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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

11893シルクロード:2022/05/28(土) 03:44:00
Re: 日本語; エミシの言語は
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エミシの言語は日本語の可能性大



11894シルクロード:2022/05/28(土) 03:47:15
Re: 日本語; 隼人の言語も
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隼人の言語も日本語である可能性大



11895シルクロード:2022/05/28(土) 03:54:56
Re: 日本語; 琉球語
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原日本語は「縄文語」だった?->No!

琉球語は「縄文語」に近い?->No!

巷で縄文語だと嘯かれているものは全て日本語に他ならない。日本語に「縄文語」の痕跡は皆無。



11896シルクロード:2022/05/28(土) 03:59:14
Re: 日本語; 出雲族?出雲語?
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奈良時代の出雲や東北では「縄文語」が話されていた?->No!!!!
出雲語は日本語に過ぎない。出雲族?ぷっ

出雲の観光アピールなんか止めなさい!何か神秘的なイメージ作り出してPRしたいのだろうが、古代科学史掲示板みたいに嫌がらせで神社の写真ベタベタ貼るなよ。サイコかw 戦争犯罪の片翼を担った出雲神社はノ・ロ・ワ・レ・テ・イ・ル!



11897シルクロード:2022/05/28(土) 05:27:28
日本語と韓国語
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韓国語のお勉強
ヘル朝鮮(???)/??地獄火半島(?????: チオクプルバンド)

・コリア語:?(pul)
・日琉祖語 *poy<*por?
ヘル朝鮮とは、Hellと朝鮮を組み合わせた造語で、70年代後半から90年代前半の間に生まれた世代の韓国国民が、韓国社会の生きづらさを表現したスラングである。
->対応するのは「地獄火列島」 (?????: チオクプルヨルド)。もう燃え尽きてる感じだが... (汗)



11898シルクロード:2022/05/28(土) 06:20:18
呆れた。
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青面金剛さんへのお返事です。

呆れた。
まさか?今どき?D1a2aの北ルートを想定してるんじゃないだろうな。
もう10年も前に北ルートは否定されているの知らない?お前の頭2005年辺りで止まっとるぞ。ほんと怠け者の貧乏人だなぁ。多分、青鬼は縄文人だよw

かわそうだから特別に少し教えてやろう:
1)D1b(現D1a2a)図1
「満洲にはD1b(現D1a2a)系統のヴァリエーションが無いにも関わらず、D1b1a2b1a1(D-Z1504)が存在する(261人に1人)ことから、シベリア、樺太、北海道を通ってD1b系統が日本列島に流入したとする、所謂「北方ルート説」は成立せず、日本列島で発生したD1b系統が、北上し、歴史時代になってからアジア大陸に流入したことが明らかである」。

ー以上の通り。
北から入ったんなら満州あたりでDの多様性が高くなっていないと変だからね。事実は、日本のD1a2aの特定のサブグループだけが2、3匹朝鮮半島北上しちゃって満洲族で極低頻度出るわけ。Dの他のサブグループは絶無。

D系統が東南アジアに集中していて、さらに古人骨も見付かっていることを受けて北ルート説はとっくに放棄された。


2)縄文人ゲノム
「縄文人ゲノム」についても、東南アジアからフィリピン、台湾、韓国にしか残されていない。そもそも、肌の色が濃く、体格の劣る縄文人が北方ルートを取れるはずがないだろう?縄文人はそんなタマじゃないんだよ。出雲や打たれ弱いお前もだw


3)最後に、半島から列島へ入った可能性はあるか?
ーNo!
遼河流域の新石器文化の個体と朝鮮半島中部西岸に位置する大竹里遺跡(800BC-500BC)の個体の遺伝的構成に縄文人ゲノムが欠如しているので、 縄文人の北方ルート説や朝鮮半島土着説は完全に却下された。0%だ。

まさか今どきこんなこと説明させるとはなぁ。。。
講義料とるぞw



11899シルクロード:2022/05/28(土) 08:15:04
天孫族 こんなもんじゃないかな?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012899_3M.png

1. 【渡来人】日琉祖語集団(現代日本人男性の25%)->ヤマト王権(弥生人と古墳人)
(1)O2(旧O3)(19%)
・O-M117(5%)トランス・ヒマラヤ語族集団
・・ACT7481(2%)長城地帯古人(戎狄)先日琉語族集団【天孫族?】
・・・BY92262 日韓支
・・・F1123 九夷
・・・F23012 チベット・ビルマ系ラフ、アカ(ハニ)
・・O-CTS5308(2%)チベット高原古人(西戎)
・・・Y34065 チベット・ビルマ系独龍族
・・・PF5374 金沢岩出横穴墓古墳人
・・・F20067 ヒマラヤ古人、新疆昌吉・白楊河古墓古人

(2)C2(6%)(北狄)
・C-F1067(5%)コリア語族集団
・C-L1373 ツングース、アムール語族集団・オホーツク人(1%)【天孫族?】


宝賀寿男 (1946年-)
1. 天孫族は古代朝鮮半島北部の高句麗王族ないし扶余系民族に通じる。また高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族とも親近関係にあった。

2. 中国東北地方の遼西地方あたりを原住地(さらにその淵源は黄河上流域、大湾曲部のオルドス地方あたりまで遡るか)として、朝鮮半島を経て、その南部の弁辰・弁韓を根拠地として、紀元1世紀代前半頃に日本列島に到来。

3. この種族の源流は、中国古代の殷族・秦族 などの東夷系(北狄ともかなりの混血があったか習俗で似通ったものがある。東夷と西戎とも通じるものがある)に通じており、箕子朝鮮王族(ないし 扶余王族)と同族の流れとして良さそうである。

4. 地域的には、朝鮮半島南部の伽耶(とくに高霊・安羅などの地域=大伽倻=)から先祖の居住地を遡ると、忠清南道北部→中国の遼西地方→ 山西省、 オルドス 地方まで遡る可能性がある。

5. 最近では、この一帯で陝西省北部の石?遺跡(O-M117-ACT7481/C-F1067)・寨山遺跡などの発掘が進んでいる。また、始源地域から四川省にも進出し、古代 三星堆文明 を築いた種族 も同族とみられる。


上田正昭(1927年 - 2016年)
1. 従来、大陸文化は九州から日本に入ったと考えられてきたが、日本海側の各地域は独自に朝鮮半島との交易ルートがあり、出雲や若狭、能登などとの多元往来論を唱える。

2. 2010年、韓国の国立中央博物館で「檀君の建国神話は、日本の建国神話の母胎」と題した学術会議の前に論文事前公開された際に、日韓の天孫文化には、山頂に降臨する点などをはじめ、共通点や類似点が多いとし、さまざまな事実を検証した結果、百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたという結論に至ったと主張した。

3. また、天孫降臨した峰のクシフルは明確に古代朝鮮語と関連があり、ソホリ峰も朝鮮語のソウル、ソフル、ソブルなど王道の名称から由来したとし、日本語の成立を全部、朝鮮語から解釈しようとする見解には賛成できないが、天孫降臨神話が朝鮮神話と共通の要素があることは誰でも認めざるをえないと主張した。



11900シルクロード:2022/05/28(土) 09:49:36
Re: 天孫族 こんなもんじゃないかな?
天降り神話は古代朝鮮にもみられます。『三国遺事』巻一の檀君神話には、日本の三種神器のように天符印三個を授けられています。

巻二には駕洛国記の伝える駕洛(伽羅・伽耶)の建国神話があり、ここでは黄金の卵六個が天降ったとあり、六伽耶の始祖となります。天降神話では駕洛と新羅に日本の天孫降臨神話に似た例があるのに対し、王者の狩猟についての日本古代の王権は、高句麗や百済との類似を示しているといいます。
これは古代日本の支配者たちが、古代朝鮮諸国のそれぞれの特色ある王権文化を選択し、取り混ぜて作成した結果ともいいます。古代朝鮮と日本の支配者の複雑な歴史をうかがえます。

また、三〜四世紀から天皇種族が朝鮮から渡来し、父権的・支配者文化と支配者体制を持ち込んだという説もあります。支配者の天降り神話のほかにも、王権神話において日本と朝鮮は多くの共通をもっています。

たとえば『古事記』のイツセとカムヤマトイハレビコ(神武)の兄弟による建国の伝説は、『三国史記』に記された朱蒙の第二子と三子の沸流と温祚の兄弟による、百済建国伝説と基本的に同じ構造をもっています。つまり、海の原理を表す兄は失敗して死に、陸の原理を表す弟が建国に成功して王朝の祖となるという筋道です。

さらに、高句麗王家の始祖朱蒙(東盟王)に関する穀物起源神話が、日本神話にも共通しています。朱蒙が母の国たる夫余を去って南下し、高句麗を建国するにあたり、母は息子に五穀の種を与えます。しかし、朱蒙が麦の種を忘れたので、母は鳩に変身して息子のところに送り届けたという話です。

これは『日本書紀』の天孫降臨に出ている神話と似ています。正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が支配者として天降ろうとしたとき、母のアマテラスはこれに斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を与えます。いわゆる「斎庭の稲穂の神勅」です。朱蒙も正勝吾勝勝速日天忍穂耳命も、異郷の地に建国するにあたり、母から穀物の種を受けとっていることです。

日本と高麗は王者の収穫祭が即位式に結びつき、建国神話においても王者の食べる穀物の起源神話と共通しています。大嘗祭の収穫儀礼は高句麗系の王権文化に連なるのです。東南アジアの即位式に比すべき面もみられるのです。(『日本の古代』別巻、大林太良稿、一七二頁)。つまり、稲作文化の伝搬と、それ以前の焼畑文化の存在が、神代史の「邪しき国つ神」に「天つ神」の子孫(天孫)が降臨し、「豊葦原の瑞穗の国」になるという筋道になっているのです。


11901シルクロード:2022/05/28(土) 12:47:21
天下り系O-M117-ACT7481-F1123(TMRCA:紀元前1000年頃) 淮夷(鍾離國主塗山氏、徐國の一支)
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天下り系O-M117-ACT7481-F1123(TMRCA:紀元前1000年頃) 淮夷(鍾離國主塗山氏、徐國の一支)

このハプロタイプは日本人にもいる!夏王朝に嫁を嫁がせ、夏王朝崩壊後は殷王朝の一翼を担った。殷王朝崩壊後も周に対して抗戦したが、朝鮮半島経由で日本列島に流れたっぽい。箕子朝鮮。

渡来人の中核集団(天孫族・日琉祖語集団)
1. O-M117(現代日本人男性に5%)トランス・ヒマラヤ語族集団
・ACT7481(2%)長城地帯古人、先日琉語族集団
・・BY92262 日韓支 (TMRCA:紀元前800年頃)
・・F1123 淮夷(鍾離国主涂山氏)・九夷 (TMRCA:紀元前1000年頃)←これな。


淮夷
淮夷,可能是存在於中國上古時代的夏至東周時期,生活在中國東部的?淮、江淮一帶的東夷部族統稱。根據《竹書紀年》記載,夏朝的相在即位的第一年,進攻淮夷,第二年攻風夷、?夷,第七年於夷訪夏朝。
淮夷後來與商王朝關係很親近,商王帝辛曾用安撫和武力征服並行的方式促進了淮夷和中原的文化交流。週滅商後,淮夷幫助武庚復興商朝,武庚失敗後,淮夷又與徐戎多次聯合抗擊西周統治者。淮夷在春秋時期依附於楚國。

鍾離國
鍾離國是西周、春秋時代的小諸侯國,也是在淮夷集團裡。國君為嬴姓,領地為現今鳳陽縣一帶。鍾離國在文獻裡被稱為“鍾離子國”,也是徐國的一個分支。在史料裡只留下來鍾離國在?楚關係中的消息。在西周的時候,伯益的後代受封建立鍾離國 。鍾離國在春秋時期被楚國滅亡,國人稱鍾離氏,是鍾離姓和鍾姓的起源之一。

徐國,是西周、春秋時代的諸侯國之一,國君為嬴姓。又稱徐戎,亦稱徐夷或徐方,為東夷集團之一。夏代至周代,分佈在今山東郯城一帶。在周穆王時期,才肯臣服於周朝。周初,以今安徽泗縣、江蘇泗洪一帶為中心,建立徐國,在東夷中最為強大,春秋時為楚國所敗,前512年為?國所消滅。

塗山氏,中國上古神話中塗山氏是夏族的始祖神,大禹的妻子。
史學家們考證,如今漢族姓氏的塗姓是塗山氏族的直系後裔。



11902青面金剛:2022/05/29(日) 00:14:58
天孫族 =侵略者
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012902M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012902_3M.jpg

http://eurasianclub.org/



11903管理人:2022/05/29(日) 00:19:44
Re: 【朝】アサム
シルクロードさんへのお返事です。



ご紹介あった中世朝鮮語の【朝】アツァム の件は興味深いですね。


ちょうど、先ほど朝妻の井について再考していたところでした。

筑後川沿いの三つの井戸のひとつで、以前こちらでもその地域に勢力を伸ばしていた水沼・三間君=物部氏との関わりを予想しましたが、「アサヅマ」の意味が、朝=東(測量面では影にあたる西)の方位に関わる妻=女王・台与?にあたる女性の意味で理解してましたが、あるいは、古代朝鮮語における朝=アツァムに語源があったとすると面白い。


つまり、アサ+ツマ=アツァム だったとすると、古代のある時期までは、その筑後川沿いでは古代朝鮮語の発音が残っていて、後代になってそこに朝と妻を意味の通る当て字をした可能性もありそうです。

物部氏は、当時の天皇家の外戚氏族でしたが、高良山そばの卑弥呼の墓とも言われる祇園山古墳は、楽浪郡の阿残墓との関係性が指摘されており、伊都国経由で渡来してきた楽浪郡あたりの集団にその語源が起こった原因があるかもしれません。

楽浪郡というのは、現在の北朝鮮あたりですね。扶余とも深く関わる地域ですが、一方で漢人文化にも強く影響されてますから、そのハイブリッド的な影響がでてこないかも興味深いところです。





11904管理人:2022/05/29(日) 00:26:47
Re: 天孫族 =侵略者
青面金剛さんへのお返事です。

>
>
> ☆ 物部系の集団も、ソグドの交易路を辿った。ソグド商人は、各中継地に食糧庫や武器庫を用意して、ソグド人集落を形成していた。
>
>  騎馬民族の戦闘集団は、西アジアから黄海に出るまで、1〜2か月で移動できた。ソグド商人の交易船も、アラビア湾〜インド沖〜マラッカ海峡〜フィリピン〜日本列島までの、オイルタンカー街道を辿れば、2〜3ヶ月で日本へ到着する。
>
>


そうそう、物部氏ですね。扶余系集団とかかわるでしょう。元はソグド人の祖先の月氏とかいたあたりから東遷したきたのではないですかな・・・。一度中国に定着した一派もいたことでしょうし。



11905管理人:2022/05/29(日) 00:43:10
Re: 「日本語 ∈ 古代インド語」 の証明方法
青面金剛さんへのお返事です。

> 鳩摩羅童子さんへのお返事です。
>

>  出雲族が古代インドから来たことは、縄文時代の日本語〔ヤマト言葉〕がドラヴィダ語にそっくりであることで理解できる。
>
>  国語学者の大野晋は著書『日本語とタミル語』で日本語はタミル語に最もよく似ている、と解説している。例えば、タミル語の基本母音(a, i, u, e, o)が同じで、文法・文章構成の語順も似ている。タミル語は、インドのドラヴィダ語の一種である。
>
>??インダス文明の言語がドラヴィダ語に近いことは、ほぼ確定している。出雲族は古代インドのドラヴィダ人だった、と考えられる。
>
>  日本人の遺伝子の検査により、出雲族にはドラヴィダ人の血の他にも、アジア大陸各地の血が混じっていることが、明らかになった。しかし縄文時代には出雲族が最も多かったので、ドラヴィダ語に古代モンゴル語などが混じって出雲語ができた。
>
>  それが基になって日本語ができた。つまり出雲王国に各地の人が関係したから、出雲王国の言葉が共通語となり日本語が形成されたらしい。
>


やはり大野氏の指摘として言語面とは別に重要なのが、インド南部からの甕棺墓・支石墓の華南、韓国、九州北部への移動の指摘ですね。

言語面と考古面の双方から、その移動を証明している点が重要で、弥生時代初期に稲作とともに、華南・韓国南部経由で、九州西北部へと渡来しているはずです。

この集団がドラヴィダ語彙を日本語にもたらした可能性が高いと思いますが、天孫族≒物部氏等が楽浪郡方面から渡来してくる以前にいた弥生人の世界の文化なり言語の主なものをもたらしたのではないでしょうか。

ただご指摘の北方ルートは想定してませんでしたが、当然、海のシルクロードを知っている当時のローマ・インド交易をしていたこの集団は、陸のシルクロードも熟知していたでしょうから、その辺の文化や言語もまじっていたかもしれませんね。

それで、弥生人以前にいた縄文人の言語なりをどうとらえるかが課題となってきますが、やはり、アイヌや出雲方言辺りに残っている語彙から類推すべきなのかどうか、この辺が気になるところです。

アイヌ語の大半の語彙なり文法なりが、世界的にみて完全に孤立している言語だとすれば、その縄文人の言語の可能性が高くなりますし、逆にそのほとんどが、周辺諸民族の言語なりで解読できるならば、そうでなかった可能性も見えてきます。

そういう意味でも、まずアイヌ語の語彙をひとつひとつ確認していく作業が必要ですね。

11906シルクロード:2022/05/29(日) 04:14:47
天孫族と疑似天孫族
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012906_2M.png

青面金剛さんへのお返事です。

天孫族と疑似天孫族
すごいのが天下って来ました!笑

1. 明らかに「天孫文化」は日本固有の文化ではない。
天孫文化は東アジア墳墓文化(古墳文化)の一部であり、満洲南部・朝鮮半島から齎された。その源流はツングース。日本に天孫文化を齎したのは、日本の(自称)天孫族ではなく、古墳人である。渡来系弥生人は日琉語族の担い手だが、古墳人が「半島日本語」集団だったかどうかは分からない。単一の民族ではなくハイブリッド集団であったと考えるのが実像に近いだろう。

2. 天孫文化は百済から齎されたという説がある。
百済の支配層は真正の天孫族で、百済の被支配層は日琉語族集団(あるいは「半島日本語」集団)と新羅語集団だろう。天孫族の統率者はY染色体DNAハプログループ (yHg) C-L1373と(一部に)C-F1067だった。ざっくりC-F1067はコリアン、C-L1373はツングースと言えるが、コリアンにもC-L1373がかなりいる。日本人には1%と少ない。

C2(現代日本人男性の6%)
・C-F1067(5%)一部に【天孫族】コリア語族集団
・C-L1373(1%)【天孫族】ツングース語族集団、無文土器時代大竹里遺跡古人(韓国忠清南道紀元前800年−紀元前500年頃〔現代日本人ゲノムに類似〕)。

