべての言葉を悪意を持って受け取られ、全く取り合ってもらえなかった。それどころか言ってもいない罵詈雑言を浴びせられたと
主人に訴えられストーカーや無言電話など嫌がらせの濡れ衣まで着せられました。

本当に怖いことです。
本当に、この事件他人事とは思えません。怖い。

758:2011/02/11(金) 22:52:45
>>757
それは災難でしたね。でも殺人が起こるのは稀で特殊なケースです。
ちなみに不倫してる人は他にも沢山いるでしょうし、妻バレしてるケースも
それなりにあると思います。貴女だけではありません。

759紫煙狼:2011/02/13(日) 00:09:56
>>757
>当時私が売り言葉に買い言葉で同じように罵ったりしていたら、もしかしたら
>うちの子ども達に何かあったかもしれないと思うと改めて怖くなりました。

>相手を罵倒するような言葉でなくとも「侮辱された」と受け取られることは実際に
>あるので、私には妻の言っていることの方が真実に近いのではないかなと思います。

これは深いですよ。順番を逆にしてみると如実に判ると思うのですが、妻vs愛人の会話では
妻が愛人を罵っていなくても愛人に「罵られた」と受け取られることはあり得るのですよね?
と、いうことは「売り言葉に買い言葉で同じように罵ったりして」いなくても、お子様達に
何かあったかもしれないわけですよね?

結局、幸いなことに757さんのお子様達は「愛人に何かをされる」という最悪な事態は起きなかった。
でも、当時の757さんが、あと少し愛人の気分を害していたら「何かあった」かもしれない。それは
実際にそうなのでしょうけれど、結果論に過ぎません。愛人さんが757さんの言葉を悪意に取って
勝手に気分を害してお子様達に何かしてしまっていた可能性は充分に考えられた、というコトの方が
757さんの「本当に、この事件他人事とは思えません。怖い。」の本質ですよね?

>>758の俺さんが言うとおり、妻バレのケースなんて珍しくもないし、妻vs愛人の激闘で売り言葉に
買い言葉でエスカレートすることも、実際は珍しいことではありません。それが殺人にエスカレート
するかしないかの差は、妻の対応に依存する割合よりも、愛人のイカレ具合に依存する割合の方が
高いのではないでしょうか?そう考えると、この事件と、757さんのケースの差は、単に757さんと対決した
愛人さんが殺人を犯すほど常軌を逸していなかった。外道は外道なりに小指のつめの先程度にはマトモな
ところが残っていたというだけなのではないでしょうか?

どちらにしても、怖い話に変わりはありませんね。757さんのお子様達に何事もなくて、本当に良かったです。

760mnh:2011/02/13(日) 05:30:40
横ですが。
「八日目の蝉」、人気のある本ですよね。
私はちょっと駄目だったけど。
子供を誘拐して逃げる話なんですけど…主人公はものすごく子供に執着している
けれど、育てるという視点に欠けているんです。
普通に結婚して子供が生まれていたら、私も夫から守られ、親から守られするはずだ、
みたいな記述が随所に見られ、いやいや、あんた、子供産んだら守る人になるん
だよ、あんたみたいに守られたい病の人は、やめといたほうがいいよ、と説教したく
なる。
で、逃亡中だから仕方がないんだけど、いろんなところにもぐりこむのだが、
それがことごとく、自分の保護者を求める行為のようでね。気持ちが悪い。

それで誘拐された子供は、親元に戻されるんだが、家庭の中の異分子になってしまい、
親とは上手くいかない。ところが彼女もまた不倫をして妊娠する。
産もう、と決断するのはいいんだが、さぁ親に会いに行こう、受け入れてもら
えるかどうかわからないけど、子供ができたから受け入れてもらいたい、
という流れになる結末なんですよ。
え、親になるのに、なんで保護者を求めるの、親になるって大人になるって
ことだと何でわからないの、と、またしても説教したくなる。

その上、思いっきり、男性不在の小説なんですよ。相手の人柄とかほとんど
描かれていない。
ただもう子供を持つと、孤独じゃなくなる、守ってもらえると思い込んでいる
病気というのかな…母性がどうとか評されていましたけど、母性というより、
インナーチャイルド全開!でしたね。

それで日野も、この手の内面の幼さが起した犯罪だったのかな、と思いました。

761無精髭:2011/02/14(月) 00:56:46
ななしさんを俺さんは慰めていらっしゃるのですね。優しいなぁ。


>>757
ななしさんの書き込みで興味深いのは、妻(不倫の被害者)の視点を前面に
押し出そうとしている点ではなくて、キャシーが妻を逆恨みしていたかも
知れないことを示唆している点ですね。

キャシーが妻に対してどの時期にどんな気持ちを抱いていたかなんてこと、
事件記事にはほとんど書かれていないですからね。情報が不足しているからには、
キャシーが妻に対し憎しみを抱いていなかったとか、キャシーの妻に対する恨みの方が
妻のキャシーに対する恨みよりも弱いなんてことは、全然自明じゃないわけです。

したがって、誰の証言を信じるかによって・事件当事者の誰に感情移入するかによって、
キャシーや妻に対する印象は異なるでしょう。逆を言えば、キャシーや妻の印象は
何ら確定的なものではなく(つまり事実ではなく)、第三者の信念や感情によって
玉虫色のように変化するということです(しょせん各人の解釈に過ぎない)。

ななしさんご自身の場合、憎悪に燃えてたのは旦那さんの元不倫相手の女性
とのことですが、本件の場合は、キャシーではなく妻とされることが多い
みたいです。ココが私にとっては謎なんですよねぇ。


しかし、以上は、ななしさんの視点から本件を眺めるとこうなるという話であって、
ななしさんの体験を本件と同列化すると、ななしさんの証言の信憑性も実は怪しく
なります。旦那さんの元不倫相手の言い分を詳しく聞いたわけでもない第三者から
すれば、ななしさんの言い分だけを鵜呑みにして元不倫相手の女を悪者扱いすることは
絶対に避けなければなりません。不倫が悪いとか殺人が悪いとかいったことを抜きに
した場合、ななしさんの言い分を善意に解釈できるなら、キャシーの言い分も善意に
解釈できるはずですし、キャシーの言い分を悪意に解釈できるなら、ななしさんの
言い分も悪意に解釈できるはずです。

こういうディレンマを回避するためにこそ、事件当事者の持つイメージは不確定である
が故に無視すべきである、法的にせよ、道徳的にせよ、悪いかどうかは、当事者の
イメージとは関係なく判断すべきだということに徹するべきではないでしょうか。
言い換えれば、その人間が悪いかどうかということよりも、その人間が行った
「行為」が悪いかどうかを問うべきではないでしょうか。


>>759
誰も罵ってないのに「罵られた」と感じることと、罵られたら復讐することは
違いますよね。この二つが繋がるとすれば、罵られてもないのに「罵られた」
と感じる人が、同時に天然記念物並みに復讐心旺盛な人でもあった場合ですよね。
これはかなりレアなケースですよねw

ななしさんの発言により、被害妄想の強めな人でも犯罪に走るわけではない
というのが分かりました。つまり、被害妄想狂は復讐の鬼とは限らないわけです。
これは実に貴重な証言。

しかし、一方で、侮辱されたら犯罪を犯してまでも復讐するかも知れないとか
いったことを公の場で恥ずかしげもなく発言する人をたまに見かけますけど、
実際、こういう人って他人から罵られてもないのに「罵られた」とか感じちゃう
ことがあるんでしょうかねぇ。つまり、感情の抑制が効かない人は、同時に
被害妄想狂なのか、もしくはそうなるリスクは高いのかっていうのが気になるところ。

762無精髭:2011/02/14(月) 01:31:24
>>760
その小説で母性が中途半端に描かれている(?)のは、作者の角田光代氏が意図したからじゃないでしょうかね。

インタビュー:角田光代、「八日目の蝉」で描く母性の問題
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-19480920110210

―――
 「(最近の子供虐待の新聞報道には)実の母親なのになぜ虐待ができるのかという論調が非常に多いが、そこで父性は問われないのだろうかとか、母性というものをあまりにも当たり前に女性に押し付けているのではないか。そのことが女性たちを苦しめているのではないか」と同氏はこの小説のテーマを語った。

 また母性に対する過度な期待は日本独特のものではないかとも指摘。「周りがあまりに母親とはこういうものだと決め付けているだけに、子供をかわいく思えないと自分は母親失格だと、無言のプレッシャーに追い詰められている女性は多いのではないか」と話す。
―――

上のインタビューを読む限りでは、どうやら従来の母性観を否定、または空洞化な母性を
父性(保護者)によって補完することで刷新することをテーマにしたかったみたいですね。

角田氏にしてみれば、mnhさんの発言―――「子ども産んだら守る人になる」とか「親になる
って大人になるってこと」こそが母性の押し付けに他ならないのだと思います。実際には母性に
何でもかんでもやりこなせるわけがない、女性一人の力では子の親という役割は務まらないから、
誰かの助けが必要だってことを角田氏は強調したかったんじゃないでしょうか。「自分の保護者
を求める行為」を多く描写したのは、そういう不完全な母性が実は一般的である(虐待を起こさ
ないのは単に恵まれているだけである)ことを読者に伝えたかったからではないかと思います。

>その上、思いっきり、男性不在の小説なんですよ。相手の人柄とか/ほとんど描かれていない。

いいんですよ。角田氏的にはそれでも。さっき言ったように、母親に育児の責任を押し付けるのは
過度なストレスを与えることになるから、父親も半分くらいは責任持てよ、周囲も理解の上、協力
してよって感じでしょう。

インタビューで語ったテーマで小説を書きたかったんなら、別に不倫&赤ちゃん泥棒なんて
ストーリーにする必要はないと思われるかも知れませんが、非力な女性が誰からの協力も
得られない環境下で育児の責任を一身に担ったらどうなるのか、という思考実験を行いた
かったのであれば、主人公が不倫して、愛人の子どもを盗み、逃げながら育てるという設定は、
案外いい線いってるんじゃないでしょうか。こんなふうに書くと、身も蓋もないのですが。

「八日目の蝉」という題名の由来にもマッチするでしょうし。

まぁ、角田氏の言ってることは小説の話の中でなら通用するんですけど、事実は小説よりも
奇なりと言いますし、現実の話にまで持って行くとあまりにも視野が狭すぎる考え方ですね。

763無精髭:2011/02/14(月) 01:33:25
角田氏は心理学者でも社会学者でもないので、前レスで挙げたような印象論で語るしかないので
しょうけど、虐待が起きる原因は、親自身の成育環境や、親の精神・人格の問題、子どもの性格
や健康状態や障害、経済的状況、夫婦間のトラブル、核家族化、等々、たくさんあるわけですよ。
そういうのが複雑に絡み合って虐待は起きるわけですね。角田氏のような直感的な推測は、小説を
書く上では格好のモチベーションになるのかもしれませんが、実際の虐待について考察する上では
あまり役立ちそうにありません。

(日本独特の)母性に対する周囲の期待感が虐待を生む遠因になっているなんて簡単に言いますけど、
母性押し付け論調の根源であるとされる新聞やニュースを見ない人とか、「母親とはこういうもの
だと決め付けて」くるような周囲とか地域社会から切り離された人って珍しくないので、角田氏が
指摘するような「無言のプレッシャー」を感じずに虐待している親だって少なからずいなきゃおかしい
はずです。むしろ、周囲からの押し付けが、親の中で虐待の抑止力になるようなモラル形成への
きっかけになっている可能性もあるんじゃないでしょうか。親としての自覚を促すという意味で。
だとしたら、押し付けの圏外にいる人間のほうが虐待を起こしやすいという考え方も当然できるでしょう。

