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Japanese Medieval History and Literature

1釈由美子が好き:2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

6890鈴木小太郎:2021/04/27(火) 20:08:57
山家著(その6)「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」
うーむ。
山家浩樹氏の議論、どうにも奇妙な感じがするのは、やはり戦争に対するリアリズムの欠如ですかね。
私は以前、ほんの少しだけ山家氏とお話したことがあるのですが、山家氏は温厚な人格者であって、元東大史料編纂所長として日本の実証史学の頂点に位置する研究者の一人でもあります。
しかし、そうした実証主義の権化のような研究者であってもリアルな戦争の分析ができないのは何故なのか。
その点、最近のツイッターでの騒動で世間をお騒がせした呉座勇一氏など、狷介な性格には多少の問題があるのかもしれませんが、だからこそ中世の戦争の分析は本当に鋭く、私も『戦争の日本中世史』その他の呉座氏の著書にはずいぶん教えられました。

呉座勇一氏『戦争の日本中世史』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7187
呉座勇一氏『陰謀の日本中世史』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9389

ただ、呉座氏が「階級闘争史観」がどーたらこーたらと言われるのが私は以前から気になっていて、正直、それはあまり関係ないんじゃないかなと思います。
山家氏など「階級闘争史観」にはおよそ無縁な方ですが、リアリズムの欠如という点では呉座氏が攻撃する「階級闘争史観」の人たちと同じですね。
というか、松本新八郎あたりの、それこそ暴力革命を肯定していた本当に古い世代の「階級闘争史観」の人たちは、けっこうリアルに中世の戦争を見ていた面もあるように感じます。
「戦後歴史学」の歴史を振り返れば、昭和初期に「階級闘争史観」による歴史学研究が始まり、治安維持法下の弾圧で沈黙を余儀なくされた後、敗戦後に「階級闘争史観」の爆発的なブームが到来し、例えば東大文学部では「国史学科の四九年入学組十六人のうち実に九人までが共産党に入党する」ような状況になります。

「運動も結構だが勉強もして下さい」(by 坂本太郎)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4951

その影響もあって、今でも職業的な歴史研究者には共産党系の「民科」の生き残りである歴史科学協議会に属している人が多く、これが他の学問世界とは異なる歴史学界の特殊な性格を形づくっていますが、しかし歴史科学協議会の会員であっても、自分は「階級闘争史観」のような古臭い歴史観とは無縁だ、と思っている人はけっこう多いように思われます。
だいたい日本共産党自体が1955年の六全協以降、変遷に変遷を重ね、「民主集中制」の下、中国派など党内のあらゆる少数派を切り捨てて六十有余年を経た訳ですから、共産党は既に「階級闘争」や「マルクス主義」の政党ではなくなってしまっており、ソ連崩壊以降はそれこそ党の存続自体が自己目的になっているような感じです。
最近では築地市場移転反対闘争やトリチウム問題など、全く非科学的であっても当面の党勢維持・拡大に有利であればやたらめったら暴れまくっているようで、共産党は今や金看板の「科学」ですら投げ捨ててしまっていますから、党名も「ルイセンコ主義者党」とでも改めた方がよさそうですね。

トロフィム・ルイセンコ(1898-1976)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3

ま、そんな嫌味はともかく、共産党自体が大幅に変質した現在、歴史科学協議会でも「階級闘争史観」みたいな古い話を真面目に信じている人がどれだけいるのか。
さすがに就職に有利だから歴史科学協議会に入るような、表面は赤くとも一皮剥けば真っ白な「リンゴ会員」は除くとして、それでも「階級闘争史観」なんか古臭いと思っている人が実際には多数派じゃないですかね。
ということで、個人的には呉座勇一氏の苛立ちに共感する部分はけっこう多いのですが、それでも「階級闘争史観」云々はやっぱり問題の核心を捉えておらず、どちらかといえば「平和ボケ」が適切なように感じます。
ついでに言うと、去年、呉座氏の「鎌倉幕府滅亡の原因は何か」という「難問に対する日本中世史学界の最新の回答」を眺めていて、呉座説も「皮肉なことに」、「結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論」なのではないか、「マルクス主義歴史学の残滓」なのではないか、などと感じました。

「そう、これらの学説は「階級闘争史観」のバリエーションでしかない」(by 呉座勇一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10383
呉座説も「結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10386

6891鈴木小太郎:2021/04/27(火) 21:22:10
山家著(その7)「尊氏の捧げた願文」
ちょっと横道にそれてしまいましたが、山家著に戻って若干の補足をしておきます。
山家氏は尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとされますが、私は元弘三年(1333)の時点では尊氏は征夷大将軍を望んでおらず、従って「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」もあり得なかったと考えます。
本当に尊氏がそのような「演出」を狙っていたのであれば、篠村八幡宮に捧げた願文に頼朝への言及ないし示唆が多少なりともありそうですが、そんな気配は全く感じられません。
念のため篠村八幡宮に残された尊氏の願文を確認してみると、

-------
敬って白〔もう〕す
  立願〔りゅうがん〕の事。
右、八幡大菩薩は王城の鎮護にして我が家の廟神なり。而して高氏は神の苗裔と為〔し〕て、氏の家督と為て、弓馬の道に於いて、誰人か優異せざらんや。これに依りて代々朝敵を滅ぼし、世々凶徒を誅せり。時に元弘の明君、神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為、綸旨を成さるるの間、勅命に随い義兵を挙ぐる所なり。然るの間、丹州の篠村宿を占め、白旗を楊木の本に立つ。爰〔ここ〕に彼の木の本に於いて、一の社〔やしろ〕有り。これを村の民に尋ぬるに、所謂、大菩薩の社壇なり、と。義兵成就の先兆、武将頓速の霊瑞なり。感涙暗〔ほのか〕に催し、仰信憑〔たの〕み有り。此の願い、忽ちに成り、我が家再栄す。者〔てえれば〕、社壇を荘厳せしめ、田地を寄進すべきなり。仍ち立願、件の如し。
 元弘三年四月廿九日 前治部大輔源朝臣高氏<敬白>(裏花押)
-------

ということで(小松茂美『足利尊氏文書の研究 解説篇』、旺文社、1997、p40)、「元弘の明君」後醍醐帝が「神を崇めんが為、法を興さんが為、民を利せんが為、世を救わんが為」に綸旨を下されたから、自分は「勅命に随い義兵を挙」げるのだ、と言っているだけで、頼朝を連想させるような要素は全くありません。
この点、『太平記』の願文も確認してみると、まず次のような状況設定があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p56以下)

-------
 さる程に、明くれば五月七日、寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立ち給ふ。夜未だ深かりければ、閑かに馬打つて東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当たつて、陰森たる古柳疎槐の下に社壇ありと覚えて、焼〔た〕きすさめたる庭火の影ほのかなるに、禰宜が袖振る鈴の音、幽〔かす〕かに聞こえて神さびたり。いかなる社〔やしろ〕とは知らねども、戦場に趣く門出なれば、馬より下り、甲〔かぶと〕を脱ぎ、叢祠の前に跪いて、「今日の合戦、事故〔ことゆえ〕なく朝敵を退治する擁護〔おうご〕の手を加へ給へ」と、祈誓を凝らしてぞおはしける。返り申ししける巫〔かんなぎ〕に、「この社はいかなる神を崇め奉りたるぞ」と問はれければ、「これは八幡を遷しまゐらせて候ふ間、篠村の新八幡宮と申し候ふなり」とぞ答へける。「さては、当家尊崇の霊神なり。機感相応せり。一紙の願書を奉らばや」と宣ひければ、疋檀妙玄、冑〔よろい〕の引き合はせより矢立を取り出だして、筆をひかへてこれを書く。その詞に云はく、
-------

疋檀妙玄は尊氏の右筆です。
そして願文は次の通りです。(p57以下)

-------
 敬白〔けいびゃく〕す 祈願の事
夫〔そ〕れ八幡大菩薩は、聖代前烈の宗廟、源家〔げんけ〕中興の霊神なり。本地内証の月高く、十万億土の天に懸かり、垂迹外用〔げゆう〕の光明らかに、七千余座の上に冠〔かぶ〕らしむ。縁に触れ化〔か〕を分かつと雖も、尽〔ことごと〕く未だ非礼の奠〔てん〕を享〔う〕けず。慈みを垂れ生を利すると雖も、偏へに正直の頭〔こうべ〕に宿らんと期す。偉〔おおい〕なるかな、その徳たること。世を挙〔こぞ〕つて誠を尽くす所以なり。
爰〔ここ〕に承久より以来〔このかた〕、当棘〔とうきょく〕累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣〔ほしいまま〕に四海の権柄を犯し、横〔よこしま〕に九代の猛威を振るふ。剰〔あまつさ〕へ今聖主を西海の浪に遷し、貫頂を南山の雲に困〔くる〕しむ。悪逆の甚しきこと、前代にも未だその類を聞かず。且〔かつう〕はこれ朝敵の最たり。臣の道と為〔し〕て、命を致さざらんや。また神敵の先たり。天の理と為て、誅を下さざらんや。
高氏苟〔いやしく〕も彼の積悪を見て、未だ匪躬〔ひきゅう〕を顧みるに遑〔いとま〕あらず。将に魚肉の菲〔うす〕きを以て、刀俎〔とうそ〕の利〔と〕きに当たる。義卒〔ぎそつ〕力を勠〔あわ〕せ、旅〔たむろ〕を西南に張る日、上将は鳩嶺に軍〔いくさだち〕し、下臣は篠村に陣す。共に瑞籬〔みずがき〕の影に在り、同じく擁護の懐を出づ。函蓋〔かんがい〕相応せり。誅戮〔ちゅうりく〕何ぞ疑はん。
仰ぐ所は百王守護の神約なり。勇みを石馬〔せきば〕の汗に懸く。憑〔たの〕む所は累代帰依の家運なり。奇〔く〕しきを金鼠の咀〔か〕むに寄す。神将〔まさ〕に義戦に与〔くみ〕し、霊威を耀かし、徳風〔とくふう〕草に加へて敵を千里の外に靡かし、神光〔しんこう〕剣に代はりて勝〔かつ〕を一戦の中に得せしめたまへ。丹精誠あり。玄鑑誤ること莫かれ。敬つて白す。
   元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬白す。
-------

こちらでは「源家中興の霊神なり」や「承久より以来、当棘累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣に四海の権柄を犯し、横に九代の猛威を振るふ」あたりから、源氏三代への回帰の思いを読み取ることが不可能ではないでしょうが、そもそもこの願文自体、文飾の度合いが高すぎて、どうにも信頼できかねるものですね。
二つの「二者択一エピソード」から窺えるように、『太平記』は一貫して鎌倉最末期・建武新政期の人々が征夷大将軍を大変権威のあるものと捉えていたことを前提に、「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」を重ねている訳ですから、この篠村八幡宮の場面でも、もう少し派手に「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」をしてもよさそうなものですが、実際にはそうなっていません。
ということで、尊氏が篠村八幡宮で「反幕府の挙兵を宣言」したのは「尊氏を頼朝後継者に擬する演出」だとする山家説は『太平記』にすら支証を得ることができず、まあ、無理筋ではないですかね。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10479
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10485

6892鈴木小太郎:2021/04/28(水) 08:36:44
山家著(その8)「正統性の確立」
山家著では厳密な章立てはなされていませんが、二番目の章「足利氏権威の向上」に入ります。
この章は、

-------
正統性の確立
京都での根拠地
頼朝の追善
北条氏の追善
後醍醐天皇の追善
頼朝の後継者尊氏
足利氏の優位性
神仏の付託
-------

という八節で構成されていますが、まず最初の「正統性の確立」から見て行きます。(p15以下)

-------
 一三三六(建武三)年八月、光明天皇が即位し、十一月には、尊氏を中心とする政権の方向性が建武式目として公表され、新政権は歩みを始める。いわゆる室町幕府である。新政権をめぐる情勢は予断を許さないものだった。後醍醐天皇は、いったんは尊氏との和議を受け入れたものの、十二月には京都を脱出して吉野に拠点をおき、その後も、もう一方の政治勢力の核であり続けた。尊氏を擁する新政権は、幅広い支持をえるため、軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心する。一三三八(暦応元)年八月に尊氏は征夷大将軍となった。尊氏、そして足利氏が、鎌倉幕府の将軍と同等の存在として、加えてその後の諸勢力の継承者として、幅広い人びとに認知されるならば、新政権は他の勢力を排して安定へと向かうことが可能となる。ここでは、政権担当者としての正統性の確立について述べたい。
 尊氏を中心とする政権にとって、継承者としての正統性を主張する場合、その根拠は三点ほどあげられる。まずは(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。より狭義には頼朝ら三代の鎌倉幕府将軍の後継者であることを意味し、ひいては鎌倉幕府将軍という地位の後継者を主張することにもつながる。またその将軍のもと政権の実権を掌握していたのは北条氏であった。そのため(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。さらに、尊氏らが継承する対象として、前政権である建武政権も忘れてはならない。そこで(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。この三点が主眼となろう。
-------

山家氏が「継承者としての正統性を主張する場合」と限定されているのは興味深いですね。
「支配の正統性」については、マックス・ウェーバーの余りに有名な三類型の議論があります。
「理念型」とは何か、みたいな難しい議論は避けて、ごく一般的・通俗的な理解によれば、「コトバンク」の「ブリタニカ国際大百科事典」解説にあるような、

-------
権威には,他者に命令し影響を与えるだけではなく,尊敬を集め,自発的に服従させる能力が含まれている。ある政治的支配が正統であると認められる場合は,政治権力が権威に源泉を置き,支配は権利となり,服従は義務となって,安定した支配関係が成立する。 M.ウェーバーは正統性の型を伝統的・カリスマ的・合法的の3つに分類した。世襲に代表される伝統的支配は前近代社会に,個人の強い個性・魅力に基づくカリスマ的支配は主として変動期社会に,ルールや手続きに依存する合法的支配は近代社会に当てはまる。

https://kotobank.jp/word/%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E6%80%A7-158997

といった話ですね。
仮に尊氏が頼朝のようなカリスマ的支配者で、地方で反乱を起こして自己の支配領域を徐々に拡大し、最終的には前政権を武力で圧倒して平和をもたらしたなら、それだけで「支配の正統性」としては十分で、「政権担当者としての正統性を示すことに腐心」するような必要はなかったはずです。
しかし、尊氏の軍事的勝利はなんとも中途半端なものであり、「伝統的支配」を体現する後醍醐が「京都を脱出して吉野に拠点をおき」、軍事的にもそれなりに頑張って「もう一方の政治勢力の核であり続けた」ために、「尊氏を中心とする政権」は「軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心」しなければならなくなった訳ですね。
では、尊氏が「支配の正統性」を主張しようとする場合、それは、「継承者としての正統性」を主張することに限られねばならないのか。
極端な例をあげると、仮に尊氏が非常に見事な法制度を考案して、誰もがその法制度に納得するような事態になれば「合法的支配」だけで充分で、「継承者としての正統性」を主張する必要もないはずです。
ま、前近代においては実際上そんなことはありえない訳で、山家氏が議論を「継承者としての正統性を主張する場合」に限定しようとすることは一応理解できますが、しかし、山家氏が挙げる三点、即ち、

(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。
(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。
(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。

の内、(2)は非常に分かりにくいですね。
尊氏が「伝統的支配」を体現する後醍醐の命を受けてやったことは「北条氏の実権」の否定です。
自らが否定した「北条氏の実権」を「継承」しなければならないとはいったいどういうことなのか、それは明白な矛盾ではないか、という疑問が生じてきます。
そして、実際に(2)に関する山家氏の説明を見ると、それは「北条氏の追善」に過ぎません。
果たして「北条氏の追善」が「北条氏の実権をも継承していること」と結びつくのか、他の説明が可能ではないか、と私は考えますが、その点は後で詳細に論じたいと思います。

6893鈴木小太郎:2021/04/28(水) 10:49:40
山家著(その9)「京都での根拠地」
続いて「京都での根拠地」に入ります。(p16以下)

-------
 はじめに、尊氏・直義が京都でどこを拠点にしたかをみる。鎌倉時代の足利氏は京都にこれといったよりどころを保持していなかったと想像され、京都を本拠地とするにあたり、どこに邸宅を構え、氏寺を設けたかを整理することで、足利氏がみずからのよりどころを何におこうとしたか、垣間みえてくる。正統性の根拠と共通するものがあるはずである。
 直義は、建武政権の時代以来、一貫して三条坊門小路の南、万里小路の西、高倉小路の東に位置する邸宅に居住した。三条殿と呼ばれることが多い。この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている。加えて、古く宮地直一氏は、この場所は鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたことを指摘している。直義は、兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた。源氏と関わりの深い八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となったであろう。通成邸の八幡宮は、直義邸の鎮守八幡宮へと転化した。直義亡きあと、直義邸は別人の宅地とはならず、八幡宮として位置づけられて三条八幡宮と呼ばれ、事実上、幕府の管理下に置かれた。
-------

いったん、ここで切ります。
何故か弟の直義邸から始まっていますが、それは直義邸には「源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていた」という由緒があるのに対し、尊氏邸にはさほどの由緒を見つけられなかったからでしょうね。
ただ、「源姓公家である源通成」は村上源氏・中院家の人で、源氏は源氏でも武家社会で重んじられる清和源氏とは全く別の系統であり、直義は中院通成におよそ同族意識など感じなかったはずです。
ちなみに中院通成(1222-87)の父・通方(1189-1239)は久我通光(1187-1248)の同母弟で、通成は後深草院二条の父・雅忠(1228-72)の従兄弟にあたります。
また、中院通成の娘・顕子は西園寺実兼(1249-1322)の正室で、公衡(1264-1315)と永福門院(1371-1342)の母でもあり、国文学者の中には永福門院の本当の母親は後深草院二条なのだという人もいたりします。

中院通成(1222-87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E6%88%90

ま、それはともかく、素直に考えれば直義が中院通成の子孫(通顕、1291-1343)から中院邸を接収したのは、そこが「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近い」という便利な場所だったことが最大の要因で、たまたまそこに「源氏と関わりの深い八幡宮」が存在していたとしても、それが頼朝に結びつくような由緒をもっているならともかく、所詮は村上源氏の邸宅内の八幡宮ですから、「その存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となった」訳ではなかろうと思います。
他にもっと便利な場所があれば、そちらに八幡宮がなくても直義はより便利な場所を選んだのではないですかね。
後日、その場所が「別人の宅地とはならず、八幡宮として位置づけられて三条八幡宮と呼ばれ、事実上、幕府の管理下に置かれた」のは、直義が新たな由緒を作っただけの話であり、山家氏の発想はここでも原因と結果が逆転しているように思われます。
さて、続きです。

-------
 一方、尊氏は、建武政権の時、直義邸の北、二条高倉に居住していた。この邸宅は焼失し、一三四四(康永三)年には鷹司東洞院邸に居住している。土御門東洞院内裏の近くである。細川武稔氏によると、この間、尊氏は東山常在光院に居宅を構えていた。東山常在光院は、北条氏一門の金沢氏が京都での拠点としていた寺院である。金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用していると考えられる。
-------

常在光院は『徒然草』第238段の兼好自讃の一つに「常在光院の撞き鐘の銘は、在兼卿の草なり……」と登場するので、以前少し調べたことがありますが、納富常天氏の「東山常在光院について」(『仏教史研究』10号、1976)という古い論文以外には特に専論もないようですね。
そして納富論文にも尊氏が常在光院を取得した経緯については説明がありません。
山家氏が「金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用していると考えられる」と書かれているのは、具体的には尊氏の異母兄・高義(1297-1317)の母・釈迦堂殿が金沢貞顕(1278-1333)の姉妹なので、貞顕の死後、釈迦堂殿が承継し、尊氏は更に釈迦堂殿から譲り受けた、といった経緯を想定されているのかな、と思います。

四月初めの中間整理(その12)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10657

6894鈴木小太郎:2021/04/29(木) 15:59:34
山家著(その10)「 足利氏ゆかりの寺院」
山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』シリーズを九回続けてきましたが、タイトルをこのままにしておくと内容を即座に把握できず、検索の際にも不便なので、今回から少しやり方を変えました。
従来の投稿についても補正するつもりです。
ということで、続きです。(p19以下)

-------
 直義邸の北に隣接して、尊氏の二条高倉邸にも近い位置に等持寺が存在した。直義邸に付属する持仏堂のような存在の禅宗寺院であり、洛中にはじめて設けられた足利氏ゆかりの寺院となる。その変遷や意義は細川武稔氏の研究に詳しい。一方、洛北には等持院という似た名前の寺院があり、こちらは足利氏の葬送にかかわる寺院として位置づけられていく。
 では等持院の立地にはどのような背景があるのだろうか。等持院は、現在でも真如寺の西隣に位置している。真如寺は、夢窓疎石が高師直に勧めて、さきに存在していた正脈庵という寺院を核として、天龍寺と同時並行的に造立された。核となった正脈庵は、尼僧無外如大が、師匠である無学祖元(夢窓疎石の師の師)の遺髪などをまつって始めた禅院で、鎌倉時代末には存在していた。無外如大は、尊氏の異母兄高義の母方の祖母で金沢氏に嫁いだ無着と同一人物と伝えられるけれども、その伝記には矛盾も多く、無外如大と無着は別人であるかもしれない。その場合でも、両者が似た境遇にあったがゆえに混同されたのであろうから、無外如大も無着と同じく足利氏ゆかりの女性である可能性は高い。そこで、足利氏は、ゆかりの尼僧が開創した正脈庵に隣接した場所を選んで禅院を設け、一族の葬送にかかわる機能をもたせた、と推測することができよう。
-------

等持院と真如寺の関係は分かりにくいのですが、細川武稔氏の「等持院・真如寺と足利氏」(西山美香編『古代中世日本の内なる「禅」』所収、勉誠出版、2011)によると、かつての真如寺の境内は相当に広くて、真如寺の中に等持院が包摂されていたようですね。
さて、山家氏は「無外如大と無着は別人であるかもしれない」と書かれていますが、山家氏は「無外如大の創建寺院」(『三浦古文化』53号、京浜急行電鉄、1993)の後に「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301号、神奈川県立金沢文庫、1998)という論文を書かれて、後者で二人が別人であることをご自身で明確にされています。
「かもしれない」はあまりに慎重な書き方で、ちょっと不思議ですね。

「無外如大の創建寺院」
http://web.archive.org/web/20061006213232/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai-jiin.htm
「無外如大と無着」
http://web.archive.org/web/20061006213421/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yanbe-hiroki-mugainyodai.htm

また、「無外如大も無着と同じく足利氏ゆかりの女性である可能性は高い」とありますが、「無外如大と無着」では上杉氏関係者と推測されていて、この点、再考されたのでしょうか。
ちなみに私は山家氏の二つの論文に触発され、無外如大(1223-98)は足利義氏の娘で、四条隆親の後室となり、隆顕(1243-?)を産んだ女性ではなかろうか、などと考えたことがあります。
ただ、この女性は割と早く亡くなった可能性が高く、ちょっと無理筋だったかなと思いつつも、まだあきらめきれない状況です。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10592

6895鈴木小太郎:2021/04/29(木) 18:04:58
山家著(その11)「 頼朝の追善」
「頼朝の追善」に入ります。(p20以下)

-------
 尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた。新政権は、継承者であることを明示するために、このほかにも多様な場面で、さまざまなしかけを試みることになる。とりわけ、これら前政権の中心人物の死をとむらい、その仏事を主宰することは、衆人にわかりやすいデモンストレーションとなった。前政権の中心人物とは、鎌倉幕府で実権をもった将軍であった頼朝など、ついで鎌倉幕府後半の中心となった北条氏、とくに家督である得宗、そして後醍醐天皇である。
 頼朝らの場合は、その死去から年月が経過して、三十三回忌はとうにすぎているため、周忌仏事を開催する機会は少なく、既存のとむらう施設を管理下におく方向で進んだ。頼朝をとむらう施設として、鎌倉には法華堂(右大将家法華堂)があった。生前には頼朝の持仏堂で、現在の頼朝墓がある場所に建てられていたとみなされている。一二四七(宝治元)年、北条氏に立ち向かった名族三浦氏は、敗色濃厚のなか、一族五〇〇人で法華堂に籠り、頼朝の遺影の前で自害して果てた。みずからこそ頼朝の精神を受け継ぐものという意思表明だったのだろう。法華堂は、東国に武家政権を建てた頼朝を象徴する場所として意識されていたのである。
-------

うーむ。
冒頭に「尊氏・直義の京都での拠点を検討するなかでも、前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みることができた」とありますが、私は納得できません。
おそらく山家氏は、直義邸(三条殿)が「鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたこと」が「(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと」と関係しているとされるのでしょうが、中院通成は公家社会では「源氏の嫡流」である村上源氏であっても、直義が「兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた」武家社会の清和源氏とは全く別の世界に生きていた人です。
従って、村上源氏の公家の邸宅にあった「八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因」とはならなかっただろうと私は考えます。
また、「東山常在光院は、北条氏一門の金沢氏が京都での拠点としていた寺院である」ことは、山家氏の立場では「(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること」と関係しているのでしょうが、これは「金沢氏は尊氏にとって義母の実家であり、縁戚関係を利用している」のですから、「支配の正統性」などといった大袈裟な話にしなくとも、普通の財産相続の論理で説明できそうです。
そして、等持寺・等持院・真如寺といった「足利氏ゆかりの寺院」は源頼朝とも北条氏とも関係ないので、結局、山家氏が検討された「尊氏・直義の京都での拠点」全てにおいて「前掲(1)(2)にかかわる意識を垣間みること」は無理ではないかと思われます。
次に「頼朝をとむらう施設」についてですが、和田合戦(1213)の際には、『吾妻鏡』に足利義氏が朝夷名三郎義秀と一騎打ちをするなど大活躍をしたことが特筆されているものの、宝治合戦では足利家関係者の動向は顕著ではありません。
ただ、義氏は三浦に連坐して滅亡した千葉秀胤の遺領を恩賞として与えられているので、北条氏側に立っていたことは明らかです。

「第一節 鎌倉御家人足利氏」(『近代足利市史』第一巻通史編)
http://web.archive.org/web/20061006211642/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ashikaga-kindai-01.htm

とすると、「頼朝をとむらう施設」である「右大将家法華堂」は、その由緒の語り方によっては必ずしも足利氏にとって素晴らしい場所ではなく、むしろ「不都合な真実」を示唆する場所だったかもしれません。
もちろん「支配の正統性」を過去に求める場合、「不都合な真実」は見ないフリをすればよいだけの話で、たいした問題ではありませんが。
さて、続きです。(p21以下)

-------
 法華堂には、禅衆と呼ばれる僧侶が籍をおいていた。一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は、禅衆たちに立場を保障しており、すでに法華堂を管理する立場にあった。この年八月、鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵しており、鎌倉支配者にとって法華堂を管理することが重要であったことをかがわせる。こののち、尊氏・直義の共同統治期の法華堂のようすは残念ながら明らかでないが、観応年間(一三五〇~五二)になると、法華堂を僧侶として統括する別当職に、京都醍醐寺地蔵院の院主が任じられる。地蔵院主は、こののち将軍のバックアップを受けて、京都から離れた場所にあるこの職の維持につとめている。幕府は引き続き法華堂を管理下におこうとしていることがわかる。
 鎌倉には源氏一族関係の法華堂として、もう一つ、二位家・右大臣家法華堂があった。二位家は、頼朝の妻で頼朝死後に活躍した北条政子、右大臣家は、三代将軍実朝をさす。この法華堂も幕府の管理下におかれていた。直義は、一三四七(貞和三)年に、この法華堂の別当職に醍醐寺三宝院の院主賢俊を任じ、この別当職はのちに三宝院に伝領され、将軍から安堵されている。
-------

「一三三五(建武二)年十二月、建武政権下で鎌倉に下向していた直義は」云々との表現は、ここだけ読むと若干変な感じがしますが、直義はちょうど二年前の元弘三年(1333)十二月に成良親王を伴って鎌倉に下向しており、下向当初から「禅衆たちに立場を保障」していて、ただ安堵の文書が「一三三五(建武二)年十二月」のもの以外見当たらないということなのでしょうね。
ちなみに直義は同年十一月二十三日に大軍を率いて鎌倉を発ち、二十七日、三河国矢矧で新田義貞軍に敗北、十二月五日、駿河国手越でまた負けて、鎌倉に戻って尊氏を説得して一緒に反撃に出るという慌ただしい日々を送っており、「一三三五(建武二)年十二月」に鎌倉に滞在していた期間はごく僅かですね。
また、「鎌倉を一時占領していた北条時行は、三浦半島にあった禅衆の所領を安堵して」いたとのことなので、「禅衆たちに立場を保障」することは鎌倉の支配者の通常業務であり、尊氏・直義に特有の「支配の正統性」の問題でもないように感じます。

6896鈴木小太郎:2021/05/20(木) 09:27:04
山家著(その12)「戦争での死者は区別なくとむらうべき対象」
珍しく二日続けて投稿を休んでしまいましたが、再開します。
山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)の検討を始めた時点では、私にとって疑問を感じる箇所を部分的に指摘するだけの予定だったのですが、既に山家氏が立脚する認識の基盤をほぼ全面的に否定する方向に向かっています。
私は清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)にもほぼ全面的に否定的ですが、清水著に対して私が批判的な理由は単純で、それは清水氏が従来の歴史研究者が見逃していた珍しい史料に着目しつつも、それらの新知見を全て清水氏が予め想定していた尊氏像に強引に当て嵌めている姿勢に疑問を感じるからです。
しかし、史料編纂所元所長でもある山家氏は実証史学の王道を行く堅実な研究者で、少なくとも表面的には清水氏のような強引さとは無縁です。
それなのに何故私が山家著に全体的な違和感を感じるかというと、やはり南北朝期の宗教に対する基本的な認識がずれているからなのでしょうね。
例えば山家氏は「頼朝の追善」に続く「北条氏の追善」の冒頭に、

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 尊氏らがみずから倒した北条氏一門の死後をとむらうのは、一見矛盾している。しかし、戦争での死者は区別なくとむらうべき対象であり、とくに前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった。
-------

と書かれていて、この部分は山家氏にとって自明なためか、注記や文献の引用などは全くありません。
しかし、「戦争での死者は区別なくとむらうべき対象」という「怨親平等」観については、私はかねてから違和感を抱いており、少なくとも相当の検討を経なければ、このような断定をする勇気は持てません。
また、「前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった」も疑うべからざる不動の真理のような書き方ですが、その根拠はかなり脆弱なように思えます。
寄り道してこのあたりを掘り下げて行くと暫く戻って来れなくなる恐れがあるので、どうしようか迷っているのですが、「怨親平等」観だけはある程度しっかりやっておいた方がよさそうに思えるので、李世淵(イ・セヨン)氏の「南北朝時代における怨霊鎮魂問題と足利将軍家の位相」(『比較文学・文化論集』27号、東京大学比較文学・文化研究会、201)などを参考に、後で少し検討したいと思います。

李世淵氏「南北朝時代における怨霊鎮魂問題と足利将軍家の位相」
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I005818245-00

この論文は上記リンク先からPDFで読めますが、李世淵氏の見解の骨子は「学位論文要旨」の「日本社会における「戦争死者供養」と怨親平等」で読むことができますね。

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本論文は、<怨親平等=「敵味方供養」>説を批判的に検討し、「戦争死者供養」をめぐる日本社会の伝統の一端を探ってみたものである。具体的には、怨親平等の文言を介して展開した「戦争死者供養」の論理を「怨親平等論」と想定し、その歴史的変容を跡づけた。また、近代にいたって怨親平等の文言が急浮上した経緯を追跡し、さらに文禄・慶長の役(壬辰倭乱)直後に高野山奥の院へ建てられた高麗陣供養碑をとりあげ、「敵味方供養」の事例研究をも試みた。

仏教典籍に頻出する怨親平等は、古来日本社会にもよく知られていた。たとえば、最澄、空海、明恵、法然など名立たる僧侶たちが様々の文脈で怨親平等を援用したのだが、怨親平等を「戦争死者供養」の場へ持ち込み、「怨親平等論」というべき言説をはじめて説いたのは、渡来僧の無学祖元だった。祖元は、蒙古襲来で犠牲となった「戦争死者」を供養する場で、仏教的原理からすれば敵味方の区別は意味を有さず、したがって「戦争死者」一般が平等に救済されると力説した。

祖元によって打ち出された「怨親平等論」は、祖元の法脈を汲んだ夢窓疎石によって大いにとりあげられた。ただ、その中身には相当の変化が認められる。疎石の「怨親平等論」は、生前の怨念を打ち払うよう「戦争死者」を説得する文脈のものであり、具体的には、後醍醐天皇怨霊を慰め諭す脈絡のものであった。疎石の真意はともあれ、彼の理屈は、当時怨霊鎮魂を導く境遇に立たされた足利将軍家にとって怨霊無害化の論理として読み取れるものであった。

http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=128801

6897鈴木小太郎:2021/05/21(金) 01:40:14
山家著(その13)「直義がこの地を邸宅に定める大きな要因」
山家氏は禅宗を中心として宗教関係の膨大な知識を有しておられますが、宗教に詳しい人はどうしても軍事面でのリアリズムには欠ける傾向があるようです。
その点は既に若干の批判を行なっていますが、山家氏が、

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 直義は、建武政権の時代以来、一貫して三条坊門小路の南、万里小路の西、高倉小路の東に位置する邸宅に居住した。三条殿と呼ばれることが多い。この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている。加えて、古く宮地直一氏は、この場所は鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたことを指摘している。直義は、兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた。源氏と関わりの深い八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となったであろう。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10683

とされている点について、ツイッターで亀田俊和氏から、直義が三条殿を選んだのは軍事的理由からではないか、との指摘を受けたので補足しておきます。
亀田氏の『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)には、建武三年(1336)五月二十五日の「湊川の戦い」の後の戦況に関し、次のような記述があります。(p42以下)

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第二次京都争奪戦
 翌二十六日、足利軍は兵庫を発ち、西宮まで進出した。二七日、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。正月に続いて二度目の叡山行幸である。
 五月二九日、遂に直義は入京した(『梅松論』)。だが、尊氏は石清水八幡宮に依然とどまっていた。尊氏が入京したのは半月後の六月一四日で、持明院統光厳上皇を伴っており、東寺に本陣を置いた。
【中略】
 入京した直義は、現在の京都市左京区修学院にある赤山禅院に本陣を設置した。ここから比叡山を包囲する足利軍を指揮したのである。しかし六月二十日の合戦に敗北し、搦め手の大将として西坂本方面を担当していた高師久(師直弟)が捕えられ、処刑されるなどの大損害を出した。
 ここに足利軍の叡山包囲網は一時崩壊し、直義も赤山禅院を撤退して、下京の三条坊門に本陣を移した(以上『梅松論』)。この陣は、北が三条坊門小路、西が高倉小路、南が姉小路、東が万里小路に囲まれた区画にあった。以降貞和五年(一三四九)末に至るまで、直義は基本的にここに住み、事実上の初期室町幕府政庁となった。
 この後数ヵ月間にわたって、足利軍と後醍醐軍の一進一退の激しい攻防が果てしなく続いた。六月二七日夜には三条坊門の直義本陣が後醍醐軍に攻撃され、矢倉に放火されている(建武三年七月二三日付神代兼治軍忠状写、『萩藩閥閲録』巻一一三)。しかし、戦況は徐々に足利軍に有利となっていった。
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「第一次京都争奪戦」(p31)は僅か半年前、建武三年正月の出来事ですが、そのときは義貞を破って入京した尊氏軍と後醍醐側の激戦が続いた後、後醍醐側に北畠顕家の援軍が加わったため、尊氏は丹波篠村から西に逃げています。
『梅松論』を見ると、

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 去程に六月廿日、今道越より御方の合戦打負けて、三手の御方同く坂本に追ひ下さる。爰に高豊前守以下数十人、山上にて討死す。
 此上は赤山の御陳無益なりとて急ぎ御勢洛中に引き退く。大将下御所は三条坊門の御所に御座あり。将軍は東寺を城郭にかまへ、皇居として警固申されけり。
 去春両将浮勢にて河原に御扣へ有りし故に軍勢の心そろはず。今度は縦へ合戦難儀に及といふとも、何れの輩か東寺を捨て奉るべきとぞ沙汰有りける。軍勢は洛中に充満して狼藉を禦ぐべからず。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあります。
「去春両将浮勢にて河原に御扣へ有りし故に」とのことなので、「去春」、即ち亀田氏の用語では「第一次京都争奪戦」では直義はまだ三条坊門を拠点としておらず、九州まで往復して六月の「第二次京都争奪戦」に入ってから、軍事的理由により最初は赤山禅院、次いで三条坊門を拠点とした、ということですね。
ちなみに「第一次京都争奪戦」も非常に厳しい戦いで、このときは「去程に官軍は山上雲母坂・中霊山より赤山社の前に陳を取る。御方は、糺河原を先陳として京白河に満ちみてり」ということで、「官軍」側が赤山禅院、尊氏側が「糺河原」を拠点としています。
では何故に「第一次京都争奪戦」で尊氏側が「糺河原」を拠点としたかというと、後醍醐が比叡山に逃げる際に、

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 所々京方皆逃げ上る間、同十日の夜山門へ臨幸ある。則ち内裏焼亡しけり。近比は閑院殿より以来は是こそ皇居の御名残なりしに、こはいかにと驚き悲しまぬ人ぞなかりけり。同時に卿相雲客以下、親光・正成・長年が宿所も片時の灰燼となりしこそ浅ましけれ。
 伝へ聞く秦の軍破れて咸陽宮・阿房宮を焼き払ひけるは、異朝のことなればおもひはかりなり。寿永三年平家の都落ちもかくやとおぼえて哀れなり。
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ということで、「官軍」側が二条富小路内裏やその周辺の主要な建物をみんな焼き払ってしまったためでしょうね。
「第二次京都争奪戦」に際しては、直義は焼け野原となっていた「源通成の邸宅」を突貫工事でそれなりの軍事施設にしたのだろうと思います。
以上の経緯を見ると、直義が「源通成の邸宅」を拠点としたのは軍事的理由が唯一最大の要因で、山家氏が言われるような「この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている」云々は正しくなく、ましてや「源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたこと」など「直義がこの地に邸宅を定める大きな要因」どころか、直義の頭の片隅にもなかっただろうと思われます。

参考:『梅松論』現代語訳(『芝蘭堂』サイト内)
「京都の陥落」(「第一次京都争奪戦」)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou26.html
「比叡山の攻防」(「第二次京都争奪戦」)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou45.html

6898鈴木小太郎:2021/05/03(月) 11:41:07
山家著(その14)「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近い」
三条殿をめぐる細かい話をもう少しだけ続けます。
亀田俊和氏の指摘を受けるまでは、私は山家氏の「この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている」は正しいものと思っていました。
しかし、直義が三条殿を選んだのが建武三年(1336)六月の「第二次京都争奪戦」に際してだとすると、二条富小路内裏は半年前の「第一次京都争奪戦」で焼けてしまっていますから、「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いこと」も直義の選択の要因にはならないはずです。
ただ、直義は元弘三年(1333)四月に尊氏とともに入京して五月に六波羅を滅ぼした後、同年十二月に成良親王とともに鎌倉に下向するまで京都に滞在していますから、この間に「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いこと」を理由に三条坊門邸を中院家から譲り受けた可能性が皆無ではありません。
この可能性を検討する前提として、六波羅滅亡まで中院家が三条坊門邸を確保していたかが一応問題になりますが、これは『増鏡』に明らかです。
中院家は通成(1222-86)から通頼(1242-1312)、通重(1270-1322)、通顕(1291-1343)、通冬(1315-63)と続きますが、『増鏡』の最終章である「第十七 月草の花」の後半、尊氏軍が京都に突入して六波羅側が敗北、北条仲時・時益の両探題が光厳天皇・後伏見院・花園院を伴って逃げ出す場面の直後、何だか妙に唐突な形で中院通顕・通冬父子が登場します。

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 日暮らし、八幡・山崎・竹田・宇治・勢多・深草・法性寺など燃え上る煙ども、四方の空にみちみちて日の光も見えず。墨をすりたるやうにて暮れぬ。
 ここにも火かかりて、いとあさましければ、いみじう固めたりつる後ろの陣をからうじて破りて、それよりまぬがれ出でさせ給ふ御心地ども、夢路をたどるやうなり。内の上も、いとあやしき御姿にことさらやつし奉る。いとまがまがしく、両院御手をとりかはすといふばかりにて、人に助けられつつ出でさせ給ふ。上達部・大臣たち、袴のそばとりて、冠などの落ち行くも知らず、空を歩む心地して、あるは川原を西へ東へさまざまちりぢりになり給ふ。
 両六波羅仲時・時益、東をさして東へと心がけて落ちければ、御幸も同じさまになる。西園寺の大納言公宗は北山へおはしにけり。右衛門督経顕・左兵衛督隆蔭・資明の幸相などは御幸の御供に参る。按察の大納言資名は足をそこなひて、東山わたりにとまりぬ、などいひしはいかがありけん。
 内大臣殿は御子の別当通冬ともなひ給ひて、八日の曙いまだ暗き程に、我が御家の三条坊門万里小路におはしまし着きたるに、歩み入り給ふ程も心もとなくて、北の方、門へ走り出で、平かに帰りおはしたると思ふ嬉しさに、急ぎて見れば、大臣は御直衣に指貫ひき上げ給へれば、しるく見え給ふ。別当は道の程のわりなさに、折烏帽子に布直垂といふものうち着て、細やかに若き人の、御前どもにまぎれたるはとみにも見えず。火などもわざとなければ、暗き程のあやめわかれぬに、早ういかにもなり給へるにや、と心地まどひて、「御方はいかにいかに」と声もわななきて聞えける、いとことわりに、いみじうあはれなり。

http://web.archive.org/web/20150810091657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-rokuharakanraku.htm

中院通顕・通冬に関係する部分、井上宗雄氏の現代語訳で紹介すると、

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 内大臣通顕公は御子息の別当通冬を伴われて、八日の曙のまだ暗いうちに、わがお家の三条坊門万里小路にお着きになったところ、歩み入る(わずかな)間も心配で、北の方が門へ走り出て、無事にお帰りになった、と思ううれしさに、急いで見ると、通顕公は御直衣に指貫をくくり上げていらっしゃるので、それとはっきりお見えになる。別当は道の途中が危なくやむをえずに、折烏帽子に布直垂というものを着て、細くて若い人が、御前駆の中に紛れ込んでいるので、急には見つからない。松明などもわざとつけていないので、暗い中で物のけじめも分らず、もはやどうにかなってしまわれたのではないか、と惑乱して、「吾子はどうしました、どうしました」と声もふるえて申されたのは、まことに道理で、たいへん感動的なことである。
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ということで(『増鏡(下)全訳注』、講談社学術文庫、1983、p363)、井上氏は「解説」で「凄惨な六波羅の陥落状況と、そこからかろうじて脱出した顕貴の人々を略叙し、供奉していた人々の動向を述べる。中院通顕父子の帰宅状況は、何によったのか(口伝えか)、大層現実味があふれている」と書かれています。
確かに感動的な場面ではありますが、六波羅滅亡という大事件を描写する中でわざわざ言及するほどのエピソードか、という感じも否めません。
『増鏡』の作者が二条良基ならば、こんなエピソードがどうして作者の耳に入り、また、どうして作者がそれを『増鏡』に書き留めたのかが問題となるはずですが、後深草院二条が『増鏡』の作者だとすると「親戚だから」で済んでしまいます。
ま、それはともかく、ここで「我が御家の三条坊門万里小路」と明記されているので、元弘三年五月の時点では、中院家は後の「三条殿」を確実に所有していることになります。
そして内大臣であった中院通顕は同年五月八日、帰宅したその日に出家しますが、権中納言で左衛門督・検非違使別当であった通冬は、光厳天皇の下での昇進を一切否定した後醍醐の方針で左衛門督・使別当は辞めさせられるものの、参議に復しており、特に冷遇はされていないようです。

中院通冬(1315-63)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E5%86%AC

従って、直義が同年十二月に鎌倉に下向するまでの短い期間に、中院家が古い由緒のある三条坊門邸を直義に譲るような事態も考えにくいですね。
結局、直義は建武三年(1336)六月、既に焼亡していた中院家の三条坊門邸を軍事的な拠点として使用するために実力で接収したと考えるべきですね。
山家氏は「この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている」と書かれているので、これは誰かの説の伝聞なのでしょうが、元の説も否定されるべきだろうと思います。

6899鈴木小太郎:2021/05/03(月) 12:20:17
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その1)
ちょっと脱線します。
桃崎有一郎氏は『京都を壊した天皇、護った武士 「一二〇〇年の都」の謎を解く』(NHK出版新書、2020)において、建武三年(1336)正月の「第一次京都争奪戦」に関して非常に奇妙なことを言われているので、同書を少し検討しておきます。

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京都拡大をめぐる、不都合な史実とは!?
京都・武士・天皇と聞くと、「武士が、天皇と京都を脅かしてきた」歴史が想像されるかもしれない。しかし、事実はまったく逆だ。京都を危険に晒してきたのは、後鳥羽・後醍醐ら一部の天皇であり、その復興は源頼朝から信長・家康に至る武士がつねに担ってきた。いったいなぜ、武士は京都を護り、維持してきたのか!? 天皇と京都をめぐる一二〇〇年の「神話」を解体し、古都の本質へと迫る意欲作!

