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知ってる民話を投稿しよう!
1
:
たま
:2025/04/27(日) 01:36:40
新潟県糸魚川市に伝わる民話の現代語訳です。
現代語訳「橋立村の話」
昔々のことです。
武蔵野から、藤原という人が戦に敗れ、落ち武者となって青海川の奥深くへ逃れてきました。
身の安全を守るため、素性を隠し、武蔵野の「武」を取って「武藤」と名乗り、名前も「次助」と改めて、武藤次助として暮らしていました。
ある日のこと、次助はふと思いました。
「久しぶりに海の魚が食べたいな」
そう思い、川を下って海へ向かいました。
釣り竿を垂らしていると、ふと、波間に大きな箱が浮かんでいるのを見つけました。
「何だろう?」
不思議に思い、箱を岸へ引き寄せて中を覗いてみると、なんと美しい若い娘が入っていたのです。
驚いた次助は尋ねました。
「こんな箱の中に、どうして?」
娘はか細い声で泣きながら答えました。
「私は親の言いつけに背いて、勘当され、箱に入れられて海に流されたのです……」
親が決めた縁談がどうしても嫌で、拒み続けた結果、ついに勘当されたのだと言います。
娘の姿を見た次助は、たちまち心を奪われました。
「どうか、私の嫁になってください」
次助が頼むと、娘も次助に好意を抱き、二人は娘の親のもとへ結婚の許しを得に行きました。
娘の親は次助を見て喜び、二人の結婚を認めました。
そして、次助たちが川を渡るのに遠回りして苦労していることを聞いた親は、
「橋がないと不便でしょう。この金は少ないけれど、橋をかける助けにしなさい」
と言って、たくさんのお金を渡してくれました。
家に戻った二人は力を合わせて一生懸命働き、ついに青海川に立派な橋をかけることができました。
その後、二人の子どもの一人を川向こうに住まわせ、橋のおかげで村の両岸とも豊かで便利な暮らしができるようになりました。
やがてこのあたり一帯は、「橋立村」と呼ばれるようになったのです。
2
:
たま
:2025/04/27(日) 01:52:40
山に隠れ住んだ事から、平家方だったのではないかと思い。
AIに次のように尋ねてみました。
「次助が平家方であった可能性は?」
答えは次のように返ってきました。
民話の伝承と、武藤一族の動向から考えると、武藤次助が平家方であった可能性は非常に高いと言えます。
その根拠は以下の通りです。
* 民話の伝承: 橋立村の民話では、武藤次助(藤原を名乗った可能性のある人物)は戦に敗れてこの地に逃れてきたとされています。敗れて逃れるという状況は、平家方として戦に加わっていた可能性を示唆しています。もし源氏方であれば、敗走する必要はありません。
* 武藤一族の動向: 監物太郎頼方は平知盛の近臣であり、一ノ谷の戦いで平家方として討ち死にしています。武藤一族の中で平家に属したのは頼方とその弟の武藤資頼のみとされていますが、資頼は後に源氏に帰順しています。この状況下で、頼方の子である可能性が高い次助が、父と同じ平家方として戦っていたと考えるのが自然です。
* 隠れる理由との整合性: 前述の通り、平家方であったからこそ、戦後に源氏方の追及を逃れて身を隠す必要があったと考えられます。もし次助が源氏方であれば、隠れる理由は見当たりません。
これらの点から、武藤次助は父である監物太郎頼方と同じく平家方として戦に身を投じ、一ノ谷の戦いでの敗北後に橋立の地に落ち延びた可能性が高いと結論付けられます。
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