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「『適塾』精神の試練と縦と横の方向軸」

1藤原肇:2011/12/01(木) 21:38:35
ハロウィーンの前後に起きたお粗末な反乱劇は、拙著の取り扱いに関連した誤解で始まり、相手にするのも馬鹿らしい状態で、「書店」の責任者の交代で一巻の終わりを告げた。しかも、実態は外部の危険思想を持ち込む野望が、皆の協力で運営して来た組織に混乱状態を生んで、相手にする価値もないとは思ったが、私もつい巻き込まれたために疲れ果てた。
それでも多くの人が議論に参加して、ある程度だったが発言も出たことだし、「書店」の引き継ぎ者が出たこともあるから、損害の実態は多くても諦めざるを得ない。
ただ、多くの人は混乱の原因についてよく理解できず、攻撃的な発言が試みられたこともあって、うんざりしたのではと思う次第であるが、周期的にこんな反乱劇はおきるものだ。
残り少ない時間をこんなことに割かれ、私もうんざりしている状態とはいえ、「宇宙巡礼」という私の読者たちが運営し、自主管理して来たこのサイトの本質が、「適塾」の思想の上に成り立っていたことは、何年か前にそれをテーマにして行った、ゼミの成果が記録に残っているはずだ。
そこで拙著や読者の集まりに関して、全体像を知る立場の私としての頭の中に、どんな像があるかを説明することにより、俯瞰図を示したいと思いついたこともあり、「『適塾』精神の試練と縦と横の方向軸」と題して、その経過について
披露したいと思ってペンを執った。
これを混乱劇の蒸し返しだと思わずに、今の段階で歴史的な経過を明らかにして、なぜ「宇宙巡礼」がアーカイブの形で、貴重な存在であるかについて物語らないと、その役割の意味が行方不明の状態になるので、誰かが語り部の役を果たさなければならない。それが「『適塾』精神の試練と縦と横の方向軸」を始めた理由である。

8藤原肇:2011/12/07(水) 22:47:09
出版二カ月後の衆議院総選挙によって、自公体制が崩壊して鳩山政権が誕生し、平成無血革命が始まったのであるが、それに対して既得権を持つメディアにより、反革命の企てが着実に進行していた。だから、『さらば暴政』は黙殺されて書評もほとんどなく、本の秘めたメッセージは伝わらない点で、処女作の『石油危機と日本の運命』に似ていて、退嬰気分と反動の深層底流が読み取れた。
出版の段階でこの本を布石に使う狙いで、かつて『インテリジェンス戦争の時代』で試みた、畏友マッド・アマノの協力の元に、電車の吊るし広告作戦を考えた。だが、調査した結果はコストが余りにも掛り、東京周辺の電車で一週間やるのに、一千万円前後も必要だと分かり、それは個人では無理な金額なので、悔しいが断念せざるを得なかった。
アマノさんが「幽体離脱政権」の図を描き、パンチの力は絶大な武器があるのに、それを活用するだけの余力がない。そこで決断して新聞広告の作戦を考え、『日刊ゲンダイ』に下三段の規模で、広告を出したのが8月1日のことであり、これは江戸っ子としての意思表示だ。
今の日本は総てが消極的な時代だから、出版社が進んで広告する意欲がないので、『日刊ゲンダイ』の広告費は私が負担し、雑誌の広告までも私が手配したのは、初速の勢いをつけるためだった。
編集長たちに書評工作をしたが、時の政権を徹底的に批判したせいもあり、紹介記事がでただけだったのは、書評すれば狙い撃ちされることを恐れて、辞退するケースが多かったと聞いたので、紙のメディアへの統制は着実に進んでいた。
日本では言論人も食わねばならず、批判的だと干されて仕事がなくなり、発言の場を奪われるらしいが、その中で例外的だったのが斎藤貴男記者で、彼のものが唯一の実名の書評だった。

9藤原肇:2011/12/08(木) 10:24:32
今の日本の書店はスーパーと同じだから、本が中身ではなく消費物質として、売れ筋のものを中心に取り扱われる。だから、書評がなければ書店に並ぶはずがない。また、毎日250冊も本が出版されるので、本屋も何を置くかの目算が立たず、書評や人気に従うしか方策はない。
『さらば暴政』を出した出版社は、営業能力がゼロに等しかったので、神保町の書店でさえ本が並んでいないし、他の町では推して知るべき状態。だから、神保町や新宿の大手書店に行き、マネジャーに会って本の存在を知らしめ、置いて貰う交渉までしてみたので、東京堂は十冊仕入れて横積みになったが、こんなことまで著者がする馬鹿馬鹿しさ。
こうした情けないスタートになったが、初刷りの九割は著者の努力によって、おそらく読者の手に届いたというのが、偽りのない実態だったはずである。
赤木先生が百冊ほど引き受けて、ゼミにくる会員に販売してくれたし、私も数百部ほどばら撒いてみたが、これが初速に勢いがついた原因の裏話だ。今の日本における出版事情では、再販制度は出版文化を殺しているが、この制度が大手メディアの利権だから、「グレーシャムの法則」が支配してしまう。
分からないということを知るために、答えは書かない路線を護り続けたので、拙著が売れないのは当たり前だが、編集長たちから良く言われたのは、「もう少し分かり易くして、親切な説明をしてくれれば、もっと売れるのですが・・」という提案と懇願だった。だが、私を育ててくれた人の多くは、答えは自分の頭で考えるものだと言って、絶対に答を教えてくれなかった。
目的地に着くのが旅の楽しみではなく、それへのプロセスが問題であり、旅の内容を豊かにする工夫をすることによって、そこに旅の醍醐味と成果が生まれる。だから、本をどう読むかは読者次第だし、それに貢献できるように配慮するので、私の本は消費財の仲間ではなくなるし、ことによると未来に読者がいて、その人に書くのだと思うことがよくある。

10藤原肇:2011/12/08(木) 20:06:11
それでも本は読者の手元に届かなければ、執筆した意味が生きてこないので、売るための努力はする必要がある。同時に本が出たことを知らせることで、メッセージを送ることが大切だから、その実現のために努力した思い出がある。
山手書房新社と一緒に釣り広告をした時は、出版社が企画に協力してくれたし、赤坂東急ホテルでの出版パーティには、社長が赤坂の芸者まで動員して、私の関係者が知りあって楽しんだことを、思いだす読者も多いことだろう。
それは山手の社長が曾根益の元秘書官であり、彼が代議士から密かに貰い受けた、外務省の機密文書の出版のために、潰れた出版社を買い求めたのだが、その中に拙著の『情報戦争』があった縁で、その書き改めが『インテリジェンス戦争の時代』になった。
印税を総て投入しただけでなく、その数倍の費用を負担すると言ったら、社長が広告費用の半分を持つので、画期的なことをやろうと言ってくれた。男は「意気に感じる」世界に生き、そんな機会の到来は堯幸なので、吊るし広告に続いて出版パーティまであった。
私も当時は50代の始めだったし、私を育てた先輩たちの多くを招き、謝恩会に似た雰囲気を楽しめて、懐かしい気持ちであの会を追想できる。だが、その後の日本の没落は釣瓶落としで、本を出すことが自費出版に等しくなり、売れる本は書かない立場を貫けば、著者は絶滅種に似た運命に支配される。
だから、皇国史観や八紘一宇の復活の中で、無定見な日本が衰退して亡びるより、「みすず」や「未来社」が潰れる方が、はるかに悲しい状況が襲来していて、暴政による負の遺産は絶大だった。

11T.N.:2011/12/08(木) 22:31:45
 どこかで読んだような話と思いましたので、御参考までに。1978年刊、紀田順一郎著「読書戦争」より。

”D社。ここから出した本は、私のものとしては成績が芳しくありませんでした。別の社から同時に出版した私の
本がスポットを浴びてしまい、ほとんどブックレビューにとりあげられなかったのです。ところが、いらい編集者
から「どうなっているか」との電話がほとんど一日おきに来るしまつ。最初、私はその意味がわかりませんでしたが、
やがて「書評に出ないがどうなっているのか」という意味とわかり、唖然としてしまいました。各紙・誌に書評を
頼みこむことまで、著者がやらねばならないのでしょうか。(中略)
 この例をあげたのは、出版社の中に「売れないのは著者の責任」という考え方があることを示しているからです。
しかし、それはどうでしょうか。内容に明らかな欠陥があるのならともかく、出版社が企画し、完成した原稿を納得
の上で出したものなら、売るのは出版社の役目であり、責任ではありませんか。著者に電話をかける暇があったら、
売るための営業活動をするのが本旨ではありませんか。そうでなくて、どの面さげて出版企業といえるのでしょうか。”

12藤原肇:2011/12/09(金) 10:39:54
愚痴になるのでこんな話は科来たくないが、過去20年間の著者としての記録は、外国に住んで困難だという条件下で、出版社探しの交渉に明け暮れて、本を売る手配までする必要があった。本を書くのは苦手な仕事に属すが、誰も真実を書く人がいなかったために、仕方なくペンを執った者も多いし、いい加減なことを書くわけにもいかない。
私のニュース・ソースの圧倒的なものは、外国特派員からの議論で得たものや、読者の記者や官僚の告発が多く、良く咀嚼してその一部をヒントにして、全体像は読者の頭の中で構築し、考える作業のためのドリルの形になった。ヒントを元に国内の記者が調査し、潜んだ構造を事件として浮上させることで、悪の構造の芽を摘み取ってもらい、手柄は彼らの努力に奉げられば良いのだ。
だから、答えを求める読者には不親切であり、編集者が喜んで出したがらないし、簡単に出版が実現しないのは当然だった。そんな動機で本としてまとめるので、当事者からの裏付けの取材が道楽になり、取材経費は印税の数倍が普通だから、これは謎に挑む好奇心を満たすために、一種の取材病に近いものだったことは、今になって痛感するに至っている。
だから、過去20年間の著書が持つ傾向は、社会病理学的な内容のものと共に、息抜きとしての対談形式のものだが、そんなことに明け暮れていたら、日本の政治と経済の混迷と腐敗が進んで、暴政で亡国現象が悲惨なまでになった。それが『さらば暴政』の出版と重なって、自公体制の崩壊で鳩山政権が誕生し、平成無血革命のじつげんになったのだが、それに対しての反革命は執拗だった。
その実態は反革命よりも維新に近くて、松下政経塾系の国会議員と結んだ菅直人が、アメリカに陣取るネオコン勢力の支援で、民主党をソフトなクーデタで乗っ取っている。それからの日本は急転直下に没落し、破滅の淵に向かって転落する破目になり、とどめを刺したのが311地震だ。この中曽根大震災による未曽有の被害により、原発が爆発して日本列島は放射能に包まれ、国民の健康と幸福は徹底的に踏みにじられた。
その背景には長い暴政支配のために、人材枯渇という負の遺産が蓄積し、全面的なリーダーシップの欠如に災いされ、国として態をなさない状態に陥り、日本は狂乱に支配されたのである。

13藤原肇:2011/12/09(金) 14:20:32
そういう雰囲気の中でそれとなく感じたが、「宇宙巡礼」の管理に違和感が現れ、それまでのスムーズさが消え始めた。その兆候は『さらば暴政』を上梓した時に、気分的に何となく感じ取れたことで、出版社から50部か100部を購入して、「宇宙巡礼」の「書店」に送ったのだが、「書店」には購入案内が現れなかった。
また、アーカイブの「記事」の文章の誤りを指摘し、その訂正を依頼したが実現しないまま、忙しさが理由で後回しになったが、こういう作業は煩わしいとはいえ、先送りすると行方不明になりがちだ。
「記事」の表題と中身が違うものについて、訂正を依頼した場合も同じように、対応がなされなかったのは残念だが、これは好意に依存する関係で、相手の都合を尊重することが礼儀だから、先送りでも仕方がないので諦めた。
シャドウ経済の価値を論じたイリイチは、われわれが市場経済という体制下に生き、総てを量的なカネで計測するために、貨幣価値に換算できないヴァナキュラーに対し、価値と思えなくなる傾向を指摘している。特に小泉政権により貧富の格差を拡大したので、中産階級が没落し貧しくなったために、生活に追われて心の余裕が逼迫状態に陥って、奴隷精神が全土に蔓延してしまった。
しかも、メディアが拝金主義に毒されたので、そんな気分が「宇宙巡礼」にも浸透し、ボランタリーの精神が歪んだらしく、何となく寂しい気分に支配された。

