したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |
レス数が900を超えています。1000を超えると投稿できなくなるよ。

<長文・連投> HYPER 雑談スレッド II <通な議論>

1extright:2004/06/28(月) 00:40
★★★ 必 読 「この掲示板利用にあたって/管理人」 ★★★
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2470&KEY=1040148566

ここは雑談スレでは敬遠されがちな 長文、連投 OKスレになりました。
何処かのスレで気になった一文について詳しく聞いてみたい時、ひとこと申し述べたい時、
更に議論に発展しそうな話題にと、幅広くご活用ください。

[ご注意]
 ・古参者にとっては、新ネタ旧ネタ繰り返しが延々となされる様に感じるでしょうが、
  そこにこそ新たな発見もあるかもしれないという、柔軟な考え方で進みましょう。
  うっかりさんが現れても叩きはやめましょう。
  何故そういう考え方に至ったのかを聞き、理解しあう事が大切です。
  言葉とは何のためにあるのか、今一度ロイのスタンスを学びましょう。

※ご利用前に
 ・一度は全てのスレに目を通し、これまでの雰囲気を掴んでおきましょう。
※コテハン推奨
 ・これは議論へと発展した場合にどれが誰のレスなのかを判別し、混乱を防ぐ為です。
 ・また、板の「検索機能」によって過去の意見を参照する際にも便利です。

693N:2010/01/20(水) 01:37:06
ぽっかりと春のように流れる時間があり、
嵐のような強風に千々に乱れる時間があり、
俺の経験した看取りはそういう風だった。

自宅ではなく病院でチューブだらけになってのそれであったし
告知なしでいったから、話しにも距離が生まれ
時にはそらぞらしさが入り交じり。数十年経った今も何か複雑な思いが残っている。
思い起こせば、あの時の俺は人の祈りを受け容れることなどできなかった。
おそらく今でもそうだ。
タターが学んだ「多くの貴重なこと」が言葉になるものなら
知りたいと思う。
あぁ、もちろん今じゃない。
それが数年経っても「言葉にならない無形の何か」であるなら あきらめるw。

ただ、時々タターの言葉に飢えることがある男もこの空間にいることだけ
一応伝えておきたい。

694N:2010/01/20(水) 02:23:23
いま急にだが、最後の部分には「w」をつけ加えて置きたくなったw 
よろしくw

695タター:2010/01/21(木) 06:58:51
2010年1月29日朝7時半。
ほぼ24時間前、愛する家族を見送った。

いま、俺は満たされて
同時に
どこかふわふわとしている。

俺がこうしたかったと望んだ、ほぼそのままの看取りができた。
静謐で、穏やかな、よい死だった。

家族が重度の中途障害者となった時から
俺が見つめ続けてきたその一点は
成就され、
果たされた。

喪失感はなく
家族は今でも近くにいると感じる。

満たされた、けれど、どこかふわふわと非現実的で
いつまでも逝った人の存在を感じながら
こうしてただ座っていたいような
不思議に軽やかな心地よさと
軽い疲労に似た虚ろさがある。

今、死は生の傍らに寄り添う、好ましい伴侶となった。
これを寿ぐべき、感嘆の言葉を俺はまだ見つけていない。
全てを肯定する――死をも苦痛をも含めて肯定し、寿ぐ言葉があればよいのに。


ああ


あいしている


が、一番近いかもしれない。
また、何かを書くよ。きっと、たぶん近いうちに>N

696タター:2010/01/21(木) 07:08:53
落ち着いているつもりで
きっと うろ が来ているのだな。

家族が亡くなったのは2010年1月20日――昨日――だ。

あと9日、一緒にいられたら、と一瞬空想してしまったよw
でも、昨日朝は死ぬにはもってこいの穏やかな日和だった。

うん、これでいい。

697N:2010/01/21(木) 18:45:48
遠くから合掌させてもらいます。 安らかならんことを。

698N:2010/01/21(木) 18:59:40
御霊の安らかならんことを。

699HRK ◆l/an/smhrk:2010/01/21(木) 21:28:52
ご冥福を祈らせていただきます。

700N:2010/01/26(火) 00:41:03
自分の場合 喪失感はずいぶんあとから来たな、
あいしてる、なんて絶対言えないし言う気もない相手だったにもかかわらず。
今も生きているという想定の夢を見てしまう。 そして目覚めて混乱し
やがて、もういない事を改めて確認する、実感する、そんな感じだった、自分の場合。

もうひとつ思い出した。通夜、葬式のとき、その宗派信者の慣用的な言い回しがあった。
「お疲れのでませぬように」 
それはこちらの心に入り込み過ぎず、離れすぎもせず、適度な距離感のある言葉で
いろんな声かけもされたが全部忘れて、その定型的な言葉だけが頭に残ってる。

>>今、死は生の傍らに寄り添う、好ましい伴侶となった。

これは、すごいことだな、きっと。 
現象的には同じような看取りでも、その関係によってこんなにも違うのか。。
呆然と仰ぎ見るしかできない言葉だ。。

また、気持が落ち着いて、ここを覗いて、なにか書く気になったら書いてくれ。
いつだっていいさ。 半年後でも、一年後でも 数年後でも

701N:2010/02/13(土) 15:14:02
意識とはなにか?

科学はまだほとんど答えをだしていない。
とすれば、現在ど素人にできることは、
たとえ思弁に過ぎなくても
たとえすこしづつでも、「考える」ことしかない

まったく見当もつかないが、
それも新しく疑問のひとつにしていきたい

702zebla:2010/02/13(土) 18:00:12
社会ど同性愛 支配階級ど同性愛もしくは小児性愛
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2470/1265955749/

703N:2010/02/14(日) 17:34:23
泣くことは一種の呼吸障害だ。
言葉を話すというのも
呼吸を不自然にゆがめなければならない。

だから人は泣くことによって言葉を獲得する準備ができる。

泣くことが、言葉の始まりだ。

704N:2010/02/25(木) 00:56:05
感情の発生と、内臓 (食道-肺,食道−胃腸−肛門)、
いわゆる植物神経系と、密接に繋がっているにちがいない。

動物神経系 (体壁・筋肉)は、
感情の処理の側じゃなからろうか。   

(かなり、自信なし。)

