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最近読んで印象的だった本

216藤原肇:2015/12/09(水) 12:31:28
インドネシアは東南アジアにおいて、最大のムスレム人口を持つ国だが、サルタンが君臨する土侯国が誕生したのは、1161年にスマトラ島東海岸であり、ペルシアとインド商人の支援に基づいていた。もちろん、それ以前のインド洋は交易で栄え、季節風を利用したフェニキア人や、アラブやインドの商人たちの手で、香料を始め食料や繊維の取引が行われていた
。更にそれは、マホメットによる布教活動の影響で、ダマスカスに成立したウマイヤ王朝に続き、750年にバクダットに誕生して500年も栄えた、アッパス王朝の商人たちの手により、バスラやホルムスの港を拠点に使い、イスラム帝国の勢力圏が発展している。「シンドバットの冒険」はその代表で、インドの香辛料やセイロン島の宝石などが、アラブやインド商人が扱う商品として、中東世界に大量にもたらされていた。
また、「思いがけない発見」を意味している、セレンディピティと言う言葉の由来が、セイロン島のジャイヤ王の息子による、冒険旅行の成果だった点からしても、インドとペルシアを緊密に結ぶ、セイロン島の存在を物語っている。
更に、モンゴルが元帝国を築き上げてから後は、インド洋は海における幹線航路になり、続いてポルトガルを先頭にした船乗りが、インド洋と大西洋を結んだことで、スペインとオランダに続いて、英国がアジアに商圏の拡大を試みた。そして、植民地主義がアジアの収奪を開始し、最悪の事態が英国の東インド会社であり、インドに対しての徹底的な収奪と,老いた清国を相手にしたアヘン戦争だった。
この時期の日本は鎖国体制を敷いており、長崎の出島を唯一の貿易の窓口にした形で、オランダと清国を相手に交易を行い、専ら国内の自給自足の経済を確立したが、アヘン戦争と黒船ショックで開国したのだった。
だが、幕末と文明開化による開国は、西欧の技術文明の取入れとして、ハードウエア中心主義であったために、制度としての文明の輸入が主体で、自らのソフトの確立の面で多くの問題を抱えていた。それは翻訳文化の持つ欠陥であり、西周や中江兆民を始め明六社の同人の手で、抽象的な概念と用語を作ったが、言葉としての単語は誕生していたとはいえ、学問としての意味論を見落としていた。
結果としての成果に目を奪われてしまい、技術の取り込みに熱中したので、注目や観察までは実行したが、推論の重要性を見逃したために、物や事の背後の精神を軽視した。だから、日本人のわれわれに欠けているのが、意味論の重要性についての理解で、類似性を発見し確認することに、価値の根源があることを見落とした。そのせいで、日本語として議論は行われても、概念の定義づけを軽視するために、各人の思い込みの披瀝で終わってしまい、正確な理解と納得の不在が支配しているが、それに気づく人が至って少ないのである。


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