14藤原肇:2011/12/10(土) 08:52:53
反乱の気配が暫く前から感じ取られ、サボタージュの形で動き出したが、それまで書籍を発送する手間のお礼に、私は2000円を支払ってきたのに、3000円に値上げしないと赤字だから、発送の仕事は出来ないと通告された。
医師は兆候で病状を読み取るので、これは危険な症状だと思ったが、ポロンタリー行為に赤字の概念は奇妙でも、本の発送の中止は困ると思い、それでは値上げでやって下さいと返事した。
そうした時に福島原発が爆破して、放射能汚染が始まったことが原因で、避難のために疎開する話になった。
それから後は皆が経過を知る通りで、些細な言葉遣いの齟齬をきっかけにして、反乱の言動が挑戦の形で現れたが、本を引き取れと言う最後通牒は、受けて立つには余りにも幼稚すぎた。
本当は相手の欠陥と愚劣さを指摘して、思い上がりを叩くことも考えたが、それでは相手のレベルに降りなければならず、「愚者と喧嘩すれば馬鹿になる」というゲーテの言葉を思い出し、適当にたしなめるだけで済ますことにした。
だから、思いあがりを叩くために考えた、
****************************************
亀よ、信頼を裏切って、血圧が285の人間に最後通牒を突きつけることが、そんなに嬉しいか。悪魔よ、消え失せろ。
(註:小悪魔は窃盗や横領のレベル。大悪魔はナチス流侵略や亡国を伴うこの世の地獄)
「ヌスット ダケダケシイ」という電文が届いたら、読者たちからだと心得よ。
門出に「朽木不可雕也、糞土之牆、不可朽也」と「腐木は柱にするな」という訳文を贈る。
藤原肇
****************************************
という文章は書かずに、最後の段階までお蔵にしまったのである。
『論語』の「公治長」にあるこの有名な言葉は、誰かの英訳文を引用すれば、
Zai Yu took a nap without learning during the daytime. Confucius said, “We cannot carve on a rotten wood. We cannot make a mud wall with rotten mud. How can I discipline Zai Yu?
I believed in their acts by hearing their word at first. Now I watch their acts by hearing their word. Zai Yu’s acts taught me this thing.”
ということになるらしい。

15藤原肇:2011/12/10(土) 08:56:34
「群盲象をなぜる」の話が教えるように、部分を幾ら寄せ集めても無意味で、それを繰り返しても埒が明かない。参考までに『阿含経』の中の「群盲象をなぜる」を貼りつけるが、別に皆が盲目だというのではなく、人間は限られた領域しか見えていない例であり、とりあえずは、インドの物語を読んで欲しい。
<貼りつけ>
「鏡面王は言った、「すぐに、象の所へ連れて行ってやれ」、家臣が王の命を受け、この盲人達を象の元に連れて行き手を引いて、盲人に示した。中には、足を触る者、尾を持つ者、尾の根本を持つ者、腹を触る者、脇腹を触る者、背を触る者、耳を触る者、頭を触る者、牙を触る者、鼻を触る者がいた。
盲人達は象につい て、各々の見解を争い、自分は正しく他の者は間違っていると収拾がつかなくなった。家臣は王のもとに連れて帰った。王は、「お前達は象を見たことがある か」と聞いたが、見たことはないと答えた。王は「象とはどういうものだ」と聞いた。足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた、
尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、腹を触った者は太鼓のよう、脇腹を触った者は壁のよう、背を触った者は背の高い机のよう、耳を 触った者は団扇のよう、頭を触った者は何か大きなかたまり、牙を触った者は何か角のようなもの、鼻を触った者は「大王様、象とは太い綱のようなものです」 と答えた。
そして、王の前で「大王様、象とは私が言っているものです」と再び言い争いを始めた。鏡面王は大いにこれを笑って言った、「盲人達よ、お前達 は、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだね。」

16T.N.:2011/12/12(月) 21:58:04
 象が出てきたついでに雑談を。
 どこかで読んだ話ですが、国内でブーツが流行っていた頃、欧州に出掛ける男性に知人の女性がブーツを買って
きてくれるよう頼んだ。脛のところを測ったサイズを聞いていたので、店員に伝えたところ、相手が驚いて「それは
とうてい人間とは思えない、象ではないか」といわれたとか。
 話をよく聞いてみれば、脛の周りを測った値を、相手が直径と勘違いしたためらしい。とりあえずは正しく測って、
正しく伝えることからでしょうか。

17藤原肇:2011/12/13(火) 15:19:03
私はスレッド上の議論を読んだ瞬間に、この「群盲象をなぜる」の話を思い出し、誰かがこれを引用して欲しいと期待した。拙著や読者に関して知っているつもりだが、私がそれを明らかにすることで、問題の解決に貢献するとは思っていない。なぜなら、「宇宙巡礼」を宇宙だと思っている人に、「宇宙は宇宙システムの一部であり、ホロコスミックスがそれを明示する」と、読者の誰かが発言して欲しいと思ったからだ。
ところが、象の尻尾が象だと信じる「片目のたぬき」が、先ず「象は尻の糞の臭いがしているから、自分の象への思いは悪臭で汚染された。これまでの苦労が無駄になって、こんな汚い象の世話をさせられた」と叫び、「象がどうなっても構わない」と言いだした感じがした。
読者の集まりが各地色んな形で幾つもあり、世界各地だけでなく日本の各地にも、財界グループ、商社、銀行、官庁、学校を始めとして、彼らが読者として集まる場を作れば、そこに顔を出す努力を私はしてきた。その最大のものが「脱藩クラブ」であり、これは『日本脱藩のすすめ』の読者が集まって、1980年代から東京で長らく続いてきた。
途中から藤井先生の薫陶を受け、その人柄を知って欲しいと呼び掛けて、外に向けて公開した関係もあり、一時は盛況で色んな人が参加したので、外国の諜報関係者まで参加した。マット・アマノたちが司会をしてくれたお陰で、情報交換や親睦の場として素晴らしかったが、皆が忙しくて幹事役を買う人が現れず、それまで幹事役をしていた私の弟が、失明して以来は中絶のままになっている。

18asa:2011/12/13(火) 17:33:45
「手にした権力は手段と方法を選んで使うべき」
これは、日本に限らず、アメリカを始めとする先進国ばかりでなく、中国や
韓国、インドを始めとする新興国や発展途上国にいたる全ての国において、
大いに学ぶところはあるのでは無いでしょうか。
特に、エジプトやリビア、チュニジア等の独裁政権の崩壊から民主化への
動き等も含めて見ると、共通するところがあるのでは無いでしょうか?

日本では、上の人間が下の人間に責任を問うことはあっても、下の人間が
上の人間の責任を問うことがなかなか難しいばかりか、上の人間は幾らでも
自己保身のことしか考えていないことが大きな問題であるばかりか、下の
人間の方も、上の人間に対して、その責任を幾らでも問うことは問題無いも
のの、それを履き違え、自分達だけが損することさえなければ、何をやっても
良いと言う身勝手な人間がいること自体が、根本的な欠陥では無いでしょうか?

これを克服するためには、立場の違いを乗り越え、社会にとって良いことは誰であ
っても許される反面で、社会にとって敵対することは誰であろうと絶対に許される
ことは無いのは当然であると共に、何らかの責任が問われることがあった場合には、
その立場によって、分かち合い、譲り合い、助け合い、支え合うことが出来る社会
に変えて行かなくてはならないのではないでしょうか。

これは、韓国の朝鮮王朝時代の歴史ドラマから見て感じたところですが、日本の大河
ドラマと比べて見ると、決して韓国だけのものでは無く、日本でも幾らでも共通する
ところはあるし、アメリカとしては、韓国とのFTAを通じて活かすのなら、日本も
TPP交渉を通じて、アメリカの言いなりになるのではなく、むしろ、日本の国益が
オーストラリアを始めとするTPP参加国全体の国益に繋がると共に、アメリカの国益
と同時に中国にとっての国益にも繋がることが出来るようになるのなら、それが拡大し
アジア太平洋地域全体から、地球上の全ての国々の国益に結びつくことによって、世界
経済を支え合うことによる持続的発展と、地球環境への恩返しが同時に可能となるのなら
、全人類にとって此れほど喜ばしいことは無いし、これだけを誇りとすることさえ出来れ
ば、もう十分では無いでしょうか。

19藤原肇:2011/12/15(木) 16:45:25
「脱藩クラブ」から派生した「脱藩道場」は、コンピュータに詳しい人たちの集まりで、情報革命の寵児としてサイトを持ち、私の読者の集まりの中では機動力を持ち、一種のハブとして便利な存在である。だが、彼らがサイトに「宇宙巡礼」と名付けて、勝手に私の写真を張り付けても、これは読者たちの手によるホームページだから、私のものでないのは当然である。だから、メンバーの一員として時には書き込むし、記事の提供などでは協力してきたが、そこで今回の反乱劇が起きたのである。
いずれにしても、道場の運営法は皆さんが決めることで、私の著書の「宇宙巡礼」で構わないのだが、私は場としての廂や便宜は提供する。だが、運営は皆さんでやって欲しいと提案して、松下村塾の方式は取らないように、アドバイスをしたことについては記憶している。一人の先生やカリスマを中心にすることで、軸が狂うと思想的に偏狭になってしまい、最悪の場合はテロリスト集団になることは、日本の歴史に例は幾らも例がある。
奈良や京都時代の仏教の覇権争いや、鎌倉や室町時代の宗門争いを始め、幕末のテロルを含む派閥抗争など、今の政党の抗争まで続いている事実がある。
そこで外に開いた組織として参考になる、大阪の「適斉塾」の方式を採用して、年齢や出自ではなく実力に基づき、指導者を選んで自主運営をする。しかも、義務ではなく奉仕の精神で協力し、私は緒方洪庵の立場にいて、共に学ぶための場の提供者に過ぎないから、組織の運営に関与しないように、そんな議論をゼミ方式でやったように理解する。
なにしろ、私はアメリカに住んでいる上に、カナダ時代以来の読者集団があり、ロスやシカゴを始め各地には、別の読者の集まりが存在する。また、日本各地は勿論ソウルや台北にも、熱心な読者の集まりや友人がいて、触媒として彼らの集まりに貢献できたのが、過去30年における私の歴史だった。