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886252020.html

まず、同書の「プロローグ 京都が「ミヤコ」でなくなる日─"神話"を解体する」の最後に、桃崎氏は、

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 むしろ、天皇のための都市ではない京都を、天皇が自分のものにしようとした時、京都御所(の前身)はむしろ脅かされ、ひどい時は灰燼に帰した。本書はそのような、天皇礼賛一辺倒の歴史観にとって不都合な史実も取り上げる。
 しかも、記録を精査した結果、ある天皇が犯した京都御所の前身への放火を隠蔽し、その罪を他人に着せるという、近代に仕組まれた悪質な歴史歪曲を、私は新たに発見した。その曲筆は、まだ歴史学者の間でも気づかれていないようなので、本書で詳しく紹介したい。
 私は京都と京都御所を、特定の政治的立場から歪められていない、公正な歴史の世界に呼び戻したい。そのためにはまず、<天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が一二〇〇年もの間、民のためを想って維持してきた賜物である>というまことしやかな"神話"に、退場してもらわなければならない。そこにしか、日本人・京都人が京都や京都御所と真剣に向き合い、それらの良き未来を模索する手立てはないと信じるからである。
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という力強い宣言をされます。(p10以下)
「天皇礼賛一辺倒の歴史観」が今どき存在するのか、「<天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が一二〇〇年もの間、民のためを想って維持してきた賜物である>というまことしやかな"神話"」を誰が主張しているのか、という根本的な疑問が生じますが、そこは近づいてはいけない泥沼のようなので踏み込みません。
問題は「ある天皇が犯した京都御所の前身への放火を隠蔽し、その罪を他人に着せるという、近代に仕組まれた悪質な歴史歪曲」とは何かですが、これに関する桃崎氏の見解は「第十章 後醍醐の内裏放火と近代史学の闇─足利氏の冤罪を晴らす」で、二十ページにわたり「詳しく紹介」されています。
そこで、まず第十章の構成を確認すると、厳密な章立てにはなっていませんが、小見出しは次の通りです。

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大内裏の再建計画─院政に屈服した天皇の復権
大内裏造営の大増税と銅貨・紙幣の発行計画
離反した足利尊氏の人望と"裸の王様"後醍醐
「足利軍が内裏を焼いた」という悪質な嘘
足利氏に罪を着せた大日本帝国と御用歴史学者
内裏焼失の真相を探る
書き換えられた「太平記」と近代の御用歴史学の闇
三種の神器も偽物だらけに
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6900鈴木小太郎:2021/05/03(月) 17:42:46
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その2)
小見出しの四番目、「足利軍が内裏を焼いた」を引用します。(p173以下)

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「足利軍が内裏を焼いた」という悪質な嘘

 この建武三年(一三三六)正月一〇日の京都突入戦で、本書にとって重要な大事件が起こった。根本内裏の富小路殿が焼失したのである。この事件を、京都を攻撃した足利軍による放火だとする説がある。それも、専門家の間で極めて信頼性が高いとされている史料集、たとえば東京大学(戦前は東京帝国大学)史料編纂所が作っている『大日本史料』や、戦前に宮内省が作った『後醍醐天皇実録』で、その説が採られている。前者は事件を「凶徒火ヲ縦〔はな〕チテ宮闕ヲ焚ク」と明記し、後者も「賊徒細川定禅等、山崎ヲ攻メテ官軍ヲ破リ、長駆シテ入京ス、……賊徒等火ヲ縦チテ宮闕ヲ焚ク」と明記して、足利側の細川軍が放火したと断定している。
 しかし、それはひどい言いがかりで、冤罪だ。それらの史料集に載せられた、この出来事の信頼できる記録・文書に、「足利軍が放火した」と明記したものは一つもない。重大なことなので、読者に納得していただくため、それらを残さず(抜粋して)示しておこう。

 (1)「東軍襲来の時、二条内裏、回禄す」(『皇代略記』)

 右は「足利軍が襲来した時に内裏が焼けた」とだけ述べ、放火者を特定していない。

 (2)「主上、山門に臨幸す。尊氏以下の凶徒、入洛す。内裏炎上す」(『元弘日記并裏書』)

 右は、「後醍醐が比叡山に移った。尊氏以下の賊軍が京都に入った。内裏が炎上した」と、三つの出来事を並列に述べただけで、足利軍の入京が炎上の理由だとは述べていない。

 (3)「京極内裏、炎上す。主上、山門に幸す」(『東寺王代記』)
 (4)「同十日の夜、山門へ臨幸ある。即ち内裏焼亡しけり」(『梅松論』)
 (5)「東坂本行幸、内裏炎上」(『大乗院日記目録』)
 (6)「朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはちやけ、累代の重宝もおほくうせにけり」(『神皇正統記』)

 右の(3)~(6)も同様で、「内裏が炎上した」ことと「後醍醐が山門に移った」ことの二つを、やはり並列に書いているだけで、誰かが放火したとさえ、一言も述べていない。
 以上が、事件に関する信頼できる記録のすべてだ。ここから「足利軍が放火した」という結論を導くのは、逆立ちしても無理である。
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『後醍醐天皇実録』の「賊徒等火ヲ縦チテ宮闕ヲ焚ク」、「足利軍が襲来した時に内裏が焼けた」の「時に」、(4)の「即ち」、(6)の「すなはち」、「事件に関する信頼できる記録のすべてだ」の「すべて」には傍点が振られています。
最初にここまで読んだとき、何故に桃崎氏は『太平記』に言及しないのだろう、『太平記』には名和長年が内裏を焼いたと書いてあったはずなのに、と思いましたが、五番目の小見出し「足利氏に罪を着せた大日本帝国と御用歴史学者」に入ると、私には少々意外な形で『太平記』への言及がありました。(p175以下)

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足利氏に罪を着せた大日本帝国と御用歴史学者

 それなのに足利軍の仕業とされたのは、次の『太平記』の一節を信じたからだろう。

 (7)「四国・西国の兵共洛中に入て、行幸供奉の人々の家、屋形屋形に火を懸たれば……猛火内裏に懸りて……灰燼と成にけり」(『太平記』)

 右は「四国・西国からの軍勢が京都に入り、後醍醐の比叡山移住に随行した人々の家や多数の屋形に放火した……その猛火は内裏に延焼し……内裏も灰になった」と述べている。これなら、足利軍が内裏を焼いたといえそうに見える。
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現代語訳の「放火」と「延焼」には傍点があります。
あれれ、と思って西源院本の兵藤裕己校注『太平記(二)』の第十四巻を見たら、第十八節「長年京に帰る事、并内裏炎上の事」に、勢多方面で戦っていた名和長年が、「主上東坂本へ臨幸なつて数刻」の後、内裏の様子を見に戻ってきて、「敵の馬の蹄に懸けさせんよりは」と思って、「内裏に火懸け、今路越に東坂本へぞ参りける」(p418)と名和長年が放火したことが明記されています。
ああ、たぶん桃崎氏が見ているのは流布本なのだろうなと思って読み進めると、やっぱりという記述があり、更に進むと西源院本の引用もありました。
うーむ。

6901鈴木小太郎:2021/05/04(火) 09:26:27
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その3)
中世史研究者の『太平記』の引用の仕方は、ほんの一昔前までは相当にいい加減で、参照に便利だからという理由で岩波の日本古典文学大系を使う人が大半でした。
兵藤裕己氏との対談、「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)において、呉座勇一氏も、

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呉座 そうですね。これは最初の話に戻るのですが、やはり歴史学は『太平記』への問題意識が低いところがあります。近年になってようやく関心を向けたところがある。実は私もそうだったのですが、論文での引用に、流布本を底本とした岩波古典文学大系『太平記』(刊行は昭和三十年代初頭)を使っている研究者が少し前まで多かったのです。
 中世前期の研究者が『平家物語』を使う意識と比べると、中世後期の専門家が『太平記』を史料として積極的に活用しようという意識はかなり弱い。流布本は江戸時代に多くの手が入っている、といった意識もあまりない。使うときは使うけれど、もともとあまり重視していないので、安易に流布本を使ってしまう、ということだと思います。
 兵藤さんの岩波文庫『太平記』を含め、こうした諸本論の議論の影響がようやく歴史学にも入ってきたところです。ただ、現在の国文学の諸本論はあまりに複雑なので(笑)、歴史学からすると、学ぼうと思っているけど少し戸惑いもある、という状態でしょうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10414

と発言されています。
1980年生まれの呉座氏が「少し前まで」と言われるくらいですから、歴史研究者が『太平記』の諸本の異同に注意を払うようになったのは本当にここ十年くらいの新傾向ですね。
それまでは「中世後期の専門家」ですら「流布本は江戸時代に多くの手が入っている、といった意識もあまりない」まま、流布本の岩波古典文学大系を平然と利用するのが当たり前だった訳です。
ま、さすがに現時点では、それではまずい、という認識が共有されているのかと思いきや、1978年生まれの桃崎氏が『太平記』のどの本かを明示しないまま引用しているのを見ると、いくら一般書とはいえ些か問題のように感じます。
ま、その点の批判は暫く措き、桃崎氏の見解をもう少し見て行きます。(176以下)

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 しかし、『太平記』は軍記物、つまり本質的に文芸作品であり、それらは読み手が面白がるような演出と筋書きを最優先して、史実を曲げたり創作したりすることが多い(特に、出来事の日付や前後関係を操作して、筋書を改変することが多い)。かつての『平家物語』なども同類なのだが、軍記物に書かれた情報は、ほかの確かな記録と突き合わせて、裏づけが取れて初めて史実と認定できる。その手続きを怠ったり、裏づけが取れないことを無視したりして、軍記物だけに書かれた情報を、鵜呑みにして史実だと見なすことはできない。それが歴史学の常識であり、歴史学用語で"史料批判〔テクスト・クリティーク〕"という不可欠の手続きである。
 普通、大学に入って史学科に配属された大学生は、まず徹底してこの"史料批判"の考え方を叩き込まれ、これを理解・納得できない者は先に進めないようになっている。東京帝国大学史料編纂所や宮内省(編纂当時)のような最高学府や政府機関が、最高水準の歴史学者を動員して編纂した史料集が、まさかそのレベルのミスを犯すとは信じがたい。
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ここまでは特に変なところは見当たりません。
強いて言えば、「大学に入って史学科に配属」という表現にはかなり違和感を覚えます。
「配属」というと、新入社員を経理部に「配属」した、みたいに組織の都合で人員配置を決めたような印象を受けるのですが、桃崎氏の母校である慶応大学の事情は知らないものの、普通の大学の「史学科」の学生さんは自ら希望して「史学科」に進学するはずですから「配属」はないんじゃないですかね。
ま、それはともかく、この先は事実の認識として少し変なところがあります。

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 ここで、一方の『後醍醐天皇実録』を含む歴代天皇の『実録』が、宮内省によって作られたことが、大きなヒントとなる。その作成は大正四年(一九一五)に始まり、完成は昭和一一年(一九三六)、全巻の印刷完了は終戦前年の昭和一九年だった。その時代、天皇は絶対の正義とされ、後醍醐天皇は悪の鎌倉幕府から天皇権威を取り戻すために戦った中興の英主、足利尊氏はそれに逆らった極悪非道の逆賊と見なされた。異論は許されず、少しでも尊氏に同情すれば、大臣の首さえ飛ぶ時代だった(昭和九年、商工大臣の中島久万吉が、それを理由に軍部の圧力で辞任に追い込まれた〔佐藤進一-一九六五〕。
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「宮内省によって作られた」には傍点が振ってあります。
まあ、新聞や雑誌にはこのレベルの見解が溢れていますが、中島久万吉の件だけ見ても戦前の歴史の過度の単純化と言わざるをえず、仮にも大学教授(高千穂大学商学部教授)の文章としてこれで良いのかな、と感じます。
桃崎氏が出典とする佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)を見ると、中島久万吉に直接の圧力をかけたのは貴族院議員の男爵・菊池武夫と子爵・三室戸敬光であり、二人の議会での発言は過激な語彙・文体が「原理日本社」の蓑田胸喜にそっくりです。
「原理日本社」は書籍の大量購入などの形で陸軍の経済的支援を得ていたようですが、別に軍部と一体化している訳ではなく、昭和十年代後半にはむしろ軍部から切り捨てられています。
「原理日本社」と直接の交流があった菊池・三室戸も、あくまで帝国議会という民主的装置の一員であって、彼らが議会での演説という民主的な方法で中島を辞任させたことを「軍部の圧力で辞任に追い込まれた」とまとめるのは乱暴です。
ちなみに蓑田胸喜は慶応大学とそれなりに密接な関係がありますが、だからといって「慶応大学の圧力で(中島久万吉が)辞任に追い込まれた」と言えないのはもちろんで、過度の単純化を避けるべしという観点からは軍部も慶応大学も五十歩百歩ですね。
この後の叙述を見ても、桃崎氏が戦前の歴史をあまりに単純化しているのが気になります。

蓑田胸喜と慶応人脈(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7587
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7589
『日本主義的教養の時代-大学批判の古層』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7590
蓑田胸喜は原理日本社の「機関」なりや?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7599
原理日本社と慶応大学を繋ぐもの
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7612

6902鈴木小太郎:2021/05/04(火) 12:31:16
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その4)
続きです。(p177以下)

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 『大日本史料』も、実はそうした流れの産物という側面があった。『大日本史料』は、九世紀末の宇多天皇の時代に始まって、前近代のすべてをカバーする史料集として企画されたが、時代順に作られてきたわけではない。そして最初に作られたのは六編という、まさに後醍醐天皇の建武政権樹立から始まるパートだった。そうして後醍醐の精神を称揚することで、この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された(兵藤裕己-一九九五)。
 そうした存在意義を持つ『大日本史料』六編で、あるいは天皇に仕えるためだけに存在する宮内省が作る史料集で、忠君愛国を鼓吹する軍部が言論統制を盛大に行っていた時代に、後醍醐天皇の不祥事を包み隠さず公言できる可能性は、限りなく低い(なお、帝大は東京でも京都でも、筆禍事件で何度も教員が追放されて痛い目を見ていた)。放火で内裏が焼失するという不祥事の責任は、確たる証拠がなくても逆賊尊氏に押しつけてしまえ、と割り切られたのだろう。真実より権力への忖度を優先した、歴史の歪曲である。
-------

「天皇に仕えるためだけに存在する宮内省」の「だけ」に傍点が振ってあります。
いろいろ問題がある、というか、問題のない部分を探すのが難しい文章ですが、少しずつ検討してみます。
まず、「最初に作られたのは六編」と言われると、普通の人は第六編が完成ないし相当に進行してから他の編の編纂が開始されたように感じると思いますが、実際には第六編の刊行が開始された明治三十四年(1901)に第十二編の刊行も始まり、翌年には第四編も始まっていますね。

大日本史料
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%96%99

また、「後醍醐の精神を称揚することで、この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された(兵藤裕己-一九九五)」とありますが、兵藤氏の『太平記<よみ>の可能性』(講談社選書メチエ、1995)を見ても、該当する記述が見当たりません。
同書で『大日本史料』に言及しているのは「第九章 歴史という物語」の「3 『南北朝時代史』の方法」ですが、念のためその内容を紹介すると、

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田中義成
 明治二十六年(一八九三)三月、『大日本編年史』の編修中止が命じられた後、帝国大学の史誌編纂掛は、事実上の休業状態に追い込まれる。
 しかし事業の中断を指示した文部大臣井上毅は、修史事業そのものの廃絶を意図していたのではなかった。【中略】
 明治二十八年四月、帝国大学史誌編纂掛は廃され、「専ら史料の編纂に当らしめ」る部局として、あらたに史料編纂掛が設置される(現在の東京大学史料編纂所の前身)。編集委員には、星野恒、三上参次、田中義成らが任命され、なかでも南北朝史料の編纂で中心的役割をになうことになるのが、田中義成であった。
 田中義成は、明治九年(一八七六)に太政官修史局の二等繕写生にやとわれて以来、重野や久米のもとで史料収集・古文書調査の実務に従事してきた人物であった。古文書調査のエキスパートであり、しかも実務家肌の田中は、従来の「方針を一変し、先ず専ら史料の編纂に当」たるのにふさわしい人材と考えられたらしい。
 史料編纂掛の発足とともに編纂委員(兼国史科助教授)に抜擢された田中は、ただちに山陰地方へおもむいて名和氏関係の史料調査を行なうなど、精力的な活動を開始している。そして明治三十四年(一九〇一)二月、『大日本史料』の最初の一冊として第六編之一(元弘三年五月~建武元年十月)を刊行し、以後みずから編纂主任となって南北朝時代(第六編)の史料編纂を担当するのである。【後略】
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といった具合で(p226以下)、田中義成が『大日本史料』を「作る目的」が「天皇礼賛」だなどと言ったはずはありません。
「最初に作られたのは六編という、まさに後醍醐天皇の建武政権樹立から始まるパートだった」ことは事実ですが、客観的に見て、別にそれは「後醍醐の精神を称揚すること」ではなく、第六編を担当した田中にとっても、第六編から刊行を始めたことで「この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された」など言われたら相当に心外、というか誹謗中傷の類として怒り心頭に発するのではないかと思います。

田中義成(1860-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E6%88%90

そもそも兵藤裕己氏は「そうして後醍醐の精神を称揚することで、この史料集を作る目的(天皇礼賛)が、象徴的に宣言された」などとは言っていない訳で、桃崎氏の要約引用(?)は何がどうなっているのか私には理解不能です。
それと、桃崎氏は『大日本史料』と「その作成は大正四年(一九一五)に始まり、完成は昭和一一年(一九三六)、全巻の印刷完了は終戦前年の昭和一九年だった」『後醍醐天皇実録』とを並列させて、「『大日本史料』も、実はそうした流れの産物という側面があった」などと言われる訳ですが、桃崎氏が問題視する「後醍醐の内裏放火」に関する史料を集めた『大日本史料』「第六編之二」は「第六編之一」と同じく明治三十四年(1901)の刊行で、『後醍醐天皇実録』が完成した昭和十一年(1336)を遡ること三十五年です。
この間、日露戦争、大逆事件、明治天皇崩御、大正デモクラシー、第一次世界大戦、関東大震災、昭和恐慌、満州事変、天皇機関説事件等があった訳で、世相は次から次へと変化しています。
少なくとも明治三十四年(1901)は「忠君愛国を鼓吹する軍部が言論統制を盛大に行っていた時代」ではない訳で、昭和十年代に比べたら言論活動は遥かに自由ですね。
戦前の歴史を過度に単純化する歴史学者はそれなりにいますが、桃崎氏ほど極端なことを言う人もちょっと珍しいように感じます。

6903鈴木小太郎:2021/05/04(火) 14:19:30
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その5)
五番目の小見出し「足利氏に罪を着せた大日本帝国と御用歴史学者」はずいぶん刺激的な表現ですが、「御用歴史学者」に田中義成を含める桃崎説は、将来的にもあまり学界の賛同は得られないように思います。
さて、六番目「内裏焼失の真相を探る」に入ります。(p178以下)

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 繰り返すが、足利軍を放火犯だといい張れる材料は、信頼性が低い(7)の『太平記』だけだ。仮に、その記載が真実だと認めても、まだ歪曲がある。(7)が述べているのは、逃亡した後醍醐に付き従った側近たちの家に、足利軍が放火して、内裏に延焼したことだけだ。「足利軍が内裏に放火した」という理解は、『太平記』からも導けない拡大解釈である。
 「足利軍が近所に放火して内裏を延焼させた」のなら、ほぼ同罪ではないか、という反論がありそうだ。しかし、それは史実だろうか。史実かどうか、どう確認できるだろうか。
 実は、確認できる。その鍵は、奇しくも『太平記』自体にある。正確にいえば、『太平記』の改竄の歴史の中にある。問題の部分は、後の時代に改竄されていた。放火があったのは事実だが、放火された場所も、そして放火犯の名も、書き換えられていたのだ。
 現在、我々が『太平記』だと思って読んでいるテキストは"流布本"と呼ばれ、数ある『太平記』の本文の中で、一番流布したものにすぎない。軍記物はすべて、写本が作られるたびに、写す者が書きたい物語や、想定読者が読みたい物語になるよう、派手に改変(増補・削除・改作)されてゆく。軍記物は、中世の武家社会では歴史として享受されたので、享受する側の先祖の扱いには様々な注文が入る。「うちの先祖を登場させろ/ もっと活躍させろ/ 不名誉な記事を削れ」というのが大半だ。軍記物には「勢揃〔せいぞろえ〕」という、軍勢の参加者の名前をひたすら列挙するだけのパートがよくある。その戦争に(正義の側として)先祖が参戦した証拠として、子孫の名誉や就職活動に直結するので、需要があったのだ。
-------

いったん、ここで切ります。
俗耳に入りやすい議論ですが、『太平記』に即して考えてみると、最優先の「想定読者」と思われる足利将軍家の「先祖の扱い」はかなり悲惨で、尊氏・直義が終始一貫素晴らしい人格者として描かれているかというと、そんなことは全然ありません。
尊氏が直義を「毒殺」した話は有名ですが、「毒殺」といえば尊氏・直義の同母兄弟が後醍醐皇子で同母兄弟の恒良・成良親王を鴆毒で「毒殺」したエピソードなどは本当に陰惨で、史実ならばともなく、こんな話は明らかに捏造です。
兵藤裕己氏は『太平記』が足利将軍家にとっての「正史」だったと力説されますが、仮にそうであったら、足利家にとって不名誉なこんな記事が何故に削除されないのか。

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10524
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10525
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10526

また、義満の父・義詮も優柔不断なろくでもない人物として描かれています。
兵藤裕己氏と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」において、呉座氏は、

-------
呉座 なるほど。ではこの点はどうでしょうか。『太平記』のとくに後ろのほうで室町幕府二代将軍の足利義詮は讒言に惑わされやすい凡庸な人物として描かれています。幕府草創史としてきちんとしたものを作ろうとしたら、義満の父である義詮があそこまでひどく書かれることはないのではないでしょうか。そのあたりの原因も、やはり編纂が完成しないままだったことにあるのでしょうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10415

と兵藤氏に尋ねていますが、兵藤氏の回答は曖昧です。
桃崎氏の表現を借りれば、足利将軍家すら「うちの先祖を登場させろ/ もっと活躍させろ/ 不名誉な記事を削れ」という「注文」を『太平記』に反映させられなかった訳ですが、この客観的事実を桃崎氏はどのように考えておられるのか。
あるいは何も考えておられないのか。
また、『難太平記』も、ある意味では今川了俊にとって理想的な『太平記』像を描いた「注文」の書ですが、実際に現存する『太平記』の諸本を見ると、了俊の「うちの先祖を登場させろ/ もっと活躍させろ/ 不名誉な記事を削れ」という「注文」は一顧だにされていません。
この客観的事実を、以下同文。

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10444
【中略】
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10452

6904鈴木小太郎:2021/05/05(水) 12:00:03
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その6)
続きです。(p179以下)

-------
 軍記物は、写された時代が下るほど多くの改変に晒され、そのたびに内容は史実から遠ざかる。流布本とは、そうした改変のなれの果てであって、原作者が書いた原本からは遠く逸脱している。そのため、歴史学の材料として軍記物(を含む文芸作品)を扱う場合、そうした改変が最も少ない"古態本"(原本の姿をとどめる古い本)を探さねばならない。
 『太平記』にもいくつかの古態本が発見されており、その一つに、現在、京都の龍安寺が所蔵している西源院本『太平記』がある。書写された(つまりその本文が成立した)のは室町時代初期の応永年間(一三九四~一四二八)で、『太平記』が扱う時代に極めて近い。
 その西源院本では、後醍醐の京都脱出・比叡山入りに、名和長年が随行した場面が描かれる。名和長年は、隠岐を脱出した後醍醐を最初に迎え入れて保護し、大きな信頼を得て後醍醐の側近となった山陰地方の豪族である。その彼が後醍醐の京都脱出に随行したというのは、流布本にない独自の場面だ。
 それによれば、名和長年はさっさと逃れる後醍醐の一行に随行してはみたものの、再び京都に戻り、一つの仕事を果たしてから後醍醐のもとへ再度駆けつけた。その仕事とは何か。西源院本の本文に、次のようにある。

 (8)「「敵の馬の蹄にかけさせんよりは」とて、内裏に火をかけ、今路越に東坂本へぞ参ける」

 現代語訳は不要だろう。名和は、内裏に放火したのである。動機は、「敵の馬蹄に蹂躙させて天皇の恥辱となるくらいなら、焼き払って消滅させてしまおう」という理由だった。
-------

いったん、ここで切ります。
ここも『大日本史料』を作る目的が「天皇礼讃」だとか、編者は「御用歴史学者」だなどと言っていた箇所と並んで、いろいろ問題がある、というか、問題のない部分を探すのが難しい文章なのですが、内容の不可解さは一段と深まっています。
まず、「『太平記』にもいくつかの古態本が発見されており、その一つに、現在、京都の龍安寺が所蔵している西源院本『太平記』がある」とのことですが、西源院本はいったい何時「発見」されたのか。
「改変のなれの果てであって、原作者が書いた原本からは遠く逸脱している」流布本は駄目だから、「歴史学の材料として軍記物(を含む文芸作品)を扱う場合、そうした改変が最も少ない"古態本"(原本の姿をとどめる古い本)を探さねばならない」という話の流れなので、「古態本」である西源院本の「発見」は比較的最近の出来事だろうと考える人が大半ではないかと思われます。
まあ、どんなに遡っても「流布本」が「流布」していた江戸時代より後、即ち明治以降と考えるのが自然でしょうが、実際には西源院本は遅くとも江戸初期(十七世紀)には「発見」されていて、元禄二年(1689)成立の『参考太平記』にも頻出します。

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参考太平記(コトバンク『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より)

『太平記』の諸伝本 (西源院本,南都本,今川家本,前田家本,毛利家本,北条家本,金勝院本,天正本など) を比較し,さらに『公卿補任』『増鏡』『園太暦』など 104部に上る記録,文書によって記事の適否を考訂した書。 40巻。本書は徳川光圀が『大日本史』撰修の準備作業として,儒臣今井弘済に命じて編集させたもので,弘済の死後,内藤貞顕が引継いで元禄4 (1691) 年刊行された。
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%82%E8%80%83%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98-70653

また、当然ながら『大日本史料』第六編でも西源院本は頻繁に引用されています。
要するに遥か昔から西源院本が『太平記』の「古態本」であることは天下周知の事実だった訳で、何故に桃崎氏が「発見」などという表現を用いるのか、理解に苦しみます。
なお、「古態本」の西源院本・神田本・玄玖本・南都本等については兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫、2015)の「解説4 『太平記』の本文〔テクスト〕」に簡明な説明があり、以前、紹介しました。

兵藤裕己氏「『太平記』の本文〔テクスト〕」(その1) ~(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10410
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10411
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10412
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10413

さて、「発見」は私には極めて奇妙な表現に思われますが、それ自体は桃崎氏の言語感覚が変わっている程度の話です。
しかし、その後の「その西源院本では、後醍醐の京都脱出・比叡山入りに、名和長年が随行した場面が描かれる。【中略】その彼が後醍醐の京都脱出に随行したというのは、流布本にない独自の場面だ」という文章は本当に不可解で、殆どミステリーの世界です。
何故なら、少なくとも兵藤裕己校注『太平記(二)』を見る限り、「後醍醐の京都脱出・比叡山入りに、名和長年が随行した場面」は存在しないからです。
この点、次の投稿で具体的に確認します。

6905鈴木小太郎:2021/05/05(水) 14:57:59
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その7)
ということで、兵藤裕己校注『太平記(二)』(岩波文庫、2014)に即して、「西源院本では、後醍醐の京都脱出・比叡山入りに、名和長年が随行した場面が描かれる」のか、「名和長年はさっさと逃れる後醍醐の一行に随行してはみたものの、再び京都に戻り、一つの仕事を果たしてから後醍醐のもとへ再度駆けつけた」のかを見て行きます。
建武二年(1335)八月、中先代の乱を平定した尊氏に後醍醐は帰洛を要請しますが、直義が反対して尊氏は鎌倉に留まることになり、その行動が後醍醐の疑念を呼んで、結局、十一月に新田義貞が尊氏を討伐するために関東に向かいます。
後醍醐に敵対することに逡巡する尊氏を鎌倉に残して出陣した直義は三河国矢矧、ついで駿河国手越で「官軍」に敗れてしまいますが、足利家滅亡の危機にようやく立ち上がった尊氏が箱根竹之下の戦いで「官軍」に勝利し、敗走する義貞を追って京都に接近します。
年が明けて建武三年(1336)正月七日、尊氏軍の京都突入目前という状況で、「官軍」側は瀬田(勢多)・宇治・山崎・大渡に軍勢を配置しますが、名和長年は瀬田の担当となります。
第十四巻第十二節「将軍御進発の事」から少し引用します。(p404)

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 正月七日、義貞、内裏より退出して、軍勢の手分けあり。勢多へは、伯耆守長年に、出雲、伯耆、因幡三ヶ国の勢二千騎を添へて向けらる。供御の瀬、かかや瀬二ヶ所に、大木を数千本流し懸けて、大縄〔おおつな〕を張り、乱杭〔らんぐい〕を引つ懸け引つ懸けつなぎたれば、いかなる河伯水神なりとも、上をも游〔およ〕ぎ下をも潜り難し。
-------

この時、宇治は楠木正成の担当となりますが、正成が、

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敵に心安く陣を取らせじとて、橘の小島、槙島、平等院のあたりを、一宇も残さず焼き払ひける程に、魔風大廈〔たいか〕に吹き懸けて、宇治の平等院の仏閣、宝蔵、忽ちに焼けけるこそあさましけれ。
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という行動を取ったことは、長年の内裏放火を考える上で興味深いですね。
さて、この後、大渡と山崎の攻防戦が描かれて、第十六節「都落ちの事」に入ります。(p414)

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 山崎、大渡の陣破れぬと聞こえければ、京中の貴賤上下、俄かに出で来たる事のやうに、周章〔あわ〕てふためき、倒れ(迷ひて)、車馬東西に馳せ轟き、財宝を上下〔かみしも〕へ持ち運びけり。
 義貞、義助未だ参らざる前に、主上は、山門へ落ちさせ給はんとて、三種の神器を玉体に添へて、鳳輦に召されたれども、駕輿丁〔かよちょう〕一人もなかりければ、四門を堅めて候ふ武士ども、鎧〔よろい〕着ながら御輿の前後をぞ仕つりたりける。
 吉田内大臣定房公、車を飛ばせて参ぜられたりけるが、(御所中を走り廻て見給ふに、)皆人々周章てたりと覚えて、明星日〔みょうじょうひ〕の札、二間の御本尊まで、皆捨て置かれたり。内府、心静かに(青侍どもに)取り持たせて参ぜられけるが、いかがして見落とし給ひけん、玄象、牧馬、達磨の御袈裟、毘須羯摩〔びしゅかつま〕が作りたりし五大尊、取り落とされけるこそあさましけれ。
 この二、三ヶ年の間、天下わづかに一統して、朝恩を誇りし月卿雲客、さしたる事もなきに武具を嗜み、弓馬を好みて礼法もなかりしが、かかる不思議の出で来たるべき先表なりと、今こそ思ひ知られたり。新田左兵衛督、同じき一族等三十余人、馬を早め、皆東坂本へ馳せ参る有様、安禄山が潼関〔とうかん〕の軍〔いくさ〕に(官軍忽ちに)打ち負けて、玄宗皇帝蜀の国へ落ちさせ給ひしも、今こそ思ひ知られたれ。
-------

( )が何か所かありますが、これは「底本の脱字・脱文と思われる箇所は、他本を参照して、( )を補して補った」(凡例)ものです。
結局、後醍醐は山崎・大渡の敗北を知って、新田義貞の参上すら待たずに比叡山(東坂本)へ逃げた訳で、名和長年は後醍醐に随行してはいませんね。
では長年は何をやっていたのかというと、その動向は第十八節「長年京に帰る事、并〔ならびに〕内裏炎上の事」に出てきます。(p416以下)

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 長年は、勢多を堅めて居りたりけるが、山崎の陣破れて、主上早や東坂本へ落ちさせ給ひぬと聞こえければ、「ここより直〔すぐ〕に坂本へ馳せ参らんずる事なれども、今一度内裏へ馳せ参らで落ち行かん事、後難あるべしとて、その勢三百余騎にて、十日の暮程に、また京都へぞ帰りける。 今日は悪日とて、将軍未だ都へは入り給はざりけれども、四国、西国の兵ども数万騎打ち入つて、京、白河に充満したれば、帆掛舟の笠符〔かさじるし〕を見て、いかにもして打ち止〔とど〕めんとしけれども、長年懸け破つて通り、打ち破つて出で、十七度までぞ戦ひけるに、三百騎の勢、次第次第に討たれて、百騎ばかりになりにけり。
 されども、長年はつひに討たれざれば、内裏の置石〔すえいし〕の辺にて馬より下り、冑を脱いで南面に跪く。しかれども、主上東坂本へ臨幸なつて数剋の事なれども、「いかに」と問ふ人もなし。四門悉く閉じて、宮殿まさに寂寞たり。早や甲乙人〔こうおつにん〕乱れ入つたりと覚えて、百官の礼儀をととのへし紫宸殿の上には、賢聖の障子引き破られて、雲台の画図ここかしこに乱れたり。佳人晨粧〔しんそう〕を餝〔かざ〕りし弘徽殿の前には、翡翠の御簾半ばより絶えて、微月の銀鉤〔ぎんこう〕空しく懸かれり。
 長年、つくづくとこれを見て、さしも勇める夷心〔えびすごころ〕にも、あはれの色やありけん、涙両眼に余りて、鎧の袖をぞ濡らしける。やや暫く徘徊して居たりけるが、「いざさらば、東坂本へ参らん」とて、陽明門の前より、馬に打ち乗つて打ちけるが、「敵の馬の蹄に懸けさせんよりは」とて、内裏に火懸け、今路越〔いまみちごえ〕に東坂本へぞ参りける。
-------

正月十日、長年は後醍醐が東坂本に落ちたのを聞き、直ちに東坂本へ行こうかと思ったものの、考え直して内裏に向かった訳ですね。
ただ、その時には既に京中は敵兵が充満しており、内裏に向かう行動は極めて危険であって、「十七度までぞ戦ひけるに、三百騎の勢、次第次第に討たれて、百騎ばかりになりにけり」という悲惨な結果になってしまった訳ですが、では何故、長年はこのような危険な行動を取ったのか。
ま、それは次の投稿で考えることとして、少なくとも兵藤裕己校注『太平記(二)』を見る限り、桃崎氏の説明とは異なって、「西源院本では、後醍醐の京都脱出・比叡山入りに、名和長年が随行した場面が描かれる」ことはないようです。

6906鈴木小太郎:2021/05/06(木) 10:05:07
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その8)
西源院本については兵藤裕己校注『太平記(四)』(岩波文庫、2015)の「解説4 『太平記』の本文〔テクスト〕」の説明を紹介済みですが、その際には西源院本と他の諸本との比較を重視し、西源院本そのものの解説部分の引用は僅かでした。

兵藤裕己氏「『太平記』の本文〔テクスト〕」(その1) ~(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10410
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10411
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10412
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10413

若干重複しますが、改めて西源院本とは何かについての兵藤氏の解説を引用すると、

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 西源院本は、京都市右京区の臨済宗寺院、龍安寺の塔頭西源院に伝わった『太平記』の古写本である。はやくから『太平記』の古本として知られたこの本は、元禄二年(一六八九)成立の『参考太平記』の校異に用いられている。
 旧国宝(現在、重要文化財)の西源院本は、昭和四年(一九二九)の龍安寺の火災で焼損しているが(巻三十八-四十は焼失)、幸いなことに、大正八年(一九一九)に東京大学史料編纂所で制作された、きわめて精確な影写本がある。本書岩波文庫本『太平記』では、本文の作成にさいして(本文の作成・校訂の方針については、「凡例」を参照)、龍安寺所蔵本(京都国立博物館寄託)、史料編纂所蔵影写本を用い、また影写本の翻刻である鷲尾順敬校訂『西源院本太平記』(刀江書院、一九三六年)、影写本の影印である黒田彰・岡田美穂編『軍記物語研究叢書』第一-三巻(クレス出版、二〇〇五年)を参照した。
 西源院本『太平記』を最初に本格的に調査した鷲尾順敬によれば、西源院本は応永年間に書写され、現存本の転写が行われたのは、大永・天文年間であるという。
-------

とのことで(p468以下)、鷲尾順敬による考証の過程は煩瑣なので省略しますが、「今日まで大きな異論は出されていない」そうです。
そして、

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 ここでは以下、『太平記』の古本系の諸本である西源院本、神田本、玄玖本(その同系統本の神宮徴古館本)、南都本(同系統本で全巻を完備する簗田本、相承院本)のほか、流布本(江戸時代に版行されて流布した本)、および流布本の前段階の形態を伝える梵舜本、また宝徳本、書陵部本、学習院本、米沢本、毛利家本、今川家本、天正本、京大本等について、いくつかの特徴的な記事(わたくしなりに本文の先後関係を判定しうる記事)の異同を検討しながら、西源院本の位置について述べる。なお、各本の書誌的事項については、本稿末尾の<主要参考文献>にあげた高橋貞一、長坂成行両氏の研究を参照されたい。
-------

ということで(p470)、上記リンク先の(その2)につながって行きます。
ところで私は『太平記』の原文を紹介する際に、リンク先のウィキソースで流布本の『太平記 全』(国民文庫刊行会、1912)をコピーした上、兵藤氏校注の岩波文庫を見ながら修正をかけています。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98

この作業を重ねると、自ずと西源院本と流布本が具体的にどの程度違っているのかを体感することができますが、表記の僅かな違いなどを除くと、文章そのものの異同は意外に少ないですね。
桃崎氏は「軍記物は、写された時代が下るほど多くの改変に晒され、そのたびに内容は史実から遠ざかる。流布本とは、そうした改変のなれの果てであって、原作者が書いた原本からは遠く逸脱している」(『京都を壊した天皇、護った武士』、p179)などと言われますが、そんなことはありません。
桃崎氏は『太平記』の諸本間の異同について、本当に基礎的な部分で誤解されている、というか無知ですね。
そして、桃崎氏は「その西源院本では、後醍醐の京都脱出・比叡山入りに、名和長年が随行した場面が描かれる。【中略】その彼が後醍醐の京都脱出に随行したというのは、流布本にない独自の場面だ」と言われますが、私はまだそのような「流布本にない独自の場面」を見た覚えがありません。
ただ、「名和長年はさっさと逃れる後醍醐の一行に随行してはみた」ことはなくとも、長年が「京都に戻り、一つの仕事を果たしてから後醍醐のもとへ」行ったことは西源院本その他の諸本に描かれており、長年が何のために危険を冒して内裏に行ったのかは問題となります。
この点、桃崎氏は、(その6)で引用した「現代語訳は不要だろう。名和は、内裏に放火したのである。動機は、「敵の馬蹄に蹂躙させて天皇の恥辱となるくらいなら、焼き払って消滅させてしまおう」という理由だった」に続けて、

-------
 これは「自焼〔じやき〕」という、中世の合戦の常套手段だ。拠点を放棄する時に、自ら放火して消滅させる戦術である。目的はいくつかあるが、逃げずに自害する場合は、自害した後の死骸・首を焼くためだ。死んだ確証を敵に与えず不安を煽り、そして首や死骸を無様に晒されて不特定多数から恥辱を受けないためである。撤退して逃げる場合は、逃げた痕跡を見られて嘲笑される恥辱を避けるためと、その拠点を敵に活用させないために自焼する。
 今回の場合は後者だ。逃亡した直後に誰の仕業ともなく拠点が焼けたなら、まず自焼と見るのが中世の常識である(余談だが、京都を焼き尽くした応仁の乱では、実は火災の大部分が敵の放火ではなく自焼によるものだ)。西源院本『太平記』の右の描写は、当時の合戦のあり方に照らして極めて自然であり、史実だった可能性が高い。
-------

と言われます。
「今回の場合は後者だ」とのことですが、後者も「逃げた痕跡を見られて嘲笑される恥辱を避けるため」と、「その拠点を敵に活用させないため」の二つがあるので、そのどちらかが問題となりそうです。
この点、桃崎氏は「恥辱」を重視されるようですが、本当にそうなのか。

6907鈴木小太郎:2021/05/06(木) 11:29:47
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その9)
私自身は、名和長年が内裏とその周辺を焼き払ったのは「その拠点を敵に活用させないため」という純粋に軍事的な理由からだと考えています。
時期は旧暦で正月上旬、極寒の頃ですから、尊氏側の軍勢にとっては、建造物に分宿できれば雨や雪、風を避けられるだけで有難い話です。
また、後醍醐側が大慌てで脱出した後ですから食料や燃料などもそれなりに残っていたはずで、そうした物資を尊氏側にむざむざ引き渡すくらいなら焼いてしまえ、という判断は軍事的には極めて合理的ですね。
『太平記』によれば、宇治方面の防衛を担当した楠木正成も、

-------
敵に心安く陣を取らせじとて、橘の小島、槙島、平等院のあたりを、一宇も残さず焼き払ひける程に、魔風大廈〔たいか〕に吹き懸けて、宇治の平等院の仏閣、宝蔵、忽ちに焼けけるこそあさましけれ。
-------

という具合いに一帯を焼き払った訳で、軍事の専門家にとっては「敵に心安く陣を取らせじとて」という発想は常識的なものだったはずです。
ま、この点は後で改めて検討するとして、桃崎氏の見解をもう少し見て行きます。
小見出しの七番目、「書き換えられた「太平記」と近代の御用歴史学の闇」に入ります。(p181以下)

-------
 では、それを信頼できる記録から裏づけられるか。実は可能だ。先の(4)と(6)に、<後醍醐が比叡山に脱出すると、「即ち」内裏が焼けた>と書いてある。「すなはち」は「即座に」を意味するので、「後醍醐が脱出するや否やすぐに内裏が焼けた」のだ。その脱出と炎上の間の、なきに等しい短時間に、足利軍が割り込んで放火した可能性は、極めて低い。
 何より、(6)の『神皇正統記』には「足利軍が京都に近づいてきたので、後醍醐は比叡山に逃れ、即座に内裏が焼けた」とあって、一連の出来事の間に「足利軍が京都に入った」という記述がない。内裏が焼けた時、足利軍はまだ京都に入っていなかったのである。
-------

「後醍醐が脱出するや否やすぐに内裏が焼けた」の「するや否やすぐに」と、「足利軍が京都に入った」の「入った」には傍点が振ってあります。
桃崎氏は「内裏が焼けた時、足利軍はまだ京都に入っていなかったのである」と言われますが、これは西源院本の記述とは明らかに矛盾しますね。
内裏に向かった名和長年は、

-------
今日は悪日とて、将軍未だ都へは入り給はざりけれども、四国、西国の兵ども数万騎打ち入つて、京、白河に充満したれば、帆掛舟の笠符〔かさじるし〕を見て、いかにもして打ち止〔とど〕めんとしけれども、長年懸け破つて通り、打ち破つて出で、十七度までぞ戦ひけるに、三百騎の勢、次第次第に討たれて、百騎ばかりになりにけり。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10695

という悲惨な事態に陥ってしまった訳ですが、桃崎氏は「四国、西国の兵ども数万騎打ち入つて、京、白河に充満したれば」という状況自体を否定されるのでしょうか。
ま、それはともかく、続きです。

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 問題はその信憑性だが、極めて高い。『神皇正統記』の作者は、この時代を生きた北畠親房だ。そればかりか、彼は後醍醐の側近にして最大のブレインであり、この後、後醍醐の南朝に属して、八面六臂の大活躍をする。彼は、この後醍醐の京都脱出を眼前に見たばかりか、一緒に脱出した当事者であり、超一級の目撃情報にほかならない。
 しかも、周知の通り、『神皇正統記』とは、後醍醐がいかに正しく、足利がいかに間違っているかを、同時代や後世の人々にアピールするために書かれたプロパガンダ歴史書である。彼には、悪い出来事をできるだけ足利のせいにして、後醍醐を正当化したい動機がある。そして、足利の悪事は強調したくてたまらず、隠す動機が何もない。その彼さえもが、「足利軍が京都に近づいた段階で内裏が焼けた」という。信頼すべきである。
-------

「足利軍が京都に近づいた段階で内裏が焼けた」の「近づいた段階で」に傍点が振ってあります。
桃崎氏は北畠親房が「後醍醐の京都脱出を眼前に見たばかりか、一緒に脱出した当事者」だと言われますが、本当にそうなのか。
この点、次の投稿で『神皇正統記』に即して検討してみたいと思います。

6908鈴木小太郎:2021/05/06(木) 13:14:18
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その10)
それでは『神皇正統記』で、中先代の乱後の経過を見て行きます。
引用は岩佐正校注『神皇正統記』(岩波文庫、1975)から行います。(p164以下)

-------
 高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使〔そうついぶし〕を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよし聞えしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏したてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵〔つはもの〕をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子〔ひのえね〕の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代の重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆〔らんげき〕なり。
-------

桃崎氏は『神皇正統記』を、

-------
(6)「朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはちやけ、累代の重宝もおほくうせにけり」(『神皇正統記』)

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10690

と引用されていて、出典は明示されていませんが、ほぼ同文ですね。
さて、今まで『太平記』を紹介してきましたが、『太平記』の日程は例によってかなりいいかげんで、建武三年(1336)正月七日に官軍側が名和長年・楠木正成以下の諸将の配備を決めたという記事も、他の史料と比較するといささか遅すぎます。
『大日本史料』第六編之二の編者(田中義成)は「太平記ニ、官軍ノ部署ヲ定メシヲ七日トスレドモ、是日ニ戦ヲ接スレバ、部署ヲ定メシハ去年ノ末ナルベシ」(p916)としていて、前年末には既に一応の防衛体制はできていたはずだ、というのが田中の判断ですね。
ただ、後醍醐が比叡山東坂本に逃げた日は諸史料が正月十日としていて、これは間違いないようです。
では、この時期、北畠顕家に同行していた親房はどこにいたのか。
これは『神皇正統記』のすぐ後の記述から窺うことができます。(p165以下)

-------
 かゝりしあひだに、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿この乱〔みだれ〕をきゝて、親王をさきに立〔たて〕奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率してせめのぼる。同〔おなじき〕十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大にちからをえて、山門の衆徒とまでも万歳〔ばんぜい〕をよばひき。同十六日より合戦はじまりて三十日つひに朝敵を追落〔おひおと〕す。やがて其夜還幸し給。高氏等猶摂津国〔つのくに〕にありと聞こえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国へなむおちにける。【後略】
-------

ということで、顕家は後醍醐が東坂本に逃れた三日後の正月十三日に近江国まで来て、翌十四日に琵琶湖を渡って東坂本に着いた訳ですね。
そして十六日から戦闘が始まり、三十日に「高氏」らの「朝敵」を京都から追い落としたという日程です。
これを見れば明らかなように、正月十日に後醍醐が比叡山東坂本に移動した時点では親房・顕家父子は近江に入ってすらいません。
従って、北畠親房が「後醍醐の京都脱出を眼前に見たばかりか、一緒に脱出した当事者」ということはありえず、少なくとも「後醍醐の京都脱出」に関しては『神皇正統記』の記述は「超一級の目撃情報」ではないことが明らかです。

6909鈴木小太郎:2021/05/07(金) 08:42:09
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その11)
桃崎著に戻って、続きです。(p182以下)

-------
 失火だった形跡はない。京都が敵に蹂躙される前後の騒然とした状況下であり、西源院本『太平記』に明記されたように、放火と見てよい。その放火が足利軍の仕業であり得ないなら、同じく西源院本『太平記』に明記された通り、後醍醐軍の仕業と見るしかない。
 ならば、はっきりしていることがある。内裏を勝手に焼き払うのは、極刑に値する謀反以外の何ものでもなく、名和であれ誰であれ、独断で行うはずがない。名和から後醍醐に進言したか、後醍醐自身の発案か、いずれにしても後醍醐の許諾を得てから、放火したに決まっている。つまり、富小路殿という内裏を焼き払ったのは、後醍醐の意思である。
-------

西源院本『太平記』には「後醍醐の京都脱出・比叡山入りに、名和長年が随行した場面が描かれ」(p179)ておらず、長年が「後醍醐の京都脱出に随行したというのは、流布本にない(西源院本の)独自の場面」(同)ではないにも関わらず、桃崎氏がそのような誤解をしていることは不可解なミステリーでしたが、ここでやっとその謎が解き明かされていますね。
桃崎氏の頭の中には「内裏を勝手に焼き払うのは、極刑に値する謀反以外の何ものでもなく、名和であれ誰であれ、独断で行うはずがない」という大前提が存在していて、「富小路殿という内裏を焼き払ったのは、後醍醐の意思」であることが「はっきりして」いる以上、「名和から後醍醐に進言したか、後醍醐自身の発案か、いずれにしても後醍醐の許諾を得てから、放火したに決まって」おり、従って論理必然的に長年が「後醍醐の許諾」を得た機会が必要となり、長年は「後醍醐の京都脱出・比叡山入りに」「随行」しなければならない訳ですね。
見事なまでに論理的であり、実に明快であります。
ただまあ、桃崎氏が自己の論理の出発点に置く「内裏を勝手に焼き払うのは、極刑に値する謀反以外の何ものでもなく、名和であれ誰であれ、独断で行うはずがない」という大前提は本当に正しいのか。
少なくとも御所とその周辺を焼き払うという長年の判断は、宇治方面の防衛を担当した楠木正成が「敵に心安く陣を取らせじとて、橘の小島、槙島、平等院のあたりを、一宇も残さず焼き払」った判断と同様に軍事的には極めて合理的です。
そして、長年がこうした決断をした結果、(『梅松論』によれば)糺河原に陣を置かざるを得なくなった尊氏軍は一月末に京都から追い落とされてしまったのですから、長年の判断の正しさは客観的にも裏付けられているように思われます。
「京都が敵に蹂躙される前後の騒然とした状況下」であり、後醍醐はさっさと逃げ出してしまって、その意思を確認しようにもできないのですから、まあ、この程度の判断は長年が「独断」でやっても全然オッケーではないですかね。
さて、続きです。

