したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

イラク攻撃、日本はどう出る? どうする?

742ヤスツ</b><font color=#FF0000>(CnaUXqoo)</font><b>:2003/04/11(金) 16:47
イカフライさん、武蔵さんが言うところはさらに加えてこうでしょうか?

「理念と現実が合致しないのはしかたがない。だからといって、現実に流されていてはいけない。崇高な理念を実現することを諦めることは悪である」
「理念では相手も自分も助かるのがベストだが、現実では相手を死なせて自分が助かる道を選ぶだろう。しかしそれを当然と考えず、戒めとしていけばよい(戒めにすれば許される? 許されないけど戒めればおっけー?)」
「現実に迎合するばかりで、崇高な理念を理解しようとしないのは間違っている」

さきほどの「布施」の話でもちらっと触れましたけど、「自分の命を布施し、私は結構ですからどうぞあなたが助かってください」という行為は、宗教家としては正しいのだと思います(その人の正義に照らし合わせて、その人の判断でしているわけだから)。
が、私はその宗教家の考えやその人の正義(そう考えるに至った仕組みといったほうがいいかも)は理解できます。
が、最終的な価値判断の部分で、「彼か我か」となると、私は我を選ぶだろう、と。

で、「命のやりとりという極論ではなく、食べ物を分け与えるとかそういうレベルではどうなの」という設問に変えた場合も、「自分が飢えない、もしくは飢えても我慢できる(死なない程度に)」という程度の施しならできるでしょう。しかし、「自分は代わりに死ぬから、オレの食料を食ってくれ」とはやはり言えません。

でも特殊条件は付けられますよ。少なくとも「自分の命を代わりにしてでも残したい何か」があれば別でしょう。親なら子供を、夫婦恋人なら自分の連れ合いを、家族を大切な人を……といった具合ですね。
これは、「どこまでを大切な人(またはもの、場所)」と定義できるか? です。
自分の命と引き替えに、世界人類を……というところまで行ける人もいれば、自分の命と引き替えにできるのは娘までだという人もいる。引き替えにできる範囲が狭い人を、広い人が批判するというのもどうかな、と思うわけです。それって、「オレの命は世界の代償にできるほど価値があるが、オマエの命は娘一人分という狭量なちっぽけな価値しかないのか」という意識を生みますしね。(生まないんだったら、別に狭量な相手にしか命をかけられない人を、広域に命をかけられる人がどうこういういわれはないと思いますが)

反戦論はどうしてもそういう「哲学的な段階」をふまえずにはいられません。
が、突き詰めていくと、キリがない。だから、「それは棚上げするとして、政策をどうこうすることで、双方がおおむね同じメリットを受けられるように調整しましょう」というのが、現実社会であり、今している議論の主題なのかと思っていたのですが、違うんですかねぇ。




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板