20藤原肇:2011/12/21(水) 18:07:46
世界の各地に読書会を主宰する人がいて、声がかかれば手弁当で飛んで行ったので、私の著書を取り扱う人達が出現した。その嚆矢はバンクーバーの零細書店であり、もう40年以上も昔のことだが、『石油危機と日本の運命』と『石油飢餓』を取り寄せてくれた。若かった私はそれに痛く感激し、感謝の気持ちを籠めて印税の総てを活用して、サイマル出版の本で感銘した本を選んだ。そして、百万円以上の本を購入して送り届け、店に並べて貰うことをお願いして、一年に一度の年末決算ということにした。
当時の海外の書店の品揃えは貧弱で、碌な本が並んでいなかったために、海外の日本人は良書に飢えていたからだ。だが、その書店は数年後に夜逃げをしたとかで、私は最初と言える善意の挫折を体験した。
二番目の書店はシカゴの新聞社主で、シカゴ在住の日本人が読書会をしており、私の本を日本から取り寄せて、新聞紙上で広告を出して販売してくれ、お礼に何度か集まりに出席している。また、ロスで事業を営む熱血漢の佐藤五十二さんは、事務所の本箱に拙著を何百冊もストックして、ロスの住人や読書会に集まる人に本が手に入るよう普及活動をし、時には「掲示板」に書き込みをしていたが、最近では忙しいためなのか、彼の書き込みも見かけなくなった。それでも、元気に活動を続けているのだろうと思う。
それに前後した頃に脱藩道場の有志達の手で、私が過去に書いた記事の収録とか、絶版になった拙著の復刻が行われて、拙著の取り扱いか書店で始まったと記憶する。だが、これは有志の自発的な作業であり、私はコピーレフトで関与する立場にないから、何がどう進んだのかは何も知らない。責任者に権限を委譲することで、若い頃に失敗や成功を体験することが、人材育成の基礎であると私は考えて来た。だから、私は善意の自発行為には声援を惜しまないし、私を育てた人もその機会を提供し、現在の私を作ってくれたことを思えば、それが開かれた恩返しになると思っている。

21藤原肇:2011/12/22(木) 11:41:26
東明社吉田社長は出版の原点に立つ人で、自分で選んだ本を乏しい資金で捻出し、電電公社の納品書や社内報を出版して、それで得た資金で本を出す珍しいタイプの出版人だ。しかも、漢方と易に関しての本では日本一で、それまで百点以上の本を作り上げていて、その中に藤井先生の著作が何冊かあった。
時事通信の『日本不沈の条件』の「あとがき」に、この本の前に『虚妄からの脱出』があるが、未完のためのこの本が先に出たと書いたら、「原稿を見たい」と言ってきたので、原稿を送ったら本を出版してくれた。
そこでなぜ私の本を出すかと聞いたら、「うちは人間の健康維持のために、漢方薬の本を出しているが、藤原さんの本は社会の漢方薬だから」と言ってくれたことは、どこかに書いたことがあると記憶する。
「人間は意気に感じる」というが、吉田さんはそんな志を持つ出版人で、私の本を十冊も世に出してくれた。だから、吉田さんは私にとっては恩人であり、世話にになった人として忘れ難い出版人だ。板橋のしもた屋の二階が出版社で、一人で編集から販売や発送までこなして、通信販売方式で読者を確保する、個性的な出版人に属す傑物だった。
藤井先生を紹介したのも吉田さんであり、お陰で藤井博士の薫陶を受けられたし、何冊もの素晴らしい内容の本だけでなく、出版妨害になった本まで出して貰った。
ある日のこと私は仰天の体験をしたが、お茶を出してくれた中年の女性が、「お父さんの道楽のために、我が家は何度クビを括ろうとしたか」と聞いて、娘さんが嫁にも行かずに仕事を手伝い、それで東明社が続いて来た内情を知った。
だから、プタペストで滞在した「サクランボ」を始め、世界各地の日本人会の図書室や、日本人が利用する図書館に宛てて、東明社の本を買ってダンボールに詰め送って貰い、貧者の一灯にする気にもなったのだ。著者と出版社の関係の原点には、金銭を越えた信頼関係があるもので、私はカネで印税を受け取る代わりに、それで東明社が出した名著を選び、世界中に発送して喜んでもらい、社会への恩返しの一端を実現して、満たされた思いで人生を楽しんだ。

22藤原肇:2011/12/23(金) 21:01:27
藤井先生と私を引き合わせたのは吉田さんで、帰国する度に銀座内科に先生を訪ねて議論したが、相手をして貰うために必要な礼儀として、会話のテーマについて下準備することが不可欠だ。そこで大学図書館や医学部に行き、錬金術や脳内ホルモンについての本を読み、その結果として十年近くの歳月が過ぎて、脳に関連した書物を千冊以上も読めた。また、1980年代としての最新知識に親しめたから、藤井先生の発想法に近づくことが出き、その成果が『間脳幻想』の草稿としてまとまった。
読み抜いた本からコピーしていたので、大量の図版が段ボール箱に一杯になるほどあり、大半は黄金分割に関連していたものだ。だから、第一巻はフィボナッチ数列をメインテーマにして、続いて秘密結社の歴史を第二巻ということで、合計で五巻ほどの対談を作る企画になった。
対談を始めた頃はサントリーと一緒に、石油開発のベンチャーを推進していたし、担当の国際部長だった堀出さんが子会社に移り、TBSブリタニカの社長に就任して、「藤原さんの本は何冊でも出したい」と言ってくれた。そこで、最初にまとめたものは目次と梗概だけで、TBSブリタニカからの出版が決まり、草稿を仕上げて東京にそれを持ってきた。
TBSブリタニカに行く前に親友を訪れて、いろんな話をしていた途中のことだが、落合さんが「自分の夢は出版社をやることであり、絶版の本を復刻する書律を経営したいので、編集者たちの手配もだいたい済ませた。紙は中性紙を使って質の良い本を作るつもりで、百年後にも残る内容のものにしたい」と打ち明けた。それを聞いて趣旨に共鳴した私は、持っていた『間脳幻想』を提供して、「これを第一号にして出版社を始めたら」と申し出た。
そこで彼の書斎の東阜書院の商号で会社の登記をしたが、岐阜県の阜は当用漢字にないと撥ねられ、仕方なく東興書院の名前で会社は発足した。また、出版コードを得るためにダミー本が必要になり、それを彼の筆名で大急ぎで作って、最終的に『間脳幻想』は誕生したわけだが、藤井先生の学恩はここに実を結んだのである。だが、これまで公開しなかった秘話があり、この本は図版がたくさんあったために、一冊売る度に出版社は数千円の赤字だが、「良書を出せたのは本屋として誇りだ」と言い、落合さんの名は体をなすを証明するように、莞爾とした爽やかな笑顔を見せたのは流石だった。

23T.N.:2011/12/24(土) 15:14:36
東興書院で「間脳幻想」を出版することになった経緯については、以前にもこちらのサイトで拝見したことが
あります。ただせっかくの爽やかな思い出に水をさすようで申し訳ありませんが、会社設立時の難しい時期に、
出版すれば赤字必至の本を託されたのは、white elephant という言葉を思い浮かべます(また象が出てきましたね)。

24藤原肇:2011/12/24(土) 19:37:01
以前に書き込んでいないかと探したが、見つからないし探すのが大変なので、改めて事情と経過を書いた次第です。二度も読まされて愉快でないとしたら申し訳ありませんが、それにしても記憶力の良さは素晴らしいことです。
ただし、早読みしてメッセージを逆さに捉えてしまい、「会社設立時の難しい時期に、出版すれば赤字必至の本を託された」と誤解しているのは、別に些細な議論をするわけではないが、読みの浅さを象徴していると感じた次第。
真相は本の原稿が最初にあってその出版のために、出版社を立ち上げる決断を落合莞爾さんがして、出版社を始める上で必要な手続きで苦労した、そのプロセスを紹介したかったに過ぎない。
手元に記録がないので正確な題名は不明だが、東興書院はその後に陶磁器に関して、「赤絵」や「染め付け」を始めとした本を出し、陶芸世界に偉大な貢献を果たしている。
友人として聞いたプライベートなことで、それを漏らすのは礼儀に反するだろうが、「赤絵」の本は定価が二万円程度になっていて、実際にはその四倍の制作コストをかけており、「売れる度に損だが買った人が喜べばいい」と莞爾としていた。
出版が文化活動である原点を見た感じで、私はそんな出版社の誕生を嬉しく思うし、現在の日本が金儲けのための出版に支配され、賎民資本主義に毒されていることに対して、抵抗の気分で莞爾と笑える人を紹介したかった。
こんなことを書く私は絶滅種かも知れないが、一連の陶磁器シリーズを完結したことで、東興書院は自供活動を停止して廃業し、その結果として『間脳幻想』も絶版になり、唯一の入手手段は「宇宙巡礼」の「書店」になった。

25T.N.:2011/12/25(日) 00:57:35
 藤原様、拙文に対しお手を煩わせることとなりましたことをお詫びいたします。「間脳幻想」出版の経緯について
了解いたしました。ただ損益分岐点を超越した経営というのは、どうしても受け入れがたいものがあります。
・納得している当人はともかく、家族をはじめ周囲が相当の負担を被る
・事業の継続性が見込めない
 私としては、志を持つ者同士が互いに負担を掛け合い、結果として先細りとなるようなことがないよう願うものです。

26若林散人:2011/12/25(日) 14:12:50
仏教の世界には「還相」という視点がある。向こうから眺めると、物事の全体が見えると言うことである。それを具体的な行為として「布施」というが、世の中への恩返しという意味を持っている。
古代においては「贈与」が心の交換として使われたが、物々交換に続いて金銭が登場したことで、心が消えて物が主役になってしまった。
古い意味での真心を大切にする人には、純粋な形での恩返しとしての贈与が、経済的な損得を乗り越えた形で、生き方の中に輝いているのではないか。
だから、心から喜びの気持ちを伴って、莞爾とした笑いを肚の芯から導く形で顕し、気持ち良く人生を楽しんでいるのではないか。合掌

27藤原肇:2011/12/25(日) 21:13:02
見たことがあるという意識の領域の働きと、意識を超越した喜捨や恩返しの行為が、『間脳幻想』という本に関連して登場した。そこでキリスト生誕のクリスマスにちなみ、意識や無意識について終日思索して、このめぐり合わせの妙について考えたら、気づかないでいた連環が浮き出してきた。
キリストはクムラン教団に属していたということが、『死海文書』の解読で分かり始めたし、キリストが布教を始める前の十数年は、記録がない遍歴の時間になっており、インドからヒマラヤ周辺に足をのばし、仏教の影響を受けたと言われる。だから、クムランは仏教のサンガ形式の生活して、それが修道院の原型だという説もあり、数学的に二は一をその中に持つ上に、生物学的には卵子は自己完結的なので、女性の東洋が男性原理を内包すると言う。
キリスト教におけるloveは受ける愛であり、それを補う形でAgapeが登場して、与える愛として相補関係を作るが、それは無限に広がって包み込む、仏教における「慈悲」の心の断片を構成する。この世における慈悲の実践が布施であり、布施の内容についての具体的な議論は、池口恵観和尚と『賢く生きる』の中で試み、「喜捨の精神とお布施の正しい意味」を論じた。
それがサンスクリットのダーナに由来する旦那として、旦那の心が世間への恩返しになる点で、同じ出版人でも落合さんや吉田さんのように、読者が満たされる本を出せたと喜ぶ心に関して、理解できる読者までが激減している。
だから、「みすず書房」や「未来社」が潰れる方が、日本の破滅より悲しいと思うのだし、その点で「ミネルバ書房」や「岩波書店」もその仲間だ。最近の出版社には「旦那心」がなくなり、損をしないで儲かる本だけに興味を持ち、売れるかどうかで出す決断をするために、売れるだけが特徴の本が氾濫して、亡国日本は人材の枯渇で呻吟している。そして、それを藤井先生は「あとがき」の一文で、ケストラーの言葉で「寸言鉄を刺した」のである。

28ヒロイエ:2011/12/25(日) 22:05:19
「みすず書房」や「未来社」が潰れる方が、日本の破滅より悲しいと思うのどこかに書き込まれた文章だですが、何度書いてもらっても十分な警告です。実際この会社の存在さえ知らない学生がいっぱいいることに驚かされました。間脳幻想や将棋面さんの著作は医者にも渡しましたが読モしないので救いがないと感じるこのごろです。
ところで、藤原さんに書いていただいたら、各々も著作について一時逸話をか書いていただいたと思いますが
その続きをお願いしたいのものです。あれだけ出したいと言っていたTBSブリタニカが
2冊でおわり、即絶版の内幕とか、張さんとの最初の出会とか、まだわからないところがいっぱいあります。