705zebla:2010/02/25(木) 00:59:23
意識は「ひとつ」の時間の流れだが、
その流れに注ぐ「もと」は、外界・内界の
多数の場所から、入り込んできている。

706705もN:2010/02/25(木) 01:00:52
コテハン記憶にチェックを入れるの忘れてた。。

707N:2010/03/06(土) 13:06:45
ちょっとづつやっていく。
「母型論(5章まで)」
http://bb2.atbb.jp/kusamura/viewforum.php?f=4

708N:2010/03/14(日) 17:47:09
NHK教育テレビ
ETV特集・選
「吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜」
2010年3月14日(日)
午後10時00分〜11 時30分

709N(えぬ)(エヌ):2010/03/15(月) 00:11:29
改名検討中 ローマ字→ひらがなorカタカナ

710タター:2010/03/17(水) 08:54:55
>>697〜699
お心遣い、ありがとうございます。
言葉にされた思いも、言葉にされなかった思いも含めて
皆様のお心遣いに感謝します。

……ということで今浦島ですw
遅ればせながら感謝の言葉とレスを少し。

>>693
>タターが学んだ「多くの貴重なこと」が言葉になるものなら
知りたいと思う。

えーとな、俺のクセでもある同義反復になるんだが、一言で言うと

 命は生きようとする

だ。それと抱き合わせで(家族の死を経過して)

 命は終わりの時を迎える

もある。もうちょっと付け足して言うと

 命は終わるべき時には終わる

だな。

 命は終わりの時を知っている

でもいい。

「人間」とか「生き物」ではなくて
「命」としか言い様のない何かにしっかりと触れた感触があった。

ちなみに「命」は「熱」だった、俺にとって。

壮絶な有様になって、それでも生きていた猫の放つ熱と
死んだ家族から綺麗に引いていった熱と。
どちらも心と身体に深く刻み込まれた。

また、ゆっくりレスするよ>N
とりあえず生存報告だ。

あと、すっげーどうでもいい(かもしれない)ことに食いつくが
>>709 改名の理由はなんだ?

711N (えぬ, エヌ):2010/03/17(水) 18:57:11
>>710 名前ぽいかとw ま、併用ということで。  メモ_「命は熱」

712タター:2010/03/17(水) 20:32:09
>711 ナルホドw 
髪を切る女心のように、なんぞ深い心の動きがあったのかとちょい期待したw

>693
>ぽっかりと春のように流れる時間があり、
>嵐のような強風に千々に乱れる時間があり、
>俺の経験した看取りはそういう風だった。

この一節が心に染みた。うん。本当にそうだったのだろうな、と。

>700
>自分の場合 喪失感はずいぶんあとから来たな

喪失感は未だ来ない。
家族の存在は生前と変わらずに「ある」と感じる。
ただ、恋しい。そして、ひたひたと悲しく、寂しい。

そう言えば、ずいぶん泣く練習をしたよ。
少しは上手く泣けるようになったぞ、今w

713N (えぬ, エヌ):2010/03/17(水) 21:45:54
>>712 >本当にそうだったのだろうな、と
ずいぶん昔の話だよw
病室でベッドの下から取り出せるつきそい用マットに横になり
雲仙普賢岳のニュースが流れるテレビをぼんやり二人で眺めていた。
思い出せる春はそういう感じ。
あとは排泄物の後始末とか全身を拭くとか、そんなことを
老母と交代で病院に泊まり込んでやってた。排便の跡を拭くために
自分の発生源wをつまんで除ける作業は微妙に抵抗感をおぼえたw

急変したのは深夜3時過ぎで
宿直医はインターンのガキみたいな若僧医者だけ、
担当医に電話してくれ、と頼んでも、時間が時間だからと
なかなか電話しようとしなかった。医学で治せない患者なんてそんな扱いだ。
医者は無力な自分を実感したくないのだよ。

>喪失感は未だ来ない。
数年とか10数年とかそういう単位だ。心配いらんw
最近は、精神的に圧迫されてた時の夢とか見て
起きて「うん、もういないんだ。大丈夫」とホッとしたりする。
このへんはタターの受け止め方とかなり違うだろうね。

そんな相手でも、「その時」俺は号泣した。
あれはなんだったんだろうか、と今でも思う。

しかし今でもうまくは泣けないw 

やはり練習第一かね(笑)

714N (えぬ, エヌ):2010/03/17(水) 21:59:19
そういえば、尿が止まり、計器が完全にフラットになって
臨終宣告が行われただいぶ後、
(6〜7分後だったか数十分後だったか記憶が定かではないんだが)
急に、シーツからがばっと上半身を起こし(たように感じた)、
ガハーという音をたてて大きく息を吸い、それからまた元に戻った。
なぜか病室にいる全員がそのことを無視した。

ナントカいう現象だと聞いことがあるが、そういうのあったか?
今でも謎だ、あれは。

715タター:2010/03/21(日) 05:20:15
>>713
>数年とか10数年とかそういう単位だ
うちは親父が割と若く亡くなったので、死んで20年ほど経つんだが、
実はいまだに喪失感が欠片も湧かないw
悪い意味ではなくて、なんというか、死んでても生きてても、
こちらの気持ちのポジションは全然変わらんなぁ、と。
直接言葉を交わせないのが違うだけで
生きてても死んでても俺はあの人が好きだわ、と。

それにしても、いないことにホッとしなきゃならんってのはキツいなあ。
それだけ強烈な圧迫感だったんだろうな。

>やはり練習第一かね
そう。何事も練習第一w 俺はマジに練習した。
1)完全に一人っきりになった時に
2)カニみたいな顔(わかるかな?)をして
3)なるべくガキ臭く、情けない声で
「やだ」と泣きわめく……ってのをやった。
アホみたいだが、やってみると結構いいぞw

>>714
>そういうのあったか?
いや。こちらはものすごく綺麗に息を引き取った。
なだらかに、自然に、死に向かって右肩下がりに収束していく、そんな死に方だ。
ちょうど眠くなった人間が、なんの邪魔もされずに自然に眠りに落ちるような。

朝のきれいな光の中でな。
誰にも邪魔されずに、息が消えるのを看取ったよ。
いい死だった。

716タター:2010/07/01(木) 03:45:59
おーい と呼びかけてみたくなる。
どうしてる? 元気かい? と。

スレ違いも甚だしいんだがね。

あんたの思考のマラソンが時々恋しくなるんだw>N

717ロイ ◆yOHf648Wc.:2010/07/02(金) 22:51:19
実は僕もちょっと待ってたりします。
Nさんとタターさんのやりとり見るのが好きなので。
(会話レベルが高すぎて僕入ってけないですけど・・・)