上記大竹里遺跡古人のゲノムは現代日本人ゲノムに類似しているので重要。このC-L1373が櫛目文土器時代からいたのか、日琉語族集団を率いて無文土器時代に出現したのかは不明だが、図のようにC-L1373を天孫族の統率者に仕立ててみた。

3. ただし、古代日本の(自称)天孫族に繋がるような集団は、倭国大乱の2世紀後半以前に渡来した。彼らは遺伝的には弥生前期に渡来した集団とは異なり、古墳人に類似した集団だったが、列島渡来当時の彼らは天孫族などでは全くなく、半島南部でのコリア語族の圧力に耐えられず渡来した農民と見られる。

そして、後に王権強化のために古墳人の天孫文化や馬文化を採用したということだろう。古墳時代に渡来した集団によって征服されたという事実もない。

つまり、先日琉語族が高句麗語を含むコリア語族と接触して「疑似アルタイ語化」したのと同様に、我が国の(自称)天孫族は「疑似天孫族化」したのである!なお、伝承では天孫族の長とされる現在の天皇が天孫族C2に中たる可能性は、一般の日本人と同様最大6%(C-L1373は1%)である。

---------------
日琉祖語集団
1. C2(現代日本人男性の6%)
・C-F1067(5%)一部に【天孫族】コリア語族集団
・C-L1373(1%)【天孫族】ツングース語族集団、無文土器時代大竹里遺跡古人(韓国忠清南道紀元前800年−紀元前500年頃〔現代日本人ゲノムに類似〕)
2. O-M117(現代日本人男性に5%)トランス・ヒマラヤ語族集団
・ACT7481(2%)【先日琉語族集団】長城地帯古人
・・BY92262 日韓支 (TMRCA:紀元前800年頃)
・・F1123 淮夷(涂山氏)・九夷 (TMRCA:紀元前1000年頃)
・・F23012 チベット・ビルマ系ラフ族、ハニ族
・O-CTS5308(2%)チベット高原古人
・・Y34065 チベット・ビルマ系系独龍族
・・Y67478 【先日琉語族集団】冀魯支・金沢岩出横穴墓古墳人(TMRCA:紀元前1180年頃)
・・F20067 ヒマラヤ地域古人、新疆昌吉・白楊河古墓古人



11907シルクロード:2022/05/29(日) 09:11:25
Re: 天孫族 =侵略者
青面金剛さんへのお返事です。

で、でたー!出雲伝来の悲劇のヒーロー気取り!笑
日本人わぁ〜、縄文人でぇ〜、中国人とコリアンにぃ〜、虐められたぁ〜、民族でありぃ〜、日本のぉ戦争責任わぁ〜、ない!とでも言いたい?爆

事実は、縄文人は弥生文化の恩恵によって、激減していた人口を8倍に増やした。感謝しな。悲劇のヒーロー気取りは実は日韓人に共通の心象。負け犬根性とも言う。この点、私の性格は、大陸の漢族やツングースに近い。

11908シルクロード:2022/05/29(日) 11:44:27
Re: 渡来系天孫族と疑似天孫族
以下引用:
天孫降臨神話と日本神話
??高句麗や百済にも「天孫降臨」の神話がある。これは「天皇家朝鮮起源説」を裏づけるものであるという。天皇の礼服の紋章には円形の中に「八咫烏」の刺繍が施されている。八咫烏は高句麗のシンボルである。従って、「天皇の始祖」は高句麗にあるという説がある。八咫烏は日本古来の文化ではなく、直接的には「高句麗から渡来した文化」である。

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と日本の建国神話 を比較考察する学術会議が開催された。アジア史学会会長 「上田正昭氏の論文」が事前公開され、天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多いとの記述に注目が集まったという。

日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、日韓の天孫はいずれも「山頂に降臨」しており共通点が多いと主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘している。日本の建国神話は、韓国の檀君神話の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。

京都産業大学の井上満郎教授は、韓国の檀君神話と伽耶の首露王は、日本神話に登場する「天孫ニニギ」と同じような要素を持っている。日本の天孫降臨神話が朝鮮半島系ということは疑う余地がないと述べている。また、韓日天孫文化研究所所長のホン・ユンギ氏は、日本の建国神話は、天孫が降臨する檀君神話を織り交ぜて作られたものであり、「三種の神器」も「三種の宝器」として檀君神話に登場すると述べている。日本の代表的な民族学者である東京都立大学の岡正雄教授も、1949年に、これを認める発表をしているという。

学者ならぬ凡人にでもわかることは、日本にも朝鮮にも仏教以前からあった「神道」の存在である。神道は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは天孫降臨神話をもっており、天孫降臨神話が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れが日本にもあるということになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ神道をもちこんだのはごく自然な流れである。天皇家が古代から現在に至るまで神道を一貫して信奉しているということは、天皇家が朝鮮由来の姿を留めている現れである。

11909シルクロード:2022/05/29(日) 13:00:33
ツングース vs 縄文人
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012909M.jpg

ツングース系ハプログループは極僅少になってしまった。男系でも女系でも2-3%ってところ。一方、縄文人 由来の男系ハプログループは、C1a1まで含めると、下手をすれば2人に1人の男性が持つ。これでは隣国の国民に侮られてしまう...

ツングース・ゲノム (16%) の方が縄文人ゲノム (13%)よりも多いのがせめてもの救い。朝鮮半島から弥生人が日本列島に渡来した時点では、ハプログループでもゲノムでももっと多かっただろう。ゲノムにして四分の一くらいか。

弥生人が日本に渡来した時、人口規模が縮小していた縄文人を滅ぼすことは可能だった。この点、弥生人のツングースは優しかったのかな。友好的な縄文人には農耕技術を指導した。そうして、縄文人の人口は急増し始める。これを止め、一気に縄文人を日本人化したのは、次の時代の古墳人である。



11910シルクロード:2022/05/29(日) 14:20:10
空白の4世紀
空白の4世紀ー。日本国内ではいかに考古学上貴重な場所であろうと、決して発掘調査を行うことの許されない禁断の聖域が仁徳天皇陵をはじめとする古墳で、天皇家の秘密に触れる場所がそれに当たるため、日本では 4世紀頃の時期に何があったのか、詳細が分からない。そのため、現在の正史における古代日本の姿は、神話と伝説が入り交じり合っていて、かなり不明瞭なまま放置され続けている。

以下引用:
Business Jounal 2018.11.21
「騎馬民族征服王朝説」。1949年に東洋考古学者の江上波夫氏が提起したもので、4世紀後半頃、東北アジア系の遊牧騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入し、朝廷を樹立したとする。この騎馬民族が打ち立てた朝廷こそ天皇家を中心とする大和朝廷にほかならないと主張し、衝撃を与えた。しかし今では、この説には否定する見解が有力となっている。社会の大きな変化が王朝の交代のみによって起こったと考えるのは無理があるからだ。

朝鮮半島から日本への技術移転
 現在、日本に騎馬文化が伝わった理由として有力視されるのは、当時の東アジア情勢の変化である。3世紀、ユーラシア大陸北方の気候が寒冷化し、これをきっかけに諸民族の移動が活発になる。西方では4世紀後半に遊牧民のフン族が西進したことでゲルマン人の大移動が引き起こされ、これが引き金となってローマ帝国は395年、東西に分裂する。

 東方では後漢の滅亡後、三国時代と西晋の統一を経て304年、中央ユーラシアから五胡と呼ばれる遊牧民が中華帝国に侵入して次々に建国するという、動乱の五胡十六国時代が幕を開ける。

 民族大移動の波は朝鮮半島にも大きな影響を与える。当時、半島の北から中国の東北部にかけては、騎馬文化の影響を受けた高句麗が強い勢力を持っていた。高句麗は五胡のひとつである鮮卑の建てた前燕に攻撃されて大きな打撃を受け、多くの領土と人民を失う。そこで北で失ったものを南で回復しようとし、南下を進める。

当時半島の南にあった新羅や百済といった国々は、強力な騎馬軍団を持つ高句麗の南下によって国家存亡の危機を迎える。新羅が早くに高句麗に降って生き延びようとしたのに対し、百済はあくまでも軍事的に高句麗に対抗しようとした。そのとき百済が目をつけたのが、当時倭国と呼ばれた日本である。

 4世紀半ば過ぎ、百済は倭国と国交を成立させ、倭国は朝鮮半島へ出兵することになった。けれども、実行はそう簡単なことではない。倭人たちはまったく馬を知らないから、まず馬の文化から学ばなければならなかった。

 もっとも、百済にとっては自国の存亡がかかっており、当時百済の影響下にあったとみられる加羅(伽耶、加耶、任那ともいう)諸国も同様だった。そのため多くの渡来人を送って倭人たちに馬に関する技術を教えたと、考古学者の白石太一郎氏は推測する(『騎馬文化と古代のイノベーション』)。

 多くの渡来人が百済や加羅などから倭国に渡ってきて大規模な牧を造り、馬や馬具の生産技術を教える。こうして馬文化を知らなかった倭国で、馬や馬具の生産が始まった。いわば朝鮮半島から日本への技術移転である。

 このとき海を渡ってきた多くの渡来人たちは、単に馬や馬具の生産技術だけではなく、さまざまな優れた生産技術、さらに文字の使用法をはじめ学問、思想なども日本に伝えた。これは古代倭国が東アジアの文明社会の仲間入りをするうえで、大きな役割を果たす。

文化の本質はグローバル
 古墳時代に朝鮮半島からの渡来人が騎馬やその他の文化を日本に伝えた形跡は、今でも日本の各地で確かめることができる。意外なことに、地理的に朝鮮半島に近い近畿地方だけでなく、関東地方にも多くのゆかりの地がある。

 相模国(現在の神奈川県の一部)には朝鮮からの渡来人が各所に住んでいた。なかでもよく知られるのは大磯である。作家の金達寿氏によると、オイソとは朝鮮語で「いらっしゃい」を意味する。この町にある高来(たかく)神社は旧名を高麗神社といい、高句麗からの渡来人に由来するといわれる。

 なお日本では古来、高句麗のことを「高麗(こま)」といいならわしてきた。日本語の駒、駒下駄、駒岳、狛犬(こまいぬ)といった言葉は、いずれもそれからきたものだといわれる。駒(馬)という言葉そのものが朝鮮の国名に由来するという事実は、日本の馬文化と朝鮮半島の関係の深さを物語る。

その後、大磯の渡来人の一部は武蔵国の高麗村(現・埼玉県日高市)に移ったといわれる。日高市にある西武鉄道池袋線の高麗駅前には「天下大将軍」「地下女将軍」と記された朝鮮半島の道祖神(将軍標)が建てられている。

 関東では5世紀の古墳の周溝などから、馬を殉葬した土壙も相次いで発見されている。おもに信濃国(長野県)、上野国(群馬県)、下総国(千葉県北部と茨城県の一部)などだ。いずれも古代国家の設置した牧の近くとみられる場所で見つかっている。牧で馬を育てるため、東国に住まわされた渡来人たちの残したものとみられる。

 馬や馬具の生産にたけた渡来人の多くは、ある程度の軍事集団だったと推測される。実際、神亀元年(724年)に起こった大和朝廷の蝦夷(えみし)に対する戦争では、武将格で高句麗系の後部王起(こうほうのおうき)という人物が東北に派遣されている。

 このことから、関東の古墳時代後期には、のちの東国の武士団の萌芽がすでに現れかけているとの見方もある。そうだとすれば、日本の武士の起源は、中央ユーラシア発祥の騎馬文化を身につけた朝鮮半島からの渡来人だったということになる。流鏑馬が草原を疾走する騎馬遊牧民を連想させるのは、自然なことなのである。

 昨今、日本の文化を賛美し、他国文化を貶める風潮が目につく。だが古代の倭人は絶えず多くの渡来人を受け入れ、異文化を受容する姿勢を常に保った。それが奥行きのある日本文化を形づくったといえる。いつの時代も、文化の本質はグローバルである。

(文=木村貴/経済ジャーナリスト)
<参考文献>
古代史シンポジウム「発見・検証日本の古代」編集委員会編『騎馬文化と古代のイノベーション』(発見・検証日本の古代2)角川文化振興財団
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房
金達寿『日本の中の朝鮮文化(1)』講談社文庫
白石太一郎『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』文春新書
網野善彦・森浩一『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』講談社学術文庫

11911鳩摩羅童子:2022/05/29(日) 14:59:19
Re: 「日本語 ∈ 古代インド語」 の証明方法
https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/12905

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/5_tree/AA_Indo.html



11912シルクロード:2022/05/29(日) 19:16:29
「海の民」新羅人と私
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012912M.jpg

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出雲族を海の民だと言う、恥ずかしい青面金剛さんへのお返事です。

私は韓国人男性と西暦200年頃に共通の祖先を持つ。私のY染色体DNAハプログループは旧慶尚南道北東端の蔚山(Ulsan)に多い。蔚山を朝鮮半島での原郷と見なして良かろう。

「蔚山」に言及した考古学者・朴天秀の論考がある。朴天秀は好著『加耶と倭』の著者で知られている。彼は、従来、日本では加耶や百済との関係に注目されることが多かったが、 これからは「違う視点」も必要だと主張する。最近注目しているのは新羅と日本の関係だという。

西暦400年に高句麗が金官加耶まで南下すると、倭は鉄の入手先を新羅に変える必要性に直面し、交流の軸が新羅へと移ったのが5世紀。

実は鉄が最も良く取れるのは新羅地域であり、蔚山はその一大供給地だったというのである。

拠点を各地に築き「海のシルクロード」を開拓した真の「海の民」新羅人。
海のシルクロードを自在に使い、イスラーム世界とも交易、また、陸のシルクロードを通して西域や地中海産の文物を豊富に手に入れていた。このような新羅人は倭人にとって羨望の対象であったに違いない。

そして、私の男系祖先の日本渡来を、このグローバルな新羅人の活動の一部に位置付けることも可能だ。朴天秀氏には引き続き私のために研究を頑張って欲しい!


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以下引用:
基調 報告 古代 韓 日 交渉 史 の 新た な 展望 と 課題 朴 天 秀

???? 中国、 中央アジア から 東アジア を 見る   最近 は シルクロード の ガラス について 勉強 し て い ます。 シルクロード の 文物 が 中国 に 入り、 それから どの よう に 日本 に 入っ て き た のか について の さまざま な 研究 です。 今 までは 韓国 から 日本 を 見 た 視点 で 研究 を し て い まし た が、 これから は 中国、 中央アジア から 東アジア を 見 たい と 思っ て い ます( 図 4‐1)。

  四 世紀 後半 代 と 五 世紀 前半 代 の 考古 資料 を 見 て みる と、 百済 系 の 遺物 は 非常 に 限ら れ た 数 しか 出土 し て い ませ ん。 この 時期 には 思想、 たとえば 儒学 など、 物質 として 残り にくい もの が 入っ て き た の だ と 思い ます。 四 世紀 後半 から 七 世紀 後半 まで、 日本 の 交流 史 を 百済 一辺倒 で 考える こと には 反対 です。

???? 大成 洞 の 88・91 号 墳 が 挙げ られ ます。 91 号 は すばらしい 古墳 で、 中国 の 晋 の 帯金 具 や 中原 の もの、 東北地方 の 三 燕 の 器、 青銅 製 の 器、 そして シリア 周辺 で つくら れ た ローマン グラス(* 二) などが 出土 し て い ます( 図 4‐3)。 それ だけで なく、 日本 の 琉球 列島 でも 出 て いる イモガイ 製 の 馬具、 さらに は 巴 形 銅器(* 三) なども 出 て い ます。

  五つ の 地域 の もの が 集まっ て いる のは、 当時 の 金 官 加耶 が 鉄 の 貿易 を 中心 に、 日本 などとの 交流 の 中心 的 な 役割 を し た からでは ない かと 思い ます。 従来、 日本 では 百済 との 関係 性 を 取り上げる こと が 多かっ た の です が、 こうした 国際的 な 交流 に 日本 も 関わっ て い た 以上、 百済 一辺倒 の 歴史観 とは 違う 視点 が 必要 です。

???? そして、 その 交流 の 軸 は やがて 新羅 へと 移り変わっ て いき まし た。 金 官 加耶 と 新羅   以前、『 加耶 と 倭』 という 本 を 講談社 から 出し まし た が、 最近 注目 し て いる のは 新羅 と 日本 の 関係 です。

???? 九 世紀 までを 含め て 両国 の 交流 を 考える べき で、 とくに その 出発点 は 五 世紀 前半 代 と 考え て い ます。 この 時期 から すでに、 日本 と 新羅 には 交流 が あり まし た。

  四 〇 〇 年 に 高句麗 軍 が 金海 まで 南下 する と、 当時 の 鉄 の 国際的 な 市場 が 崩壊 し て しまい ます。 これ によって 困っ た のは 倭 でし た。 それ まで 鉄 を 金 官 加耶 から 入手 し て い た わけ です が、 それ が だめ になり 新羅 から 手 に 入れ ざる を え なく なり まし た。 それ まで 敵対 関係 だっ た アメリカ と 日本 の 戦後 の 関係 の よう に 利害関係 が 合っ た わけ です。

??????遺物 の 系統 に 言及 する には、 こうした 歴史的 な 背景 を 考え なけれ ば 意味 が あり ませ ん。   韓国 の 中 で 鉄 が よく 採れる のは、 かつて の 新羅 の 地域 です。 その すぐ 南 の 【蔚山】 という 街 に 一 〇 年前 まで 掘ら れ て い た 巨大 な 鉄 鉱山 が あり ます。 その 鉄 鉱山 から 採っ た 鉱石 で 鉄器 が つくら れ て い まし た。   当時 の 倭人 が ほしかっ た もの は 鉄、 それから 金 でし た。 新羅 の 大 陵 苑 古墳 群(* 四) から 金冠 が 六つ 出 て・・・

古代史シンポジウム「発見・検証 日本の古代」編集委員会. 発見・検証 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベーション (単行本) (Kindle Locations 2040-2062). KADOKAWA / 角川書店. Kindle Edition.




