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「俳句ダービー」?

240:2006/11/27(月) 17:19:34
仏ルイ12世−ヘンリー7世とフェルナンド2世−ユリウス2世の二線は、比較的に近い立場に見えるが、国の利害から争ったか?
以下、ウィキペディアから抜粋+私見

ユリウス2世、1503年 - 1513年
フランシスコ会→エフライム?
シクストゥス4世の甥で、シクトゥス4世はメディチと対立している。
アレクサンデル6世とのコンクラーヴェに破れ、
オスティアからパリに逃れていた。

アレクサンデル6世の死後、ボルジア打倒を目指し、
ピウス3世を擁立するが、彼は急死。
どのような取引があったか知らないが、
チェーザレ・ボルジアの支持を取り付け教皇の位についた。

ボルジャ家、ヴェネツィアの弱体化を狙い、
神聖ローマとフランスの同盟に尽力。

この頃のフランスはメーソン系皇帝。
神聖ローマについては後に調べる。
1506年に自ら軍を率いてペルージャ、ボローニャを陥落させた。

1508年にはフランス王ルイ12世およびアラゴンのフェルナンド王と組んで対ヴェネツィア共和国同盟を結成。ヴェネツィアをのイタリア半島における影響力を一挙に消滅させることに成功した。

ルイ12世、アラゴンのフェルナンド2世、ユリウス2世の、
メーソン系の線。

しかし、ここにきてフランスのイタリアでの影響力を危惧、
逆にヴェネツィア共和国と同盟し、フランスと敵対した。フランスとイギリスを離間させようとした教皇の策は失敗し、逆に1510年にフランスがトゥールで教会会議を招集するという反撃にうって出た。

ルイ12世−ヘンリー7世の繋がりと、
フェルナンド2世−ユリウス2世の線の対立は、
比較的に近い勢力に見えるのだが、細かい区別は棚上げする。
近い勢力にも、国同士の利害関係の対立はあるらしい。

北イタリアからフランスの影響力を削ぎながらも、
フランス以外の大国の影響力が大きくなってしまった。
そのまま1513年に死去。

ドナト・ブラマンテ、ラファエロ・サンティ、ミケランジェロ・ブオナローティなどがユリウス2世の援助を受けて優れた創作活動をおこなった。

ラファエロの代表作『アテナイの学堂』は、
ずばりプラトンとアリストテレスを描いているが、
それはエフライムとマナセとの繋がりを思わせる。

ミケランジェロは、メディチ家と関わっている。

1508年、今度はユリウス2世から墓廟の制作より先に バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶユリウスの命令に従った。

あまりユリウス2世と近いようには見えない。

ミケランジェロの立場の特定は棚上げしておく。

画像はフェルナンドがカスティーリャ王となった
1474年におけるイベリア半島の勢力地図

https://img.shitaraba.net/migrate1/6556.shugyo/0002582M.png




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