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進化論と創造論の正否を論じる掲示板 -1-
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生物の進化を考える場合、大きく分けで進化論と創造論の二つに大別されます。
進化論にも色々な考え方があり、創造論にも様々なバリエーションがあります。
そのそれぞれに関して、その正否を幅広く論じていきたいと思います。
これまで同じしたらば掲示板の「シン進化論と創造論についての第1掲示板」で
同じハンドルネームで投稿してきたので、興味のある方はそちらを参照してください。
知識の有無は問わず、進化論と創造論に関して興味があり、フラットな視点でその正否の議論を展開したい方の参加を希望します。
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それを決着させないで議論を進めることは出来ません。
主流を任ずる総合説は言うまでもなく自然選択が大前提です。
自然選択が成り立たなけれ、その前提が崩れ去ります。
適当に誤魔化せばいい話ではありませんね。
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ここまで話せば、如何に一般に論じられている進化論が馬鹿げたものであるか
良く分かります。
空想を信じて語っているにすぎません。
つまり無意味です。
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シZ線選択を理解しない、説明出来ない、ましてや照明なんてとんでもない連中が
進化論を偉そう語っている訳です。
その前に自然選択論の構造を理解しないと駄目です。
話になりません。
しかし目が醒めないんですね。
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自然選択を信じることは理性の敗北です。
宗教に屈していることに気付かないんですね。
教条の虜です。
中世のスコラ哲学と何ら変わりはありません。
一番怖いのはその無自覚です。
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ID論を宗教と非難する当の本人が宗教的なドグマに冒されまくっているんですね。
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宗教と科学を混同して見極めが付けられないのは、それは非宗教者においては
端的に知性の低さです。
宗教者においてはその動機に区別がつけらないことです。
ID論自体が非宗教である事すら理解できないのは論外ですが、宗教者が語るID論には
限界があります。
ID論の正否自体は宗教と全く無関係です。
従ってID論を支持する宗教者は自らの信仰と関係なくID論を語ることが出来ます。
その限りにおいてほとんどの主張は正しいですね。
しかし自らの信仰と接合しようとした時点で、それは正否の論争ではなくなります。
信仰の世界に突入してしまいますからね。
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大多数の人たちはロジックに実は弱い。
精密なロジックを組み立て展開でき人は殆どいません。
とても残念ですが、私は極めて稀にそれが出来る人間です。
これもとても残念ですが、今このスレで書いています。
自然選択論が完全な誤りであることを認識できる人間も殆どいません。
何度も言っている3つのステップが何故か理解できない様です。
少なくともロジックを見極める、と言う点においてはどうやら比類ないですね。
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科学を名乗るのであれば当然厳密な検証が必要とされます。
空想で、こう考えれば説明できる、ではダメです。
これすら十分に理解されていないですね。
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実際ロジックだけでID論に到達した人は相当少ないかも知れません。
アントニーフルーはそうだと言えるでしょう。
頑強な無神論者が特定の宗教に入信したわけではないのに、DNA情報に直面して
81歳で転向した、これも極めて稀な人です。
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前のスレから通算して10年以上書いていますが、その間に色々学びました。
勿論スレの他の人たちから学んだという事ではありません。
知識も理解も書き始めた当時とは比較になりません。
そしてこれもその過程で分かったことですが、進化論者たちの余りのお粗末ぶりです。
これも予想を超える遥かに超えるものでしたね。
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もう一方で宗教との混同が酷い事です。
これも予想を超えていました。
残念ながら私は宗教には全く興味がありませんが、宗教者、非宗教者が入り乱れて