11913シルクロード:2022/05/29(日) 19:50:59
新羅の貴人
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新沢千塚126号墳
遠くペルシャ地方や中国、朝鮮半島からもたらされた豊富な副葬品が出土したことで著名な古墳で、新沢千塚古墳群の代名詞と言っても過言ではありません。

126号墳は古墳群北側の丘陵の中央付近に位置する東西約22m、南北約16mの長方形墳です。5世紀後半頃に築かれたと考えられています。

埋葬施設は長さ約3.1mの割竹形木棺で、棺内および棺外に多くの副葬品が納められていました。古墳の被葬者は、朝鮮半島あるいは中国東北部から日本に渡ってきた女性ではないかと考えられています。

->朴天秀は、ローマングラスを二点も副葬することができるのは新羅の王族か貴族であり、新沢千塚126号墳の被葬者は新羅との交易と外交を担当した新羅の貴人だろうとしている。



11914シルクロード:2022/05/29(日) 20:01:47
古代日本における新羅語の形跡
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新羅語の形跡



11915シルクロード:2022/05/29(日) 20:09:18
日本語とコリア語の対応
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Old Japanese *posi
Old Korean *pyeli



11916シルクロード:2022/05/29(日) 20:28:15
偽高句麗語、濊倭同系論、大陸倭語と日琉祖語
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偽高句麗語、濊倭同系論、大陸倭語と日琉祖語



11917シルクロード:2022/05/29(日) 23:53:09
疑似天孫族ではない真正の天孫族C-L1373
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C-L1373はツングース由来の「C2の北方支」⇔日中韓に多いC-F1067は「C2の南方支」。C-L1373は現代日本人に1%のみである。

図1には大竹里遺跡の古人骨が「櫛目文土器時代」と書かれているが、「無文土器時代」が正しい。この個体のゲノムは現代日本人のそれと類似。遼河流域の古人骨同様に有意な縄文人要素を欠如。

倭は騎馬民族に征服されなかったが、大陸の日琉語族集団(夏家店下層文化に属す)は少数のツングース(夏家店上層文化に属す)に征服されていた。私の女系系統遺伝子G3a2はこのツングースの配偶だった。

しかし、当のツングースは、言語的にも遺伝子的にも日琉語族集団に同化し、忠清南道瑞山市大竹里遺跡のC-L1373個体(無文土器時代)として出現する。トルコ系と違ってツングースやモンゴルは文化レベルが低めなので多数派の被征服民にすぐ同化されちゃうんだよな(笑)

現代日本人にはツングース系のハプログループは男系C-L1373も女系C4b1, M8a1, G2a, G3a2も非常に少ないが、日本人ゲノムにおいては16%を占めている(図3の「北東アジア祖先」がアムール河流域集団=ツングース由来)。これはハプログループD1a2aとしては3ー4割を占めるが、日本人ゲノムにおいては13%のシェアしか占めていない縄文人ゲノムと対照的である。

縄文人の諸君も「真正の天孫族ゲノム」を16%持っていることを誇りにして良いぞ(爆)




11918管理人:2022/05/30(月) 00:58:51
Re: 「日本語 ∈ 古代インド語」 の証明方法
鳩摩羅童子さんへのお返事です。

も、まずアイヌ語の語彙をひとつひとつ確認していく作業が必要ですね
>
> 私は、昔、バチェラーのアイヌ語辞典を穴の開く程チェックしました。 その時の結果を web に全部残しています。
>
> アイヌ語は、世界の中で、孤立語ではありません。フィンランド語の系統です。多分。
> 日本語とは何の関係もありません。完全異民族の人達です。
> アイヌ語と他言語(11言語)との語彙比較の一覧が、下記に有ります。 約 700 単語
>
> バスク系メガネでアイヌ語を見た。 痕跡例??  Link: f20_A
>
>

童子さん、さっそくお知らせありがとうございます。

詳細に調べられていたんですね。参考になります。

バスク語など欧州古層由来の言語、アフリカや東南アジアのそれともかかわりながら、旧石器時代のそれに連なるとすると、やはりY-C,Dあたりの言語を想定すべきでしょうね・・・。




11919青面金剛:2022/05/30(月) 02:18:41
射日神話と招日神話
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012919M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012919_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012919_3M.jpg

http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/publics/index/26/



11920シルクロード:2022/05/30(月) 17:59:18
Re: 射日神話と招日神話
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012920M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

出雲ってお前の頭では縄文人だと思い込んでるんだろ。
縄文人や出雲人は「騎馬民族から一番遠い人たち」だよ。決まりきっていて説明する気も起きない。隣国の人に笑われるから、そういう思い込みいい加減やめろよ。私もお前と同じ日本人なのが恥ずかしくなるだろい。

射日神話を残した民族はツングースと九夷、徐夷・淮夷を含む東夷。
しかし、もちろん、彼らも騎馬民族なんかじゃない。後々騎馬民族に参加する人たちになる人たちならツングースがそれだ。漠北を制したのはツングース。中国人から「東夷最強」と評された勿吉は私の女系だ。

日本人は馬のことを中国人と百済人から教わった。「馬」からして中国語だ。





11921秦野北斗:2022/05/30(月) 19:07:20
Re: 「日本語 ∈ 古代インド語」 の証明方法
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012921M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=xyKt38YbHPg



11922シルクロード:2022/05/30(月) 19:59:04
Re: 「日本語 ∈ 古代インド語」 の証明方法
秦野北斗さんへのお返事です。

はは、我慢しきれずのこのこ出てきたか小者がw

11923シルクロード:2022/05/30(月) 20:17:03
Re: 射日神話と招日神話
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012923M.jpg

騎馬民族?爆



11924シルクロード:2022/05/30(月) 20:23:08
Re: 一足先にさようなら
秦野北斗さんへのお返事です。

「一足さきにさようなら」じゃなかったのかw ホラ吹きだな

11925シルクロード:2022/05/30(月) 20:31:54
射日神話
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012925M.jpg

創世神話(6) ─オロチの射日神話─(国立民族学博物館 佐々木史郎) 毎日新聞夕刊(2008年11月5日)に掲載

極東ロシアの日本海に面した地方に暮らすオロチという先住民族に次のような神話がある。昔、大地が固まりきっていないころ、太陽が三つあり、できたての大地は熱くて生き物が住めなかった。その時、ハダウという神が二つの太陽を弓で射落とし、一つだけ残した。

その後、ハダウはワシとカラスを創り出し、それから人間が生まれた。あるいは、太陽が三つあったころは大地がとても熱く、人は水中や空中で暮らしていた。そこで二つの太陽を射落としてようやく涼しくなり、地上で暮らすようになった。

太陽系創成と地球誕生の過程を述べる壮大な話だが、これは「射日神話」と呼ばれる創世神話の一種だ。まさか太陽系の形成過程を人類が記憶していたわけはないが、類似の神話はウデヘやナーナイなどのオロチに隣接する先住民族のほか、中国、朝鮮半島、日本、台湾などに見られる。

オロチ、ウデヘ、ナーナイはツングース系の言語と文化をもつ人々。ツングース系の人々の遠い祖先は、古代中国で「東夷(とうい)」と呼ばれた弓矢のうまさで知られた人々と関係する。東夷は現在の中国山東省あたりを中心にしたといわれるが、太陽を射るというモチーフはそのあたりにいた遠い祖先からの記憶かもしれない。

東夷は現在の中国山東省あたりを中心にしたといわれるが、太陽を射るというモチーフはそのあたりにいた遠い祖先からの記憶かもしれない。

堯の時代の羿
天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。

地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。

そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣(?窳、鑿歯、九嬰、大風、修蛇、封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた。

夏の時代の羿
別に伝えられているのは、『路史』の「夷羿伝」などや『春秋左氏伝』などにあるもので夏王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある。白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。
→この部族は殷族の一支であるツングースか、あるいは殷族傘下の人方、九夷。

天孫族
・Y染色体ハプログループC2(日本人男性の6%〔狭義の天孫族C-L1373=1%, 広義の天孫族C-F1067=5%〕)
・ミトコンドリアDNAハプログループC4b1, M8a1, G2a, G3a2(日本人男女の5%未満)

九夷、徐夷・淮夷の支配層のYハプロはO-M117-F1123。
O-M117(現代日本人男性に5%)トランス・ヒマラヤ語族集団
・ACT7481(2%)長城地帯古人、先日琉語族集団
・・BY92262 日韓支 (TMRCA:紀元前800年頃)
・・F1123 九夷・淮夷(鍾離国主涂山氏) (TMRCA:紀元前1000年頃)←これな。

古族名。即夷方 。人,通“ 夷 ”。 殷 代分布在今 山? 一?。 帝乙 、 帝辛 ?曾多次抗 殷 ,后? 殷 所并。参?《殷虚?契前?》。
据殷墟所掘人?骨片所??,人方抗殷?程中可能遭受殷商?力?事打?,根据其骨片上“人方伯”甲骨文字?,不排除人方方伯?骨被殷商用于祭祀占卜可能性。 商朝,沂水地属人方。

人方,亦被??“尸方”,是中国商朝?期?夷部落的方国,人通“夷”,即“夷方”,在今山?省中?部和江?安徽的淮河流域地区。商末帝乙、帝辛?期,它?常侵入商朝的属国掠?人口和?物,与商交?。

彝族?
?代考?
中?人民共和国学者????,丁公陶文属于古彝文系?,殷商甲骨文中的人方以及西周所称的?夷,可能?彝族。李象?、李浴洋等学者??丁公陶文属于古?字系?。



11926シルクロード:2022/05/30(月) 22:57:14
あと、出雲人はインド人だ?w
青面金剛さんへのお返事です。

>☆ 東北蝦夷の英雄・アテルイはハンガリーと同租のウラル語圏マジャール人を起源に持ちます。騎馬民族は樺太経由でも、東北地方へ渡って来た。半島から渡って来た物部系と、後に戦うこ>とに成る。
>

うわぁ、言うにこと欠いて、ウラルの、それもマジャールだって。出雲のムラビトは詐欺集団のようだな。

11927シルクロード:2022/05/31(火) 00:36:54
韓 日 の 建 国・王 権 神 話 に お け る 最 高 神 と し て の 天 神・日 神 の 比 較 考 察
韓 日 の 建 国・王 権 神 話 に お け る 最 高 神 と し て の 天 神・日 神 の 比 較 考 察 指 導 倉 澤 幸 久 教 授 桜美林大学大学院 国際学研究科 環太平洋地域文化専攻 2 0 1 4 2 2 0 1 延 恩 株
要 旨
本論文の目的は、古代韓国と古代日本の建国神話ないし王権神話に見られる、国家の最高神や始祖神としての、天神(M.エリアーデのいう「天空神」にあたる)と日神(エリアーデの「太陽神」)の比較研究をとおして、その特性を究明し、これによって、両国の文化的・政治的な位相や両国間の交流などをもっと広い視野で考える地平を提示することにある。

周知のように、古来、日本の皇祖神は天照大神(以下、アマテラスと略称)とされている。しかし『古事記』『日本書紀』を注意深く読むなら、建国の天皇、神武の東征(遷)神話において、高天原から司令を下す神はアマテラスだけではないことが分かる。司令神(この呼称は三品彰英による)には高御産巣日神(以下、タカミムスヒと略称)、ないしこれと同じ神とされる高木神がおり、司令はアマテラスかタカミムスヒが単独で下す場合も、両者が共同で下す場合も見られる。

このことは早くから民族学者の岡正雄によって指摘されたところである。岡は記紀のこの記述に注目して、南方的要素を持つアマテラスの王権神話のほかに、北方的なタカミムスヒの系統があり、日本の王権神話には両系統が複合していると考えた(岡正雄論文「日本民族文化の形成」<『図説日本文化史大系』言叢社、1956 年 所収>)。

また著名な神話研究者、松村武雄も、タカミムスヒを主神とする天孫降臨神話にアマテラス神話が後で付加されたものと考えている(松村武雄著『日本神話の研究―個分的研究篇』培風館、1955 年)。近年、溝口睦子は『王権神話の二元構造』(吉川弘文館、2000 年)を出版し、7 世紀頃までの日本の皇祖神は一貫してタカミムスヒであり、律令制による中央集権体制が確立したとき、民衆の間ですでに広範囲に信奉されていたアマテラスに置き換えられた、と主張している。

従来、日本の古代史(建国期)の解明には韓日、ひいては東アジア圏全体を視野におさめる必要性が強調されている。また歴史学だけでなく民俗学・文化人類学・比較宗教学・比較神話学等からのアプローチも必要であるとされる。

本稿は、古代韓国、すなわち高句麗・百済・新羅・伽耶の建国・王権神話における国家の最高神が、古代中国の「帝」(殷)や「天」(周)と微妙に異なることにまず注目する。
『三国志』『後漢書』等の中国側の史料や、韓国側の史料『三國史記』(12 世紀成立)『三國遺事』(13 世紀成立)に見られる天神は、表面的には中国の天や天帝の観念の借用のように見えるが、けっしてこれと同一のものではない。

それは韓国独自の要素を持っている。またその源流は、中国の天ではなく、むしろツングース族やモンゴル族の「テングリ」(Tengri、天神)にあるように思われる。古代韓国の建国神話の最高神は、今まであまり指摘されなかったが、「天神」ではあるが、「日神」的な要素を兼ねそなえた天空神である。このことを古代の各地域の建国神話や国家祭祀の古記録から検証してみた。


11928青面金剛:2022/05/31(火) 03:40:52
秦の始皇帝と市杵島姫
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https://www.kyushu-jinja.com/fukuoka/kawara-jinja/



11929シルクロード:2022/05/31(火) 17:22:59
地中海ゲノムと『海と夕焼け』
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青面金剛さんへのお返事です。

地中海ゲノムと『海と夕焼け』
Living DNAを試した日本人10人分の「地中海ゲノム」データ(図1)。

私のように地中海ゲノムが10%近く出ている日本人はLiving DNAの日本人の結果で見当たらない。

この種の系統遺伝子検査会社の結果は5%未満は無視して良いと言われているので、5%未満を切ると、私の他に1人(女性)だけに「地中海ゲノム」(南欧+中東)が出ている。後は無視。1人の女性も5%スレスレだ、私との差は二倍近くある。

偏差値50で入れる大学など管理人が卒業した大学くらいだろ。偏差値72はかなりの難関、狭き門だ。日本人一般が入れるはずもない。

私の祖先には地中海人が入り込んだ可能性はある。しかし、私だけだ。ましてや、強いて言えばオーストラロイドに近い系統の縄文人などに入っているわけがない。夢を見るな。

お前がいくら素人のブログから都合の良い情報を盗んできても、この事実はびくともしない。
日本には「地中海病」という風土病も非常に僅かに見られるようなので、地中海人が来たのは確かで、その遺伝子も残している。しかし、古代日本とかそういう昔ではない。中世以降の流入だ。スペイン・ポルトガル商人や宣教師か。日本人との混血児は田舎に養子に出されたとも聞く。

そしてこの手の民間会社の検査結果では、マイナー要素が大袈裟に出る傾向もある。実際には9.2%も入っていないと考えられるから3%くらいと考える。図2から18世代ほど前、西暦1000年前後に南欧人または中東人が入ったか。『海と夕焼け』の頃に「私の個人的な家系」に入って来た可能性はある。

他の日本人には入っていない、永遠の零 −ZERO−だ。

人の結果を自分の都合がいいように解釈するな!!!

悔しかったら自分でLiving DNA試せよ。お前に地中海ゲノム入っていたら再考してやるよ。100%入ってないがな。


『海と夕焼』
三島由紀夫の短編小説。文永の鎌倉建長寺で寺男になっている老フランス人が、晩夏の夕焼けに遠い昔の少年時代を思い出し、聖地エルサレム奪還を目指し同志を率いてマルセイユの埠頭で祈念した時の挫折感と絶望を回想する物語。地中海が2つに割れる奇蹟を待望しながら至誠が天に通じなかった不思議、さらにその奇蹟の幻影自体よりも、神秘な沈黙の海に潜む「ふしぎな不思議」に思い至った心境を、三島自身の少年期の神風待望の心理と重ねつつ、人間と信仰の主題を描いている作品である。また、5本の指に入るほど三島が特に愛着を持っている短編でもある。



11930シルクロード:2022/05/31(火) 18:57:36
嬴政
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張掖古人追加!
「秦・西域ハプロ」らしくなって来たな。F8のサブグールの古人骨を付け加えると、新疆昌吉回族自治州の白楊河遺跡でO-M117-Z25928、ホータンで図1のF8の他、CTS5308が出ている。現代人ではパシュトゥーンの一部族ジャドゥーンでM117が7割の高比率。

O-M117(現代日本人男性に5%)トランス・ヒマラヤ語族集団
・ACT7481(2%)長城地帯古人、先日琉語族集団(+C-F1067=日琉祖語集団)
・・BY92262 日韓支 (TMRCA:紀元前800年頃)
・・F1123 九夷・淮夷(鍾離国主涂山氏) (TMRCA:紀元前1000年頃)←これな。涂山氏は嬴姓。嬴政はこれじゃないかな?