あと、角田氏の推測とは対照的に、母性本能を否定し、女性の社会進出をラディカルに推し進めるべきだと
主張する一部のフェミニズムの影響のために、子どもを可愛く思えなくてもいい、出産や育児は女性の社会
進出において障害になるのだ、といった考えが社会に浸透したことが虐待増加の背景にあるという仮説も
あります。つまり、角田氏が想定するような「母性の押し付け」など、実社会ではすでに機能を失効して
いる可能性がある、だからこそ虐待が増えているのだとも言えるわけです。まさにアンチノミーですな。

http://fs1.law.keio.ac.jp/~hkatoh/gyakutai/2_1_B.htm

上に挙げたデータの中で角田氏の主張に一番近いと思われるのは、「育児負担感の増加」の箇所でしょう。
しかし、それも角田氏が推測するような「周りからの押し付け」が直接的な原因じゃなくて、そもそも相談
できる相手が誰もいないとか、保育園が足りないとか、育児を始めてみたら思った以上に大変だったとか
いったことに端を発していることでしょう。更に言うと、父性が問われる・問われない以前に、父親が
育児に参加しているかどうかの問題でしょう。察するに、角田氏には社会問題を物質的な問題からでは
なくて、精神的な問題から論じたがる癖があるんじゃないかなあ。それが小説家たるゆえんなのかも...。

764無精髭:2011/02/14(月) 01:35:32
余談ですが、角田氏の小説観には賛同できかねますなぁ。

―――
 角田氏はこの20年で日本の小説をめぐる環境は大きく変わったと指摘する。若い作家が増え、ジャンルが多様になり、小説に対しての敷居が低くなったことで、より身近なものとなった一方、「チープ」になったという。「チープになったという言葉はネガティブすぎるかもしれないが、ほとんど多くの読者の価値観が似てきてしまい、読んでわからない、難解なものをつまらないというようになったのは残念」と語った。
―――

若い作家が増えたら小説がチープになるって、これは若い書き手を軽視した言葉だし、大体、
年寄りの方が若者よりも良い小説を書くって決めたのは誰なんだと。同じ年寄りじゃないかと。

あと、ジャンルが多様になったら小説がチープになるって、ある特定のジャンルが小説界を
守っているしこれからも牽引すべきなんだーとかいった、よくありがちな古臭い文学観です。
良い小説の条件はジャンルの創造ではない、小説家個人の創造力である、とか、文学の伝統を守る、
とか、聞こえはいいですけど、こういうのって、自分たちの狭い世界だけで享受されている、だから
全然普遍的じゃない価値を一元的なものだと偽るために、他のジャンルに対して排外的になっている
原理主義者みたいなところがありますよ。

若い書き手が増えて小説の質が落ちることと、読み手が馬鹿になることの繋がりも良く分からない
ですね。若い書き手がチープな小説を大量生産しているから読み手が十分に教育されない、そして
チープな小説ばかり読んでる読者が「私でも小説書けるヮ」とか勘違いを起こして、それ以上に
チープな小説を書いちゃってまた読者が十分に教育されない、そういう悪循環が働いているとか
言いたいんでしょうかね。むしろ、こっちのほうが「残念」な小説観じゃないかと。

そのくせ、自分の小説は広く読まれてもチープにならないって言うんでしょ。

敷居が低くなったというのは、ライトノベルとかケータイ小説の台頭のことを指しているんだと
思いますが、見方を変えれば今までは敷居が高すぎた―――そのくせ敷居の向こう側には大した
ものがなかった―――人々の多様な欲求を満たせるだけの普遍的な価値がなかった、だから人々は
欲求を満たすために、まずは敷居のこちら側で新たなジャンルを次々と生成するしかなかった、
というのが実状ではないかと。

下記でもおんなじことを言ってますが。
http://adv.yomiuri.co.jp/ojo/02number/200810/10toku1.php
文学が人間の感情の多様性を支えるってのは、驕りでなくて何なのかと。で、ジャンルが
多様になれば、価値観も多様になるでしょう、常識的に考えて。それなのに、なんで逆に
価値観が画一化・平板化するんでしょうか。あと、高級な文学が読まれないことと、人間の
感情が荒廃していることなんて何のカンケーもねーよ、と言いたいですな。

まぁ、とにかくこういう感性の古臭くて、視野も狭く、おまけに不勉強な人が文学賞の
選考委員とかやってるんですから、日本の文壇も相当やばい。


おまけ。こんなのありましたー。

Mother (テレビドラマ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Mother_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)

765紫煙狼:2011/02/14(月) 16:20:21
>>761
ん?レアケースを想定してはマズかった?

>罵られてもないのに「罵られた」と感じる人
これは珍しくないよねぇ。脅されても居ないのに「脅された」と騒ぐ人とか
最近見たような気がするよ?もしかしたら髭さんにも心当たりが有るのでは?
これは「レアな人」というよりは、むしろ「アレな人」だよね。

>復讐心旺盛な人
これは「旺盛」をどう定義するかにもよる。けれど、そもそも復讐心と言うのは
被害感情に依存するものであって、客観的事実としての被害の大きさとは無関係
ではないのかなぁ?実際、このスレには「月に代わってお仕置きよ(はーと)」という
復讐代行業の人(被害感受性豊かな人?)が非常に多いように見受けられますよ?

と、考えると上記の二つを同時に満たすなんてのは「極めてレア」とは言えない。
だから、問題は「復讐心を満たす為には犯罪をも厭わない」人がレアなのだよね。
でも、それを言い出したら「刑事犯罪を起こす人」自体がそもそもレアじゃないか?

敢えて言うならば、レアな人は、アレな人に多そうな(自粛)

766無精髭:2011/02/16(水) 12:51:49
せっかく忘れてたのに、あの人のことを思い出しちゃいましたよ...(泣)。
と言うのは嘘で、別のスレでシェンさんから、あの人のことを忘れたほうが
いいと助言されましたけど、実を言いますと、かえってそれがあの人のこと
についてもっと深く考えるきっかけになってしまいまして、、、実は、あれ
からあれこれと書き溜めていたんです。近いうちにまとめて投稿しますが、
それと>>761のご指摘の箇所は密接に関係しております。

さて、レアケースについてですけど、私はシェンさんやななしさんのように
我慢強くもなければ、石橋を叩いて渡るようなタイプでもないので、誰かの
勝手な都合で自分が不利な状況に追い込まれたりなんかしたら、言うべきことは
言ってやりますし、場合によっては法的手段も辞さないつもりです。で、それには
相手がレア、もといアレであるかも知れないといった推測は邪魔になる、というか、
無視せざるを得ません。他人の中にアレな人間が結構な割合で存在するなんて
思ってたら、危なっかしくて何もできない、ただ泣き寝入りするしかありません。
まぁ、ですから、可能性は否定できないんでしょうけど、それを基に行動計画を
立てる気にはなれないなぁ、といったところですかね。レアケースを想定するのが
マズイというより、レアケースであってくれなきゃ文句一つも言えないので非常に
困ります(笑)。

>罵られてもないのに「罵られた」と感じる人

どうでしょう。各人の人生経験によるのかも知れませんけど、少なくとも私に
とってはレアケースでしたね。ななしさんに因縁を付けた人とか、例の御仁の
ような極端な人物には、リアルではメッタにお目にかかれないです。

いや、まぁ、しかし、それが仮に誰にとっても珍しくない存在だとしても、です。
私は、罵られてもないのに「罵られた」と感じる人という存在を、二重の意味で
捉えているというか、二つのタイプに分けているというか、少し複雑に理解して
いるようです。

私からすると、ななしさんの旦那さんの元不倫相手とか、あの人の場合、被害
妄想狂であるかどうかという以前に独自文法を操る人だったから、人間不振に
陥るまで精神的被害が彼らの中で拡大してしまったのか、それとも、もともと
単に傷つきやすいメンタリティの持ち主だったから被害妄想から抜け出せなく
なってしまったのか、それが謎なんですよ。つまり、被害感情(精神的虚弱)
が先か、独自文法(知的不能)が先か、ということです。普段は頭がいいのに、
口論になると熱くなりすぎて頭が回らなくなる人もいれば、頭が悪いからこそ、
何でもかんでも誹謗中傷と受け取ってしまう人もいるんじゃないでしょうか。

ちなみに、独自文法に囚われている場合、極端な話、実際に被害感情を抱いて
いなくても、被害者ぶることができると思います。なぜって、普通は罵詈雑言
でないとされる言葉遣いも、罵りの言葉と解する文法・語法に照らし合わせれば、
文法・語法上の「客観的事実」と言えるからです。言い換えると、独自文法の
持ち主には、自分が当の言葉を投げかけられてどう感じるかということを抜きに
しても、それが罵りの言葉であることは自明なわけです。つまり、自分に向け
られた言葉が罵りの言葉であると認識することと、その言葉で傷つくことは違う、
ということです。罵りの言葉であると認識するに留まり、心に大したダメージを
負わない人は、被害感情抜きに被害を訴えることができるでしょう。そして、
周りもなんとなくそれに惑わされることがあるかも知れません。彼にとっては、
自分が傷ついたということよりも、誹謗中傷されたという事実のほうが大事であり、
誹謗中傷した相手を槍玉に挙げることのほうがもっと大事なのです。

767無精髭:2011/02/16(水) 12:52:13
>復讐心旺盛な人

罵られたらやり返すヤツは珍しくないが、過剰にやり返すやつは珍しいって話
ですよね、分かります。「復讐心旺盛」という表現を使ったのは、被害感情を
念頭に置いていたからではなく、攻撃本能とか、衝動性、暴力性を意識していた
からです。ストレスを入れる器が小さい、ということなのかも知れませんが。
という次第なので、もちろん、過剰報復を内から支える心情的基盤のことを
「復讐心旺盛」というふうに私は定義、というか念頭においていました。これは
殺人までエスカレートしかねないケースと補い合う関係ではないでしょうか。

つまり、被害感情は復讐心(報復感情)の必要条件ですが、十分条件
ではないというようなことを言いたかったわけです。

とは言うものの、復讐心が被害感情に依存するかどうかまでは、私にはどうも
良く分からないんです。仮に依存するかどうかを勝手に決めていいのだとすると、
それこそ「被害感情」の方を定義しなければならないと思います。これは独自文法の
問題とも絡むのですが、たとえばシェンさんが仰っているような「復讐代行業の人」は、
被害感情を持っているのですよね。私にはそれがとても不思議です。自分が直接被害を
受けたワケでもなければ、被害者の関係者でもないのに、なぜ被害感情を持つことが
できるのでしょうか。この場合の被害感情というのは、被害者やその関係者が抱く
感情とは別種のものであるはずです。これはたぶん同情とか共感というヤツです。

仮にこれを被害感情と呼ぶことが許されるとしても、私が思うに、もう一つ問題が
あります。私たちから見てお門違いな復讐心を抱く人は、メディアの情報(真偽の
ほどは別にしても)に触れたのをきっかけにして、復讐心なり被害感情なりを
抱き始めるわけでしょう。真実であろうがデマであろうが、情報として存在する
ことは客観的な事実であるのだから、そういうものでしか赤の他人の犯罪被害を
知ることができない(被害者やその関係者じゃない)完全なる第三者の場合、
復讐心や被害感情は、客観的事実と無関係と言えるどころか、客観的事実の内容に
大きく左右されざるを得ません。

768紫煙狼:2011/02/17(木) 02:49:01
>>766
実は>>765の文章は、およそ5倍の分量から削って削ってあの量にして物でして…(苦笑)