29藤原肇:2011/12/26(月) 20:46:58
ユダヤ人の血と臍の緒をもつフロイトは、誕生以後の無意識で学説を作ったので、ラカンを愛読する藤井先生は医師として、錬金術を媒体にして集合無意識に挑み、それが『間脳幻想』に結晶化している。藤井先生と同じ世代の医師の三木成夫博士は、懐かしさを伴う回想する営みに関し、腸による体壁系と脳による神経系を識別して、系統発生的に太古と密着した、腸管の発生学を『胎児の世界』で論じている。
だが、精神病理学者でストレスの権威として、藤井先生は内臓脳としての副腎に注目し、ホルモン分泌の神秘を指摘している。そして、フロイトを越えてユングに着目して、錬金術から古代の叡智を探求し、集合無意識や黄金分割を論じたが、残念なことに続編は誕生しなかった。
集合無意識や生命史の領域までが、医学の世界における守備範囲で、集合無意識を突き抜けて宇宙意識に至って、内が外になり外が内になる分野は、生命体の構造がそれを示すとはいえ、その議論が概念図化するためにも、数学者の発想と次元概念が必要となった時に、張錦春さんが現れて『宇宙巡礼』が生まれた。
張さんとの出会いとヒロイエの希望があり、思い出そうと努力してみたのだが、アメリカに手紙が届いた記憶しかない。その後、怪奇な数式入りの手紙が何通も届き、不思議な読者に会うために台湾を訪れ、国外に一度も出ていないこの数学の先生が、ライプニッツを読破しているのに驚き、その時の対談が東明社で『宇宙巡礼』になった。彼と会った最後は2001年だが、それまで10回近く会って議論しているので、5冊くらいの対談集が作れたはずだが、私の怠慢でそれは実現し内で終わっている。
張さんは私が対座した初めての仙人で、彼が原子の世界で電子に成り切ると、鉄棒の逆向き逆上がりで40回も、風車のようにグルグル回転するのを目撃して、こんな不思議があるのかと仰天した。だが、それは驚きとして序の口であり、彼が作った十数枚のMACOCAMの図は、私の頭の中を透視したチャートであり、こんな読者が存在する事実を知って、著者冥利の存在を実感したものである。だが、石になったらしく十年前に姿を消した張さんは、幾ら行方を捜す手配をしても不明のまま、その後どうなったかは分からない状態だ。

30藤原肇:2011/12/28(水) 09:42:39
ヒロイエさんを呼び捨てにして失礼しました。
吉田さんとの出会いによる成果は数多く、フィボナッチ数列に関した東明社の本が典型だが、『宇宙波動と超意識』と『宇宙巡礼』の二つは、『間脳幻想』と並んで黄金分割のカノンだ。また、個性的なものに『山岳誌』の出版があり、それが思いもかけない本作りを実現した結果、記念すべき作品の誕生に結びついた。
フランス留学の直前に50部ほど作って、親しい人に謄写版刷りの小冊子を配ったが、それを留守宅に訪れて母から借りて読み、吉田さんが本にしたいと言い出した結果それが実現した。しかも、時代的な背景を中心にした形で、補説として自伝に近いものを書いて欲しいと言われ、自伝を書く年齢ではないと断ったが、編集者としての吉田さんの執念は凄かった。
そこで覚悟を決め企画に乗ったのだが、どうせなら一生一代の作品を目指して、T・E・ロレンスの『砂漠の反乱』の初版のスタイルを手本に、1927年にジョナサン・ケープ社が出した、記念すべき本の体裁をそのまま借用した。
また、素晴らしいタッチでカットを描いていた高塚画伯に、挿絵と日の出の絵で表紙を描いて貰えれば、こんな嬉しいことはないと提案したら、吉田さんは画伯に交渉してそれを実現した。実は高塚画伯はヌード画の専門家で、山の絵は余り得意でないと辞退されたが、吉田さんが熱心に誘いかけたお陰で、引き受けて貰うことが実現したのであり、その結果は素晴らしい作品の誕生になった。
だから、私は「清水の舞台から飛び降りる」気持ちになって、皮装版を百部作り親愛の人たちに配ったが、こんな破天荒なことを実行できたのは、未だ40代で起業家だったお陰であり、こんなチャンスは二度と実現しないだろう。

31藤原肇:2011/12/29(木) 20:25:03
私とT・E・ロレンスが結びついた理由は、社会人として最初の仕事をした場所が、サウジアラビアだったことに関係している。そのことに関しての簡単な記述は、『山岳誌』の「補説」に書いているが、1968年は実に慌ただしく事件が頻発し、冬季オリンピックに続いて「五月事件」が起き、混乱の中で学位を取って社会に踏み出した私は、苦労の果てにシンクタンクに就職し、緊急事態の中でサウジの首都に派遣され、「Riyadh Deep Well計画」の現場主任を務めた。
だが、パスポートを農林大臣に預ける形で、鎖国しているサウジで仕事をしたお陰というか、ファイサル国王の直参の一員に加わったが、ある意味では人質として身柄は拘束され、国外に出る自由はなくなってしまった。
1960年代後半のサウジアラビアが置かれていた状況は、幕末の日本を訪れた西欧人の体験に較べるよりも、更に古い鎌倉や室町時代の南蛮人に似て、私には13世紀の世界に迷い込んだ感じだった。その頃のサウジは未だ石油大国ではなく、砂漠が広がる中東の鎖国している王国であり、ファイサル国王による統治が続いていた。金曜日には町の中央の「時計の広場」で、不倫の容疑者を穴の中に首だけ出して埋め、それに石を投げて処罰する刑や,盗人の手首を切断する公開処罰が行われ、近代と中世が混在している場所だった。
当時のリアドの町には大型ホテルが二軒あり、町の中心のインターコンチネンタルは改装中で、飛行場の前にあるサファリ・ホテルが、私が食事をするための場所になっていたし、そこはこの国の社交場でもあった。レストランの奥には宴会の間があって、そこで良く閣議が開かれていたので、顔見知りになった人の中に若き日のヤマニもいたが、石油に注目していなかった当時の私に、彼との出会いが石油の重要性を気づかせ、水から油に転換する契機をもたらせた。
昼食や夕食を共にする仲間が出来て、銀行の支配人のイギリス人を始め、大学教授のドイツ人や医師のトルコ人とか、ゼネコン社長のエジプト人や彼の仲間が、一緒に食卓を囲む顔触れになった。

32藤原肇:2011/12/30(金) 03:38:01
ファイサル国王は国民が欲しいと思ったが、遊牧民は季節によって移動しており、イェーメンやイラクの間には国境はないも同然。そこで遊牧民を定着させるためには、どうしても水が必要だということで、アラビア半島の国土改造計画が動き出し、それを世界一の水のシンクタンクに発注した。それにしても不思議な因縁だというか、学位を取った私は詳細を知らない状態で、シンクタンクで社会人の第一歩を踏み出し、サウジに派遣されたことによって、「アラビアのロレンス」と関係を持つという、奇妙な体験を味わうことになった。
アラビア半島を七つの地区に区分してから、井戸を掘ったり用水工事をしたりして、大規模な国土改造計画が動き出した。ある時リャドの400キロほど北西の地点で、素晴らしい飲料水を掘り当てたので、当時では世界最大の口径のパイプラインを敷き、首都に送水する計画の提案になった。ところが、あれだけ名君の誉れの高いファイサル国王が、「われわれにはアッラーの加護がある。首都の地下から水を汲み出せば、パイプラインは無用だ」と言ったので、担当責任者はアッラーの尊厳にひれ伏し、ビジネスとして王命を無条件で引き受け、「Riyadh Deep Well Project」が発足し、数年にわたり井戸を掘り続けていた。
だが、地質学的には不可能な事業計画であり、帯水層の砂岩は首都の地下には発達せず、出てくるのは硫黄や石油混じりの温泉で、とても飲料用には適さないものだったから、担当者は困惑の中で持て余していた。そうした複雑な事情まで知らされなかった私は、フランスが誇るシンクタンクから、現場主任という肩書を与えられて有頂天になり、サウジの国土開発計画にのめり込んだのは、若気の至りというべき事かも知れない。「若い時の苦労は買ってもやれ」というが、学位を取るまで商社の資源コンサルタントをして、アフリカでの資源開発の仕事で嫌な体験したせいもある。そこで、諜報絡みの世界から縁が切れたと思い、地質のプロとして実直な人生を始めて、爽やかな気持で新しい仕事に臨んだことが、リャドでの油断の原因になったにしろ、人生は何が「塞翁が馬」になるか分からないものだ。

33藤原肇:2011/12/30(金) 10:03:34
だから、国際色が豊かな雰囲気を楽しみながら、一日15時間働くことも苦労にならず、サウジでの真面目な人生を謳歌していた。ところが、親しい仲間の顔触れが突然動く状況が生まれ、サロン的な議論を楽しんでいたのに、それが急激に変わるような事態を迎えたので、私は過去の悪夢を思い出して冷や汗をかいた。周辺にいた親しく交わっていた連中の多くが、情報関係の人間であることに気づき、相手もフランスの組織で働く日本人なら、自分たちの仲間だと思い込んでいて、それで相手になっていたのだと分かり、迂闊だった自分の軽率さを痛感した。
1968年の夏に「プラハの春」が再来し、諜報の世界の渦潮の中に巻き込まれてしまい、周辺の紳士たちの正体が判明した。実はソ連軍が戦車と共にプラハに侵入したので、ヨーロッパで戦争開始という噂を生み、それへの反応が彼らに緊迫感をもたらせ、瞬間的に人間関係の変化になり、迂闊だった私にも状況が理解でき、これはいけないと気付かせたのだった。
そういえば私が所属するフランスの組織も、似たような仕事を密かにやっている感じで、私の上役は皆が海軍の出身者だった。海軍の経歴の持ち主は陸軍とは違い、世界各地を訪れ国際感覚があり、メカに強く語学力を持っている上に、スマートだから情報能力に優れるので、情報機関にとっては役立つ人材だ。現地の総支配人や経理部長だけでなく、週か十日に一度フランスから飛んできて、一緒に国王に会う副社長の経歴も、海軍出身だったことに思い当たり、私は意識しないうちに情報関係の中にいて、それに気づかなかったことを理解した。
だが、身元保証人の農林大臣にパスポートを預けてあり、一種の人質になっている身柄だったから、サウジから脱出する目的の達成には、知恵を動員しなければならなかったので思案した。そこでフランスとスイスに住む友人と、東京の母に連絡して本を買い集めて、T・E・ロレンス関連の本を送って貰った。内容を熟読して適当な個所を探し出し、フランス語の意味が良く分からないから、それを説明して貰うという形をとって、総支配人に解説を求める作戦を試みた。
あからさまにそれをやったら危なくて、砂漠の中で消される可能性があるが、それとなくほのめかすことが肝要で、中東の資源権益に関しての英仏両国は、昔から競い合っている事実があり、そのことに私は気付き始めていると、それをメッセージとして総支配人に送った。この心理作戦がうまく成功して、数度目の質問の時に相手が不信感を持ち、「何を読んでいるのか」チェックしたら、私が「アラビアのロレンス」を読んでいると伝わり、作戦は幸運にも成功したのだった。
数日後にパスポートと航空券を渡され、「明後日の飛行機で帰って良い」と言われたのであり、危ない綱渡りの成果だったとはいえ、こうしてサウジから無事に脱出てきて、フランスに戻って会社を辞めたのである。