鍾離国主涂山氏は伐殷後も周に抗戦。涂山氏は一時期「東夷最強」とされた徐国一分子となる。

嬴政は、嬴姓趙氏の山西白氏、山西黄氏と同じO-M117-Z44091や、私の岳父系統と同じ河北趙氏のO-M117-F18480の可能性もある。いずれにせよO-M117である可能性が高い。

私も遠くは地域的には嬴姓かもしれんなー。涂山氏F1123は周に警戒されて山東・江蘇方面に移された。BY92262はコリアンと組むので南満洲から半島入りか。両方とも牧畜の要素が見える陝北の石?(Shimao site:2300 BC-1800 BC)が原郷だろう。「伯益擅?畜牧狩?」。

《?俗通》?:伯姓出自“嬴姓,伯益之后”。伯益因助禹治水有功,故受帝舜?姓嬴,封于嬴城(今山?省?南市莱?区嬴城?址)。【伯益擅?畜牧狩?】,后来助禹治水有功,舜帝?伯益?嬴姓。一?有所?的“嬴姓十四氏”:秦氏、?氏、徐氏、黄氏、江氏、郯氏、莒氏、?离氏、运奄氏、菟裘氏、将梁氏、修?氏、白冥氏、蜚廉氏。

中国の姓氏の起源
歴史研究者によると、姓の起源は4000 BC - 3000 BC年前にまでさかのぼる。その属する集落の名、あるいはその集落の長の名が起源と思われる。姓は母系を示すため、最も古い姓は部首に「女」を含む。例えば姫(周王)、嬴(秦王)、姜、姚など上古八大姓である。姓の役割は、集落の区別にあった。ただし後の氏族の区別ではなく、近親の通婚を防ぐことにあった。

《?俗通》?:伯姓出自“嬴姓,伯益之后”。伯益因助禹治水有功,故受帝舜?姓嬴,封于嬴城(今山?省?南市莱?区嬴城?址)。伯益擅?畜牧狩?,后来助禹治水有功,舜帝?伯益?嬴姓[1]。一?有所?的“嬴姓十四氏”:秦氏、?氏、徐氏、黄氏、江氏、郯氏、莒氏、?离氏、运奄氏、菟裘氏、将梁氏、修?氏、白冥氏、蜚廉氏。

殷民六族
殷民六族的“殷民”指什麼?
周王朝の初期、周王は殷王朝の子孫の何人かを山東地域に移し、周王家に近づきすぎて反乱を起こさないようにしました。
殷商遺民。周朝初年,周王曾將一部分商朝後裔遷至山東一帶,以防止其距離周王室過近,發生叛亂。

周滅商後,周公輔佐成王,分封建國,分給周公之子伯禽“殷民六族:條氏、徐氏、蕭氏、索氏、長勺氏、尾勺氏,使帥其宗氏,輯其分族,將其類醜,以法則周公,用即命於周”(《左傳?定公四年》)

殷商遺民。周滅商後,周公輔佐成王,分封建國,分給周公之子伯禽“殷民六族:條氏、【徐氏】、蕭氏、索氏、長勺氏、尾勺氏,使帥其宗氏,輯其分族,將其類醜,以法則周公,用即命於周”(《左傳?定公四年》),使這六族遺民成為魯國臣民。

詞語分解
殷民的解釋 . 殷 商 的百姓,亦指 殷 代遺民。《書?微子》:“今 殷 民乃攘竊神祇之犧牷牲,用以容,將食無災。”《呂氏春秋?古樂》:“ 成王 立, 殷 民反,王命 周公 踐伐之。”《史記?魯周公世家》:“告
六族的解釋 .指 西周 初, 周 王分給 魯國 的 殷 民六族。《左傳?定公四年》:“ 殷 民之六族: 條氏 、 徐氏 、 蕭氏 、 索氏 、 長勺氏 、 尾勺氏 ,使帥其宗氏,輯其分族,將其醜類,以法則 周公



11931シルクロード:2022/05/31(火) 23:03:56
教訓
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図1はFamily Tree DNAのMy Originのversion3。1年前くらいの結果かな。
これ見た時は溜息出たわw もしかして日本人ゲノムのほとんどO1b2由来?、日本語はオーストロアジア語?、だっさ!ってw

しかし、
1)その後、しっかりとした学術論文で、日本人ゲノムの71%もが黄河流域・華北の新石器文化由来だということが分かってすごくホッとした。図2。

さらに、
2)最近の考古学・言語学・遺伝人類学の学際的研究から、日琉語族が稲作農耕民の言語ではなく西遼河流域の雑穀農耕民の言語に由来するということも明らかになりムネアツ、メシウマとなった。

あと、
3)西遼河流域と韓国の忠清道の大竹里遺跡の両方の古人骨で縄文人要素が欠如していることも分かって完全制圧!となったわけ。
それまではD1a2aの一部が半島から列島に入ったって可能性も全くのゼロってわけではなかったからね。その可能性も永遠の零 −ZERO−となった。縄文人など眼中にないわボケw

もうひとつ付け加えると、
4)チベット・ビルマ系の古人骨もO-M117が独占していることが分かって良かったね。図3。

そうそう、D1a2a的にはどうなの?自分たちのゲノムのほとんどと日本語が、「人様のもの」だって分かって、変な感じ?w

2005年前後の誤認識から頭を切り替えられない人たちにとっては、分子生物学で使われる新しい科学技術ってのは、データの積み重ねや全ゲノム解析のような画期的技術を待って15年くらい様子を見ないと結果を見誤るよってことが教訓だね。



11932シルクロード:2022/05/31(火) 23:10:54
夏王朝の創始者・大禹の妻
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O-M117-ACT7481-F1123の日本人は、安徽省にある祖廟を訪れるべきだな。一族からは夏王朝の創始者・大禹の妻を輩出。のちに徐国の一分子。嬴姓涂山氏の後裔は中国に110万人いるという。

O-M117(現代日本人男性に5%)トランス・ヒマラヤ語族集団
・ACT7481(2%)長城地帯古人、先日琉語族集団(+C-F1067=日琉祖語集団)
・・BY92262 日韓支 (TMRCA:紀元前800年頃)
・・F1123 九夷・淮夷(鍾離国主涂山氏〔嬴姓〕) (TMRCA:紀元前1000年頃)

涂山氏
中文名: 涂山氏族民,?? ?夏族主要成就?育女?(大禹之妻), 出生地: 涂山当今地址安徽蚌埠涂山, 属性: 始祖神?的氏族所??代夏朝



11933管理人:2022/06/10(金) 01:12:24
アイヌ語の起源
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012933_3M.jpg

また、先日紹介した『アイヌ神謡集』第2話「トワトワト」の続きです。その神謡の翻訳注釈が図1,2,3です。

図1からいくと、日本語で解釈できそうなものは下記のとおりです(以前指摘したものは含まず)。

an アン ⇒ ある

as アシ⇒ 私 わたし

これしかないですね・・


図2は下記のとおり。

kewtum ケウトウム ⇒ 心 こころ

これしかないですね・・(-_-;)


図3については、下記のとおり。

nep 何 ⇒ なに


残りはまったく日本語とは別の言語でしょう。


今回は前回に比べても、さらにアイヌ語と日本語との接点がほとんどなかったわけですが、この辺、童子さん、バスク語で解けるでしょうか?



11934シルクロード:2022/06/10(金) 01:56:58
「正統ナル日本人」の同胞
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012934M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012934_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012934_3M.png

私O-M117-ACT7481がコリア系C-F1067とツングース系C-L1373と並んで「正統ナル日本人」の同胞と認めるチベット・ビルマ系および西域系O-M117-CTS4658

CTS4658 ネパール古人骨
・CTS5308 ホータン王国古人骨(3個体)、ネパール古人骨
・・古墳人(金沢市岩出横穴墓)
・・ネパール古人骨(13個体)、【NEW】新疆白楊河古墓古人骨(337 BC-150 BC)、チベット人
・Z25828 新疆白楊河古墓古人骨
・・彝族、ビルマ
・・古蜀開明氏(四川文明三星堆)

O-M117-ACT7481とO-CTS4658は、日本人のO-M117の大多数を占める。それぞれ現代日本人における比率は2%程度。先日琉語族集団の両輪。先日琉語族に影響を加え日琉祖語を成立させたコリア系C-F1067は5%、ツングース系C-L1373は1%。計10%。これら以外の男系ハプログループは塵に等しい。



11935鳩摩羅童子:2022/06/10(金) 03:33:07
Re: アイヌ語の起源
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/BAT_EA.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/5_tree/AA_Indo.html



11936シルクロード:2022/06/10(金) 05:45:43
「騎馬民族説」
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012936_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012936_3M.png

我ら天孫族の族長は百済王室と同じC-F1067かな。

日琉祖語集団は南満州か半島でツングースに征服されたので、大竹里遺跡のC-L1373である可能性もあるが、石?(Shimao)遺跡の頃より先日琉語族集団O-M117-ACT7481と共存して来たコリア語族集団C-F1067なら、我らが族長としてもまあ良かろう!

最近立て続けに発表された遺伝人類学的研究によって、日本人形成において古墳人が重要であることが分かったことで、「騎馬民族説」も改めて見直されるべきだろう。

この時代、北方漢族や朝鮮半島の集団は既に多かれ少なかれ「騎馬民族」である。といっても、古墳時代に騎馬民族の武力による倭征服はあり得ないので、紀元前1000年頃からの日琉語族集団や弥生後期からの朝鮮半島からの流入と合わせて継続した「穏やかな征服」という理解になるだろう。



11937シルクロード:2022/06/10(金) 05:55:38
日本人に最も近い五集団
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012937_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012937_3M.jpg

日本人に最も近い集団は当然1)コリアン、次に2)漢族、その次は3)満洲系シベとモンゴル。

四番目には、驚くべき事に、日本から遠く離れた4)彝族や四川西北部の丹巴ギャロン(「美人谷」)羌族、北東インドのナガが続く。そして、五番目にツングース系オロチョンやオロチ、ウデゲ。縄文人は東アジアの諸集団において日本人から最も遠い人々となる。

図1では「仰韶文化(黄河流域・華北)成分8割、中国東北成分2割」の斉家文化の集団(図にはないがオルドスの石?遺跡と遼西の夏家店下層遺跡の集団も)が、半島から列島に渡来する時点での日本人の姿に近い。列島に入り縄文人等を吸収することで「仰韶文化成分71%、中国東北成分16%」となった。



11938秦野北斗:2022/06/11(土) 06:57:42
Re: アイヌ語の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012938M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> 残りはまったく日本語とは別の言語でしょう。

『アイヌ神謡集』は、じゅつ‐ご【述語】です。これを見て日本語ない?

日本にも方言があり、東北でも青森、岩手、・・・方言はさっぱり理解できないのが現実です。日本語とは別の言語でしょう。は言い過ぎです。アイヌ語は方言と捉えるべきです。

『アイヌ神謡集』第2話「トワトワト」は「何何(なになに)とは。」のとはで「とは、とは、と・・」でしょう。結果『アイヌ神謡集』に成るでしょう。

シルクロードさんのDNAは2重に「ひねり」があるから、ひねくれのシルクロードさんには、まともに見えるのでしょう。青面金剛さんの「見ざる聞かざる言わざる」どちらも「トワトワト」はないでしょな。

[12928] 秦の始皇帝と市杵島姫 青面金剛さん

家系図すごいな、正しければノーベル文学賞ものだな、惜しいが間違ってるぞ・・・

イザナギ、イザナミ、スサノウの出雲だな、合ってる。アマテラス、月読みがないぞ、この人たち渡来人だぞ

アマテラスのDNA知りたいな、皇族と一致する? アマテラスのDNAなら一致する。



> また、先日紹介した『アイヌ神謡集』第2話「トワトワト」の続きです。その神謡の翻訳注釈が図1,2,3です。
>
> 図1からいくと、日本語で解釈できそうなものは下記のとおりです(以前指摘したものは含まず)。
>
> an アン ⇒ ある
>
> as アシ⇒ 私 わたし
>
> これしかないですね・・
>
>
> 図2は下記のとおり。
>
> kewtum ケウトウム ⇒ 心 こころ
>
> これしかないですね・・(-_-;)
>
>
> 図3については、下記のとおり。
>
> nep 何 ⇒ なに
>
>
> 残りはまったく日本語とは別の言語でしょう。
>
>
> 今回は前回に比べても、さらにアイヌ語と日本語との接点がほとんどなかったわけですが、この辺、童子さん、バスク語で解けるでしょうか?



11939シルクロード:2022/06/11(土) 07:59:12
Re: アイヌ語の起源
秦野北斗さんへのお返事です。

「Teacup掲示板ももうすぐ終わり、一足先にさようなら」じゃなかったのか?男らしくないな。右翼には女々しさがあるんだよね。

11940青面金剛:2022/06/11(土) 08:54:24
アッシリア帝国太陽神サマッシュ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012940M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012940_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012940_3M.jpg

https://twitter.com/_9105294027642/status/1482839509268004867?s=20&amp;t=YVZ8SK5QxEnjsWsUhuyWLQ



11941管理人:2022/06/12(日) 03:07:40
Re: アイヌ語の起源
鳩摩羅童子さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 今回は前回に比べても、さらにアイヌ語と日本語との接点がほとんどなかったわけですが、この辺、童子さん、バスク語で解けるでしょうか?
>
> ---
> ご指摘の4単語の、バスク語、フィンランド語状況は下記。 太字 単語が少し似ているカモ。
>

さっそくお知らせありがとうございました。ご紹介のうち、やはりバスク語にアイヌ語・日本語との接点が見出しうるようですね。整理すると下記のようになるでしょうか。

?
■Eng.  バスク ( /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhiztegiak.elhuyar.eus%2Fen%2Fheart
exist = 1??vi. egon, izan; existitu??2??vi. bizi izan
existence =??1??n. [life] bizi, bizitza??2??n. [being] existentzia, izate

■アイヌ語  日本語
an アン ⇒ ある


?
■Eng.  バスク
I =??pron. ni; neu; ø

■アイヌ語  日本語

as アシ⇒ 私 わたし


?
■Eng.  バスク
heart = 1??n. [of body] bihotz??2??n. [courage] kemen, bihotz, indar??3??n. [of problem, city] erdi-erdi, bihotz; [of lettuce] kukulu??4??n. (pl) [in cards] bihotz

■アイヌ語  日本語
kewtum ケウトウム ⇒ 心 こころ


?
■Eng.  バスク
what = 1??pron. (interrogative) zer , 2??pron. (relative) -ena, 3??adj. (interrogative) zer, zein


■アイヌ語  日本語

nep 何 ⇒ なに



?と?、あるいは?の一部に、バスク語とアイヌ語との共通性が見られるような気がするのですが・・・



実は、童子さんに質問したかったのは、私が4つ指摘したアイヌ語と日本語とで共通した語彙のほうではなく(日本語からの引用可能性があるので・・)、むしろ共通しなかった他の多数のアイヌ語彙とバスク語等との関連があるかどうかだったのでして、またそちらについても、共通性が見出しうるものがございましたら、よろしくお知らせください。


ともあれ、バスク語というのはちょっと興味深いですね。バスク語詳細は下記のウィキ参照。



バスク語は現存するどの言語とも系統関係が立証されていない孤立した言語であり、西ヨーロッパで唯一生き残ったインド=ヨーロッパ語族以前の言語(先印欧語)である[5]。


アフリカの言語
アフリカの言語のうち、ベルベル語など北アフリカで話されているものとバスク語の系統関係を提案する説は19世紀後半から見られる。ガーベレンツ[13]やシューハルト[14]に始まり、オーストリアの言語学者ムカロフスキー[15]が同系語を確定する試みを数点出版した。しかし、借用語・新語・存在しない語・幼児語・擬音語や、ベルベル語の一部でしか使われていない語を比較に用いる彼の手法は批判されており、この仮説を支持していないバスク語学者が多い[16]:361ff.。

ヨーロッパの基層語
バスク語をヨーロッパ諸言語の基層言語と関連づける考え方はフープシュミート[17]に見られる。彼は印欧語族以前のヨーロッパの言語としてヨーロッパ=アフリカ語族とヒスパニア=コーカサス語族を想定し、バスク語はその名残であるとしたが、内的再建によって明らかになったバスク語の音変化と整合しない部分があり、問題がある[18]。また近年ではフェネマン[19]がヨーロッパの河川名に基づいてバスク語をヨーロッパ諸言語の基層言語として提案した。(バスコン基層語説を参照。)これもフープシュミートに対する批判と同様の観点から退けるバスク語学者が多い。



????格は名詞句に接尾辞をつけることで標示される。
????能格 - 絶対格型の体系である。
????文法関係を示す絶対格/能格/与格のほか、前置詞的な格や位置を表す格など14あまりの格が存在する。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2590%25E3%2582%25B9%25E3%2582%25AF%25E8%25AA%259E%23%25E6%25AD%25B4%25E5%258F%25B2



この言語は、やはりY-Q,Rが欧州へ進出してくる以前の言語だとすると、Y-CもしくはDの言語の名残の可能性があるでしょうか。あるいはその間に挟まるY−G、I等とも関係するのかな?

ただ、アフリカやアイヌの言語と関係するならば、やはりY−CかDでしょうね。



あと、バスク語とアイヌ語が似ているとの指摘を金田一が言っていたようですね・・・


──バスク語もやっておられるそうですが

金田一京助先生の本に、アイヌ語はエスキモー語やバスク語に似ていると書いてありましたので、どのように似ているのか知りたいと思っていました。これらの言語は、言語学の文献にはよく出てくるのに日本では知られていなかったのです。機会があって学んでみて初めて、こういう言語なんだとわかりました。それで日本人に紹介する必要を感じました。

とくにバスク語は、「能格言語」といわれる変わったタイプの言語として欧米では有名です。日本でもどこかで教えられなくてはいけない言語だと思います。早稲田大学の語学教育研究所は、他では教えられていないような言語を教えるということを看板にしていますから、その一つとしてこのような言語も置いています。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.waseda.jp%2Ftop%2Fnews%2F41437



その能格言語というのがきになりますね・・・。



能格言語の例

主な能格言語としては以下のものがよく知られている。

????北米先住民諸語のツィムシアン語、ネズパース語、セイリッシュ語族、エスキモー・アレウト語族など
????中米先住民語のマヤ語族
????南米先住民語のトゥピ・グアラニー語族
????ヨーロッパのコーカサス諸語やバスク語
????近東のフルリ・ウラルトゥ語族、シュメール語
????アジアのチベット・ビルマ語派、インド・アーリア語派、チュクチ・カムチャツカ語族など
????オーストロネシア語族のうち、トンガ語やニウエ語
????オーストラリア先住民諸語のほとんどの言語
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%2583%25BD%25E6%25A0%25BC%25E8%25A8%2580%25E8%25AA%259E


その能格言語の細かい構造云々は、理解に苦しみますね〜〜(-_-;)



11942シルクロード:2022/06/20(月) 08:16:24
東夷の首領は彝族
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012943M.jpg

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東夷の首領は彝族かという学説もあるらしい。東夷が発明したと言われる丁公陶文が彝文字(ロロ文字)と似ているからだろうか。

Y染色体ハプログループO-M117のチベット・ビルマ系集団としては、下記のように、1)ACT7481の下位集団にラフ(拉祜族)、ハニ (哈尼族)がおり、また2)CTS4658では、?CTS5308の下位集団にチベットとネパールのチベット・ビルマ系諸族と雲南のトゥルン(独龍族)が、?Z25928の下位集団には彝族がいる。

Z25928は江南でもかなり見付かっているので、彝族に近い民族集団が東夷の支配層を成していた可能性はある。ちなみに、「吊るされた棺」の民族も彝族であろうと見られ、その古人骨にはミトコンドリアDNAハプログループG3a1cが共通項として出ている。仰韶文化の集団に最も近い遺伝子の構成を持つのも彝族だ。


O-M117 トランス・ヒマラヤ語族集団
・F438
・・ACT7481【先日琉語族集団】長城地帯古人、現代日本人男性に2%
・・・BY92262 日韓支 (TMRCA:紀元前800年頃)
・・・F1123 淮夷(涂山氏)・九夷 (TMRCA:紀元前1000年頃)<-(元)チベット・ビルマ系?!
・・F23012 【チベット・ビルマ系】ラフ(拉祜族)、ハニ (哈尼族)

・CTS4658
・・O-CTS5308 チベット高原古人
・・・Y34065 【チベット・ビルマ系】トゥルン(独龍族)
・・・Y67478 【先日琉語族集団】冀魯支・金沢岩出横穴墓古墳人(TMRCA:紀元前1180年頃)<-(元)チベット・ビルマ系?!、現代日本人男性に2%
・・・F20067 ヒマラヤ地域古人、新疆昌吉・白楊河古墓古人、チベット・ネパールのチベット・ビルマ系諸族
・・Z25828 新疆白楊河古墓古人骨、【チベット・ビルマ系】彝族

日琉祖語集団の中核(日本人男性の10%): O-ACT7481(2%)、O-CTS5308(2%)、C-F1067(5%)、C-L1373(1%)


吊るされた棺
崖から棺を吊り下げる様式は、主に中国南部のボウ人(?人)などいくつかの少数民族が行ってきた古代の葬式習慣によるものである。様々な形の棺は、そのほとんどが1本の丸太をくり抜いて作られている。棺は、崖の鉛直面に刺した2本の杭の上に乗せるか、崖の途中にある洞穴に置かれるか、または崖の表面から突き出した自然の岩の上に置かれる。崖に吊り下げることによって、遺体が獣に荒らされることを防ぎ、さらには魂を永遠に祝福することができるとも言われている。