-------
 北畠親房は、それを知り得る立場にいたはずだ。それなのに、誰が焼いたかを『神皇正統記』に書かなかった。放火が天皇自身の指示だったとい事実をぼかし、後醍醐の名誉を守るための情報操作だろう。それでも彼は、足利軍を放火犯だと名指しで非難するという、史実の歪曲を犯さなかった。そこに、歴史叙述家としての彼の良心のラインがあった。
 後に『太平記』を書き換えた者には、その良心がなかった。名和長年のエピソードはごっそり削られ、放火の罪を足利軍に着せる文章が捏造された。その改竄がいつ行われたかはわからない。ただ、その改竄は、近代日本の言論統制のもとで、後醍醐を聖人、尊氏を悪の権化として描こうと決めた政府(系)機関にとって、大いに役立った。あのレベルの優れた史料集を作った優秀な担当者が、問題の流布本『太平記』の危うさに気づかなかったとは、到底信じられない(何しろ、西源院本もそれらの史料集に載っているのだ)。彼らはその歪曲に気づかぬふりをして、歪曲の再生産とさらなる流布に、手を貸したのだろう。
-------

「政府(系)機関」とありますが、「政府機関」が『後醍醐天皇実録』を編纂した宮内省で、「政府系機関」は『大日本史料』を編纂した東京帝国大学史料編纂所なんでしょうね。
そして、「あのレベルの優れた史料集を作った優秀な担当者」は、『大日本史料』では田中義成となります。
名探偵コナンばりの桃崎少年の名推理では、田中義成も「近代日本の言論統制のもとで、後醍醐を聖人、尊氏を悪の権化として描こうと決めた政府(系)機関」の一員となりますが、視聴者の感想はどうなのか。
また、誰も見たことのない特別な西源院本『太平記』や『神皇正統記』を見ているらしい「歴史叙述家としての」桃崎少年の「良心のライン」はどのあたりにあるのか。

6910鈴木小太郎:2021/05/08(土) 12:18:51 で示したもので、
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その12)
謎に包まれた「黒の組織」によって少年化させられた大学教授探偵・桃崎有一郎氏が高千穂コナンと名乗り、組織の行方を追いながら数々の難事件を解決していく推理漫画『京都を壊した天皇、護った武士』シリーズ、ずいぶん長くなってしまいましたが、そろそろ終わりにしたいと思います。
未検討の論点はいくつかありますが、とりあえず最後に確認しておきたいのは、桃崎少年により「近代日本の言論統制のもとで、後醍醐を聖人、尊氏を悪の権化として描こうと決めた政府(系)機関」である「黒の組織」東京帝国大学史料編纂所の一員として、「問題の流布本『太平記』の危うさに気づ」きながら、「その歪曲に気づかぬふりをして、歪曲の再生産とさらなる流布に、手を貸した」と非難された田中義成(1860-1919)の極悪非道な所業が具体的にいかなるものであったか、という点ですね。
これを「明治三十四年十月四日印刷」「明治三十四年十月五日発行」の「編纂兼発行者」東京帝国大学、「印刷者」印刷局、「発売所(いろは順)」吉川半七・大日本図書株式会社・合資会社富山房の『大日本史料』第六編之二、延元元年正月十日条に即して見て行きます。
なお、後醍醐が「建武」を「延元」に改元したのは建武三年(1336)二月二十九日なので、「延元元年正月十日」は変といえば変なのですが、年度の途中で表記を変えるのは面倒、といった編集上の都合によるのだと思います。
さて、同日条を見ると、最初の「綱文」に、

十日、<丁巳>、脇屋義助等、山崎ヲ守ル、細川定禅等、攻メテ之ヲ破リ、長駆シテ入京ス、

とあって(p951)、『梅松論』・「三刀屋文書」・『太平記』が引用されています。
ついで二番目の「綱文」に、

天皇神器ヲ奉ジテ、東坂本ニ幸シ、大宮彼岸所ヲ行在ト為シ給フ、凶徒火ヲ縦チテ宮闕ヲ焚ク、

とあって(p956)、問題の「凶徒」という表現が出てきます。
そして『神皇正統記』・『梅松論』に続いて「三刀屋文書」以下の十八の史料が引用された後、『太平記』が三つの部分に分けて引用されますが、その二番目に名和長年関係の記事があります。(p964以下)
以下、カタカナは読みづらいので平仮名に替えるなど、ほんの少しだけ読みやすくして引用します。
文中、<〇……>とあるのは小さい字で二行に書かれている部分を便宜上

6911鈴木小太郎:2021/05/10(月) 12:48:57
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その13)
そろそろ終わりにすると書いたばかりですが、「第十章 後醍醐の内裏放火と近代史学の闇─足利氏の冤罪を晴らす」はもう少しだけ残っているので、ついでに紹介しておきます。
小見出しの八番目、「三種の神器も偽物だらけに」に入ります。(p183以下)

-------
 幕府が苦労して献上した根本内裏は、またしても天皇の都合で焼かれた。尊氏軍は京都で後醍醐軍の迎撃に敗れ、瀬戸内海を横断して九州まで落ち延びた。後醍醐は比叡山を下り、廷臣の花山院家定の邸宅「花山院〔かざんのいん〕」を仮皇居とした(『元弘日記并裏書』建武三年二月一三日条、『続史愚抄』同年二月五日条)。花山院は、一条家の邸宅「一条室町殿」と並んで、洛中で「礼儀(古式の正式な儀礼)」が行える、ただ二つの邸宅の一つだった(『園太暦』文和四年二月一三日条)。後醍醐は直後に延元元年と改元したが、足利勢力は「建武」年号を使い続けた。
 尊氏は九州で態勢を立て直して京都を目指し、摂津国の湊川の合戦で楠木正成を敗死させた。これで後醍醐勢力から強い指揮官が消え、尊氏軍は京都を奪還する。後醍醐は再び比叡山に逃れたが、五ヶ月ほど睨み合った末、建武三年(一三三六)一〇月に気力が尽きて投降した。後醍醐は花山院に幽閉され、三種の神器は没収されて光明天皇に渡された。
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いったん、ここで切ります。
「これで後醍醐勢力から強い指揮官が消え」とありますが、『太平記』第十四巻第二十節「親光討死」によれば、建武三年一月十日に後醍醐が比叡山に逃げた翌十一日、親光はわざと都にとどまって「或る禅僧を縁に取つて、降参の由を申したりければ」、尊氏は「親光が所存は、誠の降参の志はよもあらじ。尊氏をたばからんためにぞあるらん。さりながらも、事の体〔てい〕を聞け」ということで、竹之下合戦で寝返ったばかりの大友貞戴を派遣したところ、「大友は、元来〔もとより〕少し思慮なき者なりければ」親光に物の具を脱げと荒く言葉をかけたので、親光は「さては将軍、早やわが心中を推量あつて、討てとの使ひに大友を出だされたりと心得て」貞戴に斬り懸かり、貞戴は殺したものの「大友が若党三百余騎、親光が手の者十七騎を、中に取り籠めて討ちにけり」(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p42)という結末になったのだそうです。
ま、どこまで事実かは分かりませんが、騙し合いがつきものの戦場の様子を伝えるエピソードとしてはなかなか印象深いですね。
そして、五月二十五日、湊川の合戦で楠木正成が自害、六月七日、尊氏の山門攻めで千種忠顕が討死、六月三十日、京中合戦で名和長年が討死となって、結局、建武三年の前半に「三木一草」が全員死んでしまうことになります。

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 光明天皇は、光厳上皇の弟である。足利勢力は光厳上皇に連絡を取って、「後醍醐勢力を倒せ」という院宣(上皇の命令書)を入手していた。光厳上皇の院政が始まったことにしたのであり、これが北朝の始動である。院政には形式的に天皇が必要なので、光明が擁立された。践祚した時は神器がなかったが、この時に獲得して正真正銘の天皇になった。
 後醍醐はこれを、独善に満ちた詐欺で乗り切ろうとした。二ヶ月後、幽閉所を脱出して吉野に逃れると、「光明に渡した神器は偽物だ。本物は朕の手もとにある」と主張し、なお自分が正統な天皇だと主張したのである(『園太暦』正平六年一二月二二日条)。
 しかし、これはおかしい。というのも、実は後醍醐は、足利軍に投降する直前、息子の皇太子恒良親王に譲位し、ほぼ間違いなく三種の神器を授けて、新田義貞に預けて落ち延びさせていたからだ(『南北朝遺文東北編』二五五)。以後、恒良と後醍醐は合流していない。それなのに「後醍醐の手もとに本物の神器がある」というなら、恒良に渡したものは偽物だということになる。ただ、渡した動機は、もはや避けられない足利軍への投降を前に、本物の神器だけは奪われないための措置に違いなく、その必死度から見て本物だった可能性が高い。
 偽物を「本物」だといって恒良に渡した可能性もゼロではないが、いずれにせよ、確かなことがある。後醍醐は恒良をペテンにかけ、切り捨てたのだ(譲位さえ、なかったことにした)。息子に対してさえ、これである。後深草系の光厳・光明や社会に対してペテンを仕掛けるのは朝飯前だった。こうした詐謀を繰り返した結果、当然の結末が待っていた。何が本物の三種の神器か、誰にもわからなくなってしまったのだ。
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「光厳上皇の院政が始まったことにしたのであり」の「ことにした」、「息子の皇太子恒良親王に譲位し、ほぼ間違いなく三種の神器を授けて」の「三種の神器を授けて」には傍点が振ってあります。
さて、恒良親王に渡った三種の神器に関する『太平記』の叙述はなかなか興味深くて、第十七巻第十三節「堀口還幸を押し留むる事」で、還幸に激怒した堀口貞満が義貞に代わって後醍醐に不平不満をまくしたてると、第十四節「儲君を立て義貞に付けらるる事」で、後醍醐は次のように弁明します。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p178以下)

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 主上、例より殊に玉顔を和らげさせ給ひ、義貞、義助を御前近く召し、御涙を浮かべて仰せられけるは、「貞満が朕を恨み申す処、一儀その謂はれあるに似たりと云へども、なお遠慮の足らざるに当たれり。尊氏、超涯の皇沢に誇つて、朝家を傾けんとせし刻〔きざみ〕、義貞もその一家なれば、定めて逆党にぞ与せんずらんと覚えしに、氏族を離れて、志〔こころざし〕を義にして傾廃を助け、命を天に懸けしかば、叡感更に浅からず。ただ汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思し召しつるに、天運時未だ到らずして、兵疲れ、勢ひ廃〔すた〕れぬれば、尊氏に一旦の和睦の儀を謀つて、且〔しばら〕く時を待たんために、還幸の由をば仰せ出ださるるなり。この事、かねても知らせたくはありつれども、事遠聞〔えんぶん〕に達せば、却つて難儀の事もありぬべければ、期〔ご〕に臨んでこそ仰せられめと打ち置きつるを、貞満が恨み申すに付いて、朕が誤りを知れり。越前国へは、河島維頼を先立つて下されつれば、国の事定めて子細あらじと覚ゆる上、気比〔けひ〕の社の神官等、敦賀の津に城を拵へて、御方を仕る由聞こゆれば、先づかしこへ下つて、暫く兵の機を助け、北国を打ち随へ、重ねて大軍を起こして、天下の藩屏となるべし。但し、朕京都へ還幸ならば、義貞却つて朝敵の名を得つと覚ゆる間、東宮に天子の位を授け、同じく北国へ下し奉るべし。天下の事、大小となく義貞が成敗として、朕に替はらず、この君を取り立てまゐらすべし。朕すでに、汝がために勾践が恥を忘る。汝早く、朕がために范蠡が謀〔はかりごと〕を廻らせ」と、御涙を押さへて仰せらければ、さしも怒れる貞満も、理〔ことわ〕りを知らぬ夷どもも、首を低〔た〕れ、涙を流して、皆鎧の袖をぞ濡らしける。
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「尊氏に一旦の和睦の儀を謀つて、且く時を待たんために、還幸の由をば仰せ出ださるるなり」ということで、後醍醐は最初から尊氏を騙す気でいた、というのが『太平記』の立場です。
また、「東宮に天子の位を授け、同じく北国へ下し奉るべし。天下の事、大小となく義貞が成敗として、朕に替はらず、この君を取り立てまゐらすべし」ということで、東宮(恒良親王)への譲位は後醍醐の真意だ、というのが、少なくともこの場面では『太平記』の立場ですね。
これは次の第十五節「鬼切日吉に進せらるる事」の冒頭、「九日は、事騒がしき受禅の儀、還幸の粧ひに日暮れぬ」という表現でも明らかです。
では、この「事騒がしき受禅の儀」で恒良親王に渡った三種の神器はこの後、どうなるのか。

6912鈴木小太郎:2021/05/12(水) 09:34:25
「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その1)
後醍醐があちこちにバラまいたらしい「三種の神器」の問題、現代の歴史研究者が扱うには些かキワモノ的な感もあり、あまり真面目に論じられていないようですが、関連する『太平記』の記述には興味深い点もあるので、少し丁寧に検討してみたいと思います。
桃崎氏は後醍醐が恒良親王に「三種の神器」を渡したことを前提に、「渡した動機は、もはや避けられない足利軍への投降を前に、本物の神器だけは奪われないための措置に違いなく、その必死度から見て本物だった可能性が高い」と言われますが、その前提も本当に正しいのか、疑問の余地は十分にあります。
そこで、先ずは前回投稿で引用した『太平記』第十七巻第十四節「儲君を立て義貞に付けらるる事」の後醍醐の弁明を少し遡って、後醍醐が還幸を決意した経緯を見ておきます。
第十二節「山門より還幸の事」より引用します。(兵藤裕己『太平記(三)』、p173以下)

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 かかる処に、将軍より、内々主上へ使者を進〔まいら〕せて申されけるは、「去年の冬、讒臣〔ざんしん〕の申すによつて、勅勘を蒙り候ひし時、身を法体〔ほったい〕に替へて、罪なき様を申さんと存じ候ふ処に、義貞以下の輩〔ともがら〕、事を逆鱗に寄せて、日来〔ひごろ〕の鬱憤を散ぜんと仕り候ひし間、止む事を得ずして、この乱、天下に及び候ふ。これ全く、君に向かひ奉つて反逆を企てんとには候はず。ただ義貞が一類を亡ぼして、向後〔きょうこう〕の讒臣を懲〔こ〕らさんと存ずるばかりにて候ふなり。もし天鑑〔てんかん〕誠を照らされば、臣が讒に陥〔お〕ちし罪を、あはれと思し召めて、龍駕〔りょうが〕を九重〔ここのえ〕の月に廻らされ、鳳暦〔ほうれき〕を万歳〔ばんぜい〕の春に複〔かえ〕され候へ。供奉〔ぐぶ〕の諸卿、并〔なら〕びに降参の輩に至つては、罪科の軽重を云はず、悉く本官、所領に複〔かえ〕さしめて、天下の成敗を公家に任せまゐらすべし。且〔かつう〕は申し入るる条、一々に御不審を散ぜられんために、一紙〔いっし〕別にこれを進覧仕り候ふなり」とて、大師勧請の起請文を添へて、浄土寺の忠円僧正の方へぞ進〔まいら〕せられける。
 主上、これを叡覧あつて、告文〔こうぶん〕を進する上は偽りてはよも申さじと思し召しければ、傍〔かた〕への元老智臣にも仰せ合はせられず、やがて還幸なるべき由、仰せ出だされけり。将軍、勅答の趣〔おもむき〕を聞き給ひて、「叡智浅からずと申せども、謀〔はか〕るも安かりけり」と悦〔よろこ〕びて、さもありぬべき大名どものもとへ、縁に触れ、趣を伺うて、ひそかに状を通じてぞ語らはれける。
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ということで、尊氏は、自分は「讒臣」の新田義貞と争っていただけで後醍醐に反逆する意図は全くなかったので、誤解を解かれて京にお戻りください、その際には、供奉の諸卿や降参した人々は、罪科の軽重を問わず、全て元の官に復し、所領も元通り安堵して、「天下の成敗」は「公家」にお任せします、と提案しただけでなく、疑いを散ずるために「大師勧請の起請文」も添えたのだそうです。
ただ、後醍醐の苦境を見透かしていた尊氏は、最初から後醍醐や「公家」の面々を騙すつもりでいた、というのが『太平記』の立場ですね。
そして、後醍醐の説得に成功した尊氏は「叡智浅からずなどというけれども、騙すのは簡単だな」と笑った、ということで、『太平記』では尊氏は大変な陰謀家・詐欺師として描かれています。
この後、後醍醐も負けず劣らずの陰謀家・詐欺師であることが描かれて、結局、極悪非道の二人に挟まれた新田義貞だけが清く正しく美しい忠臣だ、というのが『太平記』の基本的な構図ですね。
ついで第十三節「堀口還幸を押し留むる事」に入って、洞院実世から後醍醐が還幸の準備をしていると聞いた堀口貞満が後醍醐の許に向かったところ、

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臨幸はただ今の程と見えて、供奉の月卿雲客、衣冠を帯せるもあり、未だ戎衣〔じゅうい〕なるもあり。鳳輦〔ほうれん〕を大床〔おおゆか〕に差し寄せて、新典侍〔しんないしのすけ〕、内侍所〔ないしどころ〕の櫃〔ひつ〕を取り出だし奉れば、頭弁〔とうのべん〕範国、剣璽の役に随つて、御簾〔みす〕の前に跪く。
-------

という状況だったのだそうです。(p176)
ここで後の展開との関係で重要なのは、「三種の神器」を移動させるにはそれなりに人員が必要だということです。
特に「内侍所」、即ち八咫鏡の管理には「新典侍」のような女官も必要となりますが、金崎城に向かった恒良親王はそのような人員を確保することができたのか。

6913鈴木小太郎:2021/05/12(水) 11:35:59
「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その2)
『太平記』が描く足利・新田の対立の構図は、最近の谷口雄太氏の「『太平記』史観」に関する議論に照らすと面白い部分がありますが、深入りは避けます。
ただ、堀口貞満の涙の訴えに対する後醍醐の弁明の中に「義貞もその一家なれば」という表現があることは留意しておきたいと思います。

『古典の未来学』を読んでみた。(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10488
【中略】
『古典の未来学』を読んでみた。(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10492

さて、歴代天皇の中でも陰謀家・詐欺師としての才能においては傑出していた後醍醐の弁明の中身を確認すると、

(1)「貞満が朕を恨み申す」内容は、一応の理由があるように見えるけれども、なお、深い配慮に欠ける。
(2)尊氏が「超涯の皇沢」を蒙ったにも拘らず、それに驕り高ぶって「朝家を傾けん」としようとした時、「義貞もその一家なれば、定めて逆党にぞ与せんずらんと覚えしに、氏族を離れて、志を義にして傾廃を助け、命を天に懸け」たことは深く感謝する。
(3)朕も「汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治め」ようと思っていたが、「天運時未だ到らずして、兵疲れ、勢ひ廃れ」という状況になったので、「尊氏に一旦の和睦の儀を謀つて、且く時を待たんために」還幸することにしたのだ。
(4)このような朕の意図を義貞にも伝えたかったけれども、この意図がどこかに漏れるようなことがあれば「却つて難儀の事もありぬべければ」、良い機会を待って伝えようと思っていた。しかし、「貞満が恨み申す」のを聞いて、朕も自分の誤りに気付いた。
(5)ところで、「越前国へは、河島維頼を先立つて下」したところ、「国の事定めて子細あらじと」思われる上、「気比の社の神官等、敦賀の津に城を拵へて、御方を仕る」とのことなので、「先づかしこへ下つて、暫く兵の機を助け、北国を打ち随へ、重ねて大軍を起こして、天下の藩屏となるべし」。
(6)但し、朕が「京都へ還幸」したら、「義貞却つて朝敵の名を得つと」思われるので、「東宮に天子の位を授け、同じく北国へ下」すこととした。「天下の事、大小となく義貞が成敗として、朕に替はらず、この君を取り立てまゐらすべし」。
(7)「朕すでに、汝がために勾践が恥を忘る。汝早く、朕がために范蠡が謀を廻らせ」。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10701

ということで、史実をどこまで反映しているかは分かりませんが、なかなか上手いことを言うものですね。
後醍醐がこのように「御涙を押さへて仰せ」られたので、「さしも怒れる貞満も、理りを知らぬ夷どもも、首を低れ、涙を流して、皆鎧の袖をぞ濡らしける」となり、後醍醐は何とか一触即発の危機を脱したことになります。
そして、既に紹介済みのように、第十五節「鬼切日吉に進せらるる事」に入って、「九日は、事騒がしき受禅の儀、還幸の粧ひに日暮れぬ」と続きます。
普通に考えれば、この「事騒がしき受禅の儀」で恒良親王に「三種の神器」が渡ったことになりそうですが、この後、『太平記』では恒良の周辺に「三種の神器」が登場しません。
第十六節「義貞北国落ちの事」に入ると、その冒頭に、

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 明くれば、十月十日の巳刻に、主上は腰輿に召して、今路を西に還幸なれば、東宮は龍蹄に召されて、戸津を北へ行啓なる。
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とあって(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p182)、「主上」は「還幸」し、「東宮」は「行啓」ですから、後醍醐は「主上」のまま、恒良は「東宮」のままですね。
ついで第十七節「還幸供奉の人々禁獄せらるる事」の冒頭には、

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 還幸すでに法勝寺辺に近づきければ、左馬頭直義、五百余騎にて参向し、先づ三種の神器を当今〔とうぎん〕の御方へ渡さるべき由申されければ、主上、かねてより御用意ありけるにや、似物〔にせもの〕を内侍〔ないし〕の方へぞ渡されける。
 その後、主上をば、花山院〔かさんのいん〕へ入れまゐらせて、四門を閉ぢて警固を居ゑ、降参の武士どもをば大名どもの方へ一人づつ預けて、召人〔めしうど〕の体〔てい〕にてぞ置かれける。かかるべしとだに知りたらば、義貞朝臣ともろともに北国〔ほっこく〕へ落ちて、ともかくもなるべかりけるものをと、後悔すれども甲斐ぞなき。
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とあって(p185)、「主上」の後醍醐は直義の要請に従って「似物」(偽物)の「三種の神器」を「当今の御方」、即ちこの年、建武三年(1336)八月十五日に践祚した光明天皇に渡した、というのが『太平記』の立場ですね。
なお、「かねてより御用意ありけるにや」という表現は、『太平記』の作者も、そんなものを準備する時間があったのかな、と疑っている、あるいは後醍醐をからかっているようにも見えます。
また、後醍醐が「似物」を内侍(後宮の内侍司の女官)に渡したということで、「三種の神器」、特に「内侍所」(八咫鏡)の管理には女官が必要なことが改めて確認できます。

6914鈴木小太郎:2021/05/13(木) 10:59:31
「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その3)
後醍醐の比叡山からの還幸について、『太平記』第十七巻第十七節「還幸供奉の人々禁獄せらるる事」には、最初から後醍醐を騙すつもりだった尊氏が後醍醐を花山院に監禁し、後醍醐に供奉した人々を厳しく処分したと書いていますが、史実はかなり異なるようです。
「三種の神器」が光明天皇側に渡った時期も、『太平記』では建武三年(1336)十月十日の還幸直後ですが、実際には十一月二日に渡御の儀式が行われ、同日、後醍醐には「太上天皇」の尊号が贈られていますね。
そして、何より十一月十四日には後醍醐皇子の成良親王が光明天皇の皇太子とされ、尊氏は鎌倉時代の慣習通り両統迭立の方針を採ることを明らかにしています。
これは次の「治天の君」を後醍醐にすると表明した訳でもあり、軍事的敗北の結果、京都に戻ることになった後醍醐にはこれ以上考えられない優遇策ですね。

「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10143
帰京後の成良親王
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10523

この経緯を見ると、尊氏は後醍醐還幸の条件として成良親王立太子を提案し、後醍醐もそれに納得して京都に戻ったのではないか、と考えてもよさそうです。
しかし、後醍醐は翌十二月二十一日、京都を脱出して吉野に行ってしまいます。
尊氏から見れば、自分は講和条件を誠実に遵守したのに、やっぱりイヤだ、と京都を飛び出した後醍醐は本当に我儘な人だなあ、という感じではなかろうかと思います。
ま、いずれにせよ、『太平記』の記述は例によって史実とは大幅に異なっていますが、一つ一つその違いを確認して行くと話が複雑になるので、まずは『太平記』に描かれた恒良親王の動向、そして「三種の神器」の行方を追って行くこととし、史実との乖離は後で纏めて整理することにします。
さて、後醍醐の譲位を受けて今上天皇となったはずの恒良親王は新田義貞とともに越前に向かいますが、その道中は過酷です。
第十八節「北国下向勢凍死〔こごえじに〕の事」の冒頭を引用します。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p188以下)

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 同じき十一日は、義貞朝臣、七千余騎にて、塩津、海津に着き給ふ。七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経、大勢にて差し塞〔ふさ〕ぎたりと聞こえしかば、これより路を替へて、木目巓〔きのめとうげ〕をぞ越え給ひける。
 北国〔ほっこく〕の習ひ、十月の初めより、高き峰々に雪降りて、麓の時雨〔しぐれ〕止む時なし。今年は例よりも陰寒〔いんかん〕烈しくして、風交〔かぜまじ〕りに降る山路の雪、甲冑に洒〔そそ〕ぎ、鎧の袖を翻して、面〔おもて〕を打つこと烈〔はげ〕しかりければ、士卒、寒谷〔かんこく〕に道を失ひ、暮山〔ぼさん〕に宿なくして、木の下、岩の陰に縮〔しじ〕まり臥す。
 たまたま火を求めたる人は、弓矢を折つて薪〔たきぎ〕とし、未だ友を離れざる者は、互ひに抱き付いて身を暖む。元来〔もとより〕、薄衣〔はくえ〕なる人、飼ふことなき馬ども、ここかしこに凍え死んで、行人〔こうにん〕道を去りあへず。かの叫喚、大叫喚の声耳に満ち、紅蓮、大紅蓮の苦み眼〔まなこ〕に遮る。今だにかくある、後の世を思ひ遣るこそ悲しけれ。知らぬ前の世までも、思ひ残す事はなし。【後略】
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ということで、一行からはぐれて殺されたり、千葉貞胤のように斯波高経に降伏する者も出てきます。
そして一行は十三日に「敦賀の津」に到着し、「東宮、一宮、惣大将父子兄弟を、先づ金崎の城へ入れ奉り、自余の軍勢をば、津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く」(p190)ことになります。
「東宮」は恒良親王、「一宮」は尊良親王ですね。
ついで、

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ここに一日逗留あつて後、この勢、一処につまり居ては叶ふまじとて、大将を国々の城へぞ分かたれつる。大将義貞は、東宮、一宮に付きまゐらせて、金崎の城に留まり、子息越後守義顕は、北国勢三千余騎を添へて、越後国へ下さる。脇屋右衛門佐義助は、千余騎を添経て、瓜生が杣山の城へ遣はさる。皆これは、国々の勢を相付けて、金崎の後攻めをせよとのためなり。
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という展開となりますが、ここまで「三種の神器」は一切登場しません。
なお、新田義貞の越前落ちのルートはリンク先サイトの説明が分かりやすいですね。

「幻の北陸朝廷 南北朝争乱 新田義貞の野望」
http://historia.justhpbs.jp/hokuriku1.html

6915鈴木小太郎:2021/05/13(木) 12:46:41
「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その4)
第二十節「義鑑房義治を隠す事」に「三種の神器」についての興味深い記述がありますが、その前提として第十九節「瓜生判官心替はりの事」を見ておきます。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p191以下)

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 同じき十四日、義助、義顕三千余騎にて、敦賀の津を立つて、先づ杣山〔そまやま〕へ打ち越え給ふ。瓜生判官保〔たもつ〕、舎弟兵庫助重〔しげし〕、弾正左衛門照〔てらす〕兄弟三人、種々の酒肴を舁〔か〕かせて、鯖並〔さばなみ〕の宿へ参向す。この外〔ほか〕、人夫五、六百人に兵粮を持たせて、諸軍勢に下行〔げぎょう〕し、これを一大事と取り沙汰したる様〔さま〕、誠に他事〔たじ〕もなげに見えければ、大将も士卒も、皆憑〔たの〕もしき思ひをなし給ふ。
【中略】
 かかる処に、足利尾張守の方より、ひそかに使ひを遣はし、先帝よりなされたりとて、義貞が一類追罰すべき由の綸旨をぞ送られける。瓜生判官、これを見て、元来〔もとより〕遠慮なかりし者なれば、将軍より欺〔たばか〕つて申し成されたる綸旨とは、思ひも寄らず、さては、勅勘武敵の人々を許容して、大軍を動かさん事、天の恐れあるべしと、忽ちに心を変じて、杣山の城へ取り上がり、木戸を閉ぢてぞ居たりける。
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ということで、脇屋義助・新田義顕一行は杣山城主・瓜生保にいったんは歓迎されたものの、「足利尾張守」(斯波高経)が「先帝」(後醍醐)から「義貞が一類追罰すべき由の綸旨」が送られてきたと言ってきたので、瓜生保は「将軍(尊氏)より欺つて申し成されたる綸旨とは、思ひも寄らず」、義助・義顕一行に敵対する姿勢を示します。
ここで面白いのは後醍醐が「先帝」と表記されている点と、尊氏が綸旨の偽造を平気でやる人間として描かれている点ですね。
これは『太平記』第十四巻第八節「箱根軍の事」で、尊氏を戦場に引っ張り出すために上杉重能が主導して綸旨を偽造したエピソードを連想させますが、『太平記』では尊氏・直義兄弟は二人とも、綸旨の偽造などへっちゃらだ、という人間として描かれている訳ですね。
また、『太平記』第九巻第一節「足利殿上洛の事」は直義が『太平記』に最初に登場する場面ですが、ここで直義は、独自の屁理屈を展開して、起請文など偽りの内容であろうと適当に書けば良いのだ、と主張するドライな感覚の持ち主として描かれており、尊氏もそれに「至極の道理」だとすぐに納得してしまう人物として描かれています。
『太平記』が足利家の「正史」だとする兵藤裕己氏あたりは、こうした叙述をどのように考えておられるのか、あるいは何も考えておられないのか、少し気になります。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10429
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10430

ま、それはともかく、第?十節「義鑑坊義治を隠す事」に入ると、

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 ここに、判官が弟に義鑑房と云ふ禅僧のありけるが、鯖並の宿へ参じて申けるは、「兄にて候ふ保、愚痴なる者にて候ふ間、将軍より押さへて申し成されて候ふ綸旨を、誠〔まこと〕と存じて、忽ちに違反〔いへん〕の志を挟み候ふ。義鑑、弓矢を取る身にて候はば、差し違へてともに死すべく候へども、僧体に恥ぢ、仏見〔ぶっけん〕に憚つて、黙〔もだ〕し候ふ事こそ口惜しく覚へ候へ。
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ということで、瓜生保の弟の「義鑑房」が「愚痴」の兄を非難し、新田方の味方をしたいと言ってきます。
ここでも「将軍より押さへて申し成されて候ふ綸旨」ということで、綸旨偽造ではないものの、尊氏は後醍醐に無理強いして綸旨を書かせる人物として描かれています。
さて、「涙をはらはらとこぼし」つつ語る「義鑑坊」に対し、「両大将、これが気色〔けしき〕を見給ひて、偽りてはよも申さじと、疑ひの心をなし給はず」、次のように述べます。(p194以下)

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 則ち席を近づけて、ひそかに仰せられけるは、「主上、坂本を御出ありし時、「尊氏もし誤〔あやま〕ちて申す事あらば、休む事を得ずして、義貞追罰の綸旨を成すぞと覚ゆるぞ。汝〔なんじ〕、仮にも朝敵の名を取りぬる事、しかるべからず。されば、東宮に位〔くらい〕譲り奉つて、万乗の政〔まつりごと〕を任せまゐらすべし。義貞、股肱の臣として、王業再び本〔もと〕に帰する大功を致せ」と仰せ下されて、三種の神器を東宮に渡しまゐらせし上は、たとひ先帝の綸旨とて、尊氏申しなされたりとも、委細の旨を存知せずとも思慮ある人は、用ゐるに足らぬ所なりと思ふべし。しかるに、判官この是非に迷へる上は、重ねて子細を尽くすに及ばず。急ぎ兵を引いて、また金崎へ打ち帰るべし。事すでに難儀に及ぶ時分、一人〔いちにん〕兄弟の儀を変じ、忠義を顕さるる条、あり難くこそ覚えて候へ。心中尤〔もっと〕も憑〔たの〕もしく覚ゆれば、幼稚の息男〔そくなん〕義治をば、僧に預け申し候ふべし。かれが生涯の様〔よう〕、ともかくも御計らひ候へ」と宣〔のたま〕て、脇屋右衛門佐殿の子息式部大夫義治とて、今年十三になり給ひけるを、義鑑坊にぞ預けられける。
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少し長くなったので、解説は次の投稿で行います。

6916鈴木小太郎:2021/05/15(土) 10:15:08
「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その5)
何だかもったいぶった書き方をしていますが、私の結論は既に出ていて、ツイッターの方では少し書いています。
『太平記』では建武三年(1336)十月十日、後醍醐還幸を待ち構えていた直義が直ちに三種の神器を光明天皇側に渡すように要請し、後醍醐もそれに従った、と書かれていますが、実際には翌十一月二日、後醍醐が滞在していた花山院から光明天皇の東寺仮皇居へ剣璽内侍所等の引き渡しの儀式が行われており、この時に光明天皇側で「本物」かどうかのチェックが入っているはずです。
よほど精巧な「似物」(偽物)でない限り、容器に入っていても重さやバランスで違いは判るのであって、かつて「本物」を扱った経験があり、後醍醐に全く好意的でない公卿や女官たちがその場で抗議しなかったのですから、「本物」はこの日に光明天皇側に渡ったと考えるべきですね。
また、なまじ新造するより精巧な「似物」を作る方が技術的には遥かに困難であって、軍事情勢の急変で比叡山に逃れていた後醍醐に、恒良親王用と光明天皇用の二セットの「似物」を作る職人を手配する時間的余裕があったのか、といった素朴な疑問も生じます。
客観的な情勢と万事に自分勝手な後醍醐の性格、そして陰謀家・詐欺師としての後醍醐の傑出した才能を考えれば、三種の神器の「似物」など最初から存在しておらず、後醍醐が口先三寸でその存在を演出しただけ、という結論になりますね。
恒良親王、というか新田義貞に対しては、越前への道中は危険に満ちていて三種の神器が損傷したら大変なことだから当面は自分が預かる、自分だって隠岐に行っていたときは三種の神器は伴っていなかったけれども天皇であったことは間違いないのだから、三種の神器の所持と天皇の地位は別なのだ、お前が恒良と一緒に京都に戻ってきたら恒良に引き渡すよ、てなことを言って、納得させたのだと思います。
この点、桃崎有一郎氏は「後醍醐は恒良をペテンにかけ、切り捨てたのだ」と言われますが、義貞が北陸で頑張って再び京都に攻め寄せてくれるような未来も充分あり得た訳で、後醍醐は恒良と義貞を「ペテン」にかけたのではなく、「保険」をかけただけだと思います。
後醍醐は、尊氏が成良親王を光明天皇の皇太子とし、自分を将来は「治天の君」とすると約束したので、一応、その約束を信じて京都に戻ることにしたのだと思いますが、しかし、事態がどう展開するか誰にも分かりません。
そこで後醍醐としては、義貞に対しては、「ただ汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思し召しつるに、天運時未だ到らずして、兵疲れ、勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦の和睦の儀を謀つて、且く時を待たんために、還幸の由をば仰せ出ださるるなり」、即ち、自分が京都に戻るのはあくまで当座の策であり、全く本意ではない、お前が頑張って京都に戻ってくれることを心から願っている、その時は預かっていた三種の神器を恒良に渡すぞ、武運を祈る、てなことを情熱的に語ったのだと思います。
仮に義貞が本当に北陸で巻き返して京都から尊氏を放逐してくれたら、おそらく後醍醐は、比叡山で皇位を譲った時点を起点として恒良がずっと今上天皇であり、自分は「治天の君」であったと主張することになったはずで、義貞に希望を持たせた形の説得は、独善的ではあっても、別に「ペテン」ではありません。
未来は誰にも分からないのだから、後醍醐が「保険」をかけようとすること自体はおかしくはないですね。
まあ、普通の天皇にはそんな発想は浮かばないでしょうし、浮かんでも実行はしないでしょうが、そこは後醍醐の個性です。
そして、京都に戻って二ヶ月ちょっと経過した後、尊氏は一応約束は守ったけれどもこんな境遇はどうにも窮屈でイヤだ、ということで、後醍醐は義貞の書き返しを待つこともなく、サッサと京都を抜け出した訳ですね。
あるいはこの時、『太平記』に書かれているように「三種の神器」らしきものを用意する、といった小芝居をしたのかもしれませんが、これは十一月二日の光明天皇への引き渡しとは異なり、誰も「本物」かどうかをチェックしていないのですから、適当に何かの容器さえ運んでおけば小芝居は成立します。
そして吉野へ行ってから、たっぷり時間をかけて、それなりの自称「本物」の三種の神器を新造した、ということだろうと思います。
ま、私は後醍醐天皇作『「三種の神器」物語』はこんなものではなかろうかと推測しますが、この原作を元に、『太平記』の作者がどのような脚本を書き、演出したかは別問題です。
『太平記』とは何かを考える上で、『「三種の神器」物語』とそれに続く恒良親王・成良親王の物語は相当に興味深い素材ですが、研究者はあまり議論していないので、『太平記』の原文に即して、もう少し考えて行きたいと思います。

6917鈴木小太郎:2021/05/16(日) 16:40:35
『増鏡』の「璽の箱を御身にそへられたれば」との関係
昨日の投稿にツイッターで若干の意見を頂いたので、少し補足しておきます。
まず、三種の神器の「本物」についてですが、私は鎌倉末期に後醍醐や光厳・光明の周辺の公家社会の人々が「本物」と認識していた物体を前提に議論しています。
平安時代以降、大内裏と複数の里内裏で何度も火災が発生しており、古代から伝わった三種の神器は相当に痛んでしまっていて、あるいはその同一性が失われていた可能性も大きいようですね。
火災によるレガリア損傷の具体的な状況は大村拓生氏の「一〇~一三世紀における火災と公家社会」(『日本史研究』第412号、1996)に詳しく説明されていますが、後醍醐が本当に「似物」を用意したのであれば、損傷の程度がひどければひどいほど、「似物」を作るのもけっこう大変な作業になったはずです。

http://web.archive.org/web/20150114020621/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/omura-takuo-kasaitokugeshakai.htm

次に、私は恒良親王への「受禅の儀」はあったが、後醍醐は三種の神器は渡さなかった、という立場です。
そして、三種の神器を渡さない理由の一つとして、後醍醐は「自分だって隠岐に行っていたときは三種の神器は伴っていなかったけれども天皇であったことは間違いないのだから、三種の神器の所持と天皇の地位は別なのだ」といった説明をしたのではないか、などと考えてみた訳ですが、この点は再考する必要がありそうです。
史実としては後醍醐が隠岐に三種の神器を持って行ったはずはありませんが、『増鏡』巻十七「月草の花」には次のような記述があります。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、講談社学術文庫、1983、p373)

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 さて都には伯耆よりの還御とて世の中ひしめく。まづ東寺へ入らせ給ひて、事ども定めらる。二条の前の大臣道平召しありて参り給へり。こたみ内裏へ入らせ給ふべき儀、重祚などにてあるべけれども、璽の箱を御身にそへられたれば、ただ遠き行幸の還御の式にてあるべきよし定めらる。関白を置かるまじければ、二条の大臣、氏の長者を宣下せられて、都の事、管領あるべきよし承る。天の下ただこの御はからひなるべし、とてこの一つ御あたり喜びあへり。

http://web.archive.org/web/20150907014019/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-godaigo-kankyo.htm

「璽〔しるし〕の箱を御身にそへられたれば」、即ち、三種の神器の全部ではないけれども神璽(を収めた箱)だけは隠岐に持って行ったのだ、ということですから、元弘元年(1331)に光厳天皇に渡した神璽は「似物」で、自分はずっと「本物」を持っていたのだ、という主張ですね。
後醍醐の論理は、八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま=神璽)から構成される三種の神器にも軽重があって、一番重要なのは八尺瓊勾玉=神璽であり、これこそが皇統を継ぐ資格を象徴する核心的なレガリアなのだ、ということになりそうですが、果たしてこの「自分は一種の神器だけは死守したぞ」という主張がどこまで説得力を持ったのか。
まあ、論理としても相当にトリッキーである上、事実として後醍醐が隠岐に神璽を持って行ったかというと、それはありえない話ですが、とにかく後醍醐はそう主張したようです。
とすると、後醍醐は比叡山で恒良親王に譲位するに際して、越前まで三種の神器を全部運ぶのは大変だろうけど、一番重要な神璽だけは渡しておくね、と親切に言ってくれたかどうか。
まあ、万事に自分勝手、独善的、自己中心的な後醍醐の性格を考えると、そのような場面はちょっと考えにくいですね。
新田義貞や堀口貞満などは三種の神器についての知識などなかったでしょうから、後醍醐に適当に言いくるめられたのではないかと思います。
なお、井上氏の「解説」によれば、「この問題については高柳光寿『足利尊氏』に詳しい」(p378)とのことなので、恒良親王との関係まで出ているかは分かりませんが、後で確認してみるつもりです。

6918鈴木小太郎:2021/05/17(月) 09:47:50
「神璽は山中に迷ひし時、木の枝に懸置きしかば」(by 後醍醐天皇)(その1)
飯倉晴武氏の『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)、一部に論理の不明確なところがあるのが気になって敬遠していましたが、久しぶりに眺めて見たら、三種の神器に関する事実関係は本当に綺麗に整理されていて参考になりますね。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10149
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10152

後醍醐が隠岐に神璽の「本物」を持参したはずがないことは、元弘元年(1331)八月二十四日の笠置落ち以降の具体的経緯を見れば明らかなのですが、今までの議論の流れから、少し説明しておこうと思っていたところ、飯倉著にきちんと解説されているので、こちらを紹介したいと思います。
飯倉氏は『太平記』の記事を引用後、次のように書かれています。(p55以下)

-------
 この記述はいかにも『太平記』らしい哀れ・悲壮という描写のようであるが、同時代の花園上皇は日記に「髪は乱れ、着ているものは小袖と帷〔かたびら〕だけ」という意味のことを記している。王朝時代に烏帽子・冠をつけず、乱髪で人前に出ることは最大に恥ずかしいこととされ、上皇は「王家の恥辱何事これにしかずや」と後醍醐を非難している。
 結局、後醍醐天皇の挙兵は幕府側の圧倒的な軍事力の前にあえなく崩れ、九月二十九日つきしたがった公卿たちと「生捕」られ、天皇は十月四日朝まだきに六波羅南方に入った。【中略】
 問題は皇位継承のあかしである三種の神器であった。量仁親王いまや光厳天皇であるが、天皇はじめ北朝は最後までこの神器に悩まされることになる。新天皇践祚にあたって、三種の神器のうち、神璽と宝剣は後醍醐天皇が所持して京都に出たのでここにはなく、日の御座〔おまし〕(天皇の日中の御座所)の御剣〔みつるぎ〕を代わりとして儀式を挙げた。神器の譲渡は持明院統としても強く要求されたのであろう。十月四日花園上皇は六波羅探題の使者を召して重ねて剣璽を渡し奉るべきの由を、日野資名をもって伝えた。「重ねて」とあるように、これがはじめてではない。後醍醐天皇が武家に捕らえられると、さっそく神器の引渡しを要求した。『太平記』では十月二日六波羅勢に警固されて宇治平等院につくと、そこへ鎌倉から派遣された大仏貞直と金沢貞冬が駆けつけ、光厳天皇へ進らすので神器を渡すように奏聞したところ、後醍醐はつぎのようにいったという。
  三種神器は古〔いにしえ〕より継体の君、位を天に受させ給ふ時、自ら是を授け奉るもの也。四
  海に威を振ふ逆臣有て、暫く天下を掌に握る者ありといへ共、未だ此の三種の重器を、
  自らほしいままにして、新帝に渡し奉る例を聞かず、其の上内侍所〔ないしどころ〕をば、笠置の本堂
  に捨置き奉りしかば、定めて戦場の灰燼にこそ、落させ給ひぬらめ、神璽は山中に迷
  ひし時、木の枝に懸置きしかば、遂にはよも吾が国の守りと成せ給はぬ事あらじ、宝
  剣は武家の輩、若し天罰を顧みずして、玉体に近付き奉る事あらば、自ら其の刃の
  上に伏せさせ給はんずる為に、暫くも御身を放たる事、あるまじき也。
-------

途中ですが、いったんここで切ります。
『太平記』の引用部分の直前には「主上藤房を以て被仰出けるは」とあって、後醍醐が万里小路藤房を介してけっこうな暴論を語っていますが、この内容は西源院本でも同じです。(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p162)
即ち、後醍醐によれば、
(1)内侍所(神鏡)……笠置の本堂に捨て置いたので、灰燼に帰しているはず。
(2)神璽……山中に迷っているときに木の枝に懸けた。
(3)宝剣……武家の輩が自分に近付いたら、その刃の上に伏して自害するので絶対に手放さない。
とのことで、ここまで独善的・無責任な放言も珍しい感じがしますが、ただ、(1)(2)は事実ではありません。
その事情を知るために飯倉著に戻ると、

-------
 ここでは三種神器は先帝から新帝に直接授け渡すものであるといっている。内侍所=神鏡は笠置寺の本堂に置いてきたから、戦火で焼失してしまったかもしれないとあるが、これは真実でなく、神鏡は皇居内侍所に祭られてあったことは、後に記すように剣・璽の二つについて受渡しが問題となっていることから明らかである。後醍醐天皇は神璽については敗戦後山中をさまよい歩いているとき、木の枝に懸けてきたといっている。しかし別の史料では剣璽が無事かとの質問に、間違いなしとの答えがあったとある(『竹向きが記』)。実際には神璽は笠置山をさまよう間、首に懸けられていたのである。そして十月四日、幕府は後醍醐が六波羅に入るとただちに剣璽の引渡しを求めたが、後醍醐はなお「御悋惜〔ごりんせき〕(ものおしみ)」しているので難治しているという(『花園院宸記』)。後醍醐天皇はあくまでも退位する気はなく、神器を手放すのに抵抗していることが知られる。先にかかげた『太平記』での天皇の言葉というのは、真実ではないが引渡しにずいぶん抵抗したありさまを示すものである。この後醍醐も翌五日になって、やっと光厳天皇に剣璽を譲渡することに承諾した。持明院統側・幕府からの相当強い圧力があったことであろう。
-------

といった具合です。

6919鈴木小太郎:2021/05/17(月) 11:16:59
「神璽は山中に迷ひし時、木の枝に懸置きしかば」(by 後醍醐天皇)(その2)
後醍醐が本当に、神鏡は笠置の本堂に捨て置いた、神璽は山中に迷っているときに、そこらの木の枝に適当に懸けておいた、と放言したのかは分かりませんが、まあ、後醍醐ならこの程度のことは言っても不思議ではありません。
ただ、よく分からないのは『太平記』の叙述で、三種の神器を個々に分別した後醍醐の発言を紹介したのだから、その後に何かの説明があるのかと思いきや、それは全然なくて、少し後に唐突に「同じき九日、三種の神器を持明院の新帝の方へ渡さる」(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p165)とあるだけです。
九日という日付の間違いは『太平記』にはよくあることですが、少し前に三種の神器をせっかく分別したのに、いきなり一纏めにしていて、何がどうなっているのか全然分かりません。
ま、それはともかく、史実の面で重要なのは、後醍醐が光厳天皇側に引渡した剣璽が「本物」であることを光厳天皇周辺の公卿・女官たちがきちんと確認していることです。
飯倉著でその間の事情を見て行きます。(p58以下)