34藤原肇:2011/12/30(金) 23:30:28
ベイルートからグルノーブルまでの旅には、奇妙な形で監視の尾行まで付いていたのに、それに気付いたのは暫く経ってからで、当時の私はそれほど気分が散漫になり、サウジ脱出の成功に気を奪われ、人生航路の切り替えに全力を傾けた。そこでグルノーブル大学に学士入学して、T・E・ロレンスについて勉強したいと考えて、文学部の英文学科の学生になった。
だが、30人ほどのクラスに男の学生は数人であり、女性ホルモンは教室に充満しているし、砂漠の国からフランスに戻った勢いから、結婚したために生活パターンが狂い、授業は数週間ほど出席しただけで、文学部中退ということになった次第だ。また、アラスカで北米最大の油田発見があり、アメリカに渡る気持ちに支配されたし、次の石油発見のブームに加わるために、石油産業の中に飛び込みたかった。
ちょうど大陸棚の開発が盛んになり、石油開発の仕事をしたくてたまらず、現場で掘削の下請けをする会社に先ず入った。そして、ピレネー山脈を始め北海やアドリア海で、石油を掘る現場の仕事を体験したが、滅茶苦茶なペースで生活パターンが変化して行き、まさに疾風怒濤の時代の体験になった。
翌年の初夏には大西洋を渡ってカナダに行き、無税で買ったスイス・ナンバーの車を運転して、五日間を費やす大陸横断で西に向かい、カルガリーで新しい生活が開始したのである。幾つかの会社を渡り歩いて経験を積み、最後にはコンサルタントとして独立して、十年後にはカナダから米国に移り住んだ。
その辺の事情は『無謀な挑戦』に書いたが、ウイチタで過ごした五年間は、人生に おいて最も多産な時期になったし、その時の経験が私の財産に等しくなった。そして十年の歳月が経過して行く中で、ベンチャービジネスを立ち上げた時期のことは、『日本脱藩のすすめ』や『地球発想の新時代』に書き、およその経過については記録が残っているし、読者たちとの交流が盛んになっている。また、テキサスで石油開発会社を経営する、長年の夢を四十歳半ばで実現して、慌ただしい人生だったが一区切りし、ここにフェルマータの記号を刻印し、ビジネスの世界からの引退が実現した。

35藤原肇:2011/12/31(土) 09:18:44
ただ、東明社との関連で重要だった事件は、1991年の春に母親が亡くなった時に、その遺言に従って追悼版の『山岳誌』を作り、日本全土の高校図書館に寄贈して、母の遺志を実現した時の思い出が、吉田さんと密着していたことになる。追悼版を作るに至る決断までの経過は、「母・藤原幸子の希望と意志」と題して、追悼版の最後に書いて記録に残したが、それはお通夜の体験の時に始まったのであり、春から夏にかけての経験談に繋がって行く。
葬式の時に顔を出していた吉田さんに、丸善か紀伊国屋で学校銘鑑を買い、日本全土に高校が幾つあるかを調べて、特装本を寄贈するのに必要な金額と、間接費用の予算の見立てを私は依頼した。彼が数えた全国の高校は約3000校だし、荷造り送料とあて名書きのバイト代に、1500万円プラスとの見積りだったから、3500部印刷でやることを決断して、追悼版の作成を東明社に発注した。
初版の時は高塚画伯に頼んだ挿画により、画期的な本が出来るはずだったが、吉田さんが「私も絵心がある」といって、かなりの量の絵を描いてくれ、その好意を断れなかったので、二種類の挿画が『山岳誌』には混在した。だから、何枚かの吉田社長の絵を取り除き、そこに家族の写真や系図をはめ込み、追加の記事を書き加えたりして、編集作業が終わりかけた段階になり、吉田さんからの米国に新情報が舞い込んだ。一つは吉報でもう一つは凶報であり、吉報はITの進化で宛名書きが省け、高校の名前と住所を書いたラベルが、購入できることが分かったお陰で、アルバイト料の節約が出来たことだ。
凶報はコンピュータ検索の発達のせいで、高校についての詳細が判明した結果、中間部と夜間部は図書館が異なっているし、遠隔地の高校には分校が存在するために、学校数が2倍近くに増加したことだ。
そうなると予算も当然のことで倍加し、予想を上回る状況に呆然としたが、恵まれた昼間部で学ぶ高校生よりも、働きながら夜間部で学ぶ学生に対して、私の母なら優先権を与えると考えたので、思い切って全校に寄贈しようと決断した。だが、本が出来て発送する手配の段階で、吉田さんの老体に一任するわけに行かず、封筒入れや料金別納のスタンプを押し、郵便局に運び込むのを手伝うために、一週間ほど東京に飛び手伝ったが、この時は腰が経たないほど疲れ切った。それでも感謝されるのは嬉しいもので、ミカン箱いっぱいの礼状が各地から届き、母親への功徳になったのは確実であり、朝日新聞の隅にそんな記事が出ていた。

36ks:2012/01/01(日) 10:45:33
「母、藤原幸子の希望と意思」をぜひ読んでみたいです。「山岳誌」の初版を持っている読者としての思いです。非売品ならば手に入れるのは無理だから、読みたい気持ちが募ります。

37ヒロイエ:2012/01/03(火) 10:04:44
ksさんへ たしか文京区の図書館にある山岳誌はたしか希望の版だとおもいます。

38藤原肇:2012/01/04(水) 11:14:15
吉田さんとの不思議な縁の関係が生き、東明社から出た『経世済民の新時代』は、徳間書店から出ることが決まって、ゲラまで完成したのに出版中止になり、担当者がクビになりかけた本だった。徳間の守屋さんとは15年前から、私の本を出したいと言われたのに、それが実現しない関係が続いた。糸川英夫先生が『日本が危ない』を上梓した時に、本当に危ないのにと思ったので、私はエール出版から『日本が本当に危ない』を出した。
その半年後に徳間から『アメリカ殺しの超発想』が出て、守屋さんから中身が似ているのに、なぜ声を掛けてくれなかったかと言われた。長年の関係から気の毒に感じて、ちょうど『経世済民の新時代』をまとめ、草稿を東京に持ってきていたので、彼にその原稿を渡して検討してもらった。当時の守屋さんは編集次長だったので、自分には初版を一万部ほどで出す権限があり、私の下手な小見出しを売れるように直し、読みやすくすれば必ず売れるから、編集について任せて欲しいと言われた。
次に解説の注を付ければ読みやすくなり、秋のベストセラーの候補にすると言われたので、註を書いて送ったら感謝の手紙が来て、初版二万部でやるつもりだとの内容だった。私の読者は千人くらいが中軸であり、その周辺に千人程度の人がいるにしても、とてもベストセラー向きではない。だが、守屋さんは社長室付きの編集者としての感により、絶対に自信があると断言したお陰で、徳間康快社長がゲラを読むと言い出した。
私は徳間書店の内情を熟知しいたから、住友銀行について触れてはいけないし、徳間個人の過去について書かない限りは、安全だと油断したことが致命傷になり、本になる直前に出版中止になってしまった。実はバチカンのアンブロジア銀行の頭取が、ロンドンのフライヤー橋で首を吊り、P2事件の発覚として世界で問題化していた。しかも、アンブロジア銀行のスイスの子会社で、ルガノにあったゴッタルド銀行を住友銀行が、極秘に買収したことが書いてあったために、それが徳間社長の逆鱗に触れたのだ。流石に昔の読売の記者だっただけあり、徳間社長の情報感覚は驚くほど鋭く、私の記事の隠れた意味を読み抜いていた。
この銀行取引にはマフィアが関係したので、それを吸収した住友の体質には、良からぬ遺伝子が侵入していたはずだし、徳間書店は1100憶円の借金があり、住友銀行に触れることはご法度だった。そこで中止になったゲラを守屋さんから貰い、封筒に入れて封印して東明社に預けて、出版の話がついたらその出版社に送るように、吉田さんに頼んでから私はアメリカに戻った。
所が数カ月後に届いた年賀状に、『経世済民の新時代』を出したいと書いてあり、彼がこっそり封印を開けたと分かった。そこで仕方なく出版するのをOKしたが、東明社には売るだけの力がなかった。また、長野大会が余りに酷かったので、出版を試みたが断られ続けたために、吉田社長に相談したら題名を変えて、1971年にゲラの段階で出版中止になり、25年間眠っていた『オリンピアン幻想』が本になった。吉田さんはオリンピックと聞いただけで、虫酸が走って不愉快になるから、オリジナルの『真夏の冬季オリンピック』では、本を出す気にならないと主張したのである。
そこで私はオリンピアンという言葉に改めて、1000部買い取って出版を実現した。経過は「Mountains of Dreams」の「まえがき」に書いたが、この頃から東明社の経営は苦境に至り、経営を支援して売れる本として、塩谷さんとの対談に協力したのだが、患者が門前市をなすことを想念する医者に、なぜ私が賞賛する必要があるかと、苦汁を噛みしめたこともあったとはいえ、吉田社長には色いろとお世話になった。

39ヒロイエ:2012/01/05(木) 00:23:34
35の朝日新聞の記事は1992年8月1日の夕刊です。

40藤原肇:2012/01/06(金) 08:58:14
吉田さんが何時だったかある日のこと、「埼玉県にある倉庫の土地を売るが、倉庫に在庫の図書が数万冊あり、その中に拙著が数千冊あるから、どうしたものだろうか」という相談を受けた。そこで在庫のリストを見せて貰ったら、私の本だけでなく他人の名著も含み、何とか救済出来ないかと頭を捻った。恩返しの形で拙著を著者割引で引取るのに、数百万円も必要だったのは確かだが、藤井先生や坂口先生の書いた本は、どんなことがあっても読者に繋ぎたかった。
それにしても、山田さんの本は8000冊以上もあり、その他にも貴重な名著が多かったので、このまま読まれないのでは勿体ないし、どうにかして救済したいしその義務があると痛感した。本は出版するだけでは役目が終わらず、読者の手に届いて役に立つことによって、思想が活字になったことが意味を持つ。だが、アメリカ住まいの私の立場では、日本各地の図書館に寄贈したくても、送る手配をすることでさえ難しいので、この問題は大きな頭痛の種になった。そこで先ず拙著だけでも役立たせるために、とりあえず引取ることだけを決断して、優先順位の高い本から700冊づつ選んだ。
だが、大旅行をした中西さんや志村さんの本は、若い人に読んで欲しいので200冊ほど、残りは100冊くらいの救済をすることで、私の責任において買い取ることにしようと決めた。次は保管するための場所の確保であり、幸運にも読者の一人である栗原茂さんが、「町工場の経営を止めて場所があるから、そこに預かって上げる」と言ってくれた。そこで、そのご厚意に甘えてお願いして、東明社の倉庫問題は片付いたのであり、これが東明社の本の買い取り経過だ。
だが、残念なことは最も大事な本に属していた、『宇宙巡礼』が一冊も渡されないまま、東明社がキープしてしまったことで、私は何が何冊か個別数は知らないまま、それがストックとして現在に至っている。それにしても、トラックで運ばれた本の山は厖大であり、栗原さんの家で本の山に目を見張ったが、預かった栗原さんの好意に感謝して、安心してアメリカに戻ったのである。

