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日本中世史スレ

226名無しさん:2025/07/03(木) 21:03:55
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> http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/rcomic/1735893005/272
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↑梶原景時の場合は逆櫓論争 >>67


夜須行宗や畠山重忠 >>113 など、義経以外とも厄介な問題が生じたし末期がああだったからどうかな?とも思うが未発見の史料でも出現しないと再評価し難いかな。







(  梶原景時 -

https://www.japanesewiki.com/jp/person/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E6%99%82.html


・・・▼幕府宿老

景時の讒言と呼ばれるものには夜須行宗と畠山重忠の事例がある。

土佐国住人夜須行宗が壇の浦の戦いでの恩賞を願ってきたとき、景時は夜須という者の名なぞ聞いたことがないと申し立て訴訟になり、証人が出て夜須の戦功が明らかになり景時は敗訴した。

罰として景時には鎌倉の道路の普請が科せられた。

・・・一方で景時は都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の仇討ちの赦免を願い出ることもしている。


・・・▼没落

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光が下記のように言った。

「忠臣は二君に仕えずという。」

「故将軍が亡くなった時に出家遁世しようと思ったが、ご遺言により叶わなかったことが今となっては残念である。」

これが景時に伝わり、これを頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めた。このことを知った御家人たちは怒り、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。

頼朝の死後、頼家の元でも継続して権力を振るう景時に対する御家人の不満として噴出したのである。11月、頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。

正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子景季、次男景高、三男景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした・・・


▼後世の評価

一般に、梶原景時には“源義経を陥れる讒言をした大悪人”のイメージがある。

鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、その死に際する記事で「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」と記されている。

景時追放の原因とされた讒言は、『玉葉』によると将軍源頼家に、その弟源実朝を将軍に担ごうとする陰謀がある事を報告したものであり、景時追放の3年後には北条氏の陰謀によって頼家が追放・暗殺され、実朝が将軍となり北条時政が実権を握っている事から、北条氏に不都合な景時追放の真相は歪曲され、景時を悪人として断じているのである。

元々その職務から恨みを買いやすい立場であった景時への、御家人たちの不満に火を付けて煽ったのは時政の娘で実朝の乳母である阿波局であった。
軍記物語である『平家物語』『源平盛衰記』では、逆櫓論争など義経と景時の対立の話がより具体的に記述されている。

そして、義経を主人公とする『義経記』では景時は敵役として描写されている。景時のこうしたイメージが本格的に定着したのは、庶民文化が隆盛した江戸時代であった。

分かり易い勧善懲悪が好まれた歌舞伎や講談で義経を悲劇のヒーローとする判官贔屓とあいまって、敵役の景時はこれを陥れた大悪人とされたのである。


明治になって近代歴史学・文学の時代になると、幸田露伴や山路愛山などが単純な判官贔屓をよしとせず、“頼朝のために進んで憎まれ役を買っていた”という景時擁護論を著している。一方で黒板勝美東京大学教授は、『義経伝』で義経賛美の立場を明らかにするとともに、景時を“奸佞なる人物”と断じた・・・   )



227名無しさん:2025/07/03(木) 21:05:43
 
(  ・・・歴史学の権威であった黒板の見解は影響力を持ち、以後長く辞典類などで景時は「讒言をもって人を陥れる人物」と記述されるようになった。


戦後になると、研究者はもちろん単純な判官贔屓で記述することはなくなり、作家や読者も旧来の一面的な勧善懲悪的な観点では飽き足らなくなる。

義経の政治面での無能さが指摘されるようになり、その一方景時は頼朝の武家政権の確立のために進んで憎まれ役を買った、善人とは言えないまでも優れて官僚的な人物であると評価されるようになった。

この様な見方は海音寺潮五郎の史伝や司馬遼太郎の小説『義経 (小説)』、永井路子の短編小説『黒雪賦』(直木賞受賞作『炎環』収録)が代表的である。
一般に影響力のある近年のテレビドラマにおいて、景時が単なる大悪人とされることは少ない。

大河ドラマ『草燃える』(1979年、梶原景時役:江原真二郎、源義経役:国広富之)、『義経 (NHK大河ドラマ)』(2005年、梶原景時役:中尾彬、源義経役:滝沢秀明)では、景時は義経と対立するものの、頼朝への忠誠心の篤い優れて官僚的な武士として扱われている。

もちろん一方で、景時を大悪人として描くドラマも存在しており、例として近年の作品では『源義経 (TBSテレビドラマ 1990年)』(1990年、梶原景時役:綿引勝彦、源義経役:東山紀之)がある。

当時の人気アイドルの東山が主演とあって義経は極端に美化され、ラストで義経は死なずに蝦夷地に逃れることになっており、景時は義経を悪意をもって陥れ平泉まで追ってきて義経に討ち取られるという、史実を無視した筋書きの作品である。

一般に「梶原景時は悪人」という漠然とした印象は根強くあるが、現在では一般向けの歴史関連書はもちろん、小説やテレビドラマといったフィクションでさえ、類型的な大悪人の景時を目にすることはほとんどないと言える。 )



228名無しさん:2025/07/19(土) 15:09:17
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> http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1709209346/609
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↑「配偶者が北条一門」といっても、金沢氏や赤橋氏にしろ傍系でしかないのは貞氏も尊氏も変わらぬ。

それと鎌倉倒幕後だから直接関連しないが、義詮の正室って日野家じゃなく渋川氏って一族なのな



229名無しさん:2025/07/22(火) 10:45:00
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> http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1709209346/617
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↑1988「武田信玄」でも中井貴一の主人公にそそのかされ た越後の北条高広は長尾景虎(謙信)に謀反起こすもハシゴ外されあえなく降伏帰参となる一方、赤橋守時こと勝野洋の扮する大熊朝秀は甲斐へ完全鞍替え亡命。




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