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 十月六日、六波羅より土御門皇居へ剣璽を移す儀式が行われた。剣璽渡御という。まず大納言堀川具親・参議葉室光顕ら公卿廷臣が六波羅探題南方の北条時益邸へ赴き、前に剣璽役を勤めたことのある四条隆蔭・三条実継・冷泉定親の三人が検知を行った。剣璽はおのおの新しい櫃に納めて封をされて、御冠筥〔おんかんむりばこ〕の台の上に置かれていた。隆蔭らは櫃の封を切って中を改めたところ、宝剣の石突〔いしづき〕が落ち、神璽の筥〔はこ〕の縅緒〔おどしいと〕(紐)が少々切れている程度で、「其の躰〔てい〕相違なし」といっている。ただちに大蔵省に用意させた唐櫃に入れ替え、公家・武家が供奉・警護する行列をつくって皇居に運んだ。皇居に着いてからの扱い方について、花園上皇と関白鷹司冬教らの間で論議があった。それは剣璽が血なまぐさい戦場から、後醍醐が首に懸けるなど身につけて山中に入ったので、触穢〔しょくえ〕の疑いがあるから御所のどの部屋に入れるかという問題だった。賢所〔かしこどころ〕に入れ奉ることは憚りがあるので、関白と話し合って直盧〔じきろ〕にまず迎えるということで決められた。ところが実際には剣璽が皇居に着くと二人の内侍が御帳間左右において請取り、典侍〔ないしのすけ〕(日野名子)がそれを夜御殿〔よるのおとど〕に置いた。まさに譲位のときの次第のようであったという。日野名子は『竹向きが記』という日記体の著書を残しているが、このときのことを「剣璽いかがと、世の大事なりつるに、相違なき由奏聞あれば、上達部以下、六波羅に向ひつゝ、入らせ給ひしは、めでたしとも言へばおろかなる事にぞ侍し、内侍二人(勾当・兵衛)、我身受け取り聞ゆ」と記している。
-------

ということで、三種の神器のうち、後醍醐が持ち出した剣璽の行方は「世の大事」であって、後醍醐がこれを引き渡したときに「前に剣璽役を勤めたことのある四条隆蔭・三条実継・冷泉定親の三人」が、単に容器(筥)だけでなく中身まで見て、「本物」であることを確認している訳ですね。
ここまでしっかりやっているのだから、この後、後醍醐が神璽の「本物」を隠岐に持って行けるはずがありません。
飯倉氏は、続けて、

-------
 この剣璽渡御のとき、後醍醐天皇は偽物を渡したという説がある。すくなくとも神璽だけは偽物であったというが、この状況のもとで、また時間的にも偽物を用意できたであろうか。数年後吉野潜行のさいには、このときのことがあってあらかじめダミーを準備していたのであろうか。歴史の永遠の謎といってよいものであろう。
-------

と言われていますが、「すくなくとも神璽だけは偽物であったという」説は、『増鏡』の「璽の箱を御身にそへられたれば」という記述との関係を考慮している訳ですね。
ただ、神璽を含め、「この状況のもとで、また時間的にも偽物を用意できた」はずはありません。
「数年後吉野潜行のさいには、このときのことがあってあらかじめダミーを準備していた」のか、それが「永遠の謎」なのかについては、飯倉説を踏まえ、次の投稿でもう少し検討してみます。

6920鈴木小太郎:2021/05/18(火) 14:38:02
「重祚の御事相違候はじと、尊氏卿さまざま申されたりし偽りの詞」(その1)
後醍醐が「三種の神器」の「似物」を作った可能性がある二番目の機会は、建武三年(1336)五月二十七日から同年十月十日までの叡山滞在中ですね。
叡山なら物資も職人も豊富で、時間も四ヵ月以上ですから、「似物」を作ろうと思えばそれなりのレベルの物が作れたかもしれません。
ただ、それを光明天皇側に渡すときに見破られなかったかが問題となります。
この点についての私見は既に述べていますが、飯倉著に基づき、事実関係を改めて確認してみたいと思います。(『地獄を二度も見た天皇 光厳院』、p122)

-------
 八月末の合戦で比叡山に籠もる後醍醐天皇の武力である新田義貞の軍は他からの援助もなく、いちぢるしく力を失った。足利尊氏はひそかに後醍醐に接触をはかり、和睦の交渉を進めていたようで、十月十日後醍醐天皇は比叡山を下り、洛中花山院に入った。その一方で後醍醐は前日に、皇太子恒良親王と皇子尊良親王を新田義貞につけて越前国へ落とした。これは全滅を避け、再起の種を残そうとするものである(『元弘日記裏書』『建武三年以来記』)。『太平記』では新田義貞は後醍醐の還京を事前に知らされず、周辺の動きでそれと察した義貞の抗議によって、恒良・尊良両親王を義貞に託したとある。
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『太平記』では、尊氏と後醍醐の交渉は第十七巻第十二節「山門より還幸の事」に出てきます。
飯倉氏は流布本を用いておられますが、流布本でも恒良への「受禅の儀」が行なわれたことは記されていますね。

「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10702

さて、続きです。(p123)

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 京都に戻った後醍醐に対し、さっそく神器を光明天皇に引き渡すよう申し入れがなされた。十一月二日後醍醐のいる花山院御所から、光明天皇の仮皇居東寺へ神器を移す儀式が行われたことが、押小路本『勘例雑々』に「建武三年自花山院、内侍所・剣璽渡御東寺事」として記されている。渡御の供奉に大納言冷泉公泰以下の公卿廷臣が勤め、剣璽は東寺にいた光明天皇の御座所に、内侍所(神鏡)は新造の別殿に納められた。この日光明天皇から後醍醐に太上天皇の尊号が贈られ、十四日には後醍醐の皇子成良親王を皇太子に立てた。もちろん「治天の君」たる光厳院によってである。成良親王を皇太子に立てたのは、後醍醐の血統を将来皇位に残すという配慮を示すことで、足利尊氏が後醍醐に帰京をうながすために提示した条件であろうか。北畠親房は持明院統が後醍醐院の「御心をやすめ奉らんためにや、成良親王を東宮にすへたてまつる」と記している(『神皇正統記』)。尊氏は後醍醐天皇と帰京するための条件を取り決めたのであろうか。『太平記』巻一八のはじめに尊氏が後醍醐の重祚を認めたから、山門から還幸されたということが記されている。条件が示されているのはここだけである。そこで後醍醐は神器を手元に留め、十一月二日まで神器を引き渡さなかったのであろうか。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
『太平記』第十八巻第一節「先帝吉野潜幸の事」の冒頭には、

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 主上は、重祚の御事相違候はじと、尊氏卿さまざま申されたりし偽りの詞〔ことば〕を御憑〔おたの〕みあり、山門より還幸なりたりしかども、元来〔もとより〕欺〔たばか〕りまゐらせんための謀〔はかりごと〕なりしかば、花山院の故宮に押し籠められさせ給ひて、宸襟を蕭散〔しょうさん〕寂寞の中に悩まさる。
-------

とあって(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p217)、尊氏が後醍醐に「重祚」を約束した詐欺師であることが強調されています。
ただ、この年の六月以降、「治天の君」としての活動を始めて、八月十五日に院宣をもって光明天皇を践祚させた光厳院の存在を考えれば、後醍醐の「重祚」が交渉材料となるとは考えにくく、決め手は成良親王の立太子だと思われます。
両統迭立は鎌倉後半以降の長い慣習ですから、尊氏と後醍醐の妥協点として穏当であるばかりか、軍事面では明らかに敗者である後醍醐に対する相当な優遇策ですね。
飯倉氏は「そこで後醍醐は神器を手元に留め、十一月二日まで神器を引き渡さなかったのであろうか」とされますが、これは十月十日の還幸後も後醍醐が条件闘争を続けた、ということでしょうか。
ま、それはちょっと考えすぎのような感じがします。
尊氏・後醍醐間で和睦の基本条件が合意されたからこそ後醍醐は還幸し、その後の若干の期間は、後醍醐側にとっては体面を調え、尊氏側にとっては内侍所の新造等、三種の神器を譲り受けるための準備の期間と考えればよいように思われます。

6921鈴木小太郎:2021/05/18(火) 16:31:54
「重祚の御事相違候はじと、尊氏卿さまざま申されたりし偽りの詞」(その2)
飯倉著の続きです。(p123以下)

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一方、『太平記』巻一七後醍醐還幸の箇所では、下山してきた後醍醐の一行が法勝寺辺にきたとき、足利直義が五百余騎を率いて迎え、まず三種の神器の引き渡しを求めたところ、かねて用意しておいた偽物であるが、その場で内侍の方へ渡したとある。実際には前記の『勘例雑々』にあるように十一月二日であるが、『太平記』でただちに引き渡したとあるのは、「偽物」を渡したということを強調するためではあろうか。「偽物」というが、神器はだれもが簡単に見たり、触れたりすることのできるものではなく、すでに元弘元年光厳院践祚の後で後醍醐のところからきた剣璽の真贋を、心得ある公家に検分させ宝剣は一部破損したことも分かっている。また神鏡は内侍所といわれるように、つねに内侍所に安置され勾当内侍たち女官によって守られてきた。このような状況の中で、短時間で作られた偽物がそのまま通るとは思われず、『太平記』の「偽物」記述は信用できない。
-------

直義が五百余騎を率いて迎えた場面は、第十七巻第十七節「還幸供奉の人々禁獄せらるる事」に出てきます。

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 還幸すでに法勝寺辺に近づきければ、左馬頭直義、五百余騎にて参向し、先づ三種の神器を当今の御方へ渡さるべき由申されければ、主上、かねてより御用意ありけるにや、似物〔にせもの〕を内侍の方へぞ渡されける。
 その後、主上をば、花山院へ入れまゐらせて、四門を閉ぢて警固を居ゑ、降参の武士どもをば大名どもの方へ一人づつ預けて、召人の体にてぞ置かれける。かかるべしとだに知りたらば、義貞朝臣ともろともに北国へ落ちて、ともかくもなるべかりけるものをと、後悔すれども甲斐ぞなき。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10703

ということで、この後、「菊池肥後守」武俊が逃亡したとか、「宇都宮」公綱がそのまま残っていたので門扉に山雀を描いた絵が貼り付けられ、そこには「山がらがさのみもどりを宇都宮都に入りて出でもやらぬは」(山雀が籠の中だけを行ったり来たりするように、宇都宮は都に入ったきり外へ出て行かぬことよ)という狂歌が書かれていたとか、本間孫四郎が六条河原で首を斬られたとか、「道場坊助注記猷覚」が「山徒の中の張本」として首を刎ねられたといった話が続きます。
要するに、史実として正確かどうかはともかく、『太平記』は尊氏が講和条件を破って後醍醐側に苛烈な処置を取ったと主張しています。
この文脈ですから、「「偽物」を渡したということを強調するため」というよりは、尊氏が後醍醐側を騙したことを強調するために、三種の神器の接収も相当強引だったと言っているように思われます。
さて、実際には十一月二日に内侍所・剣璽渡御の儀式が行われた訳ですが、後醍醐から光厳院側に三種の神器が引き渡されるのは五年ぶり、二度目であり、このときも五年前と同様に「本物」か否かのチェックが念入りになされたはずですね。
具体的に誰が確認したかといった記録は残っていないようですが、光厳院側も鎌倉末期以降、後醍醐に何度も煮え湯を飲まされており、後醍醐の性格も熟知していますから、一回目以上に厳格なチェックがなされたものと思います。
結論として、「このような状況の中で、短時間で作られた偽物がそのまま通るとは思われず、『太平記』の「偽物」記述は信用できない」ということになりますね。
なお、「神鏡は内侍所といわれるように、つねに内侍所に安置され勾当内侍たち女官によって守られてきた」訳ですが、三種の神器の管理は女官に委ねられる部分が多く、『増鏡』と藤原経子の『中務内侍日記』には、正応三年(1290)三月の浅原事件に際して、三種の神器その他のレガリアを守るために女官たちが冷静かつ毅然と暴漢に対処したことが記され、また日野名子の『竹向きが記』からも「三種の神器」の管理に対する女官たちの強い責任感が窺われます。

『増鏡』「浅原事件」
http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

元弘元年(1331)の笠置落ちに際して、後醍醐が神鏡を持ち出すことが出来なかったのも、あるいは女官たちに拒否されたためかもしれません。
また、笠置から戻ってきた後醍醐がさんざん抵抗したあげくに返還した神璽の扱いについて、花園院と関白鷹司冬教らの間で議論して決めた方針が女官レベルであっさり覆されたというのも結構すごい話のように思われます。
三種の神器のうち、神鏡については、その保管場所である「内侍所」についての建築史的研究や、「内侍所御神楽」に関する音楽史的研究は多いようですが、その管理が女官に委ねられていたことについてのジェンダー論的な観点(?)からの研究も面白そうな感じがします。
国会図書館サイトで検索してもそれらしき論文はヒットしませんが、誰か手掛けているのでしょうか。
ま、それはともかく、飯倉著の続きです。

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 剣璽渡御が無事終わって、十二月十日光明天皇は東寺を出てこのとき内大臣だった一条経通第に皇居を移し、光厳院も持明院殿にもどった。政局も落ち着いたかにみえたが、二十一日後醍醐が幽閉されていた花山院を脱けだして吉野へ潜幸した。公家にも吉田定房、二条師基、北畠親房、四条隆資、坊門清忠ら後醍醐を追う者もいて、後醍醐は吉野においていぜん皇位にあることを示し、ここに吉野と京都、南と北に二つの朝廷が並び立つことになった。光厳院の朝廷は吉野にたいする北の京都にあり北朝と称される。南北朝の間は武力対決の状況がつづき、北朝は軍事は全面的に尊氏に依存しており、南北朝の対立は後醍醐と足利尊氏の戦いとなり、尊氏が幕府を開くことにより、北朝は武家側とよばれるようになる。
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『太平記』の「二十一日後醍醐が幽閉されていた花山院を脱けだして吉野へ潜幸した」場面では三種の神器がやたらと強調されていますが、その様子は後で紹介します。

6922鈴木小太郎:2021/05/19(水) 12:06:59
桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その14)
久しぶりに桃崎有一郎氏の『京都を壊した天皇、護った武士』(NHK出版新書、2020)に戻って、纏めをしておきます。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10701

桃崎氏は(その13)で紹介した部分に続けて、次のように書かれています。(p185以下)

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 一六年後の正平七年(一三五二)、南朝が京都を襲って勝利し、北朝の神器を奪取する(後述)。その時、北朝の神器を、偽物ならば廃棄すべきなのに、「偽物でも本物と信じて使われた以上、捨てられない」という奇妙な理屈で、大切に保存したのは、そういう事情による。そして、南朝にあった(自称)本物と混ぜられ、さらに何が何だかわからなくなった。
 後に、足利義満は南朝を吸収合併した時、速やかに神器を回収した。本物だった可能性を否定できないからだが、それらはすべて偽物だった可能性が高い(本物はおそらく恒良に託したもの)。そして、天皇以外で(多くの天皇でさえ)三種の神器の実物を見た者はなく、そもそも何が本物なのか、鑑定できる者が誰もいない。それらの神器は、よくわからないまま現代まで受け継がれ、令和元年(二〇一九)五月一日、「剣璽等承継の儀」で、退位した天皇から皇太子徳仁親王に引き渡される様子がテレビ中継された。その神器のかなりの部分は間違いなく偽物で、一つも本物が残っていない可能性さえ十分ある。
 内裏を躊躇なく犠牲にした後醍醐は、最後に三種の神器さえも犠牲にして、天皇家に大きな傷を残した。もっとも、皇位継承を正当化するのは最終的に世論であり、(その後の北朝・南朝の歴史がそうだったように)三種の神器の有無は、あまり関係ない。日本史や日本文化を少しでも本気で学ぼうとする人にとって、このことは頭の片隅に入れておく価値がある。
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「大切に保存した」には傍点が振ってあります。
このように桃崎氏は「本物はおそらく恒良に託したもの」という立場ですね。
私は恒良親王への「受禅の儀」はあったとしても、後醍醐は三種の神器は渡さなかったと思います。
その理由についてあれこれ考えてみましたが、一番の理由はやはり管理の困難さでしょうね。
三種の神器は普通の荷物と異なり、その取扱いに厳格なルールがあり、特に神鏡(内侍所)は伝統的に女官の管轄に置かれています。
恒良親王を伴った新田義貞の越前下向は、時期は冬で通常の通行も困難な上に、足利側の斯波高経が軍事上の要所をがっちり押さえていて、多くの犠牲者を出しつつ、遠回りでやっと金崎城に辿りつけたような有様です。

「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10704

それはおそらく出発前から予想されていた事態で、女官を含めた三種の神器の管理担当要員の同行は大変な負担であることが明らかですから、後醍醐が自分が預かっておくと言ったなら、新田義貞も反対はしなかったでしょうね。
この時点での義貞の発想としては、後醍醐が恒良親王への譲位を証明する何らかの文書を出してくれたら十分で、それ以上は行軍上の負担となり、軍事的にマイナスだから要求しない、ということだろうと思います。
そして、後醍醐が建武三年(1336)十一月二日に光明天皇側に渡した三種の神器は、五年前と同様に容器だけでなく中身も「本物」であることが、「何が本物なのか、鑑定できる者」によって確認されたはずです。
「一六年後の正平七年(一三五二)、南朝が京都を襲って勝利し、北朝の神器を奪取」したのは、それが「本物」だと知っていたからですね。
従って、「足利義満は南朝を吸収合併した時、速やかに神器を回収した。本物だった可能性を否定できないからだが、それらはすべて偽物だった可能性が高い」訳ではなく、南朝側が新造した「偽物」以外に、建武三年(1336)の時点で光明天皇周辺の公卿・女官に「本物」と「鑑定」された物も含まれているはずです。
そして令和元年(二〇一九)五月一日の「剣璽等承継の儀」で、「退位した天皇から皇太子徳仁親王に引き渡され」た「神器のかなりの部分は間違いなく偽物で、一つも本物が残っていない可能性さえ十分ある」ということもなくて、足利義満が南朝側から接収した三種の神器がそのまま残っているのであれば、その「かなりの部分は間違いなく」「本物」でしょうね。
さて、前回投稿では、建武三年(1336)十月に比叡山から京都に戻った後醍醐が光明天皇側に三種の神器の「似物」(偽物)を渡せたはずがない、という私見を述べた後、飯倉晴武氏も同様な見解だ、という議論の流れになってしまいましたが、先行研究の紹介としてはちょっと失礼な書き方でしたね。
私は『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)をずいぶん前に購入し、通読していたので、私が三種の神器に関する問題を、特定の時期に特定の人々が具体的に「本物」と認識していた物体を前提として検討しなければならない、と考えたのは、あるいは飯倉氏からの影響だったかもしれません。
ただまあ、詰めて考えれば後醍醐が「偽物」を渡すのは無理であることは明らかで、おそらく戦前の研究者でも、実証を重んじるタイプの研究者の相当多くは同じ結論に達していたようにも感じます。
しかし、そう思ってもなかなか発表は難しかったでしょうし、「戦後歴史学」の研究者には三種の神器の真偽について真面目に考えること自体を莫迦にするような風潮があったでしょうから、あまり議論もなかったのでしょうね。
それが今ごろになって、桃崎有一郎氏のように「本物はおそらく恒良に託したもの」などと考える研究者が登場したことに私はかなり吃驚しましたが、あるいは桃崎氏のような騙されやすいタイプが遠い未来に登場したことに一番驚いているのは後醍醐天皇かもしれません。
そこまで単純な「正直者」だったら、中世はとても生きて行けないよ、と。

6923鈴木小太郎:2021/05/20(木) 09:13:33
「中にも貴重なのは、「内侍所はおはします」の証言である」(by 岩佐美代子氏)
ついでに元弘元年(1331)の後醍醐の笠置潜幸に関係する『竹むきが記』の記事も紹介しておきます。
『竹むきが記』の著者・日野名子は、典侍として宮中に出仕した後、西園寺公宗と結婚した女性です。
『太平記』には中先代の乱の勃発後、公宗が名和長年に殺害される場面に悲劇のヒロインとして登場するので、歴史研究者にもそれなりに知られた存在ですね。

『竹むきが記全注釈』(笠間書院)
https://kasamashoin.jp/2010/12/post_1617.html

三種の神器に関係する記述は、上巻の冒頭で春宮(光厳)の元服を描いた場面の次に出てきます。(p8以下)

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 元弘のはじめの年、八月廿四日の夜、内裏見えさせ給はぬよし、廿五日の暁聞えて、世の中騒ぎたちぬ。六波羅近くとて、六条殿へ成らせ越ゆ。春宮もひとつ御車なり。次の日、又六波羅の北に成したてまつる。内裏は山門におはしますよしにて、まことは笠置に籠らせ給ふとて、東〔あづま〕の夷〔ゑびす〕ども、馳せ向ふと聞〔きこ〕ゆ。
 さる程に、御位の事、急ぎ申し侍れば、事ども取りとゝのへられて、九月廿日、六波羅より土御門殿へ、すぐに成らせ給ふ。此の御所、まづ内裏になるべければ也。御しつらひなど定め置かれ、とく院の御方還御ならせ給ふ。
 践祚廿二日也。女房は四十人なるを、とりあへらるゝに従ひて、卅人ばかりとぞ聞えし。内侍所はおはします。剣璽いまだ入らせ給はねば、昼〔ひ〕の御座の御剣を用ゐらる。
 同じ廿九日、笠置を攻め落し聞えて、世、のゝしる程に、先帝、六波羅へ入らせ給ふ。付きたてまつれる卿相雲客、所々にあづかると聞ゆ。その程の事は書きも留めず。
 剣璽いかゞと世の大事なりつるに、相違なきよし奏聞あれば、上達部以下、六波羅に向ひつゝ入らせ給ひしは、めでたしとも言へばおろかなる事にぞ侍りし。内侍二人<勾当 兵衛>、我が身請け取り聞ゆ。十月十日頃にて侍りしや。
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岩佐著には丁寧な現代語訳がありますが、「補説」の方を紹介します。(p11以下)

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【補説】南北朝大乱の発端である。短文であるが、誰にとっても寝耳に水の大事件を、一女房の筆として、要を得て鮮やかに書き記している。

 1 後醍醐帝失踪。
 2 両院・春宮非難、六条殿から六波羅北へ。
 3 笠置進攻。
 4 践祚準備。
 5 内侍所と昼の御座の御剣をもって践祚。
 6 笠置陥落、先帝六波羅入御。
 7 剣璽帰還。

これだけの大事を、僅々五百字ばかりで落ちなく書き記し、その中での自らの役割を述べ、新朝への賀辞を呈して終る。本記の成立を貞和五年とすれば、実に十八年前の国家的事変、しかも作者の生涯を決定する事にもなったこの出来事を、優雅な和文ながら簡潔に、緊迫した社会の空気を如実に感じる程に記録している筆は凡手でない。理性的、聡明な作者の資質を証明する一文である。
 中にも貴重なのは、「内侍所はおはします」の証言である。従来、一般的な知識としては、「増鏡」の「内侍所・神璽・宝剣ばかりをぞ忍びて率て渡らせ給ふ」(村時雨)、「太平記」の「御車を差寄せ、三種の神器を乗せ奉り」(巻二)、「内侍所をば、笠置の本堂に捨置き奉りしかば」(巻三)等により、後醍醐帝が神器全てを帯同しておられたと考え、かつは「光明寺残篇」にも、「十月三日。(中略)三種御宝物、六波羅南方より入れ奉らる」とされている。「続史愚抄」にも諸記を引用して、「剣璽及び内侍所渡御無くしての践祚、寿永の例也」とする。しかし「花園院宸記」十月六日条には「時益宿所<六波羅南方>より剣璽を渡し奉る」ほか、別記にも「剣璽」とのみあって内侍所にはふれず、「剣璽渡御記」にも内侍所の記載はない。この点は早く和田英松「竹むきの記について」(明44・6、史学雑誌)に「此書に記せるが如く、当時内侍所の宮中におはしましゝ事は明なり」と指摘されたにもかかわらず、同様の主張をした田中義成『南北朝時代史』(大12)では根拠として「剣璽渡御記」及び「光厳院宸記」(実は右花園院宸記。古く巻包の記載により誤認)のみをあげて「授受ありしは剣璽の二種なる事明かにして、内侍所の御鏡は初より宮中に残されしものと見ゆ」とし、本記記事は無視されている。以後は南朝正統論に押流されて、この点の検証は等閑に過ぎたが、本記はまさに神器取扱い当事者なる典侍の言として、「内侍所は持出されず宮中におわします」旨の確たる証言を見るのである。現実的に考えれば、剣璽は常に天皇身辺にあって行幸に帯同されるが、内侍所、すなわち神鏡は別殿にあって刀自らが守護しており、福原遷都のような公然たる場合、或いは火災等の非常時以外は、天皇個人が内密に持出す事は困難と思われるのである。花園院にとっては書かずとも自明の事。しかし後の回想の中でもこれを忘れず確かに書きとめる態度の中に、名子その人の明確な職業意識を見る事ができる。
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「剣璽は常に天皇身辺にあって行幸に帯同されるが、内侍所、すなわち神鏡は別殿にあって刀自らが守護しており、福原遷都のような公然たる場合、或いは火災等の非常時以外は、天皇個人が内密に持出す事は困難」という点が重要で、後醍醐もおそらく神鏡を持ち出そうと考えてみたものの、時間も手間もかかりそうだったので断念した、ということだろうと思います。
「火災等の非常時」というと、直近では正応三年(1290)の浅原事件を連想しますが、皇統の連続性を象徴する三種の神器から見れば、後醍醐は浅原為頼と同レベルの存在ですね。

6924鈴木小太郎:2021/05/20(木) 14:33:48
「夜の御殿へ剣璽取りに参れば、人の取り出し参らせて、道に逢ひたり」(by 高倉経子)
三種の神器の管理は女官たちが責任を持って行っていたことの例として、浅原事件に関する『中務内侍日記』の記事も紹介しておきます。
『中務内侍日記』は伏見天皇に内侍として仕えた高倉経子の日記で、当掲示板では、北山殿御幸行啓の場面に西園寺実兼とともに登場する「二位入道」が四条隆顕か、という観点から少し検討したことがあります。

『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9527
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9528
「女工所の内侍、馬には乗るべしとて」(by 中務内侍・高倉経子)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9529

さて、正応三年(1290)三月九日、甲斐・小笠原の一族・浅原為頼が内裏に乱入する場面は次の通りです。(p178以下)

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 三月九日夜、清涼殿に武者参りて、常の御所へ参らん道を、蔵人やすよに問ひける程に、逃げて、「かゝる事」と申せば、御所は中宮の御方にぞ渡らせおはします程に、常の御所へ中宮具し参らせて逃げさせおはしましぬ。如法〔によほふ〕とひしめきのゝしりて、とく女嬬火を消ちて、玄上取りて、「これ」と申せば、手探りに受け取りて、御所に置きつ。夜の御殿〔おとゞ〕へ剣璽取りに参れば、人の取り出し参らせて、道に逢ひたり。世間その後ひしめき、大番の武士、ひしめく。恐しき事ども出で来ぬ。清涼殿穢れて、御所も明くれば春日殿へ成る。取りあへぬ事なれば、御引直衣にて、腰輿〔えうよ〕にて成る。供奉の人々、直衣なる姿にて珍しく、事々しき常よりも面白くて。
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こちらは現代語訳も紹介しておきます。

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三月九日夜、清涼殿に武者が入って来て、常の御所に参入する道を女蔵人やすよに尋ねたから、逃げ出して、「こんな事がありました」と急報したので、帝は中宮御所においでになっていた折であったが、常の御所へ中宮をお連れになってお逃げ遊ばした。いやもう大変に騒ぎ立てて、急いで女嬬が灯火を消して、玄上を取出して「これを持出して下さい」と言ったので、手探りで受取って、御所に安置した。夜の御殿に剣璽を取りに行ったら、誰かがお出し申上げたのに、ちょうど道で出会った。世間全体がその後は大騒動になって、大番の武士が沢山やって来る。大変恐しい事がいろいろ起った。清涼殿が穢れてしまったので、帝も翌朝は春日殿へ行幸になった。緊急の事態なので、御引直衣で、腰輿に召して成らせられた。供奉の人々も直衣姿で珍しく、公式の束帯姿のいつもの行幸の時よりも面白いことであった。
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『増鏡』には、

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 同じ三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中より割れたり。驚き思して御占あるに、「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにか、と誰も誰も思し騒ぐに、その九日の夜、衛門の陣より恐しげなる武士三四人、馬に乗りながら九重の中へはせ入りて、上に昇り、女嬬が局の口に立ちて、「やや」といふ者を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋縅の鐙着て、ただ赤鬼などのやうなる面つきにて「御門はいづくに御寝るぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東北のすみ」と教ふれば、南ざまへ歩みゆくままに、女嬬うちより参りて、権大納言典待殿・新内侍殿などに語る。
 上は中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いとあやしきさまをつくりて入らせ給ふ。内侍、剣璽取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げにけり。春宮をば中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へ徒歩にて逃ぐ。その程の心の中どもいはん方なし。

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

とあって、両書を併せ読むと、女蔵人「やすよ」は内裏に乱入してきた浅原為頼から伏見天皇の御寝所を聞かれ、偽って「南殿より東北のすみ」(御寝所とは逆方向)と答え、「権大納言典侍」(親子)と「新内侍」(経子)等に急報した訳ですね。
中宮の御所にいた伏見天皇は対屋に逃れ、ついで女房を装って春日殿(玄輝門院〔伏見天皇母〕御所)に移動します。
この間、異常に気付いた女嬬は灯火を消し、玄象(と鈴鹿)を取り出して経子に「これを持ち出して下さい」と言ったので、真っ暗闇の中、経子は手探りでこれを受け取り、御所に安置した後、夜の御殿に剣璽を取りに行くと、その途中で別の人が既に持ち出しているのに出会い、経子が受け取った訳ですね。
他方、春宮(後伏見天皇、三歳)は中宮方の女房「按察殿」が抱いて常磐井殿へ徒歩で逃げたとのことで、緊急時でありながら、女官たちの見事な連携により被害を防いでいます。
特に興味深いのは経子ともう一人、恐らく経子より下位の女官が剣璽の確保に向かった点で、神鏡(内侍所)だけでなく、三種の神器全部に対して、その管理は女官の責任、といった意識が窺えます。
なお、浅原為頼は最初から伏見天皇の殺害を狙っていて、独立の建物(内侍所)にある神鏡には関心を抱いていないので、一連の記事の中でも神鏡への言及はありません。
また、「供奉の人々、直衣なる姿にて珍しく、事々しき常よりも面白くて」とある点については、岩佐氏が「補説」で、「時局に無知とも見えるが、内裏女房として、天皇に関し不吉な事は多くを語らず、何事も最終的には賛美祝賀に結びつける、奉仕者のたしなみの筆である事を理解する必要がある」(p180)と書かれています。

6925鈴木小太郎:2021/05/21(金) 11:31:07
恒良親王の「綸旨」について
ツイッターの投票機能、試しにやってみたらけっこう面白いですね。
最初の質問では三種の神器に関する桃崎有一郎氏と私の考え方の是非について聞いてみましたが、自分では相当丁寧に論証したつもりでも、今のところは「分からない」が約六割と一番多いですね。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1395143621062561793

「二人とも正しくない」も約一割で、ここはできれば理由を教えてもらいたいところですが、例えば恒良親王への譲位自体がなかった、と考える人がおられるかもしれません。
この点、桃崎氏も言及されている『南北朝遺文 東北編第一巻』(東京堂出版、2008)の第255号文書の扱いが問題となります。
同文書は、

  〇二五五 恒良親王ヵ綸旨写 <〇白河集古苑所蔵白河結城文書>
高氏・直義以下逆徒追討事、先度被下 綸旨候了、去月十
日、所有臨幸越前国鶴賀津也、相催一族、不廻時剋馳参、
可令誅罰彼輩、於恩賞者、可依請者、
天気如此、悉之、以状、
  延元々年十一月十二日   左中将<在判>
 結城上野入道館

というもので、これに次のような副状もあります。

  〇二五六 新田義貞ヵ副状写 <〇白河集古苑所蔵白河結城文書>
尊氏・直義已下朝敵追討事、先度被仰了、且重 綸旨遣之、
去月十日、所有臨幸越前国敦賀津也、不廻時剋馳参、可被
誅罰彼輩、於恩賞者、可依請之由、被仰下候状如件、
  延元々年十一月十二日   右衛門督<在判>
 結城上野入道殿

これらを全くの偽文書と考えるか、文書としては真正であっても内容は偽り、要するに新田義貞がハッタリをかましていると考えるのか等、いろんな立場がありそうですが、私の限られた知見の範囲では、文書として真正、内容も事実を反映している、即ち恒良親王への譲位はあったと考える研究者が多いようですね。
桃崎氏も私も恒良親王への譲位自体はあったと考え、更に桃崎氏は「受禅の儀」で三種の神器の「本物」も恒良親王に渡ったとされる訳ですが、しかし、そうであれば当然、比叡山を下山後、光明天皇側に「偽物」を渡さねばなりません。
私としては、光厳院・光明天皇周辺の公卿や女官は受け渡しに当たって相当厳しく、容器のみならず中身もチェックしていたであろう事を重視し、これらの人々を騙すのは至難の技であって、結局、「本物」が渡されたのだろうと考えます。
そうだとすれば、恒良親王には何も渡さなかったか「偽物」を渡したか、という話になりますが、堀口貞満に詰め寄られて初めて譲位を決めたという『太平記』のストーリーがそれなりに史実を反映しているのであれば、短時間で「偽物」を準備するのも大変そうですね。
ま、あれこれ考えると、「偽物」など全く存在しなかったと考えるのが一番よいのではないか、というのが私見です。
この私見が正しければ、後醍醐は自分が嘘を言っているのを承知の上で、隠岐には神璽を持って行った、比叡山から下りた後は三種の神器の「本物」は自分がずっと持っており、光明天皇に渡したのは「偽物」だと言い続けた訳ですが、この嘘を承知で何度でも繰り返し主張できる神経の強靭さ、面の皮の厚さこそが後醍醐の特異な個性、「異形」性なのではないか、という感じがします。
網野善彦氏は主として後醍醐の密教への傾倒ぶりに着目して「異形の王権」像を形成しましたが、その後の研究の進展で、密教への傾倒の度合いはむしろ父の後宇多の方が強く、後醍醐はそれを真似ただけであることが分かっています。
後宇多もかなり強引なところがありますが、目的のためには手段を選ばないことに徹した点では、後宇多も後醍醐には全く及ばないですね。

「普通の王権」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5357
「元徳元年の『中宮御懐妊』」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5580
「鎌倉後期・建武政権期の大覚寺統と大覚寺門跡─性円法親王を中心として─」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6937
「後宇多天皇の追号」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7395
「親子二代連続でちょっと変な王権」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7412
「内田啓一氏、ご逝去」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8772

6926鈴木小太郎:2021/05/22(土) 15:41:59
「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その1)
四月二十四日から五月三日まで、山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)を検討していて、その途中で桃崎有一郎氏の『京都を壊した天皇、護った武士』(NHK出版新書、2020)に寄り道したので、ここで再び山家著に戻るのが順当な方向なのですが、ちょっと迷っているところです。
久しぶりに眺めてみた『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)の著者・飯倉晴武氏は、同書の奥付によれば「1933年生まれ、東北大学大学院修士課程修了、宮内庁書陵部首席研究官、陵墓調査官を経て、奥羽大学文学部教授」という方です。
その経歴からは非常に真面目な、手堅い研究者であることが伺われ、実際に飯倉著を読んでも印象は同じです。
しかし、ちょっと真面目すぎて、こういうタイプの研究者が『太平記』を正確に読めているのか、という疑問を私は抱きます。
それは例えば次のような箇所です。(p95以下)

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番場宿の悲劇

逃避行と落武者狩
 五月七日の夜ふけて光厳天皇はじめ両上皇と供奉の廷臣は、六波羅探題と残存の武士に守られて六波羅を出て東へ向かい、苦集滅路〔くずめじ〕を越えて山科に入り四条河原をへて近江へ進んだ。すでに苦集滅路から落人をねらう野伏が一行を襲ってきて、早くも南方六波羅探題の北条時益が頸の骨を射られて即死した。四宮河原を通過し逢坂の関の手前でしばし馬をとめて休んでいるとき、光厳天皇の左の肱〔ひじ〕に矢が当たり、陶山〔すやま〕備中守という武士がとっさに矢を抜いて疵を吸って手当てをし、難を救った。さらに進んであたりが明るくなるころ、天皇の一行は五、六百人の野伏に道を塞がれた。警護の一人備前国住人中吉弥八という武士が、「一天の君(天皇)が関東へ臨幸されるところに、無礼をするな。弓をふせ甲を脱いで、通し奉れ」というと、野伏どもは「如何なる一天の君でも通ってみろ。御運が尽きて落ちのびて行くのを通さないことはないが、たやすく通りたかったら、供の武士たちの馬物具をみなおいてゆけ」といって、どっと鬨の声を挙げた。中吉弥八はいったんは戦いを挑んだが、かえって組み伏せられてしまい、そのとき一策を案じ、六波羅に六〇〇〇貫の銭を埋めたところを知っているとだまして、野伏の一団を連れて行き、天皇一行を救い、この日(八日)天皇・上皇方を守って六波羅勢は近江国野洲郡篠原に着いた(『太平記』巻第九)。
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『太平記』を実際に読んでみても、この要約に全く間違いはありません。
間違いはないのですが、しかし『太平記』中でも有数の悲劇である第九巻第六節「六波羅落つる事」の中に挟まれている中吉弥八〔なかぎりやはち〕のエピソードは、かなり奇妙なものです。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p77以下)

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 さる程に、東雲〔しののめ〕漸く明け初〔そ〕めて、朝霧わづかに残れるに、北なる山を見渡せば、野伏どもと覚しくて五、六百人が程、楯をつき、鏃をそろへて待ち懸けたり。備前国の住人、中吉弥八、行幸の御前に候ひけるが、敵近づけば、馬を懸け居〔す〕ゑて、「忝くも、一天の君関東へ臨幸なる処を、いかなる者なれば、かやうに狼籍をば仕〔つかまつ〕るぞ。心ある者ならば、弓を偃〔ふ〕せ、甲を脱いで、通しまゐらすべし。礼儀を知らぬ奴原〔やつばら〕ならば、一々に召し取つて切り懸けて通べし」と申しければ、野伏ども、からからと打ち笑うて、「いかなる一天の君にても渡らせ給へ、御運尽きて落ちさせ給はんずるを、通しまゐらせじとは申すまじ。たやすく通りたく思し召されば、御供仕りたる武士どもの、馬、物具を皆捨てさせて、心安く落ちさせ給へ」と申しもはてず、同音〔どうおん〕に時をどうど作る。中吉弥八、これを聞いて、「悪〔にく〕い奴原が振る舞ひかな。いで、己れらが欲しがる物具とらせん」とて、若党六騎、馬の鼻を並べてぞ懸たりける。欲心熾盛〔しじょう〕の野伏ども、六騎の兵に懸け立てられて、蜘蛛の子を散らすが如くに四角八方へ逃げたりける。六騎の兵、六方に分かれて逃ぐる者どもを追ふ。
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まあ、ここまではなかなか格調高い文章であり、軍記物として変なところは一つもありません。
問題はその次からです。

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 二十余人返し合はせて、これを真中に取り籠むる。弥八少しも疼〔ひる〕まず、その中の棟梁と見えたる敵に馳せ並べて、むずと組んで、二疋があはひへどうど落ちて、四、五丈高き片岸の上より、上になり下になりころびけるが、ともに組みも離れずして、深田の中へころび落ちにけり。中吉下になつてければ、上げ様に一刀〔ひとかたな〕差さんとて、腰刀〔こしがたな〕を探りけるに、ころぶ時抜てや失せたりけん、鞘ばかりあつて刀はなし。
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ということで、中吉弥八、絶体絶命のピンチです。
このピンチを弥八はいかにして切り抜けるのか。

6927鈴木小太郎:2021/05/22(土) 20:56:12
「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その2)
屈強の武士に組み敷かれ、反撃しようにも武器もなく、今にも首を斬られそうになった中切弥八の運命やいかに、ということで続きです。(p79以下)

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上なる者、鬢〔びん〕の髪をつかんで頸を掻かんとしける処を、中吉、刀加〔かたなぐわ〕へに敵の小腕〔こうで〕をちやうと握りすくめて、「聞き給へ、申すべき事あり。御辺〔ごへん〕今は我をな怖れそ。刀があらばや跳〔は〕ね返して勝負をもせん。また続く御方〔みかた〕なければ、落ち重なりてわれを助くる人もあらじ。御辺の手に懸かりて死なん条疑ひなし。さりながら、われ名ある武士にてもなければ、首を取つて出だされたりとも、実検にも合ふまじ。高名〔こうみょう〕にもなるまじ。われは、六波羅殿の御雑色〔おんぞうしき〕に六郎太郎と申す者にて候へば、見知りぬ人は候ふまじ。無用の下部〔しもべ〕の頸を取つて罪を作らせ給はんよりは、わが命を扶〔たす〕けたび給へ、その悦びには、六波羅殿の銭を六千余貫、埋〔うづ〕めて隠されたる所を知りて候へば、手引〔てびき〕申して御辺に所得〔しょとく〕せさせ奉らん」と申しければ、誠〔まこと〕とや思ひけん、命を助くるのみならず、様々の引出物をし、もてなして京へ連れて上〔のぼ〕りたれば、六波羅の焼け跡へ行〔ゆ〕いて、「まさしくここに埋〔うず〕まれたりしものを、早や人が掘つて取つたりけるぞや。徳付け奉らんと思うたれば、耳のびくの薄さよ」と、欺〔あざむ〕いて、空笑〔それわら〕ひしてぞ帰りける。
 中吉が謀〔はかりごと〕に道開けて、主上、その日は江州、篠原の宿に着かせ給ふ。【後略】
-------

ということで、中吉弥八は自分は下っ端なので首を取っても価値はなく、それより自分は六波羅に六千貫が埋まっている場所を知っているから、命を助けてくれたらその場所を教えてやる、と言います。
その言葉を信じた敵は、弥吉の命を助けただけでなく、様々にもてなして六波羅の焼け跡まで連れて行ったところ、弥八は、「確かにここに埋めたのだが、誰かが先に掘ってしまったみたいだね。貴殿に得をさせてあげようと思ったが、貴殿は耳たぶが薄くて福相のない人ですな」と笑って逃げて行った、というストーリーですね。
飯倉氏は「中吉弥八はいったんは戦いを挑んだが、かえって組み伏せられてしまい、そのとき一策を案じ、六波羅に六〇〇〇貫の銭を埋めたところを知っているとだまして、野伏の一団を連れて行き、天皇一行を救い」と書かれているので、この弥八のエピソードを事実だと考えておられる訳ですが、どうなのか。
慌ただしく逃げ出した六波羅探題関係者が重くてかさばる銭を密かに埋めて行くことは、まあ、あっても不思議ではないですし、その話を聞いた者が情報提供者を伴って現場に向かうこともありそうです。
しかし、実際に現物を確認するまで、情報提供者を自由の身にすることがあり得るのか。
普通の武士であれば、弥八を縛って逃亡できないようにし、嘘をついたら殺すぞ、くらいの脅しをかけた上で現場に連れて行き、発見されなかったら即座に首を刎ねるはずです。
まあ、仮に発見できても、大金発見という噂が立って奪いに来るような者が出てくるのを防ぐために、弥八は口封じのためにやっぱり殺害、という展開になるかもしれません。
結局、この弥八のエピソードは、面白いので『太平記』の読者、聴衆は楽しむけれども、誰も本当には信じない笑い話ですね。
それなのに元「宮内庁書陵部首席研究官、陵墓調査官」の飯倉氏はこの話が事実だと思っておられるようで、何とも「正直者」だなあと感心します。
そこまで単純な「正直者」だったら、中世はとても生きて行けないよ、と私は考えますが、このセリフは少し前にも言ったような気がします。
ところで中吉弥八は『太平記』全巻を通してここ一ヵ所にしか登場しない人物ですが、同じ中吉姓の中吉十郎なる者が、同じ第九巻の少し前、第四節「足利殿大江山を打ち越ゆる事」に登場します。

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 ここに、備前国の住人中吉十郎〔なかぎりのじゅうろう〕と、摂津国の住人奴可四郎〔ぬかのしろう〕とは、両陣の手分けによつて搦手の勢の中にありけるが、中吉十郎、大江山の麓にて、道より上手〔うわて〕に馬を打ちのけて、奴可四郎を呼びのけて申しけるは、「そもそも心得ぬものかな。大手の合戦は火を散らして、今朝辰刻より始まりければ、搦手は芝居の長酒盛にさて休〔や〕みぬ。結句、名越殿討たれ給ひぬと聞いて、後ろ合わせに丹波路を指いて馬を早め給ふは、この人いかさま野心をさし挟み給ふと覚ゆるぞ。さらんに於ては、われらいづくまでか相順〔あいしたが〕ふべき。いざや、これより引つ返し、六波羅殿にこの由を申さん」と云ひければ、奴可四郎、「いしくも云給〔のたま〕ひたり。われも事の体〔てい〕怪しくは存じながら、これもまたいかなる配立〔はいりゅう〕かあらんと、とかく思案しつる間に、早や今日の合戦に外〔はず〕れぬる事こそ安からね。但し、この人〔ひと〕敵になり給ひぬと見えながら、ただ引つ返したらんは、余りに云ひ甲斐なく覚ゆれば、いざや、一矢〔ひとや〕射懸け奉つて帰らん」と云ふままに、中差〔なかざし〕取つて打ち番〔つが〕ひ、馬を轟懸〔とどろが〕けにかさへ打ち廻さんとしけるを、中吉〔なかぎり〕、「いかなる事ぞ、御辺〔ごへん〕は物に狂ひ給ふか。われらわづかに二、三十騎にて、あの大勢に懸け合うて、犬死〔いぬじに〕したらんは本意〔ほい〕か。鳴呼〔おこ〕の高名〔こうみょう〕はせぬに如かず。ただ事故〔ことゆえ〕なく引つ返して、後の合戦に命を軽くしたらんこそ、忠儀を存じたる者なりけりと、後までの名も留まらんずれ」と、再往〔さいおう〕制し留めければ、げにもとや思ひけん、奴可四郎も、中吉も、大江山〔おいのやま〕より引つ返して、六波羅へこそ帰りけれ。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10433

奴可四郎はいささか頭の弱い人物に設定されていて、二人のやりとりはコントのような趣があります。
「中吉(なかぎり)」という名字は、第七巻第九節「船上合戦の事」にも後醍醐の許に駆けつけた備前の武士の一群の中に見えており(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p367)、中吉十郎・弥八とも同族と思われますが、とにかく『太平記』の他の場面では全く登場しません。
二人は比較的近い場所に登場することもあって、『太平記』の作者は「中吉」に何かの記号的意味を持たせているようにも思えます。

6928鈴木小太郎:2021/05/23(日) 10:59:53
「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その3)
中吉弥八のエピソードが史実ではなさそうなので、歴史学の観点からは価値がないかというと、そんなことはなくて、時代の雰囲気を正確に伝えてくれる点では、こうした笑い話は本当に貴重です。
弥八のエピソードを創作した『太平記』の作者は、生きるか死ぬかのギリギリの境目で敵を騙して危機を脱した弥八を、詐欺師・ペテン師として倫理的に非難している訳ではなく、むしろその機知を賞賛しているのは明らかです。
戦場では騙す方ではなく騙される方が悪いのだ、という武家ならではの実践的な倫理観を表明している、と言ってもよいかもしれません。
そして『太平記』の聴衆・読者も、実際にはこんな展開はないよね、と思いつつも、ゲラゲラ笑って楽しんでいたはずです。
また、この笑い話から、戦場で綺麗ごとを言っていたら犬死するだけ、生きるためには手段を選んではいけない、という教訓を得た武士も多少はいたはずで、『太平記』には「武家生活の知恵」を提供する実用本としての側面もあったはずですね。

