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alpha-archive-07 - 小柳理正
19
:
編集部
:2014/05/23(金) 09:20:37
同人α編集後記集
.
??????????????????????同人α編集後記集
????????????????????????2010年5月(23号)〜2013(38号)
23号『蝶の夢』 2010/5
今回は、創刊号と同じ縦書きと成り、色々と新しいことを学びました。
原稿の集まりが心配だったけど、従来の平均以上の百頁超が得られてほっとしています。
今回は、飛び入りの原稿が一つありますが、その作者の正体は秘密です。
次回からは、また新同人が増えることを期待して、みんなで頑張りましょう。
24号 『夢碍无(むげん)』 2010/8
今回は、前号のオール・ド・エレガンスさんの「三つの願い」を承けて、新シリーズが始
まりました。その気宇のなんとまあ壮大なこと。一体誰が、こんなことを考えるんだろう。
この二作目を書き継ぐ人は誰なんだろう。何でも書けて面白い反面、辻褄合わせに相当苦
労しそうだなあ。
25号 『颯』 2010/11
PCの不調をなだめつつ、やっと自分の原稿を書き上げました。
当初は、バラバラの項目をどう一つに纏めようかと呻吟していましたが
締切り間際に、今回のお題[風]にハッと気がついて、一気に纏め上げました。
お題提供の赤松さんに、感謝、感謝。
さて、新人の加入です。新人と言っても私より2期上で、文章についても余程長けた方
ですが。
十月の二十三日、これまでは、四人で頑張りながら守って来たα同人に十一期の田辺悟朗
さんが、赤松さんのご縁で加入されました。
なにせ、大学在学中には「傾斜」、十五年前には「斜光」という同人誌を創始されたとい
う経験を お持ちの方だとか。今後のご活躍を期待いたします。
我々も、これでホッと一息つけそうです。
引き続いて十一月四日に十一期の竹内一郎さんが、これまた赤松さんのご縁で加入され
ました。[風]という今号の題名と同じハンドルネームをお持ちです。
これからが、ますます楽しみになってきました。
26号 『仮面』 2011/2
今回の原稿は、早めに準備したつもりだったのに、思わぬ仕事が舞い込んで時を奪われ
ました。矢っ張り、私がアンカーか。いや、そいつは違うって。ドンジリと言わなくっち
ゃ。赤松さんによると、どうやら26号のページ数は、過去最高に成るそうな。
そろそろ電子ホッチキスが欲しいなあ。製本時に提案してみよう。何はともあれ、先ほ
ど二作目の原稿を仕上げて、ほっと一息。ゲラ刷りが来るまで、いや来た後も、思う存分
休めるぞ。
27号 『こんとん』 2011/5
今回は、大震災の影響で身の回りの整理に時間を取られ、大いに苦労しました。
おまけに、原稿最後の追い込み段階で、PCがツムジを曲げ、後半の数頁が宇宙の彼方に
飛んでいく災難まで有りました。やっぱり、この辺でPCの新調が必要なようです。
28号 『震災列島』 2011/8
今回のテーマ「震災列島」は、私の文章中ではなく、図らずも期間中の実生活を支配す
ることになった。
というのも、カミサンが仕事で使っていた建物の躯体が震災の影響でひどく弱り、作業中
の安全のために旧宅を改修して新しい仕事場に変えるという作業に私も巻き込まれたため
作品にかける時間と精力とがえらく制限される結果になったからである。当然、原稿締切
り間際の人様の評や掲示板への書き込みが、おろそかになった。挙句、心配した友人から
は、病気見舞い?のメールを戴くという羽目になった。
掲示板の管理人さん、評をお届けできなかった著者さん、御免なさい。
これから、ちゃんと埋め合わせをします。
29号 『兆』 2011/11
櫛田宮に思う
肥前風土記によると、昔、基肆(きい)郡と神崎郡に荒ぶる神があり、往来の人が多数殺
害されたという。これは、徐福船団がもたらしたタタラ炉の暴発記事だろうというのが、
私の従来の推定だったが、今回縁あって、以前に触れた神崎の櫛田宮のことを[肥と筑]
に詳しく書くことに成った。
この櫛田宮の大蛇祭り尾崎大神楽は、この肥前風土記の記事や周辺に残された様々な状
況証拠から見て尾崎地区に置かれたタタラ炉が暴発し流れ出た溶鉄を大蛇と見立てた安全