東夷
文字
東夷部落的文字是從北辛文化的刻劃符號開始的(逄振鎬. 從圖像文字到甲骨文??史前東夷文字史略. 中原文物. 2002, (2): 30 [2010-02-17])。

甲骨文是商朝人利用龜甲、牛骨進行占卜,再將占卜的結果刻在上面。因此,東夷部落是中國較早創造、使用文字的古老民族之一(追尋東夷族的文化足跡. 新華網河北頻道. 中國文化報. 2009-09-24 [2017-02-27])。其中的 "旦、鉞、斤、皇、封、酒、拍、昃",目前還在漢字中沿用。

中華人民共和國考古學者王恩田與?偉超等人認為,在龍山文化中發現的丁公陶文,是東夷系統的文字]。馮時認為,龍山文化發現的丁公陶文,屬於古彝文系統,殷商甲骨文中的人方,以及西周所稱的東夷,為【彝族】(馮時《古文字與古史新論》,台灣書房,2007年)。

丁公陶文
丁公陶文,古文字,於1992年由中華人民共和國山東大學考古隊於山東省鄒平縣丁公遺址發掘出的一個大平底陶盆上,發現的刻畫文字,年代為?期龍山文化,時代早於殷商甲骨文。學者一般相信這已經是一個成熟的書面文字系統,是現今發現最早的中國文字[1]。這個文字可能是由東夷人發明。
丁公陶文與現代漢字之間的關係,古文字學者有不同見解。

一派見解認為丁公陶公與殷商甲骨文有共同來源,皆為漢字先祖。中華人民共和國學者李學勤主張,丁公陶文為當時的俗體字,因此書寫方式與殷商甲骨文不同。

日本學者松丸道雄認為殷商甲骨文與丁公陶文是由同一個先祖文字發展出來的,但因分支發展,丁公陶文與殷商甲骨文兩者屬於遠親,因此結構不同。

中華人民共和國學者高明與裘錫圭認為,丁公陶文是一種已滅?的文字,被早期人類放棄而沒有繼續發展,是漢字的先驅,但並不是殷商甲骨文與現代漢字的先祖。

李恩田認為,丁公陶文是由東夷人創造的文字。?偉超認為,丁公陶文為東夷文字,與殷商甲骨文、周朝金文是兩個平行發展的文字系統,來源不同(?偉超〈丁公陶文是已亡佚的東夷文字〉,收?於?偉超《古史的考古學探索》,中國和平出版社,2002年)。馮時認為,丁公陶文是一種古【彝文】,由彝族創造,為東夷文字(馮時《古文字與古史新論》,台灣書房,2007年)。





11943シルクロード:2022/06/20(月) 09:27:32
キラータ集団と日本人とのDNAの比較
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キラータ(Kirata)とは東ネパール先住のチベット・ビルマ系集団で、代表的なものはリンブ(他称: Limbu/Subba 自称: Yakthung)とライ(他称: Rai, 自称: Khambu)。

黄河流域・華北・アムール河流域成分は、リンブが71%、日本人が87%。異なるところは、江南成分と縄文人成分(図1)。

図2は、リンブと同じキラータ系民族に属すライが、中国のどの地域集団と近いのかを示してくれている。ライに一番近いのは江蘇はじめ華東の漢族で、ネパールと華東の距離からすると意外かもしれない。そして、日本人に一番近い中国人も江蘇漢族ということが分かっていて、ライと傾向が良く似ている。



11944秦野北斗:2022/06/21(火) 09:26:15
Re: アイヌ語の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012945M.jpg

シルクロードさんへのお返事です。

シルクロードさんの履歴書添付するな・・・扶余だよな、高句麗なら北朝鮮だよ―40度の北朝鮮も寒くていいぞ

> 「Teacup掲示板ももうすぐ終わり、一足先にさようなら」じゃなかったのか?男らしくないな。右翼には女々しさがあるんだよね。お前も早く北朝鮮に帰れ・・・


東夷の意味は知らんだろうな、これ漢の東夷だ、とうい(遠)でないぞ

[12943] 東夷の首領は彝族(不変族)

東夷の首領は彝族かという学説もあるらしい。

彝族(不変族)はチベット・ビルマ系集団らしいな、とうい(遠)



11945管理人:2022/06/30(木) 02:13:48
アイヌ語の起源2
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 残りはまったく日本語とは別の言語でしょう。
>
> 『アイヌ神謡集』は、じゅつ‐ご【述語】です。これを見て日本語ない?
>
> 日本にも方言があり、東北でも青森、岩手、・・・方言はさっぱり理解できないのが現実です。日本語とは別の言語でしょう。は言い過ぎです。アイヌ語は方言と捉えるべきです。
>
>

おっしゃるように、確かに、アイヌ語、日本語、そして童子さんご指摘のバスク語などが、兄弟言語か別物なのか、きになるところですね。

さきほどGoogle翻訳いじってて気づいたんですが、バスク語やアフリカの言語などへの翻訳もできるようですね。


/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftranslate.google.co.jp%2F%3Fhl%3Dja%26sl%3Dja%26tl%3Deu%26op%3Dtranslate


個人的にアイヌ語や日本語と似てるように感じたのは、ソト語とかセペディ語といった、アフリカ南部のバントゥー語群ではないでしょうか?


たとえば、下記のように比較してみると、やはり相関性が4つの言語にあるように感じるんですね。最後にしるした磯(iso)等は、すべて4つとも同じ発音となるようですし・・。



漢字 日本語 セペディ語 ソト語 アイヌ語

水 mizu meetse metsi wakka

木 ki kota lehong ni

海 umi Lewatle Leoatle "rur or atuy"

心 kokoro pelo pelo kewtum

何 nani??eng eng nep

有る aru??go ba??be??an

人 hito??Monna Motho pito

行く iku??eya??tsamaea??paye

私 watasi??Nna??'Na??"asi or yay"

大きい oo-kii??kgolo??"e kgolo"??si

小さい chii-sai??nnyane??nyane??pon

する suru??dira etsa ki

聞く kiku??theeletša??mamela nu

こちら kochira??Mo Mona tonta

神 kami??Modimo Modimo??kamui

見る miru??lebelela sheba??inkar

切る kiru Ripa Khaola cha

山 yama Thaba Thaba nupuri

火 hi  mollo  mollo  ape

炎 honoo?? "kgabo ya kgabo"?? lelakabe????nuy

月 tsuki??Ngwedi??Khoeli?? cup

秋 aki lehlabula??hwetla??cuk

魚 sakana hlapi tlhapi cep

鳥 tori nonyana nonyana?? cikap

家 ie??Ntlo?? Ntlo??cise

島 sima sehlakahlaka?? sehlekehleke??sir

滝 taki??phororo?? phororo?? so

長い nagai??telele telele  tanne

黒 kuro??ntsho??ntsho?? kunne

弓 yumi  inama inama ku

空 sora??Lefaufau??Leholimo??kanto

強い tuyoi maatla??"e matla"??kai

怖い kowai??tšhogile??tshohile??kai

鼻 hana nko??nko??etu

岩 iwa letlapa  lefika iwa

兄 ani??Buti??Moena??irwak

磯 iso  Iso  Iso  iso




こうみていくと、4つの言語には、あきらかな相関性があり、おそらくはアイヌ語と、日本語の一部の基層部が、縄文・旧石器時代人などの言語を通して同じものがあり、また、その縄文・旧石器時代人による言語に、アフリカ南部のこのセペディ語やソト語といったバントゥー語と相関性があることを示しているのではないでしょうか。

そのバントゥー語群は日本語とも似たところがあるようです。下記のとおり。

バントゥー語は音韻論的には日本語に似ている。典型的には開音節CV(子音+母音)からなり、語はCV、VCV、CVCV、VCVCVなどで構成され常に母音で終わる。単独の鼻音も接頭辞などに多く使われるため、仮名で書くとンで始まる人名・地名が多い。鼻音以外の重子音は一般にはないので、日本語と同様に、外来語の重子音・末尾子音には母音が挿入されて、schoolがsukulu(チェワ語)、brushがburashi(スワヒリ語)のように変わる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2590%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2588%25E3%2582%25A5%25E3%2583%25BC%25E8%25AA%259E%25E7%25BE%25A4



その原因は、やはり旧石器時代人と対応するだろうY-Dあるいは、縄文人に対応するだろうY-Cが、出アフリカ時から比較的ダイレクトに日本列島に移住してきたことにあるのかもしれませんね。

Y-Cなら、クロマニヨン人系ですからコーカソイドの基層言語と関係しそうですし、Y-Dだと、インド・アンダマン諸島や、チベット、東南アジア系の一部の言語との接点があるかもしれませんが、その辺の是非はまた追って考えてみましょう。



11946シルクロード:2022/06/30(木) 05:08:23
百済王 C-F1067
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012947M.jpg

百済・温祚王
百濟王族の太祖・温祚王(Onjo of Baekje/???)のY染色体は、ハプログループC2c1(C-F2613/Z1338)であると推定される(注1)。

Y染色体ハプログループC2c1a系統
百済・蓋鹵王
百濟 第21代・蓋鹵王(加須利君/かすりのきみ/餘慶/慶司,  -475)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)であると推定される(注1)(注2)。

百済・扶余豊璋
百濟 第31代・義慈王の世子・扶余豊璋(623?-668?)のY染色体は、ハプログループC2c1a(C-Z1300, Z1301/CTS4021)である(注1)(注2)(注3)(注4)。

やっぱ我ら日韓支の族長は百済王室と同じC-F1067かな。日琉祖語集団とコリア祖語集団は、南満州か半島で私ツングースに征服されたので、族長は朝鮮半島中部西海岸の大竹里遺跡(この遺跡の個体の遺伝子構成は現代日本人に類似)のC-L1373である可能性もあるが、陝北・石?(Shimao)遺跡 (2300 BC-1800 BC) の頃より先日琉語族集団O-M117-ACT7481と共存して来たコリア語族集団C-F1067なら、我らが族長としてもまあ良かろう!

C-F1067はコリアンで7%、日本人で5%。



11947シルクロード:2022/06/30(木) 07:15:58
サカ、匈奴、羌族をルーツとする集団
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012948M.jpg

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覚えているだろうか、私は、新疆哈密の石人子溝遺跡古人 (410 BC-190 BC) から検出されたミトコンドリアDNAハプログループD4j1b,G3b, A17と、この遺跡の個体群の遺伝子構成が東西ユーラシア半々(そのうち2割が東アジア成分)であることから、無視できない量のチベット・ビルマ系集団が河西回廊を経て中央アジアに入った可能性が高いと推測していた。

そして、最近、新疆ウルムチに近い昌吉の白楊河古墓 (337 BC-150 BC) の古人骨において、Y染色体ハプログループO-M117-CTS4658-CTS5308とO-M117-CTS4658-Z25928が出たことで、この仮説は確証されることとなったのである。このO-M117のサブグループはチベット・ビルマ系の古代人および現代人が持つ型だからだ。

「チベット人のような人々」は確かに河西回廊を西北に進んだのである!岳父の祖先集団は、サカ、匈奴、羌族をルーツとする集団とまとめることができるだろう。漢族の進出より前の話しである。

さて、無難なところでは、岳父と漢族とは、紀元前2480年から紀元前1550年頃に共通の祖先を持つ。これは、文化でいうと、仰韶文化集団が黄土高原から移って甘粛・青海で興した馬家窯文化に遡る(図2)。

そして、この集団の一部は、気候の冷涼乾燥化を受けて東帰したことが分かっている。この「出戻り組」が岳父と共通祖先を有する漢族ということだろう。一方、岳父の祖先集団は、甘粛・青海にとどまり牧畜型農耕に移行していく。

のち、河西回廊を西北に進み、東西文化の交流地である四?文化(火焼溝文化とも)圏に移り、さらに新疆の石人子溝と白楊河を経て、中央アジアに入境というわけだ(図3)。

あ〜やっべーまじw喜多郎の「シルクロード」が聴きたくなってきた!

ただ、新疆ホータンの于闐王国遺跡 (260 AD) でもCTS5308が三体出ているので、険しい蔵北高原を西進した可能性も残る。しかし、「第三の極北」と言われるこの地域には、今でも人がろくに住んでいない。主流は河西回廊の方だろう。

悩ましいのは、我が岳父がCTS4658に属さず、O-M117の中でもかなりマイナーなO-M117-F18480であることだ(笑)古人骨もまだ出ていない。ま、そのうち見つかるだろ。



11948秦野北斗:2022/06/30(木) 09:09:10
Re: アイヌ語の起源2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012949M.jpg

https://translate.google.co.jp/?hl=ja&amp;sl=ja&amp;tl=eu&amp;op=translate



11949シルクロード:2022/07/01(金) 02:38:51
「シルクロード交易民」の先駆け
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012950_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012950_3M.jpg

岳父の祖先の辿った道(河西回廊)はまさに中華文明探源工程を体現していた!紀元前2000年頃の甘粛中西部・火焼溝文化地域にいた彼の祖先集団は「シルクロード交易民」の先駆け。

彼らは青銅器をはじめて中国に持ち込む。また、小麦を中国にもたらした、蘭州牛肉麵にとっても欠かせない集団だったと言えよう!青海北東部の喇家で最初に麺(ただし粟が原料)を発明したのも彼らだろう。ひょっとすると喇家での被災が河西回廊西進の契機?

中国大陸への小麦の伝来
中国大陸への小麦の伝来は紀元前2000年頃で、粉食用として広く栽培される様に成ったのは紀元前1000年頃である。

喇家遺跡
黄河北岸の盆地に位置するここに、今から約4000年前に高度な文明を持った町が存在した。しかし、地震に伴って黄河の水が流入して起きた水害により、一瞬にして町が水没し、泥によって密封された状態で発見されたため、東方のポンペイとも言われる。

現在、世界でもっとも古い麺類が、2005年10月にこの遺跡から出土した。麺は密封された器の中から発見され、分析の結果、粟が原料で、放射性炭素年代測定で約4000年前のものと確認された。器の内部は半真空状態になっていたため、現在まで残っていたと考えられる。

--------------
参考
中華文明探源プロジェクト(中華文明探源工程)
探源プロジェクトの目的は、夏商周年表プロジェクトよりも前の中国文明の起源を探すことであるとされ、2018年まで研究がなされた。

プロジェクト?期(2004年−2005年)
五帝の時代から殷の初期までの紀元前2500年から紀元前1500年までの中原地区が研究された。

プロジェクト?期(2004年−2005年)
範囲を広げて紀元前3500年から紀元前1500年について、黄河流域から長江中?下流域、西遼地区の研究がなされた。

プロジェクト?期(2009年−2012年)

プロジェクト?期(2013年−2015年)
2018年5月、プロジェクト全体の成果が発表された。

探源プロジェクトは、中国文明が一様でなく多元的なものであること、「多様で並立可能な集まり」(多元一體,兼容並蓄,綿延不斷)であるという特徴を持つことを示した。外部からの影響について探源プロジェクトは、西アジアや中央アジアの小麦栽培技術や青銅器精錬技術が徐々に中国文明に溶け込み、中国文明内部において改良されていったことに挙げられるように、中国文明が独自に文明を発展させたのではなく、外部からの影響を吸収しつつ改良したのであると指摘した。

中華文明探源プロジェクトに対する批判
又石大学校のジョ・ボプジョンは、「中国は中華文明探源プロジェクトを進行しながら、中国の歴史の優越性を浮き彫りにして、朝鮮を属国化している」と批判している。



11950シルクロード:2022/07/01(金) 04:16:46
対象と方法
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012951M.png

もはや気付かせるのは無理かw



11951シルクロード:2022/07/01(金) 05:55:02
Re: 弓月氏(秦氏)は何者だったか
asiさんへのお返事です。

asi、心配は要らない。掲示板閉鎖まであと僅か、戻って来いw

11952秦野北斗:2022/07/01(金) 09:28:21
Re: 弓月氏(秦氏)は何者だったか
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012953M.jpg

シルクロードさんへのお返事です。

馬鹿か、そんなので来ると思って居るのか・・・ 投稿日:2019年 5月16日(木)だぞ、
生きてるかどうかだ・・・

『隋書』俀国伝(裴世清、聖徳太子)
明年(六〇八年)、 上遣文林郎裴?使於俀国。 度百濟行至竹島 南望?羅國經都斯麻國逈在大海中。 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀。

俀(ひとおだやか)俀国は現在の福岡になる。

穴穗部間人皇女爲皇后、是生四男、其一曰廐戸皇子、更名豐耳聰聖?、或名豐聰耳法大王、或云法主王、是皇子初居上宮、後移斑鳩(奈良の斑鳩)。其二曰來目皇子が筑紫国に俀国をたてる。景教になる。尚、聖徳太子17条憲法だが來目皇子が述べたもので後世が文章にした。注:聖徳太子は廐戸皇子の聖?で聖徳太子は存在しない。

弓月氏(秦氏)は何者だったか:百済に機織りで招かれた、新羅の民だよ。
シルクロードさんの先祖が企んだ陰謀。天皇系は秦の始皇帝の血筋になる。
弓月氏が機織りを云いことに弓月君、何の関係のない平氏は弓月君、秦(はた)の血筋にした模様。嘘のばれるは、源平合戦で平氏が追い払われるは、生き残り四国の長宗我部(秦忌寸を自称)秦でしょう。それと、韓国の連中になる。

[6918] 弓月氏(秦氏)は何者だったか
秦氏の神体山である松尾山は京都太秦のすぐ西にありますが、この松尾山は秦氏が武蔵国までのルート上に設定した旧約聖書の出エジプト記のダイジェスト版の最初の出発点なのだと考えています。
モーゼが率いてユダヤの民がエジプトから脱出するのが、出エジプト記の最初のエピソードとなっています。
彼らは急いでいたので、食事のパンに種を入れて寝かせる時間がなく、そのため種無しパンを急いで作って腹を満たしたとされています。
ユダヤ教徒は、祭日にこの記念すべき種無しパンを食べるしきたりになっているそうです。
そして、この種無しパンの呼び名がマッツオなのです。
このマッツオと秦氏の神体山である松尾山のマツオの発音が実によく似ているということなのです。
秦氏が自ら名をけたと考えられる場所は、このほかに京都深草の稲荷山、信濃の諏訪、関東の武蔵です。
この、4か所は、秦氏が話していたトルコ語による命名であると考えられます。
渡来したユダヤ教徒たちが新たな入植地である武蔵に向かうルートの出発点である京都太秦の山に、出エジプトの記念すべき食べ物であるマッツオの名を仮託したのがマツオ山なのです。
信じがたいかもしれませんが、たぶん間違いないでしょう。
ということは、あとの稲荷山、諏訪、武蔵も出エジプト記と秦氏が話したトルコ語に関連するものであることが容易に推測できるということになります。
おいおい、その解明を進めていきたと思います。


> asiさんへのお返事です。
>
> asi、心配は要らない。掲示板閉鎖まであと僅か、戻って来いw



11953シルクロード:2022/06/03(金) 20:59:32
「騎馬」「民族」「征服」「王朝」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012954M.jpg

江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」は、天皇家の祖としての「天孫族」と「騎馬民族」的な高句麗や扶余との関係を論じた物語ですが、現代においては次のことが言えると思います:

1)「天孫族」はツングースと朝鮮民族の思想です!
2)天孫族思想も古墳時代の渡来人から受容しました!
3)日本に渡来した「騎馬民族」は北方漢民族と朝鮮民族です!
4)古代天皇は大陸の騎馬民族ではなく、はじめから農耕民です!
5)日琉語族集団の縄文人「征服」はありました!