728zebla:2010/07/16(金) 23:51:11
感知能力、欺瞞、および美的感受性というものは、
動物がこの地球上に存在して以来、
5億4100万年以上にわたって進化してきた。
・・・・・・
われわれのごう慢さと人間中心主義とは裏腹に、
多くの実験と観察の結果は、
思考と感覚という過程は
ヒトだけに限られるものではないことを、
否応なくわれわれに実感させる。

感知能力とそれに刺激された行動は
生命---細菌という生命も含め---の共有物である。

まさに、あらゆる生命の本質は、
相互に作用し、感じ合うという現象の中にこそ、ある。





チャンスや成功といったものは、非常に神秘的なプロセスです。
もし、われわれが、経済を宇宙の計画の流れにそって運営すれば、
われわれは導かれるように同じことをしている人々と出会ってゆき、
突然、豊かな社会が私たちの目の前に現れてくるのです。




ジェームス・レッドフィールド 著 “第十の予言”

731zebla:2010/08/01(日) 00:08:30

申し訳ありませんでした・・・

732ロイ ◆yOHf648Wc.:2010/08/01(日) 22:15:22
>>731
もしかしてスレ連立の立役者か?
>>730とかのコピペ主?
別に謝らんでもいいが意図を説明してくれるとおもろい。
こういう掲示板初心者なんか?
注:別に怒っとらんぞ たいしたもんだいじゃねえ。

733zebla:2010/08/01(日) 22:48:29
お、オレも聞いてみたいw>意図

734N:2010/09/13(月) 19:06:01
なんか妙なことになってるな。。

>>716-717
マイペース厳守中 と解釈してもらえればありがたい。 
すくなくとも「元気」とはほど遠い。

現在の精神状態では、
書き直しができないところにはあまり書きたくない気持ちが強い。
それよりなによりネットに接続し、掲示板を読むということ自体
やっとさいきんまた できるようになった、というていたらくだ。


>思考のマラソン
俺の感じ方で言うと 考えると言うことはマラソンのイメージではなく
むしろ、疑問の前に「立ち止まり続ける」という感じだ。
立ちすくみ続ける、のほうが近いかもしれない。

さて、どうするか…
あとで消したくなる可能性のある文は
分けてレスしたほうがいいかもしれない、、

735N:2010/09/13(月) 19:15:48
答え(らしきもの)はたいてい天啓のように−思考の結果ではなく−
ふと落ちてくるようにして「ことば」化されてやってくる。
考えた末に方程式の答えのように導き出されるという事はほとんど経験がない。

立ち止まるというのと関係あるのかもしれないが、
風呂場とか、布団に横になっている時,のほうが、落ちてくることは多い。
たまに歩いている最中に何かが判った気になることもあるが、
その時にはたいてい判った気分にはなっても「ことば」化はしてない。


考えるということで落ちてくる答え(言葉)というのは常に「過程」的で、
結局人は常に「仮説」しか提出できないように思う。科学というのが面白いのは、
思考や論理ではなく行動(実験)によって「仮説」を証明し、
更に「再現性」によってその証明を社会化させる方法を確立したことだと思う。
だから、科学は常に興味深いが「物」が対象の時に限られている、と俺は思う。

社会科学というものを俺はほとんど信用しない。
実験も再現もできないからだ。
科学と言いたいなら「例外」があってはならない、というのは最低条件だ。
たった一例でも理論からはずれていることがあればその理論は失敗、
という厳しいスクリーニングのもとで理論は深刻な再検討を求められ、
場合によっては全否定され廃棄される。
だから信用され、マネーも動くし影響力(科学的”世界観”として)も持つ。
心理学にしろ経済学にしろ歴史学や進化論にしろ
それらは「学問」ではあっても「科学」ではない。
きつくいえば「疑似科学」にすぎない。たとえば疫学など擬似科学の典型だ。
WHOなど信用してはならん。あれは科学ではなく政治だ。

736N:2010/09/13(月) 19:16:47
ふむ。。
畏れていたとおり、とりとめのない文章になってしまったな。。

737N:2010/09/13(月) 19:22:05

泣く、と、怒る、ばかりにこだわっていたが、
やはり 笑う が抜けているのは重大な欠陥だ。

笑う とはなんだ。

筋肉をゆるめる、ということは、
野生生物にとっては不必要なことなのかもしれない。
猫より犬の方が悦びを素直にあらわすのは、
人間との共生の歴史の産物なのだろうかね。

738N:2010/09/13(月) 19:28:28
やはり、とりとめのない文章になってしまう。

出直してくる。

またここにくるのがいつになるかわからんが
(明日かもしれんし数年後かもしれん。
ここはdat落ちがないからすこし油断させてもらいたい。
しかし、名無しはけっこう経済にこだわっているようだ。
経済はもっとも俺の苦手な分野だ。主張や考えがあるならきちんと展開してみてほしい)

では。 丿

739タター:2010/09/15(水) 04:44:15
や、悪かった。マイペース厳守中に無粋な真似をしたな>N

>むしろ、疑問の前に「立ち止まり続ける」という感じだ。
>立ちすくみ続ける、のほうが近いかもしれない。

立ち続けるあんたの裡にはどんな色合いの風が吹いているのだろうか。

たまにはよそ見をしたり、反対方向に歩いてみるのもいいかもしれんよ。
天啓のように閃く「なにか」が落ちてくるためには。

740N:2010/09/15(水) 18:58:30
風か    風・・・

たぶんそういうものは吹いてないんだな
考えるというのは、俺にとっておそらく
切実な脱出口に近かったんだと思う。

圧迫的な精神的監獄というものがあるとするならば、
外が見えない岩盤の牢屋の中で唯ひとつの“自由”、
与えられたのではなく自分で発見した“自由”、それが
考える、ということだったのかもしれない。
情緒を断ち切るために。助けてくれと叫ぶ代わりに。
(そのへんは、まったく異なる環境・条件だったロイも同じだったんじゃないか
 と想像している。ひょっとしたら、そこに惹かれたのかもしれない。
 もちろんこれは俺の一方的で勝手な思い込みにすぎない)