混乱する様にも驚かされます。
宗教と科学を峻別して追求するだけの知性が無いんですね。
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科学は事実を解明する学術分野である、と定義することが出来ます。
事実の対極にあるのは、虚構、想像、信仰、と言った概念になります。
科学とはそもそも基本的に西欧文明によりもたらされたものです。
そして、中世までの西欧文明を覆っていたのはキリスト教です。
キリスト教は宗教であり信仰です。
つまり、中世までの文明は事実と虚構の区別が曖昧な状態だったわけです。
その事実と虚構の区別が曖昧なカオス状態から脱却する先鞭をつけたのが、
ガリレオからニュートンに至る近代物理学の系譜です。
それは事実を数理的に説明する、と言う普遍性を持つ試みでもあります。
ポイントは事実です。
事実の裏付けが無いものは科学とは呼べません。
それは想像に分類されます。
従って、科学とされるためには事実による検証が絶対的な必要条件になる訳です。
その要件を踏まえたうえで自然選択論を検証すれば、それが科学かどうか
自ずと明らかになります。
つまり自然選択論は空想でありそれを信じるのは宗教的信仰に他なりません。
それが自明であることを認識できないのは自ら教条の虜であることを認めることになります。
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前にも述べたように、ID論には教義も経典も教祖も信仰の対象となる人格神も存在しません。
IDを神と呼ぶのは自由ですが、宗教的な意味での神には該当しません。
宗教は無検証に前提となる神を信じるのに対して、ID論のIDは検証と考察と結果の結論です。
それでも尚ID論を宗教と呼ぶのは、ID論に対して基本的に無知であるか、或いはどうしても
ID論を宗教と位置付けないと不都合な事情が何かあるのか、そのどちらかという事になります。
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物理学がガリレオに始まりニュートンに至る経緯を経て近代科学化を成し遂げていきますが、
それに対して生物学の近代化は2世紀以上の遅れをとります。
生物学の近代化を成し遂げたのはパスツールです。
パスツールは初めて実験手法を用いて微生物が自然発生しないことを示しました。
それが科学的な手法です。
それに対して、ダーウィンは科学者でも何でもありません。
ダーウィン自身、ずっと地質学者を自称していますね。
純粋に地質学の観点からいえば地質学者も科学者ですが、彼が提唱しているのは生物の進化に関する理論です。
それが何ら科学的手法に依拠していないのは、「種の起源」を読めば明らかです。
「科学(science)」と言う言葉がよく使われだしたのは比較的近年ですが、ダーウィン自身
科学と言う言葉を殆ど使っていません。
実際、実験と観察、観測による事実の検証、この最も基本的な近代科学の手法をダーウィンが
十分に理解していたと思える痕跡はありません。
「このように考えれば説明できる」
これがダーウィンの口癖です。
そこに事実による検証は存在しません。
ダーウィンが最後まで気にしていた「あるべき膨大な中間種の化石の不存在」に関しても、
自説の最大の弱点と認めながらも、その不存在の理由に様々な言い訳を用意することに熱心で
事実の裏付けがないままに自説の正しさを主張し続けます。
これは思索だけに頼った古代ギリシャ哲学者と大差ありません。
スコラ哲学の様にロジックの精密性を追求することもありません。
彼が引用している膨大と思える事例も、現存する数百万に及ぶ生物種に比べればほんの大河の一滴にしか
過ぎません。
自然のごく一部をピックアップして語っているだけです。
それそれを多くの人々が騙されて科学と信じ込みます。
それは騙される側の責任でもあります。
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科学には禁忌は無いのです。
それを存在させてはいけません。
禁忌の存在を肯定した時点でそれは科学ではなくなります。
つまりあらゆる可能性を探りそれを検証することが科学なのです。
その科学の基本たる大前提を理解しようともしないで、多くの人たちが科学を語っています。
例えば設計者の存在を頭ごなしに否定することが科学である、と思い込んだりしている訳です。
そしてそれ自体宗教的ドグマと何ら変わらないことに気付こうともしません。
つまり盲目の科学教信徒たちです。
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何度も説明して来ましたが、自然選択論は簡単に言えばより生存に適したものがより多く生き残ることによって、
進化がもたらされる、と言う考え方です。
ツマリ生存に有利なものが生き残り、より生存に有利な形態になる。
生物の進化を概観すれば、これも何度も言ってきましたが、複雑化と多様化です。
では、複雑化と多様化は実際に生存に有利であったのか。
単にその個体数を増やすためだけであれば、複雑化は全く必要がありません。
