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博田喜美子
28
:
編集部
:2020/12/17(木) 11:37:12
人生の一大事
.
???????? 人生の一大事――癌がんガンの記――
人生の一大事は突然やって来る。
令和元年八月十四日、それは突然やって来た。トイレペーパーの上に残されたほんのわ
ずかな血痕、ぽとりと一滴落としたような血痕たったが、はっとするほど鮮やかな紅だっ
た。
これが全ての始まりだった。
十四日といえばお盆休みの真っただ中、かかりつけのクリニックは二十日まで休診。痛
みがあるわけでも出血が統くわけでもないので休診明けに受診すると、東京慈恵医科大学
の同窓の青木産婦人科を紹介された。
私は怖がり、超音波検査というだけで怖がっている。真実現実からも目を背けていたい。
今日は暑い、今日は雨だ、孫の世話を頼まれた、行けない理由はいくつでもある。家庭医
の温厚な三好先生に少し強い口調で「早いに越したことはありませんよ」と言われてしま
ったので、重い腰を上げて十月二十一日に青木産婦人科を受診した。先生にも「それにし
ても時問がかかりましたね」と言われる始末。
一週間後に検査の結果を聞きに行くと、青木先生は病理組織検査報告書を示しながら
「博田さんのは特殊な型で……」と切り出された。子宮体癌の疑いがあるので大きな病院
で診てもらうように、必要なら狛江の慈恵医科大学第三病院の婦人科部長に紹介状を書く
と言われた。
“癌”が私の生活に突然飛び込んできた瞬間だった。こういう瞬問はよく頭が真っ白に
なったと表現されることが多いが、私にはそういう感覚もなかった。八月十四日にほんの
わずかな出血をみた以外、その前も後も何の痛みも何の変調もない。病理検査報告書と紹
介状を握りしめて帰宅した。
帰宅して報告書をあらためてよく見た。外向性発育型だの高度の異型性を有するなどの
説明や肉眼所見に桑の実のような手描きの画があった。何もかもが現実感の乏しい感覚の
中に、その手描きの桑の実状の画は妙に現実感があった。これを描いた病理医ってどんな
人なのだろうとふと思った。
寿命が延び二人に一人が癌にかかるといわれる現代、きわめて高い確率だが、人は自分
の身に降りかかるまでは何事も所詮は他人事。私もあのほんの一滴が癌に結びつくなんて
思いもしなかった。どう思っていたか今になってはわからない。人生の一大事とは思いも
しなかった。ただ怖がって受診をためらっていたとしか言えない。
ここからはあれよあれよの展開。
十一月二十一日東京慈恵医科大学附属第三病院婦人科受診。二十七日MRI検査。十二
月三日CT検査(どちらも造影剤を使っての検査)。十二日診断結果を聞く。長男と長女
も同席。結果は子宮体癌(外向性発育型)腹膜播種、リンパ節転移疑い。画像を見せられ
ながらの説明だったが、現実感がなくほとんど頭に入らなかった。ただリンパ節転移の疑
いがあるということだけが事態の重大さを告げているようで恐ろしかった。
主治医の山田恭輔先生は、まず手術、その後は入院しての抗がん剤治療(三週問置きに
四泊の入院をして点滴による治療、それを六回実施)を提案された。一月十日人院、十四
日手術、二十四日退院の日程が決まった。
思いもかけない事の成り行きに、落ち着かない気持ちのうちに年が明けた。入院生活と
手術の時の簡単な記録があるので書き写しておく。
一月十日(金)
八時半頃、タクシー数社に電話するもすぐに配車できずの返事。江里子が梅ヶ丘経由で
出勤することにしてくれて、自転車で荷物を駅まで運んでくれる。電車で狛江まではスム
ーズにゆくも駅前タクシー二十分近く待つ。十時病院着。部屋は五階5B棟五六五。手術
説明のひと入れ代わり立ち代わり現れる。