41藤原肇:2012/01/08(日) 19:48:06
「宇宙巡礼」の「書店」のは読者のためのものである。この原則の確認が何よりも必要であるし、入手困難な拙著が欲しい読者に役立てばと考え、著者割引で買い取り預託することにして,それを基にして運営してきたものだ。また、大量に在庫を抱えた出版社からは、在庫の一部を購入して減らすことを通じて、書店の運営にお役に立つように配慮した。だから、たまいらぼ出版,東興書院、清流出版、東明社、鹿砦社などには代金や送料を支払い、これまで四百万円近く本代を支払ったし、それを「書店」預けて欲しい読者に届けたのは、出版社への著者としてのお礼の意味もある。
だが、一般の書店と同じように考えて、それが奉仕活動の一環だという初志を忘れ、本の売却機関と誤解されてしまい、赤字だとか忙しいという世俗観念が支配し、それが問題を起こしたのは残念なことだった。
私の本は分かり易く書けば売れるが、分からないことに自分で気づいて、自分の頭で考えることが大切だと私は考える。だから、答えは書かない主義の著者であるために、私の本の出版が利益と結びつかないで、在庫になったら申し訳ない限りだが、本は売れれば良いというものではない。
また、売上代金を受け取った時はそれを活用し、名著だと思った本を20冊とか50冊ほど出版社に注文して、私からのプ レゼントの本としてきた。詳しいことについては覚えていないが、中村克己先生の慶応大の最終講義録を始め、岸田秀先生、保坂さんの本、江 口さんの「志に生きる」などがその例であり、名著の贈り物を喜んでもらえたと思っている。ただ、山田さんの二冊の本は得難い名著であるのは確かだが、全体で8000部以上もあったので、その半分ちかくだけ引き取ることにして、それを藤井先生や坂口先生の本とセットにして、欲しい人に原価にちかい値段で提供した。
だから、合計で一万冊以上もの本を預かると申し出たのが栗原さんであり、その親切な好意に対して感謝したのだが、何時の頃か栗原さんは家を建て直すとかで、次の保管場所の可能性について探したら、印刷所を経営するある読者が「預かろう」と言ってくれた。そこで帰国の度に栗原さんに電話したが、固定も携帯も呼び出しだけで連絡がつかない。だが、本の移動は亀山さん頼みだったので、おそらく問題が片ついたことだろうと思い込み、安心しきったのが油断大敵になった。その後になって不可思議な反乱劇の過程で、栗原さんが「東明社の本をちり紙交換に出した」とかで、そんな残酷な文章を読まされて仰天した。
そのほとんどは山田さんの本だろうし、拙著もかなり含まれていたにしても、若い冒険家の西山さんや志村さんの本は、ついぞ書店で見かけたことがないので、彼らの労作や坂口先生の本も対象になり、ちり紙交換にされたのかもしれない。惜しいことだと思うし実に残念である。

42藤原肇:2012/01/13(金) 18:05:10
(高熱と脈拍百が続くという異常事態で、しばし危険を感じて中断したが、回復したので続ける)
不景気とデフレの影響が強烈なために、最近になるほど出版するのが難しくなり、売れそうな読みやすい本しか出ないので、考える力を磨く意図で書いた私の本は、商業ベースではほとんど出なくなった。しかも、自己主張は若い時の産物であると考えて、書き下ろし調の論文は書かずに、閃きを求めて対談形式を好むせいもあり、このところ対談本ばかり作っている。しかも、対談を受け入れる市場がない日本では、私の本は市場原理に反しているので、自費出版をすることが着実に増えている。
こんな事情をあるジャーナリストに話したら、「それはチョムスキー現象だよ」と言われた。私がチョムスキー的な異端になったのではなく、過激な発言として敬遠されるために、チョムスキーでも自費出版でないと本が出ず、時流から外れると大変だという意味だ。そういえば、最近の拙著の多くは出版社が出しても、構造的には買い取りしたものが多く、広告や宣伝の費用も著者負担であり、歴史の証言だから試みて来たが、自費出版に似たものが圧倒的だから、チョムスキー視されても仕方がない。
『賢者のネジ』は玉井さんに出版コストを計算して貰い、たまいらぼ出版から出して貰うことにして、50万円か80万円くらいを支払い、詳細については定かでないが出版だけは実現した。彼は一人で書店経営していたので、本を販売することが難しかったらしく、残部を確か50万円くらいで引取った。日本の税制は在庫の書籍に課税するので、断裁して廃棄処分することが多く、本にとっての生き地獄が待ち構えている。
そんな過酷な運命を回避したいので、出来るだけ本を救う努力をして来たが、その原因の一つは図書館がお粗末で、貧しさのために予算が乏しいことに加え、収容能力に限界があるために、小出版社の本に目配りが届かないし、書評のレベルも低い状態が続く中で、司書の能力の水準も高くない状況にある。
日本の持つ致命傷は公共図書館が、至って脆弱で良い本を所蔵しないで、良く読まれるので俗悪本でも何冊も保有し、大衆路線に迎合して貸本屋化して、良い本でも読者が少なければ置いてない。だが、図書館が本来の機能をはたせば、三千部くらいでも出版可能だのに、図書館の無力性のために出て良い本が出ず、次の世代に資料が残らないでいる。
特に今の日本では売れるかどうかで、本の出版が決まってしまうために、日本の没落にとって決定的な原因になった、森、安倍、麻生、菅などが首相として、卑しい政治をした時代を扱う単行本は、ほとんど存在していない状態である。だから、後世になって時代検証が必要でも、洞察に欠けた新聞や雑誌記事しかないので、それを基にする限り底の浅いものになる。こういった退嬰的な時代精神が蔓延するのは、流れに掉をさす反動化の中で、総てが縦方向の動きに支配され、時代精神が窒息に似た症状を呈す。

43藤原肇:2012/01/15(日) 10:53:22
それに反発するエネルギーがあれば、古い枠組みを乗り越えようとして、勇気を持って啓蒙の意義をかざし、現状打破の行動が知識層の中に発生する。それが行われた珍しいケースが、明治の初めの日本には存在しており、横の繋がりと連帯の意思を表明して、森有礼や西周などの教養人が呼びかけ、明六社が明治六年に発足したことがそれだ。
社会は横の広がりに基づく連帯構造であり、文化や学問に基盤を持つ領域に、当時の日本には優れた人材がいたので、健全な社会意識が息づいていた。その点で現在の日本は見るもお粗末な状況で、学会は学閥として御用学者で固まり、言論界はマスゴミ化して御用メディアだし、庶民は愚民化して大衆になりはて、ケイタイを持ったサルに等しくなった。
だが、明六社に類した運動は皆無であり、それに並行した明治六年の政変が、嘘と欺瞞に包まれた形で進行して、政治の世界は未来を狂わす形で狂い、前代未聞の売国劇が進行中である。また、その相似性を誰も指摘しないが、「明治六年の政変」が矮小化した形で、十数年以上もネガ状態で継続中だ。しかも、その陰湿な脳腫瘍は社会の生命力を奪い、閉塞状態で死の淵を目指しているが、それを感じ取る能力さえ喪失している。
こうした状況下では何が起きても、誰もそれを不審だと思わなくなるし、「茹でカエル症候群」の蛙の運命に、日本が包みこまれているとも思わない。外から訪れたジェントリーの目で見ない限り、このカラバゴス現象は発見できないし、それを進化論として体系づけるには、弱肉強食の側面を持つダーヴィンが、持て囃されるのは時代性からも当然だ。
だが、本当に詳細な現地調査と観察で、博物学や衛生学の目で環境問題を扱い、進化を系統発生の面で捉えた点では、ウォレスの方が優れていたのである。
ガリレオやニーチェも時流を外れていて、生存時に弾圧や黙殺された人物だが、ウォレスが確立した実績と評価は、逆に彼の没後に抹殺されたのは、英国の帝国主義にとっての都合のせいだった。しかし、英国の場合は藤井先生が指摘したように、ニュートンとヤングが陰陽関係の形で、「Royal Society」と「Royal Institute」の共存しており、健全なジャーナリズムがメディアとして存在し、歴史の証言をきちんと残している。
だが、日本の場合は学問さえ学閥と派閥が支配し、メディアは権力の御用機関であり、公文書館や図書館は出来損いで、出版界は個性と使命感を失っていて、文化国家が形骸化したものであることは、近代国家を世界レベルで捉えないと、その不完全さの確認には至り得ない。

44藤原肇:2012/01/17(火) 00:26:51
栗原さんとの出会いが何時か記憶ないが、おそらく25年以上は昔のはずだし、その間に何十遍も会って話をしている。彼は政界や裏社会の事情に精通して、驚くべき人脈を持つ不思議な人だし、熱心に勉強して全体像を掌握した上で、独自の見解を築きあげる異才に属す。私の信条から知人関係において、相手の個人情報や行動に関したことは、公表する失礼なことは避けてきた。
なぜなら、個人情報の公開は背信行為に属すし、余計なことを披露して信頼を失い、情報源を失う危険が余りにも多い。また、お互いに犯さないのが紳士道であり、世界では当然に守るべき礼儀になっている。
しかも、私の人脈には個性的な人物が多いし、彼らの存在は知られない方が良く、普通の日本人には毒気が多過ぎて、危険であるといえる存在が圧倒的だ。だから、影響を受けやすい人に紹介しない方針だが、本の運搬に関して世話になるので、独自性が乏しく影響され易い亀さんに、栗原さんは危険だと思ったが仕方がない。
だが、亀山さんが事ある度に引き合いに出し、栗原さん個人への疑惑を盛り上げて、不要な不信感を演出していたので、われわれの書関係が険悪なものでなく、音信不通に過ぎないことを証明し、積もった誤認を解く必要を感じた。そのために迷惑にならない範囲で、二人の付き合いについて物語る。栗原さんは人脈を構築する点で天才であり、博識と研究熱では名人芸を駆使して、多くの人から信用される性格の持ち主だし、天皇を敬愛している愛国者の代表だ。
彼は強烈な国家主義思想の持ち主だが、そこらの右翼とは全く格が異なり、切腹を実行する勇気と気概を持つので、私も特質の読者として交際してきた。彼が編集長つきの相談役みたいな形態で、『世界日報』の編集部に深く関係し、文鮮明会長に直接会う機会を求めたのは、統一教会の本音を調べ出すためだった。天皇に対しての文鮮明会長が示す態度が、失礼だったら刺し違える覚悟を抱き、韓国での最高会議に脇差持参で行った、そうした身の上話を聞く間柄だった。
また、皇室のある部分に近い人であることは、『理は利よりも強し』を出した時の経験で、私自身が直接に確認済みだった。皇室の系図に載っている何人かの皇族に、贈呈する言葉と署名を求められて、それを実行した時の思い出は印象的だ。しかも、高松宮の喜久子夫人に親しいので、光輪閣にまつわる秘話を彼から聞き、プリンス・ホテル物語の参考にしたのは、『みかどの肖像』を読んだ頃かもしれないが、それにしても奥行きが深い人だった。

45藤原肇:2012/01/17(火) 12:12:01
私自身は別の人脈を経由することで、皇太子時代の今の天皇に献辞を添え、『アメリカから日本の本を読む』を差し上げた経験がある。「まえがき」で『世界書紀』について論じたことで、続編を出す構想を書いていたのに、文芸春秋社長との紛糾の悪影響のために、絶版の形で抹殺された不幸な本だ。オールド・リベラリストであるのを誇りに思うので、家族としての天皇家に対して、私は共産党のように恨みを抱いたり、反感を持つ偏狭な人間ではない。
憲法に国民の象徴だと書いてある以上は、日本の憲法では主権者は国民だから、その精神を尊重しろと権力者に主張するが、天皇家のメンバーの個人に対して、尊厳を護って政治に悪用するなと考える。また、政治に利用するために国体を持ち出し、自分たちの利益のために天皇を使い、天皇制の悪用を狙う超国家主義者が、変な動きをすることを危惧するので、私は「国体」という言葉に敏感である。
その点をしっかり区別しないと大変で、かつての「国体明懲運動」の発狂現象を繰り返し、日本の運命を狂わせるのが心配だ。日本には過去の夢に酔い続ける人が、支配者層の中にとても多いために、昭和天皇がA級戦犯の合祀に対して、強い不快感を懐いていたので、靖国神社には行かなくなっている。
この当然である事実を無視した首相が、小泉純一郎のように国際世論を無視し、軽率にも靖国神社参拝を強行して、「靖国カルト」の狂気と糾弾されても、代議士たちは靖国神社参拝を繰り返す。しかも、この事実は天皇家に対し失礼だのに、松下政経塾で洗脳教育を受けた、野田のような超国家主義の亡者が、泥鰌を装い首相化する酷い状態が支配し、日本の亡国は秒読み状態になった。