単純であればその複製も簡単で安全であるのは誰でもわかります。
多様化にしても、その環境に応じた多様性があれば十分で、現在の様に数百万種に及ぶ種を
誕生させる必要は全くありません。
或いは様々な環境に対応できる少数の種を生み出す方が遥かに効率的です。
つまり、複雑化も多様化も生存の優位性とは全く無関係です。
これは極めて自明の事柄なんですが、何故か自然選択論者はそれを完全に無視します。
不都合な事実にはすべて目をつむる、若しくは何とか言い訳をこじつける、それが自然選択論者の態度の真実です。
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この極めて基本的な進化の事実すら説明出来ない自然選択論に対する信仰を止めようとしない人たちが
進化論の足を引っ張り続けます。
150年以上にわたって進化論は歪められた姿のまま変容します。
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何故科学な証明が全く存在しない理論を多くの人たちがあたかも証明された科学理論であるかのように誤解し、信じ込んでしまっているのか。
それも半ば常識であるかのように多くの人たちに信じ込まれています。
これは厳しい言い方をすれば人間の理性の敗北です。
1930年代の集団遺伝学者と称される一団がそれまで科学から見放されつつあった自然選択論を強引に科学に仮装させて祭り上げます。
しかし最も問題なのはその詐術に易々と乗せられた無批判な人達です。
それに追従して自立した思考を展開できなかった人たちこそ最も責任が重いと言えます。
それは宗教者の態度と何ら選ぶ所がありません。
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100%の全会一致は不健全と言われたりもしますが、それもまあケースバイケースですね。
100%TAの全会一致が正しい事もあるでしょう。
しかし通常はどの様なテーマに関しても、一定するの反対意見が存在することが通常です。
多数派と少数派どちらが正しいかも勿論ケースバイケースですね。
多数派が正しい蓋然性が高いと言うのが民主主義の依って立つ前提です。
政治の目的が最大多数の最大幸福であれば、それも已む得ない所です。
科学ではそうはいきません。
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少数派である事実の主張が弾圧されてきたことは歴史を見れば明らかです。
その弾圧は主として宗教者サイドからのものからでしたが、そうとも限らないは自然選択論がよく示しています。
つまり自然選択論者サイドからの一種の弾圧です。
宗教者サイドからの弾圧とよく似ていますね。
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自然選択論は科学信仰と妄想が合体したかなり奇怪な存在です。
科学と宗教を峻別することのできない知性の弱さがその存在を支えています。
当人たちは科学だと思い込んでいるので、宗教的とみなされるものを排撃します。
それが宗教的ドグマ自体であることに全く気付かずに。
そしてそれが進化論を迷走させ続けます。
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無知が宗教の母体であることは繰り返し述べてきましたが、自然選択論に関しても全く同様の事が言えます。
その無知には自然選択論自体に対する無知も含まれます。
逆にそこが通常の宗教と異なる点ですね。
宗教であることの自覚がないのは勿論根本的に異なる点ですが。
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実在する、つまり現実に存在していること自体が環境に適合している、という事です。
環境に適合出来ていなければ存在できません。
実際の世界でその環境に適合出来ていないにもかかわらず存在できている生物なんていうものは何処にも存在しません。
不適合は結果としてその生命体の死をもたらします。
現存する生物たちは既に環境に適合しているので、環境が変化しない限りそれ以上変異する必要ありません。
この極めて明白な事実すら見逃されています。
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ダーウィンは変異する際に選択される有利な形質は変異以前の有利でない形質の個体たちを絶滅に追い込むと言う事を述べています。
絶滅しなければならない理由は何処にもありません。
自然選択論は個体と集団の関係、種の分化する過程、種に境界が生じ理由、変異に方向性が生じる理由、変異が起こらず平衡状態になる理由、これら全てを説明出来ません。
これを証明された進化理論を信じ込めるのは一体何故なんでしょうね。
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科学的な証明が全くなされていないのに「証明された科学理論」だと信じ込む。
そう教えられたから、そうだと言われたから、みんなそう言っているから、それが学会の主流説だから、
だから疑わずに信じ込む?
