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ソ連の戦後攻撃は卑怯 元海軍兵前田義一さん(81) 私と戦争-上-
:2007/08/15(水) 20:04:34
ソ連の戦後攻撃は卑怯 元海軍兵前田義一さん(81) 私と戦争-上-
―戦争体験は。
昭和16年に高等小学校を出てすぐ、兵隊に志願した。横須賀の海軍通信学校に入り、通信の教育を
受けて18年4月、戦艦「日向(ひゅうが)」に配属された。乗員約1500人、通信兵だけで約70人いた。
そして19年10月、フィリピン沖の海戦に参画した。この戦闘が一番印象に残っている。
―大きな海戦だったと聞くが。
日本側はこの海戦全体で約4000―5000人が亡くなった。私の所属していた第4航空戦隊は、戦艦
「日向」「伊勢」の2隻、航空母艦4隻、巡洋艦3隻、駆逐艦6隻の隊編成だったが、10月25日、敵の機銃
掃射や魚雷で航空母艦は4隻ともやられ、計7隻が沈没した。
私は「日向」で艦長の伝令をしていた。電報が入ると各艦へ伝達する役目だった。高い所から指揮している
艦長のそばで見ると、沈没した航空母艦に乗っていた兵が大海を泳いで助けを待っている。ところが敵の
飛行機から機銃掃射があり、救助艇そのものがやられて、うまく救助できない。敵が去るのを待ってボート
を出し、救助に向かう。
その間、(兵は)木片につかまって浮いているが、体力のない者は、そのうちに自滅し沈んでいく。そういう悲
惨な状況が一日続いた。
戦闘は朝8時に始まり、終わったのは夜6時。日向は無傷で生き残ったため、負傷兵を助け上げた。甲板
から通路に負傷兵や亡くなった兵が横たわり、血だらけ。悲惨な状況を目の前にした。
―海戦後は。
日向は飛行機の格納庫を仕切って燃料庫にし、シンガポールから内地へ燃料を運んだ。普通の輸送船では
すぐに敵にやられるから、戦艦を使った。豊後水道は敵機が行き来して通れないため、関門海峡から山口県
岩国の燃料庫へ運んだ。
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