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『さらば暴政』が誕生した時代
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:
藤原肇
:2016/06/26(日) 22:51:11
私は記事で解説せずにヒントを書いて、読者が自分の頭で考えるように工夫してきた理由は、フランスに留学して学んだのが、このやり方の持つ価値を日本に伝えたいと思ったからです。これをメタ情報の伝授法と言います。だから、私の本を一度読んだのは眺めたレベルで、読書一辺は立ち読みに過ぎず、「読書百遍意自ずから通ず」という考えは、子供のころに使った西周さんの文机の裏面の教えでした。
さて、幼稚な安倍を背後から操る悪辣な日本会議については、今日本で取り上げられている、菅野さんの「日本会議論」とは違い、私は別の視座から問題を捉えています。1960年代の日本文化会議以来の国粋回帰運動の一環として、教育二法案や西尾幹二たちの乗教科書を作る会運動など、一連の反動路線として考えているのです。それが『さらば暴政』の読み方で、五度読んだ人なら分かるはずです。
通り一遍に私の書いたものを読み、「藤原さんの著書で日本会議について目にしなかった」などと言って欲しくないし、そんな程度のことを今更聞きたくないと思います。私が文芸春秋と絶交して記事を寄稿しなくなったことや、田中健吾と絶交したことは、『インテリジェンス戦争の時代』を読んだ人なら、なるほどと思い当たるはずです。また、その延長線上に2012年に出た次の『紙の爆弾』の記事があり、そこには日本文化会議の名前が出ています。
「・・・藤原 私の読者に松橋忠光さんという、警視総監に次ぐ警視監をやっている人がいて、その彼の警備局時代のエピソードが面白かった。松橋さんの上司の川島という人物が、何かトラブルがあると「田中を呼べ、田中を呼べ」と命令するそうなんですよ。 その田中というのは、文藝春秋の田中健五、当時の文藝春秋の取材記者ですよ。
本沢- 田中健五は「諸君!」初代編集長で文春タカ派路線の生みの親でしたね。
藤原 右翼の日本文化会議の機関誌が、内閣調査室の資金で文藝春秋から出て、保守的な言論活動を展開したわけですよ。
本澤 あっておかしくない話です。
藤原 田中健五は「諸君-!」から「文藝春秋」の編集長を経て、その後は社長にと出世していくわけですが、大量の政府広報が記事のスタイルで、政府の機密費として文藝春秋に流れたことは、誌面を占めた政府提供記事で明白です。・・・」
さて、年寄りの冷や水みたいな発言になりますが、私としてはそこまで読みぬく程度の人に対して、メタ情報をとらえる読者としての言論活動を期待し、次の世代にバトンタッチしたいと思っている次第です。
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