つまり、天孫族思想と「騎馬」文化は古墳時代の北方漢族と朝鮮「民族」によって日本にもたらされ、それ以前に日琉語族集団による縄文人「征服」はありました。

さらに、
6)高句麗語は朝鮮語族である可能性の方が高いでしょう。
7)ツングースの日琉語族集団「征服」は西遼河流域であったようです。
8)貴族に占める割合で言えば、古代日本の「王朝」において、渡来氏族による特権階級の占有はあったと言えるでしょう。

出揃いました!「騎馬」「民族」「征服」「王朝」説w
騎馬民族:騎馬化した北方漢民族と朝鮮民族
征服:西遼河流域でのツングースによる日琉語族集団の征服、列島での日琉語族集団の縄文人征服
王朝:古代王朝における渡来氏族による特権階級の占有



11954シルクロード:2022/06/03(金) 22:46:30
Re: 「騎馬」「民族」「征服」「王朝」
> 1)「天孫族」はツングースと朝鮮民族の思想です!
> 2)天孫族思想も古墳時代の渡来人から受容しました!
> 3)日本に渡来した「騎馬民族」は北方漢民族と朝鮮民族です!
> 4)古代天皇は大陸の騎馬民族ではなく、はじめから農耕民です!
> 5)日琉語族集団の縄文人「征服」はありました!
>

「天孫族」と騎馬民族との関係については完全に却下です。天孫族とは元来ツングース語族集団および朝鮮語族集団の思想です。我が国の「天孫族」神話自体が朝鮮半島の集団からの受容に他ならないです。騎馬民族との関係もないです。

江上波夫は高句麗や扶余をツングースだと考えていますが、これは間違いです。高句麗語はおそらく朝鮮語族に属し、また、高句麗語中の日本語類似の語彙は高句麗語を反映したものではなく「偽高句麗語」すなわち「半島の先住民の言語」日琉語を反映したものです。

ただし、ツングース語族集団と日琉語集団との関係は確かにあって、ツングースによって西遼河地域で征服されたものと私は解しています。現代日本人において男系でも女系でも1%と僅かですが、ゲノム的にはアムール河流域成分すなわちツングース・ゲノムが現代日本人において16%を占めています。

日琉語集団を征服したツングース語族集団は、ゲノムと言語では逆に日琉語集団化しました。半島中部西海岸の大竹里遺跡の個体のゲノムが現代日本人に類似している一方で、男系のハプログループではツングースのものが出たことが支持材料となるでしょう。

列島に馬文化・古墳文化をもたらしたのは、古墳時代における大陸および半島からの渡来人であって、この時代、北方漢族や朝鮮半島の集団は既に多かれ少なかれ「騎馬民族」であるので、何もおかしい点はありません。ただし、彼らによる倭征服はありません。

言語を中核とする日本民族の形成は弥生時代にまで遡ると捉える必要がありますが、これは列島の先住民に対する「静かな征服」と言えるのかもしれません。この場合、日琉語族集団化であって「日琉語族の列島征服説」です。

11955シルクロード:2022/06/04(土) 16:21:40
ミシハセ/アシハセの語源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012956M.jpg

ミシハセ/アシハセの語源
阿倍比羅夫が帰順した蝦夷を率いて戦ったとされるミシハセ/アシハセについては諸説あるが、「蝦夷の向こう」という意味で同義であり、非蝦夷だろう。ツングースかオホーツク人か。なお、蝦夷には原アイヌもいたかもしれないが、大多数は「大和人と同族の蛮族」と見るのが一般的。



11956シルクロード:2022/06/04(土) 17:05:09
エミシ、蝦夷の言語
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012957_3M.png

青面金剛さんへのお返事です。

> ☆ 東北蝦夷の英雄・アテルイはハンガリーと同租のウラル語圏マジャール人を起源に持ちます。騎馬民族は樺太経由でも、東北地方へ渡って来た。半島から渡って来た物部系と、後に戦うことに成る。
>

こういうデマを一体何のブログ見て拡散してるんだ?マジャル語、ハンガリー語は学部で取って一応「可」取ってるがw、日本語には何ひとつ似てないぞ。マジャル語にはトルコ語彙とスラブ語彙が入ってるがな。

で、エミシ、蝦夷の言語は、アイヌ語より日本語に近縁の言語っぽい。沖縄語が分かれる前に東北方言が分かれたのではないかとも言われていて、もしそうであれば、東北方言は、今われわれが話している日本語の姉妹語的な位置付けになろう。

それに、何度も言うが、サハリン通って列島に渡来した集団は、オホーツク人だけだ。遺伝子的にはニヴフやツングース。コリャークもいたかな。



11957シルクロード:2022/06/04(土) 18:05:20
身の程も知らずオランカイと交戦したスーギル軍
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身の程も知らずオランカイと交戦したスーギル軍。このオランカイはワルカ部だったらしい。我が女系遺伝子G3a2-T152C!を持つ諸姓ウディゲと交戦していればスーギル軍は全滅していただろう!

李氏朝鮮では建州女直以外の女直を
・※兀良哈(ワルカ)
・兀狄哈(ウディゲ)に分け、
さらにウディゲを
・・フルン=ウディゲ (明における海西女直、後のフルン四部に相当)
・・※クルカ=ウディゲ(後のクルカ部に相当)
・・※諸姓ウディゲ(後のウェジ部に相当)に分けていた。

このうち、※印のワルカ、クルカ=ウディゲ、諸姓ウディゲが明で言う所の「野人女直」に相当。17世紀の満州語史料が記す東海三部(ワルカ・クルカ・ウェジ)とも対応する。野人女直は女真族の集団の中では最も勇猛だった。

遼代以後、アムール川上流にはウェジ (weji) と呼ばれる集団が存在したことが記録されている。ウェジはまた「兀的改(ウディゲ)」とも呼称されており、この兀的改がウデヘの語源であると考えられている。ウディゲは明朝からは「野人女直」として分類されていたが、「野人」の女真語訳/モンゴル語訳もまた、Udi-gen/Üdigänであった。



11958シルクロード:2022/06/04(土) 22:26:16
寧楽
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012959M.jpg

奈良の旧称である「寧楽」*narakは朝鮮語族の「国」*narakと同じである。朝鮮系渡来人が命名した可能性がある。ウリ・ナラのナラ。単なる語呂合わせ以上のものを感じる。

元を糺せばツングース語彙か?
??(nara)
Etymology 1
In the Hangul script, first attested in the Yongbi eocheonga (龍飛御天歌 / ?????), 1447, as Middle Korean ??? (Yale: nàláh), from Old Korean 國惡 (*NALak). Compare Yukjin dialect ?? (narang), which preserves the velar nature of the coda consonant.

Beyond Koreanic, the word is usually connected to Proto-Tungusic *nā (“land”), and hence Manchu ?? (na, “land”) and Nanai на (na, “land”), with *lak~*lah being a suffix.

Various ancient spellings suggest forms ending in -ku or -ki. This latter element is not attested past the Old Japanese stage:

奈羅, 那羅, 楢, 儺羅名良, 奈良, 那良那楽, 寧楽平城 →???nara? ?nara? ?naraku? ?naraki2? →?? /nara/ */nara?/ */narak?/ */narak?/ → /nara/

According to the Nihon Shoki (720 CE), the placename is derived from the Japanese verb 均す, 平す (narasu, “to flatten”).[2] In The Study of Place Names, Kunio Yanagida stated, “Nara stands for ‘flatland’.”[3]

However, an analysis of Old Japanese phonetic spellings (man'yōgana) reveals that the city name was often spelled with a final -ku or -ki element, which makes it phonologically unlikely that the city name derives directly from the verb narasu. The root from which the verb itself derives, nar-, appears in various terms related to “flat” or “flatness”, a fitting descriptor for the local geography. The final -ku or -ki element in the ancient spellings may be Old Japanese 城 (ki2 → ki, “palisade, stronghold, fortress, castle”), as also suggested in the alternative kanji spelling 平城 (literally “flat stronghold”). See also the discussion of the city name's etymology on Wikipedia.




11959シルクロード:2022/06/05(日) 03:10:33
?サカ、?匈奴、?羌、?ホータン・サカ、?パシュトゥーン、?ジャドゥーン
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図1?サカ、?匈奴、?羌、?于闐国(ホータン・サカ)、?パシュトゥーン、?ジャドゥーン

日本列島ではアーリア人の渡来を示す遺伝子は何ひとつ見られないが(爆)、アーリア人には、羌またはチベット系の到来を示す遺伝子が古代においても現代においてもしっかりと見出されている!!!

?羌の西方への拡大のうち、天山山脈方面の白楊河遺跡(紀元前400年頃-紀元前350年頃)の古人骨において、男系ハプログループO-M117-CTS4658-CTS5308およびCTS4658-Z25928が特定されたことで、河西回廊を通って中央アジア入りした集団の存在が最近確認されたところだ。

白楊河遺跡のCTS5308の女系ハプログループは西ユーラシア系のR1b1 だった。この型は白楊河遺跡と同時代にあたる新疆東部の石人子溝遺跡やアルメニア、ブルガリアの古人骨でも出ている。

石人子溝遺では、羌またはチベット系の女系ハプログループD4jb1とG3b、A17が3割を占める。男系ハプログループは、白楊河遺跡の個体とは逆に、サカ系のR-Z93(-Z2121- Z29137- Y36424- Y2424)が優勢で、全ゲノム解析による結果では、東西ユーラシア集団半々の混血だった。白楊河遺跡の個体も同様だろう。

?于闐国(ホータン王国)の古人骨では、サカ系のR-Z93とチベット系のO-M117-F8およびF8-CTS5308が出ている。『 魏書』「 西域伝」 が「西域において于闐国だけは住民の顔立ちが中国人にとても良く似ていた」と伝えている。

?サカ
紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族(アーリア人)。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイと呼んだ。また、中国の史書では塞(そく)と呼ばれる種族がサカにあたるとされるが異論もある。

ストラボン『地理誌』によると、サカと呼ばれる遊牧民のうち、特に有名なのがヤクサルテス川(シル川)のかなたからやって来てギリシア人からバクトリアを奪ったアシイ、パシアニ、トカリ、サカラウリであると記す。

この同じ事件を古代中国でも記しており、匈奴に撃退され、パミールを越えてアム川北に移動し、大夏国を征服した月氏の西遷、あるいは塞族の南遷がそうであるとされるが、塞族の存在については否定的な意見もあるため、慎重的な見方をしなければならない。

?パシュトゥーン
パシュトゥーンは、トルコ・モンゴル化されなかったサカの最後の生き残りだ。パシュトー語はバダフシャン地方で生まれ、ホータン語に関連している可能性がある。実際、多くの研究者がパシュトゥー語とサカ語との類似を指摘している。?ジャドゥーンは、パシュトゥーンの中で例外的にチベット・ビルマ系のO-M117が7割を超す部族。

Y染色体DNAハプログループ
・R-Z2125 サカ、于闐国、パシュトゥーン
・Q-M214 匈奴、パシュトゥーン、ケット、アメリカ先住民
・O-M117 羌、于闐国、ジャドゥーン、トランス・ヒマラヤン
(于闐:R, R-Z93, O-M117-F8, F8-CTS5308)

アンドロノヴォ文化
紀元前2300年から1000年頃の青銅器時代に、中央アジアステップ地帯からシベリア南部の広い範囲に見られた、類似する複数の文化をまとめた名称である。インド・イラン語派の言語を話すアーリア人との関係が有力視される。

R-Z93 アンドロノヴォ文化
・R-Z2125(1880 BC)
・・Z2123(1880BC)パシュトゥーン 、ロシア
・・・Z29094
・・・・Y95238 アンドロノヴォ文化湯巴勒薩伊墓地(新疆イリ地区ニルカ県, 1800 BC)
・・S23592(1880 BC)カザフ、クルグズ
・・・YP1557(1350 BC)
・・・・YP1542(750 AD)
・・・・・YP1563(1300 AD)
In a June 2015 study published in Nature, one male and three female individuals of Andronovo culture were surveyed. Extraction of Y-DNA from the male was determined to belong to R1a1a1b(R-Z93).



11960秦野北斗:2022/06/06(月) 14:12:12
国恥地図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012961M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9gAiFKlcdAs



11961管理人:2022/06/06(月) 23:26:25
奈良東南部古墳ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012962_2M.png

以前もしばしばお話してきた奈良東部の初期古墳を結ぶ方位ラインについて再考しながら、方位ラインの作成をしてみました。図1のとおりです。

図のように、まず耳成山を起点としたものとしては、耳成山⇔三輪山⇔巻向山への東20度偏角のラインと、耳成山⇔箸墓⇔龍王山への東40度偏角のライン、耳成山⇔黒塚古墳⇔西殿塚古墳への東55度偏角のライン、耳成山⇔西乗鞍古墳(西部)⇔石上神宮外苑公園(古墳状地形)への東65度偏角のラインがあります。

また、巻向山を起点としたものとしては、巻向山⇔箸墓への西5度偏角のライン、同じく巻向山⇔穴師兵主神社⇔珠城山古墳群への西10度偏角のライン、巻向山⇔崇神陵⇔黒塚古墳への西28度偏角のライン、巻向山⇔石上神宮外苑公園(古墳状地形)への西60度偏角のライン、そして上記の耳成山⇔三輪山⇔巻向山への東20度偏角のラインがあります。

そして、西殿塚古墳を起点としたものとしては、西殿塚古墳⇔珠城山古墳への東5度偏角のラインがあり、このラインと、珠城山古墳⇔巻向山への西5度偏角のラインが直交します。

同じく西殿塚古墳⇔櫛山古墳⇔狭井神社東部⇔桜井茶臼山古墳への西85度偏角のラインと先の箸墓古墳⇔巻向山への東5度偏角のラインが直交し、また西殿塚古墳⇔三輪山への西70度偏角のラインが、先の耳成山⇔狭井神社東部⇔三輪山への東20度偏角のラインと直交します。

加えて、西殿塚古墳⇔箸墓古墳への東70度偏角のラインと、桜井茶臼山古墳⇔箸墓古墳への西70度偏角のラインとで二等辺三角形を構成します。

そして上記の耳成山⇔黒塚古墳⇔西殿塚古墳への東55度偏角のラインですね。

あとその黒塚古墳に関するものとしては、黒塚古墳⇔珠城山古墳東部⇔狭井神社東部への西70度偏角のラインが、箸墓古墳⇔穴師兵主神社への東20度偏角のラインと直交し、また黒塚古墳⇔穴師兵主神社⇔三輪山の西50度偏角のラインが、先の耳成山⇔箸墓古墳⇔龍王山への東40度偏角のラインと直交してます。

その他、西乗鞍古墳⇔西殿塚古墳⇔穴師兵主神社への西77度偏角ラインにも留意しておくべきでしょう。

このように、これらの古墳群は、概ね同時代に造営されたと考えうるのですが、西乗鞍古墳についてはややズレがあるように、後代の横穴式石室を持つものとなり時代がずれますが、その周辺にもともと古い拠点があったのかもしれません。その祖先が箸墓などの主だった可能性が高いでしょう。

このラインに乗る古墳群を造営した集団は、やはり石上神宮方面と関わるので、物部氏系統ではないでしょうか。

全体的には、西殿塚古墳、次に箸墓古墳、黒塚古墳からのラインが多く、続いて桜井茶臼山古墳となるでしょうか。

崇神陵はそれより後代の古墳となり、櫛山古墳や珠城山古墳群といった双方中円墳状の古墳(群)も重要度はそれほど高くなかったのでしょう。

ライン面からみると、崇神陵は黒塚古墳と西殿塚古墳の主の子孫の可能性が高いですね。逆ンに箸墓とはこの大王=崇神?はダイレクトに関わってないのかもしれません。

また箸墓古墳は、大国(物)主と関わる穴師兵主神社と関係し、西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳の主と関係するでしょう。

そのラインの数が多いほど、この集団の祖先として重要な位置づけの首長だった可能性た高くなるはずです。

規模的には、箸墓古墳が278m、西殿塚古墳が230m、桜井茶臼山古墳が207m、崇神陵が230m、黒塚古墳が130m、櫛山古墳が152m、珠城山古墳群が130〜150mですから、黒塚以下は大王墓ではない可能性がありますね。





11962シルクロード:2022/06/07(火) 01:16:05
サカとトカラ、 羌の歴史
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サカとトカラ、 羌の歴史
・アンドロノヴォ−サカ−于闐(ホータン・サカ)
・アファナシェヴォ−トカラ−月氏

岳父の男系祖先は東アジアの羌(仰韶文化->馬家窯文化)が由来。甘粛・青海の斉家文化遺跡でO-M117が独占的に出ていること、四壩文化と石人子溝遺跡の古人骨で羌由来の女系ハプログループM10a1やD4jb1、G3bが出ていること、また天山方面の白楊河遺跡の古人骨で羌由来の男系ハプログループO-M117-CTS4658が出ていることを以って、この集団が河西回廊を通って中央アジアへ入ったことが推定できる。

新疆哈密の石人子溝遺跡(400 BC-200 BC)において男系ハプログループR1b1a1a2a2が出ていることから、岳父の男系祖先(甘粛・青海の馬家窯・斉家文化文化〜甘粛中西部の四壩 [Siba] 文化)が新疆で混交した集団は、サカではなくトカラ(Tokharians)である可能性が高い。トカラ語集団はアファナシェヴォ文化から連続。月氏とも関連か。

一方、サカはアーリア人(インド・イラン系)系統。アーリア人は、印欧語族の「第二波」としてアファナシェヴォ文化に取って代わった(アンドロノヴォ文化、カラスク文化)。サカは月氏に駆逐されるが、パシュトゥーンが遺伝的にも言語的にもサカの生き残りと言われる。

1. サカ
R(R-M207)于闐国遺跡(134 AD-289 AD, ホータン・サカ)
・M459(R1a1)カラスク文化(1500 BC-800 BC)、タガール文化(800BC-168 BC)、タシュトゥク文化(100 AD-400 AD, エニセイ・クルグズ)
・・M17 (R1a1a) サカ(クラスノヤルスク)、サカ(天山)
・・・Z93 アンドロノヴォ文化、印欧語族サテム語群、インド・イラン語派
・・・・Z2125(1880 BC)
・・・・・Z2123(1880BC)パシュトゥーン ・ロシア支
・・・・・・Z29094
・・・・・・・Y95238 アンドロノヴォ文化湯巴勒薩伊墓地(新疆イリ地区ニルカ県, 1800 BC)
・・・・・S23592(1880 BC)クルグズ・カザフ支

2. トカラ
R(R-M207)于闐国遺跡(134 AD-289 AD, ホータン・サカ)
・R1b(M343)
・・PH155
・・・TY262376 新疆バインゴリン地区チェルチェン(且末)県扎滾魯克古墓群(461 BC-111 AD)
・・L1754
・・・M269(4300 BC)印欧語族ケントゥム語群、ヨーロッパ・トカラの印欧語
・・・・R-L23(3720 BC)ヤムナ文化
・・・・・R-Z2103 (2910 BC)??アファナシェヴォ文化 (R1b1a1a2a2, R1b1a1a2a)、石人子溝遺跡(R1b1a1a2a2, 400 BC-200 BC)

3. 羌
岳父祖先(仰韶文化->馬家窯文化->四壩文化)
O-M117 紅山文化半拉山遺跡
・M133 黒水靺鞨
・・F8 仰韶文化楊官寨遺跡、紅山文化牛河梁遺跡、甘粛省黒水国遺跡、于闐国遺跡(134 AD-289 AD, ホータン・サカ)、チベット高原サムヅォン遺跡、甘粛省黒水国遺跡、トランス・ヒマラヤ語族
・・・F18480(3700 BC)仰韶文化の西部への拡大
・・・・TYT191354(2930 BC)馬家窯文化(3300 BC-2000 BC)、2900 BC頃より気候の冷涼乾燥化−>一部東帰。
・・・・・TYT170002(2480 BC)
・・・・・・FT223398(1550 BC)【岳父祖先】、甘粛中西部四壩 (Siba) 文化(2000 BC-1600 BC)、山東省漢族(東帰組)
・・・YP4864 青海省斉家文化喇家遺跡・金蝉口遺跡(2000 BC)
・・・A9459
・・・・CTS4658 チベット高原古人
・・・・・CTS5308 チベット高原古人、新疆昌吉白楊河古墓
・・・・・Z25928 新疆昌吉白楊河古墓
・・・・F438
・・・・・Y17728
・・・・・・ACT7481 長城地帯古人、中西部モンゴル、西部モンゴル古人【おれ祖先】



11963シルクロード:2022/06/07(火) 01:44:10
日本の神話が周辺諸国からパクリまくりな件(汗)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012964M.jpg

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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012964_3M.jpg

日本の神話?