百科事典としての『太平記』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10532

さて、笑い話が大好きな『太平記』の作者・聴衆・読者に対して、現代の歴史研究者はいったいどんな人々なのか。
『地獄を二度も見た天皇 光厳院』の著者、飯倉晴武氏の場合、吉川弘文館の宣伝文句を借りれば、この本のテーマは、

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敗者は勝者からすべてを否定され、歴史から忘れ去られるのか。北朝初代の天皇、上皇となった光厳院は、南朝の後醍醐天皇や足利尊氏らの権力争いに翻弄された。味方の裏切りに遭い、護衛の集団自害を直視し、虜囚の身に突き落とされる生き地獄を味わう。明治期の「南北朝正閏問題」をへて、今日も歴代天皇から外された悲運の生涯とその時代を描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33751.html

というものですから、光厳院の悲劇を描く大河ドラマ的なストーリーにとって、『太平記』の笑い話は何とも調子はずれで迷惑な存在です。
しかし、飯倉氏は「正直者」なので、笑い話の存在を抹殺するようなことはせず、一応の筋はきちんと紹介されている訳ですが、それは『太平記』の原文を知るものにとっては何とも中途半端な書き方に見えます。
これが東京大学教授の新田一郎氏や遠藤基郎氏あたりになると、『太平記』の原文の引用の仕方はより複雑で巧妙ですね。

「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10391
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10392
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10393
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10394

遠藤基郎氏によるストイックな『太平記』研究の一例
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10399
「「院」 と「犬」 とを引っかけて、光厳院に対して、犬追物よろしく射懸けたあの諧謔の精神」(by 遠藤基郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10400

新田一郎氏と遠藤基郎氏では知性のタイプは異なりますが、とにかく職業的な歴史研究者になるためには大変な研鑽が必要で、桃崎有一郎氏が強調されるように、特に「史料批判〔テクスト・クリティーク〕」の訓練には多大の時間を要します。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10691

そして、こうした訓練に耐えられる資質の第一は、ものすごく真面目で粘り強いことですね。
結果として、職業的な歴史研究者の方々は相当に限られた特別なエリートであるとともに、一般社会の平均とは異質な、「笑い」に理解のない人々の集団でもある訳です。
ま、それは仕方ないといえば仕方ない話なのですが、『太平記』の時代は、日本史全体の中でも、こうした生真面目で粘り強いタイプのエリート層では見えにくい部分が極めて多い、かなり特殊な時代なのではなかろうか、という感じがします。
戦前はともかく、現在の中世史研究の世界には、別に桃崎氏が主張されるような「近代史学の闇」が広がっている訳ではありません。
しかし、隙があればギャグを挟んで来る『太平記』の作者、隙があればゲラゲラ笑いたい『太平記』の聴衆・読者に対し、生真面目な、笑い話は苦虫を嚙み潰したような顔で避けて通る現代の歴史研究者たちの間には、けっこうな隙間風がひゅるるんと吹いているのではなかろうか、と私は考えています。

6929鈴木小太郎:2021/05/24(月) 11:35:54
松尾剛次著『太平記 鎮魂と救済の史書』(その1)─「長崎の鐘」と『太平記』
中世史を専門とする職業的な歴史研究者は、みんな古文書・古記録をきちんと読む訓練を積んでおり、生真面目で粘り強い知性であることの保証書付きといえますが、生真面目にも色んなタイプがあります。
「戦後歴史学」の全盛期には「階級闘争史観」が一世を風靡したので、歴史学界には今でもその系統を継いた「科学運動」や「民衆史」が大好きなタイプの生真面目さんたちが相当の勢力を占めていますね。
呉座勇一氏は中世史学界に「階級闘争史観」が残存していることを厳しく批判されましたが、勇ましい語彙・文体から「階級闘争史観」の持ち主であったことが明らかな佐藤和彦氏(1937-2006)あたりの世代はともかくとして、今はせいぜい「階級闘争史観」の「残滓」、ないし「気分」が残っている程度ではないかと私は感じています。
例えば佐藤和彦門下の早稲田大学出身者が中心となって編まれた『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)を読むと、二十五人もの分担執筆者がいながら誰一人として歌人としての尊氏について論じていないといった不満はありますが、「階級闘争史観」みたいな古めかしい表現が似合いそうな硬直した論文は見当たりません。

全然すべてではない櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10570

また、かつてマックス・ウェーバーが大流行した名残として、「支配の正統性」や「理念型」等の難解な議論が大好きなタイプの生真面目さんもいて、東島誠氏あたりはその代表ですね。
更に、類似のタイプとして丸山真男流の「古層」「通奏低音」みたいな話が大好きな生真面目さんもいます。
ただ、南北朝時代に関して私が相当に問題だなと感じているのは、「怨霊」や「鎮魂」の話が大好きな宗教がらみの生真面目さんです。
山家浩樹氏もこうした傾向があるように感じますが、ただ、山家氏は非常に慎重な書き方をされる人なので、山家著にはこの種のタイプの問題点が鮮明には出てきません。
そこで、山家氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)の検討に戻る前に、もう少し分かりやすい研究者の議論を紹介しておきたいと思います。
いわば「怨霊莫迦」「鎮魂莫迦」とでも呼ぶべきこの種のタイプの生真面目さんの代表者は、何と言っても山形大学名誉教授・松尾剛次(まつお・けんじ)氏ですね。
ということで、松尾氏の『太平記 鎮魂と救済の史書』(中公新書、2001)を少し見て行きたいと思います。
同書は、

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はじめに
第一章 後醍醐天皇の物語としての『太平記』
第二章 登場人物から読む『太平記』
第三章 『太平記』の思想
第四章 『太平記』の作者と作品論
おわりにかえて
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と構成されていますが、「はじめに」は何の説明もなく、唐突にサトウハチロー作詞の「長崎の鐘」から始まります。
「長崎の鐘」と『太平記』の間に、一体どんな関係があるのか。

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  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ
  うねりの波の 人の世に
  はかなく生きる 野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  召されて妻は 天国へ
  別れてひとり 旅立ちぬ
  かたみに残る ロザリオの
  鎖に白き わが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  こころの罪を うちあけて
  更け行く夜の 月すみぬ
  貧しき家の 柱にも
  気高く白き マリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る
-------

参考:藤山一郎『長崎の鐘』
https://www.youtube.com/watch?v=z-000VudpMg

6930鈴木小太郎:2021/05/24(月) 13:51:46
松尾著(その2)「室町幕府(北朝方)の正史に準ずる歴史書であり、南北朝動乱で死んだ人々への鎮魂の書」
果たして「長崎の鐘」と『太平記』はどのように結びつくのか。
続きです。(p?以下)

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 昭和二十四(一九四九)年七月、サトウハチローが作詞し、古関裕而が作曲した、この「長崎の鐘」は藤山一郎の歌声とともに大ヒットした。この歌は、その年の一月に出版された永井隆(一九〇八~五一)の小説『長崎の鐘』に触発されたものである。
 永井は長崎医大助教授のとき被爆し妻を失った。『長崎の鐘』は、爆心地から七〇〇メートルの大学で被爆した瞬間と、それに続く長い救出・治療の模様の記録である。敬虔なクリスチャンだった永井は、重症を負いながら、医局の部下たちを励まし血まみれで被災者の治療に当たった。自宅にいた妻は即死、その骨を拾ったのは被爆三日目のことという。
 この歌の内容を説明する必要はない。だが、この歌が人々の心をとらえ、国民の愛唱歌になった理由は何だったのだろうか。第二次世界大戦の敗戦から四年、当時の日本人の多くが、空襲そのほか、多かれ少なかれ、永井と似たような体験、いや、思いをしていたはずだ。廃墟の中で、残された者同士はなぐさめあい、励ましあい、死せる者へは鎮魂(弔い)をしながら、前むきに生きていこうとしていた。人々は、自己の体験を永井のそれと重ね合わせて理解したのだろう。いわば、この歌は、約三百十万の死者を出した未曽有の敗戦の後で、生き残った者にとっては人生の応援歌、死者へは鎮魂の歌として受け入れられた。
 『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ。本書の主要なねらいこそ、それを明らかにすることにある。もっとも、『太平記』が扱う南北朝の動乱は、戦争の主体が武士であり、かつ、たとえば足利尊氏(一三〇五-五八)と直義(一三〇六-五二)兄弟、尊氏と直冬(生没年不詳)親子が敵味方となって戦ったように、一族が北朝方・南朝方に分かれ骨肉相争う国内戦であったのに対して、他方の第二次世界大戦は総力戦で、名も無き庶民も駆りだされた外国との戦いであった。そのように、戦争といっても、その規模や条件などには大きな相違がある。また、「長崎の鐘」にはキリスト教的救済が背景にあるのに対し、『太平記』は仏教による救済がある。さらに、「長崎の鐘」は歌手によって歌われるのに、『太平記』は太平記読という講釈師によって語られた、といった相違があることは承知のうえだ。
 『太平記』といえば、南朝方の人が南北朝動乱を描いた戦記物語というのが、教科書的な常識であるが、私は、十四世紀前半から末までの、世に南北朝の動乱と呼ばれる、うち続く戦争によって死んだ後醍醐天皇(一二八八-一三三九)をはじめとする人々への鎮魂と、その廃墟の中から立ち上がろうとし、室町幕府に結集した人々(とその子孫)の「応援歌」であったと考えている。いうなれば、室町幕府(北朝方)の正史に準ずる歴史書であり、南北朝動乱で死んだ人々への鎮魂の書であったと主張したい。
-------

「『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ」という主張は一応理解できましたが、果たして松尾氏は「それを明らかにすること」に成功したのか。
まあ、正直言って私は全く納得していませんが、私は自分の意見を人に押し付けようという志向はあまりないので、あくまで松尾氏の説明内容と『太平記』の原文を比較し、松尾氏の見解にどれだけの説得力があるのかを見て行きたいと思います。
さて、「はじめに」はこの後、「『太平記』は史学に益なし?」との小見出しの下、若干の説明がありますが、久米邦武等に関する一般的な説明なので省略します。
次いで「第一章 後醍醐天皇の物語としての『太平記』」に入ると、

-------
三部構成のあらまし
物語を貫く主人公とは
後醍醐天皇とはどんな人か
仏となった後醍醐
黒衣僧文観
第一部の後醍醐観
第二部の後醍醐観
第三部での後醍醐
-------

という順番で説明が続きます。
「後醍醐天皇はどんな人か」までは一般的な説明、「仏となった後醍醐」は神奈川県藤沢市の清浄光寺に伝わる後醍醐の有名な肖像画の話で、黒田日出男説が紹介されています。
「黒衣僧文観」は「官僧(白衣僧)」「遁世僧(黒衣僧)」といった松尾氏特有の用語はありますが、文観についての、今では若干古くなった感じがしなくもない説明です。
「第一部の後醍醐観」「第二部の後醍醐観」も一般的な説明ですが、「第三部での後醍醐」に入ると「怨霊となった後醍醐」についての若干詳しい説明があります。
「怨霊となった後醍醐」については、一般的な通史等ではあまり触れられないので、次の投稿で松尾氏の見解と『太平記』の原文を紹介します。

6931鈴木小太郎:2021/05/25(火) 08:33:02
松尾著(その3)「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」
松尾氏は「怨霊となった後醍醐」について、最初に『太平記』第二十三巻「大森彦七が事」を紹介して、後醍醐が「怨霊楠木正成の背後にいて指図し」、「崩御後も怨霊の頭目として、足利尊氏たちと戦い続けていた」とされますが、「大森彦七が事」は後で検討したいと思います。
ついで第三十四巻「吉野の御廟神霊の事」に関し、次のように書かれています。(p27以下)

-------
 さらに、延文五(一三六〇)年五月ころ、後村上天皇をはじめとする南朝方はしだいに敗色が濃くなり、皇居を金剛山の奥、観心寺(大阪府河内長野市)に遷し、君臣一同が、いつ敵に襲われるかと戦々恐々としていた。宮方の将来に絶望した一人の廷臣(『太平記』には上北面とあるから、院の御所の上北面に伺候した武士)が、出家しようと思い詰めたが、せめて現世の別れに、多年仕えた先帝後醍醐に暇乞いを申し上げようと御廟に参り、祭壇の前で通夜をした。その時に彼は、以下のように泣く泣く訴え祈り続けた。
 いったい今の世の中はどうなっているのか。威力があっても道義のない者は必ず滅ぶと言い置かれた先賢の言葉にも背いている。また、百代までは王位を守ろうと誓われた神約も実現されず、臣が君を犯しても天罰なく、子が父を殺しても神の怒ったためしがない。これはいったいいかなる世の中であろうか。
 夜通し嘆き続けているうちに疲れ果て、ついまどろんでしまったその時、夢に、御廟が振動して先帝が現れた。その姿は、次のようであった。

 昔の龍顔にはかはつて、怒れる御眸〔まなじり〕さかさまに裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉・羅
 刹の如くなり。まことに苦しげなる御息をつがせたまふ度ごとに、御口より焔〔ほのお〕はつと燃
 え出でて、黒煙〔くろけぶり〕天に立ち上る。 (巻三十四「吉野の御廟神霊の事」)

 すなわち、昔のお顔(龍顔とは天皇の顔のこと)とは大きく異なり、怒りに満ちた眼は逆さまに裂け、鬚は左右に分かれて、ただ夜叉(鬼神)・羅刹(人間をだまし、その肉を食うという悪鬼)のようなもの凄い形相であったという。また、まことに苦しげに息をつぎ、そのたびに口からは焔が出たという。
 そうした姿の後醍醐は、日野資朝・俊基を呼び出しており、足利討伐の謀議を始めたが、彼らの姿も「面〔おもて〕には朱を差したるがごとく、眼の光耀いて、左右の牙〔きば〕銀針〔ぎんしん〕を立てたるやうに、上下〔うえした〕におひ違ひたり」、すなわち、顔は朱に塗ったように赤く、眼は爛々と輝き、歯は銀の針を立てたように上下互い違いになっていた。ようするに、彼らも怨霊の姿であった。この時、日野資朝・俊基らが足利氏掃討の戦術を奏上すると、先帝は「まことに気持ちよさそうに笑って、さらば年号の変らないうちに、急いで退治せよ」と命じて御廟の内へお入りになったという。
-------

松尾氏の説明は『太平記』の記述を概ね正確になぞったものですが、念のため、原文も紹介しておきます。
なお、松尾氏は流布本(岩波大系)を用いておられますが、西源院本を引用します。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p329以下)
細かい表記の違い等を除き、内容的には殆ど同じです。

-------
 南方の皇居は、金剛山の奥、観心寺と云ふ深山〔みやま〕なれば、左右〔そう〕なく敵の近づくべき処ならねども、隻候〔せっこう〕の御警固に憑〔たの〕み思し召したる龍泉、平石、赤坂城も、攻め落とされぬ。昨日今日まで御方〔みかた〕なりし兵ども、今は皆、心を替へ申して御敵〔おんてき〕になりぬと聞こえしかば、「山人〔やまうど〕、杣人〔そまうど〕を案内者として、いかさまいずくの山までも、(敵)攻め入らんと申す」と、沙汰しければ、主上を始めまゐらせて、女院、皇后、月卿雲客には、いかがすべきと、怖〔お〕ぢ恐れさせ給ふ事限りなし。
 ここに二条禅定殿下の候人〔こうにん〕にてありける上北面、御方の官軍かやうに利を失ひ、城を落さるるの体〔てい〕を見て、敵のさのみ近づかぬ先に、妻子どもをも京の方へ送り遣はし、わが身も今は髻〔もとどり〕切つて、いかなる山林にも世を遁ればやと思ひて、先づ吉野辺まで出でたりけるが、さるにても、多年の奉公を捨てて、主君に離れまゐらせ、この境ひを立ち去る事の悲しさよ、せめて今一度〔ひとたび〕、先帝の御廟に参りて、出家の暇〔いとま〕をも申さんとて、ただ一人、御廟へ参りたるに、この騒ぎに打ち紛れ、人参り寄るとも覚えずして、荊棘〔けいぎょく〕道を塞ぎ、葎〔むぐら〕茂りて旧苔扉〔とぼそ〕を閉ぢたり。いつの間にかくは荒れぬらんと、ここかしこを見奉るに、金炉に香絶えて、草一叢の煙を残し、玉殿燈なくして、蛍五更〔ごこう〕の夜を照らす。
 飛ぶ鳥もあはれを催すかと覚え、岩漏る水の流れまでも、悲しみを呑む音なれば、終夜〔よもすがら〕、円丘の前に畏まつて、つくづくと憂き世の中のなり行く様を案じ続くるに、「そもそも今の世、いかなる世ぞや。「威あつて道なき者は必ず亡〔ぼう〕ず」と云ひ置きし先賢の言〔ことば〕にも背き、百王を護らんと誓ひ給ひし神約も誠〔まこと〕ならず。また、いかなる賎しき者までも、死しては霊となり、鬼となりて、かれを是し、これを非する理〔ことわ〕り明らかなり。況んや君、すでに十善の戒力〔かいりき〕によつて、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨はたとひ郊原の土に朽つるとも、神霊は定めて天地に留まつて、その苗裔を守り、逆臣の威をも亡ぼされんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯せども、天罰もなし。子父を殺せども、怒りをも未だ見ず。こは何となり行く世の中ぞや」と、泣く泣く天に訴へて、五体を地に投げ、礼をなす。余りに気くたびければ、首をうなだれ、少しまどろみてある夢の中に、御廟の震動する事やや久し。
 暫くあつて、円丘の内より、誠に気高げなる御声にて、「人や候ふ。人や候ふ」と召されければ、東西の山の峯より、「俊基、資朝、これに候ふ」とて参りたり。この人々は、君の御謀叛を申し勧めたりし者どもなりとて、去んぬる元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬られ、俊基はその後、鎌倉の葛原岡にて工藤二郎左衛門尉に斬られし人々なり。貌〔かたち〕を見れば、正しく昔見たりし体〔てい〕にてはありながら、面〔おもて〕には朱を差したるが如く、眼〔まなこ〕の光り耀いて、左右の牙針を立てたるやうに上下に生ひ違ひたり。その後、円丘の石の扉を押し開く音しければ、遥かに見上げたるに、先帝、袞龍〔こんりゅう〕の御衣〔ぎょい〕を召し、宝剣を抜いて御手に提げ、玉扆〔ぎょくい〕の上に坐し給ふ。この御貌〔おんかたち〕も、昔の龍顔には替はつて、怒れる御眸〔まなじり〕逆に裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉羅刹の如し。誠に苦しげなる御息をつかせ給ふ度ごとに、御口より炎ばつと燃え出でて、黒煙天に立ち上る。
 暫くあつて、主上、俊基、資朝を御前近く召して、「君を悩まし、世を乱る逆臣どもをば、誰にか仰せ付けて罰すべき」と勅問ありければ、俊基、資朝、「この事は、すでに摩醯脩羅王〔まけいしゅらおう〕の前に(て)議定あつて、討手を定められ候ふ」。「さて、いかに定めたるぞ」。「先づ、今南方の皇居を襲はんと仕り候ふ五畿七道の朝敵どもをば、楠木判官正成に申し付けて候へば、一両日の間に、追つ帰し候はんずるなり。仁木右京大夫義長をば、菊池入道寂阿に申し付けて候へば、伊勢国へぞ追つ下し候はんずらん。細川相模守清氏をば、土居、得能に申し付けて候へば、四国へ追つ下し、阿波国にて亡ぼし候はんずらん。東国の大将にて罷り上つて候ふ畠山入道道誓をば、殊更嗔恚強盛〔しんいごうせい〕の大魔王、新田左兵衛(佐)義興が申し請けて、治罰すべき由申し候へば、たやすかるべきにて候ふ。道誓が郎従をば、所々にて首を刎ねさせ候はんずるなり。中にも、江戸下野守、同じき遠江守二人をば、殊更悪〔にく〕い奴にて候へば、辰の口に引き居ゑて、わが手に懸けて切り候ふべし」と奏し申されければ、主上、誠に御快げに打ち咲〔え〕ませ給ひて、「さらば、やがて年号を替へぬ先に、疾く疾く退治せよ」と仰せられて、御廟の中へ入らせ給ひぬと見まゐらせて、夢は忽ちに醒めにけり。
 上北面、この示現に驚いて、吉野よりまた観心寺へ帰り参り、内々人に語りければ、「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」とて、さして信ずる人もなかりけり。
-------

もう少し続きがありますが、いったん、ここで切ります。

6932鈴木小太郎:2021/05/25(火) 21:42:56
松尾著(その4)「この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない」
前回投稿で引用した記事の内容を整理してみます。

1. 皇居、観心寺に移るも戦況悪化。
2.「二条禅定殿下」(二条師基)の家来である上北面、出家を決意。
3.「先帝」(後醍醐)の吉野の「御廟」に参り、終夜、「円丘」の前で思案。
3. 少しまどろんで夢を見ると、夢の中で「御廟」が振動。
5.「円丘」の内より「人や候ふ」という気高い声が発せられる。
6.「東西の山の峰」より、「俊基、資朝、これに候ふ」との返事あり。
7. 日野俊基・日野資朝の怨霊登場。
8.「円丘」の石の扉を押し開く音。
9. 後醍醐の怨霊登場。
10.後醍醐の怨霊、「君を悩まし、世を乱る逆臣」を誰に命じて罰するかを「勅問」。
11.俊基・資朝の怨霊、「すでに摩醯脩羅王の前にて議定」があり、討手は決定済み、と回答。
12.後醍醐の怨霊、「さて、いかに定めたるぞ」と重ねて「勅問」。
13.俊基・資朝の怨霊、役割分担を報告。
 (a)南方皇居を襲おうとしている「五畿七道の朝敵ども」……楠木正成
 (b)仁木義長……菊池武時
 (c)細川清氏……土井・得能
 (d)畠山道誓……新田義興
 (e)「道誓が郎従」の「江戸下野守、同じき遠江守」……俊基・資朝
14.後醍醐の怨霊、愉快そうに笑って「年号を替へぬ先に、疾く疾く退治せよ」と言いつつ「御廟」の中へ入る。
15.上北面、吉野から観心寺に戻り、人に語るも信用されず。

この後、流布本では「吉野の御廟神霊の事」の続きとして、西源院本では「諸国軍勢京都へ還る事」と節を変えて、次のような記述があります。
内容はほぼ同じですが、西源院本から引用します。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p334以下)

-------
 誠にその験〔しるし〕にやありけん、敵寄せば、なほ山深く主上をも落とし奉らんと、逃げ方を求めて戦はんとはせざりける観心寺の皇居へは、敵かつて寄せ来たらず。剰〔あまつさ〕へさしてし出だしたる事もなきに、南方の退治、今はこれまでぞとて、同じき五月二十一日、寄手の惣大将、宰相中将義詮朝臣、尼崎より帰洛し給へば、畠山、仁木、細川、土岐、佐々木、宇都宮以下、すべて五畿七道の兵二十万余騎、われ先にと上洛して、各〔おのおの〕が国々へぞ下りける。
 さてこそ、上北面が見たりと云ひし霊夢も、げにやと思ひ合はせられて、いかさま仁木、細川、畠山も、亡〔ほろ〕ぶる事やあらんずらんと、夢を疑ひし人々も、却〔かえ〕りてこれを憑〔たの〕みけり。
-------

ということで、

16.敵は観心寺の皇居は襲わず、撤退。
17.上北面の夢を信用しなかった人々も、改めてこれを信頼。

という展開になります。
夢の内容があまりに御都合主義的なので、「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」と冷笑していた人々も、事後的な展開から信用するに至った、とのことですね。
さて、松尾氏がこの話をどのように解釈されているのかを確認したいと思います。(p28以下)

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 この『太平記』の記事は、宮方の廷臣の夢物語にすぎないと思われがちである。しかし、古代・中世の人々にとって夢は、神・仏と交渉する回路と考えられ、夢で見たものは神・仏のメッセージと考えられたのである。それゆえ、この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない。実際、この夢のあとで足利方が兵を引いたことから、その夢は正夢として信じられたのである。後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援していると考えられていたことは明らかであろう。換言すれば、後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていたのである。
 以上のように、『太平記』を通覧してみて、『太平記』は三部を通じてひとまず後醍醐天皇の物語であったと納得していただけたと思う。
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うーむ。
「古代・中世の人々にとって夢は、神・仏と交渉する回路と考えられ、夢で見たものは神・仏のメッセージと考えられた」云々は、まあ、そういうことを言う人がけっこういますので、一般論としては間違いではないと思います。
しかし、この一般論を「吉野の御廟神霊の事」にそのまま当てはめて、「この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない」としてよいのか。
私見は次の投稿で述べます。

6933鈴木小太郎:2021/05/26(水) 10:47:42
松尾著(その5)「後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援」
紹介が遅れましたが、山形大学名誉教授・松尾剛次氏は仏教関係、特に真言律宗を中心に膨大な著作を発表されている方ですね。

松尾剛次(1954年生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%89%9B%E6%AC%A1

ただ、松尾氏の夢分析の具体例を見ると、率直に言って松尾氏は精神分析の初歩的な知識も持たれていないように思われます。
もちろん私自身にもさほどの知識はありませんが、ただ私は一時期、河合隼雄氏(1928-2007)の著作にけっこう嵌ったことがあります。

Only Yesterday─「立憲主義」騒動とは何だったのか?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8809
もう一つの「宗教と科学の接点」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10298

そこからさらにユングやフロイトに遡ってバリバリ勉強した訳ではありませんが、ユングやフロイトが日本人の夢を分析してくれている訳でもないので、日本人の夢の分析は、まあ、河合氏あたりの本を読めば素人としては充分だろうと思います。
そして、中世人の夢については、河合氏に『明恵 夢を生きる』(京都松柏社、1987)という著書があります。
少し検索してみたところ、大阪・中之島香雪美術館で明恵が見た夢をテーマにした特別展「明恵の夢と高山寺」を担当された学芸員の大島幸代氏が、河合氏の『明恵 夢を生きる』について、次のように書かれています。

-------
 「明恵の『夢記』は、今でいう夢日記。何月何日の夜にどんな夢をみたか、という形で記録されています。ただし、鎌倉時代の文体で書かれているうえに、ただでさえ夢というものはとりとめのない内容が多いので、全体像をつかむのはなかなか難しいと思います。夢分析で知られる心理学者の河合隼雄さんは、明恵がみた夢の世界とその意味を、分かりやすく解説しています。西洋の夢と比較しながら、仏教者であり日本人である明恵がみた夢を解釈していきます。現代から眺めると明恵の夢にはこんな意味づけができるのかと面白く読めます」

https://book.asahi.com/article/12222023

四十年間にわたって自分が見た夢を記録し続けた明恵はずいぶん変わった人ですが、この種のきちんとした夢の記録と比較すると、『太平記』の第三十四巻「吉野の御廟神霊の事」において、「二条禅定殿下」(二条師基)の家来である上北面が見たという夢は、あまりに整然としすぎていて、曖昧な部分が一つもないという特徴があります。
まあ、この点だけでも、上北面が見た夢は中世人の実際の夢の記録ではなく、『太平記』の作者の創作であることが明らかですね。
松尾氏は「古代・中世の人々にとって夢は、神・仏と交渉する回路と考えられ、夢で見たものは神・仏のメッセージと考えられた」という一般論から、いきなり、

この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない。
  ↓
実際、この夢のあとで足利方が兵を引いたことから、その夢は正夢として信じられたのである。
  ↓
後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援していると考えられていたことは明らかであろう。
  ↓
換言すれば、後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていたのである。

という論理(?)を展開されますが、この論理(?)に賛成できる人はあまりいないのではないかと私は思います。
『太平記』の作者(私見では複数)は本当に癖のある人(たち)であって、私自身は「後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていた」などとは想像もできません。
ここまで素直に『太平記』を読むことができる松尾氏は、私には本当に不思議な人に見えますが、それは松尾氏が「笑い」を全く理解しない人であることに関係しているように感じます。
「長崎の鐘」から始まった『太平記 鎮魂と救済の史書』は、『太平記』を素材としていながら最初から最後まで「笑い」が全く登場せず、相当に不気味な本でもあります。

6934鈴木小太郎:2021/05/26(水) 13:58:27
松尾著(その6)「歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)」
「第二章 登場人物から読む『太平記』」に入ります。
この章は、冒頭に、

-------
 これまで後醍醐の物語としての『太平記』、とくに怨霊となった後醍醐天皇に注目してみた。そこで、つぎに『太平記』を「怨霊の物語」という観点から見直してみたい。そのために、後醍醐以外の主要な登場人物に光を当ててみよう。
 なお、怨霊とは、恨みを含んだ死者の霊(死霊)または生霊のことで、この世に祟りをなすと信じられた。とくに、菅原道真のように非業の死を遂げた人が怨霊になると考えられた。仏教側は、怨霊となった人のために、お経を読んだり、寺院を建てるなどして供養すれば、怨霊は鎮魂される(鎮められ祟らなくなる)と説いたのである。
-------

とあって(p32)、その後、

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楠木正成
新田義貞
怨霊となった新田義貞父子
怨霊となった護良親王
足利尊氏と直義
足利直冬
怨霊を恐れる尊氏・直義
-------

という小見出しに従って、怨霊に満ち溢れた怪奇ワールドが紹介されます。
「楠木正成」については、最初の一般的な説明は省略し、怨霊に関係する部分から引用します。(p37以下)

-------
 ところで従来は、『太平記』において正成が怨霊となったとされることは、英雄・知将・忠臣としての正成像に比較して、ほとんど注目されていない。その像は、戦前においては、帝国臣民の模範としての正成像にふさわしくないと考えられて無視されたのであろうし、戦後は、怨霊は非科学的で、文学的想像上の産物とされて軽視されたのであろう。
 しかし、先述のように、『太平記』において、正成は怨霊となったと記されている。生まれ変わっても朝敵を滅ぼしたいとした(巻十六「正成兄弟討死の事」)死に際の妄念によって、巻二十三「大森彦七の事」のように正成は怨霊となったのである。
 暦応五(一三四二)年の春のころ、伊予国(愛媛県)から幕府に急使が到来してつぎのような不思議なことを注進した。伊予国に大森彦七盛長という武士がいた。全くの怖いもの知らずで、力は世の一般の人よりも優れていた。彦七は、建武三年五月、足利尊氏が九州より攻め上ったさいには、湊川の戦いに足利方の細川定禅に従って奮戦し、楠木正成に自害させた者である。その勲功により数ヵ所の領地を恩賞として賜り、それに奢って、ぜいたくな生活を営んでいた。
 そして、猿楽は寿命を延ばすものだからとして、お堂の庭に座敷を造り、舞台を構え、種々の華美を尽くした歌舞をなそうとした。近隣の人々はそれを聞きつけて集まってきた。彦七自身は、出演者の一人として、装束を下人に持たせて楽屋へ向かった。その途中、歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)と出会う。その女に猿楽の場所を聞かれたが、彦七は、あまりの美しさに桟敷への道案内をかってでた。さらに、女が歩みかねている様子を見て、女を背負って桟敷へ行こうとした。半町ほど背負って行ったところ、女はとたんに身の丈八尺(二メートル四〇センチ)の鬼となり、両目は朱色で、上下の歯はくい違って口の端は耳の付け根ほどまで広く割れ、眉は黒く額を隠し、振り分け髪の中からは五寸(一五センチ)ほどの子牛のような角が鱗をかぶって生いだしていた。鬼は、彦七の髪を掴んで空中に引き上げようとした。彦七も剛勇の者なので、鬼を掴んで深田の中へ転げ落ち、助けを求めた。加勢の者が近づいた時には、鬼はさっと消えていた。彦七は呆然自失の状態であり、その日の猿楽は中止になった。
-------

いったん、ここで切ります。
まだ、大森彦七の話の半分ほどですが、ここも念のため、原文を西源院本で見ておきます。
松尾氏は流布本を用いておられるので巻二十三としていますが、西源院本では第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」になります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p76以下)
流布本と西源院本では細かい表現にけっこうな異同がありますが、ストーリーの骨格は同じです。

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 その比、伊予国に希代〔きたい〕の不思議あり。当国の住人、大森彦七盛長と云ふ者あり。心飽くまで不敵にして、力尋常〔よのつね〕の人に超えたり。去んぬる建武三年五月に、将軍は筑紫より攻め上り、新田左中将は播磨より引き退いて、兵庫の湊川にて合戦ありし時、この大森の一族等、宗〔むね〕と手痛き合戦をして、楠判官正成に腹を切らせし者なり。されば、その勲功他に異なる間、数ヶ所の恩賞を給はりてけり。この悦び、一族ども寄り合うて、猿楽をして遊ぶべしとて、あたり近き堂の庭に桟敷を打ち、舞台を構へて、様々の風流〔ふりゅう〕を尽くさんとす。これを聞いて、近隣傍庄の貴賤男女、群れをなす事雲霞の如し。
 彦七もこの猿楽の衆なりければ、様々の装束ども下人に持たせて、楽屋へ行きける道に、年の程十七、八ばかりなる女の、赤き袴に柳裏の五絹〔いつつぎぬ〕着て、鬢〔びん〕深くそぎたるが、差し出でたる山の端の月に映じて、ただ独りたたずみたり。彦七、これを見て、覚えず、かかる田舎なんどに、かやうの女房いづくより来たりぬらんと、目もあてやかにて、誰が桟敷へか入ると見居たれば、この女房、彦七に立ち向ひて、「道芝の露打ち払ふべき人もなし。行くべき方をも誰に問はまし」と、打ちしほれたる気色〔けしき〕なり。彦七、あやしや、いかなる宿の妻〔さい〕にてかあるらんに、あやめも知らぬわざは、いかでかあるべきと思ひながら、いはん方なくわりなき姿に引かれて、「こなたこそ道にて候へ。御桟敷なんど候はずは、たまたまあきたる一間の候ふに、御入り候へかし」と云へば、女少し打ち笑ひて、「あなうれし、さらば、御桟敷へ参り候はん」と云ひて、跡に付いてぞ歩みける。
 羅綺〔らき〕にだも堪へざるかたち、誠にたをやかに物痛はしげにて、未だ一足も土をば踏まざりける人よと覚えて、行きなやみたるを見て、彦七、「余りに道も露深くして、御痛はしく候ふ。恐れながら、あれまで負ひまゐらせ候はん」とて、前に跪〔ひざまず〕きたれば、女房、「便〔びん〕なう、いかが」と云ひながら、やがて後ろに負はれぬ。白玉か何ぞと問ひし古〔いにし〕へも、げにかくやと知らるるばかりなり。
 彦七、踏む足もたどたどしく、心も空に空に浮かれて、半町ばかり行きたるに、さしもうつくしかりつる女房、俄かに長〔たけ〕八尺ばかりなる鬼になり、二つの眼〔まなこ〕は血をといて鏡の面〔おもて〕にそそきたるが如し。上下の歯食ひ違うて、口脇〔くちわき〕耳の根まで広く裂け、眉は漆にて百刷毛〔ももはけ〕塗りたるが如くして、額を隠したる振り分け髪の中より、五寸ばかりなる犢〔こうし〕の角、鱗〔いろこ〕をかづき生ひ出でたり。彦七、きつと驚きて、打ち捨てんとする処に、この怪物〔ばけもの〕、熊の如くなる手にて、彦七が髻〔もとどり〕を掴み、虚空に上がらんとす。彦七、元来〔もとより〕したたかなる者なりければ、これと引つ組んで、深田〔ふけだ〕の中へ込〔ころ〕び落ち、「盛長怪物と組んだり。寄れや者ども」とぞ呼ばはりたる声に付いて、次に下がりたる下人ども、太刀、長刀の鞘をはづし、走り寄つてこれを見れば、怪物は掻き消すやうに失せて、彦七は深田の中に臥したりけり。暫く心を静めさせて、引き起こしたれど、なお惘然として人心地もなければ、これただ事にあらずとて、その夜の猿楽をば止〔とど〕めてけり。
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6935鈴木小太郎:2021/05/26(水) 21:45:01
松尾著(その7)「貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣」
松尾著の続きです。(p38以下)

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 しかし、せっかく準備してきたのだからというので、再び吉日を定めて舞台を造って準備したところ、また見物人が集まってきた。猿楽も半ばほどに進んだころ、後醍醐天皇、大塔宮護良親王や楠木正成らの怨霊の一群が舞台の上を覆う森の梢にやってきた。見物人が恐れおののいていると、雲の中から、大森彦七殿に申しあげるべきことがあって楠木正成が参上した、と呼びかけた。彦七は、人は死して再び生き返るということはない。おそらく魂が怨霊となったのであろう。楠木殿はいったい何の用があってここに現れ、この私を呼ばれたのか、と問い返した。それに対して、正成は、私が生きている間は、種々の謀〔はかりごと〕をめぐらして北条高時の一族を滅ぼし、天皇を御安心させ、天下を朝廷のもとに統一させた。しかし、尊氏と直義兄弟が虎狼のごとき邪心を抱き、ついには帝の位を傾けてしまった。このため、死骸を戦場に曝した忠義の臣はことごとく阿修羅の手下となって怒りの心の安まる時がない。正成は彼らとともに、天下を覆そうと思ったが、それには貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣を必要とする。我ら多勢が三千世界を見渡すと、いずれも我が国にある。それらのうち、すでに二つは手にいれたが、最後の一つが貴殿の腰に帯する剣である。それは、元暦の昔に藤原景清が海中に落としたものである、という。彦七は将軍足利尊氏に二心〔ふたごころ〕ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった。
 以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。
-------

前回投稿で引用した部分、松尾氏は概ね原文に沿って丁寧に要約していますが、大森彦七の物語は本当に長大で、ここからは松尾氏の要約もかなり端折った形になっています。
ここでは煩を厭わず、原文を少しずつ正確に引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p80以下)

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 さればとて、この程馴らしたる猿楽を、さてあるべきにあらずとて、四月十五日の夜に及んで、件〔くだん〕の堂の前に舞台をしき、桟敷を打ち並べたれば、見物の輩〔ともがら〕群をなせり。猿楽すでに半ばなりける時、遥かなる海上〔かいしょう〕に、装束の唐笠ばかりなる光物〔ひかりもの〕二、三百出で来たり。海士〔あま〕の縄たく漁り火かと見れば、それにはあらで、一村〔ひとむら〕立つたる黒雲の中に、玉の輿を舁〔か〕いて、恐ろしげなる鬼形〔きぎょう〕の物ども、前後左右に連なる。その跡に、色々に鎧〔よろ〕うたる兵百騎ばかり、細馬〔さいば〕に轡〔くつがみ〕を噛ませて供奉〔ぐぶ〕したり。近くなるより、その貌〔かたち〕見えず、黒雲の中に電光〔いなびかり〕時々して、ただ今猿楽する舞台の上に差し覆ひたる森の梢にぞ止まりたる。
-------

松尾氏は「後醍醐天皇、大塔宮護良親王や楠木正成らの怨霊の一群が舞台の上を覆う森の梢にやってきた」とされていますが、この段階では「玉の輿」に誰がいるかは不明で、この場面の後、三、四日経過して、再び怪しい一団が登場したときに、正成と一緒に来たのは後醍醐・護良親王・新田義貞・平忠正・源義経・平教経の合計七人だ、という正成の口上が出てきます。
ま、細かいことですが。

-------
 見聞〔けんもん〕皆肝を冷やす処に、雲の中より高声〔こうしょう〕に、「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」とぞ申しける。彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ、少しも臆せず、「人死して再び帰る事なし。定めてその魂魄〔こんぱく〕の霊となり、鬼となりたるにてぞあるらん。それはよし、何にてもあれ、楠殿は何事の用あつて、今この場に現れて、盛長をば呼び給ふぞ」と問へば、楠、重ねて申しけるは、「正成存日〔ぞんじつ〕の間、様々の謀〔はかりごと〕を廻らして、相摸入道の一家を傾けて、先帝の宸襟を休めまゐらせ、天下一統に帰して、聖主の万歳〔ばんぜい〕を仰ぐ処に、尊氏卿、直義朝臣、忽ちに虎狼〔ころう〕の心を挿〔さしはさ〕みて、つひに君を傾け奉る。これによつて、忠臣義士尸〔かばね〕を戦場に曝す輩、悉く脩羅の眷属となりて、瞋恚〔しんい〕を含む心止む時なし。正成、かれとともに天下を覆さんと謀るに、(貪瞋痴の三毒を表して、必ず三つの剣〔つるぎ〕を用うべし。)われら大勢〔たいせい〕忿怒の悪眼〔あくがん〕を開き、剰〔あまつさ〕へ大三千界を見るに、願ふ処の剣、たまたまわが朝の内に三つあり。その一つは、日吉の大宮にありしを、法味〔ほうみ〕に替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、尊氏卿のもとにありしを、寵愛の童〔わらわ〕に入り替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、御辺〔ごへん〕のただ今腰に差したる刀なり。知らずや、この刀は元暦の古〔いにし〕へ、平家壇浦にて亡びし時、悪七兵衛景清が海に落としたりしを、江豚〔いるか〕と云ふ魚が呑んで、讃岐の宇多津の澳〔おき〕にて死す。海底に沈んで百余年を経て後、漁父の網に引かれて、御辺がもとへ伝はりたる刀なり。詮ずる所、この刀だにも、われらが物と持つ程ならば、尊氏卿の天下を奪はん事は、掌〔たなごころ〕の内にあるべければ、急ぎ進〔まいら〕せよと、先帝の勅定にて、正成参り向つて候ふぞ」と云ひもはてず、雷〔いかずち〕東西に鳴りはためいて、ただ今落ちかかるかとぞ聞こえたる。
-------

大森彦七盛長は、『太平記』ではこの第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」(流布本では第二十三巻「大森彦七事」)だけに登場する人物で、そもそも『太平記』の湊川合戦の場面では、「この大森の一族等、宗と手痛き合戦をして、楠判官正成に腹を切らせし者なり」などという記述は欠片もありません。
仮に同合戦で多少活躍したとしても、所詮、大森彦七は細川定禅の下で戦った大勢の武士たちの中の一人で(流布本による。西源院本には細川定禅の名前は出ておらず)、およそ楠木正成と対等に話し合えるような存在では全くありません。
しかし、この場面では、怨霊(または天狗)になった楠木正成は「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」という具合いに、ずいぶんと大森彦七に対して丁重です。
そして正成は、自分が大森彦七の前に登場したのは「貪瞋痴の三毒」を象徴する「三つの剣」のひとつを大森彦七が持っているので、それをもらいに来たのだと丁寧に事情を説明します。
ちなみに、残りの二つの剣は、「日吉の大宮にありしを、法味に替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、尊氏卿のもとにありしを、寵愛の童に入り替はりてこれを乞ひ取りぬ」と、別に聞かれもしないのに取得の事情を説明し、更に大森彦七が持っている剣は、

平家が壇の浦にて滅亡した時、悪七兵衛景清が海に落とす。
  ↓
イルカが飲んで、讃岐の宇多津の沖で死ぬ。
  ↓
海底に沈んで百余年を経て後、漁父の網に引かれて浮上。
  ↓
(漁夫から何らかの経緯で)大森彦七が取得。

という由来があることを、これまた聞かれもしないのに丁寧に解説してくれます。
そして最後の駄目押しとして、三剣を揃える目的は「尊氏卿の天下を奪はん」ためだと、ずいぶん馬鹿正直に告白してくれています。
実に怨霊(または天狗)の正成は博識で、フレンドリーで、「正直者」です。

6936鈴木小太郎:2021/05/27(木) 11:58:13
松尾著(その8)「今夜、いかさま楠出で来ぬと覚ゆるぞ。遮つて待たばやと思ふなり」
大森彦七のエピソードは本当に長くて、兵藤裕己校注『太平記(四)』では第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」は76~95ページまでの実に二十ページの分量があり、更に少し離れて第七節「篠塚落つる事」に関連記事が一ページ分あります。
前二回の投稿で紹介したのは、その中の最初の六ページ分だけで、全体の三分の一にも足りません。
そして、松尾氏が「彦七は将軍足利尊氏に二心〔ふたごころ〕ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった」とされる部分、実際に読んでみると従前よりも更に奇妙な記述が多いですね。
そこで、松尾氏のようなタイプの研究者が綺麗に整理した要約と、『太平記』を実際に読んだときに多くの人が感じるであろう印象の違いを確認するため、煩を厭わず、『太平記』の大森彦七エピソードの全文を紹介して行きます。
また、松尾氏は「以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという」とされており、これは流布本の記述としては正解ですが、西源院本では全く異なっています。
この点も後で検討します。
ということで、西源院本の続きです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p83以下)
博識でフレンドリーで「正直者」の正成の怨霊(または天狗)から、自分の持つ剣が檀の浦で悪七兵衛景清が海に落とした剣であることを教えてもらった大森彦七はどのように対応したのか。

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 盛長、これにもかつて臆せず、刀の柄を砕けよと拳〔にぎ〕つて申しけるは、「さては、先に女に化けて、我を誑かさんとせしも、御辺達の所行なりけり。御辺未だ存生〔ぞんしょう〕の時、盛長常に申し承りし事なれば、いかなる重宝なりとも、御用と承らん(に)惜しみ奉るべき事は一塵もなし。但し、この刀をくれよ、将軍を亡ぼし奉らんと承らんに於ては、えこそ進〔まいら〕すまじけれ。身、不肖なりと云へども、盛長、将軍の御方〔みかた〕に於ては、二心〔ふたごころ〕なき者と知られまゐらせて候ひし間、恩賞あまた所給はつて、その悦びにこの猿楽を仕つて遊ぶにて候ふ。勇士の本意〔ほい〕、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々〔つだつだ〕に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進すべからざる上は、早や御帰り候へ」とて、虚空を睨〔にら〕みて立ち向かへば、正成、以ての外〔ほか〕に怒れる言〔ことば〕にて、「何とも云へ、つひには取らんずるものを」と罵りて、また元の如く光り渡り、海上遥かに飛び去りにけり。見物の貴賤、これを見て、ただ今天へ引つさげられて上がりぬと、肝心〔きもこころ〕身に添はねば、親は子を呼び、子は親の手を引いて、四方四角へ逃げける間、また今夜〔こよい〕の猿楽も、式三番にて止みにける。
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正成の怨霊(または天狗)は、長々と口上を述べた割には、拍子抜けするくらいあっさりと帰ってしまいますね。
他方、正成の脅しに全く屈することなく、「この刀をくれよ、将軍を亡ぼし奉らんと」聞いたからには、「将軍の御方に於ては、二心なき者と」評判の自分は「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも」、この剣を渡す訳にはいかないと「虚空を睨みて立ち向か」う大森彦七はなかなか格好良く、この言葉に喝采を送る聴衆・読者も多かったでしょうね。
さて、続きです。(p84以下)
美しい女房が大森彦七の背中に乗るや怪物に変貌した第一幕、日を改めて猿楽を催したら、楠木正成が登場して自己紹介をした後、悪七兵衛景清からイルカ経由で大森彦七に渡った剣の由来を教えてくれた第二幕に続いて、正成の同行者が誰であったかが明らかになる第三幕の幕開きです。

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 また三、四日あつて、夜半ばかりに、雨一通り(降り)、風冷やかに吹いて、電光〔いなびかり〕時々しければ、盛長、「今夜、いかさま楠〔くすのき〕出で来ぬと覚ゆるぞ。遮つて待たばやと思ふなり」とて、中門に敷皮〔しきがわ〕しかせ、鎧一縮〔いっしゅく〕して、二所藤〔ふたところどう〕の大弓に、中指〔なかざし〕二、三抜き散らし、鼻油〔はなあぶら〕引いて、怪物〔ばけもの〕遅しとぞ待ち懸けたる。
 案の如く、夜半過ぐる程に、さしも隈なかりつる中空の月、俄にに掻き曇り、黒雲一村〔ひとむら〕立ち覆へり。雲の中に声あつて、「いかに、大森彦七殿はこれにおはするか。先度〔せんど〕仰せられし剣〔つるぎ〕の事、新田刑部卿義助たまたま当国に下りてあり。かの人に威を加へて、早速の功を致さしめんためなり。剣を急ぎ進〔まいら〕せられ候へとて、綸旨をなされて候ふ間、勅使にて正成また罷り向かつて候ふぞ」とぞ申しける。彦七、聞きもあへず庭へ出で向つて、「今夜は定めて来たり給はんずらんと存じて、宵よりこれに待ち奉りてこそ候へ。初めは何ともなき天狗、怪物なんどの化けて云ふ事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及び候はざりき。今慥〔たし〕かに綸旨を帯したるぞと承り候へば、さては楠殿にておはしけりと、信を取る間、事永々〔ながなが〕しきやうに候へども、不審の事どもを尋ね申して候ふ。先づ、相伴ふ人あまたありげに見え候ふは、誰々にて候ふぞ。御辺〔ごへん〕は今、六道四生〔ろくどうししょう〕の間、いづれの所に生〔しょう〕じておはするぞ。委〔くわ〕しく御物語り候へ」と問うたりける。
-------