さて、悪いのは誰なんでしょうね。
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総合説は自然選択のほかに遺伝的浮動或いは生殖隔離を進化エンジンとします。
遺伝的浮動、生殖隔離、とくに同所的生殖隔離に関して自然選択同様明確な事実による証明がありません。
遺伝的浮動はよく中立説とセットで語られますが、これも自然選択同様中立説で主張される所の分子進化が遺伝的浮動で述べられる表現型にかかわる対立遺伝子の頻度変化にどう接合しているのか、
この説明が全くありません。
生殖隔離にしても特に問題となる同所的生殖隔離に関して、何故その様な生殖隔離が発生したのか、その理由に関しての納得できる説明が全くありません。
そんな状況にも拘わらず、総合説は現在主流説として承認されています。
進化論学会の余りにお寒い状況が象徴されていますね。
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総合説は基本的に誤りです。
それが学会的に承認されています。
つまり進化論に関する学会が殆ど無意味である、という事です。
解散した方が良いですね。
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総合説を排除する、つまり総合説なしに進化の現認をどう捉えるか。
進化エンジンを説明する説は実は総合説以外に殆ど存在しません。
断続平衡説も跳躍説も共棲説説も、また中立説単独でも、何れも進化のメカニズム自体の説明は出来ていません。
実際の所進化のメカニズムを明確に説明し得ているのは自然選択論位なのです。
そしてその自然選択論はずっと言ってきた通りダーウィンの空想に過ぎません。
つまり、現在進化エンジンをまともに説明出来ている説は無いのです。
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その結果どうなるかと言えば、このような原因で進化が起こった、と言う説明は全て無効という事です。
進化の原因は説明できない、これが現時点での最も妥当な説明です。
偶然は勿論排除されます。
偶然性のみで説明できる訳もありません。
自然選択論は偶然とは言っていません。
中立説は偶然性と同居していますが、それでは進化の原因の説明になりません。
分子進化が中立と言うだけで表現型にもたらされる進化がなぜ起こるのか、その説明は全く出来ません。
何度も説明して来ましたね。
この様にして生物世界は存在している、その根本原因は不明である、と言うのが取り敢えず最も妥当な説明です。
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そして、この全生物は設計された存在として捉える以外に説明の仕様がないない、と言うのがもう一つの真実です。
設計の結果である以外の説明が不可能でない、と言うなら生物存在の理由を偶然性若しくは自己組織化にに求める以外にありません。
偶然性で説明できる訳もありません。
もう一つ、自己組織化であるとすら、それに対する条件付け、つまり前提条件、何らかの与件が必要です。
その結果どうなるかと言えば、その与件を設定、つまり設計する必要があります。
結果としてそれは設計の結果問う事になります。
それ以外の説明は不可能です。
設計でないとしたら自然任せ、とするしかないですね。
それは自然選択論と精々それに自己組織化を追加するくらいしかありえません。
自然選択は不可能です。
自己組織化は結局与件が必要です。
結果、デザイン以外の推論は成り立ちません。
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これは自明です。
完全な自然任せの結果か、何らかの知性が介在した結果か、この2択しかありません。
自然任せで有り得ないことは自明です。
デザインの結果であるとするならすべての説明がつきます。
議論の余地はないですね。
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疑いを差し挟む余地のない極めて単純明快、シンプルな結論です。
これ以外の結論は有り得ません。
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科学信仰によるドグマから解放されない人たちにとってはいかなるロジックも無意味です。
彼らは科学の本質の知らずにそれを信仰の対象とする、自然選択信仰と非常によく似ていますね。
彼らの目的は真実ではなくて信仰です。
信仰の対象に恭順の意思を示すことが彼らの使命です。
従って彼らの前では事実は何の意味も持ちません。
それは捻じ曲げ覆い隠す対象でしかありません。
信者の務めですね。
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少し前にUFOの存在を躍起になって否定しようとする人たちがいましたが、それも同類です。
何とか既存の知識と科学で説明しようと事実を歪曲します。
しかし米軍がその存在を公式に認めたことにより彼らの立場は無くなります。
権威に極めて弱いのも同様ですね。
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総合説はデタラメ、にも拘らず総合説は学会の主流の任じて憚らない、この極めて異様な光景は何にもまして醜悪です。
自然選択論はダーウィンの空想、科学的証明ゼロ。
中立説は表現型に接合しておらず孤立して進化の実相を説明出来てはおらず自然選択論とは無関係。
遺伝的浮動は机上の空論で何ら具体的な進化を説明出来てはいません。
つまり総合説は無意味です。
それは進化論アカデミズムの自死を意味します。
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それ以外の説明があり得ないデザインはそれが一部なのか全部なのか、取り敢えずその問題が提起されます。
一部にしろデザインが可能であれば、全てのデザインも可能ではない理由はありません。
