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解決黒頭巾先生に質問②
662
:
名無しさん
:2012/05/20(日) 12:29:52
1926年7月からソ連の莫大な援助をもとに、蒋介石が張作霖の打倒を
目指し北伐を開始しました。そして、3月の南京占領の際、支那兵は突然、日本領事館
を襲いました。館内には領事夫妻を始め領事館員の家族や武官、南京市内に住む日本
人が避難していました。金庫はハンマーで叩き壊され、女性は服を剥ぎ取られ裸にされ
金目のものを持っていないか確認され、子供たちは泣き叫び、地獄絵図となりました。
領事夫人は27人に輪姦され、30数人いた日本人婦人は少女に至るまで陵辱されました。
その際、日本領事館員も日本軍人も、避難してきた日本人居留民も、まったく抵抗しま
せんでした。海軍陸戦隊は武器も持たずに領事館にいたのです。荒木大尉一行は武器
を持っていなかったため、茫然と見ているしかなく、後に荒木大尉はそれを恥じ「申し訳な
い」として自決することになります。
これが「南京事件」です。これこそが「南京事件」です。ちかごろはインチキウソ話の
「南京大虐殺」ばかりが取り上げられるようですが、それ以前に、南京攻略まで至る様々な
出来事があったのです。
死者だけは出なかったので幸いでしたが、英、仏、米の領事館、民間人には死者が出ま
した。そのため、揚子江のイギリス軍艦は南京城内へ砲撃しています。しかし日本の軍艦
は何もしませんでした。なぜなら当時の幣原外交は弱腰で「支那を刺激しないように」とい
う訓令があったためです。日本の外務省は事を荒立てないため、広報に「わが在住婦女に
して陵辱を受けたるもの一名もなし」とまったくの嘘を書きました。
退去令が出され、揚子江流域からは日本人は全員着の身着のまま財産を放り捨てて内
地に引き揚げざるをえませんでした。幣原外交は「日支友好」「不干渉主義」でした。こう
した外交は支那の対日政策を増長させていき「ちょっと暴れれば日本は逃げていく」と思わ
れ、暴力はエスカレートしていったのです。
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