第二十四巻第一節「義助朝臣予州下向の事、付〔つけたり〕道の間高野参詣の事」は、「暦応三年四月三日、脇屋刑部卿義助朝臣、吉野殿の勅命を含んで、西国征伐のために、先づ伊予国へ下向せらる」で始まっていますが(p73)、正成はこうした状況を踏まえ、「新田刑部卿義助たまたま当国に下りてあり。かの人に威を加へて、早速の功を致さしめんためなり」という具合いに、大森彦七に剣を求める理由を、前回より更に詳しく具体的に説明してくれます。
なお、史実では脇屋義助の伊予下向は暦応三年ではなく暦応五年(1342)の出来事です。

脇屋義助
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%B1%8B%E7%BE%A9%E5%8A%A9

また、話の流れとは全然関係ありませんが、「遮つて待たばやと思ふなり」の「遮って」の用法は、元弘三年四月二十九日付の大友貞宗あて尊氏書状の解釈の関係で、森茂暁氏の見解を紹介したことがあります。

「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10497

さて、大森彦七の問いかけに対する楠木正成の回答やいかに。

6937鈴木小太郎:2021/05/27(木) 14:39:36
松尾著(その9)「元来摩醯首羅の所変にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」
第二幕では手ぶらで登場した楠木正成の怨霊(または天狗)は、第三幕では後醍醐の「綸旨」を持参し、「勅使」と称して登場します。
大森彦七も、「初めは何ともなき天狗、怪物なんどの化けて云ふ事ぞ」と思って「委細の問答にも及」ばなかったが、今回「慥かに綸旨を帯したるぞと承」ったので、本当に「楠殿にておはしけり」と信用し、「不審の事どもを尋ね申して候ふ」という展開となります。
「綸旨」の存在、より正確には「綸旨」が存在するとの正成の言明が身分証明として機能している訳ですね。
そして、大森彦七は「先づ、相伴ふ人あまたありげに見え候ふは、誰々にて候ふぞ。御辺は今、六道四生の間、いづれの所に生じておはするぞ。委しく御物語り候へ」と質問します。
これに対して正成は次のように答えます。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p85以下)

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 その時、正成近々と降り下がつて、「正成が相伴ひ奉る人には、先づ先帝後醍醐天皇、兵部卿親王、新田左中将義貞、平馬助忠正、九郎大夫判官義経、能登守教経、正成加へて七人なり。その外〔ほか〕、数万人〔すまんにん〕ありと云へども、泛々〔はんばん〕の輩〔ともがら〕は未だ数ふるに足りず」とぞ語りける。盛長、「そもそも先帝は、いづくに御座候ふぞ」と問へば、正成、「元来〔もとより〕摩醯首羅〔まけいしゅら〕の所変〔しょへん〕にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」と云ふ。「さて、相順〔あいしたが〕ひ奉る人々はいづくにぞ」と云へば、「悉〔ことごと〕く脩羅の眷属となりて、(或時は天帝と戦ひ、)或る時は人間に下つて、瞋恚強盛〔しんいごうじょう〕の人に入り替はる」と答ふ。「さて、御辺はいかなる姿にておはするぞ」と問へば、「正成も最期の悪念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼〔せんずおうき〕と云ふ鬼になつて、七頭〔しちず〕の牛に乗れり。不審あらば、いでその有様を見せん」とて、炷松〔たいまつ〕を十四、五、同時にさつと振り挙げたれば、闇の夜忽ちに昼の如くになりたり。
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ということで、正成に同行して来た怨霊(または天狗)六人とその現状は次の通りです。

「先帝後醍醐天皇」……「欲界の六天に御座」
「兵部卿」護良親王……「脩羅の眷属」
「新田左中将義貞」……同上
「平馬助〔へいうまのすけ〕忠正」……同上
「九郎大夫判官義経」……同上
「能登守教経」……同上

平忠正は平忠盛の弟で、保元の乱で崇徳院方に付いて敗れ、甥の清盛に斬られた人であり、平教経は平教盛の子、清盛の甥で、『平家物語』では勇猛な武人として活躍後、檀の浦に入水した人ですね。
この二人もそれなりの人物ではありますが、他の著名人と比べると、怨霊(または天狗)としてもちょっと格落ちのような感じがしないでもありません。

平忠正(?-1156)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%AD%A3
平教経(1160-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%95%99%E7%B5%8C

正成自身はというと、「最期の悪念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼と云ふ鬼になつて、七頭の牛に乗れり」とのことで、自分が「罪障深」い存在だったから、「千頭王鬼と云ふ鬼」になってしまったと認めており、ある意味、謙虚な自己認識ですね。
そして、正成は、別に大森彦七が「不審」を表明している訳でもないのに、「不審あらば、いでその有様を見せん」と先回りして盛大に松明を灯します。
あたかも舞台の照明が一斉に点じられた如く、「闇の夜忽ちに昼の如くに」なって明らかになった光景は次の通りです。(p86以下)

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 その光に付いて虚空を遥かに見たれば、一村〔ひとむら〕立つたる雲の中に、十二人の鬼ども、玉の御輿を舁〔か〕いて捧げたり。その次に、兵部卿親王、八龍に車を懸けて扈従〔こしょう〕し給ふ。新田左中将義貞、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経、混甲〔こたかぶと〕五百余騎にて後陣に支〔ささ〕ふ。また四、五町引き下がりて、能登守教経、三百余艘の兵船〔ひょうせん〕を漕ぎ並べて、雲霞〔うんか〕の浪に打ち浮かべば、平馬助忠正、赤旗一流〔ひとなが〕れ差させて懸け出でたり。また虚空遥かに落ち下がりて、楠判官は、平生〔へいぜい〕見し時の貌〔かたち〕に変はらず、紺地の鎧直垂〔よろいひたたれ〕に黒糸の鎧着て、頭〔かしら〕の七つある牛にぞ乗つたりける。この外〔ほか〕、保元平治に討たれし者ども、近比〔ちかごろ〕元弘建武に亡びし兵ども、雲霞の如く充ち満ちて、虚空十里ばかりが間には、隙〔ひま〕透き間ありとも見えざりけり。
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ここで始めて、第二幕で「玉の輿」に乗っていた人物が後醍醐であったことが明確にされます。
さて、この光あふれる数万人の壮麗な大軍団を見せつけられた大森彦七の心境やいかに。

6938鈴木小太郎:2021/05/27(木) 22:01:36
松尾著(その10)「一翳眼に在れば、空花乱墜す」
続きです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p87以下)

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 この有様ただ盛長が幻〔まぼろし〕にのみ見て、他人の目には見へざりければ、盛長、左右を顧みて、「あれをば見るか」と云はんとすれば、忽ち消え去つて、正成が物謂〔い〕ふ声ばかりぞ残りける。盛長、これ程の不思議を見つれども、その心なほも動ぜず、「「一翳〔いちえい〕眼〔まなこ〕に在れば、空花乱墜〔くうげらんつい〕す」と云へり。千変百怪〔せんぺんひゃっかい〕、何ぞ驚くに足らん。たとひいかなる第六天の魔王どもが来たつて云ふとも、この刀をば進〔まいら〕せ候ふまじいぞ。さらんに於ては、例の手の裏を返すが如きの綸旨給ひても詮なし。早や、面々に御帰り候へ。この刀をば将軍へ進〔まいら〕せ候はんずるぞ」と云ひ捨てて、内へ入れば、正成、大きにあざ笑ひて、「この国たとひ陸地〔くがち〕に続きたりとも、道をばたやすく通すまじ。まして海上〔かいしょう〕を通らんに、やる事ゆめゆめあるまじ」と、同音〔どうおん〕にどつと笑うて、西を指してぞ飛び去りける。
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兵藤裕己氏の脚注によれば、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」は『景徳伝燈禄』(北宋の道原撰の禅宗の僧伝)巻十に見える言葉で、「眼に一つでも曇りがあると、実在しない花のようなものが見える。煩悩があると種々の妄想が起こる意」だそうです。
「これ程の不思議を見つれども」全く動じない大森彦七は相当の人物ですが、その勇敢な行動を支える論理は、

「一翳眼に在れば、空花乱墜す」という真理に照らせば、自分が見た数万人の大軍団も煩悩から生じた単なる妄想であり、「千変百怪、何ぞ驚くに足」りないのである。
  ↓
従って、自分は「たとひいかなる第六天の魔王どもが来たつて云ふとも、この刀をば」絶対に渡さない。
  ↓
そうである以上、「例の手の裏を返すが如きの綸旨」など貰っても意味がない。
  ↓
であるから、正成その他の連中は「早や、面々に御帰り」下さい。自分は「この刀をば将軍へ」進呈することにします。

ということで、大森彦七は決して無教養な乱暴者ではなく、禅宗をその思想的基盤とするなかなかの理論家として造型されていることが分かります。
また、大森彦七の発言の中で、「例の手の裏を返すが如きの綸旨給ひても詮なし」という表現は格別に面白いですね。
ここは禅宗とは関係なくて、むしろかつて後醍醐が綸旨を濫発して大混乱を起こした結果、多くの武家が味わった苦い経験を踏まえての「綸旨」に対する警戒的・軽蔑的姿勢の現れと考えることができそうです。
第二幕では手ぶらだった正成は、第三幕では後醍醐の「綸旨」を持参し、「勅使」と称して仰々しく登場した訳ですが、「例の手の裏を返すが如きの綸旨」などよりは将軍から戴く文書の方がよっぽど有難いぞ、という手厳しい反撃を受けたことになります。
さて、数万人の壮麗な大軍団であることを誇示したにもかかわらず、第二幕と同様、正成に率いられた怨霊(または天狗)の一行は、意外にあっさりと引き返して行きますが、話はまだまだ続きます。
第四幕に入ると、怪異に沈着冷静に対応していた大森彦七は「物狂ひ」になってしまい、一族は彦七を座敷牢に閉じ込め、周囲を警固するという展開となります。(p88以下)

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 その後〔のち〕より、盛長、物狂〔ものぐる〕ひになつて、山を走り、水を潜る事止む時なく、太刀を抜き、矢を放つ事隙〔ひま〕なかりける間、一族以下〔いげ〕数百人相集つて、盛長を一間〔ひとま〕なる処に押し籠めて置き、おのおの弓箭兵杖を帯して、警固の体〔てい〕にてぞ居たりける。
 或る夜、また雨風一〔ひと〕しきり過ぎて、電光〔いなびかり〕繁〔しげ〕かりければ、「すはや、例の楠〔くすのき〕来たりぬ」と怪しむ処に、案の如く、盛長が寝たる枕の障子をがはと踏み破つて、数十人打ち入る音しけり。警固の者ども起き騒ぎて、太刀、長刀の鞘をはづし、夜討〔ようち〕入りたりと心得て、敵はいづくにかあると見れども、更になし。こはいかにと思ふ処に、天井より、猿の手の如くに毛生〔お〕ひて長き腕〔かいな〕を差し下ろし、盛長が髻〔もとどり〕を取つて中〔ちゅう〕に引つさげて、八風〔はふ〕の口より出でんとす。盛長、中にさげられながら、件の刀を抜いて、怪物〔ばけもの〕の臂〔ひじ〕のかかりの辺を三刀〔みかたな〕差す。差されて少し弱りたる体〔てい〕に見えければ、むずと引つ組んで、八風より広廂〔ひろびさし〕の軒〔のき〕の上にころび落ちて、また七刀〔ななかたな〕までぞ差したりける。怪物急所をや差されたりけん、脇の下より鞠の如くなる物、つつと抜け出でて、虚空を指して去りにけり。
 警固の者ども、梯〔はし〕をさして屋〔や〕の上に昇り、その跡を見るに、一つの牛の頭〔かしら〕あり。「これはいかさま楠が乗つたる牛か。しからずは、その魂魄の宿れる物か」とて、この頭を中門の柱に吊り付けて置いたれば、家終宵〔よもすがら〕鳴りはためきて揺るぎける間、微塵に打ち砕いて、則ち水の底にぞ沈めける。
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ということで、第四幕では彦七が問題の剣を振るって怪物の体の一部を切り落とす、というダイナミックな要素が加わっている点に若干の新味はありますが、怪物が大森彦七を空中にさらって行こうとするも失敗する、という展開は第一幕と同じですね。
ついで第五幕に入りますが、第四幕の攻撃方法が若干単調だったためか、第五幕ではより巧妙な手法が考案されています。

6939鈴木小太郎:2021/05/28(金) 10:49:02
松尾著(その11)「大きなる寺蜘一つ、天井より下がりて、寝ぬる人の上をかなたこなた走りて」
大森彦七物語もかなり長くなったので、改めてここまでの話の流れを整理すると、

第一幕 大森彦七の背に負われた美女が突如として「長八尺ばかりなる鬼」に変身。「この怪物、熊の如くなる手にて、彦七が髻を掴み、虚空に上がらんと」して彦七と格闘となり、彦七が配下を呼ぶと「怪物は掻き消すやうに失せ」る。

第二幕 猿楽上演の途中に「黒雲の中に、玉の輿を舁いて、恐ろしげなる鬼形の物ども」が、「色々に鎧うたる兵百騎ばかり」を連れて現れる。雲の中から「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」との声があり、彦七と問答。正成は彦七の持つ剣の由来を説明し、引き渡しを求めるも、彦七は断固拒否。正成は怒るも特に彦七に危害を加えるようなことはせず、「何とも云へ、つひには取らんずるものを」という捨て台詞を残して、意外にあっさりと退去。

第三幕 黒雲の中から声があり、正成が後醍醐の綸旨を持参し、「勅使」を称して改めて彦七に剣を要求。彦七が同行者は誰か、正成は現在どのような境遇に置かれているのかを問うと、第二幕までは声だけの出演だった正成が「近々と降り下がつて」、彦七と対面で応答。正成が松明を振ると「闇の夜忽ちに昼の如くになり」、虚空には「玉の御輿」に乗った後醍醐以下、数万人の大軍団が出現。ただ、この一大スペクタクルは彦七以外には見えず。彦七が剣の引渡しを再び断固拒否すると、正成は「大きにあざ笑」たものの、特に彦七に危害を加えるようなことはせず、「この国たとひ陸地に続きたりとも、道をばたやすく通すまじ。まして海上を通らんに、やる事ゆめゆめあるまじ」という捨て台詞を残して、意外にあっさりと退去。

第四幕 彦七が物狂いになったため、一族は彦七を座敷牢に閉じ込め、周囲を警固していると、ある夜、「数十人打ち入る音」がしたものの、敵の姿は見えず。しかし、「天井より、猿の手の如くに毛生ひて長き腕を差し下ろし、盛長が髻を取つて中に引つさげて、八風の口より出」ようとする。彦七は剣を抜いて怪物に何度も切りつけたところ、「怪物急所をや差されたりけん、脇の下より鞠の如くなる物、つつと抜け出でて、虚空を指して去りにけり」。屋根の上には「一つの牛の頭」が残されていた。

ということで、第二幕と第三幕はパターンが似ていますね。
また、第一幕では怪物が「熊の如くなる手にて、彦七が髻を掴み、虚空に上がらんと」し、第四幕では「猿の手の如くに毛生ひて長き腕を差し下ろし、盛長が髻を取つて中に引つさげて、八風の口より出」ようとしたということですから、熊と猿の違いはあっても、何だか同じような展開です。
なお、松尾氏は第一幕で登場した美女が「実は正成の怨霊」だと言われますが、第四幕と比較すると、怪物は正成自身ではなく、正成の配下の「修羅の眷属」であって、怨霊ないし天狗としてもそれほどレベルの高くない存在と設定されているように思われます。

松尾著(その6)「歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10724

さて、作者も第四幕での攻撃方法の単調さが気になったのか、第五幕ではもう少し手の込んだ手法が採用されています。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p90以下)

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 その次の夜も、月曇り、風荒くして、怪しき気色〔けしき〕に見えければ、警固の者ども数百人、十二間の遠侍〔とおさぶらい〕に並び居て、終夜〔よもすがら〕睡〔ねぶ〕らじと、囲碁、双六を打ち、連歌をしてぞ遊びける。夜半過ぐる程に、上下三百余人ありける警固の者ども、同時にあくびをしけるが、皆酔へる者の如くになりて、首をうなだれて眠〔ねぶ〕り居たり。その座中に、禅僧の一人〔いちにん〕、睡らでありけるが、燈〔とぼしび〕の影より見ければ、大きなる寺蜘〔てらぐも〕一つ、天井より下がりて、寝〔い〕ぬる人の上をかなたこなた走りて、また元の天井へぞ上がりける。その後、盛長俄かに驚き、「心得たり。さはせらるまじきものを」とて、人に引つ組んだる体〔てい〕に見へて、上になり下になりころびけるが、叶はぬ詮〔せん〕にやなりけん、「寄れや、者ども」と申しければ、あたりに伏したる数百人の者ども、起き上がらんとするに、或いは髻〔もとどり〕を柱に結ひ付けられ、或いは人の手を我が足に結ひ合はせられて、起き上がらんとすれども叶はず、ただ網に懸かりたる魚の如し。一人睡らでありつる禅僧、余りの不思議さに走り立つて見れば、さしも強力〔ごうりき〕の者ども、わずかなる蜘〔くも〕の井に手足をつながれて、ちとも働き得ざりけり。
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ということで、「警固の者ども数百人」が「終夜睡らじと、囲碁、双六を打ち、連歌をして」遊んでいたにも関わらず、何故か禅僧一人を除いて全員が一時に眠り込んでしまい、その隙に「大きなる寺蜘」があちこち駆け回って、蜘蛛の糸で全員を身動きできないようにしてしまいます。
何となく、昨年秋に公開されて話題になったアニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』を連想させるような展開です。
怪物と格闘するも戦況は極めて不利、「寄れや、者ども」と叫べども誰一人応援に来てくれない絶体絶命のピンチに追い込まれた大森彦七の運命やいかに。

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 されども、盛長、「怪物をば、取ちて押さへたるぞ。火をともして寄れ」と申しければ、警固の者ども、とかくして起き上がり、蝋燭ともして見るに、盛長が押さへたる膝の下に、怪しき物あり。何とは知らず、生きたる物よと覚えて、押さへたる膝を持ち上げんと蠢〔むぐめ〕きける間、諸人手に手を重ねて、逃がさじと押す程に、大きなる瓦気〔かわらけ〕の破〔わ〕るる音して、微塵に砕けけり。その後、手をのけて委〔くわ〕しくこれを見れば、曝〔され〕たる死人の首、眉間の半ばより破れて砕けたり。盛長、暫く大息ついて、「すでに奴〔きゃつ〕に刀を取られんとしたりつるぞや。いかにするとも、盛長が命のあらん程は、取らるまじきものを」と、気色〔きしょく〕ばうで腰を掻い探りたれば、刀はいつのまにか取られけん、鞘ばかりあつてなかりけり。これを見て盛長、「すでに妖鬼に魂を奪はれぬ。武家の御運、今は憑〔たの〕みなし。こはいかがすべき」と、色を変じ、涙を流し、わなわなと震ひければ、皆人〔みなひと〕、身の毛よだつてぞ覚えける。
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ということで、彦七の気づかないまま、剣は怪物に奪われてしまいます。

6940鈴木小太郎:2021/05/28(金) 23:08:34
松尾著(その12)「眉太く作つて、金黒なる女の頸の、回り四、五尺もあるらんと覚えたるが」
「警固の者ども数百人」は蜘蛛の糸に絡めとられてしまって何の役にも立たず、大森彦七はたった一人奮戦して何かを取り押さえますが、彦七が膝の下に抑え込んだそれを、逃がすまいとして皆で押さえつけると「大きなる瓦気の破るる音して、微塵に砕け」てしまいます。
結局、それは「曝たる死人の首」、野ざらしになっていたしゃれこうべということで、これで一安心かと思いきや、彦七は肝心の剣がいつの間にか無くなっていることに気付いて驚愕します。
ただ、この後、次のような展開となります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p92)

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 有明の月の隈なく、中門〔ちゅうもん〕に差し入りたるに、簾台〔れんだい〕を高く巻き上げさせて、庭上〔ていしょう〕を遥かに見出だしたれば、空中より、手毬の如くに見えたる物、ちと光りて叢〔くさむら〕の中へ落ちたり。なにやらんと走り出でて、これを見れば、先に盛長に押し砕かれつる首の、半ば残りたるに、件〔くだん〕の刀自〔おの〕づから抜けて、柄口〔つかぐち〕まで突き貫ぬいてぞ落ちたりける。不思議なんど云ふもおろかなり。やがてこの首を取つて、火に投げくべたるに、火の中より跳〔おど〕り出でけるを、金鋏〔かなばさみ〕にてしかと挟みて、つひに焼き砕いてぞ捨てたりける。
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「空中より、手毬の如くに見えたる物」が落ちて来て、それは大森彦七に「押し砕かれつる首の、半ば残りたる」ものであって、そこに問題の剣が刺さっていた、ということですが、今一つ事情が分かりません。
怪物の実体は野ざらしのしゃれこうべであり、それは彦七との格闘中に彦七によって二つに割られてしまったか、あるいは自ら二つに分かれてたか、とにかく半分だけになってもしぶとく彦七の剣を奪って上空に逃れたものの、そこで剣が自発的に動き出し(?)、残り半分を刺し貫いた、ということでしょうか。
あるいは、彦七との格闘中、剣が「自づから抜けて」しゃれこうべを刺し貫き、そこで二つに割れて半分は彦七が抑え込み、残り半分は剣に突き刺されたまま上空に逃げたものの、力尽きて落ちて来た、ということでしょうか。
「自づから抜けて」というのは鞘から抜けたということでしょうから、後者の解釈の方が自然かもしれませんが、この辺り、ストーリーの展開がちょっと雑になっているような感じがしないでもありません。
また、第四幕では「怪物急所をや差されたりけん、脇の下より鞠の如くなる物、つつと抜け出でて、虚空を指して去りにけり」とありましたが、この「鞠の如くなる物」は第五幕の「手毬の如くに見えたる物」と同じ物、即ち野ざらしのしゃれこうべということなのでしょうか。
いろいろ謎ですが、この後、更に続きがあります。

-------
 事静まりて後、盛長、「今はこの怪物〔ばけもの〕、よも来たらじと覚ゆる。その故は、楠がともなふ者七人ありと云ひしが、かくて早や来たる事七度なり。これまで(にて)ぞあるらん」と申せば、諸人、「げにもさ覚え候ふ」と云ふを聞いて、虚空にしわがれたる声にて、「よも七人には限り候はじ」と、あざ笑う声しけり。こはいかにと驚いて、諸人、空を見上げたれば、庭なる鞠の懸かりに、眉太く作つて、金黒〔かねぐろ〕なる女の頸〔くび〕の、回り四、五尺もあるらんと覚えたるが、乱れ髪を揮〔ふ〕り上げて、目もあやに打ち咲〔わら〕ひ、「恥づかし」とて後ろ向く。見る人、あつと怯えて、同時に地にぞ倒れける。
 かやうの怪物は、蟇目〔ひきめ〕の声にこそ怖〔お〕づるなれとて、夜もすがら番衆〔ばんしゅ〕を置いて、宿直〔とのい〕蟇目を射させければ、虚空にどつと笑ふ声、射る度〔たび〕に天を響かせり。さらば、陰陽師に四門〔しもん〕を封ぜさせよとて、符〔ふ〕を書かせて門々〔かどかど〕に押させければ、目に見えぬ物来たつて、符を取つてぞ捨てたりける。
-------

ここもちょっと変で、大森彦七は「楠がともなふ者七人ありと云ひしが、かくて早や来たる事七度なり」と言いますが、指折り数えても怪物が来たのは五回ですね。
あるいは、ここは彦七が相変わらず「物狂い」の状態に置かれていることを示しているのかもしれませんが、しかし、それでは「諸人」が「げにもさ覚え候ふ」と納得してしまうのが変です。
ま、それはともかく、彦七が怪物はもう来ないだろうと言ったそばから、不気味な女の首が登場し、「七人に限った訳ではないでしょうに」と嘲笑います。
「乱れ髪を揮り上げて、目もあやに打ち咲ひ、「恥づかし」とて後ろ向く」は第一幕に登場した美女を思い出させますね。
そして、怪物は「蟇目の声」、即ち鏑矢を射る時の音に怯えるだろうということで番衆に鏑矢を射させてみたところ、怯えるどころか、その度に「虚空にどつと笑ふ声」がするということで、女の首の登場以後、笑い声が連続して響きます。
更に陰陽師に護符を書かせて貼っておいても、「目に見えぬ物」が来て、護符を取って捨ててしまいます。
ここまでを第五幕と考えてよいと思いますが、とにかく決め手のないまま、ダラダラと神経戦が続いた後、「或る僧」が抜本的な対処方針を提案します。

6941鈴木小太郎:2021/05/29(土) 09:38:51
松尾著(その13)「虚空より輪宝下り、剣戟降つて、修羅の輩を分々に裂き切る」
虚空には後醍醐に率いられた数万人の大軍団が遊弋し、大森彦七も「警固の者ども数百人」を擁する割には、具体的な戦闘場面は何だかショボいですね。
第一幕で登場した美女と第五幕後半で登場した「女の首」は同じ怪物のような感じもしますし、第四幕の「鞠の如くなる物」と第五幕前半の「手毬の如くに見えたる物」も同じ怪物かもしれないので、結局、大森彦七が二人(?)の怪物と一対一の取っ組み合いを繰り返しているだけのようにも見えます。
そして、様々な態様の笑い声が響き渡る不気味な神経戦が続いた後、第六幕に入って「或る僧」が登場します。
第五幕でも「大きなる寺蜘一つ、天井より下がりて、寝ぬる人の上をかなたこなた走」る様子を目撃する「禅僧」が登場しましたが、「或る僧」はその「禅僧」とは異なるようです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p94以下)

-------
 かくてはいかがすべきと、思ひ煩ひける処に、或る僧、来たつて申しけるは、「そもそも、今現ずる所の怨霊どもは、皆修羅の眷属たり。これを静むる計り事を案ずるに、大般若経を読むに如〔し〕くべからず。その故は、帝釈と修羅と須弥の中央にして合戦を致す時、帝釈軍〔いくさ〕に勝てば、修羅小身〔しょうしん〕を現じて、藕花〔ぐうげ〕の中に隠る。修羅また勝つ時は、須弥の巓〔いただき〕に座して、手に日月〔じつげつ〕を拳〔にぎ〕り、足を延べて大海を踏む。しかのみならず、三十三天の上に登りて、帝釈の居所を追ひ落とし、欲界の衆生を悉くわが有所〔うしょ〕になさんとする時、諸天〔しょてん〕善法堂に集まつて、般若を講じ給ふ。この時、虚空より輪宝〔りんぽう〕下り、剣戟〔けんげき〕降つて、修羅の輩〔ともがら〕を分々〔つだつだ〕に裂き切ると見えたり。されば、須弥の三十三天を領じ給ふ(帝釈だにも、わが力の及ばぬ所には、法威〔ほうい〕を以て魔王を降伏し給ふ)ぞかし。況んや、薄地〔はくじ〕の凡夫、法力を借らずは、退治する事を得難し」と申しければ、「この儀、げにもしかるべし」とて、俄かに僧衆を請じて、真読〔しんどく〕の大般若を、夜昼六部までぞ読ませたりける。
 誠に般若読誦〔どくじゅ〕の力によつて、修羅威〔い〕を失ひけるにや、五月三日の暮程に、導師高座に上つて、啓白〔けいびゃく〕の鐘打ち鳴らしける時より、俄かに天掻き曇りて、雲の上に車を轟かし、馬を馳せ違ふ声止む時なし。矢先の甲冑を通る音は、雨の降るよりも茂く、刃の剣戟を交ふる光は、燿く星に異ならず。聞く人、見る人、ただ肝を消し、胸を冷してぞ怖〔お〕ぢ合へる。この闘ひの声止んで、天も晴れにしかば、盛長が狂気本復〔ほんぷく〕して、正成が魂魄、かつて夢にも来たらずなりにけり。
-------

ということで、「或る僧」は大般若経を読誦するのがベストだと提案します。
「或る僧」によれば、かつて「帝釈と修羅と須弥の中央にして合戦を致」し、帝釈が劣勢となって修羅の支配が「欲界の衆生」全部に及びそうになった時、「諸天」が「善法堂」(帝釈天の宮殿、喜見堂の西南にある堂)に集まって大般若経を読んだところ、「虚空より輪宝下り、剣戟降つて、修羅の輩を分々に裂き切」ったとのことで、帝釈だって法力を借りたのだから、まして我らのような「薄地の凡夫」は法力を借りずに怪物を退治する事ができようか、という論理ですね。
この提案に従って「真読の大般若」を「夜昼六部までぞ読ませ」たところ、「五月三日の暮程に、導師高座に上つて、啓白の鐘打ち鳴らしける時より」、遥か彼方の天上世界で修羅軍と反修羅軍の一大戦争が勃発したらしく、大変な音と光のスペクタクルショーが演じられた後、世界は静謐を取り戻し、大森彦七の狂気も本復して、「正成が魂魄、かつて夢にも来たらずなりにけり」となります。
大森彦七と怪物の地味な勝負が続いた後、最後の最後でスターウォーズが華やかに繰り広げられ、彦七の「狂気」も完全に治ったということで、全六幕の大森彦七物語は大団円を迎えます。
なお、西源院本では最終的解決をもたらした「或る僧」の宗派は分かりませんが、流布本では「彦七が縁者に禅僧の有けるが」となっていて、「禅僧」と明示されています。
このように、細部では西源院本と流布本に違いがあるものの、ストーリーはほぼ同一です。
しかし、この後の若干の後日談で、西源院本と流布本には大きな違いが出てきます。
流布本では、

-------
以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10725

となるのですが、西源院本は全く違います。

6942鈴木小太郎:2021/05/30(日) 13:18:09
松尾著(その14)「かの盛長が刀をば、天下の霊剣なればとて、左兵衛督直義朝臣の方へ奉りたりしを」
後日談と書きましたが、流布本では、今まで紹介した部分に対応する記述の後、直ちに、

-------
さても大般若経真読の功力に依て、敵軍に威を添んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋刑部卿義助、大館左馬助を始として、土居・得能に至るまで、或は被誅或は腹切て、如無成にけり。誠哉、天竺の班足王は、仁王経の功徳に依て千王を害する事を休め、吾朝の楠正成は、大般若講読の結縁に依て三毒を免るゝ事を得たりき。誠鎮護国家の経王、利益人民の要法也。其後此刀をば天下の霊剣なればとて、委細の註進を副て上覧に備しかば、左兵衛督直義朝臣是を見給て、「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや。沙に埋れて年久断剣如なりし此刀、盛長が註進に依て凌天の光を耀す。不思議なりし事共也。
-------

と続きます。(『日本古典文学大系35 太平記(二)』、岩波書店、1961、p400、但し、読みやすくするためカタカナを平仮名に変換)
ところが、西源院本ではかなり後にこの話が出てきます。
即ち、西源院本第二十四巻は、

-------
1 義助朝臣予州下向の事、<付>道の間高野参詣の事
2 正成天狗と為り剣を乞ふ事
3 河江合戦の事、<同>日比海上軍の事
4 備後鞆軍の事
5 千町原合戦の事
6 世田城落ち大館左馬助討死の事
7 篠塚落つる事
-------

と構成されていますが、大森彦七の物語は第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」で大半が語られた後、しばらく四国での戦闘状況の描写が続き、第七節「篠塚落つる事」の最後に、

-------
 さても大般若経購読の功力〔くりき〕によつて、敵軍に威を添へんとせし正成が亡霊静まりければ、大将脇屋刑部卿義助、副将軍大館左馬助を始めとして、土居、得能以下〔いげ〕に至るまで、或いは病んで死に、討たれて亡び、或いは落ち行き、遁世して、四国、中国、期〔ご〕せざるに静謐しけるこそ不思議なれ。天竺の班足太子〔はんぞくたいし〕は、仁王経の功徳によつて、千王を害する事を止め、今の楠判官は、大般若の講読に鎮まつて、三毒を免〔まぬか〕る事を得たりき。 その後、かの盛長が刀をば、天下の霊剣なればとて、左兵衛督直義朝臣の方へ奉りたりしを、さしたる事あらずとて、賞翫の儀もなかりしかば、沙〔いさご〕に埋〔うず〕まれたる断剣の如くにて、凌天〔りょうてん〕の光もなかりけり。
-------

とあります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p110以下)
何故にこのような違いがあるかというと、西源院本を含む古本系では第二十二巻が欠巻となっているのに対し、流布本や天正本などは第二十二巻が存在していますが、これは古本系の第二十三巻以降の記事を繰り上げるなどして、あくまで形式的に欠巻を補填しているだけです。
そして、この組み換えの際に、古本系の構成も少し変えてしまっていて、その典型が大森彦七物語です。
西源院本第二十四巻に相当する部分は、大森彦七物語(第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」と第七節の末尾)を除き、流布本では第二十二巻に移っていて、大森彦七物語は第二十三巻の冒頭に置かれた訳ですね。
さて、流布本では、献上された剣を見た直義は「「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや」と賞賛したのに対し、西源院本では「さしたる事あらずとて、賞翫の儀もなかりしかば」という具合いですから、直義の態度は全く正反対です。
長谷川端校注『新編日本古典文学全集56 太平記(3)』(小学館、1997)によれば、天正本では流布本と同じく直義は「霊剣」を「賞翫」しており、他方、古本系の神田本は、

-------
さて其後かの盛長が刀ヲバ天下ノ霊剣なれバとて左兵衛督直義朝臣ノ方へ奉りたりしヲ、事まことしからずとてさして賞翫ノ儀もなかりシかバ、砂ニ埋マレたる断金ノごとくニて凌天ノ光りもなかりけり
-------

とのことで(p140)、直義の姿勢は西源院本と同じです。
このように古本系と流布本・天正本等で「霊剣」に対する直義の態度に顕著な違いがあることをどのように考えるべきなのか。
この点、少し検討してみたのですが、『太平記』全体における直義の評価と、その諸本間の異同について、もう少し勉強してからまとめた方が良さそうなので、暫くペンディングとしておきます。
次の投稿では、大森彦七物語についての松尾剛次氏の総括的な評価を紹介した上で、若干の検討を行います。

6943鈴木小太郎:2021/05/31(月) 11:13:37
松尾著(その15)「重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である」
(その7) 以来、久しぶりに松尾著に戻ります。
松尾氏は、

-------
【前略】彦七は将軍足利尊氏に二心ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった。
 以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10725

と書かれていますが、松尾氏の説明は、私の分類では概ね第二幕までで終わっています。
しかし、原文を見ると、第三幕以下第六幕までが結構な分量であることは前回までに確認した通りです。
さて、松尾氏は大森彦七エピソードの総括として、次のように書かれています。(p40)

-------
 この話は、『太平記』以外の史料によって事実か否かを確かめられない。しかし重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である。『太平記』では、正成らの怨霊が鎮められ、南朝方の冥界の味方が抑えられた結果として、脇屋義助ら南朝の活動も鎮圧されたことを描いている。なお、脇屋義助は新田義貞の弟で、懐良親王を奉じて伊予に入ったが康永元(一三四二)年六月に病死した。
 このように、『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていたのであり、いうなれば、南北朝動乱史の展開の背後に、目に見えない怨霊たちの活躍をも見ていたのである。第一章では、後醍醐が怨霊となったことを述べたが、正成も、いわば、後醍醐の分身として死後に再び活躍していたのである。『太平記』では、破れし側は怨霊となり、それらが歴史の冥(目に見えないところ)の主人公として描かれ、勝利者は敗者の怨霊を静めることを期待されている。いわば、『太平記』は怨霊の物語といえる点を強調したい。もう少し怨霊となった人々をみてみよう。
-------

うーむ。
松尾氏は「『太平記』作者が、それを事実として受け止めた」、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」、と力説される訳ですが、私は懐疑的です。
『太平記』の長大な大森彦七物語を実際に読んでみると、多くの人が大森彦七はけっこう魅力的な人物に描かれているように感じると思います。
彦七は終始一貫、怨霊など全く恐れず、「彦七、元来したたかなる者なれば」(p79)、「彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ」(p81)、「盛長、これにもかつて臆せず」(p82)と堂々たる態度を貫き、正成の怨霊にどんなに脅されようと、「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進ずべからざる上は、早や御帰り候へ」(p83)と言い返すような人間として描かれています。
そして、何故に彦七が怨霊など全く恐れないのかといえば、それは彦七が無教養な乱暴者だからではなく、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」(p87)という禅の教えを自己の信念として骨肉化しており、「千変百怪、何ぞ驚くに足らん」(同)と考えている人だからですね。
怨霊という一種の宗教的権威に屈しないだけでなく、彦七は天皇の権威に屈することもなく、第三幕で仰々しく「先帝」後醍醐の綸旨を携え、「勅使」として登場した正成に対し、不敵にも「例の手の裏を返す如きの綸旨給ひても詮なし」(p88)と言い放ちます。
こうした彦七の描かれ方は、実は『太平記』の作者は彦七の怨霊に対する態度に共感しているのではないか、「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」などということは全くないのではないか、という疑いを生じさせます。
このような観点から大森彦七物語全体を見直すと、特に興味深いのは彦七が「物狂ひ」(p88)として造型されていることです。
「『太平記』作者は、正成らが怨霊になったと信じていた」ならば、即ち客観的に怨霊が実在していると信じていたならば、作者は彦七を「物狂ひ」とする必要があったのか。
彦七が「物狂ひ」となったとされるのは、私の分類では第四幕からですが、第一幕の美女が鬼となった場面でも、「怪物は掻き消すやうに失せて」(p80)しまって、彦七の下人たちが見たのは「茫然として人心地もない」(同)彦七だけです。
また、第三幕で綸旨を持参した正成が「先帝後醍醐」以下の同行者を紹介する場面でも、「この有様ただ盛長が幻にのみ見て、他人の目には見へざりければ、盛長、左右を顧みて、「あれをば見るか」と云はんとすれば、忽ち消え去つて、正成が物謂ふ声ばかりぞ残りける」(p87)とあります。
しかし、作者が客観的に「先帝後醍醐」以下の怨霊が実在していると考えるならば、何故に多くの人が怨霊を見たと書かないのか。
「物狂ひ」の人が「幻」を見ただけでは物語としては面白くも何ともないので、『太平記』の作者は様々に工夫を凝らして読者・聴衆を興奮させる波瀾万丈のストーリーを展開していますが、それは伝奇小説の作者が普通にやっていることで、別に『太平記』の作者が書いた内容を信じていることを保証している訳ではありません。。
私には、作者は一方で波瀾万丈の物語を工夫しながら、随所に、この話は要するに「物狂ひ」になってしまった人の「幻」なんですよ、というヒントを提示してくれているように感じられます。
そして、その作者の提示する最大のヒントが、「霊剣」に対する直義の態度ではないかと思われます。
前回投稿では、「霊剣」に対する直義の態度については『太平記』全体における直義の評価をもう少し勉強してからまとめると書きましたが、ここは大森彦七物語だけで考えることもできそうです。
即ち、大森彦七が献上した剣は「霊剣」でも何でもない、という直義の評価は、このストーリー全体が一人の「物狂ひ」が見た「幻」なんですよ、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」なんですよ、という『太平記』の作者の怨霊に対するシニカルな態度の表明のように思われます。
そして「霊剣」に対する直義の態度が流布本・天正本でひっくり返ってしまっている点は、『太平記』の作者の問題ではなく、遥かに時代が下ってからの流布本・天正本の編者の問題ですね。

6944鈴木小太郎:2021/06/01(火) 13:36:34
山口昌男の『太平記』論(その1)「笑ってはならない呪いをかけられた研究者」から離れて
松尾剛次氏の『太平記 鎮魂と救済の史書』(中公新書、2001)の検討を始めてから十五回の投稿を行ないましたが、松尾著ではこの後も、

怨霊となった新田義貞親子(p45以下)
怨霊となった護良親王(p49以下)

と怨霊話が続きます。
この内、巻二十五「宮方の怨霊六本杉に会する事」(西源院本では第二十六巻「大塔宮の亡霊胎内に宿る事」)に関係する部分(p51以下)は話題としては面白く、『太平記』の原文を紹介しつつ更に検討しようかなとも思いましたが、正直、松尾氏の怨霊話に付き合うのがいささか苦痛になってきました。
私にとって松尾氏は「笑ってはならない呪いをかけられた研究者」であって、『太平記』のどんなにコミカルな場面に遭遇しても絶対に笑わないブキミな人です。
松尾著は唐突に「長崎の鐘」で始まっていますが、私の耳には『太平記』のどこを読んでも「長崎の鐘」は一度も聞こえてきたことがなく、「長崎の鐘」は松尾氏の幻聴ではなかろうかと思います。
大森彦七が「物狂ひ」ならば、松尾氏は「怨霊狂ひ」「鎮魂狂ひ」のような感じがして、ちょっと怖いですね。

松尾剛次著『太平記 鎮魂と救済の史書』(その1)─「長崎の鐘」と『太平記』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10719

そこで、松尾著の検討を進める前に、インターミッション(途中休憩)として、松尾氏と正反対のタイプの学者である山口昌男の見解を少し紹介しておこうと思います。
四月上旬に中間整理をしたときにも書きましたが、歴史研究者による『太平記』研究があまりにストイックではなかろうと思っていた私は、山口昌男が中沢新一と行った対談「『太平記』の世界」(『國文學 : 解釈と教材の研究』36巻2号、學燈社、1991)などをヒントに何か新しい議論ができないだろうか、と漠然と考えていました。
しかし、山口・中沢対談は三十年前、「網野史観」全盛期の頃の話なので古臭くなってしまった部分も多く、出発点で取り上げるのには扱いづらい面があって、代わりに兵藤裕己氏と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)を検討してみました。
兵藤・呉座対談を検討したのは去年十月のことですが、あれから七ヵ月以上経って、『太平記』の検討も相当に進んだので、今なら山口・中沢対談の紹介の機も熟したように思います。

四月初めの中間整理(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10645

さて、山口・中沢対談は、編集者がつけたと思われる小見出しによれば、

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ルポルタージュとしての
悪党のメンタリティー
川のネットワーク
東国の武士、西国の武士
スラプスティック性
物語の機能と王権
トリックスター
-------

という構成になっていますが、次の投稿では「悪党としてのメンタリティー」から、山口の発言部分を少し引用してみたいと思います。

6945鈴木小太郎:2021/06/01(火) 23:21:50
山口昌男の『太平記』論(その2)「ルポルタージュとしての」
前回投稿で「悪党としてのメンタリティー」から引用すると書きましたが、やはり対談の状況が分からないと理解しにくい点が出てくると思うので、最初の方も引用しておきます。
山口昌男は1931年生まれ、学部は東大文学部の国史で、石井進・大隅和雄などと同期ですね。
大学院は東大の国文学に進もうとしたものの試験で落ちてしまい、麻布高校の教師を経て1957年に東京都立大学大学院に入学し、岡正雄の下で社会人類学を専攻することになります。

山口昌男が大学院に落ちた理由
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8784

中沢新一は1950年生まれで、『國文学』平成三年二月号に載ったこの対談が前年の平成二年(1990)に行われたとすると、山口昌男が五十九歳、中沢新一が四十歳くらいの頃ですね。
さて、最初の小見出しは「ルポルタージュとしての」と何だか中途半端な表現になっていますが、これは別に私が転記ミスをしている訳ではありません。(p10以下)

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 ルポルタージュとしての

【山口】 今までは、僕の「國文学」誌上での対談というと、自分の勉強をどんどん補ってもらうために、相手には必ず刺戟的な視点を持った専門家に登場していただきましたが、今度初めて専門家でない相手になりましたね。
【中沢】 アマチュアですみません(笑)。
【山口】 お互いアマチュア同士みたいになってしまったら、これは大変だよ。どうなりますか。松岡心平氏に聞いたら、あのあたりのことでは阿部泰郎氏がすぐれていると言う。でも、僕は阿部泰郎氏の仕事をあまり読んでいないのです。「菊慈童」」くらいかな。
【中沢】 「太平記」の一番隠微なところをやっているけれど、僕は阿部さんの研究は好きだな。
【山口】 僕はあまり読んでいないからちょっと教えてもらえる?
【中沢】 阿部さんもいろんなことをやっていますね。後醍醐天皇が一方で真言立川流を引き寄せていったりしますでしょう。あのころの天皇制というのは、どうしてそんなに顕わな形で、ああいう真言立川流のようなものを引き寄せていったかということを、院政から辿りながら、克明に研究しています。だからそういう意味で言うと網野善彦さんの『異形の王権』なんかとも重なる視点はありますけれども、兵藤裕己さんや山本ひろ子さんたちの研究とオーバーラップしているところがずいぶんありますね。
 さて、先生は「太平記」はいつごろ読んだのですか。
【山口】 学生のころ抜粋で読んだ。永積安明氏が『太平記』を出していたね。あれは確か、日本評論社の続日本古典読本でしたか。昭和二十三年ですね。
【中沢】 それではもう戦後ですね。
【山口】 『歴史・祝祭・神話』を書くときに「古典大系本」を読みました。
【中沢】 戦前山口さんが学生だったころは、当然「太平記」から抜粋したいろいろなエピソードを教えられたわけでしょう。
【山口】 まあ、歴史でね。阿新丸とか大塔宮がどうしたとか、村上義光がどうしたとか、そういうような昔の子供用のは子供のころ読んでいて、それから講談社の絵本『大楠公』。
-------

いったん、ここで切ります。
真言立川流の話は一時期流行しましたが、今ではちょっと古くなってしまって、網野善彦の『異形の王権』もかつての輝きはすっかり消えてしまいましたね。

内田啓一氏の功績
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9498

「松岡心平氏に聞いたら、あのあたりのことでは阿部泰郎氏がすぐれていると言う」とのことですが、私自身は東京大学名誉教授・松岡心平氏も名古屋大学名誉教授・阿部泰郎氏も苦手です。
特に阿部氏はその爬虫類みたいなネチネチ・クネクネした文体が気持ち悪くて、『とはずがたり』関係のものを嫌々読んだ後はあまり読んでいません。

「いかに珍しい文献を夥しく引こうと、たくさんの注を付そうとも、本書は論文集ではない」(by 阿部泰郎)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9802

ま、それはともかく、続きです。

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【中沢】 僕なんかが興味を持つのは、山口さんの世代の人にとって、日本の歴史学の見方というのが変わりますよね。マルクス主義のようなものが強くなってくる。それから天皇制とか悪党に対する考え方なんかもものすごく変わってきますよね。そういう過渡期を山口さんは生きてこられて、どうだったのかなと思うのです。
【山口】 まだ、マルクス主義が面白かったものね。石母田正氏が『中世的世界の形成』の中で悪党論というのを初めてやった。松本新八郎氏の仕事などが同じ頃出て、それから少し面白くなってきた(笑)。
【中沢】 山口さんが惹かれた『中世的世界の形成』はインパクトが一番強かったわけだから、それの悪党論というのは未だに繋がっているわけでしょう。今の時点になって、石母田さんの悪党論について、考え方みたいなものはどうですか。
【山口】 石母田正の悪党論は古代から中世にかけてが主で、あまり南北朝までいかないでしょう。
【中沢】 そうですね。
【山口】 学生のころには、古代の終焉を見据えるという点で、確かに石母田正の悪党論は面白いと思っていました。でも、その後も歴史家が同じようなイメージでやっている、そういうのは僕の歴史の論理にはあまり繋がっていないですね。
-------