手術説明を聞き少々びびり、手術を受ける実感がひしひしと迫ってきた。部屋が暑くて
乾燥しているのでちょっと辛い。ベッドは奇跡的に(看護師さんの弁)窓際が空いていた。
眺望よく新宿、東京タワーの灯りも見える。今日は満付で五時近くまん丸の月が雲もない
東空の中天にぽっかり輝いていた。まあ静か。でも疲れた。二十一時消灯なので寝ること
にする。
一月十一日(土)
出た出た月が丸るい丸井真ん丸い盆のような月は昨日だったが、今日は月例一六・九、
十六夜(いざよい)の月。十八時三十分東天四十五度にぽっかり現れ驚いた。きのうの月
より少し赤っぽい。私と向かい合っているよう、どうもありがとう。とても慰められた。
入院生活にも慣れてきた。シャワーして洗髪もした。さっぱりした。
一月十二日(日)
今日は曇り空で月は出ず。町の灯もかすみがち。低残渣食、無残渣食という名の腸に残
らない食事になった。重湯やリンゴジユース、手作りの濃厚プリンと温かい茶わん蒸しが
おいしかった。裕子さんと吉住さんから電話。佐賀、博多で皆に会いおいしいものを食べ
るのを楽しみにしよう。父や母はどんな気持ちで二年間にわたる入院の日々を送っていた
のだろう。何事もわが身に降りかからないとわからないものだ。
一月十三日(月)
朝焼けに東天が美しい。茜さす……。右手奥東京タワーの方向から左手へ新宿方面まで
朝焼けの空。夕方五時頃、西は濃い橙色の空を背景に大山から丹沢の山波、富士山のシル
エット、多摩の山波がくっきり。一番星もあい色の空に。父は住んでいた百合ヶ丘のマン
ションから夕陽の落ちる場所をずっと記録していた。帰ったらスケッチ帳を開いてみよう。
手術に備えて経口腸管洗浄剤にはまいった。一・五リットルも飲んだ。点滴も始まって
人院患者らしくなった。二十時三十分右上が少し欠けた月が出ていた。
一月十四日(火)
いよいよ手術当日。七時に術着に着がえる。来る予定だった家族は事情あって問に合わ
ず、テレビドラマのシーンのようにベッドに取りすがって「お母さんがんばって」などは
なし。現実はいつも淡々としている。三階の手術エリアヘ三人の看護師に囲まれて移動す
る。手術室へ向かうというより取調室へ行く被疑者のようだと思ったら、少し可笑しくな
った。
名前、生年月日、手術を受ける個所を三度チエックされる。実習生の秋葉陽菜子さんが
控えているのに気が付いてアイ・コンタクトでお互いに笑みを交わした。誰一人知るひと
がいない中でとても心強かった。ちょっとでも見知った顔があるのはこうも力づけてくれ
るのか。手術台に登り(来る途中で階段登れますかと訊かれたのはなんだ、このことだっ
たのか、わずか二段じやないか)硬膜外麻酔をし顔にマスクを当てられたところまで覚え
ていた。
「博田さん終わりましたよ」という声が聞こえた時には全てが終わっていた。べッドで
病室に帰っだのは十二時半ごろ、予定よりずいぶん早かった。浩司と江里子が主治医の経
過説明を聞いてくれた。摘出は順調だったようだ。痛みはあったが、うとうとしているう
ちに一晩過ぎた。
麻酔がかかっていたあの時間はどういう状態だろう。術前に六ページの麻酔説明書を渡
されていた。手術で最も不思議だったのは麻酔だった。知識がないのでわからないのだが、
麻酔がかかった状態は仮死と同じなのだろうか。私には全身麻酔がかかっていた間の記憶
は一切ない。私にとってあの時間は“無”である。死は無なのだろうか。今も考える。
一月十五日(水)
導尿管がはずれたのはよかったが、尿もれ残尿感があってトイレ問題が気がかりで痛み
は忘れそう。腸の動きが弱いので座るか歩くか、とにかく寝た状態は極力減らすように言
われる。ガスが出ないと点滴から食事メニューにならないので、努力して座って初場所を
観たり一階のローソンまで買物に行ったりする。四人退院し、二人入室する。ひとりは若
