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「俳句ダービー」?

237:2006/11/27(月) 13:37:27
インノケンティウス8世は十字軍期と同勢力のメーソン教皇。レコンキスタ完成後に、スペイン異端審問を許可。
以下、ウィキペディアから抜粋+私見

インノケンティウス8世、1484年-1492年
教皇になると、キリスト教国に対し合同して異端(異教徒)討伐の義軍を起こすよう呼びかけた。しかし、オスマン帝国のバヤズィト2世が教皇に年4000ドゥカットの支払いを約束し、イエスのわき腹をさしぬいたとされる聖槍を贈り物として差し出すと、ローマに滞在していた弟ジェム(バヤズィトの王位をうかがう恐れがあった)を幽閉することを約束している。

1486年にはイギリスのヘンリー7世を継承権、戦争の実績、国民支持という三つの点において正統な王位継承者として認めている。

この意味はイングランドを調べてみないとわからない。棚上げ。

有名な回勅「スンミス・デジデランテス」でドイツにおける魔術師と魔女の存在を激しく糾弾している。教皇の魔術師に対する敵意は1487年の「マレウス・マレフィカールム」でさらにはっきりと示されることになる。さらに1487年にはフェルナンド王の推薦の受けていたトマス・デ・トルケマダをスペインの異端審問所長官として認めている。スペイン異端審問は教皇の権威を利用してフェルナンド王の政治的武器としてさかんに利用された。また、ワルドー派に対する殲滅戦を意図し、この戦いに従事するものに免償を与えると発表している。1486年にはピコ・デラ・ミランドラの多くの著作を禁書に指定してもいる。

ピコ・デラ・ミランドラ
メディチ家のプラトン・アカデミーの中心的な人物の一人。
近年は異教的な神秘主義の側面が注目されている。自然を支配する業としての魔術を信じていたが、占星術については、人間の運命が定められているというのは人間の自由意志に反する、として反対するようになり、師・フィチーノの説を批判した「反占星術論」を執筆している。また非ユダヤ人としては、はじめてカバラを極めたとされる。

メディチ家派の中心ということは、ダ・ヴィンチの立場とも近いのだろうか?
神秘主義はイスラム・スーフィズムと同様、
神の精霊との合一を目指す、ミトラ教の流れと仮定しておく。
精霊は文字通り、冥界の伏儀の霊。
だから、メディチ家がフルリに近い可能性もあるが、まだわからない。

ピコ・デラ・ミランドラの禁書は、
メーソン教皇対メディチ家の争いと仮定しておく。

彼の治世で起こった最大のイベントは1492年1月のグラナダ陥落である。レコンキスタの完成となったこの出来事はバチカンでも祝われた。イスラム教徒の奴隷100名を送られた教皇は、アラゴンのフェルナンド5世に「カトリック王」の称号を与えている。

インノケンティウス8世−イギリスのヘンリー7世−スペインのフェルナンド王の線は、
対イスラム−対異端で、十字軍期のメーソン教皇を思わせる。

スペイン異端審問については後に追いたいが、
ユダヤ教からカトリックへの改宗者、コンベルソを弾圧するもので、
対ユダヤもメーソンを思わせる。

彼は1492年6月25日にこの世を去ったが、多くの子供を残していた。「多くの悪い息子たちが生まれ、娘たちも生まれた。まさにこの人こそローマの父である」という言葉は、贅沢を尽くし、乱れた私生活を送っていた教皇に送られた痛烈な皮肉の言葉であった。ネポティズム(親族登用主義)は根深く、教皇はその子供たちに多くの特権を与えている。サヴォナローラはこの教皇の乱れた生活を厳しく糾弾していた。

インノケンティウス8世において、
アヴィニョン捕囚−公会議主義と続く、非メーソン教皇の流れから、
完全に十字軍時代の勢力に戻った、と推定できる。




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