もっと前進的で向日的な解決策というものはあったかもしれない。
しかし今回想しても他の選択肢というものがまるで思い浮かばない。
たとえば助けてくれと叫ぶこと、そんなことははなから思いつきの外だったし、
そういう手があるとその時、誰かが俺にアドバイスしたとしても
まったくできなかったろう。畏れとか気後れとか勇気の欠如とかではなく
単純に“できなかった” と思う。
(今のことを問われていることは理解しているが、
 俺にとって“考える”ということは少年期に深く根ざしているので
 どうしてもその時のことに傾くのだ)

しかしこれは、タターのいう
“風”というのを俺がうまく感受できてないだけかもしれないな。

たぶんそれは資質の違い、つまり脳の生育歴の違いだ。
そういう異なる角度があるからこそタターとの対話は面白い、ともいえる。

741N:2010/09/15(水) 19:29:38
こどもや少年や少女にとって、救いは切実だ。

そして、それぞれがそれぞれの資質(つまり脳の生育環境と生育歴)に沿って
救いの方法をそれぞれにあみ出すものだ。

それは遊びだったり、読書や空想であったり、時には暴力だったりするかもしれない。
時にはそれは“病気”であったりする場合もあることもアドラーという心理学本で知った。
あるいは、クスリであったり、性行為であったり、そして思想であったりする場合もあるわけだ。

そういえば最近ずっとプルーストを読んでいて、
彼の場合、それは散歩道でサンザシを眺めることだったらしい。
http://herbstopic.com/?p=225&lang=ja


(またとりとめもなくなるがプルーストは面白い。
 いままで喰わず嫌いで読まなかったがこれほど面白いとは思ってなかった。
いづれkusamuraあたりで山ほどある彼の箴言をいくらかでも紹介できればと思っている。
文庫で13冊もあるからとうてい全部は無理だw
ちなみに彼は半分ユダヤの同性愛者だ。フーコーといいプルーストといい、
あるいは本邦の折口信夫といい、もっと遡れば、ソクラテス・プラトンなど優れた思索家に
同性愛者が多いのにはなにか理由があるはずだ)

ふむ。。
何を言いたかったか、忘れてしまったw 
でも、まぁせっかく画像まで検索したことだしこれも投稿しておこう。

742N:2010/09/15(水) 19:44:54
どうやら電池切れのようだ。。

>>739を読んで、もっと色んなことが思い浮かんでは
ちりぢりに乱れ、今はそれを拾い直して、枝葉を刈り取り、
ひとつの文脈に統一する気力がないのだ。悪いが。

断片的に記録しておくと。
風景詩人としてのタターとロイの違い、というのも思い浮かんだりした。
歩く詩人としてのロイ、と、道ばたなり神社の境内だったりで休憩しながら
風や空気を味わうタターの、詩的資質の違いと
にも関わらず風景詩人であることの共通性。 
(まぁ、これも、そこまでで途切れた思考のひとつとして書いておこう)

あぁ、そうだ。
呼びかけは嬉しかったのだ。忘れ去られて放置されるよりはるかにいい。
(以前はそれでも平気だったんだがね…)
これがリアルだとうっとうしくてたまらないのに
掲示板という不思議な距離では逆にありがたかったりする。面白いものだ。
ただこちらからは、以前のように、
日にちをおかずに反応する、ということができない、
それだけ承知しておいてもらえれば助かる。無粋はおおいにけっこう。
では。

743タター:2010/09/16(木) 04:58:45
>>740
ふむ。そう言えば俺は「ものを考える」ことがあまりないかもしれん。
「考える」に一番近い俺の状態は――妙な表現に聞こえるだろうが――自分がどんどん拡散していく、希薄になっていく感覚の裡にある。
どんどんどんどん自分を薄め、表層の意識を離れていって、自分の身体が何を考えているかを探る。自分が何を感じ、何を望んでいるのかを、客体のように自分の中に発見する。
そして充分に自分を離れた時、Nの言う「なにか」がふわりと出現する。
俺の「考える」は「自分を離れる」ことと一体になっている。

>>740 で感じたのは、そんな俺のやり方とは真逆の方向性だ。
中心に「自分」がある。固く、強固に身を縮めて。
「自分ではない何か」に取り巻かれた自分が、武器のように「思考」を握りしめている。
そこに存在するのは強烈な求心力と意志だ。それらは「自我」という言葉で一つにまとめても良いのかもしれない。

とても不思議で、とても面白い。自分とは全く違う方向性だ。
だがNの思考世界でも中心に向かってぐんぐんぐんぐん収斂させて、最後はやはり「なにか」が「落ちてくる」のだという。
最終的に出現するもの(の感覚)は極めて似通っているのに、そこに至るまでのベクトルが真逆に見える。

もしかしたら、あんたの風は「裡」ではなく「外」に吹いているのかもしれんな。

744タター:2010/09/16(木) 05:11:45
>>742
速やかな反応を求めるつもりは全くないよ。安心してくれw
誰もが皆、それぞれのペースで。

口を開くも良し。
沈黙するも良し。

ただ、あんたが「タターの言葉を時に聞きたくなるのだ」と言ったように
俺もNの言葉を聞きたくなる時がある。それだけだ。

ああ。「言葉」というより「息づかい」なのかもしれんな。
思考の息づかいなんだ。聞きたくなるのは。

あんたの思考がだいぶ核心(それが何かは俺にはわからないけれど)に近づいている気がするよ。
順調に、しんどそうだ。

745N:2010/09/16(木) 18:11:57
>>744
それは助かる。 >速やかな反応を求めるつもりは全くないよ

>>743やリョウがブログで書いてたこと(支配されてる方が幸せだったかもしれない)
は、最近いろいろ漠然と考えてたこととクロスする部分があって
なにか言いたい気分になるのだが、うまく消化して話せる気がしない。
時間(と、気力)が必要だ。
今日はAさんとこで全力を尽くしたので電池が切れたw