宇宙創成とその進化、生命の誕生と進化、それら全てがデザインであると考えるのが最も妥当な論理的帰結です。
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生物の誕生、進化はいくつかの大きな跳躍が存在します。
それは勿論ダーウィンが構想した微細な変異の累積とは無縁のものです。
それらは全て奇跡とも思えるイベントです。
奇跡的な条件の結合、遺伝子の獲得、水平伝播、共棲、それら全ては奇跡にしか見えません。
しかしそれらは現実であり、現実であるという事は現実たらしめた何らかのメカニズムが存在したという事になります。
そのメカニズムは現在の所全く不明です。
何れにしろ、それら全てが設計である、とする以外の説明は存在しません。
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共棲ではなくて共生です。
真核生物の誕生に代表されますね。
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跳躍もデザインされている、と考えるなら、殆どの偶然性も支配している、つまりデザインの結果とも考えらます。
しかしある程度は偶然をも支配できるとしても、完全に偶然を支配できるのか、或いは動物の行動、人の自由意思にまでそれは及んでいるのか。
これはまた相当な難問です。
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この問題には常に悩まされます。
それは理神論的な全てが初期設定のみで可能かどうかの問題ともリンクします。
中間関与の問題ですね。
これまた中々の難問です。
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人間の意識に関しては更に困難な問題を提供します。
ダーウィンには到底理解できない世界です笑
ウォーレスはしっかり指摘していますね。
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本能からすら逃げているダーウィンが意識についてどう考えていたのかは全く不明ですが、
意識は生命の本質にかかわる問題です。
そもそもの生命誕生おける自律性の獲得は意識の原型です。
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そこに生命の核心があります。
そしてその核心が一体何なのか、これまた極めて解明困難な問題です。
現在意識と量子論の関係が論じられたりしていますが、それは物質世界との接合の話であり、意識の本質は遥かに深い闇の中と言わざるを得ません。
その認識主体が一体どこに存在するのか、今のところ全く不明です。
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それは当然デザインの一環として考えることになりますが、勿論解明の糸口すらまだ見つからない状態です。
ただ明らかなのは、それが物質的な偶然性からは生まれようもないという単純な事実です。
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デカルトの神の存在証明は稚拙であまり考慮に値しないものですが、彼の懐疑論はロジックとして極めて正しく、またその二元論も基本的に正しいものです。
その意味するところは物質主義の否定です。
なんとあのダーウィンも自ら唯物論者と称されることを極めて嫌悪しています。
最初創造によって生命を吹き込まれた、と言ってるくらいですからね。
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科学を名乗りながら科学に背を向ける総合説論者にはとても理解の範疇ではありません。
彼らは単なる信徒です。
その信仰の中で科学を論じます。
空想の世界で遊んでいるだけなんですね。
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因みに、最初創造によって生命を吹き込まれた、と言うのはなかなか良い表現です。
種の起源の中でこの結びの文章は評価できます。
残念ながらそれがその著書中で全く生かされていないのは何故なんでしょうね笑
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繰り返し述べてきましたが、総合説は科学以前です。
ところどころに科学の切れ端が散りばめられただけの疑似科学です。
まさに彼らが批判したいところのね。
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疑似科学の信徒は自然選択を譫言のように口にし続けます。
それが信徒の所以です。
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もしかしたら、ダーウィン自身も迷惑がっているかもしれません。
最初創造によって吹き込まれた、と言っているくらいですから。
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驚くべきことにあのドーキンスですら、ID的な創造神は認めると言う事をその著書の中で述べています。
彼は単なる宗教嫌い、それも徹底した宗教嫌いです。
彼の全ての動機はそこにあります。
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無知と宗教、このアンチテーゼの見事な妄想が現代の総合説です。
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総合説論者はその真っただ中で彷徨っているこに気付こうともしません。
理性の敗北を秘かに宣言していることにも。
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ダーウィンがひたすらターゲットにしているのはキリスト教的創造論ですから、その意味ではドーキンスと一脈通じているかもしれません。
