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"悪質"カープの誘いの断り方
757
:
名無し長右衛門
:2008/08/14(木) 20:57:29
フォイエルバッハの矛盾 傑作(0)
2008/7/23(水) 午前 1:35統一思想と根本問題解決哲学 Yahoo!ブックマークに登録 ヘーゲルの理性主義に対して、フォイエルバッハは人間を「感性的人間」としてとらえているのだと思います。
フォイエルバッハによると、人間は類的本質である理性、意思、愛をもつ類的存在ですが、人間はその類的本質を自分から分離して、対象化し、それを神として崇めるようになったとみています。それゆえに人間は人間性を失ったとして、人間が本性(類的本質)を取り戻すには、対象化した神を否定すること、すなわち宗教を否定することによってのみ可能であると主張したわけです。
つまり、神の本質は、「人間の本質」を対象化したものにすぎない、もっといえば、「(キリスト教)神学の秘密は人間学以外の何物でもない」と言ったわけですね。
さらにフォイエルバッハはこのように述べています。
「ヘーゲル哲学を放棄しない人は、神学を放棄しない。自然即ち実在は、理念によって定立されるというヘーゲルの学説は― 自然は神によって、物質的な存在は非物質的な、すなわち抽象的な存在によって創造されるという神学の学説の合理的な表現にすぎない。…(中略)存在は主語であり、思考は述語である。思考は存在から出てくるが、存在は思考から出てこない」と。つまり、物質のみを相手にとる、徹底的な唯物論ではなかったわけですね。
フォイエルバッハは人間は肉体的なもの、感覚的なものと言いましたが、一方で、人間の本性は愛であると言って、愛について「愛は人間を動かして、喜んで愛人のために死に赴かせさえする」「愛は客観的にもそうだが、また主観的にも存在の基準、真理と現実性の基準である。愛がないところには、また真理もない」と言っています。フォイエルバッハが言うように愛が肉体の死をも超えるものならば、愛が肉体の所産ではないということになります。つまり、人間を「肉体的存在」として扱う唯物論的立場と、愛中心の生き方を訴える人間主義的立場において矛盾が生じているということになります。
結局は二元論的になってしまっても、生活においては、唯物論(実践であるところの功利主義)か唯心論(倫理道徳的生活)のどちらかをとるしかないですね。これがフォイエルバッハの哲学における矛盾点です。
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