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20α編集部:2014/12/31(水) 19:12:41
山荘便り 小倉 厚子さんのこと 他
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       山荘便り 小倉 厚子さんのこと 他



◆小倉 厚子さんのこと
 茶道を教えて親子三代、祖母さんとお母さんと彼女の三人家族で、男っ気はなかった。
一方私の周りはと言えば兄そして従兄弟も男ばかりで女っ気はなかった。だから私は姉
か妹がいればもう少し人間関係にゆとりのある付き合いを会得できたかも知れないと今
では思っている。
 幼なじみといえる一人っ子の彼女は男兄弟を、私は女姉妹を望んでいたかも知れない
と推測するのは無理だろうか。いやそんなところにお互いの気持ちの共通点があったか
も知れないと思うのはあながち嘘と思えない。昨年銀座で数人で会食したときも、古希
を過ぎた私を捕まえて「かずひこくん」と「君付け」で呼んでいた。さては私が姉か妹
を望んでいたことからすると、彼女の意識は私の姉さんだった訳である。
 私達「梁(りよう)山(ざん)泊(ぱく)」と称したグループは山登りやハイキングに連れ
だってよく出かけた。そんな仲間であったので時々休みの日はK君と彼女の家に遊びに
行っていた。私の家から歩いて十分も掛からない距離で、大通りから左に曲がって矢竹
(やだけ)の生け垣沿いに五十メートルほど行くと、清みきった速い流れの小川があった。
石橋を渡ると川に沿った小径があり、彼女の家は石橋の斜向(はすむ)かいにあった。
渋い色に変化した羽目板張りの小体(こてい)な木造二階建てで、京都の町屋風の、まさ
に「お茶のお師匠さん」の住む家に相応(ふさわ)しいものに見えた。格子戸を開けると
三和土(たたき)が真っ直ぐ裏まで伸びていた。「お茶を点(た)ててあげましょう」とお
母さんは言って、茶室に私達を誘(いざな)った。私は靴下に穴があいていないか、学生
服が汚れていないか気にしながら観念して正座した。私はお祖母さんもお母さんも、全
く作法も知らない男の子を捕まえて、戸惑う姿を密かに観察して、からかっているので
はないかとも考えないでもなかった。しかし家での会話の乏しい男同士の時間とは違い、
この何とも柔らかい雰囲気は私にとって実に心地よかった。彼女も時々退屈すると私の
家に来て時間を過ごすことあったから、姉弟のない寂しさを感じていたに違いない。
 しかし高校を卒業すると私達はそれぞれの違う道を歩みだした。彼女は茶道という四
百年もの歴史がある日本の伝統の形式美・様式美の世界で生き、一方私はそれらの芸道
が素晴らしいことを理解しながらも約束事の中での息苦しさに耐えられない性癖ゆえ、
西洋の理屈の世界に憧れ進んで行った。その間の私達の交流は途絶えた。そして彼女は
故郷で伝統を守り続けてそれを完成させた。一方私は一所に根を下ろすことなくいまだ
に放浪に明け暮れている。
 願わくば早春の沈丁花の微かな匂いが漂う松琴亭あたりで、木村多江のような切れ長
の目をした和服の似合う彼女のお点前を戴きたいと思ったのは私だけではなく、梁山泊
の連中も同じであったろう。

??????????????????小倉氏主催茶会
         



◆小宮 弘敬(ひろゆき)君のこと
 コンちゃんとは高校のクラスで一緒になったことがあったのか、それともなかったの
かはっきりと覚えてはいない。彼とは中学も違ったから高校になってから知った訳だが
その後短期間のうちにかなり親密に付き合いだしたのは確かである。それは高校卒業三
十周年記念のとき発行された記念誌「青春のあの日」に投稿した私の文章に書いてある
から間違いない。

   梁山泊考     ???   ??????? 20組 古賀 和彦
 当時私の部屋は空間・時間を問わず出入りが自由で、水滸伝の面々ほど野心家や豪傑
ではなりけれど、将来の可能性を信じ、かと言って大した努力もしない連中が常に数人
屯(たむろ)していて、あたかも梁山泊の如きであった。そこで彼らのその後を、独断と
偏見をものともせず記念誌に残そうと思う。
○小宮弘敬〈通称 コンちゃん)
 写真の勉強をしていたので、てっきりカメラマンになるかと思っていたら薬九増倍の
魅力に勝てなかったか? ともあれ兼好法師も言っている様に、物くるる友、薬師(くす
し)云々、これからはお世話になります。