ダーウィンの番犬と称されるドーキンスが主張したいのは、実は自然選択論なんかはどうでもよくて、唯々宗教否定だけなんですが。
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何れにしろ一番の惨状は、自然選択論を証明された科学と信じ込む愚かしさに気付かなない、或いは気付こうともしない、おもちゃの家界隈の住人とそれと取り巻く人たちの呆れた光景です。
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その惨状に気付いている人は決して多くはない様です。
それもまた惨状ですね。
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ダーウィンは常に悩みます。
自然選択論に対する不都合な事実に直面し続けるからです。
そして悩んだ結果などうなるか。
これもずっと述べてきましたね。
悩みに悩んだ挙句、揺るがぬ自説を守り抜く信念のもと、何とかして言い訳をひねり出します。
この態度は終始一貫して変わりません。
彼にとっては事実の証明があるかどうかは二の次です。
それが見つかれば勿論狂喜するんでしょうが、無くてもお構いなしです。
ひたすら自分の信じる道を突き進みます。
その道が誤っているかどうか、それには大して関心がありません。
彼にとってはいったん選んで歩みだした道を進み続けることが何より重要なんですね。
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目の進化に関しても、また例によってダーウィンは一度はそんな複雑で精密なシステムが自然選択論によっては到底出来そうもないと言っておきながら、またすぐその後で微細な変異が積み重なれば自然選択によってそれが成し遂げられると考えることは不可能ではない、と言って見せます。
全てがこの調子、そんなことを言い出せば自然選択で成し遂げられないことなど何一つ存在しないことになります。
そして相変わらずダーウィンは自然選択の具体的な過程についての説明を一切しようともせず、都度有利な形質が選択され続ければ可能であると言う説明しか行おうとしません。
この極めて不誠実な態度に何故これだけ多くの人たちが易々と乗せられて騙されるのか、まあ愚かなんでしょうね。
他に言い様がありません。
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驚くべき精巧な光学システムとデジタルシステムが統合されたこの目の機能がどの様な過程を経て誕生しるのか、それを説明出来る人など誰もいません。
自然選択の過程など少し想像力を巡らせば到底不可能であることなどすぐに理解できます。
それをダーウィンはあの持って回ったレトリックで不可能であるとする理由は無い、と言って見せます。
具体的にどのようにしてそれが可能たらしめられたのか、そんな説明は一切ありません。
呆れますね。
書く方も、それを読んで納得してしまう輩も。
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ダーウィン流のレトリック、確かにこれは説明困難な問題に見える、しかしこのように考えればそれは決して説明不可能であると断じることは妥当であるとは言えない、それが説明可能であるとすることの十分な理由存在しないとするのは妥当ではない、
こんな感じの言い回しで彼は自説を擁護し続けます。
この尤もらしく持って回ったレトリックに騙されるんですかね。
こちらにとってはそれは残念ながら騙す道具立てにはなりません。
とてもではありませんが、ダーウィンの態度は本来の科学者の取るべき態度とは真逆のものです。
それでも科学と呼びたいんですね。
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現代の進化論の主流とされる総合説は自然選択論がその基盤であり、そのダーウィンの唱えた自然選択論自体が基本にこの様に彼の空想に基づくものです。
正しかろう筈もありません。
環境に適応するように進化すると言うのは分かり易い概念です。
誰しも一度は動物たちの持っているそれぞれの形質が何の役に立っているのか考えてみたことはあるでしょう。
つまり生存のために何らかの役に立つのでその形質を持っている、と漠然と考える訳です。
しかしそれは漠然とした思い付きに過ぎません。
その漠然とした印象が自然選択論と類似している点も多くの人たちが自然選択論を抵抗なく受け入れてしまう理由でもあります。
当然ですが、その漠然とした印象は科学とは無関係です。
科学的な理論とその検証は通常の印象と全く異なることは逆に通常です。
相対性理論や量子論を挙げるまでもありません。
望遠鏡すらない時代、天動説は最も日常感覚に合致する理論です。
しかしこの科学が進歩した時代、その日常感覚と科学を混同して平然としている人たち、それも科学者を名乗っている人たちが少なからずいるんですね。
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単なる思い付きの妄想とそれに対する言い訳、それを正当化する為の博物誌的な偽装、それを科学と錯覚する、或いは錯覚させる、
この愚かしい人たちがアカデミズムの中心に陣取っています。
それは惨状であると同時に喜劇的な光景でもあります。
ピエロたちが道化を演じている訳ですからね。
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これは人類の恥です。
理性の敗北、つまり宗教そのものですね。
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彼らはおもちゃの家に向かってダーウィンの名前を唱え続けます。
礼拝は信徒の勤めですからね。
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礼拝の対象は妄想家です。
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その妄想家の言い訳すら、信徒にとっては礼拝の対象です。
