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根本・珪水なんでもコーナー

154根本敦史:2005/10/12(水) 20:14:21
最近こう思います。人間は一種の「場」です。人間各人の個性として現れる様々な表現や症状、性癖等は、その人が感じている(感じさせられている)「場」により、拘束されます。では、各人間が感じている「場」とは如何なる情報から構成されているか。また、その範囲は。縁を考える際、珪水様が福沢諭吉の「学問のすすめ」を読めとおっしゃいましたが、自分という「場」に福沢諭吉の哲学、情報を刷り込む。自分という「場」への栄養補給であり、「場」の拡大です。意識をすると、自分が感じ得る「場」も拡大するでしょう。あらゆる空間、ものに意識を向け、それを自分という「場」に織り込んでしまう。その時、私はあらゆる空間にもなり得るのでしょう。私は常にこの自分という「場」の一種のブレと戦っています。要らぬ情報、ノイズが入り、本来、あるべき「場」に影が差し、不安になります。例えば、読む本が自分という「場」を拡大・変質させることもあり、時にはノイズとして自分という「場」を汚すこともあります。珪水様のご指摘により、常に気付かされることは、大地とのコンタクトであり、自分という「場」が大地とともにありたいということです。四つん這いになること、なるほど、手で大地に触れる。また、「四」ということ。円の天に対する四角の大地。アナログの世界ですか。昔、元極気功の張先生がテレビで紹介された際、それを解説する帯津先生が、人間という「場」に何らかの作用をもたしている、との解説をされていました。張先生の手が人間という「場」に作用させるのです。手足の四で大地に触れる。ふと、地面に横になり、大地に触れたくなりました。「体が資本」、「資本家になれ」という珪水様のお言葉が身に浸みます。


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