11964シルクロード:2022/06/07(火) 01:49:22
遼河文明:中国大陸、朝鮮半島、ウラルの神話が繋がる件
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012965M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012965_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012965_3M.jpg

たまご



11965シルクロード:2022/06/07(火) 01:53:42
縄文人は「チンコ崇拝」(笑)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012966M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012966_2M.jpg

わろた。周辺諸国には隠して置きたいw



11966シルクロード:2022/06/07(火) 04:13:09
仰韶文化(O-M117)とヤムナヤ文化(R1)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012967M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012967_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012967_3M.jpg

仰韶文化のO-M117とアンドロノヴォ文化のR1aは好敵手同士だが、アファナシェヴォ−トカラ−月氏(R1b)は、羌(O-M117)の同盟者。

月氏の余種
初め敦煌付近にいた月氏族は匈奴の侵攻に遭い、その多くは中央アジアに遷って大月氏となったが、敦煌付近に残った一部は南山(崑崙山脈)の羌に依って小月氏となった。以下はその小月氏の一派だと思われる。
葱茈羌
白馬羌
黄牛羌



11967秦野北斗:2022/06/07(火) 16:28:07
Re: アッシリア帝国太陽神サマッシュ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012968M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢神宮



11968青面金剛:2022/06/08(水) 05:07:14
Re: アッシリア帝国太陽神サマッシュ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012969M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012969_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012969_3M.jpg

https://somosora.hateblo.jp/entry/2018/04/14/アメノウズメと月の女神



11969シルクロード:2022/06/08(水) 06:13:39
良い子は読まないように笑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012970M.jpg

.




11970シルクロード:2022/06/08(水) 06:23:30
Re: アッシリア帝国太陽神サマッシュ
秦野北斗さんへのお返事です。

おまえ、韓国人に対するヘイト画像といっしょに「掲示板ももうすぐ終了、一足先にさようなら」じゃなかったのか?この老人、その投稿削除してるよ、恥ずかしくなったか、みみっちい小者w

11971シルクロード:2022/06/08(水) 07:09:04
トカラ人
トカラ人
トカラ語派を話す人たちはミイラのDNA型鑑定の結果、後述のアファナシェヴォ文化を担った集団と非常に近く、個体の7割が南シベリアに特徴的なミトコンドリアDNAを持っていたため、北方から南下して来たことが明らかになった。

タリム盆地では紀元前2千年前後といわれる遺跡が発見されており、これらは上述の鑑定結果や葬制の類似から、紀元前3千年紀の青銅器時代初期に北方のアルタイ山脈方面に栄えたアファナシェヴォ文化人が西からアーリア人(インド・イラン系集団)に征服されながら南下してタリム盆地へ移り住んだことが判明しており、アファナシェヴォ文化はトカラ語と強い関連があると考えられている。

アファナシェヴォ文化はヤムナ文化と同源の文化と考えられ、トカラ語派の担い手はY染色体ハプログループR1b-M269と想定される[7]。

The Siberian &; Central Asian branch
When R1b crossed the Caucasus in the Late Neolithic, it split into two main groups. The western one (L51) would settle the eastern and northern of the Black Sea. The eastern one (Z2103) migrated to the Don-Volga region, where horses were domesticated circa 4600 BCE. R1b probably mixed with indigenous R1a people and founded the Repin culture (3700-3300 BCE) a bit before the Yamna culture came into existence in the western Pontic Steppe. R1b would then have migrated with horses along the Great Eurasian Steppe until the Altai mountains in East-Central Asia, where they established the Afanasevo culture (c. 3600-2400 BCE). Afanasevo people might be the precursors of the Tocharian branch of Indo-European languages. In 2014, Clément Hollard of Strasbourg University tested three Y-DNA samples from the Afanasevo culture and all three turned out to belong to haplogroup R1b, including two to R1b-M269.
The R1b people who stayed in the Volga-Ural region were probably the initiators of the Poltavka culture (2700-2100 BCE), then became integrated into the R1a-dominant Sintashta-Petrovka culture (2100-1750 BCE) linked to the Indo-Aryan conquest of Central and South Asia (=> see R1a for more details).
Nowadays in Russia R1b is found at higher frequencies among ethnic minorities of the Volga-Ural region (Udmurts, Komi, Mordvins, Tatars) than among Slavic Russians. R1b is also present in many Central Asian populations, the highest percentages being observed among the Uyghurs (20%) of Xinjiang in north-west China, the Yaghnobi people of Tajikistan (32%), and the Bashkirs (47%, or 62.5% in the Abzelilovsky district) of Bashkortostan in Russia (border of Kazakhstan).
R1b-M73, found primarily in North Asia (Altai, Mongolia), Central Asia and the North Caucasus is thought to have spread during the Neolithic from the Middle East to Central and North Asia, and therefore can be considered to be pre-Indo-European.
Tocharian kneeling devotees circa 300 AD, in the paintings of the Cave of the Hippocampi (Cave 118), Kizil Caves.

トカラはR1a1a-M17だとも言われている:
吐火?人最后可能被回?人在9世?中叶后同化。 部分古代?骨DNA?示,一定比例吐火?人男性的Y染色体??倍群R1a1a-M17。部分吐火?文物被学者??与?那?文化同源。

アーリア人の攻撃に遭いながら南下したとあるので、両方かな。

11972秦野北斗:2022/06/08(水) 12:07:19
Re: 秦の始皇帝と市杵島姫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012973M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=n2AM4r5Zi-o



11973シルクロード:2022/06/08(水) 19:02:21
Re: アッシリア帝国太陽神サマッシュ
青面vs秦野w
ま、二人とも頭は大丈夫ではないが、どちらかといえば青面の方がちょいましかな。
文章かける分(爆)

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > > 秦氏の首を刈りに来たアマテラスが愛しいのか?
> > 何を言ってる、アマテラスは、伊勢神宮に祀られてるぞ。
>
> ☆ 言葉足らずの超短文を二つ、ブツクサ唱えてるだけの、手抜き御仁には、説明するのも馬鹿らしい。
>
> ○ 4人目の姫巫女は月神を守りながらの逃亡の果てに、異母兄に命を奪われた、
>
> 『 豊来入姫は丹波を離れ、伊勢国一の宮、椿大神社つばきおおかみやしろに身を寄せたと伝えられています。ここはサルタ彦大神の総本宮とされています。
>
>  社家である宇治土公うじとこ家は豊来入姫をかくまうために、宇佐女尊ウサメノミコトと呼ばれていたのをウズメノミコトと変え、サルタ彦大神の后神だと説明したそうです。そのため宇治土公家は両神の名を合わせて猿女サルメの公キミとも呼ばれました。
>
> 豊来入姫の名を辿ってみると、
>
> 豊姫(豊国)=壱与トヨ(魏書)=豊来入姫(大和)、若ヒルメムチ=豊鋤入姫(記紀)=宇佐女尊(伊勢)=ウズメノミコト=アメノウズメ(記紀)
>
>  といった多くの呼び名に変えられています。故郷の豊国から各地を転々としながら、最後は身を隠すように生きていた姫巫女の心細さが伝わってくるようです。
>
>  椿大神社の奥に別宮、椿岸神社が建てられ、鈿女ウズメ本宮と呼ばれています。豊来入姫はここで、イクメ大王の差し向けた刺客によって暗殺されたと伝えられています。』
>
> 『 日本書紀に次のような記述があります。
>
> 「稚日女尊ワカヒルメムチが機殿で神衣を織っておられるところへ、素戔嗚スサノオ尊がまだら駒の皮を剥いで投げ入れた。驚いたワカヒルメムチは驚いて機から落ちて、持っていた梭ひで身を傷つけて亡くなられた。」
>
>  イクメ大王は徐福(スサノオ)の子孫です。出雲の伝承と重なるようにも思えます。梭ひは刺客の短刀か、豊来入姫の自決を表しているのでしょうか。どちらにしても、4人目の姫巫女は月神を守りながらの逃亡の果てに、異母兄に命を奪われるという悲しい結末を迎えたということです。』
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsomosora.hateblo.jp%2Fentry%2F2018%2F04%2F14%2F%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25A1%25E3%2583%258E%25E3%2582%25A6%25E3%2582%25BA%25E3%2583%25A1%25E3%2581%25A8%25E6%259C%2588%25E3%2581%25AE%25E5%25A5%25B3%25E7%25A5%259E
>
> 伊勢国一之宮 猿田彦大本宮 椿大神社  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftsubaki.or.jp%2F
>
> > また、出雲大社を造ってくれたのに、罰当たり、青面金剛。
> > 天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました。
>
> ○ 出雲大社のHPの説明は、第8代大国主と第17代大国主の時の事を一色単に書いている。出雲大社で祀られているのは、第八代大国主である八千矛命です。
>
>  八千矛命は、天穂日らによって拉致され枯れ死した。出雲王朝閉朝後に、高層神殿を建てる様、命じたのは、旧出雲両王家の財力を削ぐ為。
>
>  出雲大社の土地は旧東出雲王家の土地で、建築費用も富家が負担した。西出雲王家は、木材を提供した。物部側は、命じただけで、実際の建築には関わっていないし、費用の分担もしていない。
>
>
>
>

11974管理人:2022/06/08(水) 23:22:21
アイヌ語の起源3
今YouTubeでたまたま見たんですが、シルクロードさんみたいな話している動画がありましたので、おしらせします・・・。アイヌ語と日本語の起源、わかりやすく説明されてますが・・・これは正解でしょうか?

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2FDUUZrCk8864

11975シルクロード:2022/06/08(水) 23:49:11
Re: アイヌ語の起源3
管理人さんへのお返事です。

ばれた?w

> 今YouTubeでたまたま見たんですが、シルクロードさんみたいな話している動画がありましたので、おしらせします・・・。アイヌ語と日本語の起源、わかりやすく説明されてますが・・・これは正解でしょうか?
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2FDUUZrCk8864

11976シルクロード:2022/06/09(木) 00:04:48
日本列島最初期の現生人類
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012977M.jpg

4万年前頃となる日本列島最初期の現生人類集団は、「縄文人」とも現代人とも遺伝的にはつながらず、後に絶滅した可能性が高そうです。

4万〜3万年前頃にかけて、アジア北東部には現在では絶滅したと考えられる集団が広範に存在していたようなので、日本列島最初期の現生人類も、この集団から派生したかもしれません。この絶滅集団を、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体に因んで、田園集団と仮に呼んでおきます。

参考文献:
篠田謙一『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中公新書)



11977シルクロード:2022/06/09(木) 02:06:50
新疆
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012978M.jpg

新疆は、動的な文化的・言語的・遺伝的背景のある人口集団の過去の合流点と共存に関する研究にとって重要な地域である。

北西には、アファナシェヴォの草原地帯文化が存在した。南方には、アジア中央部のオクサス文化/バクトリア・ マルギアナ考古学複合 (BMAC) が存在し、そして東方には、河西回廊周辺にスバ(Siba)文化が存在した。

青銅器時代の新疆集団の起源は、二つの主要な仮説が競合:
1)草原地帯仮説によれば、北方のアファナシェヴォ草原地帯文化集団がタリム盆地へ南下し、定住した。2)バクトリアのオアシス仮説では、パミール高原と天山山脈全域での、新疆の西方に位置するBMACとの関係が強調された。

さらに、追加の要素として、3)河西回廊を通っての、中国北部の現在の甘粛省と青海省、つまり甘青地域からのアジア東部とのつながりもある。

新疆では、紀元前1150年頃の最初の鉄製道具が、広範に分布した鉄器時代の遊牧文化集団であるサカなど草原地帯遊牧民と関連付けられている。彼らの存在は、新疆の青銅器時代北西部およびタリム盆地南部のイリ河流域の多くの遺跡で報告されてきた。サカやフンやパジリクや匈奴やタガールなど多くの遊牧民連合が、鉄器時代に新疆周辺地域で台頭。

サカはアンドロノヴォ文化やスルブナヤ文化、シンタシュタ文化など後期青銅器時代の牧畜民の子孫で、前期青銅器時代のシャマンカ文化などバイカル湖地域人口集団とBMAC人口集団に由来する追加の祖先系統を有している。

サカは、新疆において他地域への拡大前に南部で話されていた、インド・イラン語派コータン語と関連づけられてきた。単一の鉄器時代の遺跡の以前のゲノム研究は、鉄器時代新疆個体群における草原地帯関連祖先系統の存在を示唆してきた。



11978青面金剛:2022/06/09(木) 04:32:25
Re: 秦の始皇帝と市杵島姫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012979M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012979_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012979_3M.jpg

https://ameblo.jp/imaga114/entrylist.html



11979シルクロード:2022/06/09(木) 05:05:26
新疆の青銅器時代以降の人口史と岳父の系統集団
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012980M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012980_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012980_3M.png

図1 EMBA:草原地帯の前期〜中期青銅器時代(<-ヤムナヤ文化、アファナシェヴォ文化)
図2 MLBA: 草原地帯の中期〜後期青銅器時代(<-アンドロノヴォ、シンタシュタの牧畜文化)
図3Iron Age/HE :鉄器/歴史時代

青銅器時代から鉄器時代にかけて東アジア祖先系統が増加した。新疆の母系ハプログループ(mtHg)と父系ハプログループ(yHg)では、新疆北部と南部と西部のmtHg-C・D・M・Nと、新疆東部と南部のYHg-O2a2b(O-M134の親)が、新疆における東アジア祖先系統を反映している。

新疆古人骨のO-P164のサブグループは、O-M117-F8が1個体(ホータン)、F8-CTS4658-CTS5308が3個体(同)、さらに天山北路の白楊河遺跡でCTS4658-Z25928が1個体と出ている。

岳父系統(yHg-O-M117-F18480)は図2のEast Asian、東アジア人の新疆への移住の中に位置付けられる。図3のEast Asian/Han (漢)と対比して、East Asian/Qiang(羌)と呼んでおこう。

文化系統では、甘粛・青海の馬家窯文化 (3800 BC[石嶺下類型期]-2000 BC)->斉家文化 (2200 BC-1600 BC)->甘粛中西部のスバ(Siba)文化 (1900 BC-1500 BC)の人口集団。

仰韶文化人の甘粛・青海への移動と定住(馬家窯文化)は気候が温暖湿潤な紀元前3800年頃以降に行われた。しかし、紀元前2900年頃以降に気候が冷涼乾燥化すると、一部の集団が東帰する。この動きの延長上に岳父と祖先を共有する山東漢族の張氏がいる。

なお、岳父のmtHg-M2a1は南インドから中央アジアへの僅かな集団の移動を反映している。

参考文献:
Kumar V. et al.(2022): Bronze and Iron Age population movements underlie Xinjiang population history. Science, 376, 6568, 62?69.



11980シルクロード:2022/06/09(木) 06:25:42
怖〜い死婁駆道 (シルクロード)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012981M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012981_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012981_3M.jpg

夏休みですね!怖〜い死婁駆道
1. 小河墓地 (新疆バインゴリン・モンゴル自治州若羌県) 図2と3。
ウイグルは「小河墓地には悪霊がいて、近付いた者は病気になる」と言って近づかない。図3の美女はトカラ系でもインド・アーリア系でもなくて、古代北ユーラシア人(ANE)の末裔だった!絶滅した古人類の怨念か?