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信仰の母体は無知ですから。
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科学信仰と言う自覚されざる信仰も勿論無知の産物です。
始末が悪いですね。
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良し悪しは別として、信仰も一種の病です。
信仰はマインドコントロールであり、理性を剥奪します。
特に知性の低い者程信仰によってがんじがらめになって身動きも取れない状況に陥りがちですね。
ダーウィン信仰も全く同様です。
他の事が考えられなくなります。
つまり病ですね。
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ダーウィンを崇拝していさえすればそれで事足りると言う貧弱な知性しか存在しない状態になります。
もともと知性が貧弱なのにね。
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バチカンなんかもその狭間で右往左往してますね。
彼らも矛盾の塊です。
残念ならがその整理が付けられるだけの知性は持ち合わせていません。
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最近神父の性的虐待が問題になったりしていますが、それも宗教の抱える矛盾を象徴しています。
勿論カソリックに限った話ではありません。
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つまり言ってる事とやってることが違う、言行不一致と言うやつですね。
宗教者には有りがちな話です。
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宗教は理性を曇らせます。
場合によっては理性を剥奪します。
特に知能の低い宗教者の場合にはその傾向が顕著です。
言行不一致はそれとはまた別の問題ですが。
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それが発達障害と融合すると全く救いようのない状態になります。
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進化論と宗教の関係も捩れまくっていますね。
これも基本的に無知によってもたらされますが、色々と混同が酷いです。
典型的なのはID論を宗教だと極め付ける、或いは宗教以外のものとして捉えられないと言う思考停止です。
これは前にも書きましたが、その理由はID論自体を全く理解できない、或いはそう極め付けないとどうしても都合の悪い何らかの事情がある、そのどちらかという事になります。
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それ以外でも、宗教者、非宗教者、科学者が入り乱れ、カオス的な混乱状態さえあります。
色々整理できない訳です。
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一つには物質的な説明がつかないものは科学ではない、と言う一方的な思い込みがありますね。
唯物論、或いは一種の科学至上主義です。
既存の知識、科学で説明できないもの存在を認めようとしないと言うかなり偏った科学主義もあります。
前にも書いた通り、科学に禁忌は存在しないし存在させたらそれは科学ではなくなります。
それが基本的な科学の姿勢です。
その基本が理解できていないんですね。
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人類が科学によって解明できているは巨大なピラミッドの頂点で顔を出しているほんの小さな四角錘に過ぎません。
その下に埋もれている巨大なピラミッドの全貌はまだ誰にも分かりません。
一部の科学至上主義者たちはそれがピラミッドの全てだと錯覚している訳です。
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宗教は基本的に虚構ですから、進化論と宗教の識別がつかないと言うのは事実と虚構の区別がつかいという事です。
虚構と言えば正に自然選択論ですが、その信奉者たちが宗教的とみなしたものを攻撃すると言う極めて皮肉な状況を生み出しています。
色々と自覚できないんですね。
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宗教は一種の病です。
それが低知能の発達障害と交わると悲惨なことになります。
飽きることなく醜悪な姿を晒し続けます。
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中世を暗黒で覆ったのは宗教です。
その暗黒に縋り付いて尚救われない重度の発達障害はさらに自然選択の妄想に救いを求めます。
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永遠に救われる事はないですね。
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そのデタラメぶりはキリストにも見放されます。
自業自得ですね。
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カソリック信仰とダーウィン信仰に二股かけるその姿は醜悪そのもの。
それに全く気付かない無自覚はその知能の低さ故ですね。
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唯物論的な物質主義と科学を混同している人たちが少なくありません。
これはこの世界の全てが物質的に説明可能だとういう思い込みから来ています。
デカルトの二元論が基本的に正しいです。
物質主義的な思考に陥っている多くの科学者はこれを否定します。
物質主義と科学が同一ではないことは言うまでもありません。