祈願祭であろうこと、モンゴル・宋・朝鮮の軍が来寇した元寇の際、櫛田宮から末社の博
多櫛田神社に神剣を移して異賊退散を祈り、霊験あらたかなものがあったこと、二度目の
来寇の弘安の役において、河野水軍の将、河野通有が博多沿岸で立てた武勲の恩賞として
与えられたのが、神崎荘の小崎(恐らくは尾崎の別表記)郷であったこと、時代は下った
幕末、再度来航予定のペリーの侵略を恐れた徳川幕府が、お台場に大砲百門を据え付けて
欲しいと佐賀藩に要請して来た時に、佐賀藩がそれに答え、一年間で五十門作って幕府に
提供できたのは佐賀の多布施に据えた反射炉で製鉄したからであること、などなど。
基肆(きい)郡・神埼郡・佐賀郡と郡名こそ異なれ、有明海を通って来た徐福船団タタラ
技術者の影を見るようで佐賀という土地にまつわる縁(えにし)が、今もなお生きていると
いう思いを禁じ得ない。
ちなみに、私の本籍は櫛田宮と同じ神埼郡の吉野ヶ里町、櫛田宮の東北4km程の所にあ
る。
30号 『沈黙』 2012/1
今回も、肥と筑は神埼の櫛田宮が中心となった。佐高十一期の牟田元明さんから赤松さん
宛の書信に触発されたからである。この方の牟田家は、景行天皇を先祖に戴き、曾祖父ま
での先祖代々、櫛田宮宮司を勤められた由緒ある家柄なのだ。十一期の卒業三十周年記念
誌[青春のあの日]で、その会員名簿を見て更に驚いた。牟田さんの勤務先は昔で言えば
タタラ関係者の川崎製鉄、社員寮は福原京の故地神戸市、本籍は神埼の櫛田宮地内と、共
に平清盛の対宋貿易港の直ぐそばにある。更にその社員寮が、海人族の住吉神社の総本宮、
元住吉神社とは数百メートルの至近距離にある。牟田さんが持つ製鉄と貿易港への縁(え
にし)は単なる偶然ではなく、タタラ製鉄に巧みな海人族としての血の縁(えにし)と見て
良いのではないだろうか。
31号 『遊び』 2012/5
[遊び]を自分なり定義し、人に読んで貰えるように書くのは、易しいようで難しい。
さてどうしよう。そうだ。今回αの号数は素数の三十一、これを利用しない手は無い。
と言うわけで、[肥と筑]前半は短歌中心に書き始めたけれど、難しそうな話になってし
まいました。
後半は、源平の戦いの清和源氏を論じるつもりが、嵯峨天皇から出た嵯峨源氏が中心に
成りました。
嵯峨源氏からは、大江山の鬼退治で有名な渡辺の綱の子孫の摂津の水軍渡辺党、分家の
肥前の水軍松浦党さらにその松浦党一族に支えられて神埼で武士と成った神埼御荘の荘官
源満末(みつすえ)という、佐賀・神埼に係わる武人が輩出しています。
その一方、貴族身分の嵯峨源氏には、光源氏のモデルに成った源融(とおる)や、和歌の名
手で且つ和名類聚抄まで著わした源順(したごう)と非常な文化人もいて、興味をそそられ
ます。
さらに、サカ・サガをキーワードにした探求の間に徐福船団・秦氏との関係が再浮上して
きました。
矢っ張り佐賀と京都の嵯峨の関係は見逃せない。ということで、今後の検討課題も増え
てきそうです。
それはそうと、今回の万理さんの表紙絵は[遊び]のテーマに沿ったイメージがよく表
現できてますね。
32号 『造次顚沛』 2012/8
今回の原稿締切りは、何時になくきつかった。
何せ、我家では久しぶりの祝い事に加え、猛暑中での時差の大きいロンドンオリンピック
観戦があった。 当然、結果は慢性の寝不足になった。といっても、日中の大半は眠って
いたが。
いやー、なでしこJAPANと侍ニッポンのサッカーは、良く頑張りましたねえ。
連続する戦いの中で、この両チームが見る見る成長して行く過程が見られて、実に楽しか
ったしこれぞ、ヒトのみが味わえる人生中の成長の典型的見本だと思った。
異なる同人によるシリーズ作品については、従来の作品との整合性を重視してようやく
書き上げた。今まで書き継いでくれた人たち、アイデアと苦労の種をたっぷりと供給して
戴き、ありがとう。シリーズ中の作品は当然として、個人の作品中のアイディアをちゃっ
かり、利用させて貰いましたよ。
33号 『無常』 2012/11
今年は、十月二十七日に佐賀で佐高十三回生の五十周年記念同窓会が開かれ、翌二十八
日には附中同期生の同窓会、またその後には仲間との五島列島への小旅行も開かれ、全て
参加してきました。