・万引き犯を追いかけて捕まえたら刺し殺された
・イヤホンの音漏れを注意したら刺し殺された
・精神病患者の治療をしていたら撃ち殺された
・飛行機が墜落して多数の死者が出た

これらはいずれも実際に起きた事件ですよね?確かに極めてレアなケースです。
しかし、これらの事件のおかげで、万引き犯を追い詰めてはいけないという認識が広がり、
一時的に、もしかすると今でも、万引き犯の対応をする人は慎重に対応するようになりました。
イヤホンの音漏れを注意することに、一瞬なりとも頭を恐怖がよぎるようになった人がいます。
攻撃的兆候の強い精神病患者の治療に後ろ向きになる医者が増えました。
もとから飛行機嫌いの人の「飛行機が嫌いな理由」が増えました。

良いか悪いかではなく、可能性が高いか低いかではなく、どんなに稀な事象であっても、
たった一度の実例があれば、それが通常考えられない事であるほど、過敏になる人がいる。
似た経験をしたことがあれば、自分や家族が被害者になっていたかもしれないと思うのは、
これはもう、数学の世界の話ではなく、心理学の世界の話ですよ。羹に懲りて膾吹くというのは、
元来、行き過ぎ・やりすぎを嘲笑う諺だと思いますが、本人にとっては大問題なのですよ。
だから、日野OL放火殺人なんてのは極めてレアな事件ではあるけれど、そのたった一度の実例で
恐怖におののく人には「自分にも降りかかりかねない事象」なのですよ。

「明日、試験なんだ。落ちたらどうしよう?」という問いに対して
「なら、一度テキストを読み返しておいたら?」という返答は間違ってはいないはず。
「いや、合格率95%の簡単な試験だから大丈夫でしょう」という返答が正しいといえるのは、
それまで不安を感じている本人が充分に対策をしてきたと認められる場合だけでしょう。

と、言うと「お前は恐怖をあおっているだけじゃなかったか?」と言われそうですが、
私が言及した例では、すでに危機は脱しているのだから、あとは無事を喜ぶだけで充分に
彼女も安心する…。もしかすると「一層、無事であることへの喜びも深まるだろう」という
勝手な判断に基づくものであって、さすがに「今、丁度、夫の愛人とモメていて…」という話なら、
私も「危険だよ〜」とは言えないよなぁ(苦笑)

769紫煙狼:2011/02/17(木) 02:49:31
>>767
「主観と客観」のような哲学的な方向に話を引っ張るツモリはないのですが(笑)

「女生徒一人が路上で30箇所以上刺され失血死した」と被害者の生前の顔写真入りで新聞に
載ったとして、ここまでの情報は髭さんにとっても、私にとっても客観的事実でよいと思います。
が、ここに同情なり共感という要素(被害感情・復讐心の代行)を私情抜きで定量的に持つことが
出来る人はどれだけいるのでしょうね?実は客観的事実だけでは同情すべきなのかどうかさえ
判断がつかないはずなのではないでしょうか?(それが髭さんのスタンスだよね?)

ところが公開された女生徒の顔写真が…。まぁブスと言うか何というか、見られたものではない。
とたんに人の同情は色々な方向に分岐するわけですよ。
・こんな不細工は、案外本人も死んでよかったんじゃないの?(2chにありがち)
・不細工は世の中に不要だから犯人も不細工を狙ったんだね。
・ただでさえ不細工と言うハンデを持って、それでも一生懸命生きている人を殺すなんて!!
・世間一般の評価は別に、実は俺はこういうタイプが好きだから、殺したやつは許せない

逆に超美少女だったとしても、結果はそう変わらない。
・美人は何かと妬まれるっていうしね。刺されるようなことでもしてたんじゃないの?
・そりゃ、殺すなら不細工より美人を殺したいっていう犯人の気持ちも分からないでもないよな
・世間一般の評価は別に、実は俺はこういうタイプがキライだから、どーでもいい

「30箇所以上刺して」という情報も主観と無縁ではいられない。30箇所以上さすという行為が
残忍極まりないと考えて加害者に怒りをもつ者もいれば、逆に、それなりの事情があったに違いないと
加害者サイドからものを見ようとする者もいる。もちろん、多角的に考えあらゆる方向から見極める
ことで客観的であろうとする努力は認めても良いけれど、実際に客観的と言って差し付けないレベルまで
客観的を目指す義務を負う人は殆どいないのだから、結局、自分の主観の居心地の良いところで探求は
終わってしまう。そうでなければ、そもそも自分が関与しない事件の登場人物に感情移入する人が
増えたとしても、その事件に対して皆が持つ同情と言うのは、およそ誤差の範囲内に収まる…。つまり
皆がみな似たり寄ったりの結論で終わるはずじゃないですかね?「師匠死ね」とか「キャシー最悪」と
いう不毛な論争が延々と続くワケがない。一番客観的であってしかるべき部外者でさえ、なかなか
主観を排除することは出来ないって事ですよ。

770紫煙狼:2011/02/17(木) 02:49:55
もう少し付け加えさせてください。

そもそも人は快楽に対して正確な量的判断を求められることはないのです。「1つ2つ3ついっぱい」でいい。
ところが、不快感に対しては非常にシビアに量的判断をする。でなければ、病院にいくとか手当てするという、
生存するために必要な行為の判断が難しくなる。だから同じ物でも得たときと失ったときでは、失ったときの方が
心を大きくゆすぶられる訳です。

「結婚して、子供が出来て、幸せな日々を得た喜び」「妻・子供を同時に突発性の病魔に奪われた悲しみ」
これをどこまでも数学的に処理すれば「妻と子供を得て」「妻と子供を失う」のですからプラマイゼロ。
あえて言うなら、別れの時で続いた幸せな日々の分、トータルでプラスですよね?でも、心という要素は、
そんな単純計算を絶対に認めない。

失った物の、その人にとっての価値と言う主観的基準も存在する。たかがバナナ1本、という価値観と
俺のバナナ取りやがったな!という価値観、これはその人の主観に依存するものでしょう?

復讐代行業なんてのは「そもそもが負の方向に陥りやすい人の主観(被害感情)に依存する」とでも考えなければ
説明のつかない話ではないでしょうかしら?もちろん、この先には自分は被害にあっていないはずなのに、
なぜか興味本位で過去の事件を調べて勝手に登場人物に復讐心を持つという迷惑な人の存在を確認できるわけです。

なるほどね、記事という客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない…。

いや?本当にそう?実際は「勝手に妄想に浸った挙句、一人で被害感情を高ぶらせて」という事例もあるでしょう。
先ほど出した精神科医の例では客観的事実は「治療した」のではないでしょうか?でも患者の主観的事実は、
それとはかけ離れていた結果、勝手に復讐心を燃やして拳銃を手に取ったのではないでしょうか?

こう考えると、延長線上に
>そもそも復讐心と言うのは被害感情に依存するものであって、
>客観的事実としての被害の大きさとは無関係ではないのかなぁ?
と考えただけの話なんです。

771桃煙狸:2011/06/02(木) 06:03:25
被害者がブスなのか超美少女なのか
とか、どこまでも数学的に処理すれば
「妻と子供を得て」「妻と子供を失う」のですからプラマイゼロ
とか、どこまでも薄っぺらいな。

772恐縮です。:2011/06/07(火) 21:01:39
このスレどこまで行っても堂々廻りなのが、事件の本質なのかも知れません。
お互い住む世界の違う人達のやり取りなので、正直宇宙人同士。
言葉が違うから通じない。

773恐縮ですか?:2011/06/08(水) 01:39:28
「既婚の中年男が、部下である若き未婚の女性と不倫している」と聞いたら誰でも
手練手管の中年男が主導権を握って、若い女性を弄んでいる図しか思い浮かばない。
多くの視聴者が「女性は弱者であり、男たるもの弱者を守る存在であって欲しい」と
思っていて「ささやかな幸せを求め、愛に生きる女」の姿に共感し「より立場の弱い
方の女を応援したい」と感じてしまう。

そんなメロドラマ性をこの事件に期待し、予定調和にそぐわない台本にダメ出しする、
ハタ迷惑な脚本家やディレクターが後を絶たないって事では?

774こだま:2012/01/28(土) 15:00:56
この事件、まだ2chで話題になってるんですね。
加害者と事件後、かわら版なるもので、接する機会があり少しは
彼女よりの応援者でしたが、詳細書けませんが、やはり異常な神経というか
劇場型な人です。
人の優しさ思いやりを受け入れる人になって、早く世間に出てやり直しほしい
ものです。
やはり、子供二人殺した罪で、死刑にならなかったのは、裁判官の温情だと
心に刻んでほしいものです。

775無精髭:2012/01/28(土) 23:55:40
2chのスレを覗いてみました。大した感想はないですが。

いつも思っていることですが、被害者・加害者に関わらず相手を叩いていると、いつか予期せぬ形で自分に跳ね返ってくるかも知れません。
スマイリーキクチさんの件もありましたし
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/kurashi/2011/11/25/1335.html
日々のストレス発散はほどほどにしておいたほうがいいですよね。

あと、こんな書き込みがありました。
http://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/news2/1317728689/544-
boroさんの当事件についての書き方が加害者寄りに思われるということで、すでに>>533-535>>540で議論されていることですが、これについては少し異論があります。

まず、情報が客観的な形で存在する―――誰でも同じ情報にアクセスできるということと、その情報の質が客観的である―――伝え手の主観を排しているということは違うということに留意すべきです。

また、放火殺人に帰結した不倫という一連の出来事についての言説は、その殆どが加害者側から出された情報で構成されているかの観があり、すでにその時点で情報全体の客観性(中立性)は保障されたものではありません。

boroさんは、この事件に限らず全ての事件について文献を基にして記事をお書きになっていますから、この場合の客観性というのは、感情を排するという意味での客観性のことではなく、文献中の記述に対しての客観性のことでしょう。それは、インプット・アウトプットの両面から目の前の情報内容に対し忠実に接するということですから、文献中の記述が主観的、ないし関係者の一人を中心にしたものであれば、それを基にした記事もその傾向が反映されざるを得ないわけですね。もちろん、文献の選択にboroさん自身の主観が働いてしまった、ということはあるのでしょうけど、当事件の関連文献の多くが加害者側から出た情報に依拠しているようですし、逆に被害者側から出された既存の情報に比重を置いて当事件の詳細を書くのは非常に困難であるという事情も考慮すれば、boroさんの文献の選択もあながちバイアスが効いているとも言えないのではないでしょうか。

雑談スレでのboroさんの書き込みを読んでいたことも手伝って、私は以上のように得心いたしました。

以下は、何年か前に別スレでもリンクを張った記事ですけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9

ところで、以上は>>767「真実であろうがデマであろうが、情報として存在する/ことは客観的な事実であるのだから、」以下の主張ともリンクする考えです。冒頭で挙げた2chの書き込みや村雨さんの問題提起は決して珍しいものではなく、他に事例がいくらでも転がっているくらい現実味を帯びたものであって、だからこそ>>767での解釈の余地も生じるわけです(雑談スレでのゴタゴタや震災で、この件について書き溜めていた文章の存在をすっかり忘れていたので、近いうちにまとめて投稿したいと思います)。

776無精髭:2012/01/29(日) 23:40:07
そういえば、2chという言葉で思い出したのですが
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/p03.html
http://web-en.com/main5_023.html
ねらーの自治性としての側面、そして倫理性でもあるアイロニーが失われつつある、と言われて久しいですが、哀しいことですね。

ただ、本件に関してはあまりユーザーややり取りの質に変化は見られないと思いますけど。
http://www.geocities.jp/logupper/hino/hino02.html