い、もう一人は私と同年輩。浅草で二十年以上雀荘を経営してきたが独身。付き添ってく
れたのは甥で、ほんとうによくしてくれるなどなど、少し甲高い声で話すので聞いていた。
今日は曇り、一時にわか雨で眺望はきかない。きのう手術したとは思えない。体内事情
がずいぶん変わったみたいだ。
一月十六日(木)〜二十三日(木)
予術後の回復は順調で合併症も出ず、腸も動きを取戻した。身体の精妙さに驚く日々だ
った。実習生の陽菜子さんが歩くリハビリに付き添ってくれ、階段の昇り降りの練習では
五階から七階まで行ってバンザイ、七階から九階まで行ってバンバンザイをした。実習最
終日は二十二日。面談して食事、運動、生活面のアドバイスをしてくれた。いい看護師に
なるだろう。陽菜子という名前がびったりの若者だった。
一月二十四日(金)
今日でこの病室五六五の窓際のベッドともお別れ。
二本のヒマラヤ杉、左手遥かに新宿のビル群、夜になると航空識別灯が赤くきらめく。鉄
塔、霞んでいるスカイツリー、右の方へ東京タワー、大崎品川のビル群、団地マンション。
十四日間見慣れた景色ともお別れ。
病院の朝の物音、話し声とも今日でお別れ。主治医の山田先生、回診の際には「よかっ
た、よかった。だいじょぶ、だいじょうぶ」と声をかけ、時には肩をたたいてくださる。
看護師の面々の個性もわかり興味深かった。病院ではさまざまな職種のひとがそれぞれの
仕事を誠実にこなしている。
予定通り退院の日をむかえ感謝の気持ちいっぱいで二十日ぶりの我が家へ帰った。
令和二年二月十九日、手術で明らかになった病理組織診断報告を聞くために慈恵医大第
三病院婦人科を受診した。直美さんと江里子さんが同席した。
報告書は詳しいもので、主治医の山田先生の画面も示しながらの説明も、頭がぼうっと
して実際のところどういう状態なのかにわかには理解できなかった。癌をとりまく状況は、
この三十年の間に大きく変わった。当時の癌は死に至る病で本人に告知することは稀なケ
ースだった。胃癌で夫を亡くした友人は事実を言えないのが一番辛かった。夫も告げられ
た病名に納得していたのだろうかと今でも語る。私は自分が癌になり、この葛藤がよくわ
かる。私はどんなことだろうと、自分が直面している状況をはっきり知りたい。怖がりだ
けど知って怖がりたい。
病理組織診断書によれば。私の病理診断は「子宮高異型度漿液性癌」、肉眼所見、組織
所見が子宮体癌取扱い規約(第四版)に沿って記載されていた(説明されても何も実感が
わかない。ただ、「えっえー」という感じ)。ステージは?、子供達には4bと言われた。
余命宣告はと尋ねると、抗がん剤治療があるから余命宣告はしませんと言われた。
抗がん剤治療は三週間おきに五日間入院して点滴で実施、これを六回やる。一回目は三
月三日を予約した。
私の抗がん剤治療はパクリタキセル十カルボプラチン療法で、それぞれ三時間と二時間
かけて点滴する。その他に過敏症を抑える薬、吐き気止め、水分の補給と標準で十時間か
ら十二時間の点滴をする。私はお産以外に入院した経験がないので、この長時間の点滴に
は参った。点滴液が漏れ出してあっという間に腕が腫れあがったり点滴針の差し替えで血
があふれ出たり腕の位置角度で点滴の落ちる速度が遅くなったりと苦労した。でも人間、
何にでも慣れ、それなりに観察して工夫するものだ。私も五回経験し点滴の落ちやすい姿
勢角度がわかった。六月二十三日の六回目(最終回!)で試してみよう。
しかしこの最終回が最難関だった。五日の入院予定が十八日に延び、本当に大変だった。
恐怖心を抱いている点滴だが、ある夜十一時近くになっても終らない。一滴一滴落ちる液
を見ていると、これは命をつなぐ重い滴(しずく)だと思った。電燈の光りを反射してキ