 コンちゃんの家は佐賀駅から数分の、表通りから一本入った道に百草園(ひやくそうえん)
という漢方薬の店であった。時々店の奥の小川に面した彼の部屋に泊まりにいったもの
であるが、店に飾ってあるイモリの黒焼きをみて驚いたり、その他ゴウカイ、ウマビル、
アブ、サツマゴキブリ、キョクトウサソリ、マンモスの化石、タツノオトシゴなど、普
段では考えられな漢方薬の世界を覗かせてくれた。
 彼は長男だったからてっきり百草園を継ぐのかと思っていたら、大学の芸術学部の写
真科へ進学した。そのころ私は学生浪人で恵比寿の三帖一間の下宿に住んでいた。たま
たまコンちゃんは、軒を接してひしめく街・私の下宿から望む高台にある高級住宅街の
親戚の家に身を寄せていた。「小宮家は男爵から乞食までいる」などと言ってハハハと
笑っていた。
 それからまたお互いに離ればなれになって暮らしたのだが、帰省の度に百草園の店に
座っているコンちゃんを訪ねた。しかしここ数十年その機会が作れなかったのが今にな
ったらくやまれる。どこか異国のDNAを引き継いだような彫りの深い顔立ち、温和し
くてあまり自己主張しない性格は皆から好かれる一方で、損な役割を背負わされること
もあったであろう。
 私の命を託そうと期待していた薬師が先に逝ってしまったのが残念である。捻者、悪
者、嫌われ者は長生きするという諺は本当だろうか。

???????????????? 梁山泊の仲間達
        





◆熊井 浩二君のこと
 私が熊井君を初めて知ったのは、同じクラスになった高校一年生のときであった。
これでも同級生かと思ったほど私と正反対の、背が高くがっちりした骨太のいい体をし
ていた。そして寡黙で感情を現すことなく無愛想に見えるほど、真っ正面から物事を見
つめている様子は、鶴田浩二や高倉健の演ずる主人公のように、世間の不条理や人情の
板挟みにじっと黙して耐え忍んでいる「古武士」のように私には見えた。
 その当時、私達はめったに会話は交すことはあまりなかったが、人を騙したり蔑(さげ
す)んだり妬(ねた)んだりしない、素直で誠実な人柄だと私にもやがて判った。その後学
生時代はあまり深い付き合いはなかったが、彼が勤め先であるナブコという会社の山形
工場から横須賀に戻ってきてからは、小さなグループの飲み会や、蔵王や八甲田や熊野
古道旅行などを一緒に楽しんだものだ。
 一見、堅物で正義感や侠気だけの唐変木で、文学などと言った軟弱なものに興味を示
さないように見えるのだが、どうしてどうして彼の「斜光」への作品を読めば、なんと
周りの人に優しく思いやりに満ちた、しかもユーモアやペーソスの情感溢れる作品ばか
りである。また「斜光」仲間の語らいの場として出発した掲示板「落書き帳」にも、開
設して間もなく機智に富んだシリーズもの「小話の箱」を三年に渡って楽しませてもく
れた。
 その外見と内面における印象の柔と剛のギャップは人を驚かすとともに、彼の人間と
しての高潔さや幅の広い見識をもつ人格をあらためて認めさせるにじゅうぶんである。
 また現代の打算と羊頭狗肉と朝三暮四に満ちた世の中で、もう古いと言われそうな鶴
田浩二や高倉健のように筋の通った見識、侠気(男気)は、私が「斜光」の編集委員を
辞する時、中に立って取り成そうと試みてくれたただ一人の友情に厚い人で、私にとっ
て恩人なのだ。それにしても誠実で公正な考えを具えた人物が一人いなくなったのはま
ことに哀しいことである。

       大川組小旅行
      

                  (終)
斜光19号 2014




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