本件のような実際に起きた事件に関する言説の場としても、2ちゃんねるに期待がないわけではないので、どうせ暇つぶしやストレス発散をするなら、本件について安易な一元論化を許さない・徹底的な相対化や、極限まで距離を置いた・斜に構えた果てにもはや本件について語っているとは思えないほどの脱線振り、暴走振りを発揮してもらいたいものです。被害者悪い、加害者悪い、といくら表現を変えて主張しても、先のような欲望を満たす上では不完全燃焼に終わる気がして仕方ないのです。

実際の事件を語ることで、関係者に対する実害を伴わずに暇つぶしやストレス発散をするには、相当の工夫と機転が必要かと思いますが、それは各人の腕の見せ所でしょう。


さて、ほぼ一年前に自分で書いた覚書を読み返してみましたが、本当に思いついたことを書き散らした程度のものなので、個々の文章間における論旨のつながりやら、そもそもどうしてこんなことを書いたのかすらも忘れている部分が多く、とどのつまり、当時の問題意識に頭を切り替えて、これを起承転結のある文章に纏めるのは無理だと判断しました。それでも一応通読できる程度には文の体裁を整える必要がありましたので、10分の1くらいは削って、少し書き足しましたが、結局、ほぼ原型と変わらないものを以下に投稿することにいたします。いずれにせよ、遅きに失した感は否めませんが。

―――

私とシェンさんとの意見の齟齬がどこにあるのかをハッキリさせるためにも、
まずは>>769の論点を私なりに整理させていただく必要がありそうです。

>「女生徒一人が路上で30箇所以上刺され失血死した」と被害者の生前の顔写真入りで新聞に載った

客観的事実に違いないが、これだけでは復讐心にまで成長しうるほどの強い同情を被害者に対して抱くことは
できない。そのためには私情が不可欠である。

>公開された女生徒の顔写真が…ブスor美少女

被害者の顔写真を主観的判断で評価することで得られた、主観的事実というべきもの。
客観的事実が主観というフィルターを通して同情の対象とされていくことを示す。
主観的事実とは各人各様の事実である。自分にとっては主観的事実だからといって、
他人にとっても主観的事実であるとは限らない。

>客観的事実は主観に対して一様の影響力を持つことはできない

各人が自らの価値観に見合った解釈に安住する。でなければ、客観的事実の同一性により
各人の解釈の差は埋まるはず。しかし、実際には各人の意見はバラバラである。したがって、
客観的事実は各人の主観を統一することができない。逆に、主観からすれば、客観的事実を
認識する上で、己の判断基準・価値基準(外部に対する評価・解釈的なもの)を排することが
できない。

客観的事実が誰から見ても同一であるのに、各人の主観が多様であるのは、主に主観に原因
がある、というのがシェンさんの主張。

シェンさんの論旨を簡潔にまとめると以下のようになるでしょう。

(1)客観的事実が主観に及ぼしうる心的効果の限界を指摘する。
(2)客観的事実が私情を通して捉えられたときの同情(解釈)多様性を指摘する。
(3)逆戻りして、実際の同情は多様である。だから、事実は私情を通して捉えられているに違いない。そこに客観的事実の限界がある。

一方、私の主張は「客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない」というもの
ではなくて、「客観的事実は第三者の主観に大きな影響を及ぼす」というものです。シェンさんが
主観一般を考察対象としているのに対し、私はある事態に対する第三者の主観以外には、これと
いって言及しておりません。そして、私は、客観的事実が主観(的内容?事実?)の原因であると
主張したのではなくて、客観的事実が主観に与える影響の大きさを示唆したに留まっております。

777無精髭:2012/01/29(日) 23:42:58
つまり、私とシェンさんの食い違いが何に起因するかと言うと―――

・事象・状況に対する立場上の違いから主観を区別するかしないか。
・客観的事実を既存の主観内容に対する影響因子と見なすか、主観内容が生じるための要因と見なさないか。

以上の二点かと思われます。しかしながら、後者の相違点というのは、そもそも同じ問題において対立する
論点なのでしょうか? どちらも客観的事実とは無縁に主観が存在していることを前提にしつつ、一方は
影響因子(可塑性)についての問い、もう一方は生成(存在)要因についての問いかと思うのですが。
また、前者の相違点は、主観に関する一般論・総論的考察と特殊論・各論的考察の相違かと思われるかも
知れませんが、そう話は簡単ではなく、シェンさんは、主観に関して個人的な違いを指摘しておられますが、
立場上の違いには言及されていない、というより、ある理由からその違いを無視することができるという
ように書かれていらっしゃいます(この点については、私の考えと併せて後述いたします)。

さて、私とシェンさんにおいて意見が一致している点を挙げてみましょう。それは、上記(1)についてです。
客観的事実が主観に及ぼしうる心的効果が存在することには何ら不思議はありません。かといって、自然に
任せるままに、その限界が何の対処もなくそのまま放置されるのであれば、主観は客観的事実を(心的・感情的に)
認識(感知)し得ないでしょう。だから、その間隙を埋めるために主観の側から私情が動員されます。
これは確かなことだと思われますので、さしずめ問題なのは次の二点です。

(a)実際の同情は多様であるか
(b)どの客観的事実も私情を通して捉えられているか

前者は上の(3)の肝となる部分への疑問。後者は(2)と(3)に跨った疑問となるでしょう。


(a)実際の同情は多様であるか

いきなり自ら出鼻を挫くようで恐縮ですが、ある被害に対する人々の同情が多様かどうかを
調べる上で、人々が全く同じ情報を共有しているとは限らないということは非常に悩ましい
ところです。なぜなら、一つの客観的な情報を知ることで人々の同情が多様になるかどうかを
知りたいのに、一つの客観的事実を伝える客観的な情報が沢山あったりしたら、人々の様々な
同情は、様々な情報を知ることで生まれるのか、一つの客観的な情報を知るだけでも生まれ
うるのかが、分からなくなるからです。

被害に関する情報は、捜査の進展や各種報道機関の情報収集等を含む時間経過の中で、それが
起きた時間や場所の情報、さらに被害者や加害者の情報、警察の捜査や取調べなどの情報、
そしてそれらに対する評価的言説などと組み合わさることにより、一つの膨大な事件情報を
構成する一要素となります。

一つの客観的な情報内容が一意的である(誰から見ても同一の存在で、かつ単一の意味を持つ)
ということと、一つの客観的な情報内容が多義的である(誰から見ても同一の存在で、かつ
あいまいな意味を持つ)というのは違いますから、これに併せて、一つの事件が多くの情報で
伝達されている状況、情報そのものの多様性、こういったものに晒されている人々の間で意見が
割れることと、私情の個人差が原因で意見が割れることは区別しなければなりません。

多様性とはどのようなものかを考える上で欠かせないのは、一方で各人の私情に即した多様性、
そして他方で私情とは異なる多様性の区別であり、人は、知識の複数性と私情の固有性を同じ
主観に宿している、というわけです。

そこで私が思うのは、実際は各人の同情が多様なのではなく、ただ多様に見えるというだけで、
それは各人が発する言葉が多様であることに起因しているからなのかも知れない、ということです。
つまり、表層上異なって見えるものが本質まで異なっているとは限らないのです。少なくとも、
ネットでの言説に対して多少でも注意深くあろうとする者であれば、ネット上で行き交う様々な
同情の声を、個々人の基底的な価値観なり本心なりが直に反映されたものであると額面通りに
受け取るわけには参りますまい。

778無精髭:2012/01/29(日) 23:46:16
(b)どの客観的事実も私情を通して捉えられているか

シェンさんが例に挙げたような客観的事実だけでは「同情なり共感という要素(被害感情・復讐心の代行)」を
「定量的に持つこと」ができないだろうという点については、おそらくそうではないかと思います。

ただ、この場合は、客観的事実云々というのは関係なく、単に情報不足だから、事件への(ある一定以上の)
関心を呼び起こせないということはあるかと思います(情報不足、すなわち謎が多いからこそ、特に興味を
引かれるという人も中にはいるでしょうが)。日時や場所、事件に関する詳しい経緯や加害者に関する情報
などが分かれば、人々の関心を呼び起こすことはできるかも知れません。あるいは、犯行現場が現に自分の
住んでいる場所とか実家とか思い入れのある場所に近かったり、女生徒と同じ年頃の子どもを持っていたり
すれば、事件への特別な関心は湧くのではないでしょうか。

私が言いたいのは、ある一定以上の情報が提供されていない、もしくは自分と事件との間に関連がほとんど
ないことが情報を通じて分かる場合、さまざまな憶測が飛び交う余地も生まれるのではないか、ということです。
これは事実関係が不明な場合でも同様ではないでしょうか(狭山事件の場合など)。

まず、各人の立場が違うのを理由に被害感情を区別することをシェンさんは拒否するわけですよね。

犯罪の直接被害者が被害感情を持つ。
犯罪被害者の関係者が被害感情を持つ。
犯罪報道で第三者が被害感情(?)を持つ。

客観的被害の大きさとは無関係に主観的被害が拡大しうる―――実際の被害がない場合でも
被害感情が生まれることがあるのを根拠に、この三つを同質のものであると見なすわけですよね。
そして、赤の他人の犯罪被害を報道で知って同情することと、単なる被害妄想を持つことは、
実際に被害を受けていないのに被害感情を持つ、という点で本質的に同じものとのことですから、
犯罪被害者が持っている被害感情も妄想的部分があるということですよね。

ところで、被害感情というのは、被害を受けるのは自分である、害悪は自分の外部からやってくる
という意識を伴うものです。直接被害者がそのような被害感情を持つのは当然であるとして(実際には
自分が被害に遭っているのに被害者は他人だと思う人も稀にいるかもしれませんが)、その関係者が
そのような被害感情を持つことができるのは、直接被害者と自分を同一視するからですよね。自分と、
家族や友人とはいえ他者を同一視できることの延長線上に、自分と赤の他人を同一視できることも
見えてくるわけでしょう。しかし、一般に家族とか友人に同情するのと比べて、見ず知らずの他人に
同情するのは、そうすんなりとはいかないものでしょう。


さて、ようやく本題に移りますが、本当に被害感情は客観的被害の影響を受けないのでしょうか。

実際の犯罪被害から生まれた被害感情
家族が犯罪に巻き込まれたことから生まれた被害感情
全くの赤の他人が犯罪被害に遭ったことから生まれた被害感情

事を「主観と客観」という原理原則的な話にまで拡大させるなら、シェンさんの仰る通り
なのでしょうけど、私とシェンさんとで意見が食い違っているのは、おそらくそんなに
大げさな話ではないですよ。先述したように、私は「どんな立場にあろうが人間の主観は
客観的事実から生まれる」とは言ってなくて、「ある事態に対して第三者的立場にいる
人間の主観は、ある事態についての客観的事実から大きな影響を受けざるを得ない」と
言っているのですね。よくマスコミの印象操作がネットで批判されたりとか、社会調査の
作為性が問題になったりとかしますが、そういうものにまんまと嵌ってしまう人たちが
いるからこそ、私は「客観的事実の内容に大きく左右されざるを得ない」と書きました。

ご存知のように、震災・原発事故・放射能の件についても、各人のリテラシーの差―――
主観の違いによって意見が紛糾しましたけど、別の側面では、情報に踊らされたという見方も
できるでしょうし、政府の情報公開・秘匿に対する世論の反応を見るにつけ、いかに情報が
自分たちの判断や行動に多大な影響を及ぼしうるものなのかを国民は自覚している、と言っても
構わないのではないでしょうか。