山口昌男は石母田正とも個人的に面識があって、石母田からは「君は竹内好のように非常に鋭いけれども、その刃が自分に突き刺さらないところがあるね」と言われたことがあるそうです。

山口昌男『回想の人類学』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8774

6946鈴木小太郎:2021/06/02(水) 08:31:29
山口昌男の『太平記』論(その3)「一貫した世界観」の不在
山口・中沢対談、中沢新一特有の部分は除いて山口昌男のエッセンスだけを引用するつもりでしたが、中沢新一もそれなりに良いことを言っているので、二人の駄目な部分、今ではもう時代遅れになっている部分を含め、あまり省略しないで紹介することにしたいと思います。
この二人の対談は2009年に廃刊となってしまった『國文学 解釈と教材の研究』の特集号「太平記 バサラの時代に」の巻頭を飾るものであって、三十年前の『太平記』研究の最先端の議論であることは間違いありません。
これと兵藤裕己・呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)を比較することにより、この三十年間で『太平記』研究がどれだけ進展したか、あるいは(分野によっては)後退したかを概観できるように思います。

『國文學』(學燈社)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E6%96%87%E5%AD%B8

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10401
【中略】
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10423

ということで、続きです。(p11以下)

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【中沢】 僕は「太平記」をまとめて読んだのは、ごく最近なんです。しかしわりと軍記物は子供のころから好きで、「平家物語」や「源平盛衰記」とか、そういうものも少し古文が読めるようになってからはよく読んでいました。
【山口】 家にはたくさんあったのでしょう。
【中沢】 ありました。ただ、「太平記」は読んでなかったですけど。初めて「太平記」を読んだのは数年前で、最初読み始めたときは、これを書いた人はどういう人だったのかという興味がすごく湧きました。それぐらい文学としては異質なものですよね。軍記物語の中においてみると、下手と言ってもいい。下手というか、ことばの使い方が全然違います。ことばに抒情性というものがまるでない。普通の軍記物というのは、読んでいると、人の生き死にに非常に哀れを感じるんです。けれども「太平記」にはほとんどそういうものを感じることができない。ルポルタージュ風の乾燥した記述が次々に続いていっている。文章もルポルタージュという意味では面白いなと思ったのです。
【山口】 しかもルポルタージュ性は成立のときから、材料から考えても、従軍の時宗の僧が弔いまでみんなやって、それで語り伝えていたものが小嶋法師といわれるような人を通して語られる。そういうところから、もともと現場性というものがある。歴史性があるかどうかは別として、現場で語られた語り口が流れ込んできている。
【中沢】 「平家物語」の場合でも、やはり現場性とか臨場感というのは、大事なものだったと思うのです。その点で「平家物語」を語った人たちと「太平記」を語った人たちとは、ある程度重なっているところがあるのでしょうね。律宗僧という面においては。
【山口】 「平家物語」を語ることが、ちょうど南北朝でも室町時代初期でも流行っていたから、「平家物語」語りと「太平記」語りというものは重なることもありえた。「太平記」読みが「平家物語」を語った。死を管理するという点では共通しているのだけれど、演出ということでは「平家物語」は盲僧の琵琶が関与していたけれども、「太平記」の語りはもうそのころには琵琶はなくなっていた。あれは地神経を唱えるということで、冥途の使いみたいな性格を持っていた。時宗の僧がやはり死の管理者だから、そういう意味では一種の共通性がある。
 しかし一方では、「平家物語」のほうは極めて音楽的な要素が貫かれていて、一貫した世界観があった。末法意識に基づく滅びゆくものに対する美学、というのは少し言い過ぎだけど、美を感じようとする一貫した流れみたいなものがあって、その流れに入っていくように作られている。「太平記」の場合はそういう感じとは違うんだね。
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山口昌男が中沢新一に「家にはたくさんあったのでしょう」と言っているのは、中沢の父親・厚が『石にやどるもの 甲斐の石神と石仏』(平凡社、1988)等の著作を持つ民俗学者でもあったからですね。
中沢一族には知的には極めて優秀な、しかしちょっと変わった人が多くて、網野善彦も相当の影響を受けており、飛礫の話などは中沢厚から直接の教示を受けているそうですね。

中澤徳兵衛の墓
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/4966
奇妙な対立の図式
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/4979
『鋼の時代』のことなど
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5008
中澤徳兵衛と大島正徳
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6150

中沢新一の「ことばに抒情性というものがまるでない。…ルポルタージュ風の乾燥した記述が次々に続いていっている。文章もルポルタージュという意味では面白い」という指摘は的確ですね。
山口昌男の「「平家物語」のほうは極めて音楽的な要素が貫かれていて、一貫した世界観があった」という指摘も的確で、逆に言うと『太平記』には「音楽的な要素」があまりなくて、「一貫した世界観」もないことになります。
『太平記』から「鎮魂と救済の史書」という「一貫した世界観」を抽出し、「長崎の鐘」の響きを聞く松尾剛次氏などは『太平記』に「抒情性」「音楽的な要素」が満ち溢れていると思われるのでしょうが、実際には「ルポルタージュ風の乾燥した記述」が続く『太平記』にそんなものは欠片もなく、それは極めてジメジメした、笑ってはならない呪いをかけられた松尾氏の精神の側に存在するものですね。

6947鈴木小太郎:2021/06/02(水) 10:22:00
山口昌男の『太平記』論(その4)「「太平記」はやはり能になりにくいところはあった」
続きです。(p12以下)

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【中沢】 うん。そこなんですよ。「平家物語」の場合は、例えば後に能仕立てになると、亡霊が語り手になってきます。その語り手が死を語るとき、ほとんど亡霊になった死者と一体になるくらい、一種の冥界下降みたいなものが感じられるのです。だけど「太平記」の中では、死を語る場面でもほとんど「討たれにけり」という一句で終わってしまう。語る人が死んでいく人たちとどういうふうな意識の関わりを持っていたかということが読む者には気になる。やっぱりそこですごい違いが起こっていたのかなということを感じるのですね。
【山口】 「平家物語」の語り手といのには、まだシャーマン性が色濃く残っている。だから対象となった人物が語る人物の意識の底に入り込んで、その人をして語らしめているという要素が出てくる。「太平記」の語りの場合は、やっぱりあくまでも客観的に見ましたという形ですね。
【中沢】 だから、合戦の場面なんかを読みましても、「平家物語」や「源平盛衰記」の合戦では、その現場で実際に殺人、いや合戦が行なわれているという具体的な映像を浮かべることは難しいのです。それは何故かというと、やっぱり死者の眼から生きている人間のことを描写しているという感じがするんですね。死者の眼から見ると距離がありますから。現実に生きている人間というのは、実際に肉体と肉体がぶつかりあったり、あるいは鎧と鎧がぶつかりあって血がほとばしることがあったりするのですけれども、それは死者の眼から見ているから、肉体の物理性みたいなものをあまり感じさせないんです。それがシャーマン性、抒情性に繋がっていって、いつも死というところから生を見ている。
 それに反して、「太平記」は、合戦の現場で、こちらの兵士がこう動くとそれに対応して別の兵士が動いていく、その動きが分かるのです。あれはまったく死者のほうから見ているのではないですね。その時の律宗僧というのは、死を管理すると同時に合戦する人と同じ意識の中で、現場を見たり聞いたりして文章を書いているんだな、という感じがするのです。
【山口】 従軍僧というわけだね。
【中沢】 従軍文学というのかな。だから同じ軍記物といっても、死者の眼から人間の戦いを描く、全体が死が取り込んでいるものと、従軍記者がその戦場のさまを書くというものとでは、その意識の違いというのは、ことばのリズムとか、深層意識へのひっぱり込み方とか、そういうところに出てきているのではないかと思います。
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中沢新一が律宗僧、山口昌男が時宗僧の役割を強調している点は『太平記』の作者を考える上でかなり気になるところであり、私はあまり賛成できないのですが、今は検討は控えます。
「肉体の物理性みたいなものをあまり感じさせない」「死者の眼から人間の戦いを描く、全体を死が取り込んでいる」『平家物語』の場合は、「後に能仕立てになると、亡霊が語り手になって」、「その語り手が死を語るとき、ほとんど亡霊になった死者と一体になるくらい、一種の冥界下降みたいなものが感じられる」という中沢新一の指摘は興味深いですね。
能との相性の点で、『平家物語』と『太平記』には大きな違いがあることは、この後、山口昌男も強調します。
ということで、小見出しの二番目、「悪党のメンタリティー」に入ります。(p13以下)

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 悪党のメンタリティー

【山口】 「平家物語」はどんどん能に入っていった。「太平記」に語られているエピソードは、能を思わせるものがないわけでもないですが、少し前の時代であったにも関わらず、ほとんど能に入っていないでしょう。阿新丸の話はありますね。あの阿新丸が本間山城入道の首を討ち取って、船で逃げようとすると山伏が助ける。それで海を渡ることができたという話ですね。これなんかは「太平記」から入っていったと思うのですけれど、そういう場合に、二つの可能性が考えられます。一つは、「太平記」でも能に入っていくものもあったということ、それから山伏物語として、これはもちろん「平家物語」や「義経記」からどんどん能に入っているわけだけれども、山伏の力を誇張したような法力なんかは狂言によく入っているわけで、このような狂言に入るような入り方でいったということがある。そういう感じで、「太平記」はやはり能になりにくいところはあった。
【中沢】 歌舞伎にはなりますね。
【山口】 「太平記」は歌舞伎に対してはいろんな意味でありますね。「太平記」そのものが、「世界」として歌舞伎の基本的なプロットになっている場合が多いですからね。忠臣蔵の高師直と塩冶判官というのは、実際「太平記」巻二十一に描かれている話がもとになっていますよね。高師直が塩冶判官の妻に懸想して、塩冶判官に反逆の志ありといって陥れる。塩冶判官は逃げるのだけれども追討をうけて、妻と家来を逃す。しかし行き詰って家来たちは塩冶判官の妻を殺し、自分たちも死ぬ。塩冶判官はそれを聞いて自死する。「太平記」の描き方の、ああいう死に方には抒情性はないですね。その話が忠臣蔵の世界になって、忠臣蔵の実際の赤穂浪士の話が趣向としてそれにかぶさっていった。また「楠木物語」にも入っているはずです。
【中沢】 山口さんはほんとうによく読んでおられますね。
【山口】 歌舞伎狂いがこのところ続いているからね。「太平記」が歌舞伎になりやすいということは確かです。だからいつの時代でも歌舞伎になっていった。それこそ黙阿弥でも「高時」という戯曲、台本を書いた。その黙阿弥の「高時」の面白いのは、田楽者が出てくる。歌舞伎における田楽のやり方を、黙阿弥なんかがある程度イメージとして知っていたこと自体が非常に面白い。あの例の場面で天狗が現れるというイメージは、これはだいたい田楽者のことらしいと想定されているわけですね。
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山口昌男の発言の途中ですが、長くなったのでいったんここで切ります。
文学・演劇の大きな流れとして、『平家物語』は能に繋がり、『太平記』は能よりも狂言、そして歌舞伎に繋がる訳ですね。

河竹黙阿弥(1816-93)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%B9%E9%BB%99%E9%98%BF%E5%BC%A5

6948鈴木小太郎:2021/06/03(木) 10:30:14
山口昌男の『太平記』論(その5)「最近『西郷隆盛を討ちとった男』なんて本が出たけれど」
前回投稿で引用した部分、「その黙阿弥の「高時」の面白いのは、田楽者が出てくる。歌舞伎における田楽のやり方を、黙阿弥なんかがある程度イメージとして知っていたこと自体が非常に面白い。あの例の場面で天狗が現れるというイメージは、これはだいたい田楽者のことらしいと想定されているわけですね」とありますが、元々「あの例の場面」には「田楽者」が登場しているので、山口が何を言っているのか、私にはよく分りませんでした。
そこで河竹繁俊編『黙阿弥名作選』(新潮文庫、1955)で「高時」を確認してみたところ、前半は第五巻第五節「犬の事」をヒントに新しい登場人物を加えた創作ですが、後半は第四節「相模入道田楽を好む事」のかなり忠実な再現ですね。
編者の河竹繁俊の解説によれば、「高時」の成立事情は、

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 明治維新(一八六八)以後の新時代文化に対応して、九世市川団十郎を中心として展開された新らしい演劇運動は、すなはち活歴劇〔くわつれきげき〕であつた。当時の演劇知性人たる依田学海・福地桜痴等によつて提唱された、時代狂言の合理化は、史実尊重の活歴劇群となり、「重盛諫言」「伊勢三郎」「仲光」「畠山重忠」等々、新歌舞伎十八番物の時代狂言となつてのこされた。
 この「高時」は、中世の軍記物たる「太平記」により、北条高時田楽の舞の条を劇化した、活歴劇中の代表作。すべて活歴劇は史実の尊重を標榜していたので、執筆者の黙阿弥は、「芝居にならなくて困る」と愚痴をこぼしたと伝へられる。また、元来活歴劇は、その演出に際しては、演技も舞台装置も、調度品・衣裳・持物等に至るまで、時代考証により研究的合理的写実的にと注意が払はれた。この態度は、演劇芸術としては論難されたが、その精神は、歌舞伎の更生に少なからず貢献した。
 初演のときの配役は、九世市川団十郎(高時)、三世中村仲蔵(秋田入道延明)、市川権十郎(大仏陸奥守貞直)、中村福助のちの五世歌右衛門(愛妾衣笠)、中村勘五郎(長崎次郎)、中村鶴五郎(安達三郎)等。団十郎の当り役をうけて、先代の幸四郎・左団次・菊五郎・吉右衛門等も当り役とした。
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とのことで(p120、旧字は新字に変換)、「高時」の場合は「史実の尊重」というより『太平記』という史料を尊重した訳ですね。
作品の概要については「文化デジタルライブラリー」サイトが参考になります。

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 黙阿弥69歳のときの作品です。
 9代目團十郎が試みた、史実重視かつ写実的な歴史劇である「活歴(かつれき)」の代表的な作品で、鎌倉幕府の末期から南北朝の争いまでを描いた軍記物語『太平記(たいへいき)』を題材としています。正式な名題は『北條九代名家功(ほうじょうくだいめいかのいさおし)』です。
 この『北條九代名家功』は3幕から構成されており、横暴を極める北條高時が天狗(てんぐ)になぶられる物語(上の巻)のほかに、大敵の首を討った後に自らも切腹して果てる本間山城(ほんまやましろ)の忠義(中の巻)、新田義貞(にったよしさだ)が海中に太刀を投げ込むと潮が引き道が開けるという奇跡(下の巻)となりますが、現在では上の巻のみが残って『高時』という名題で上演され、「新歌舞伎十八番(しんかぶきじゅうはちばん)」のひとつにも数えられています。
 活歴物の作品は、地味な内容から観客受けが悪く、9代目團十郎の死後はほとんど受け継がれることがありませんでしたが、本作『高時』は今日まで上演が続いている例外的な作品です。

https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc17/sakuhin/d8/index.html

ウィキペディアの記事もなかなか分かりやすいですね。

「北条九代名家功」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%9D%E4%BB%A3%E5%90%8D%E5%AE%B6%E5%8A%9F

あれこれ調べても、山口昌男の発言の意図はよく分りませんが、もしかしたら単なる勘違いかもしれません。
山口はこの直後にも「最近『西郷隆盛を討ちとった男』なんて本が出たけれど」(p14)と言っていますが、そんな本があったのかな、と思って国会図書館サイトで検索しても出て来ません。
そもそも西郷隆盛は城山に包囲されて自決した訳ですから、介錯した人はいても「西郷隆盛を討ちとった男」がいるはずはありません。
結局、これは今井幸彦著『坂本竜馬を斬った男 : 幕臣今井信郎の生涯』との混同ではなかろうかという気がしてきましたが、同書の初版は1971年ですね。
また、早乙女貢にも京都見廻組の佐々木只三郎を描いた「竜馬を斬った男」という短編小説があるそうで、こちらは1987年に映画化されています。

「竜馬を斬った男」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C%E9%A6%AC%E3%82%92%E6%96%AC%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%B7

何だかよく分りませんが、山口昌男もけっこういい加減なところがあるので、あまり気にしても仕方なさそうです。

6949鈴木小太郎:2021/06/03(木) 11:30:31
山口昌男の『太平記』論(その6)「ついに般若心経を唱えられて、消えてしまった」
山口・中沢対談に戻って続きです。(p14以下)

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 能のように精神の深いところを通ってくるものには、「太平記」は向かないところがあるのではないか。「太平記」というのは、記録性によって何となく読むものを醒ましめるようなところがあって、酔わせるというのとはどこか違うと思う。「太平記」の合戦譚は、もともといろんな所領安堵のための認行状として出されたものを、物語に編集しているところがあるということも言われているわけです。
 だから「平家物語」のように能の中に入っていきにくいということはある。ただ、修羅能を含めて、夢幻能なんかを作っていく雰囲気、あるいは仕掛けは、「太平記」が描いたというか、用意したようなところもないではない。一番典型的な例は、僕が『歴史・祝祭・神話』で取り上げた大森彦七の話、楠木正成を討ちとった男の話、最近『西郷隆盛を討ちとった男』なんて本が出たけれど、それには西郷が亡霊になって出てこなかっただろうけれど、大森彦七の場合は正成が亡霊になって出てくる。田楽の集まりをやっているときに美女を見て、大森彦七が美女を背負って歩きだした。そうするとそれが彦七の髻を掴んで空中に引き上げたという。それからしばしば正成が亡霊となって出てきたけれど、ついに般若心経を唱えられて、消えてしまった。この辺のことは僕も『歴史・祝祭・神話』で触れたんだけれども、結局大森彦七そのものが芸能者だったということです。何に拠ってそういうことを言っているか。郡司正勝さんがそれを言っているのです。何人かの近世の研究者は、大森彦七そのものにすでに芸能者の要素があって、正成の最期を芸能にして語り伝えたのではないか、だから「太平記」は能の舞台作りに寄与しているのだ、と言っています。
 そういうことで伝説も入っているのかもしれないけれど、楠木正成の祖先で、観阿弥に縁が繋がっていくという。
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「ついに般若心経を唱えられて、消えてしまった」とありますが、『太平記』には、

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 かくてはいかがすべきと、思ひ煩ひける処に、或る僧、来たつて申しけるは、「そもそも、今現ずる所の怨霊どもは、皆修羅の眷属たり。これを静むる計り事を案ずるに、大般若経を読むに如くべからず。その故は、帝釈と修羅と須弥の中央にして合戦を致す時、帝釈軍に勝てば、修羅小身を現じて、藕花の中に隠る。修羅また勝つ時は、須弥の巓に座して、手に日月を拳り、足を延べて大海を踏む。しかのみならず、三十三天の上に登りて、帝釈の居所を追ひ落とし、欲界の衆生を悉くわが有所になさんとする時、諸天善法堂に集まつて、般若を講じ給ふ。この時、虚空より輪宝下り、剣戟降つて、修羅の輩を分々に裂き切ると見えたり。されば、須弥の三十三天を領じ給ふ(帝釈だにも、わが力の及ばぬ所には、法威を以て魔王を降伏し給ふ)ぞかし。況んや、薄地の凡夫、法力を借らずは、退治する事を得難し」と申しければ、「この儀、げにもしかるべし」とて、俄かに僧衆を請じて、真読の大般若を、夜昼六部までぞ読ませたりける。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10731

とあって、般若心経のような短いお経ではなく、膨大な分量の大般若経の、それも簡易な「転読」ではなく「真読」ですから、大勢の僧侶を集めての大規模な法会が開催されています。
このあたり、単なる勘違いというよりは、山口の仏教に対する関心の希薄さを示しているようですね。
また、「結局大森彦七そのものが芸能者だった」説にも私は賛成できませんが、それは大森彦七が怨霊など全く恐れない人間として描かれていて、しかも何故に彦七が怨霊など恐れないのかといえば、それは「一翳眼に在れば、空花乱墜す」という禅の教えを自己の信念としているからですね。
禅宗と芸能の関係はなかなか難しいところがありますが、このような醒めた認識の持ち主は「芸能者」とは結び付かないのではないかと思います。
私にとって重要と思われるのは、山口の「「太平記」というのは、記録性によって何となく読むものを醒ましめるようなところがあって、酔わせるというのとはどこか違うと思う」という指摘であって、まさに大森彦七物語自体に、一方では読者・聴衆を「酔わせる」様々な工夫があり、波瀾万丈のストーリーがありながら、しかし、随所に、この話は要するに「物狂ひ」になってしまった大森彦七が見た「幻」なんですよ、という「読むものを醒ましめるような」ヒントが提示されています。
そして、その最大のヒントが大森彦七が献上した剣は「霊剣」でも何でもない、という直義の冷ややかな評価だと思われますが、山口は岩波古典文学大系を見ているので、「霊剣」に対する直義の評価が古本系と流布本では逆転していることに気付いてはいません。
このあたり、できれば『歴史・祝祭・神話』の検討を通して、改めて論じてみたいと思います。
その際には、郡司正勝等の近世文学の研究者の学説も併せて検討するつもりです。

松尾著(その15)「重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10733

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岩波現代文庫『歴史・祝祭・神話』

著者の大テーマであるスケープゴート(贖罪の山羊)論.中心にある権力は周辺にハタモノを対置して自らの力を正当化し,ハタモノは一時は脚光をあびるがついには排除される.歴史の中で犠牲に供されたトロツキーやメイエルホリドらの軌跡をたどり,スケープゴートを必要としそれを再生産する社会の深層構造をあぶり出す.(解説=今福龍太)
https://www.iwanami.co.jp/book/b255937.html

6950鈴木小太郎:2021/06/03(木) 19:48:36
山口昌男の『太平記』論(その7)「一番滑稽として兵藤氏があげているのが、島津四郎の話です」
「楠木正成の祖先で、観阿弥に縁が繋がっていく」云々は例の上嶋家文書の話で、近時、梅原猛氏が伝説ではないのだと主張し、表章(おもて・あきら)氏がこれを批判した一件がありましたが、深入りは避けます。

『楠正行通信』第65号「伊賀説を主張する梅原、昭和の創作と言い切る表 果たして観阿弥は楠正成の甥か」
http://nawate-kyobun.jp/masatsura_tusin_65.pdf

小見出しの三番目「川のネットワーク」は中沢新一が話の主導権を握っていて、その内容は概ね中沢の『悪党的思考』(平凡社、1988)に出ていたものですね。
全部は紹介しませんが、

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【山口】 あなたの叔父さんの網野さんが言っているのですが、楠木という地名はだいたい太平洋側に分布している(網野善彦・永井路子「楠木正成の実像をさぐる」<楠木一族と南北朝>「歴史読本」昭和五十七年五月号、四七頁)。
【中沢】 南方熊楠なんてね。
【山口】 よい例が南方熊楠。地名から名前にまず"くす"をつけるんだ。そういう習俗が残っている地域が多い。楠木という名字の地名が入っているのは、楠は船の材木として大きな意味があると言われている。それで楠の木を大事にしたんだろうと思うということで、楠木の世界を考えている。
【中沢】 熊楠は楠木に通じているのでしょうか。
【山口】 ええ、「増鏡」に楠木四郎という頼朝の受領なんかが出てくるけれど、中村直勝さんは、それは忍〔おしの〕三郎と並んでいるので、楠木の忍者的性格を示しているのだということをおっしゃっている。しかし"おし"というのは忍と書くけれど、網野善彦さんはそれは地名だからそう書くけれどそうはいえないだろうと言っていますね。しかしまあ、水あるいは海をコントロールする術というのはどこかで身に付けていた家系だった。
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といったやり取りで、全体の雰囲気が窺えると思います。
ちなみに「「増鏡」に楠木四郎という頼朝の受領なんかが出てくる」ことはなくて、これは『吾妻鏡』の勘違いですね。

楠木四郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E5%9B%9B%E9%83%8E

小見出しの四番目「東国の武士、西国の武士」も中沢主導なので、これも省略します。
私は昔、ちょっと中沢新一に嵌ってしまったことがあって、『悪党的思考』は線を引いたりして熱心に読み込んでみたのですが、まあ、振り返ってみると我が人生の「黒歴史」ですね。
後深草院二条のホームページを始めて間もない頃、本郷和人氏と話す機会があって、『悪党的思考』をどう思うかを聞いてみたところ、下らない本だと吐き捨てるように言われたことがあります。

「緑のたぬき・中沢新一」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6406

さて、小見出しの五番目「スラプスティック性」は非常に重要なので、「東国の武士、西国の武士」の末尾から丁寧に引用して行きます。(p20以下)

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【山口】 西国的な考え方からいうと、「生花」の花に象徴されている。転生させるために一回花を剪って、生け花みたいに使うというようなことがある。
 基本的に「平家物語」では末法思想に基づいて連続的できちんとしたリズムで流れて行く。一つ一つのエピソードが最終的にはその流れの中で生きるように流されていく。
【中沢】 それが文学というものでしょうね。

  スラプスティック性

【山口】 うん。ところが「太平記」の場合は、確かに年代的な流れというのはあるのでしょうが、一つ一つのエピソードが何か独立している。そうすると、そういうものは最終的には能よりも狂言にいきやすいという感じがあって、連続性よりも非連続性のほうが目立ってしまう。これは兵藤裕己氏が言っているのだけれど、「太平記」の終わりの場面はたいていみんな滑稽に終わる。一番典型的なものが、「太平記」自体で、歴史の中における繰り返しみたいなものとして滑稽に終わる。要するにマルクスの言う歴史は繰り返すという、あれだね。
【中沢】 二度目は喜劇だ。
【山口】 「太平記」の場合、それがあてはまる気がする。中国の故事に倣って、死ななくてはならないということで死んでいくのだけれど、たいていの場合それは犬死になる。これは死なないのですが一番滑稽として兵藤氏があげているのが、島津四郎の話です。この人は高時に非常に信頼されていてすばらしい来歴の聞こえある若武者であった。出陣に際して北条高時から直々に酒杯を受けて、関東無双の名馬を拝領する。「平家物語」の佐々木高綱を想起させるような話として語られているわけです。実際に新田の兵はこれを見て、
  「あつぱれ敵や」とののしりければ、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜を始めと
  して、大力の覚え取つたる悪者共、われ先にかの武者と組んで勝負を決せんと、馬を進めて
  相近づく。両方名誉の大力どもが、人まぜもせず軍する、あれ見よとののめきて、敵・御方
  もろともにかたづを呑うで汗を流し、これを見物してぞひかへたる。かかるところに、島津
  馬より飛んで下り、冑を脱いでしづしづと身繕ひをする程に、何とするぞと見居たれば、
  おめおめと降参して、義貞の勢にぞ加はりける。貴賤・上下これを見て、誉めつる言を翻
  して、にくまぬ者も無かりけり。これを降人の始めとして、あるいは年来重恩の郎従、ある
  いは累代奉行の家人ども、主を捨てて降人になり、親を捨てて敵に付き、目も当てられざる
  有様なり。およそ源平威を振るひ、互ひに天下を争はん事も、今日を限りとぞ見えたりける。
 非常に現代的だ(笑)。スラプスティック・コメディ(どたばた喜劇)でしょ。
-------

6951鈴木小太郎:2021/06/04(金) 09:26:20
山口昌男の『太平記』論(その8)「それでいて、アイロニーなんかでは全然ないんですよね」
島津四郎のエピソードは、昨年11月2日の投稿で、『難太平記』の足利尊氏が「降参」したという記事に関連して既に紹介したことがあります。
このエピソードが登場する第十巻は、

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 さる程に、足利治部大輔高氏敵になり給ひぬる事、道遠ければ、飛脚未だ到来せず、鎌倉には、かつて沙汰なかりけり。かかる処に、子息千寿王殿、五月二日の夜半に、大蔵谷を落ち、いづくともなくなり給ひにけり。これによつて、「すはや、親父の京都にて敵になり給ひけるは」とて、鎌倉中の貴賤上下、ただ今事のあらんずるやうに騒ぎ合へり。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10600

から始まって、東勝寺での北条一族八百七十三人の自害まで、凄惨な殺害・戦闘場面が延々と続く『太平記』の中でも特に緊張感溢れる巻ですが、この第十巻のちょうど中間くらいのところに島津四郎が登場します。
この直前には稲村ケ崎で新田義貞が龍神に剣を捧げると、「実に龍神八部も納受し給ひけるにや、その日の月の入り方に、前々更に干る事なかりける稲村崎、二十余町干揚がり、平沙まさに渺々たり」という状態になり、義貞の下知に従って、義貞軍が「稲村崎の遠干潟を一文字に駆け通り、鎌倉中へ乱れ入る」というあまりに有名な場面があります。
島津四郎のエピソードは山口昌男が紹介した部分だけでも十分にコミカルですが、山口が引用したのは全体の後半部分で、その前に、

-------
 島津四郎は、大力〔だいじから〕の聞こえあつて、実〔まこと〕に器量骨柄人に優れたりければ、御大事に逢ひぬべき者なりとて、長崎入道烏帽子子〔えぼしご〕にして、一人当千と憑〔たの〕まれたりければ、口々の戦場へは向けられず、相模入道の屋形の辺にぞ置かれたりける。浜の手破れて、源氏すでに若宮小路まで攻め入りたりと騒ぎければ、相模入道、島津四郎を呼んで、自ら酌を取つて酒を進められて、すでに三度傾けける時、厩〔うまや〕に立てられたりける坂東一の無双の名馬のありけるを、白鞍置いて引かれける。人これを見て、羨まずと云ふ事なし。門前より、この馬に打ち乗つて、由井の浜の浦風に大笠符〔おおかさじるし〕吹き流させ、あたりを払つて向かひければ、数万の軍勢、これを見て、実に一人当千と覚えたり、この間、長崎入道重恩を与へて、傍若無人に振る舞はせられつるも理〔ことわ〕りなりと、思はぬ人はなかりけり。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10434

という前段があります。
ここで島津四郎がいかに立派な若武者であるかを念入りに強調し、持ち上げるだけ持ち上げておいて、後半でストンと落とすので、余計に可笑しさが増す訳ですね。
『太平記』の作者はこうした聴衆・読者の反応を十分に計算した上で、綿密にこの「スラプスティック・コメディ(どたばた喜劇)」を演出しています。
さて、続きです。(p21以下)

-------
【中沢】 お笑いだね。今の人みたいだ(笑)。
【山口】 そういう人たちってどのくらい実力を持っていたか知らないけど、こんなふうに描く感覚というのは、ほとんど狂言の感覚ですね。
【中沢】 それでいて、アイロニーなんかでは全然ないんですよね。「平家物語」の場合は、一人一人の死が全体の物語の中でしかるべき位置があって、一人一人の人間の死に意味が与えられている。「太平記」はそうではない。さっきも言いましたけれど、死の側から描くということは、生きていることに意味を与えていることになるわけです。けれども、「太平記」のような視点になると、拡散してしまうのでしょうか、人間の生きていることや死んでいることに意味を与えるベースになっていたものが拡散してしまって、そうすると生きることもナンセンスになっていくし、死んでいくこともナンセンスになっていく。それを乾燥した眼で描いていくと、本当にスラプスティックに近づいていきますね。
【山口】 人見入道と本間資貞の話がありますね。
  坂の城近く成りければ、二人の者ども、馬の鼻をならべてかけあがり、堀の際までうち
  寄つて、鐙踏ん張り弓杖ついて、大音声を揚げて名のりけるは「武蔵国の住人に、人見
  四郎入道恩阿、年積つて七十三、相摸国の住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉を出で
  しより軍の先陣を懸けて、尸を戦場に曝さん事を存じて相向へり、われと思はん人々は、
  出であひて手なみの程を御覧ぜよ」と声々に呼ばはつて、城をにらんでひかへたり。城
  中の者どもこれを見て、「これぞとよ、坂東武者の風情とは。ただこれ熊谷・平山が一谷
  の先懸けを伝へ聞いて、うらやましく思へる者どもなり。あとを見るに続く武者もなし。
  またさまでの大名とも見えず。溢れ者の不敵武者に跳り合ひて、命失うて何かせん。ただ
  置いて事の様を見よ」とて、東西鳴りを静めて返事もせず。
何をいているか分らない(笑)。
 それで激怒した二人は、
  人見、腹を立て、「早旦より向つて名のれども、城より矢の一つをも射出ださぬは、臆病
  の至りか、敵をあなどるか。いでその儀ならば、手柄の程を見せん」とて、馬より飛び下
  りて、堀の上なる細橋さらさらと走り渡り、二人の者ども出屏塀の脇にひつそうて、木戸
  を切り落さんとしけるあひだ、城中これに騒いて、土小間・櫓の上より雨の降るがごとく
  に射ける矢、二人の者どもが鎧に、蓑の毛のごとくにぞ立つたりける。本間も人見も、
  もとより討死せんと思ひ立つたる事なれば、何かは一足も引くべき、命を限りに、二人
  とも一所にて討たれけり。
何もしていない。犬死だ(笑)。
-------

6952鈴木小太郎:2021/06/04(金) 13:58:00
山口昌男の『太平記』論(その9)「常に歴史意識とか歴史というものが決定的にからかわれている」
人見四郎入道恩阿と本間九郎の討死のエピソードは『太平記』第六巻に出てきます。
この場面、「ただこれ熊谷・平山が一谷の先懸けを伝へ聞いて、うらやましく思へる者どもなり」という具合いに、『太平記』の作者が『平家物語』を意識し、この話は『平家物語』巻九「一二の懸け」のパロディなんですよ、と明示している点が面白いですね。
山口は流布本(岩波古典文学大系)を利用していますが、西源院本で、当該場面の前提となる部分、第九節「赤坂合戦の事、并人見本間討死の事」の冒頭を引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p302以下)

-------
 赤坂城へ向かはれける大将赤橋右馬頭、後陣の勢を待ち調〔そろ〕へんがために、天王寺に両日逗留ありて、「二月三日午刻に、矢合はせあるべし、もし抜懸けの輩〔ともがら〕に於ては、罪科たるべき」由をぞ触れられける。
 ここに、武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿と云ふ者ありけるが、本間九郎に向かつて語りけるは、「御方〔みかた〕の軍勢、雲霞の如くなれば、敵の城を攻め落とさんずる事は疑ひなし。但し、事の様を案ずるに、関東天下の権を取つて、すでに七代に余れり。天満てるを欠く理〔ことわ〕り、遁るる所なし。その上、臣として君を流し奉りし積悪〔しゃくあく〕、豈にはたしてその身を滅ぼさざらんや。恩阿、不肖の身なりと云へども、武恩を蒙つて、齢〔よわい〕すでに七十三になりぬ。今より後〔のち〕さしたる思ひ出もなき身の、そぞろに長活〔ながい〕きして、武運の傾かんを見んも、老後の恨み、臨終の障〔さわ〕りともなりぬべければ、明日の合戦に先懸けして、一番に討死して、その名を末代に残さんと存ずるなり」と語りければ、本間九郎、心の中にはげにもと思ひながら、今度の合戦には、誰と云ふとも前〔さき〕をば懸けらるまじきものをと思ひければ、「枝葉〔しよう〕の事を宣ふものかな。これ程の打ちこみの軍〔いくさ〕に、そぞろなる前懸〔さきが〕けして討死したりとても、さしたる高名〔こうみょう〕ともいはるまじ。ただそれがしは人なみなみに振る舞はんと存ずるなり」と申しければ、恩阿、よにも無興〔ぶきょう〕げにて本堂の方へ行きければ、本間、怪しく思ひて人を付けて見せければ、矢立〔やたて〕を取り出だして、石の鳥居に何事とは知らず一筆書き付けて、己れが宿へぞ帰りける。本間、さればこそ、この者に明日の先懸けせられぬと、心ゆるしもなかりければ、まだ宵より打ち立つて、ただ一騎、忍びやかに東条を指してぞ向かひける。
 石川河原にて夜を明かし、朝霞の晴れ間より南の方を見たれば、紺の唐綾の鎧に白き母衣〔ほろ〕懸けて、鹿毛〔かげ〕なる馬に乗つたる武者ただ一騎、赤坂の城へ向けてぞ歩ませたる。何者やらんと、馬を打ち寄せてこれを見れば、人見四郎入道恩阿なりけり。人見、本間を見て、「夕べ宣ひし事を実〔まこと〕とばし思ひたらば、孫程なる人に出し抜かれまし」と、からからと打ち笑うて、頻りに馬を早めたり。本間、跡に追つ着いて、「今は互ひに前〔さき〕を争ひても申すに及ばず。一所にて尸〔かばね〕を曝して、冥途までも同道申さんずるぞよ」と申しければ、人見、「申すにや及ぶ」と返事して、跡になり先になり、物語りして打ちけるが、赤坂の城の近くなりければ、
-------

ということで、ここから山口の引用部分に繋がります。
山口は「坂の城近く成りければ」と引用を始めていますが、これは山口または編集者のケアレスミスで、「赤坂」が分断されてしまっています。
この場面で人見四郎入道恩阿と本間九郎(西源院本では「資頼」、流布本では「資貞」)の先駆けをめぐる騙し合いは『平家物語』での平山季重と成田五郎の騙し合いを連想させますね。
『平家物語』では大音声での名乗りの後、熊谷直実も平山季重も勇ましく戦う訳ですが、『太平記』では人見四郎入道恩阿と本間九郎は敵方から全く無視され、暫く独り相撲を続けた後、あっさり殺されてしまうことになります。
ただ、『太平記』では二人があっさり死んだ後の話がけっこう長くて、本間の息子の資忠が父親が死んだ場所に一人で向かって、やはり殺されることになります。
資忠の方はあまり滑稽な描かれ方をされていないので、全体を通してみるとコメディ的な印象はかなり弱まっていて、松尾剛次氏のような人が読めば、あるいは「長崎の鐘」が響いてくるのかもしれません。

平家物語「 一二の懸・二度の懸」(神戸市文書館サイト内)
https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/heike/heike03.html

さて、山口・中沢対談に戻って続きです。(p22以下)

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【中沢】 これも大笑いですね(笑)。ほとんど現代文学ですね。
【山口】 このあと赤坂城は落ちるけれども、そうかと言ってこの事件が落城のきっかけにはぜんぜんなっていないのです。
【中沢】 現代文学は「太平記」から始まったわけですね(笑)。
【山口】 一種のノンセンス文学なんだけど、常に歴史意識とか歴史というものが決定的にからかわれている。
【中沢】 物語というのがからかわれている。
【山口】 確かに「太平記」全体に、中国の故事の引用がものすごくたくさんある。また「平家物語」が常に意識されている。意識されると言っても、何の目的もなく意識されているから、文脈もなくただ通俗的な部分だけが真似られる。そういうところがある。それは狂言に描かれる太郎冠者ではないけれど、みんな取り上げられて、最後には身ぐるみ剥がれてしまう。悪党みたいなものにみんな取り上げられて下着だけで踊らされる小名、「このあたりに住まいいたすものでござる」という、大名じゃなくて小名が狂言には出てくる。そのような小名の描かれ方の感覚ときわめて似ていますね。だから「平家物語」の精神が一時代を経て「太平記」の精神は、同時代的に狂言に受け継がれたなんていうことも言えると思うんです。
【中沢】 現代文化ですね。
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二人の会話が弾んでいるところですが、少し長くなったので、いったんここで切ります。

6953鈴木小太郎:2021/06/05(土) 14:37:14
山口昌男の『太平記』論(その10)「だから無意識の底へ降りていくなんていうのは絶対不可能」
続きです。(p23)

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【山口】 それが言える根拠は、「平家物語」の場合はまだ最終的には仏法なんかの流れがあって、その分節化された結果として物語があるということなんだけど、「太平記」では見ている眼がつねに「京童はこれを見て笑ひにける」ということになる。
【中沢】 これは物語を知らない人ですね。
【山口】 とにかく、からかいたくてからかいたくてしょうがないわけです。たえず醒めた状態で酔うことを知らないで、パロディーとして鑑賞する、そういうふうな人間の眼が入っている。だから無意識の底へ降りていくなんていうのは絶対不可能です。
【中沢】 不可能なんですよね。だからこの「太平記」の世界というのは、例えば江戸時代の恋川春町とか山東京伝のああいう文学と、ほとんど一直線に繋がるんじゃないでしょうか。
【山口】 そうそう、だから狂歌ね。パロディーの狂歌や何かがたくさん落書で歌われる。そういうところが「太平記」の世界には濃厚に表われている。ある意味ではもうすでに江戸を用意しているというところがあるかも知れないですね。
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『太平記』の中で「京童」(京童部)はそう頻繁に出てくる訳ではありませんが、その登場場面では殆ど笑いが伴っていますね。
西源院本で最初に「京童部」が登場するのは第六巻第三節「六波羅勢討たるる事」で、元弘二年(1332)四月、楠木正成を天王寺に攻めた「両六波羅の軍奉行」の洲田(隅田)・高橋が敗れて京に逃げ帰った場面です。(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p285)

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【前略】されば、七千余騎の兵ども、残り少なに討ちなされて、匍〔は〕ふ匍ふ京へ逃げ上る。
 その翌日〔つぎのひ〕、いかなる者やしたりけん、六条河原に札を立てて、一首の歌をぞ書いたりける。
  渡辺の水いかばかり早ければ高橋落ちて洲田流るらむ
 京童部〔きょうわらんべ〕のくせなれば、この落書〔らくしょ〕を歌に作りて歌ひ、或いは語り伝へて笑ひける間、洲田、高橋、面目なく思ひて、暫くは出仕を留めて虚病してこそ居たりけれ。
-------

ということで、狂歌が伴っています。
北条仲時の被官・高橋太郎は第三巻第二節「笠置合戦の事」でも念入りにからかわれていて、「六波羅の両検断、糟屋三郎宗秋、隅田次郎左衛門尉」の下にいた高橋太郎は抜駆けして功名を得ようと思い、「わづかに一族の勢三百余騎を率して」攻め込んだところ、「官軍」に大敗し、「白昼に京へ逃げ上りければ、見苦しかりし有様」になってしまいます。
そして、

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これを悪〔にく〕しと思ふ者やしたりけん、平等院の橋爪に、一首の歌を書いてぞ立てたりける。
  木津川の瀬々の岩浪速ければ懸けて程なく落つる高橋
 高橋が抜懸けを聞いて、引かば入り替はて高名せんとて、跡に付きたる小早川〔こばいかわ〕も、一度に皆追つ立てられて、一返しも返さず、宇治まで引いたりと聞こえければ、また札を立て添えて、
  懸けも得ぬ高橋落ちて行く水に浮き名を流す小早河かな
-------

とのことで(p142以下)、両方ともなかなかの秀歌ですね。
さて、「京童部」の登場する二番目は第八巻第五節「同じき十二日合戦の事」で、元弘三年(1333)三月十二日、京都に攻め込んできた赤松勢は「河野九郎左衛門尉、陶山次郎」の活躍で撃退されます。
このとき、隅田・高橋は戦闘では全く良いところがなかったのですが、

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 軍〔いくさ〕散じて翌日〔つぎのひ〕に、隅田、高橋、京中を馳せ廻つて、ここかしこの堀溝に倒れ居たる手負〔ておい〕、死人の頚どもを取り集めて、六条河原に懸け並べたるに、その数八百七十三あり。敵これまで多く討たれざりけれども、軍もせぬ六波羅勢ども、われ高名したりと云はんとて、在家人〔ざいけにん〕、町人、道に行き合うたる旅人などの頸を仮頸〔かりくび〕にして、様々の名を書き付けて出だしたりける頸どもなり。その中に、赤松入道円心と札を付たる頸、五つあり。いづれも見知りたる人なければ、同じやうにぞ懸けたりける。京童部、これを見て、「頸を借りたる人は、子〔こ〕を付けて返すべし。赤松入道の討たれもせぬを討たれたると云ふ事は、武家の滅ぶべき相なり」と、口々にこそ笑ひける。
-------

ということで(p394)、ここでも京童部は笑う主体です。
ちなみに八百七十三人という数字は、元弘三年(1333)五月二十二日、鎌倉滅亡に際して東勝寺で自害した人数と同じで、偶然とは思えません。
この後、暫く「京童部」は登場しませんが、第二十七巻第二節「師直驕りを究むる事」に、南朝討伐に功のあった高師直・師泰兄弟の驕慢の一事例として、

-------
 また、月卿雲客の御女〔おんむすめ〕などは、世を浮き草の寄り難く、誘ふ水あらばと、うち侘びぬる折節なれば、せめてはさるわざもいかがせん、申すもやごとなき宮腹〔みやばら〕など、その数を知らず、ここかしこに隠し置き奉り、夜ごとに通ふ方〔かた〕多かりしかば、「執事の宮廻りに、手向〔たむ〕けを受けぬ神もなし」と、京童部なんどが笑ひ弄〔もてあそ〕びけるこそあさましけれ。
-------

とあります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p247以下)

6954鈴木小太郎:2021/06/05(土) 21:11:03
山口昌男の『太平記』論(その11)「パロディーの狂歌や何かがたくさん落書で歌われる」
今回調べるまでは、実は「京童(部)」の用例は相当に多いのかなと思っていたのですが、実際に指折り数えてみたところ、意外に少なくて、西源院本では前回投稿で紹介した三例の他、第二十七巻第十三節「雲景未来記の事」に二箇所出ているだけですね。
「雲景未来記」は雲景という羽黒山の山伏が京都見物に出かけ、天龍寺へ行こうとしていたところ、別の山伏に出会い、「天龍寺もさる事なれども、それは夢窓の住所〔すみか〕にて、さしたる見所もなし。われらが住む山こそ、日本無双の霊地にて侍れ。修業の思ひ出に、いざ見せ奉らん」と言われて愛宕山に連れて行かれた、という話です。
雲景未来記は随所に興味深い点があって、詳しい検討は後で行うつもりですが、とりあえず「京童(部)」に関連する部分はというと、第一は雲景が愛宕の老僧(天狗)から、

-------
「さては、この間、今日の事どもをば見聞き給ひつらん。何事か侍る。また、京童部は、いかなる事をか口遊びにはする」
-------

と質問された場面です。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p312)
そして第二は、老僧から「村雲の僧」(妙吉侍者)の名前が出たので、雲景が逆に、

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「さて、今ほど村雲の僧とて、行徳、権勢、世に聞こえ候ふは、いかなる人にて候ふやらん。京童部は、一向〔いっこう〕天狗にておはすなど申し候ふは、いかやうの事にて候ふやらん」
-------

と聞き返した場面です。(p313)
いずれも「京の口さがない民衆」という意味で用いられていますが、好き勝手に言いたい放題を言うことは悪口や笑いに通じるので、「京童(部)」には笑いや狂歌が伴うことが多くなりますね。
ところで、流布本の方はもう一箇所、第十九巻の末尾に「京童部」が登場します。
「青野原軍事 付嚢沙背水事」の最終場面、建武五年(1338)五月二十二日、北畠顕家が和泉国堺浦で戦死する少し前に、

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懸る処に、顕家卿舎弟春日少将顕信朝臣、今度南都を落し敗軍を集め、和泉の境に打出て近隣を犯奪、頓て八幡山に陣を取て、勢ひ京洛を呑。依之京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井兄弟だにも抽賞の儀もなし。況て其已下の者はさこそ有んずらんとて、曾て進む兵更に無りける間、角ては叶まじとて、師直一家を尽して打立給ける間、諸軍勢是に驚て我も我もと馳下る。されば其勢雲霞の如にて、八幡山の下四方に尺地も不残充満たり。されども要害の堀稠して、猛卒悉く志を同して楯篭たる事なれば、寄手毎度戦に利を失ふと聞へしかば、桃井兄弟の人々、我身を省みて、今度の催促にも不応、都に残留られたりけるが、高家氏族を尽し大家軍兵を起すと云ども、合戦利を失と聞て、余所には如何見て過べき。述懐は私事、弓矢の道は公界の義、遁れぬ所也とて、偸かに都を打立て手勢計を引率し、御方の大勢にも不牒合、自身山下に推寄せ、一日一夜攻戦ふ。是にして官軍も若干討れ疵を被りける。直信・直常の兵ども、残少に手負討れて、御方の陣へ引て加る。此比の京童部が桃井塚と名づけたるは、兄弟合戦の在所也。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B9%9D