746タター:2010/09/17(金) 03:42:25
存分に時間を取って、たっぷりの充電を。

十分な休息と体力の回復は、叢踏破のためのもっとも強力な援軍だよ。
肉体の充実なくして気力の湧出はないからね。

747AR:2010/09/19(日) 23:19:58
俺(たち)も今息切れ中なんで回想スレで力尽きた。
このスレは>>734までしか読んでない。後日よむ。

で、あえて>>734に。

どうしても消したくてたまらんレスができたら連絡してこい。
最近“ひいき”を覚えた俺様が消しといてやるからw


まあ、ここを消してくれ、と示すことじたいの難易度が高いだろうけどな。
何も聞かずに消してやると約束しとこう。
問題は連絡がいつつくか俺側の理由でさっぱり定かでないということだがw

・・・意味のない空約束かもしれん思いつつ
書いてて自分の中に意味を見出した俺がいる。

ほとんど力にならない空虚な約束かもしれんが
意識の上で、「消すことが可能」 とすることが
あんたらの(N一人に限ってない)『言葉』を引き出す道に
わずかなりと繋がればと思っている。





そしてね
俺はもしかしたら
ほんの少しくらいは人間に近づけただろうか。
不可能だと思い続けたそれに
少し近づけてる気がした。

748AR:2010/09/19(日) 23:20:45
支離滅裂だな。

749タター:2010/09/20(月) 05:18:17
>>747
あんたがそう感じたなら、そうなんだろう。
こういうもんは自分の中の感覚が一番確かだから>人間

近づきたい、近づきたい、と思い続けて
いつか、ふと、自分が「そう」であったことに気づく……
などという幸せな物語のエンディングを夢想してみたよw

生きてることは難儀で、めんどくさくて、そのくせ割と楽しい。
そんな風に思う今日この頃だ。

750N:2010/09/21(火) 20:53:36
>>747
お気遣いありがたく心に留めておく。
たしかに、自分でさらりと削除するのと、
人に頼んで削除してもらう事の間には少々壁を感じるが。


>自分の中に意味を見出した

関係あるかどうか判らんが、
最近少々胸にきた言葉で、
仏教の人生の四大目標というのがある。

「財産artha、恋愛kama、解脱moksa、」それから
「善行、もしくは正義dharma(ダルマ)」

ダルマの語訳は実際には色々ありうるそうだが、
この訳者は上の四大目標として他のものとならんだ場合の「ダルマ」は
「“正義”ないし“善行”道徳“”義務“などの意味である」としている。
俺は「善行」として捉えてみたい(他のはややこしいからw)。
つまり、財産も、恋愛も、解脱も得られなかった失敗人生でも
「善行」を行う可能性くらいは残されてるつうことになる。

それは多少、気持ちの慰めになる。

751A ◆CPjaa6Nup6:2010/10/27(水) 07:13:23
「もしもリアルパンクロッカーが仏門に入ったら」架神 恭介
おすすめしておく。
 大笑いしてしまった。
作者は完全パンクマニュアルの作者
あの大ヒットの「もしドラ」の完全パクリぱくり方がハンパ無い
が、面白い。

752N:2010/10/28(木) 18:20:40
うむ。 さっぱりワカランw つか、チト高い。図書館にリクエストしてみるか
そういや、昔、岡野玲子の漫画で
ロックかパンクやってる若坊主の話があったな

最近おもしろかったのは、ドグラマグラの夢野久作のエッセイ
近世快人伝
http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2140_23920.html
明治〜戦前のパンクな博多人、玄洋社の頭山満や奈良原到の話。
名前と履歴くらいは知っていたが、
だいたい夢野久作自身が、右翼の杉山茂丸の息子だから
ナマナマしく壮士とか国士とか大陸浪人とかの気分が内側から伝わってくる。
こういったむちゃな博多右翼、壮士を育んだのが
高場乱子なる怪女子の塾だったことも初めて知った。
しかしホントに面白いのは、政治と無縁な庶民、仁三郎の破天荒なパンクぶり
(A4紙に60%印刷で29枚くらい)

753N:2010/10/28(木) 18:45:30
「類的他者」 という言葉を思いついた。
すっ、と浮かんだので、もしかしたら意識から消えた既出概念なのかもしれないが
自分でははっきりしない。ググった限りではそんな言葉はない。

身近な他者 と違い、遠い他者・非具体的な他者だが
なにがしか「類的」な近接感(あるいは共感)を覚える他者のことだ。
たとえば、
美術館に類的他者の絵を観に行く。という風に使う。
絵に興味のない人間にとっては
それらの絵の作者も類的他者ではなく
たんなる遠い他者に過ぎないかもしれないが
それでも、表現を受けとめる姿勢があれば
類的他者の表現がそこにある、と感じたりするかもしれない。

むろん身近に類的他者がいてもいいわけだが、
一定の年齢のときは、むしろ遠い他人のほうが身近に感じることが多い。
吉本隆明はそういう時期に家族や身近な知人より遠くの人間
(芸能人でも作家でもスポーツマンでもなんでもいいわけだが)
に、より惹かれることを「遠隔作用」と呼んだ。
そこからブーメランのように、戻ってきて
身近に類的他者を見いだすかどうかはその人間の人生曲線による。

しかしまぁ類的他者がいるなら、
そう思えない他者もなにかネーミングした方が
対比がくっきりするんだがどうもうまく思いつかないのであった。

−以上、本日の電池切れ寸前メモ−

754N  -メモ-:2010/10/31(日) 15:51:49
無縁他者。

具体的他者。    

類的他者。

755N:2010/12/14(火) 06:59:42
朝倉泉事件
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/9776/izumi/i_jiken.html

756N:2010/12/14(火) 07:41:25
朝倉ノートで圧巻なのは、
その未熟なエリート論(ドストエフスキーの「罪と罰」を思い起こさないでもないが)より
祖母に関する詳細で克明な記述だと思う。

ここに見られる息苦しさは、血脈や家族の問題というより
「間合いゼロ」の息苦しさにみえる。

睡眠時間も含めて、日常のあらゆる場面において干渉してくる
間合いゼロの関係は、特に精神的自立を指向する思春期には
特に息苦しいものだということは、ある程度普遍性がある。
(ただ、そこから殺人へ至る内面的な経過は、このノートでも
それほどよくは判らなかった、という感想ももつ)

彼の場合は祖母だったが、それは同じ空間で寝起きを常に共にする相手であれば
例えば夫婦であっても、間合いゼロの息苦しさに至る可能性はあるだろうが、
夫婦の場合、間合いゼロは、たとえばセックスによって逆に間合いを作ることが可能になる。
この場合の間合いは、人間同士の間合いゼロが、
性行為の「男と女」という距離をつくることで解消されるのではないだろうか。