くどいようですが、客観的事実としての情報さえも主観と無縁ではいられない、という点には
同意しております。しかしながら、私見では、客観的事実としての情報が主観に深刻かつ多大な
影響を及ぼす可能性があるような気がしてならないのです。

779無精髭:2012/01/29(日) 23:47:57
断片的な情報一つ取っても、様々な解釈がありうる・人によって解釈が異なる、というのは
よく分かるのですが、情報内容が不確かな場合とか、事実の記述よりも解釈(評価情報)の方が
多くを占めている場合では、それを享受する人々の内でも、何らかの傾向なり偏りが見られる
のではないでしょうか。人々の意見の違い・争いは、情報の客観性ではなく、個別主観の特殊性に
起因するというシェンさんの説が正しいなら、どんな情報に対しても各主観の区別なり差異なりが
一様に反映されるはずですが、実際は情報によって主観の間で一致が多く見られたり、反対に
ばらつきが激しかったりするのではないでしょうか。これを同情とか共感の偏差、と言っていいか
どうかは分かりませんが、シェンさんの説に従えば、人々の同情や共感の偏差は、どんな情報に
対しても関係なくランダムに定まっているかのように観察されるはず。しかし、それを評価する上で
意見の割れやすい・割れにくい(賛同または反発の流れを形成しやすい)情報というのはやはりあるでしょう。

繰り返しますが、実際は情報内容の違いによって人々の同情の偏差は大きかったり小さかったり
しますよね? たとえば、女子コンクリの場合。第三者による意見の大半が、被害者への同情と
加害者に対する憎しみで占められているかと思うのですが、あの事件にもし、被害者に明確な落ち度が
あった、とか、一種の報復だったとかいった事実があって、誰もが確認できるように報道されていた
としたら、日野OLのような泥沼になったかも知れません。日野OLの場合は、シェンさんも私も夙に
指摘しているように、事実関係に不明な部分が多いですし、事実関係が分かっている部分でも、それを
構成する要素であるキャシーの証言には信憑性の疑わしい部分もあります。このような情報内容では、
第三者間において意見(解釈)が分かれるのは半ば必然であると言えるのではないでしょうか。もし、
そこに決定的な物証―――妻とキャシーの会話を録音したテープなどが見つかりさえすれば、
これまでのように異なる意見が拮抗するかのような事態から脱却し、趨勢が変わるかも知れません。
また、秋葉原通り魔の加藤被告についても、被告の生い立ちを知るのと知らないのとでは、そこに
集中する同情・反感の量は異なるのではないでしょうか。ある事実の発見によって、加害者サイドから
被害者サイドに同情の対象が移る人もいるでしょう(逆もまた然り)。逆に、事実なしに解釈を深める
だけでそういう転向を遂げる人はほとんどいないのではないでしょうか。

別に実際の事件報道でなくとも良いのです。事実を記述した文章は読み手に対して真偽を
問わせる方向へと誘導し、評価を記述した文章は読み手に対して肯定と否定(あるいは留保)
のいずれかの印象を抱くように仕向け、あいまいな文章は読み手に対して意味を確定させる
ことを中々許さないものでしょう。

シェンさんが例として挙げている架空の新聞報道にしても、情報の質的な違いが人々の意見を
別々の意味で分岐させてしまうとも考えられます。

・女子高生が刺された
・女子高生が美人(ブス)だった

いずれに対しても人々の意見は分岐するでしょうが、前者が事実、後者が評価である以上、
分岐の種類が異なるのではないでしょうか。前者においては、なぜ刺されたのかについて意見が
分岐することが多いのに対し、後者においては、前者と違って事件に関係ない話題で意見が
分岐しうる(ただ、意見が分かれたとしても事件をネタにして盛り上がっている点では同等かも)、
といった違いが見られるとか。人々がどの事実に注目するかは、各人の主観によって決まるのでしょうが、
注目するも何も事実がなければ、分岐(主観の違いが顕在化すること)もありえないでしょう。

ただ、注意していただきたいのは、私が言っているのは、美人とかブスなどと評価される客観的
対象がなければ、それを評価する主観も起こりえないという話ではないのです。ある客観的事実の
有無以前に主観が存在するのは自明でしょう。そして、その事実を受容するのも主観以外にはありえません。
ただ、全ての人間は主観に囚われているという考えは、各人の主観が現に異なっていること、及び
いかに異なっているかの説明にはなるでしょうが、各人の主観がどのように生成し変化していくかの
説明にはならないです。それを説明するためには、ある特定の人物の主観が客観的事実をいかに加工して
主観的事実としたかを、そして、それが元の客観的事実と比較していかに異なっているかを、
彼の言動という客観的事実から推理する必要があるでしょう。

780無精髭:2012/01/29(日) 23:49:05
ちなみに、これに関するシェンさんの表現をものすごく抽象化すると、ある主観は別の主観に依存する、
ということですよね。たとえば、復讐心という主観は被害感情という主観に依存する、とか。
解釈は別の解釈を呼び起こす、とも言い直せるかと。こう書くと同語反復みたいなので、胡散
臭さが漂う気がしなくもないのですが、実は私が>>766の後半で「独自文法」を仮定した時の
考え方に極めて近い考え方だと思います。私はそこで「客観的な文法では誤りとされる言語使用が、
独自文法においては客観的事実とされる場合がある」というような意味のことをお書きしましたが、
それはシェンさんが書いて下さった「主観的判断」の一節や、「主観的事実」の問題とほとんど
同じものだと思って下さって構いません。主観が自らを対象化することで負のスパイラルが働く
ということに反対する者などおそらくいないのではないでしょうか。もちろん、私が提起した問題も
それ自体では、復讐の鬼の出現というレアケースを十全に説明するための道標にはなりえません。


シェンさんは、かなりレアケースに寄り添った考え方をしているなあと思いますが、
私は、ネットユーザーの主観の多様性と、キャシーとか医者を刺し殺した患者の主観の
特異性を分けないと共感についてうまく説明できない、と思うんですよね。

なぜって、主観の多様性だけで共感とか同情を説明しちゃうと、たとえばキャシーに同情する者たちが
次々と現われても、それぞれ勝手な動機で同情してるだけだから、そういう人たち同士の間で意見が一致
したとしても、ただの偶然、ってことになっちゃうから。俺はこういう考えだけど、お前もそうなんだね、、、
コレで終わり。ここまでしか説明できない。しかし実際、同じ考えの持ち主達は往々にして、俺とお前は
仲間だ、というところにまで発展しますけど、紫煙狼さんの考えだと、それを奇怪な現象としてしか
捉えられないのではないかなぁ。

共感や同情という心理作用の場というのは、何も自分と被害者という縦のつながりだけではなく、
同じ被害者に対して共感(反感)する者同士の横のつながりもありますからね。(第三者による)
共感・同情には、ある事象に対する作用の面とは別に、他の共感・同情に対する作用の面、つまり
横のつながりに対する共感・同情の連鎖も無視できません。ジャスミン革命等のきっかけとなった
と言われるソーシャルメディアでは、おそらくその傾向が顕著に出ているのではないでしょうか。

シェンさんが挙げてくださった、様々な共感(反感)のパターンも、他人の影響を免れているとは
限りません。他人や周りの雰囲気に感化されやすい人はいますし、何にでも反対したがる天邪鬼な人
もいます。他人がこうしているからという理由も、自分の共感(反感)の仕方に影響を与える可能性は
あるでしょう。言うまでもなく、他人がしている共感・同情というのも自己にとっては客観的事実に
違いないのです。

シェンさん流の主観説に従うと、第三者同士で共感したり同情したりすることは、単にその人たちの
主観が似ているからであって、個々人の主観が似ているのは偶然に過ぎない、ということになるんで
しょうけど、ある事象に対する共感や同情の面では一致しているかに見える人たちでも、他のことに
なると意見が異なる、全然似ていない主観を持っているなんてことがありますからね。先に挙げた
革命でも、一致団結して独裁政権を倒したは良いが、その後どうやって新たな国づくりをするかについて
皆が皆好き勝手なことを言い出して意見がまとまらないなんて事態に陥ったそうですね。

―――

781こだま:2012/01/30(月) 23:23:03
キャッシーは
何度か写真見ましたが、そこそこな顔でしたが。。。。
それと、妹さんは結婚して幸せにしています。

782紫煙狼:2012/01/30(月) 23:28:40
無精髭さんの熱いラブコールを無視するわけにはいきませんなぁ(笑)僕はいつでも臨戦態勢よ(はぁと)

>私とシェンさんとの意見の齟齬がどこにあるのかをハッキリさせるためにも、
そもそも、無精髭さんと私の意見の間に「齟齬」なんてありますかしら?

無精髭さんは「一般的に主観は客観的事実に影響される」と言っていて、これは私も認めているつもりです。
それに対して私は「復讐心の強さは主観に影響され、必ずしも客観的被害の大小に比例しない」と言っています。
二つとも同時に成立しうると思いますが、いかがでしょう?

あと「客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない」は私の言葉ですよね。
これは>>770で言う「なぜか興味本位で過去の事件を調べて勝手に登場人物に復讐心を持つという迷惑な人」にとって
「客観的事実が及ぼした影響」を抽出しただけで、常に「客観的事実の存在がなければ、主観を呼び起こすことは出来ない」
が成立するという意図ではありませんでした。これは私の書き方が悪かったですね。

むしろ、私が言わんとしていたのは
「なぜか興味本位で過去の事件を調べて勝手に登場人物に復讐心を持つという迷惑な人」が欲しているのは
「感情移入しやすくて、誰かを罵る大義名分をこしらえやすいスキャンダラスな事件記事」であって、
本人達はそれを「正義だ」などと言っている。本人達は大真面目に「社会の不正に対する正義の心」として
登場人物を罵倒し、さも、自分が事件の生き証人であったり、さも、当事者であるかのように言うけれど、
実際はそんな「正義」なんていう大層なものではなく、単に悪趣味な覗き見主義であったり、自分の日ごろの
鬱憤を晴らす題材としてのイケニエを求め「こいつ相手なら、罵詈雑言を浴びせかけても多くの賛同を得られるだろう」
なんていう「さもしい・見下げ果てた根性」の表れに過ぎないのではないか?ということです。
(それこそ、太宰の何とかにも通じるものがある。)

つまり、無精髭さんは「たまたま事件を知ってしまった人が、顛末を知り、主観を動かされた」と考えるのに対し、
私は「もともと主観を動かすために、利便性の高い客観的事実を探していた人が、たまたま事件を知った」と考えます。
おそらく、無精髭さんは本当に前者に属するのでしょう。実は私も前者に属するクチです。そういう意味では、
後者に属する人と言うのは「非常にレアケース」なのだろうとはおもいます。

ですが、ある意味、このスレが延々と同じことの繰り返しなのは「世間的にはレアケースな人が密集した」からでは?
そして、レアな人にはアレな人が(自主規制)とでも考えなければ、説明が付かないというコトです。

ちなみに>>771
>どこまでも薄っぺらいな。
あなたは、読み込みが薄い(笑)

783無精髭:2012/02/02(木) 21:27:24
正直に言いますと、不毛な論争が終わらないことと、そこにアレな人が参加していることの因果関係が
よく分かんなかったんですよね。

アレな人がいなくても論争ってしばしば不毛なやり取りに発展しますし。とはいえ、不毛かどうかはともかく、
論争に参加すること自体がレアだし、ある意味ではアレだとはいえるのでしょうが、それでも、シェンさんの
想定されているだろう「アレ」でなくても別にいい気がするし。