2. 青海の道の都蘭 (青海省海西モンゴル族チベット族自治州)
地元の人は妖怪 (吐蕃が滅ぼした吐谷渾の幽霊) が住むと恐れ、近寄らない。九階妖楼 (熱水大墓)。

3. カラホト (内蒙古アルシャー盟エジン旗)
カラホト (タングート の都市遺跡) 最後の将軍が蛇に化けて人を噛む。現地の伝承によれば、1372年モンゴルの将軍カラ・バトールが明の軍勢に包囲され、水路を断たれた。カラ・バートルは運命を悟り家族共々自害。その後、明軍の最終攻撃で守兵と住民は殲滅。



11981秦野北斗:2022/06/09(木) 09:49:26
Re: 秦の始皇帝と市杵島姫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012982M.jpg

https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p0116/#:~:text=頭の働きや腕前,しまったようである。



11982シルクロード:2022/06/09(木) 22:35:00
Re: 秦の始皇帝と市杵島姫
秦野北斗さんへのお返事です。

> > ※ 言葉足らずの超短文で意味不明、ブツクサ断片的に念仏を唱えてるだけの御隠居とは、もう議論に成らないので、秦野との問答は此れにて、打ち切らせて頂きます。老人ホームへの入居を頼みなさい。
> >

> > ※ 言葉足らずの超短文で意味不明、ブツクサ断片的に念仏を唱えてるだけの御隠居とは、もう議論に成らないので、秦野との問答は此れにて、打ち切らせて頂きます。老人ホームへの入居を頼みなさい。
> >

> > ※ 言葉足らずの超短文で意味不明、ブツクサ断片的に念仏を唱えてるだけの御隠居とは、もう議論に成らないので、秦野との問答は此れにて、打ち切らせて頂きます。老人ホームへの入居を頼みなさい。
> >

11983シルクロード:2022/06/09(木) 23:09:12
青銅器時代のタリムミイラの起源に関する意外な知見
『ネイチャー』の日本語サイトからの引用。

遺伝学:青銅器時代のタリムミイラの起源に関する意外な知見
 中国の新疆ウイグル自治区のタリム盆地で発見された、自然に保存されてきた青銅器時代のミイラが、遺伝的に孤立した地域集団に属していたことが、DNAのゲノム規模の解析によって明らかになった。このことを報告する論文が、Nature に掲載される。この知見は、タリムミイラが現在のシベリア南部、アフガニスタン北部、中央アジアの山岳地帯から移住してきた集団の子孫だとする従来の仮説と一致しない。

 タリムミイラとこれらが属していた小河(Xiaohe)文化の起源については、ミイラが20世紀初頭に発見されて以来、議論が続いており、特にその理由となっているのが、ミイラの独特の外観とそれに関連した服飾技術と農耕技術だった。この点に関しては、3つの主要な仮説を巡って議論が続いている。つまり、現在のシベリア南部のステップ遊牧民の子孫とする仮説、中央アジアの山岳地帯出身の農民とする仮説、アフガニスタン北部の砂漠地帯のオアシスから移住してきた農民とする仮説だ。

 今回、Chuongwon Jeongたちは、新疆ウイグル自治区南部のタリム盆地で出土した紀元前2100〜1700年ごろのミイラ13体と、ジュンガル盆地北部で出土した紀元前3000〜2800年ごろのミイラ5体のゲノムDNAを解析した。これらのミイラは、これまで新疆ウイグル自治区で発見された最古の人骨だと考えられている。ジュンガルのミイラは、ほとんどの場合、祖先がアファナシェボ(現在のシベリア南部にあるアルタイ?サヤン山脈のステップ遊牧民)にあり、地元の遺伝的影響も一部見られた。

一方、タリムのミイラは、地元の祖先しか見つからなかった。7体のタリムミイラの歯の堆積物の中から乳タンパク質が発見され、このタリムの集団が酪農に依存していた可能性が非常に高いことが示された。これらの知見をまとめると、従来の移住説とは一致せず、地元のジュンガル系集団とアファナシェボからの移民の遺伝的系統が混合した可能性があるものの、タリム盆地の文化は遺伝的に孤立した地域集団から生じた可能性が非常に高いことが示唆された。ただし、Jeongたちは、この地域集団の文化は国際的であり、近隣の牧畜民や農民と密接な関係を維持していたと示唆している。

 同時掲載のNews &; Viewsでは、Paula Dupuyが、Jeongたちの論文に記述された重要な知見と、それが先史時代の内陸アジアに関する我々の知識に対して持つ意味をさらに掘り下げている。Dupuyは、結論として、Jeongたちが「小河文化の遺伝的起源という疑問に答えた。内陸アジアの青銅器時代を決めたダイナミックで多様な文化交流のパターンをさらに説明できるかどうかは、今後の学者たちの共同研究にかかっている」と述べている。


ゲノミクス:タリム盆地で出土した青銅器時代のミイラのゲノム起源

ゲノミクス:タリム盆地のミイラの意外な起源
 シルクロードの一部である中国の新疆ウイグル自治区は、ユーラシアをまたぐ交易の重要な拠点であった。新疆南部のタリム盆地からは、西洋風の衣服を身にまとい、青い眼や金髪などの表現型の特徴を持つミイラ化したヒト遺骸が発見されており、その起源については議論が交わされ、さまざまな仮説が立てられている。今回C Jeongたちは、タリム盆地の紀元前2100〜1700年頃の個体および新疆北部のジュンガル盆地の紀元前3000〜2800年頃の個体に由来する古代DNAを解析している。その結果、ジュンガル盆地の個体のDNAは大部分がアファナシェヴォ人系統に由来していた一方、タリム盆地の個体のDNAには同地域の系統しか見られないことが分かった。こうしたデータに基づいて、タリム盆地の人々が、アルタイ/サヤン山脈のアファナシェヴォ集団を祖先とするという「ステップ仮説」と、バクトリア・マルギアナ考古学複合の移動性農耕民を祖先とするという「オアシス仮説」の両方が否定された。著者たちはこれとは対照的に、タリム盆地のミイラがこの地域において遺伝的に隔離された集団から生じた集団に属していたと結論付けている。

11984シルクロード:2022/06/10(金) 03:49:54
チベット、新疆の古代DNA O-M117
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チベット、新疆の古代DNA、美味しいところばかり頂いてすみません!w

日本のO1b2, D1a2a, C1a1が冴えない分頑張らないと!!!(爆)



11985シルクロード:2022/06/11(土) 00:02:18
馬家窯文化と気候変動
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馬家窯文化と気候変動

岳父の祖先は気候が温暖湿潤の時期に仰韶文化圏から甘粛・青海地区に移住した。馬家窯文化の石嶺下類型期は紀元前3800年頃よりはじまる。岳父の祖先はさらに甘粛中西部まで移動し、スバ(Siba)文化に参加したのかもしれない。気候が冷涼乾燥化し農業に適さなくなると、馬家窯文化の人たちは一部東帰、黄土高原で青銅器社会を形成(羌)、殷と対立。

Climate changes
Scholars have come to the conclusion that the development of the Majiayao culture was highly related to climate changes. A group of scholars from Lanzhou University have researched climate changes during the Majiayao culture and the results indicate that the climate was wet during 5830 to 4900 BP, which promoted the development of early and middle Majiayao culture in eastern Qinghai province. However, from 4900 to 4700 BP, the climate underwent droughts in this area, which may be responsible for the decline and eastward movement of prehistoric cultures during the period of transition from early-mid to late Majiayao culture.
("Climate Change; Researchers from Lanzhou University Describe Findings in Climate Change". The Business of Global Warming. Feb 20, 2012.)



11986シルクロード:2022/06/11(土) 02:23:04
Re: 馬家窯文化と気候変動
新疆東部の青銅器時代人口集団は、中国西北部の甘青地区(甘粛省および青海省)のアジア東部人と文化的つながりを共有している。

甘青地区の馬家窯・馬廠(Machang)文化の人々は、天山北路文化、河西回廊でスバ(Siba)文化を形成。青銅器時代の新疆東部の個体群も甘青地区の集団と身体的類似性を示した。新疆東部の後期青銅器時代を担った集団も、斉家文化と卡約文化との遺伝的つながりを示す。

斉家文化喇家遺跡の個体の成分分析では、仰韶文化成分8割、東北アジア2割であり、青銅器時代の斉家文化および後期青銅器時代の卡約(Kayue;羌が担い手とされる)文化の個体は、現代の4集団、モンゴル人、トゥ(モングォール)、オロチョン、日本人とも繋がる。青海省東北部の斉家文化金蝉口遺跡で出ている私の母系ハプログループG3a2(ツングース由来とされる)も東北アジア起源であろう。

中国西北の東アジア系古代DNA
1. 斉家文化
(1) 金蝉口遺跡(青海東北部):O-M117-F8-YP4864、mtHg-G3a2
(2) 喇家遺跡(青海東北部):YP4864(2個体), O-F114(1個体), D1a1(1個体)、mt-G1c1, M11, A18, F1a, F1g, B4c1
(3) 磨溝遺跡(甘粛西南部):F8-ACT7481、mtHg-G1c, D4j, D5a1, B4c1, B4d1
2. スバ文化(甘粛中西部):mtHg-M10a1 (チベット高原が最大集積地)
3. 石人子溝遺跡(新疆東部):mtHg-G3b (チベット高原が最大集積地), D4jb1(原チベット系とされる), A17

参考文献:
Wang W. et al.(2021): Ancient Xinjiang mitogenomes reveal intense admixture with high genetic diversity. Science Advances, 7, 14, eabd6690.

11987シルクロード:2022/06/11(土) 05:41:52
東アジア文明の創始者ハプログループO-M117-F8
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012988M.png

仰韶文化創始者ハプログループO-M117-M133-F8
中国人男性の7人に1人、日本人男性の20人に1人が有する東アジア文明の創始者ハプログループ。「漢蔵語族の担い手」については、O-F11やO-F114も名乗りを上げている。しかし、チベット・ビルマ語派と漢語派の共通項はO-M117-F8なのだから、普通に考えればO-M117-F8となるだろう。O-F11やO-F114が漢語(Sinitic)化し、漢語の拡散において大きな役割を演じた可能性はある。

フィンランドのモンゴル語研究者ユハ・ヤンフネンによれば、先日琉語族は東夷語、「漢蔵語族のような言語」であり、私も支持している。日琉語族の音韻は非常にシンプルであり、動詞などほとんどが単音節である。また、現代日本語の口語で格助詞が頻繁に落ちることを考えると、もともと格助詞は存在しなかった可能性がある。これは、スラブ語研究者の千野栄一もどこかで指摘している。



11988シルクロード:2022/06/11(土) 07:21:38
裴李崗文化ハプログループO-JST002611-F11-F325
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0012989M.png

裴李崗文化ハプログループO-JST002611-F11-F325 (TMRCA 紀元前7010年頃)

下記の論文は、O-JST002611-F11-F325 を漢語(Sinitic)の形成に大きく寄与したハプログループだとしている。O-JST002611はチベット・ビルマ語の形成には参加していないが、華東の漢族の3人に1人が持つ云々。

裴李崗文化を担ったのが漢蔵語族とすれば、O-M117が漢蔵語族化し、チベット・ビルマ語を西南に拡めたというシナリオも考えられないこともない。しかし、大汶口文化のO-JST00261のうち北方に移住したF11がO-M117-M133-F8の漢蔵語族に言語を転換したと考えるのがより一般的のようだ。

O-JST002611はモン・ミェンに多いので、元はこの語族だったのではないかと想像する。モン・ミェン語族は漢語(Sinitic)に声調をもたらしたとも言われている。

参考文献:
Xiaotian Yao. et al.(2017): Improved phylogenetic resolution for Y-chromosome Haplogroup O2a1c-002611. Scientific Reports volume 7, Article number: 1146.

裴李崗文化 (Peiligang culture)
河南省の黄河流域で生活していた新石器時代の共同体のグループに考古学者が与えた名前で、1977年に河南省鄭州市新鄭県の裴李崗で発見された遺跡にちなんで名付けられた。この文化は紀元前7000年から紀元前5000年までの間に存在し、70を超える遺跡がある。考古学者たちは裴李崗文化が平等主義であり、政治組織はほとんどなかったと信じている。
この文化ではアワを耕作する農業やブタを飼育する畜産を実践していた。また、土器を作った古代中国最古の文化でもある。河南省漯河市舞陽県の賈湖村で発見された賈湖遺跡はこの文化に関係する最古の遺跡の1つであり、古代の笛や未解読の賈湖契刻文字などが発見されている。



11989シルクロード:2022/06/11(土) 07:39:19
夷夏東西説
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夷夏東西?是一個中國史前文化起源假?[1][2],於在1933年由傅斯年提出。此?認為,商部落可能起源自今中國東北地區,商代文化由二個族群建立:商朝的西部由夏人開發,並且商朝的東部由東夷人開發。直到大約1960年以前,中國和西方史學家都以這個假?來解釋中國的史前史。大凌河流域的出土商代銅器,符合這個假?。
根據當時最新發現的考古結果,夷夏東西?得到一些學者的進一?擴展,認為仰韶文化是由西部的夏人建立,而龍山文化由東部的東夷人建立。如中華人民共和國學者方漢文等,認為原始漢族的主體應是來自東夷人[3][4]。
對夷夏東西?的質疑
・在1950年代後,夷夏東西?受到了一些學者的質疑,以下是反對者的論據。 [5] [6]
・20世紀50年代的考古發現顯示殷墟文化出現在中原的二里崗文化之後。
・在1959年在二里頭遺址被發現的二里頭文化,是龍山文化之後,二里崗文化之前出現的文化。雖然考古學界對商代和夏代的界限的分界點仍未有定論,中國學者普遍認為二里崗文化和二里頭文化分別是商代和夏代的遺址。
・在1983年,發現了新的二里崗文化遺址偃師商城遺址。這發現進一?顯示二里頭和二里崗文化由不同文化背景的人所控制。
考古發現,在公元前2000年左右,山東龍山文化被岳石文化取代。這文化的出現顯示二里崗文化從中原向東的擴展。
・在1980年代後,包括山東大汶口文化,大、小凌河紅山文化遺址的發展,使夷夏東西?重新受到重視。

East Yi West Xia
East Yi West Xia (夷夏東西?; Yí Xìa Dōngxī Shuō) is an obsolete theory about the origin of prehistory culture in current China which says that the culture of Shang dynasty was established by two ethnic groups; namely, that the Western part of the Shang dynasty was developed by Xia ethnic group, and the eastern part of Shang dynasty was developed by Yi ethnic group.

This theory was suggested by future linguist Fu Sinian in his thesis 1933.[1][2] It was further expanded by Liang Siyong who suggested that the newly discovered Yangshao culture was established by the Xia in the west and the Longshan culture by the Yi peoples of the east.[3] For Chinese and Western historians this hypothesis became the prevailing theory to interpret Chinese prehistory and remained so until about 1960.[4][5]

Further archaeological discoveries made the theory obsolete. In 1950s it became clear that the Yinxu culture was preceded by the Erligang culture in Zhongyuan. In addition, the gap between the Erligang culture and the Longshan culture was joined by the Erlitou culture, which was named after the Erlitou site discovered in 1959. Chinese scholars identify the Erligang and Erlitou cultures as the sites of the Shang and Xia Dynasties respectively although the archaeological boundary between the two dynasties was still debatable. In 1983, the ruin of Yanshi Shang City was discovered and identified as the Erligang culture. The ruin very close to the Erlitou site suggests that the Erlitou and Erligang cultures were dominated by people with different cultural background.

In Shandong, the Shandong Longshan culture was replaced by the Yueshi culture around 2000 B.C. The sites of the Yueshi culture show complementary distribution with those of the Erligang culture which expanded eastward from Zhongyuan. It proved that the Shang people did not originated in the east.

Implications
Though largely replaced and modified by later further research, Fu Sinian's theory entered the history as a landmark in Chinese historiography. It essentially questioned ethnic homogeneity sometimes postulated as the route of Chinese civilization. This contributed to the concept of the dialogical development of cultures.



11990シルクロード:2022/06/11(土) 19:10:33
半月形文化伝播帯
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中国東北から西南に至る辺地半月形文化伝播帯
これ、O-M117の道だわ。mtHg-G3の道でもあるな。

The 'Crescent-Shaped Cultural-Communication Belt
The notion of a crescent-shaped cultural-communication belt stretching from Northeast China and Korea along the Tibetan??borderlands all the way to Yunnan stands as the late Tong Enzheng's most-cited contribution to the Chinese archaeological discourse (Tong Enzheng 1987). In the 1980s, suggesting such long-distance contact was a bold move. At the time, Chinese and Western scholars alike were afraid of being accused of diffusionistic tendencies in their work, and they thus mostly decided to concentrate on local developments. Only in recent years has it again become acceptable and even desirable to discuss far-reaching exchange networks. Interestingly, the emerging scholarship on such topics has some noticeable lacunae. Discussions on China's long distance contacts, for instance, focus mostly on steppe connections and Western influences on the cultures of the Central Plains. By contrast, material from Southwest China has received much less attention and has but rarely been mentioned in connection with Northeast China; neither have Tong Enzheng's considerable theoretical contributions to the understanding of culture contact and cultural exchange received the consideration they deserve. While Tong Enzheng remains a household name to anyone working in the Southwest, in other parts of China his work is less well known, and even though Tong still carries some name recognition outside of China, few scholars are fully aware of his important contributions. This volume stems from the session. Reconsidering the Crescent-Shaped Exchange Belt??Methodological, Theoretical and Material Concerns of Long-Distance Interactions in East Asia Thirty Years after Tong Enzheng held at the Fifth World Conference of the Society for East Asian Archaeology (SEAA), held in Fukuoka (Japan) in 2012. The papers collected in the present volume touch on four main topics: Tong Enzheng's life and research, and his place within the development of modern Chinese archaeology; recent developments in the archaeology of Southwest China; material traces and geographic, cultural, and historical preconditions of possible movements and inter-group contacts along Tong's crescentshaped cultural-communication belt; and theoretical and methodological issues in the study of culture contacts and cultural exchange, and of their reflections in the material record.



11991シルクロード:2022/06/11(土) 23:07:35
鬼方, 先零羌, 焼当羌
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1. 石?(Shimao)遺跡と殷代の鬼方の分布域は一致している。
2. 石?遺跡の個体のyHgはO-M117-ACT7481とC-F1067である。鬼方も同様か。
3. 鬼方の後裔は漢代の先零羌だと言われている。先零羌は青海の焼当羌と漢に挟撃され滅んだ。
4. 青海斉家文化の喇家遺跡のyHgはO-M117-YP4864、金蝉口遺跡のyHgは同じくYP4864、mtHgは私と同じG3a2である。これらは焼当羌の祖か。

以上の点を総合すると、私の父系祖先は先零羌、母系祖先は焼当羌と共通の祖先を共有するのかもしれない。岳父祖先は焼当羌に近い集団か。

鬼方
古代中国(殷代)に存在したとされる国。北方に住み、遊牧や狩猟を行っていた。首領は鬼侯、鬼公などと呼ばれた。

鬼方は、黄帝と通婚した大隗氏に由来。 鬼方は、現在の陝西省の北部、山西省の北西部、内モンゴルの西部に位置。武丁は多数の軍隊を動員し、鬼方への攻撃を命じた。 3年間の戦争の後、鬼方は敗北、鬼方は殷への侵入をやめ、殷王朝は鬼方と友好関係を築いた。

鬼方は殷王朝の北西に住んでいたと一般に信じられており、例えば清の方濬益は「鬼方は西戎」と考えていた。鬼方が征服されたとき、彼らは?州にいた。 荊州は湖北省に位置しているため、鬼方は湖北に位置しているということもあり。

後裔『世本』によると、??は鬼方と通婚し、楚国王室の祖先となった。漢代の先零羌も鬼方の子孫。 『世本』には、黄帝がかつて鬼方と結婚したことも記録。



11992管理人:2022/06/12(日) 00:25:11
mt-DNAと言語の母系継承
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https://ja.wikipedia.org/wiki/月氏






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