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「α」についてはここで語ってください
369
:
壱学生
:2004/08/04(水) 19:38
>>362
いや、そこは「証明」であってますよ。
「定義可能かどうか?」と「存在しているかどうか?」は違った問題領域ですから。
例えば、
「魔法」を「精神力を源に超自然的な現象を意図的に引き起こす秘儀技術」と仮に定義できたとしても、
それだけでは「魔法」の「存在」は証明できてないですよね?
で、これが「α」の場合、それで十分かどうかはともかくとして、
「定義」として「異質な価値観を持っている者同士の間に存在する何らかの共通点」とできている訳です。
でもこう「定義」したところで、その「α」が「存在するか否か?」については今までのところ全く証明できていないわけです。
上の「魔法」の例と同じで。
まぁ実を言えば、これを証明するのは至難の技ですけどね。
デカルトが「我思う、故に我あり」と言ったのは、結局のところそれのみしか「確かな存在」を認識できなかったわけです。
つまりどこまで行っても「自分の内的世界」は「他人の内的世界」とも客観的な「物自体」にも触れられない、という訳です。
この「物自体」が把握できない、という近代哲学上の大問題は、結局の所現在でも解けていません。
で、ここでいう「α」っていうのは上で挙げた「自分の内的世界」と「他人の内的世界」の共通性を模索・あるいは仮定するものです。
しかしながら既に述べたように、これは現在でも解けていない哲学上の大問題な訳です。
もしかしたら「自分の内的世界」と「他人の内的世界」には共通点は無いかもしれない。
もしかしたらこの世界は実は胡蝶の夢なのかもしれない。
もしかしたら自分はどこかの実験器具の中に脳だけが浮かんでいる状態なのかもしれない。
まぁ疑えばキリがないけれど、そういう「疑い」を完全に否定しきることは人間にはできない訳です(少なくとも僕にはできません)。
で、「α」理論ってのは、突き詰めて考えればこういう「疑い」(自我、と言っても良いでしょう)を否定した上に成り立っているのです。
これを安易に認めるということは、ある意味「自我」を部分的に放棄しているとも言えるでしょうね。
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