血脈の場合そういう距離を作ることができないことで
家族の間合いゼロの息苦しさに、距離をつくることが困難になる。

朝倉の場合、この距離を作ろうとしたのが「エリート=自分、愚劣な大衆=祖母」
という枠組みだったのかもしれない。

757N:2010/12/14(火) 07:46:49
かなり推敲の必要な文章だな、、不調な時にムリして書くとこうなる、、

758N:2010/12/14(火) 19:01:22
もともと、プラトンあたりからニーチェに至るまで
エリート優越・大衆侮蔑思想はある
だが、実際に権力の座にいるものは大衆の命運を両肩に担うわけで
大衆侮蔑なんてのんびりしたことは言っていられない。
ヒットラーでさえ、ドイツ国民ドイツ大衆(民族)の命運に対する強い使命感をもっていた
十七条憲法でも、本当のエリート(天皇関係者)は
豪族官僚たちに対して、「もっと民の都合を考えよ」と説教している。
大衆侮蔑論は無責任な知識人(大学教授)、小官僚あたりの戯れ言にすぎない。

エリートを白人、大衆を黒人、というふうに置き換えれば
そのまま、プアーホワイトの差別意識とたいして変わらん。
あるいは、エリートをゲルマン民族、大衆をトルコ移民と置き換えれば
ネオナチの下層階級の若者の考えと同一になる。
まして、エリート家庭に育った16歳の朝倉少年はまったく大衆というものを知らない。
たとえば 「受験戦争反対」を唱えていたのは大衆ではなく
進歩的知識人と呼ばれたものたちだ。
彼は、勝手に頭の中で作り上げた大衆、という幻影を相手にしているにすぎない。
リアリティがまったくない。足のない幽霊相手に力んでいるだけだ。

ドストエフスキーの罪と罰では、
ラスコリニコフがエリートは法を超越する権利がある、として
金貸しの老婆を殺害する。
ドストエフスキーの父親は末端の地主階級で
自分の土地の住民に殺されている。だから、ドストエフスキーには
大衆侮蔑思想を書く理由をもっていたが、
様々な苦労を重ねてドストエフスキーはロシア大衆主義というべき思想にたどり着き
(これは初期のドストエフスキーが関わっていた左翼運動とは異なる)
罪と罰の最後で、ラスコリニコフはロシアの大地に接吻し懺悔する。
もちろん、
16歳の小秀才坊やにそんな深みを求めることは無理な話だけどね。
どうせ偽善としか受け取れないだろう。平凡な生活者の種々の苦労が見えてないのだから。

759N:2010/12/14(火) 19:15:27
にも関わらず、これらのノートに一種の迫真性があるとすれば
それは、真剣に思い詰めて書かれているからだ。

760N:2010/12/14(火) 19:27:58
この「真剣さ」がどこに向かうか、というテーマは自分的に興味深い。
朝倉から離れ、一般論として「真剣さ」というものを考える。

「真剣さ」の対象に、年代的な指向というものがあるのではないか。
きっちり詰めて考え抜けたわけではないが

一般的には

学童期 真剣さは「遊び」に向かう

思春期 真剣さは「内面」に向かう
      あるいは真剣さは「性」に向かう

社会期 真剣さは「仕事」に向かう
      この場合、
     「家族」は仕事に対する真剣度に反比例して等閑視される場合が多い

老人期 一概にはいえないが、死を意識した時
      真剣さは「生」そのものの検討に向かう ある意味思春期に戻る

女性の場合 真剣さが「恋愛」に向かうことも多いようにみえる
      この場合時期はあまり問わない気がする
      それらは個人の発達史より、類の生命史から来るものに思える

761N:2010/12/14(火) 19:33:15
上記はあくまでおおざっぱな一般論で
個別的にはいろいろありうるだろう、と思う
「趣味」に向かったり「思想」や「運動」に向かったり
いろいろありうるだろう。

要は、真剣さがどこに注がれているか、という視点は
自分的に新発見だったという話。

762N:2010/12/19(日) 15:08:57
朝倉の祖母の場合
亭主は書斎に閉じこもりきり、娘は脚本書きで忙しい
家で自分の存在を確認できる相手は孫だけという状況
真剣度の向かう相手は、泉しかなかった

直接関係ないが、三島由紀夫も祖母によって母から切り離され育った
太宰治も母親の記憶はほとんどなく「津軽」では乳母を探し求めて出会う
ふたりとも東大に行き、ふたりとも自殺した

朝倉泉のばあい、自殺衝動が、殺人衝動と連動してるのかもしれない
自殺は 自分の命に価値を認められなくなることで
他者の命にも価値を感じられなくなる

763N:2010/12/19(日) 15:21:45
【子どもについて】

○子どもは目の前のものしか見ない。

目の前のもの(こと)だけが、その時々の世界そのものとなる
その背後にあるものはまだ見えない
アンパンマンは目の前に出現するものであるから
子どもにとっては実在だ

その背後の作者・梁瀬について想像することはまだできないし
その漫画・アニメの現前の奥を見るということもまだできない

○子どもの記憶
フロイトによると小児は、たいてい5歳以前の記憶を失う
これを「小児健忘症」と言っている

目の前にあるもの対し、それにどう反応するかが全てだとすれば
子どもがあるものを認識するのは、そのもの(人)と直接かかわったときに
どうだったか、楽しかったのか、怖かったのか、気詰まりだったのか、
記憶は、かつてのそれが目の前にいた時の感情と結びつく
それは、エサを与えるベルを聞くと涎を垂らすというパブロフの犬の記憶と似ている
条件反射というやつだ

脳がまだ未完成で発達中(いいかえればどんどん作り替えられている)の子どもは
記憶より条件反射のほうが脳の仕組みに残っていくのかもしれない

764N:2010/12/21(火) 19:22:10
【言葉と沈黙】

今年の正月にもNHK教育で再放送が行われた吉本隆明の講演を
自分なりに要約すると

「言葉において、伝達は二次的、三次的であり、
 言葉の本質に於いては、
 自分の内部の沈黙に形を与えることが第一義である」

と理解した。
このような言葉に関する理解は、アカデミックな言語論には
(俺の知ってる範囲では)ほとんど類例がないと思われ
アカデミーからは無視されているが言葉の本質に関する重要な認識だと思える。