これらに先立つ二十六日には、六月に結婚した長男夫婦が吉野ヶ里町にある先祖代々の墓
のお参りに同行してくれました。
と行事としては実り多き時期でしたが、その分原稿を書く身としては、なかなかにきつ
い時期でした。
ところで、附中同窓生の資料を整理中に気がついたこと。
それは、我々が中学校では十一回生に当たるという事実でした。
どうやら、これからも素数との縁が猶も深まって行きそうです。
34号 『息吹』 2013/2
今号のαは、私の担当として第何回目になるのか、と数えてみたら何と第四回目に当た
っていました。う―ん。これは多すぎる、なんとかしなければ。などと考えながら遅筆の
我が身にむち打って、なんとか一作品を書き上げました。
対照的に早々と二作品を書き上げた万理さんは、今号のテ―マ[息吹]の表紙絵用に[息
吹]を形として表わした風に因む二枚の挿絵を描いてくれました。その出来が素晴らしか
ったので、一枚目鳳凰の画像を表紙絵に、二枚目風の精シルフの画像を作品中の挿絵に使
わせて貰いました。万理さん、どうも有り難う。
35号 『ラビリンス(迷宮)』 2013/5
肥と筑と解深密経(げじんみつきょう)
今回の肥と筑では、肥前鹿島の出身で真言宗中興の祖となった興教大師覚鑁(かくばん)
を取り上げた。
覚鑁は京都の御室仁和寺で修学、その後高野山に入山したあと修行を重ね三八歳の時に
高野山内に住房としての密厳院を開いた。私事にわたるが、四〇年ほど前に仕事のついで
に高野山にお参りしたとき偶然泊まった宿坊が密厳院であった。このとき覚鑁に対する私
の眼に見えない縁(えにし)が顕在化し始めたのだろうか。
覚鑁はこの後、金剛峯寺に大伝法院を建立し、その座主に就任した。さらに金剛峯寺座
主に就任のあと山内の僧侶に佛教学の基礎たる唯識を学ぶことを課した。唯識の依経は、
解深密経(げじんみつきょう)である。今回この経については、昭和五十年十月に永田文昌
堂発行で手持ちの解深密経(げじんみつきょう)講讃を参考としたが、その序文を読むと著
者の修山脩一(ながやましゅういち)師は佐賀出身で、龍谷大学の教職を辞して帰郷後、佐
賀龍谷短期大学で教鞭を執られたという。この佐賀龍谷短期大学は、今は鳥栖市に移転し
九州龍谷短期大学と改称しているが、当時は佐賀市水ヶ江にあった。それならば、私の通
った小学校の隣だったのだ。
興味深いことに[龍谷]という名称を用いたのは、龍谷大学を頂点とする西本願寺の教
育組織の中で、佐賀龍谷短期大学の前身第五仏教中学が明治41年4月に私立龍谷中学と
改称したのが最初であり、龍谷大学は二二年あとの大正一一年に、佛教大学から改称した
ものだという。
何とも不思議な縁が重なったものである。
36号 『言葉』 2013/8
この夏は、とにかく暑い。暑いから日中は昼寝する。昼寝すれば筆は進まない。
日暮れていくぶん涼しくなっても、音楽を聴きたくなったり、読み残しの本を読みたくな
ったりと、書く材料は数多く有っても、それらを作中でテーマに繋いで行く脈絡を付ける
のに苦労しました。
しかし、佐賀の県木の樟が、越人・海人族・古代の大型船・伊予水軍の河野氏を結びつ
けてくれました。どこかで誰かさんが、これを読んで「クスッ」と笑うだろうなあ。
37号 『古典』 2013/11
連続した暑い日々が急に冬の日に取って代わられたこの頃で、一時期体調を崩していま
したが、原稿に一区切りを付けた段階となって漸く元気が出て来た感じです。
今度の製本日は、またみんなで集まって楽しくやりましょう。製本用の新兵器も用意し
ましたよ。
38号 『心情風景』 2013/11
現住地石岡市で、昨年度後期の市民講座「万葉恋歌講座」を受講した。
講師は、吉澤中正先生。足尾山頂の足尾神社の宮司を兼ねながら、石岡一高・土浦一高で
永年教えられた国語学者である。私とは同じ団地にお住まいの縁で、日頃色々とご教示を
戴いている。
この講座で先生から万葉集について教わったことは正に目から鱗であり、今回のテーマ
[心情風景]のもとに「肥と筑]を書き上げる大きな力を戴いた。
今更ながらであるが、日本古典の世界は広くまた高い。われわれは、この優れた遺産を
欠かすことなく子孫に伝えて行きたいものである。。。
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