で、いろいろ考えてみた末、ある事象が起こる原因についてこういうふうにしか説明できない、とシェンさんが
仰るのがイマイチピンとこなかったのは、シェンさんが想定されている事象を、そもそも私が同じように認識
できていなかったからなのだろうと思い至りました。

というのも、客観的に見れば同じことの繰り返しでも、その実態は、一部のアレな人々が事件に固執している
のではなく、普通の人が短期間に現れては消え、また新しい人が短期間に現れては消え…、これが繰り返されて
いるだけ、という可能性もあるからです。事件関係者に同情したり、あるいは責めたりする気持ちが湧くのは
特におかしな感覚とはいえないでしょうし、自分の私的な意見を、後先の考えもなく、うっかり・おおげさに
公言してしまうような失敗、おっちょこちょいな癖、というのも別段珍しいものではないでしょう。

>つまり、無精髭さんは「たまたま事件を知ってしまった人が、顛末を知り、主観を動かされた」と考える

まさにその通りです。なので、

>「もともと主観を動かすために、利便性の高い客観的事実を探していた人が、たまたま事件を知った」

そうでない可能性もある(そうでない人が(も)原因かも知れない)ので、いくらなんでも「アレな人がいる
とでも考えなければ、説明がつかない」ことはないだろう、と思ったのでした。もちろん、シェンさんの想定
されているような状況が、現在のこのスレの実態なのだとすれば、仰るように考えないと説明がつかないと思います。


以上の点を除けば、シェンと私の違いは、認識論上の問題にあるのではなく、また、同じ問題において対立
しているのでもなく、この事件とそこに群がる人たちをどう捉えるかという点にあるというだけですね。要するに、
同じ問題に異なるアプローチをしている、あるいは、異なる個別問題に関心がある、ということでしょう。

たとえば、AKBなり、ある人気商品なりに、コアなファンなり、愛着を持った固定客なりがいて、それに
興味のない人たちから見たら、全く意味のなさそうな議論なり、情報交換なりに日々勤しんでいたとして、
こういった現象を分析するのに、シェンさんは、消費者の行動や心理、つまり人間の方に注目するのに対し、
私は、商品としてのアイドルやその売り方や広告、つまり物や情報に注目するわけです。

主体か環境か、の違いと言ってもいいでしょう。

私が思うに、特定の何かに執着する人は、それだけで(周りと比べて)少し変な人ですけど、「延々と
同じことの繰り返し」ならぬ「同じことを飽きもせず繰り返す」のは、そうすること自体が快感に
なっているからじゃないかと思っています。ちょっとした刺激に対してもドーパミンが出まくりなわけです。

もちろん、他の人が特に何も感じないことにある人が快感を感じているなら、よし、そいつだけを調査対象
にしようという話になるのは自然だと思います。それでも、そいつだけを、否、そいつの頭なり心理なりだけを
調べたとしても、快感を覚えること一般の仕組み、快感時の脳の働き一般を知ることはできるでしょうけど
(頭か心によほどの異常を抱えている者でもない限り、各主体間において算出される個体差は、それこそ誤差かと)、
なぜその人はそれに快感を感じるのか、というような、特殊事例に関する問いには、その応答として、やはり
具体的な客観物の分析も不可欠である、と思われるんですよね。

実を言いますと、「利便性の高い客観的事実」っていう表現を私は気に入っていて、その「事実」は、
アレな人にとってそうであるばかりでなく、それ以外の人にもそうであるかも知れませんよね。
フツーの人が、この事件を知ってアレな人になった、あるいは、今まで潜伏していたアレな素質を
開花させた、という事態も考えられるので。

784無精髭:2012/02/02(木) 21:58:04
すみません。前のレスで、敬称をお付けするのを忘れた箇所がございました。これが先ほど申した、
おっちょこちょいな癖、というやつです。で、シェンさんとか私をよく知らない人がこのやり取りを見たら、
二人は喧嘩しているように思われるかもしれません。逆に、アレな人の事情をよく知らない私からすれば、
シェンさんに不毛だと思われているやり取りをいつまで経っても続けている連中は、時間つぶしかストレス
発散のために戯れているだけとしか思われません(苦笑)。本当は事件のことなんかどうでもよくって、
単にいけ好かないことを書き込んでくる奴を叩き潰すのが楽しいだけなんじゃないかと。

さて、前置きはこれくらいにして、もうちょっと続けます。

―――

うむむ。シェンさんの見解は、事象を合理的に説明する点において汎用的かつ万能だと思うのですが、
では、こう考えてみてはどうでしょうか?

>つまり、無精髭さんは「たまたま事件を知ってしまった人が、顛末を知り、主観を動かされた」と考えるのに対し、
>私は「もともと主観を動かすために、利便性の高い客観的事実を探していた人が、たまたま事件を知った」と考えます。

>>769でも仰っているように、数ある事件の中でも、この事件って意見が割れていますよね。たとえば、加害者を擁護する
人たちと被害者を擁護する人たちのどちらが優勢かもはっきりしない。第一、誰が本当の加害者・被害者なのかという時点で
意見が割れている始末ですから。

その点、女子コンクリなどと違うわけですよ。女子コンクリの場合、誰が悪いかで意見が割れるなんて事態にはおそらく
滅多にお目にかかれないでしょう。

にもかかわらず、女子コンクリの件でも日野olの件でも、皆が話し合うことと言えば、大抵おんなじことの繰り返し・
蒸し返しです。そこで私は、ともに一部の人々にとって長らく人気のコンテンツでありながら、女子コンクリと日野olにおいては、
それぞれ一部の人を引き付けている要因が異なるのではないか、と考えているのです。そして、ここが重要なのですが、
その要因の違いは各人の主観の特異性に起因しているというより、ちゃんと誰にでも確認できる(すなわち客観的な)もので、
各事件に関する情報の違いに対応しているのではないかというのが私の見立てです。

その上で、私は、いわゆる正義の味方気取りの人が、なぜ本件のような事件に興味を持つのかなぁ、と不思議に思うんです。
そういう人にとっては、善悪の構図がはっきりとしていて分かりやすく、自分の欲望を曝け出しても他人から文句を言われる
どころか賛同される可能性が高い、いわば自身にふさわしい話題や場所というのがあるはずなのに、わざわざ日野OLのような
狭い人間関係のどろどろとした愛憎劇を自らの正義感を満たすための話題なり舞台なりに選ぶっていうのは、俄かには信じ難い
ことです。アレな人が私利私欲を満たすためにわざわざ格好のネタを探しているのが事実だとすれば、なお更です。


あと、「このスレが延々と同じことの繰り返し」という点については、私個人としては全力で反対するしかないなぁ。
他の方もシェンさんと同じことを書いていらっしゃいますけど、そういう書き込みを目にするごとに、自分を特別視
するわけではないですが、私の努力は報われていないんだなぁ、という感慨に浸ってしまいます。これでも私は、
議論がフレーム化・陳腐化しないように結構無理して頑張ってるつもりなんですが(苦笑)。現に、このスレで
こうやってシェンさんとしているやり取りも、他所で飽かず行われているであろう「延々と同じことの繰り返し」
の中からは、おそらく生まれないのではないでしょうか。

これは個人的な意見ですけど、キャシーを擁護するにしろ師匠の妻を非難するにしろ、もうちょっと骨のある、そして
合理的な議論を展開していただきたいものです。キャシー批判や妻擁護の議論はもはや出尽くした感がありますので、
これに反対する立場の人たちには、そろそろこれに対する有効な反論を期待する所存。いつまでも先行者のそれと
大して変わらない内容の発言ばかりされても、こちらは困惑するばかりです。

785紫煙狼:2012/02/06(月) 23:35:59
>>783
>アレな人がいなくても論争ってしばしば不毛なやり取りに発展しますし。
正解といえるものが存在しない話題って、しばしば不毛なやり取りに発展しがちですね。
評価の仕方によって、相反する意見のどちらも正しいと言わざるを得ない場合があって、
でも、活発に意見している人は対立する意見と共存できないからエスカレートする場合。
こういうときは、ハタから見ると非常に不毛です。 (例)SMAPが一番か、嵐が一番か、KA-TUNが一番か…。

でも、こと、この事件に関しては、正解が存在しないから続いているとは言いがたいですね。

>正直に言いますと、不毛な論争が終わらないこ(中略)よく分かんなかったんですよね。
うん、そこは少なくとも私は説明を端折っていたフシがありますね。なにしろ、晴れた日の
頭上に広がる素晴らしい世界を冒涜するかのようなハンドルネームの大馬鹿者が脳裏に
あったものですから、無精髭さんには言わずとも伝わるかと…(笑)

まぁ、アホゾラさんを代表とするような「正義の名の下、師匠夫婦を晒してしまえ」派のヒトとか、
そうでなくとも、さしたる過失があるわけでもない妻に「嫌悪感を抱く」などと言って憚らない
「およびでない人々」とかが居るおかげで、このスレは延々と同じことを繰り返しているわけです。

無精髭さんは、こういう「勘違いさん」たちが後を絶たない理由を、これらの人々が受け取った
情報に何らかの問題があるから、勘違いさんたちが量産されている…と思ってはいませんか?

とある学校で数学のテストをしたら、生徒の大半が同じ間違いをした。とすれば、一番有力な説明は
「そこの数学教師の教え方に、間違いを誘発するような何かがあった」もしくは、その問題に生徒が
陥りがちな間違いを誘発する「ひっかけ」があった、となるでしょう。

でも、軽く世の中を見渡して、この事件に関する記述・記載・記事なんてのは、どれも大同小異で、
文章が秀逸であるとか、良く纏まっているとか、ちょっと読みづらいとか、ちょっと表現が変とか
あるにせよ、妻を極めて悪逆非道な人物に描いていたり、キャシーを極めて薄倖の佳人に描いている
ようなモノは見当たりません。もし、そういう情報を読んでいたとしても、無限回廊の事件記事を読めば
「そういう事実に即さない(妄想の域を出ない)情報」と「客観的事実」の相違には気付くはずです。

無精髭さんは前から「日野OL放火殺人事件に格別の思い入れは無い」というようなコトを言っていましたよね?

つまり、無精髭さんはこの事件自体への興味と言うよりは、この事件に対する各人の意見が、どうしてこんなに
多様になるのか、どうして同じことの繰り返しになるのか、なぜワケのわからぬ言いがかりのような意見を
恥ずかしいとも思わずに言ってのける馬鹿者どもが多いのか、というところの方が興味の対象なのだと、
私は勝手に理解していますが、それは、このスレに投稿する者の中では少数派…まさにレアだと思います。

むしろ、この事件のスキャンダラスで意表をついた結末までを、お昼のメロドラマの愛憎劇を楽しむ感覚で読みふけり、
その登場人物に感情移入し、ドラマ批評をする感覚のまま、現実に起きた悲しい事件にモノ申そうとする輩が後を絶たない
のではないか、そういうヒトの方が多いのではないか、と私は考えています。

つまり、私が見る限り、困ったサンたちが目にした情報に問題があるのではなく、困ったサンたちの
「情報の受け取り方」に何らかの恣意的なねじ曲げが存在するのではないか、というのが私の着眼点です。

786紫煙狼:2012/02/06(月) 23:36:43
妻に関しても、詳細な記述が殆ど存在しない「妻」に対して、詳細な記述が無いのをいいことに、妄想で補完して、
「嫌悪すべき、憎悪すべき妻像」を勝手に作り上げて、勝手に物語を面白おかしくして、現実と妄想の区別が
出来なくなった状態で「自分が作り上げた妻像への悪口雑言」を、喚き立てているのではないか、と思うのです。

だって、キャシーは師匠に騙されていた。師匠は女を手玉に取るスケコマシだ!と仮定するなら、
妻だって師匠に騙されていた。しかも、今尚、騙され続けているかもしれない。と想像するほうが、
よっぽど分かりやすいと思いませんか?