(ここから先は、俺個人の敷衍になる)

伝達より、自分の沈黙に形を与えることのほうが、まず言葉の本義だとすれば
(自分の実感からそれは正しいと思っているが)
うまく人に伝達できない人は、
それだけ内部にある沈黙の量が多いのだ。

その多量の沈黙がどうような経緯で貯め込まれたかは置くとして
それに形を与えることに真剣度が集中し
伝達は二の次三の次になるのは、当然だ。

吉本流に言葉の本義を、まず「沈黙に形を与える」ことにおくなら
そうなる。

765N:2010/12/27(月) 18:56:59
>>751
ようやく図書館にリクエストしてたのが届いた、と先週連絡が来た。
ずいぶん時間がかかるんだな。

あの複雑な仏教の種々の党派を粘り強く整理してるなと感じた。
巻末を見ると相当量の解説本を読破してるようで
確かに仏教というのは、直接原典に当たっても、わかりにくい箇所が多く
解説本を読むという作業をサボってる俺には「あぁそういう前後の事情があったのか」
と参考になったところも多かった。

ただ悟りに関する「全体ドカーン」という表現には微妙に違和感がある。
「全体ドピュン」とか「全体じゅわん」とか程度じゃないだろうか。

言葉が「分けることだ」という認識は俺も同じ認識だが
その元になる「全体ドカーン」のイメージが少し俺は違う。
俺の知ってる「全体ドカーン」は
移植医療の本で読んだある先天的全盲者の話からきてる。

ある先天的な全盲者が、移植手術(確か骨を使うのだが記憶があやふやなので確言はできない)
を受けた。
手術後数日して、いよいよ目を覆っていた包帯を取り目を開けたとたん
その全盲者は悲鳴をあげ、目を閉じた。
一気に強大な白い光の固まりが全盲者を襲い
その恐怖からその全盲者は二度と眼を開こうとしなかったそうだ。

ものが「分けられていない」状態の「全体ドカーン」は
その全盲者を襲った光のかたまりのようなものだ。
(厳密には、悟りの「自分も他も一緒くた」とは異なるが)

他にも色々、違和感も含めて刺激はあったが、
とにかく
紹介してくれてありがとう、と書いておきたかっただけなので省略。

766N:2010/12/27(月) 19:00:12
[遠近法①] 

目の前への全力集中が時間軸に沿って
次々、印象を積み重ねていくという子どものあり方。

そこから、
それぞれバラバラに積み重ねられてきたできごとの奥に「なにかがある」
という気づきの始まるのが思春期。
「なにか」があるというところまでは気づいても、
具体的にそれが何かにということについては思い悩み考え悩みいらだつ
というのが思春期。

もっとも単純に考えれば
「敵と味方」という図式が最初にくる。
いやなものと気持ちいいものの区別は子ども時代の印象から直線的に
図式化しやすい。

(この項は、ぼちぼちと続く予定)

767N:2010/12/27(月) 19:16:37
>>765 追加   そういえば、主役の「まなぶ」というネーミングだが、
このweb漫画(オーシャンまなぶ)にインスパイアされてるんじゃないかとか勝手に思った。
http://t-taks.com/

768N:2010/12/29(水) 19:48:36
世界が沈黙しているのではない。
自分の中に沈黙がある。

769N:2010/12/29(水) 20:01:22
沈黙にどういう形を与えるかによって
世界の見え方が異なってくる。

言葉を馬鹿にしてはならない。

だが個人の言葉はいつも限定的であり不完全だ。
個人が世界を完全に理解することなどありえない。
そんな人間はいままで1人もいないかったし、これからもあらわれない。

世界の数百兆分の一でもわかればそいつは偉人だ。
だが、ひとつ正しいことを知っているからといって
そいつのいうことが全て正しいということにもならない。

言葉を馬鹿にしてはいけないが、言葉を畏れてもいけない。
形の与え直しは何度でもできる。
内省力さえあれば。

770A ◆CPjaa6Nup6:2011/01/04(火) 21:13:03
にゃあ

771HRK ◆l/an/smhrk:2011/01/08(土) 11:40:25
吉本隆明 ラジオ版 学問ノススメ
http://www.jfn.co.jp/susume/

772N:2011/01/13(木) 18:11:11
わん

773zebla:2011/01/14(金) 23:09:22
ばうばう

774N:2011/01/16(日) 15:12:49
松村邦洋かっ!w    

くっかどぅーるどぅー

775zebla:2011/01/19(水) 23:55:39
ぱおーーん

776N:2011/01/20(木) 19:31:58
ぶひー

777N:2011/01/25(火) 03:33:10
ほんの数時間寝て目をさましてしまったが
今とても気分がいい  いい夢をみたからだ
もういちど眠って覚めれば忘れてしまうかもしれない だから記しておこう

夢はこうだ      (*長くなったので分割)

778N:2011/01/25(火) 03:38:03
むかし「僕」と仲の良かった人物が ある人物の言葉に腹を立てていて
「僕」は彼と散歩をする 彼が
「もう、町の風景がつまらない」と言ったので「僕」は
さいきん自分が発見した風景論を話しをはじめる。

風景は成長期とともにある。
成長を終え、年齢が重なりだすにつれて、変わりゆく風景はもう自分と共にはなく
風景から疎外されてしまうから、齢をとるにつれ、町の風景ではなく、
自然のほうに心が慰められるようになる。

そんな話しをしながら、
ある路地を抜けると、鄙びたまちの一角に、
懐かしいのに新しいような、リニューアルした地蔵さんのような
新しい一角を発見する。

「へー」と思いながら
覗くともなく、そこに接近し、表の竹製の着物スタンドに掛けられた
麻の着物に目をくれながら角を曲がりかけると、
「うちは、名古屋大学の○○支店なんどす」
と、店の奥まった階段上にいる、
和服姿で落ち着いた感じの30代の女性が上からこちらに声をかけた。