46藤原肇:2012/01/18(水) 11:04:17
私の読者には二、二六事件の関係者が多く、彼らから歴史の真相を学ぶ目的のために、不思議な形で付き合いが続いてきた。国家主義を信じている者もいれば、愛国主義者の栗原さんのように、天皇を敬愛する人も混在するが、読者層が多様であるのは悪いと思わない。中江兆民は頭山満と親しかったが、信条が違っても人格として交友関係は成り立ち、大人同士の人間的なつき合いなら、他人がとやかく言うことではない。
だから、栗原さんが皇室の家系図のコピーを示し、この人たちに献辞とサインをして欲しいと言った時に、確か『理は利よりも強し』だったが、私は本の内容から考え喜んで署名した。また、皇室との関係のことで驚いたのは、英文で「ホロコスミックス論」を書いた時だ。「HOLOCOSMICS : Beyond the new horizon of an unified theory in the Meta-Sciences」の記事が掲載されている、「Bulletin of International Earth Environment University, IEEU」の Volume 21, January 2000 issueに、献辞と署名をした後で栗原さんが、わざわざ東宮に届けたことがあった。
皇太子が「もう読んでいます」と答えたと、栗原さんが報告した時に仰天して、皇室の持つ情報網の凄さに私は驚き、外務省とは雲泥の差であると思った。
それに彼がもたらす公安情報の正確さは、現役の警察官僚の読者のものよりも、はるかに的確で核心を突いていた。しかも、裏経済の実情や人脈に関しての情報も、新聞記者には真似できない凄さがあった。そのお陰で外国の記者を相手に、カマをかけ誘導する時の武器として、栗原情報は予想外なほど役に立った。ニュース・ソースが誰かを明らかにすれば、それは裏切り行為として許されないし、背信行為は信用を損なってしまうが、この程度なら栗原さんも許すと思う。だから、既に時効になった昔の話だから、もう一つだけゲームの秘手を明らかにする。
歴史の学徒として証言を記録したのだが、匿名記事の形で書いた記事の中には、高松守保の名前で書いたものがあり、栗原さんとの会話からヒントを得て、エピソードに織り込んだケースもある。その情報が内容的に凄かったので、高松守保とは誰かと取り沙汰され、公安関係まで聞きこみに動いたし、守保は保守の裏返しの文字であるから、左翼の人間の執筆だと噂になったと、編集長から聞いて笑ったことがある。石井紘基議員の刺殺や二千円札が出たり、自衛隊のイラク派兵などの記述から見て、栗原さんと頻繁に会ったのは、世紀末から小泉政権登場にかけての頃が峠だろう。
守保は軍隊用語で酒保のことを意味し、酒保は軍人の飲み屋のことだから、高松守保は高松宮のアナグラムで、栗原さんが親しく交際していたという、高松宮喜久子さんの名字だったが・・・。

47藤原肇:2012/01/19(木) 21:41:34
藤井先生が口癖にしたニーチェの言葉に、「龍が蛇に咬まれて死んだ例はない」がある。だから、各国の優れた情報機関のプロは、たとえ新聞記者の肩書出来ていても、彼らの能力と性格の剛健さから、龍と呼ぶに相応しい迫力を秘めている。私は龍の仲間になる鍛錬をしたし、龍の仲間に加えられるのに栄誉を感じて、見下げられないように努力をし続けた。岩場での試練と五輪体験のお陰で、蛇などを恐れない胆識と心構えを身につけ、何とか世界を舞台に生き抜いてきた。異なる哲理と世界観を持っているが、裏の世界の人間は表に出なくても、栗原さんも龍の仲間に属すと思うし、彼が本を預かってくれたのを感謝して、好意に甘んじ米国に戻ることにした。同時に「宇宙巡礼」で「書店」開設し、読者への橋渡しを亀山さんが引き受け、私にとっての難問が一つ解決した。
その後に別のルートで得た情報では、栗原さんは皇室のお庭版として、特殊な任務についたとかいう話だった。天皇を敬愛する思想の持ち主が、舎人として仕事をするのは適任でも、周辺にいた侫臣集団が考えだした、八紘一宇や国体の妄想に被れることは、栗原さんならばないと私は予想した。彼の知識欲なら愚劣な妄想と思想の違いを理解し、軽率な思い込みはしないと考えて、彼なら良い情報マンになると期待したが、他の人にはこの種の期待は託せない。なにしろ、世の中には聖域と結界があって、汚れたり未熟者が無用心に踏み込めば、罰と毒の猛威に耐えられないために、発狂したりゾンビになることが多い。だから、昔から龍が住む聖域に結界を結び、一般の人は近付かないという掟があるのに、最近では区別が差別として忌否さる。
そして、平等主義が蔓延する今の日本では、修行不足でも権威の座に座れるし、大臣や芸術家を名乗ることが放置され、カネや縁故で聖域に踏み込め、賎民資本主義の形で殷賑を極めている。だから、本を引き取るためだとはいっても、龍人に属す栗原さんに未熟者が接触すれば、龍と亀の出会いになる恐れがあるが、そうした危惧が現実になってしまうことになった。人間の出会いは好奇心だけではだめで、鍛錬の修業を真剣にやらない限りは、身の破滅の事態を招くことが多いが、亀が龍の毒気に中毒してしまい、「国体」ウィルスに感染してしまった次第。これがあの愚劣な反乱劇に伴う最後通牒に至る、思わせぶりな自己弁明の虚像が、いかにお粗末なものを背景にしており、断片ではもっともらしく組み立て、ストリーを作ろうと小細工を弄しても、最後には馬脚を露呈してしまう。

48藤原肇:2012/01/20(金) 11:42:28
もう一人の素晴らしい行動力と洞察力の持ち主に、長年にわたりブラジルで新聞記者を体験した、思想家の玉井礼一郎さんがいる。彼は「法華経」に精通した宗教家であり、光寺の住職として大僧正として、たまいらぼ出版を経営して言論活動を展開していた。彼は新聞記者として鍛えられ、優れた執筆力を持っていたこともあり、何冊もの名著を書いていたので、お互いに読者関係で交友を維持し、創価学会の欺瞞性を語りあってきた。日蓮がらみで学会員だった過去は、脱会して強烈な批判の書を生み、そのせいで脇腹に二十針も縫った、脇差による大きな傷跡の持ち主だから、胆識の点では凄い迫力を秘めた人だ。
彼は大僧正という宗教家の面で、文鮮明には尊敬を払われて、招かれて会合に出たりしていたことから、統一教会に関して私の情報源だった。だから、栗原さんと玉井さんから得た情報は、ある意味でディープスロートとして、外国の諜報関係者から取材する時に、私が提供する情報として役立った。なぜならば、1990年代の自民党政治の背後には、統一教会の影響力が濃厚で、日本の政治力学の真相を理解する上で、日韓関係の側面からのアプローチが、意外なほどの威力を持っていたのである。
しかも、私には別の韓国での情報源もあり、それを総合すると自民党末期から、民主党政権の登場の過程で、なぜ本貫が半島と結ぶ政治家が、続々と首相になった秘密が分かるのであり、それに関して私は書かないで出来た。しかし、洞察力のある私の読者の中には、 そこまで読み抜いた人もいたはずで、これからその指摘が始まりそうだと思う。なぜならば、日本の没落に対して決め手になる、松下政経塾内閣が登場したことが、それと整合的な関係を示している。幾ら鈍感な日本人の頭脳とはいえ、ヒルズ族に続く亡国政治には、ネオコン路線が密着していたのだし、それが『さらば暴政』を生んでいる。こういったことが日本没落の原動力となり、日本の電子機器メーカーが束になっても、サムソンの足もとにさえも及ばず、その他の面で韓国や中国に活力でも、圧倒されている原因になっていたのだ。
そのことは坂田画伯との対談において、それとなくほのめかしておいたことで、下手にこの問題を取り上げるなら、ラシスト扱いの誤解を受けることになる。昔の植民地は盟主国を手本にするもので、それをフランス留学時代に観察して、フランスと旧アフリカの植民地関係が、日本と朝鮮半島の二カ国の関係に、相似象として良く感じ取れたものだ。今になって思えば優れた特派員には、ユダヤ系の人が多かったように感じるが、北朝鮮や満州が絡む問題には、ユダヤ人のホームランドが関係しており、そのうちこれが問題になるはずである。だが、このツランが絡む問題に関しては、ハンガリーやトルコ辺から煙が立ち、次の世代が取り上げるので、私は成り行きを遠望して楽しむことにしている。

49藤原肇:2012/01/24(火) 14:36:03
上の記事を書いた後でインドに飛び、目下のところブッタガヤに滞在しているのは、きっと「生命知の殿堂」の最後の部分に、「般若心経」のマントラを書いて、それで締めくくった因縁だろう。
釈迦が瞑想して悟りを得たという菩提樹の下で瞑想するのは、何にも増して快適で清々しい気持ちになるし、それが実現できた巡り合わせの醍醐味。
インド山日本寺で夕暮れのお勤めに参加し、そこで「般若心経」ノギャーテイ、ギャーテイ、、、に唱和した感激は忘れ難いものになった。

50藤原肇:2012/01/25(水) 13:51:05
釈迦が六年間にわたり断食と苦行をしたという、前直覚山を訪れて分かったことは、この洞窟がチャート「ケイ素」でできていたために、彼はノイズに支配され続けたに違いない点だ。
「生命知の殿堂」を読んだ人なら、ドロマイトに秘密の力が備わっているのであり、石灰岩の岩山のドロマイト化したところを選ぶべきだったのではないか。
そんなことが収穫の一つとは、弁天小僧ではないが「お釈迦様でもご存知ない」ということか。インドに出かけて来た成果としてこんな観察をした次第。

51千々松 健:2012/01/26(木) 17:58:18
ドロマイトはその発見者であるフランス人の地質学者の名前に由来するという、そのドロマイトから「ドロミテ」という靴のブランドを思い出す。その昔、好日山荘という店で女性用スキー靴を初めて購入したのだが、それが確かにイタリアのドロミテ製だった。
人名に由来する北イタリアのドロミテ山塊は6000万年前にアフリカ大陸とヨーロッパが衝突した時に隆起してできた地形で、そこには3000m級の岩山が18もあり、どれも主成分はドロマイト(石灰岩にマグネシウムが結合してできた苦灰石)だそうだ。石灰岩は浅い海の海底にあったサンゴ礁で、二枚貝のメガロドン、巻貝のアンモナイトの化石も沢山出てくるというから、地球生命の悠久の歴史が刻まれていることになろう。
ゲーテはイタリア旅行中にドロミテ山塊の西の中心地に当たるボルツァーノに泊った(1786年9月10日)らしい。イタリア紀行の後で、ゲーテの思考は大きく変わったというから、イタリアの芸術文化だけではなく、地質学上の影響も多分に受けたのかもしれないと想像する。

