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Sa\msk$rt文法備忘(動詞活用編)

1近藤 貴夫:2003/07/26(土) 09:51
備忘スレ群の中でもこれは大事。

2近藤 貴夫:2003/09/11(木) 14:12
Sa\msk$rtの動詞は、印欧古典語の典型例として、非常に複雑な活用
体系を示す。一つの語根(root)から、様々な語幹(stem)を生じ、それに
さらに、18ものカテゴリを持つ人称語尾(personal endings)が加わって、
実際に文中に実現する定動詞の形となる。
その語幹の形成においては、例えば現在語幹だけでも大きく10通りもの
形式に分かれ、それぞれにサブクラスや例外形があるなど、お世辞にも
「規則的」とは言えない。また、一つの語根が異種の幾つかの形式に従い、
その形式によって語義が変わる場合もある。だから、一つ一つの語根に
ついて、どの語幹の時にはどの形式に従って、どういうニュアンスである
か、暗記していかないといけないのである。

とにかく、Sa\msk$rtに、人工語にありがちな通徹した<規則性>を求めると、
完全に裏切られることとなる。古代に文法が整備され、固定されたとは
言っても、日常に使われた自然言語の不規則性を、殆どそのまま残して
固定されているのだ。逆に言えば、<規則を一貫させた言語の規範を新しく
作り出そう>などと考えるような権威者は、いなかったわけで、あくまで
自分達の言語の内的な規範を整理したにすぎないと感じられる。

3近藤 貴夫:2003/09/12(金) 14:09
人称語尾は、用・人称・数の三つの要素の組み合わせに支配される。

この中で、<用>というのは私の独自の訳語である。普通には<態>
または<相>という漢字を使うが、私はそれぞれを別な意味で使いたい
ので、わざと別な用語にしている。
私の使う<態>というのは、動詞の示す動作・状態と、文の主語(主格)
との関係に関する、文ないしは動詞の形態についての範疇である。
「私が見る」は主語が動作者、「私が見られる」は主語が動作の対象、
「私が見せる(見させる)」は主語が動作の使役者、ということで、
能動態・受動態・使役態、などの区別が言われる。
また、私の言う<相>とは、動詞においては、動作が始まって終わる
までの状況のどこに言及するかに関する範疇である。「〜している」
「〜し出す」「〜してしまう/し終える」「〜しようとする」「〜
し続ける」「〜してしまっている」などによって表される内容であって、
完了相・未完了相・直示相・未然相、などの区別が言われる。
これら<態>や<相>は、Sa\msk$rtでは主に語幹(stem)の形成方法に
よって示される内容であって、ここで言う、人称語尾に表れる<用>とは
別物である。

4近藤 貴夫:2003/09/12(金) 14:35
それでは<用>とは何かというと、主語と、動作の向けられている人
(利害対象・間接目的語)との関係に関わるのである。
一つを為他用(Parasmaipada(パラスマイパダ)/為他言)と称し、
もう一つを為自用(@Atman@epada(アートマネーパダ)/為自言)と
呼ぶ。前者は、その動作が、主語以外の者のために行われることを
示し、後者は、主語で言及される者のために行われることを示す。
「私は暖める」という場合、為他用ならば、暖まるのは私以外の何か
であり、或いは私以外の誰かのために何かを暖めるのである。もし
為自用ならば、自分や自分の身体の一部が暖まるのであり、或いは
暖まった何かを自分が使うのである。「私が料理する」のでも、お客
さまや御主人様一家のために料理するのと、自分自身が食べるために
料理するのとが区別される。
であるから、この<用>は、動詞が直接目的語を必要とするかどうか、
つまり他動詞か自動詞か、という区別とも、また違うものであり、
日本語や英語にはない文法範疇と考えられるべきである。

5近藤 貴夫:2003/09/12(金) 15:45
ここで、もう少し範囲を広げて用語の整理を続ける。
<法>というのは、これはその発言の話し手が、そこで述べられる
事態をどういう態度で述べているか、どういう行為として述べて
いるかを示す範疇である。平叙法ならば、話者はそれを「事実だと
受けとってね」という態度でいるのだし、命令法ならば、聞き手に
「その内容を実現しろ」という態度である。希求法ならば、「私の
希望や推量だと受けとってね」ということだし、接続法ならば、
「ここは従属節の括弧内で、ここ以外に私の態度を示した箇所がある
からね(もし省略されてたら推測してね)」ということ。
この<法>の範疇は、文中の主語・動詞・目的語以外に、その発言に
メタ的に関わる「話者としての私」が重要な役割を果たしている。
<時>は、話している時点から見た、現在・過去・未来のこと。
上記の<相>と組み合わせて、未完了相の過去時ならば、未完了過去
という時制になり、完了相の過去時ならば、過去完了或いは大過去と
呼ばれる。
Sa\msk$rtの場合、この<相><法><時>が動詞活用の一つのレベルを
構成し、渾然一体となっている。この下に、<用><人称><数>の
レベルがあり、逆に上には、まだきちんと述べていないが、<調><態>
のレベル(このレベルそのものを「綱」と呼ぶことにする)がある。
<相><法><時>を渾然一体として実際の個々の活用範疇を示すため、
混乱を避けて「目」という用語を導入する。
これにより、例えば「完了相」と言えば、複合完了も含めて、相的に完了
であるものすべてを差すことができる。「完了語幹」というのは、その
うち完了や大過去などを生み出す語幹のことであり、「完了組織」は、
完了語幹の下に生じる活用形の体系である。そして「完了目」と称する
場合は、(単純)完了組織下にある、完了相平叙法現在時という活用
範疇のことを、短く言っているのである。

6近藤 貴夫:2003/09/12(金) 15:56
同様に、「命令法」とだけ言うときは、論理的にはどの相・組織の
命令法を指してもよいことになる(Cl.Skt.では未完了相のもの
しか使われないが)が、「命令目」と言えば、その未完了相命令法
以外は指さないことになる。
この「目」の導入により、「いついつの時代の言葉には幾つの目が
使われたか」というような問いの表現が簡単になる。

7近藤 貴夫:2003/09/12(金) 16:24
人称については、一人称・二人称・三人称という言い方が広く通用
しているが、Sa\msk$rt古典文法の伝統術語では、第一人称とは、
我々の言う三人称のことになってしまうのである。そして、Sa\ms-
k$rtでは、三人称単数形を、特定の目の人称形の代表として挙げる
のが通例である(ラテン語などでは一人称単数形を挙げる)。
これを翻って考えるに、人称をどちらから数えるかというのには、
確たる根拠があるわけではないのである。
そこで私は、ここに、彼人称・汝人称・我人称という、数に語形が
左右されない漢語の人称代名詞を借りた術語を導入する。慣れない
と異様ではあろうが、意味するところは、漢字圏の人なら容易に
推測がつくであろう。例えば、三人称単数の代わりに彼人称単数と
表示することになる。

8近藤 貴夫:2003/09/12(金) 16:44
そして、数というのは、名詞・形容詞の場合と同じく、単数(一人)・
両数(二人)・複数(三人以上)のことである。

前置きが長くなったが、以上のように、二つの用・三つの人称・
三つの数を掛け合わせることにより、「他人のために彼は〜する」
から「自分のために我々三人以上は〜する」まで、十八の人称変化
カテゴリーが完成する。

ところで、この十八の人称語尾のセットは、一種類だけあるのでは
ない。その動詞の目と、そしてその組織の語幹を作る形式とによって、
少しずつ異なる特徴を持ったセットが使われるのである。


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