なのに、妻を批難する人々は、まるで、師匠と妻が共謀してキャシーをジワリジワリと追い詰めて行ったかのように、
あたかも、キャシーが「人殺し」という暴挙に出ざるを得ない方向に(知っていて)導いていったかのように解釈
しているでしょう?私は実際の妻がどういうヒトなのかは一切存じませんが、少なくとも、どこの記述を見ても、
そういう人物像を裏付けるモノは「ひとっつも」ありませんよ。

キャシーの中絶にしてもね。「中絶は殺人である」という考え方など「中絶」に対する心理的抵抗感を持つ人は
多いでしょうが、そもそも「中絶」をしたくないなら「正しく避妊」すれば良かったワケですよね?
まぁ、百歩譲って、避妊していたが、外科手術以外の方法で100%避妊するのは難しい。作る気はなかったが
授かってしまった…という状況だったとしても、キャシーには「産んで認知させる」という選択肢もあった。
まぁ、何より「師匠が離婚して自分のところに来るまで、肉体関係を持たない」のが当たり前ですよ。

ところが実際は「奥さんと同じにして欲しい」という欲望から避妊を拒んだ、となれば、受胎するのも仕方の
無い話で、挙句、キャシーが薬を盛られて意識を失っている間に強制的に中絶させられたならまだしも、
師匠の説得に負けて中絶と言う選択肢に同意したのは「キャシー自身」ですから、言い方を変えれば、
「キャシーのお腹の子供を殺したのはキャシー自身」であって、少なくとも妻ではない。自分で自分の子供を
中絶するという方法に同意した以上、これは他人に何を言われても仕方が無いでしょう。

もし、キャシーの供述どおり「掻き出して平気なヒトなのよ」発言があったとしても、それを恨みに思うなど
お門違いも甚だしい。お腹の子の父親に祝福されないとしても、自分ひとりででも産んで育てる、という選択肢より
中絶という選択肢の方が平気だったから、そちらを選んだのであって、苦しんだとか、悩んだとか、悲しんだと
言ってみた所で「わが子を手にかけた鬼畜母」であることに変わりはない。わが子を殺された悲劇の母ではなく、
わが子を殺した張本人なのですよ。自己憐憫にふけるのもいい加減にして欲しい。

787紫煙狼:2012/02/06(月) 23:37:09
また、考えようによっては、妻なんてのは、可哀想に可哀想を重ねたほど哀れなヒトですよ。

かわいい子供と、優しい夫。平凡だけれど幸せな日々を送っていたら、ある日突然、青天の霹靂。
実は夫が不貞を働いていたことを知らされる。でも、妻は気付いていないけれど、夫は稀代のスケコマシ。
上手い具合に「オレは悪くない。悪いのはキャシーだ。」くらいにまるめこまれて。妻は妻なりに
夫を愛しているし。キャシーさえ居なくなれば、また、平々凡々なりの幸せの日々が戻ってくるのですから、
夫からキャシーを遠ざけ、幸せな家庭を守るためなら何でもしますよ。

稀代のスケコマシーに騙されてそれに気付かないような妻ですから、彼女だって色々苦労して手に入れた
ほんの小さな、でも何物にも変えがたい幸せを壊されそうになったら半狂乱ですよ。それを批難するなんて、
赤い血の流れている人間のするべきことだとは思えませんね。

まして、結果的に、大切な子供達を焼き殺されて。それでもまだ、夫の真の姿に気付くことなく、
いまだに夫婦を続けているのだとすれば、それは嫌悪されるべきというより、
「こんな目に遭っても、まだ気付かないなんて、哀れなヒト。馬鹿な女。」と同情されるべき。

もしくは、もし妻が師匠と離婚していたら、師匠は「野放し」にされていたわけで、
こんな「下半身に閉まりのないオトコ」を世に放つことなく、捕まえ続けてくれているのだから
「なんて奇特なヒト。ご立派!」と感謝されこそすれ、嫌悪されたり批判される筋合いは、これっぽっちもない。


ね、おなじ「足りない情報を妄想で埋める」なら、こういう方向の「勘違い」があってもイイわけですよ。
ところが、みんな、一様に妻を悪者に仕立て上げる。なぜなら、その方が面白いからですよ。
その方が「後味の悪さを楽しめる」からですよ。最初からキャシーを弱者に仕立て上げるためには、
妻は強くて、女の汚い部分だけで生きているようなヒトに仕立て上げたいという「ねじまげ」が存在するからですよ。

そういうシナリオを好み、そういう脚色をしたい人々にとっては、事実も正解も、既にどうでもいいのですよ。
そして、現実を突きつけられても、自分の妄想のシナリオにそぐわないから「納得しない」のですよ。
だから、正論をぶつけられても、自分のシナリオを受け入れてくれる場所を捜し求めて、2chで同じ話題のスレを
「やられても、やられても、めげることなく、何度でも立ち上げる」のですよ。結局、何度やっても、
どこでやっても、正論をぶつけられて、自己実現の場を失うから、場所を変えて同じことをくり返すのですよ。
そして、ごく稀に、そういう妄想で脚色された非現実と、現実の情報の区別が出来ない、スキあらばいつでも
非現実の世界に没頭したいと待ち望んでいる「困ったサン予備軍」が感染して、発病するのですよ。

788紫煙狼:2012/02/06(月) 23:37:29
悲しいかな、浮気だ、不倫だ、横恋慕だ、などと言う話題は見に周りに掃いて捨てるほど溢れています。

生まれて初めて恋愛感情を持った相手に告白され、円満に交際し、順調に結婚し、めくるめく幸せの日々の中
子供を授かり、他の異性に心を動かされることも無く、浮気もせず、横恋慕もされず、死が二人を分かつまで、
互いを思いやり一生を添い遂げる。自分もそうなら、自分の周りもみなそういう人々だけで、それこそ、不倫とか
浮気なんて、小説の中でしか起きない出来事で、いまひとつ実感もわかない。ってか、夫以外、妻以外の異性と
どうこうしようだなんて、身の毛もよだつ。。。

なんてヒトは、極めて稀で。

浮気した事があるとか、浮気された事があるとか、浮気心が疼いた事があるとか、あやうく浮気されかけたとか。
不倫している友達が居るとか、恋愛でボロボロになった友達が居るとか、殆どの人々が、愛憎劇の泥沼を身近に
知っているわけですよ。直接的・間接的に経験しているわけですよ。

そして、人様に起きた出来事を、あろうことか、自分の経験と照らし合わせて、勝手に理解したツモリになりたい
わけですよ。あたかも当事者の一人であるかのごとく「経験者は語る」したいわけですよ。あまつさえ、事実を
自分に理解できるストーリーに改ざんするわけですよ。そして、登場人物を批判して、自分だけは気分よくなりたい。

キャシーに同情するのも自分のためなら、妻や師匠を晒し上げるのも自分のため。そして、それが正義だと信じて疑わない。
自分の醜い欲望を満たすために、現実に起きた悲しい事件、悲惨で酸鼻をつく事件を利用していることに気付いていない。
それが「妻批判」の正体だと私は考えています。だから「アレなヒト」と表現しています。

そういう意味では、これからも後から後からやってくる「妻批判」の方々は、「不倫」と「殺人事件」を切り分けて、
それぞれに善悪のジャッジを下している人も稀だし、それが出来ていても「不倫」へのジャッジメントが非常にお粗末であると
私は予言します。こういう「事の大小」の区別も出来ない「困ったサン」が居なくならない限り、このスレが廃れることも、
不毛なやり取りが解消されることもないと断言します。

もし、この予言、この断言が、本当にそのとおりになったら…。
無精髭さんの頭には「?」が増え、僕の胃には穴が増えるのでしょうなぁ…(泣)

789雄峰:2012/02/08(水) 23:40:05
紫煙狼氏の意見は、何かに対する怒りをもって書かれている。

その何か、とは、誰もが持っている心の闇のようなものではないか。

正義を騙る偽善に対する偽悪のようなものを感じました。

790無精髭:2012/02/10(金) 22:32:54
いくら妄想豊かな私でも、あの御仁みたいな人が何人も密集している(?!)なんて
状況は想像できませんでしたw 勘弁してくださいよぉ。

まぁ、あの御仁については、シェンさんと老婆心さんの文章が、言い回しが異なるだけで
論理的には同一内容であるのを見抜けなかったのか何なのか、前者に反撥したのなら当然後者
にも反撥すべきところを、何を血迷ったのか理解を示してしまった、というのが印象的でした。

でも、たとえ同一内容の情報でも、形式が異なると同一内容だと認識できなくなる人の典型
だと言えなくもないので、アレな人は情弱である(情報に流されやすい)という私の考えの
正しさを証明してくれるような恩人でもあるのかもw まぁ、冗談ですが。


ただ、このスレを辿ってみると分かりますが、妻に批判的な人たちにも色んな人がいるわけで、
シェンさんが仰るようにアレな人も結構いますけど、私が言うように普通の人もそれなりにいるのでは
ないかと。これは私が勝手に考えた区別ですけど、妻批判をしている人でも、あくまで情報の枠の中で
批判している人と、更にそこからはみ出て、自身の経験に(必要以上に・極端に)引き付けて批判する人
とがいて、それぞれ毛色が異なるのではないかなぁ、と思っています(ちなみに、事件情報を自身の経験を
基に解釈するのが普通ですが、後者の人の場合、いわば事件情報という主と自身の経験という従の関係が
逆転していて、自身の経験を事件情報を用いて再確認・再肯定・再強化するのです)。

私が念頭に置いている「妻批判の人たち」というのは、基本的に、情報に対して特殊な解釈を
施しているというよりも、情報の一部分(記事のある一文)にこだわりを持ち、そこから
ストレートに感情(生理的反応)を呼び起こされている、という気がします。私見では、捻じ曲げも
何も、彼らは出された情報を(良くも悪くも)そのまんま受け取っていて、登場人物に特別な感情移入も
しなければ、その時の状況も読み取りもせず、普段の生活で自身がそれに従っているところの、大抵仲間内
でしか通用しない常識でもって、性急に評価を下そうとする傾向があります。たとえば以下のように。

 「有紀恵には(中略)悪いという気持ちがあった。だから、ひたすら、すみませんを繰り返すだけだった。その素直な応対に雅子は拍子抜けしてしまい、電話を勝手に切った」
 一度諦めたのに、
 「だが、それだけでは終わらなかった。毎夜のように雅子は有紀恵に電話をかけ、罵詈雑言を浴びせた(下略)」
 なんだ、この粘着。
 不倫する奴も悪いが、これは明らかにストーカー。
 放火殺人を仕出かしたキャシーの前に犯罪行為に走った馬鹿がいたんだな。

 「『生きた子どもを平気でお腹から掻き出すような人なのよ、あなたは』」
 どんな相手にだって、人として言っちゃいけないことがあるだろ!