彼女の言ってる意味はよく判らなかったが
「あぁ、そうなんですか」 と生返事し、
その麻布の着物の前にしゃがんで、すこし手を触れると
「あらあら、それは触ってもろては困ります」と
着物の女性から笑いのこもった声で釘をさされた。
そこは夢だから都合よく「僕」は表を触らず内側に手を入れて麻の手触りを味わっている。
「まぁ、内側やったらよろしおすけど」
と女性はニコニコしながら柔らかな目で
許してくれる。

そこで目が覚めた。

779N:2011/01/25(火) 03:52:39
ほんの数時間しか眠っていないのに
ゆったりした素晴らしい気分だった。

ゆったりと流れた楽しい時間の余韻がまだ残っている。

楽しいのは、消費ではない。
消費には一瞬の快楽しかない。
その麻の着物を買う気などさらさらなかった。

楽しかったのは、その店先でのゆったりとした会話とも言えない会話や
買う気もないのに麻布を触って、むこうもこの人は買わないと判っていながら
ゆったりと話しかける、目的のない時間、
最近覚えた経済用語で言えば、債務のない時間とでもいうような
ゆったりした時間の流れだった。

780N:2011/01/28(金) 23:02:35
一度寝て、目覚めたら、
ネハンは消えていた

考えてみれば、こういう状態は
以前は普通にあったかもしれない
好きな音楽を聴いているときとか

なんにせよ、記しておいてよかった。
なにも状況は変わっていなくても
心しだいでネハンは来ること を覚えておけるから

781A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/04(金) 06:53:36
>780
ネハン=涅槃?
nirvana

782N:2011/02/04(金) 18:29:06
そう。 ライトな感じで表記してみたw
四時間くらいしか続かなかったけどね。
悟りもネハンもそのくらいのライトさで考えていいんじゃないかと。

そういや曹洞宗の総長とか首つり自殺してるんだぜ
悟りもくそもねえや

783N:2011/02/04(金) 18:55:20
調べたら、臨済宗南禅寺の管長も首つりしてるし
同じく臨済宗で、名僧と言われた人の一番弟子も自殺してる。
なんだかなぁ。。

784A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/06(日) 08:32:19
祈りは自分の救いの為にある。
 と最近思った。

人の為に祈ってるが、祈る自分の救い
であるようだ

つれの家族である祈る人たちを見て思う。

785A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/06(日) 08:33:15
どの宗派でも宗教でもそれは同じかな
などと
乏しい経験だが思う。

786N:2011/02/09(水) 23:11:00
祈り不信者の俺だが(子供のとき「祈らされ」てはいたが)
その捉え方ならすこしは何か考えることができそうだ。

1)キリスト・イスラム・ユダヤ教の祈りでも、神道的な手合わせでも
祈りの心理的効用は「集中」「不安軽減」「静謐」といったところじゃないだろうか

2)それぞれに儀式めいた作法があって
それを行うことは、各個人が属している共同体(宗派)に
象徴的に参加することを意味しいているような気がする。

3)快癒祈願でも他者のための祈りでもいいが
祈りというのは、なにがしかの不安に対し、自分の力が及ばない
あるいは自分の力以上のなにかを必要としている、
と自身が感じていることを祈るのではないだろうか。
つまり形式的に参加しているだけではない場合、
その底に無力感・無能力感が、程度の差はあれ、潜んでいる気がする

4)個人の力量を越えた共同性の象徴(神でもいわしの頭でもなんでもいい)
に向かって祈ることで、共同性に象徴的に参加している、という意識が
不安感や無力感が軽減する。
祈りも呪いも、象徴的な共同性との共生意識をもたらすことで
精神の安定を求める行為なのかもしれない。

と、A’s照明をてがかりにすこし考えてみた。

787N:2011/02/09(水) 23:14:06
テニヲハのおかしい部分は、見てみないふりをするように

788A ◆CPjaa6Nup6:2011/02/13(日) 08:54:03
>786
を! それだ、そんな感じだ。

789N:2011/02/16(水) 20:21:47
どんな感じだったっけ、と読み直してみた。だめだ!我慢できない!テニヲハ推敲する。。
(単なる自己マンだ。読み飛ばしてくれ)
----( 内容は>>786とおなじ。テニヲハ改良バージョン)-------------


1)キリスト・イスラム・ユダヤ教の祈りでも、神道的な手合わせでも
祈りの心理的効用は「集中」「不安軽減」「静謐・安定」といったところじゃないだろうか

2)それぞれに儀式めいた作法があって
それを行うことは、各個人が属している共同体(宗派)に
象徴的に参加することを意味しているような気がする。

3)快癒祈願でも他者のための祈りでもいいが
祈りというのは、なにかの不安に対し、自分の力が及ばない
あるいは自分の力以上のなにかを必要としている
と、自身が感じていることを祈るのではないだろうか。
その底には無力感・無能力感が(程度の差はあれ)潜んでいる気がする

4)個人の力量を越えた解決力をもつ、と信仰される共同性の象徴
(神でも先祖でもいわしの頭でも岩でも樹でもなんでもいい)
を想定し、そこに向かって祈ることで、
共同性に象徴的に参加している、という意識が生じ
不安感や無力感が軽減する。
祈りも呪いも、象徴的な共同性との共生意識をもつことで
精神の安定を求める行為なのかもしれない。

--------------------------------------------------------

790zebla:2011/02/24(木) 09:27:31
そういえば、母親が仏壇(先祖の霊)に向かって家族の良いところを褒めたり感謝したりすると
家庭内の問題がよくなってくると唱えた学者さんもいたな。
神仏が助けてくれるというよりは、褒めたり感謝したりすることで意識改革をするという感じだったが。

791N:2011/02/24(木) 19:22:48
親が二人、その親にそれぞれ親が二人。
2の指数で増えていく。直径の先祖ってのは10代遡ると千と24人。
20代遡れば、なんと1000万人超になる。国家なみだ。
子供を50歳で産むと多少多いめに見積もっても
わずか1000年前にタイムマシンで行けば
直接のDNA先祖がそこには1000万人いることになる。
奇妙なことだが、さらに遡り続ければ簡単に
1億人を突破する。おそらく当時の世界人口を超えてる。
どうにも納得しがたい。 この計算はどこがおかしいのだろう。

さらに、さらに遡り続ければ、魚にまで戻り 魚のご先祖さまが登場なさる。
それはややほほえましい。

792N:2011/02/24(木) 19:25:43
一桁間違えた。 1000年前の先祖は100万人超だ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板