ラキラ輝いて落ちてゆく。一滴一滴が私を助けてくれている。急に亡くなってしまった夫
や娘、両親、兄、友達が思い出されて涙があふれ出てきた。泣けて泣けて仕方なかった。
病室で泣いたのはこの夜だけだった。
慈恵医大第三病院は東京の西郊、小川急線の狛江にあり、晴れた日の夕刻には丹沢山塊
の向こうに富士山が浮かび、多摩や秩父の山波へと連なっている。ちょうど日の入りだっ
た。真赤な陽が山の端に沈もうとしていた。点滴の滴のたまるポケットが真紅に輝いた。
真紅の滴が落ちてゆく。忘れられない一瞬だった。
抗がん剤治療には副作用が必ずある。消化管、毛根、骨髄に影響を与え、叶き気や脱毛、
骨髄抑制などの副作用をもたらす。治療を初めて一ヶ月たった頃から毛が抜けだした。髪
がショートだったのでごっそり抜けることはなかったが、脱毛はショックだった。ニット
帽をかぶると一挙にがん患者らしくなった。ニット帽に点滴棒、このコンビは一目でがん
患者だとわかる。山田先生は、年内には生えてくるから大丈夫と慰めてくださる。どんな
髪になるのだろう。楽しみのような怖いような……。
吐き気や食欲不振の副作用が出ないのは幸いだ。滋養のあるものを吟味して自分で料理
している。
血液検査はたえずあるが、白血球、赤血球、血小板の数値は軒並み下がっている。体が
だるい。ああ疲れたとつい口にする。介護サービスを申請して要支援2の認定を受けた。
週一回一時間の生活支援(主に掃除)と週一回四十分の訪問リハビリを五月から受けられ
るようになり、ほんとうに助かっている。
去年十一月に「がん」とわかり、一月に手術、半月の人院。三月から六月まで抗がん
剤治療で月二回十日間の入院。抗がん剤に明け暮れた半年だった。まったく人生の一大事、
いや、人生の十(重)大事だ。
ずいぶん前のことになるが、博多での佐高同窓会の後、江口夫妻の家で何人かでおしゃ
べりをしたことがあった。その時、浩三郎氏に(私は)「三無い主義(欲がない、野心が
ない、努力しない)だ」と言われた。さすが人を見る目のある浩三郎氏の言、言い得て妙
だと感心した。主義にしているわけではないが、私という人間はそうなのだ。だが、この
半年間の体験で、努力しないというわけでもないと思った。人生の晩年で努力したという
のは素晴らしいことでばないか。
三人の妹達からの言葉。
「喜美ちゃん精神力があるね」
「喜美ちゃんって強いね」
今まで言われたこともなかった。
「がん」になったことが何かをもたらしているのだろうか。
朝日新聞の土曜朝刊に癌研有明病院腫瘍精神科部長・清水研氏が「がん患者のこころ」
という題で全八回の連載をしている(六月十三日で六回)。私にとってはグッドタイミン
グの連載で、特に三回目の「心的外傷後成長」という心の動きの変容は今の私の思いとぴ
たりと重なり度々読み返している。
心理学で「心的外傷後成長」と呼ばれるのは?人生への感謝 ?新たな視点(可能性)
?他者との関係の変化 ?人間とての強さ ?精神性的変容、の五つの変化が生じるとい
う。
「がん」になってよかったとまでは思わない。私の「がん」は外向性発育型と診断され
ているから、元気よく全身に飛び散っているらしい。抗がん剤治療をしても完全に消えて
しまうことはないだろう。どこかに居ついたり悪さをしないような生き方をして、共存し
ていくしかないだろう。これって善く生きる、日々を大切にして一日一日を生きるという
ことではないだろうか。
私が「がん」にかかわっている間に、世の中は新型コロナウイルスの感染拡大で一変し
てしまった。何もかもがあっという間に根底から変わってしまい、これからも変わってゆ
く。
二○二〇年はコロナの年、がんの年。
コロナとがんと共存しながら生きてゆく。
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