したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

3.11以降の世界と現代文明のゆくえ

30藤原肇:2012/07/28(土) 23:01:26
夜中には雷鳴や閃光が闇夜を貫いて走るし、朝霧に包まれる空から雨粒が降り注ぐ霧島は、生命力を水で表現する地球の息吹を感じ、われわれの故郷が水の惑星であることを実感させる。悠久の時間の流れのたゆといを実感させる、大自然が伝えるこの懐かしい気分は、人間が作った文化や社会レベルの執拗低音ではなく、もっと根源的な自然のリズムと結びつく、生命の躍動を伝えるパッソ・オスティナートで、それはフィボナッチ数列のファイ律動である。そんな地球が生み出すリズムの快感に魅せられ、一年の半分近くを山歩きに費やすことで、北アルプスの穂高連峰の岩壁に遊んだ時代が、『山岳誌』の章句の中に刻印として残る。
あの頃は人生における疾風怒濤の時代で、大学一年の時は岸内閣打倒に熱を上げ、二年の夏季実習を栃木県の川俣ダムで体験し、後背地の地質調査をやったことにより、構造地質学や水資源の問題に強い興味を抱いていた。当時は秋葉ダムを始め奥只見や佐久間ダムなど、日本中がダム工事で賑わっていたし、黒四ダムなどの大計画が次々と発表になり、私は日本のダム建造能力が世界一だと思い、それをいささか得意に感じていた。
だから、フランスに留学した時に将来の抱負を聞かれて、コンゴ川にダムを作るような大計画か、サハラ砂漠の緑化をやりたいと答えたものだ。そうしたら、「世界最大のサハラ砂漠は大切な自然だから、後の世代がつきを眺めて瞑想する場所として、人手を加えずに残して置くことは考えないか」と指導教授に言われ面食らった思い出が懐かしい。
大学に入るのは山岳部のメンバーになるためで、その頃アンナプルナに出かけていたから、京都大学を受けて「桜の花散る」が続いて、浪人した後で埼玉大学の学生になったが、共に外国語としてフランス語で受験できたからだ。
というのは、中学時代から文学少年だったために、フランス語を独学からアテネフランセで学び、高校時代は御茶ノ水周辺の大学で、モグリの学生として明治、中央、日大などで授業を聞いた。
高校時代の後半は英語の授業を取らす、「こんな汚い言葉を口にしたら、フランス語の発音が濁る」と主張して、フランス語を専ら学んだとことの天罰とでもいうか、英語の能力は中学生のレベルだのに、その後カナダとアメリカに40年も住んだのだから、人生というのは実に皮肉な結果を生むものだ。
その後は市谷の日仏学院の学生になって、カトリックの神父から議論の仕方を学んだが、一般教養のほとんどはこの時に身につけたし、沢歩きを中心に山に親しむ青春を楽しんだ。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板