意識の存在に関して量子論的なアプローチも現在色々なされていますが、それはあくまで意識本体と物質的存在の接合部分の話でしかありません。
量子論或いは量子的な説明で意識の全てが説明される事はありません。
この政界の構成の全て、それは生物、生命体の意識を含みます。
意識の主体は脳内の出禁忌信号ではないのみならず、量子もつれや両氏の重ね合わせ、微小器官だけで説明できるものではありません。
この世界を理解するとはそういう事です。
人間の理解がどこまで進むのか、その限界が存在するのか、未知の存在を認識できないと逆に既知の事すら十分には理解できません。
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量子の重ね合わせですね。
それはその収縮も含めてあくまで物質の範疇における問題です。
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この世界の構成の全て、それは生物、生命体の意識を含みます。
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脳内のニューロンの電気信号は勿論単なる物資上の事象です。
視覚野で結像したデジタル情報が単なる物質的な事象であるのと同様です。
結像した画像を見ている主体は別に存在します。
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意識に関してただぼんやりとしか概念しか持ち合わせていない人が多いのには驚かされます。
デカルトの懐疑論の結末は自明のロジックなんですが、それも中々理解できない訳です。
自分の持っている意識について突き詰めて考えたことが無いんですね。
意識とは認識主体です。
人間であれば自分が自分と感じ、認識するものです。
それは物質では説明がつきません。
しかしそれは存在します。
それが現実であり事実です。
それは取りも直さずなんらかの非物質的な実在があるという事です。
それは物質的な説明に限界があることも意味します。
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ダーウィンは生物が意識を獲得する過程に関して全く興味を示していません。
意識に関して考察した形跡もありません。
本能ですら、その発生原因の解明からは逃避しています。
その点ラマルクは遥かに誠実です。
非物質的な存在をしっかり認識しています。
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ダーウィンは本能に関してわざわざ1章設けていますが、何ら本能の本質に踏み込もうともせず、単に生物の様々な本能の態様を書き連ねてそれ等が変異し得るのもだとひたすら述べるだけで、勿論ファーブルの指摘の回答になるウル説明など何一つありません。
ましてや本能と分かちがたく共存する意識、人間のみならず生物の自律性の核心である意識の獲得に関しては考察ゼロです。
ダーウィンの視野の狭さが如実に示されますね。
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生物の進化には極めて高く聳え立つ到底超えられそうもない壁がいくつも存在します。
そもそもの生物の誕生、真核生物の誕生、有性生殖、多細胞生物、それらカンブリア大爆発に至る過程だけ見ても到底説明可能と思われないイベントが数多く存在します。
生物の意識の獲得も更に説明の仕様がありません。
それらは全て現在の科学レベルでは説明不能です。
ダーウィンはほんの一部の事象だけ見ながら、微細な変異が蓄積すれば全ての事が可能だと言って見せます。
それが進化論の中心に位置する前提として何の疑いも持たない総合説をこれまた無検証に信じ込む、これを惨状と言わずに何と言えばいいのか。
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つまりダーウィンの進化の実相を全く理解しない単なる思い付きの妄想が亡霊どころか事実と信じられて祭り上げられます。
ダーウィンは進化を何一つ理解していません。
科学的な証明がゼロのみならず、構想の全てが誤りです。
博物誌的な出来事をいくら並べ連ねて見せても何の意味もありません。
構想も誤り、ロジックも誤り、宗教と唯物論は忌避するが自分の思い込みは何としても守る抜きたい、
色々矛盾に満ちていますね。
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そのダーウィンの名を唱えて跪く、思考停止の崇拝者とそれを取り巻く愚民たち。
勿論発達障害は論外です。
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信仰は病です。
科学信仰とダーウィン信仰が重複すると醜悪で悲惨な事態になります、」
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この現代においてなお、宗教は事実を歪め続けます。
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信仰を自認する宗教はそれでも居直ればいい話ですが、その自覚のない科学信仰、ダーウィン信仰は始末が悪く手に負えません。
終生それで過ごすしかありません。
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中世を暗黒で覆ったのは宗教です。
その暗黒に縋り付いて尚救われない重度の発達障害はさらに自然選択の妄想に救いを求めます。
そのデタラメぶりはキリストにも見放されます。
自業自得ですね。
カソリック信仰とダーウィン信仰に二股かけるその姿は醜悪そのもの。
それに全く気付かない無自覚はその知能の低さ故ですね。
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永遠に救われる事はないですね。
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