 「雅子は『彼女に支払い能力があるとかないとか、(中略)私だけは許さない』と言いきった」
 とか啖呵切ったくせに
 「1997年(平成9年)7月、杉田夫妻との和解が成立した。(中略)さらに3155万円の支払いの義務に応じることに同意した」
 和解してんじゃねーよ。結局、金が欲しかったのかよ。

 「杉田は事件後、依願退職させられたが、妻と離婚することもなく、一男一女をもうけている」
 よく不倫した奴と縒り戻せるよな。子どもまで作ってさ。気持ち悪りぃ。

もしかしたらシェンさんには、これぞアレな人たちの典型的反応じゃないかと思われるかも知れませんし、
あるいはこういう反応の裏には穢れた欲望が渦巻いているのだと仰るのかもわかりませんが、私はそういう
判断をあえて保留して、次のように考えるのです。上記のような反応をする人たちというのは、情報の
ある細部にしか関心がなく、それはいわば情報を断片的にしか受け取っていないのと変わらないので、
おそらくこういう人たちの頭の中では情報の内容がリアルだと感じられていない、何かフィクションのように
感じられているのではないかと。ここに、情報の受け手が自由に善悪の評価を下しても何の問題も生じない
という錯覚、驕り、大いなる勘違いが流れ込むわけです。しかし、これは裏を返せば、一旦その人に情報を
リアルだと思わせればそういう考えなり発想は(嘘を付き通しでもしない限り)なくなるわけで、そのためには
誰かが協力して、断片的な情報をもっと大きな情報の文脈へと統合してやったり、登場人物やそれを取り巻く
状況について詳しい情報を付与してやったりすることが必要なのです。

791無精髭:2012/02/10(金) 22:34:29
その役目を担うのは、大抵の場合は見ず知らずの他人ではなくて、親兄弟だったり教師だったり親友だったり
恋人だったり教祖さまだったりするのかも知れませんが、いずれにせよ、更生の可能性がある人、否、他人の
説得を聞き入れられて自分の考えを修正できるくらいには頭の柔らかい人なら、妻批判をしていてもまだ
普通の人の範疇に入るのではないかと思います。あと、個人的な動機でやってるのではなく、もっぱら
コミュニケーションのためにやってる人だっているかも、とか考えております。こういう人については、
治療は可能、もしくはネタでやっているのだから治療はそもそも不要、ということになるのかも知れません。

大体、妻に対して批判的な考えを持つからアレだ、というのではなく、そういう考えを変えることが
できないからアレなのでしょう。はっきり言って私なら、今妻批判している人の十倍くらいひどい
ことを書けますが、だからといって無精髭はアレだということにはならないので。

普通の人には妻批判なんて発想自体がありえないだろう、と考える人がいたとすれば、実はそのような人の
考え方こそ偏狭に他なりません。こんなことを言うと人によっては驚かれるかも知れませんが、妻批判の
おかしさを徹底的に反駁するには、まずは試しに自分も妻批判をしてみて、その思考過程のおかしさを身を
もって知ることが必要だとさえ、私は思っているのですよ。

私の経験から言わせていただくと、妻批判(妻の粗探し)は簡単にできるが、(ちゃんとした)妻擁護は
それよりもいくらか難しい。要は頭を使わなきゃならないわけです。こういう実感があるために、私は、
妻批判をしている人は殆ど頭を使っていないのではないかと疑うのです。そして、こちらからの働きかけ
によって多少なりとも頭を使うようになれば、もしかしたら妻擁護の可能性に気づくことだってあるかも
知れないなどと淡い期待を持つ次第なのです。


そもそも論になってしまうかも知れませんが、アレな人っていうのは話が通じないだろうからお手上げ
なんですよね。話が通じないというのは、説得が効かない、相互理解がありえない、ということですから、
その人には何を言っても無駄になるのです。ですから、そういう人がこちらに書き込んできても、それに
対して反論を書くとなれば、その人自身に向けてではなく、第三者に向けて書くことになる。でなければ、
そもそも無視するか。

でも、それじゃあまりにもペシミスティックだから、実際はどうであれ、とりあえず相手は話が通じる、
説得が効く、相互理解がありえる、という意味で、普通の人であるということにして相手をするゼ、
という心構えで行くわけです(…と書いていてふと気づいたのですが、以上の話は>>766中段にある、
自分と揉めている人をレアケースだと思わない云々の話に繋がってましたw)。


そういう前提に立った上で、相手の内側に存する情報である欲望とかパーソナリティよりも、外側に存する
情報である「言葉」やコンテキストに着目するのは、以下の考察からも合理的だと考えております。前に
シェンさんがバナナを例に出して考えを展開されていらっしゃいましたので、私もそれに倣うことといたしましょう。

いくらバナナの(物としての)客観的性質を分析したり、学術的特徴(「熱帯アジア原産の
バショウ科の植物で...」)を調べても、「たかがバナナ」という価値観や「俺の大切なバナナ」
という価値観などのような、各人において異なる様々な価値観は抽出できないのは自明です。

ところで、バナナとその人しか存在しない世界なんてものはありえませんので、両者の関係性を
考える上では、それらを取り巻く状況、彼の価値観とバナナという具体物の価値が結びつく情況を
明らかにする必要があります。

さて、状況(情況)分析の結果、たとえば当のバナナが誰かからの贈り物であることや、一房
数千円もするバナナであることが明らかになるかも知れません。どこのスーパーでも売ってるような
バナナにはこれといったストーリーはありませんが、人から貰ったバナナや高級なバナナには、
特別なストーリーが付加価値としてあるわけですね。そして、そういう状況が明らかにされることで、
「俺の大切なバナナ」という価値観は、それを判断基準としている主観以外の第三者にも幾分か理解
しやすいものになろうかと思われます。

ここで重要なのは、ある人にとっての物の価値について考えるのに、もっぱらその人の主観的基準を
掘り下げるよりも、ただ状況(情況)を明らかにする方が、少なくとも第三者の理解の助けにはなる、
ということです。「なるほど、そういう事情があるからそういう価値を見出すのか」といった具合に。

792無精髭:2012/02/10(金) 22:47:38
まあ、話があちこちに脱線しているように思われるでしょうけど、私個人としては、世界のグローバル化と
情報化に伴って、これからの日本社会においても他者とのコミュニケーションコストは上がっていかざるを
得ないでしょうし、結局それはアレな人が増えてくる、身近なところにいても何ら不思議ではないという
ことですから、そういう人とも同じ国、同じ社会で生きていかなくてはならない以上、うまい共存・共栄の
仕方を探る努力は怠ってはいけないな、と思うわけです(苦笑)。

で、もうちょっと「情報」の問題に絡めて考察を続けてみます。

日野olを巡る第三者間のやり取りが、シェンさんが仰るような事態になってしまう、そもそもの原因として、
加害者中心に書かれた事件記事や、マスコミの偏向報道、キャシーのインタビューや手記を載せた各週刊誌の
手法を挙げる人たちがいますが、私は彼らに一理あるとは思いながらも、そういう考えと自分の考えとは
一線を画しているつもりなんです。理由は簡単で、先述の人たちは既存の情報がいわば主観的(一人物中心的)
であるのが問題であり、その主観に同一化(主体に感情移入)する輩が次々と現れてしまうのだと主張して
いるのに対し、私は既存の情報は受け手によってどうとでも解釈できると思っていて、その意味ではむしろ
客観的だとさえ思っているからです(ちなみに、既存の情報が本当に主観的だったら第三者の間で揉め事が起きる
機会はずいぶんと減ったのでは)。もう少し詳しく言うと、一つの主観の他にいくつもの主観を内在、あるいは
併記している(いわば複主観的、ないし並列主観的)ように思われ、それが「問題」だとは全く思いませんが、
様々な意見を生む主な要因の一つになっている(多様な意見が出てくる傾向に拍車をかけている)のではないか
と思っているのです。受け手にしてみれば、情報内の主体が複数あり、各々が別の主体を相対化しているように
見えるはずで、受け手によってどうとでも解釈できるという意味では、客観的とも言えるのではないかと。
ただし、キャシー視点(というか主体)の記述がかなりの部分を占めている点は否めませんが。

ただ、主観的だろうが客観的だろうが事実はきちんと伝わるので、既存の事件情報に何らかの瑕疵があるとは
言えないでしょう。ですから、強いて論うのであれば、情報に何らかの問題があるから勘違いさんが量産されている、
というよりも、(情報そのものに問題がない以上は)本件そのものに何らかの問題があるから勘違いさんが量産
されている、と考えるべきなのかも知れませんね。

しかしながら、既存の情報に問題があろうが、事件そのものに問題があろうが、私としてはそこにこだわる
つもりは少しもないのです。なので、たとえば無限回廊の記事について、ある箇所を削除したりある記述を
付け加えたりすることを推奨するつもりは全くないですね。


ところで、一口に情報と言っても、無限回廊のような事件記事だけが情報ではなくて、事件情報を読んだ人たちが
話し合ったことも情報になりますし、独自に取材して得たネタも情報になります。

アレな人の言うことがおかしな原因は、私たちの知らない情報を基にしているからかも知れないのです。
2chでは、キャシーの家族構成について色んな憶測が飛び交っていますし、師匠については賠償金で夜遊び
したのを週刊誌にすっぱ抜かれたとか言われていますし、妻についてはヤンキーとか言われてますし、
まあ言いたい放題なんですけど、私がふと思ったのは、あれ? この人たちってもしかしたら、私たちと
共通の情報を基にやりとりしているのではなく、そもそも前提にしている情報が大きく異なるのではないか、
ということなんですね。公には一切出回っていない特ダネ情報を個人が掴んでいる、あるいは複数人で
共有している可能性は無きにしも非ずなので。

しかし、これは別にこの事件に限ったことではなく、2chの情報を鵜呑みにしてここに勇んでやってきた人が
メッキを剥がされてスゴスゴと元いた巣へと帰って行った、なんてケースがありましたが、同じことを
テーマにして話し合っているつもりでも、各々全く違う情報を基にやり取りしているなんてことは決して
珍しくはないでしょう。

793無精髭:2012/02/10(金) 22:48:19
以上、長々と書き込んで参りましたが、最後に、本音と呼ぶにはあまりにも情けない弱音みたいな感想をば。

実を申しますと、私としては、被害者批判とか、そもそも事件とは無関係な人・自らの意思と関係なく
巻き込まれてしまった人に対する批判の問題性を指摘していく気概よりも、事件とは無関係で、大した
情報も持っていない第三者がしたり顔で事件や関係者を論評することに対する違和感の方が強いのです
(私がやっていることといえば、そういうお節介な人の主張に寄り添い、それとは異なる解釈の可能性を
指摘するために、ああでもない・こうでもないと長文を書き込むくらいです)。

シェンさんは、先回のレスでは、妻批判をする人の問題にしか触れていらっしゃらなかったですが、
これまでの書き込みを拝見いたしますに、キャシー批判をする人の問題とも併せて考慮した上で、
この事件に関する第三者の勝手な論争の不毛性や有害性については、妻批判を繰り返す輩の責任に
ばかり押し付けられるような性質ではないと考えている私に共通するものを誠に勝手ながら感じ
取っているのですが、いかがでしょう? この事件で誰が一番悪いかみたいなことを話し合ったり、
事件関係者を断罪しようとしたりするのは、吊るし上げと大差なく、本当に下品だな、としか
思えないのです。

794元NEC:2012/07/25(水) 17:36:06
師匠は結果離婚もせず
子供にも恵まれ
仕事を失ったけど
損害賠償の金はもらえた。

キャッシーは仮出所したら
どうするんだろうね?

795:2012/08/03(金) 11:42:35
死んだ子がかわいそのこじゃなくて可哀想。
バカ女。

797あみ:2012/10/27(土) 12:21:10
師匠とその嫁許せない!
私が殺してやろうか

798芝生:2012/10/31(水) 16:26:03
キャシー出てきましたか?

800boro:2013/09/24(火) 20:46:21
不適切な投稿を削除しました。

801unkoman:2015/04/23(木) 12:32:56
仮釈放はありません。

死刑スレスレの無期には仮はないんです。


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