52藤原肇:2012/02/09(木) 21:44:19
『プノンペン・ポスト』のベッカー特報担当記者から、メタ・サイエンスやエネルギー問題に関してインタビューしたいと言われ、ちょうど良いチャンスだと考えたので、彼と東南アジア問題について対談を試みた。対談は春には記事として雑誌に出るはずである。第二次世界大戦に使った以上の大量の爆弾が、カンボジアという小国に落とされた事実や、アメリカの資源戦略と侵略性の酷さについて、この対談で知って驚いただけでなく、ベトナム戦争に偏った知識しかない、自分の無知を大いに反省させられた。
それにしても、アジア全体や東南アジアの問題にについて、自分を含め日本人は余りにも何も知らない。
インドのデリーで地質学会が開かれるので、かつて大学生の頃にヒマラヤ山脈を越えて、チベット経由でインドに行く計画を立てて、その準備に北京の地質学院に留学して置き、ヒマラヤの研究をしよと考えたこともある。だが、レベルが余りに低かったことが分かり、構造地質学の世界一の先生に学ぶことを考えたのに、ソ連政府の留学生試験に落ちたお陰で、フランス留学したことは『生命知の殿堂』の中に書いた。そして、世界各地で仕事をした人生の中で最後に残ったのは、インド、チベット、アフガニスタンであり、これらは仏教伝道の歴史と結びつくので、人生の最後の時期まで取っておいた。
だが、ベッカー記者との対談をしたことで、インドやチベットについての体験に欠け、何か大切なものが脱落していると痛感し、突然インドに出かけようという気分に支配され、インド大使館にピサを取りに出かけた。そこで体験したのは想像に絶する官僚主義であり、ピサ申請のシステムのデタラメさと、尊大な役人根性にきりきり舞いをさせられ、不吉な予感に支配されたとはいえ、航空券の手配が既に先行していたから、バタバタという感じで飛行機に飛び乗り、インドの大地に降り立ったのがコルカタだ。

53藤原肇:2012/02/11(土) 22:58:14
なぜインドかという疑問への答えを考えれば、若かった時代にその源流があるのは確かで、小学生時代に読んだ『西遊記』の孫悟空が、三蔵法師と唐天竺を舞台にした冒険談が水源らしい。これまで何度も『西遊記』を読んだが、そこに秘められた錬金術の寓意に魅せられ、それが最後には秘伝探求になり、フィボナッチ数列にと係り結び、藤井先生との出会いを通じて、壮年期にそれが『間脳幻想』の結実になるが、人生は不思議な縁の組み合わせだ。
そして、中学生がわくわくした思いに包まれて、河口慧海の『チベット旅行記』を読んだことが、インドやチベットへの夢を掻き立てたことで、ヒマラヤ周辺への関心を盛り上げたのである。また、高校生の時代に座禅を体験したことが縁で、天竜寺の関牧翁老師との文通が始まり、達磨の墨絵を貰ったりしたことで、枯山水の石庭への関心が山と結びつく。そして、丹沢の沢歩きから登山趣味に取りつかれて、その延長戦上に地質学が結びつき、学生時代の体験が『山岳誌』の誕生を生んだが、それが文学少年の終止符になった。
中学の半ばまでは日本文学を読み漁って、漱石と鴎外が日本文学の最高峰で、その下に藤村がいると思い込んでいたのに、ゲーテやトルストイで世界文学に触れ、ショローホフやロマンロランを読むうちに、日本の枠組みが桎梏になり始めた。大学二年の時に得た情報の一つに、五年後にインドのニューデリーで、国際地質学会が開催されるというニュースがあり、チベット経由のインド行きを思い立ち、その準備のための地質の研究を兼ねて、北京の地質学院に留学を考えた。だが、学問のレベルが低いと知ったのと、中国とインドが国境紛争を始め、この計画は実現しないで棚上げになった。
そして、ソ連への留学が駄目だったお陰で、グルノーブル大学のデベルマス先生に師事し、フランス体験になったことは『生命知の殿堂』に書いた。一つの失敗が別の幸運を招き、「塞翁が馬」を二十代の私は体験したことで、紆余曲折の「日本脱藩」が実現し、思いもかけない人生を体験することになった。「青春時代の失敗を伴う挑戦は、壮年時代の輝かしい勝利や、老年に手にする成功より価値を持つ」というが、レニングラード大学に留学できなかったお陰で、私の人生は運命の女神の祝福を受けた。

54藤原肇:2012/02/12(日) 10:35:59
1960年代は登山史では興味深い時期で、ウィンパーがアルプスの初登攀に挑戦して、ちょうど百年目に当たる年が次々と並び、フランス山岳会が記念山行を企画した。そのお陰で幾つかの山行に参加し、夏の間はとても忙しかったとはいえ、運命が興味深い出会いをもたらせた。当時は未だ自由に海外渡航が出来ず、一人五万円しか外貨が買えなかった時代だが、アメリカに留学して日本に帰国する前に、ヨーロッパの横断を試みたその人は、ギリシア買った中古の甲虫型のWVに乗り、グルノーブルを通過したのだった。
この日本人が「この旅行記は面白いよ」と言って、小田実の『何でも見てやろう』を置いて行ったが、その内容は私にとって衝撃的だった。特に最後のインドの部分が強烈で、私はいつの日にかカルカッタを訪れて、小田さんの体験を実感しようと思い、インド関係の本を取り寄せて読んだが、堀田善衛が書いた『インドで考えたこと』は、「目から鱗」に属す強い印象を受けた。だが、1970年代と80年代前半の私にとっては、インドやチベットは無縁の結界であり、むしろ、岩や砂の世界と密着して生きたので、泥や微生物とは縁が遠い状態だった。
だから、それまでに仏教の核心に触れる機会が生まれ、インドやチベットに関心が湧いても、その地に行く計画はしないことにして、岩と砂の世界に生きることにした。その結果、私はパーム・スプリングスの砂漠に住み、そこで30年近くも生きたことによって、遊牧民的な発想の精髄を学ぶことで、『Japan’s Zombie Politics』や『さらば暴政』を書き、リーダーシップを論じる足場を構築した。そして、次の段階で智慧の世界への移行を試み、『生命知の殿堂』をまとめた人生を得た。
1980年代の後半のある時期だったが、集英社のロス支局長と会った時に、夕食を招かれてローリーでプライムリブを食べ、その時に出会ったのが藤原新也さんで、奥さんと一緒のアメリカ旅行中だった。どんな話をしたかは覚えていないが、若かった彼がインドやチベットを放浪し、死と直面した感性を写真集にまとめ、大地と密着した彼の視座の中には、フランシス・ベーコンやモンテーニュの視座を好む、私の対局にある何かを感じ取った。
同じ藤原でも右脳と左脳の違いが鮮明であり、藤原新也が若い時代に訪れたなら、藤原肇は老境になってから泥の世界を訪れて、生と死について思索するのがいい。そんなことを思っていたら東明社の吉田社長が、ユーラシア大陸を放浪した手記があり、それを出版したいので読んだ上で、解説を書いて欲しいと連絡して来た。そこで喜んでゲラを読んで見たら、私がやりたかったことが書いてあり、若者が這いつくばって仏教の遺跡を訪れ、生と死の問題と格闘していた。
だから、素晴らしい作品だとの読後感を持ち、『物言わぬ獅子の咆哮』の著者の山西さんも、藤原新也さんの仲間に属すと痛感した。そして、私がインドやチベットを訪れる時期は、死と直面する70歳を過ぎた頃で、生命についての智慧の蓄積を試みて、心の準備を整えて置く必要があるが、ある日そんな衝動が襲うと予感した。
すると案の上のことが発生してしまい、アメリカ訪問中に「がん」だと診断された。そこで実地調査のために手術を受け、その体験をまとめた『生命知の殿堂』に、最後の締めくくりにマントラを引用し、『般若心経』のエッセンスでもある、「ギャティ、ギャティ、パラギャティ、パラソウギャティ、ポウジ、ソワカ」と書き込んだ。そうしたら、かねて危惧して警鐘を鳴らしたのに、核兵器の原発を並べ立てていた日本は、核爆発による放射能汚染に見舞われて、「中曽根大震災」の後始末で大混乱だ。
しかも、私も体内被曝で免疫力低下が顕在化し、マイコプラズマに属す感染症のために、生と死の問題を見つめる機会に直面していた。だから、泥の世界についての対談をした後で、五十数年ぶりに『チベット旅行記』を開いて,河口慧海の足跡をたどってみたら、私が乗った飛行機はカルコタに着陸していた。

55千々松 健:2012/02/13(月) 21:47:31
『羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』
最近、この呪文は元はシュメール語で、それをサンスクリット語から更に漢字で音声だけを記述したものらしい。日本語のカタカナ表現では『ギャティ ギャティ パラギャティ パラソウギャティ ボウジ、ソワカ』となる。
昨年の春に創作した自作を再度ご紹介します。
『カテカテ ハラカテ ハラミカテ ハナハラミカテ ホシソハカ』
参考:
カテは「神に向かって」往くコト。
ハラは「波螺」で螺旋状の渦のようなカタチ。
ハラミは「波螺の内容」を示している。「前の二つの数を加えて次の数にする」という数理操作(パラメーター)のコトでしょう。フトマニやフィボナッチ数列に相当します。サンスクリット語のハラミータに近い。
ハナはハンニャ=般若で大いなる宇宙意識レベルの智慧です。
ホシソハカは「星ぞ墓」か? ヒトは死んだらお星様になると言い伝えられて来たから。
通常のマントラに「ハナハラミカテ=般若波羅蜜羯諦」を加えています。

「般若心経」は仏教大乗派が小乗派を批判したコピー文と考えていますが、この最後の真言は両派に共通するものとして理解したいと思う。更に、シュメール語とヤマトコトバは表意と表音が近しい点で似ているようです。

56藤原肇:2012/02/19(日) 21:54:58
コルカタの空港から町の中心のエスプラネードまでは、市民の乗るバスの窓から街路の景観を観察したが、何となくデジャ・ビュ感覚に支配されたのは、小田実の『何でも見てやろう』の記述が潜在意識に残り、それが次々に蘇ってきたせいだろう。町の中心部を数時間ほど散策しただけで、この錯雑とした町から逃げ出したくなったのだが、汽車のキップは駅に行かないと買えない。しかも、座席数しか発券しない奇妙な制度のために、当日売りのキップの入手はほとんど不可能だ。そこで旅行業者に行き手配を依頼したら、列車はどこに行くにも満席で、その夜の11時20分発の列車ならガヤまで行けそうだとのこと。だが、座席が確定するのは夜の八時過ぎであり、座席の確認のために駅に行かなければならないが、キップ代の四割の手数料を払って脱出にとりかかった。
夜の七時に駅に行って一時マ以上も行列した結果、二等寝台の座席だけは辛うじて確保できたが、コルカタからガヤまで260kmで、料金は僅か600円だが七時間半かかるらしい。インドで一番安い交通機関は汽車だから、駅は乗客の洪水でホームに人が溢れており、いくら待っても列車がホームに到着しない。多くの旅客はホームで横になって眠り始め、列車が到着したのは明け方の四時過ぎだし、ガヤに到着したのは七時間遅れの昼過ぎであり、ブッダガヤに着くまでの旅は一日がかり以上の計算だった。それでも、釈迦が瞑想して覚ったという菩提樹の下で座禅し、釈迦や河口慧海の追体験を出きたのは感激であり、慧海が「菩提樹の梢に月のとどまりて、明けゆく空の星をしぞ思う」と詠唱した気分を偲び、結局はブッタガヤに五日間も滞在してしまった。
もちろん、マハボディ寺院の本殿には毎日のように通い、大地が発するエネルギーを全身で吸収し、チベット僧たちの礼拝の熱気を身近に感じたし、日本寺では「般若心経」の響きを浴びて感動が渦巻いた。また、釈迦が六年も苦行をしたという前正覚山の洞窟が、チャートで出来ていたことを確認したが、そこで骨と皮になった釈迦を追体験するかのように、下痢と風邪でエネルギーを消耗して、自分の免疫力の低下を痛切に感じ取った。
それでも力を振り絞ってラジギールを巡礼し、仏陀が弟子たちに「法華経」を説いたという、霊鷲山や多宝山に登ってありし日を偲び、ナーランダーでは三蔵法師も学んだという、当時は一万人以上の学僧がいた大学の跡を見たことで、仏教の経典を求める旅が巡礼であり、これはノマディックな生き方を示していると痛感した。


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