とあります。
戦況が複雑なので説明は省略しますが、桃井直信・直常兄弟が拠点とした場所を「京童部」が桃井塚と名づけた、というだけの話ですね。
この場面に対応する記述は西源院本には存在しません。
というのは、西源院本の第十九巻は青野原合戦で終わってしまっていて、顕家が伊勢に転進して以降の記述が全く存在せず、顕家戦死の場面もないからです。
この点はちょっと不思議ですが、おそらく流布本の作者は古本系で欠落している顕家のその後が気になって、諸史料を参考に増補した、ということなのだろうと思います。
それはおそらく西源院本の成立から相当後の時代の話なので、もしかしたら「京童部」の用法も少し変わっていて、笑いや悪口が伴わない用法が増えていたのかもしれません。
さて、「京童(部)」の検討に予想外の手間がかかってしまいましたが、山口・中沢対談の「スラプスティック性」は前回紹介した部分で終わっています。
山口は「そうそう、だから狂歌ね。パロディーの狂歌や何かがたくさん落書で歌われる。そういうところが「太平記」の世界には濃厚に表われている」と言っていますが、細かいことを言えば『平家物語』にも狂歌は出てきます。
ただ、やはり狂歌の数は『太平記』の方が『平家物語』より遥かに多く、その作品の質も『太平記』の方が遥かに高く、面白いですね。

6955鈴木小太郎:2021/06/06(日) 11:34:21
山口昌男の『太平記』論(その12)「例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧を取られたりと」
念のため確認しておくと、『平家物語』にも狂歌は存在します。
巻五の「五節之沙汰」などが代表例で、作品のレベルもそれなりに高いですね。

「五節之沙汰」(『学ぶ・教える.COM 』サイト内)
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/heike/05/1201.html

ただ、『平家物語』ではせいぜい言葉遊びに終わっていますが、『太平記』はそこから更に話を練り上げて抱腹絶倒のスラップスティックコメディを作り上げていたりして、やはり笑いのレベルが『平家物語』とは格段に異なりますね。

『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10392
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10393
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10394

さて、山口・中沢対談の小見出しの六番目「物語の機能と王権」に入ります。
率直に言って、ここは私には山口に賛同しがたい記述も多く、簡単な紹介に留めようかとも思ったのですが、現在、「太平記 バサラの時代に」(『國文學 : 解釈と教材の研究』36巻2号、學燈社、1991)は何故か国会図書館でも入手できないので、興味を持たれた方の参照の便宜のために、全文を紹介しておきます。(p23以下)

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  物語の機能と王権

【中沢】 一方では、後醍醐天皇はずいぶんと変わった人だったかもしれないけれど、天皇制みたいなものはそういうものではなくて、物語がないと機能しないような権力ですね。物語というものが江戸時代になるとあまり作用しなくなるけれども、明治になってぐっとパワーを上げてきて、それでこういう「太平記」とかパロディー的な精神というのは今度は劣勢に立たされてきます。そういうように近代の歴史では逆転が起こってきて、むしろ日本の正史の中では「平家物語」的な物語というのが強くなってきます。それは天皇制の再浮上とも関わっていますね。小林秀雄は「平家物語」についてはあんなにいい論を書いても、「太平記」についてはろくなものを書いていないです。それは小林秀雄が担っていた精神構造が、パロディーや狂言、山東京伝とか恋川春町とか、そういうものを認めるようなものじゃなかったということです。それが一種の近代精神を作ってしまった。
【山口】 「太平記」について言われていることなんだけど、途中で後醍醐天皇を批判して姿をくらましてしまった藤原藤房のような人物、ああいう人がけっこういたんですね。中国の故事に倣って士太夫意識の強い人間が、「太平記」の世界には時々現われてくる。そういう意味で、士太夫的世界が近代の日本に受け継がれていった。
【中沢】 そうですね。そういう意味では、後醍醐天皇は一方では古代王権としての天皇の権力をもう一度回復させようとしてがんばったけれど、実際に彼がやったことや自分の周りに集めた力というのは、まったく違うものだった。古代権力としての天皇を復活させるのには、物語の機能というのを復活させなければいけないはずなのに、それとは違うものを自分の周りに組織してしまった。そこで天皇制というのは大きくずれてしまったという、パラドックスがあるのでしょうね。
【山口】 それでまた、どちらかというと天皇制が潜在的に持っている婆娑羅的なものは、足利の方に集まってきてしまった。
【中沢】 そうですね。足利尊氏はすごく後醍醐天皇のことを好きでしょう。憧れているし、彼が持っている婆娑羅的なものを自分でも表現しようとしています。
【山口】 後醍醐には婆娑羅はあるのだけれど、いわゆる婆娑羅の一番面白い部分は、佐々木導誉の数々のエピソードです。佐々木導誉のほうがはるかにパフォーマンスを使って能も狂言も両方を吸収していると言えます。観世元阿弥なんかが尊敬されたし、お茶やお花、また闘茶や博打にも長けていた。古典的教養は非常にあって、しかしそういうものを捨てて、婆娑羅的に生かした。あの楠木正儀に攻められて、一回京都を空けているときに、有名なエピソードがあります。礼を尽くしてきちんとお迎えして、それで退散した。
  楠一番に打ち入りたりけるに、遁世者二人出で向ひて、「定めてこの弊屋へ御入りぞ
  候はんずらん。一献をすすめ申せと、道誉禅門申し置かれて候ふ」と、色代してぞ出
  で迎ひける。道誉は相摸守の当敵なれば、この宿所をば定めて毀ち焼くべしと憤られ
  けれども、楠この情けを感じて、その儀を止めしかば、泉水の木一本をも損ぜず、客
  殿の畳の一帖をも失はず。あまつさへ遠侍の酒肴、以前のよりも結構し、眠蔵には、
  秘蔵の鎧に白太刀一振り置いて、郎等二人止め置きて、道誉に交替して、また都をぞ
  落ちたりける。道誉が今度の振舞ひ、情け深く風情有りと、感ぜぬ人も無かりけり。
  例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧を取られたりと、笑ふやからも
  多かりけり。
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山口の発言の途中ですが、長くなったので、いったんここで切ります。
「観世元阿弥なんかが尊敬されたし」は何だかよく分りませんが、観阿弥のことでしょうか。

6956鈴木小太郎:2021/06/07(月) 08:56:20
山口昌男の『太平記』論(その13)「だけど足利尊氏の婆娑羅性は現代的ですね」
佐々木導誉の「古博奕」エピソードは流布本では第三十七巻「新将軍京落事」、西源院本では第三十六巻第十六節「公家武家没落の事」に出ています。
山口が引用したのは、このエピソードの後半で、西源院本で前半を見ると、

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 佐渡判官入道道誉は、都を落ちける時、わが宿所へは、定めてさもとある大将ぞ入り替はらんずらん、尋常に取りしたためて見すべしとて、六間〔むま〕の会所〔かいしょ〕六所に、大文〔だいもん〕の畳を敷き並べ、本尊、脇絵、花瓶、香炉、鑵子〔かんす〕、建盞〔けんさん〕に至るまで、一様〔いちよう〕に皆置き調へて、書院には、義之が草書の碣〔けつ〕、韓愈が文集、眠蔵〔めんぞう〕には、沈〔じん〕の枕に緞子〔どんす〕の宿直物〔とのいもの〕、十二間の遠侍〔とおさぶらい〕には、鳥、兔、雉、白鳥〔くぐい〕、三棹〔みさお〕懸け並べ、三石入りばかりなる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留め置きて、「誰〔たれ〕にても、この宿所へ入らんずる人に、一献勧めよ」と、申し置きたりける。
-------

といった具合いです。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p466)
この極めて詳細な物品リストを受けて楠木正儀の返礼の対応があり、そこまでで充分に面白い話なのにもかかわらず、最後の最後で、この導誉の振舞いを情け深く風情ありと感動する人もいたが、導誉のいつもの古博奕に出し抜かれて、正直者の楠木正儀が立派な鎧と太刀を騙し取られてしまったな、と笑う連中も多かった、といきなり全てをひっくり返す訳で、『太平記』作者のストーリーテラーとしての手腕は見事ですね。
さて、山口の発言の続きです。(p24以下)

-------
 何か婆娑羅性というものは、もっと後醍醐の側にあってもよかったはずなのにと思います。元々楠木一族は葛城山系の山伏・修験者の要素を帯びていた。この人達は、探索が上手で、土地の微地形に合わせて、戦略を立てていく能力に恵まれていたらしい。ただ、平地に馬を走らせてワンパターンに駆け廻っていただけの巻狩りの連中とは違う(笑)。正成の場合は、戦略において婆娑羅戦略を採用したわけでしょう。そういうものを東国の武士では、まれに義経などが持っているけれど、義経は単なる東国の武士ではなくて、鞍馬山で修業している。天狗に教育を受けているから(笑)、婆娑羅性が自然に身に付いているところがある。もっとも安井久善氏は「正成のそれ(機略)は源義経の衣鉢を継いでいる」と言っている(「『太平記』をめぐって」『南北朝軍記とその周辺』笠間書院、51頁)。後醍醐たちはそういうようなものを吸収する仕掛けを持っていなかった。それは、つまずきの大きな原因として語られているけれど、中沢さんから見ればやっぱりどうですか。「太平記」は天狗がやたらと活躍するでしょう。
【中沢】 そうですね。尊氏の婆娑羅性というのは、長いこと否定的にしか言われていないですよね。
【山口】 だから天狗の意識からいうとそうなる。
【中沢】 恩知らずと言われている。
【山口】 だけど足利尊氏の婆娑羅性は現代的ですね。
【中沢】 ナウいです。
【山口】 そう、たいてい運のよさで切り抜けていく。それで天狗に魅入られて滅びまで行ってしまう。
【中沢】 そう、口先三寸。そういうのは長いあいだ人気がなかった。やはり近代日本がいかに物語に呪縛されていたかということですね。山口さんのような方は常に少数派でしかなかった。未だにそうかも知れないですけど。
-------

うーむ。
私自身は「尊氏の婆娑羅性」という議論はさっぱり理解できません。
中沢の発言の中に「恩知らず」「口先三寸」とあるので、尊氏が後醍醐を裏切ったことが「尊氏の婆娑羅性」の中心にあるようですが、「三種の神器」をあちこちに配ったと称する後醍醐こそ「口先三寸」にふさわしい人物であって、尊氏は後醍醐に対しては一貫して誠実ですね。
ま、所詮は三十年前の議論なので、「婆娑羅」については二人とも網野善彦の『異形の王権』あたりを前提にしているのだろうと思います。
また、西国の武士と東国の武士の違いについても、ちょっと古い議論のように感じます。
なお、「婆娑羅」の語義については、今のところ遠藤基郎氏の「バサラ再考」(『東京大学史料編纂所研究紀要』22号、2012)が学説の到達点ではないかと思われます。

遠藤基郎氏によるストイックな『太平記』研究の一例
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10399
「「院」 と「犬」 とを引っかけて、光厳院に対して、犬追物よろしく射懸けたあの諧謔の精神」(by 遠藤基郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10400

6957鈴木小太郎:2021/06/07(月) 13:54:46
山口昌男の『太平記』論(その14)「「太平記」の場合の天狗は正でも悪でもないでしょう」
続きです。(p25以下)

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【山口】 私は酔わせることをしないからね。だけど高時だって武運拙く敗れたのであって、悪政を敷いて、それで田楽に凝ったから滅びたんだ。これが「太平記」のなかでは、天狗に魅入られて滅びたということになっている(笑)。現代の感覚ではそのほうが遥かによろしいのではないだろうか。
【中沢】 天狗というのは日本のダダイズムなんだ。
【山口】 愛宕山の天狗が、愛宕山の未来記として全部予言していく、あの天狗の怪しき仕業というのは、「太平記」の新しい側面だったのではないですか。
【中沢】 天狗というのは、この場合どういうふうに考えたらいいんでしょうか。ギリシャ悲劇のうしろにいて、運命を歌い上げるコロスとは違うんでしょうか。
【山口】 あの天狗はいたずらをしかけるからね。
【中沢】 ええ、不意討ちをしたり、不連続を持ってきたりするものですね。ほんとうに下剋上の極まりと言ってもいいでしょう。
【山口】 下剋上で上にいたものが今度は下に行った怨念で、後醍醐天皇や大塔宮なんかが怨霊となって、それで天下の騒動を企てようとするけれど、最上位にいた者たちがだんだん退けられて周縁化されていく。怨霊になったとたんに一番劣等なものに落とされてしまう。歴史を動かしている背後に天狗を想定するというのは、むしろ現代の漫画などにはすんなり入っていく感覚ですよ。
-------

以上で、「物語の機能と王権」は終わりです。
「愛宕山の天狗が、愛宕山の未来記として全部予言していく」は(その11)で触れた第二十七巻の「雲景未来記」のことですね。
また、「後醍醐天皇や大塔宮なんかが怨霊となって、それで天下の騒動を企てようとする」は第二十六巻「大塔宮の亡霊胎内に宿る事」(流布本では第二十五巻「宮方の怨霊六本杉に会する事」)に出てくる仁和寺の六本杉の話です。
さて、小見出しの七番目で最後の「トリックスター」に入ります。(p26以下)

-------
【中沢】 そうですよね。あれは一種の陰謀史観でしょ。あらゆるオカルティズムには陰謀史観があって、これは面白いもので、オウム真理教からウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』にいたるまで、必ずテーマになってくるんです。オウム真理教の場合も、現代世界や西洋文明は物質の力という悪の力が支配していく、人間はそれと戦わなくてはならないという。これは一種の陰謀史観だし、荒俣宏の『帝都物語』もあきらかに陰謀史観ですよね。『帝都物語』では、東京でいろいろ変なことが起こっているけど、その意味が分からなくて困っている。実はこれは関東平野に眠っている平将門の霊の悪の力がなさしめているという。こういう発想はフリーメイソンもそうだし、薔薇十字団もそうだけど、オカルティズムというのはかならず陰謀史観を持ちます。
【山口】 「太平記」がこれまで非難されてきたのは、そういうものを平気で入れて、非合理性を導入したからです。しかし、普通の表現で表現できないことがあった場合に、真実を言うために嘘を言うという技法があることを考えると、天狗のしわざ自体が存在するかどうかではなくて、そういうものを介入させたほうが、陰にある力(オッカルト・フォース)をよく顕すことができるという感覚が、「太平記」の書き手のなかに時代的に共有されていたと言うこともできる。
【中沢】 ふつう陰謀史観の場合は、天狗のようなものはつねに悪なんですよね。悪の道徳意識みたいのがあるでしょう。だけど「太平記」の場合の天狗は正でも悪でもないでしょう。別に何かが正しいと思ってやっているわけでもないし、ただ単に自分が面白いからとか、こうやったら何となくみんなが喜ぶんじゃないかとか、そういうもうほとんど不道徳な動機からきている。
【山口】 自覚がまったくない、いたずらトリックスター。あるいは使い手を失った護法童子。
-------

いったん、ここで切ります。
中沢がオウム真理教についてずいぶん軽く語っていますが、この対談は1990年に行われていて、地下鉄サリン事件の五年くらい前の話ですね。

中沢新一(1950生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E6%96%B0%E4%B8%80

荒俣宏の『帝都物語』は若い人には何のことか分からない話でしょうね。
当掲示板では一回だけ話題にしたことがあります。

【設問】東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んで、その内容を五字で要約せよ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9933

さて、中沢は「「太平記」の場合の天狗は正でも悪でもないでしょう」と述べますが、第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」(大森彦七物語)に登場する「天狗」の楠木正成は「正成も最期の悪念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼と云ふ鬼になつて、七頭の牛に乗れり」などと言っていますから、この場面では天狗は「悪」の存在と設定されていますね。

松尾著(その9)「元来摩醯首羅の所変にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10727

仁和寺の六本杉の話でも、「天狗道に落ちぬる」「天狗道の苦患」などとありますから、少なくとも「正」ではないですね。
しかし、「雲景未来記」の場合、雲景と対話した高貴な雰囲気の老僧は「愛宕山の太郎坊」であることが明らかにされますが、こちらは確かに「正でも悪でもない」ように描かれています。
ということで、『太平記』に描かれた天狗も様々で、一筋縄ではいかないですね。

6958鈴木小太郎:2021/06/08(火) 09:22:43
山口昌男の『太平記』論(その15)「意表を衝いて、機先を制していって、とんでもないところへ話を持っていくやり方」
トリックスター論は山口昌男の主要業績のひとつですが、山口・中沢対談においては、議論があまりに拡散してしまって、『太平記』から遊離しているような印象を受けます。
ただ、この対談は国会図書館サイトでも複写依頼できないので、三十年前に既にこうした議論があったのだなと興味を持ってくれる人が現れることを期待し、そういう人の参照の便宜のため、省略せずに引用しておきます。
何で私が国会図書館サイトでも複写依頼できないことを知っているかというと、それを試みたからですね。
私も何度か引っ越しをしたので、書籍やコピーを段ボールに詰め込んだまま放置しているものがけっこう多く、確実に自分が所有している資料でありながら、探すより図書館で入手した方が手っ取り早いことがけっこうあって、『國文学 解釈と教材の研究』第36巻2号(通巻523号)もそうでした。
しかし、国会図書館で入手できない以上、自宅を捜索するしかなく、今回、必死に探してやっと見つけた訳です。
ま、それはともかく、続きです。(p26以下)

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【中沢】 そうですね。だから背後に物語はいっさいないわけでしょ。だけど一般のオカルティズムは、かならずそこにまた物語を、背後にある魔の力というのを導入してしまう。それではつまらないものに陥っていくと思う。やはり魔の力、物語性がいっさいない、ほんとうにトリックスターであるということが重要なんだと思います。
【山口】 僕が最初に言ったことは、そのことに繋がります。
【中沢】 そのことはすごく大事なことでしょう。魔の力を物語みたいなものに凝縮しようとするのを、トリックスター化して、分散し粉々にしていくような意識を持ちつづけるためにはいかにすればいいのか。そういう意味では、「太平記」というものの持っている反「平家物語」的なものというのは、すごく現代的で、しかも現代でも実現されていないようなものだと思いますね。思わずここでまた山口さんのトリックスター論を誉めたくなってしまいますが(笑)。そのトリックスター論というのが、ほんとうに日本で生きなかったことが問題なんじゃないですか。
 山口さんのトリックスター論もそうだし、モーツァルトなんかの場合もそうですけど、ほんとうに無責任で、全体の結構をつけようなんていう気は毛頭ないものを、後の人間がまた物語化しようとしてしまったと思うんです。それで今度は、世界を中心と周縁とか、トリックスター的な視点から見るという形で構造化してしまったんだと思うんです。そこのところが、せっかく「太平記」から江戸戯作文学にいたる伝統がある日本のメンタリティを、近代のああいう物語的な時代が吸い込んでしまったという気がしてしょうがないんです。今の若い思想家だって大概そういうものじゃないかな。だから僕は、未だに「太平記」の天狗や、山口昌男のトリックスターを支持するわけです。それから山東京伝の「江戸生艶気蒲焼」に出てきた馬鹿な奴なんかの、あの精神は現代の日本のなかではほんとうの意味での市民権を得ていないんじゃないか、その口惜しさですね。
【山口】 平賀源内とかその作品の登場人物風流志道軒みたいな人も入る。
【中沢】 それこそ最近山口さんが注目されている石原莞爾もそうでしょう。
【山口】 兵法的にいえば石原莞爾はほとんど楠木だと思うんですよね。その行動、振舞いにおいてはダダイストなんですね。ダダイストの先駆者です。「ユビュ王」の主人公とかエリック・サティみたいなところがあるね。
【中沢】 そう言ってくれる人、今までいなかったんですよ(笑)。
【山口】 つまり、意表を衝いて、機先を制していって、とんでもないところへ話を持っていくやり方ね。
【中沢】 うん、脈絡をつけられないやり方だ。
【山口】 脈絡がないということを言ってひらきなおればよかったのだろうけれど、日蓮などを持ち出して筋立てをつくろうとするものだから収拾がつかなくなった。だからなかなか周りから共感が得られなくて、やはり私のごとく孤立してしまったんだよ(笑)。
【中沢】 そうですね。脈絡がないということは、この国では非常に悪いことなんです。でも密教の世界を見ると、脈絡なんてこの世になくてもいいんだって言うんですよね。大日如来では、この世では捉えられない統一性があるんだから、この世では脈絡なんかなくてもいいという。これは「太平記」の天狗に相似する世界観です。
-------

いったん、ここで切ります。
「江戸生艶気蒲焼」も風流志道軒も悪くはないのですが、やはり南北朝期の『太平記』と近世の作品は時代背景が全く異なるので、一緒に論じても歴史学の観点からはあまり生産的ではないですね。
モーツァルトやエリック・サティ、アルフレッド・ジャリの『ユビュ王』や石原莞爾も同様です。

「江戸生艶気蒲焼」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E7%94%9F%E8%89%B6%E6%B0%97%E6%A8%BA%E7%84%BC
「風流志道軒伝」
https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E6%B5%81%E5%BF%97%E9%81%93%E8%BB%92%E4%BC%9D-123027

6959鈴木小太郎:2021/06/08(火) 11:51:02
山口昌男の『太平記』論(その16)「「太平記」の場合は、異質のさまざまな時間を取り込んで平気なのであって」
今回で山口・中沢対談の紹介も最後ですが、どうも終わりに行くに従って中沢色が強くなりますね。
さすがにシャーリー・マクレーンあたりは引用するだけでも若干の苦痛が伴いますが、我慢して紹介します。
ということで、続きです。(p28以下)

-------
【山口】 要するに普段繋がらないものを繋げていく、そういう役割だからね。
【中沢】 あるいは、普段繋がっていると思われているものを切っていく思考法。僕は「太平記」の文体は、切っていく文体だと思っているんですよ。
【山口】 それは狂言が受け継いだスタイルです。能は長い時間の持続を内に持って、全部ゆるやかな時間構造の中で救済していくわけでしょう。だからそれは夢の時間のなかにあると言える。一方狂言では、そこにいたるものを文脈に即して対象化してしまうという感じです。だから切れた叙述となり、それが笑いを作り出していく。「太平記」の叙述の、すべては必然ではなくて偶然であるという考え方やぶつぶつ切れているスタイルというのは、その精神においては狂言綺語のものですね。
【中沢】 そうなんです。すごく滑らかなんだけど、全部一個一個が切れているという、不思議なスタイルなんですよね。
【山口】 登場人物がみんな無責任で、周りの天狗や何かには構っていない。
【中沢】 まるで、エノケンや植木等がやっているようなものですよね(笑)。でも逆にいうと、今の若い人なんかはライフ・ヒストリーの欲望がとても強くて、前世占いが流行ったりしているでしょう。バシャールやシャーリー・マクレーンみたいなものがものすごく流行っているでしょう。あれも一種のシャーマンをもとめているんですよね。
【山口】 先日、フェリーニの「月の声」の試写会で会ったら、鎌田東二氏がその日の午後、シャーリー・マクレーンに会って感激したと言っていた。
【中沢】 現代のシャーマンたちは物語を語ることで、その人に確かな位置を与えようとするんです。自分が今生きている位置というものを、その物語のなかで測定していくという欲望がすごく強い。現代社会はある意味で、人間のアイデンティティなんてどこにも着地させないような社会を形作っているから、よけいそういう願望が強いんでしょう。ところがトリックスターはむしろ悪魔的な存在で、現代の運動と非常によく似ているように見える。だけど、それを解消するのに、また疑似シャーマン的な前世占いみたいなもので人間のライフヒストリーを再構築するような道に入っていこうとしている。僕はそれには反対なんですよ。
 例えば仏教では今この瞬間をものすごく重大に思うでしょう。仏教には時間なんて存在しないんです。時間の連続で一貫性を持っているように見えるものも、それは幻想なのであって実際には何も起こっていない、何も変化していないということがあると思います。だからこの世界で起こっていることに、観念の中で脈絡をつけて統一するなんていうことは意味ないわけです。大事なのはその瞬間であって、連続している時間なんかないわけです。
【山口】 これで中沢さんがコスモロジーということばになぜ反対するのか分かった。
【中沢】 それは山口さんのトリックスター論の要点でもあるんだと思います。
【山口】 「太平記」の場合は、異質のさまざまな時間を取り込んで平気なのであって、統一の時間で括るということはない。戦いの時間観念というのが、西国の武士と東国の武士とは全然違うのだけれど、それを両方とも物語の中に紡ぎ出して、パロディーを紡ぎ出してしまうという技術をいたるところにちりばめていると言えると思います。
【中沢】 僕はコスモロジーということばは、トリックスターにとってはすごい罠が仕掛けられていたことばではないかという気がしていたのです。確かにコスモロジーということばで言わんとしているのは、仏教で言えば大日如来のようなものだと思う。でもそれは脈絡のないものなのですよね。掴み取れないものです。それは根本的に言うとトリックスター的なものです。そこのところがむつかしくて、日本の文化がうまい方向へ、トリックスター的な方向へ行ったなと思ったとたん、いつもまたもとへ引きずり込まれてしまう。江戸時代はわりとうまくいく瞬間があったりしたんですけれど、近代になると、そういうものを必ず物語に引き込んでいくプロセスが巧妙に働きだすという仕組になっている。だから僕は、山口さんのトリックスター論はまだほんとうの戦いをしていないような気がするのですね。これから始まるのではないかと思います。
【山口】 いや、そう、「太平記」を読み直して戦略を立てなおす(笑)。これが結論かな。
【中沢】 うまくまとまりましたね(笑)
                         ──了──(90・10・29)
-------

ということで、最後の方は本当に中沢色が強くなってしまって、『太平記』とも無関係な与太話となっており、私にとってはあまりすっきりしない終わり方です。
山口はこの後、『太平記』についての認識を深めることは特になく、「敗者」の歴史人類学、みたいな方向に進んで行きましたが、正直、私は山口の晩年の著作にはあまり興味を持てませんでした。

山口昌男の失速
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8770
「歴史人類学」の評価
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8771
山口昌男『回想の人類学』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8774
大塚信一『山口昌男の手紙』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8778
「山口昌男先生の戒名は、「興学院周縁昌道居士」」(by 落合一泰氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8779
「柳田の嫁でございます」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8780
勝峯月渓と三浦周行
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8781
「贋学生の懺悔録」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8782
山口昌男が大学院に落ちた理由
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8784
今福龍太氏の「校閲者注記」について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8791

6960鈴木小太郎:2021/06/09(水) 12:24:03
山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その1)「日本的バロックの原像─佐々木道誉と織田信長」
中沢新一は網野善彦を介して歴史学に微妙な影響を与えていたことがあり、私はかつて「網野史学」から中沢によって汚染された部分を除去せねば、みたいな妄想を抱いたこともあるのですが、二人は本当に早い時期から密着していて、切り離すことはできないですね。

相生山「生駒庵」の謎(その1)~(その3)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7644
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7645
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7646
『血族』の世界
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7648
注文の多い料理店
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7651
アミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーション
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7653
内田啓一氏の功績
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9498

さて、山口・中沢対談、個人的にかなり思い入れがあるので長々と紹介しましたが、普通の研究者は松尾剛次氏のような「笑ってはならない呪いをかけられた研究者」の生真面目な『太平記』論に疲れたときに、一種の毒消しとして、毒をもって毒を制す、くらいの気持ちで受け止めれば十分だと思います。

(その1)「笑ってはならない呪いをかけられた研究者」から離れて
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10734

松尾氏を横綱格とする生真面目な研究者たちは、どうしても『太平記』に「一貫した世界観」を求めがちですが、そんなものは別にないかもしれないし、なくてもいいのだ、という考え方があることを知っておけば、少なくとも研究に行き詰まったときの気休め程度にはなりそうですね。

(その3)「一貫した世界観」の不在
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10736

ただ、私の場合、去年の九月段階では、三十年前の歴史学の水準が低かったので山口昌男をもってしてもその認識に限界があった、と考えていたのですが、「大森彦七物語」の分析を経て、どうもそうではなく、山口自身に内在的限界があったのではないか、と考えるようになりました。

「ストイック」ではない『太平記』研究の可能性
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10398

そこで、山口・中沢対談から更に十七年ほど遡って、「日本的バロックの原像─佐々木道誉と織田信長」(『歴史・祝祭・神話』、中央公論社、1974)を検討し、山口の認識の限界とその原因を探って行きたいと思います。
同書は2014年に岩波現代文庫に入っているので、引用は岩波現代文庫版から行います。

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『歴史・祝祭・神話』

著者の大テーマであるスケープゴート(贖罪の山羊)論.中心にある権力は周辺にハタモノを対置して自らの力を正当化し,ハタモノは一時は脚光をあびるがついには排除される.歴史の中で犠牲に供されたトロツキーやメイエルホリドらの軌跡をたどり,スケープゴートを必要としそれを再生産する社会の深層構造をあぶり出す.(解説=今福龍太)

■編集部からのメッセージ

本書は著者のトリックスター論(これが集中的に論じられているのは『道化の民俗学』です)と並ぶもう一つの大テーマである「スケープゴート」(贖罪の山羊)論についての「序論」にあたる「問題提起」の書です。
 『本の神話学』が書物を中心とする知のネットワークを浮かび上がらせる神話読解の作業であるとすれば、本書は人物を中心としてふだんは見えない文化の深層構造を浮かび上がらせた作品です。
 本書の「祝祭」というキーワードは、華やかな祭りという意味からはほど遠く、歴史上のある時期、ある場所で文化英雄となった人物が志に反して処刑や流刑の憂き目に遭ったり、何者かへの「スケープゴート」とされるという意味です。解説者の今福龍太さんは目次に掲げた実在の人物を列挙したあと、「現実の歴史のなかでは迫害され扼殺された者たちの系譜に、さらにシェイクスピア史劇の放埒な老騎士フォルスタッフや17世紀スペインの伝説上の放蕩児ドン・ファンなどの架空の人物たちを加えれば、本書が説く歴史と神話空間とを媒介する『祝祭』なるものの深みと拡がりは明らかであろう。こうした人物たちはたしかに、政治的闘争と死の影に覆われた歴史世界から人々を解放し、民衆を一時的な祝祭空間=カーニヴァルに導こうとした。だが彼らは、結果として時の権力から魔性の烙印を押され、表層の社会秩序を回復するための生贄として葬り去られた者たちである」(252頁)と論じています。

https://www.iwanami.co.jp/book/b255937.html

6961鈴木小太郎:2021/06/09(水) 15:25:27
山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その2)「ついには上総山辺郡へ流刑に処せられた」
『歴史・祝祭・神話』の構成は、

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第一部 鎮魂と犠牲
 ガルシア・ロルカにおける死と鎮魂
 祝祭的世界─ジル・ド・レの武勲詩
 日本的バロックの原像─佐々木道誉と織田信長
 犠牲の論理─ヒトラー、ユダヤ人
第二部 革命のアルケオロジー
 「ハタモノ」選び
 空位期における知性の運命
 スターリンの病理的宇宙
 トロツキーの記号学
 神話的始原児トロツキー
 メイエルホリド殺し
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となっていますが、「日本的バロックの原像─佐々木導誉と織田信長」を冒頭から引用します。(p56以下)

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 歴史的実在人物であろうが神話的人物であろうが、これらの形象─ジル・ド・レ、フォルスタッフまたはドン・ファン─の共通に持つ特徴は、遊戯性、演劇性、反秩序、反時間性、交換の拒否、生の昂揚、死への至近距離、エキセントリシティという諸点にみることができる。日常世界の秩序はこれらの要素を道徳的刑事法的犯罪性と見なし抑圧することによって成り立っている。しかしながら、それはこれらの要素を間歇的に導入することによってしか成り立って行かないのだ。あらゆる世界において多かれ少なかれ「新しいもの〔ニュース〕」と考えられるものは、これらの要素のどの部分からか発しているのである。
 わが国の民間信仰における風流が、あるいはこういった洒落の示現にはもっとも近いものの一つかも知れない。そうだとするならば、われわれは、一見飛躍的に響くかも知れないが織田信長、あるいは諏訪春雄氏が「かぶき・婆娑羅精神の発生と美意識」(『国文学─解釈と鑑賞』一九七三年二月号)という論考で論じている「バサラニ風流ヲ尽シ」(『太平記』)た佐々木道誉のような「人物」に、もっとも著しいバロック的祝祭性をみることができるかもしれない。
 バロック精神という言葉は、一時期全西欧の知性をゆさぶったことがあるために、今日きわめて曖昧に使われている。しかし安定(固定)した現実に対して不安定(流動的)な現実を対置させるという点に照準を合わせると、この言葉が使われるべきコンテキストは幾分明らかになるはずである。ヨーロッパ的伝統においてこの言葉は「論理的・古典的・ラテン的」という形容詞で意味されるものに対置される言葉であるとしつつ、ポール・ロックは次のような定義の試みを行なう。「バロック的精神というのは、当たり前のものとして受け容れられている基準や、行儀のよい環境から身を引く、知的にして行動的な振舞の総体である。このようなあり方は≪明証性を帯びて輪廓のはっきりした理念≫からいっても、均衡のとれた規定からいっても受け容れられる余地がない。それは深い下意識に発し、情念の赴くままに行為に身をまかせ、明証法が躍動的な解放感の前に立ちはだかるときに、人がどきっとするような『かたち』でのびのびと自らを表現する行為なのである」(「バロック的精神」、『バロックと映画』パリ、一九六〇年、三三頁)
 バロック概念の拡大解釈で、鋭くバロック的世界観の本質を衝きながら、狭義の美術史家の顰蹙を買ったエウヘニオ・ドールスは『バロック論』(成瀬駒男訳、筑摩書房)の中でカーニヴァル的祝祭感覚とバロックの関係をつぎのように述べている。
「≪異端が存在することは必要である〔オポルテト・ハエレセス・ニスセ〕≫。まさに異端者は存在せねばならぬ。そして同様に仮面も遊びたわむれねばならぬ。排除されるどころか、はや一つの階級なのだ! 謝肉祭が始終繰り返されたら、何と嫌らしいものであることか! しかし、謝肉祭のない年があったら、何と退屈なことか! 謝肉祭と同様、休暇もまた思慮深くあらかじめ認められた例外としての価値をもつ。それはいわばバロック的な取極めで、普段の規律はその中に正しく自己の生育力を見出すのだ」(同書、一六頁、傍点筆者)
-------

いったん、ここで切ります。
「普段の規律はその中に正しく自己の生育力を見出すのだ」には傍点が振ってあります。
山口昌男を読み慣れていない人には何が何だか分からないと思いますが、あまり気にしないで先に進んで下さい。
ということで、続きです。(p58以下)

-------
 佐々木道誉は、南北朝の動乱期にその放埓ぶりで異彩を放つエキセントリックな守護大名であった。この人物はいろいろな意味で、位置づけが難しいとされてきた。近江の守護としての名家に生れながら、どこから見ても無軌道としか思えない派手な生活を追い、軍役における節操を欠き、権謀術策の限りをつくし、すべての立居振舞いを豪奢に仕立て、ついには上総山辺郡へ流刑に処せられた。
 『太平記』巻二十一「佐渡ノ判官入道流刑ノ事」(以下、岩波書店「日本古典文学大系」『太平記』?、?、?による)の中に「此比〔コノコロ〕殊ニ時ヲ得テ、栄耀〔エイエウ〕人ノ目ヲ驚シケル佐々木佐渡判官入道道誉ガ一族若党共、例ノバサラ(婆娑羅)ニ風流ヲ尽シテ、西郊東山ノ小鷹狩シテ帰リケルガ」と記述されている。この「バサラ」という言葉を手がかりとして、諏訪春雄氏は、これまで林屋辰三郎、黒田俊雄あるいは長谷川端氏らによって展開されてきた佐々木道誉の像をさらに一歩積極的なものに転化しようとする。
 道誉の節操のなさ、抜目なさ、機敏さ、卓越した戦場駆け引き、古典にたいする深い教養、新しい文化への感受性などは諏訪氏の強調するところであるが、とくに道誉の並はずれた装飾趣味は、ジル・ド・レのそれに対応する嗜好をわれわれに想起させるに充分である。五条橋の建造において道誉の面目をつぶした管領斯波高経にたいする報復のために、高経が道誉を花の下の宴席に招待した同じ日に、道誉が大原野の小塩山勝持寺に、豪壮な祝宴を開いて洛中の人々の目をそばだたしめ、高経の顔色なからしめたことは、たんに彼の反乱精神のみならず、過剰性への徹底した傾斜を物語るものである。
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「ついには上総山辺郡へ流刑に処せられた」とありますが、これは『太平記』にそう記されているだけで、史実では道誉の配流地は出羽国、事件の主犯格で道誉の嫡子秀綱の配流地は出羽国です。
道誉の実像と、道誉が『太平記』にどのように描かれているかは別の問題ですが、山口の議論は主として『太平記』に依拠していますね。

「つまり外的な条件が人間的な特徴を決定づけたといえるだろう」(by 佐藤進一氏)
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6962鈴木小太郎:2021/06/10(木) 11:04:19
山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その3)「「バサラ」はまさに演劇性と犯罪性の接点に成り立つような行為の謂いなのであろう」
道誉(導誉)の配流地について『太平記』の記述は史実と違う旨を指摘しましたが、森茂暁氏の『佐々木導誉』(吉川弘文館、1994)を見ると、妙法院焼打ち自体の経過は『太平記』以外の史料でも裏付けられているようですね。
さて、続きです。(p59以下)

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 この放逸と奢侈と、なにごとをも祝祭的逸脱と装飾へ向わせずにはおかない道誉のエキセントリシティは彼の流刑についてのエピソードによく現れている。
 道誉の一族若党どもが西郊東山の小鷹狩りの帰路、家来たちに妙法院の南庭の紅葉を折らせて、興がっているうちに、坊官からだれがこのように「御所中」の紅葉を折るのかと詰問されると「御所トハ何ゾ、カタハライタイ言ヤ」と嘲笑し、さらに大きな枝を折り、山法師から追い出されると、道誉は妙法院に焼打ちをかけた。道誉はこのために山門の訴えにより流刑に処せられることになるのであるが、そのさいの道誉の演劇的自己顕示は絢爛たるものであった。
  道誉近江ノ国分寺迄、若党三百余騎、打送ノ為ニトテ前後ニ相順フ。其輩〔ソノトモガラ〕
  悉〔コトゴトク〕猿皮ヲウツボニカケ、猿皮ノ腰当ヲシテ、手毎ニ鴬篭〔ウグヒスコ〕ヲ
  持セ、道々ニ酒肴ヲ設テ宿々ニ傾城ヲ弄ブ。事ノ体尋常〔ヨノツネ〕ノ流人ニハ替リ、
  美々敷〔ビビシク〕ゾ見エタリケル。是モ只公家ノ成敗ヲ軽忽〔キヤウコツ〕シ、山門ノ
  鬱陶〔ウツタウ〕ヲ嘲弄シタル翔〔フルマヒ〕也。
 ここでも日吉山門の神使たる猿の皮を靭〔うつぼ〕にしたり腰当てにしたりして、涜聖(サクリレッジ)の逸脱と演劇的誇示性において彼は「尋常」の生活の外に、つまり風流の祝祭的世界に身をおいていたのである。しかしこのようなタイプの逸脱は道誉のみに使われたものでないことは加美宏氏が「バサラ」の語の考察において示しているところである(「太平記─バサラ─」、『国文学 解釈と鑑賞』一九七三年二月号)。
 バサラの用法について古典文学大系本の頭注には、建武三年(一三三六年)、尊氏が定めた『建武式目条々』の第一条のつぎのような個所を引く。
  近日号婆娑羅、専好過差。綾羅錦繍。精好銀剣。風流服飾。無不驚目。頗可謂物狂歟。
 ここにおいても「風流」の語が「婆娑羅」と並んで用いられるのは興味深い。しかし「バサラ」の華美には基本的にはプロポーション(節度)を欠くことへの演劇的な熱情が潜在的につきまとった。
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いったん、ここで切ります。
私も山口昌男のスケープゴート(贖罪の山羊)論を全面的に批判しようとしている訳ではなくて、あくまで『太平記』に関係する範囲で、それも主として大森彦七物語に関して、山口説に若干の疑問を呈したいと思っているだけです。
そこで、大森彦七が登場するまでは山口の議論をそのまま紹介しておくことにします。

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 二〇年代ロシア演劇の、今は忘れられているが、もっとも博識で知的に傑出していた演劇理論家の一人、ニコライ・エヴレイノフは、『生活の中の演劇』(仏訳、一九三〇年)と題する魅惑的な本の中で、演劇と犯罪の親近性について情熱をこめて説いている。彼の立場は、演劇の原点は犯罪にある、犯罪の地点に立ち戻らないで、演劇が演劇性を回復することはできないという点にある。彼は犯罪についてわれわれの通常の理解が不思議にまったく軽薄なことを嘆く。「罪人は法の前では有罪である」とはいうが、なぜ「犯罪人の前で法は有罪である」とはいわないのかと反問する。エヴレイノフは、日常生活の慎みを侵犯するという点では、舞台演劇と犯罪のあいだに基本的な違いはないという。特定の人間または事物の意志によってわれわれの廻りに張りめぐらされた障害に違反することには、われわれを新しい世界、新しい誘惑的な地帯に連れ出すという実効性がある。嘘、見せかけ、ぺてん、偽名、猥褻な抱擁および公衆の面前でのキス、これらの秘かな願望の公然たる実現において犯罪と演劇はまったく異なるところがない。事実、このエヴレイノフの主張をそのままとりいれて、われわれは「バサラ」の演劇性の拠って来るところを明らかにすることができる。つまり、「バサラ」はまさに演劇性と犯罪性の接点に成り立つような行為の謂いなのであろう。
 日常生活の演劇的とりきめを越えることによって「バサラ」は、、新しい活力を、演ずる者にも与え、見る者にも感じさせる。「はたもの」の条件の一つがそうした侵犯能力を対象としていた。「はたもの」を「さずき」にのせること、つまり、犯罪者を見せしめにすることの中に歌舞伎劇の原型が示されていることにわれわれは少しもおどろく必要はない。「バサラ」的に有資格者たることを少しも隠さない人間、集団がある場合、権力は、これを一定の条件のもとに利用して、悪魔懲罰劇を上演してはばかるところはない。こういった意味で、裁判は、つねに悪魔退散劇を法廷の舞台裏に想定して成り立っている。「はたもの」はそれゆえ、秩序感覚を維持するために、一定の期間を置いて公衆の前に示されなければならない。そうしなければ権力はその基礎をくずされることになるのである。
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ニコライ・エヴレイノフは1879年生まれ、1953年没とのことなので、誕生はスターリンの一年後、死去はスターリンと同年ですね。
山口の紹介を見ただけでもスターリンの粛清を免れるのは無理そうな人ですが、1922年と23年にベルリンとパリを訪問した後、後半生はパリで過ごしたようですね。

Nikolai Evreinov(1879-1953)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nikolai_Evreinov
ロシア象徴主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E4%B8%BB%E7%BE%A9

6963鈴木小太郎:2021/06/10(木) 12:24:39
山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その4)「なぜならば、鎮魂こそ政治権力の権威の源泉にほかならず」
「「バサラ」的に有資格者たることを少しも隠さない人間、集団がある場合、権力は、これを一定の条件のもとに利用して、悪魔懲罰劇を上演してはばかるところはない」という指摘、土岐頼遠に関しては当てはまる感じがしますが、佐々木道誉はそうでもないですね。

『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)~(その3)
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https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10393
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10394

道誉父子は形式的には流罪に処せられたものの、割とすぐに京都に戻って普通に活躍していて、本当に出羽・陸奥に行ったのかすら不明です。
ま、それはともかく、続きです。(p62以下)

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 なぜならば、鎮魂こそ政治権力の権威の源泉にほかならず、そのための演劇的装置が、裁判、処刑、戦争なのである。民衆を納得させるために、なんらかの意味での「はたもの」を作り出さなければならない。政治的価値が「中心」と「周辺」、「秩序」と「反秩序」という両極性の強調の上におかれている限り、これは避けることのできないほとんど神話的といってよい状況である。権力が「はたもの」を出す能力(法は犯人の前で有罪である)を喪失したら、その時は権力がそのまま有効な「はたもの」の立場に移行する。革命にみられるのはこのような状況であり、かつて老いた王が周期的に殺されたという説話、伝説がさまざまな文化に伝えられるのもそのせいであろう。
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私はここまではある程度理解できるのですが、ただ、「鎮魂こそ政治権力の権威の源泉にほかならず」は唐突な感じがします。
「悪魔懲罰劇」「悪魔退散劇」は「裁判、処刑、戦争」で充分であり、それ以上に死んだ者への「鎮魂」が必要なのか。
山口の冷徹なスケープゴート論の中で、「鎮魂」という表現だけが浮いているように私には思われます。
さて、ここから大森彦七の話となります。(p63以下)

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 視点はすこしはずれるが、『太平記』巻第二十三冒頭の「大森彦七ガ事」には、演劇性と「バサラ」性の関係がよく描かれているように思われる。伊予の国の住人大森彦七盛長という者があった。「其〔ソノ〕心飽〔アク〕マデ不敵ニシテ、力尋常〔ヨノツネ〕ノ人ニ勝〔スグレ〕タリ」とある。建武三年五月、尊氏が九州より攻め上って来た時、湊川の合戦に際して、細川定禅に随って楠木正成を破り腹を切らせた「誠ニ血気〔ケツキ〕ノ勇者」というべき武将であった。その武勲のゆえに、数ヵ所の所領を恩賞として賜わった。そこで、「此悦〔ヨロコビ〕ニ誇テ、一族共、様々ノ遊宴ヲ盡シ活計〔クワツケイ〕シケルガ、猿楽ハ是遐齢延年〔カレイエンネン〕ノ方ナレバトテ、御堂ノ庭ニ桟敷ヲ打テ舞台ヲ布〔シキ〕、種々ノ風流ヲ盡サントス。近隣ノ貴賤是ヲ聞テ、群集スル事夥〔オビタタ〕シ」。猿楽を催し、種々の風流踊りを「悦ニ誇テ」行なおうとしたのだが、「彦七モ其〔ソノ〕猿楽ノ衆也ケレバ、様々ノ装束共下人ニ持セテ楽屋ヘ行ケル」途中で山際の細道に独りたたずむ女性に乞われるままにこれを背負ってやる。ところがこの女性、途中で、山陰の月光の少し暗いところまで行くと、「俄ニ長〔タケ〕八尺許〔バカリ〕ナル鬼ト成テ、二〔フタツ〕ノ眼ハ朱ヲ解〔トイ〕テ、鏡ノ面ニ洒〔ソソギ〕ケルガ如ク、上下ノ歯クヒ違テ、口脇耳ノ根マデ広ク割〔サケ〕、眉ハ漆ニテ百入塗〔モモシホヌツ〕タル如ニシテ額ヲ隠シ、振分髪ノ中ヨリ五寸許ナル犢〔コウシ〕ノ角〔ツノ〕、鱗〔イロコ〕ヲカヅヒテ生出〔オヒイデ〕」た。おんぶお化けのごとく、彦七の背に磐石の重みをかけて押しつぶそうとする。彦七これを振り払おうとすると、彦七の髪を掴んで虚空にあがろうとした。彦七剛勇の者であるから、これを退散させる。化物が退散した後駆けつけた若党たちが助け起そうとすると、彦七は「忙然トシテ人心地モナケレバ、是直事〔タダゴト〕ニ非ズトテ」その夜の猿楽は中止になった。いいかえれば彦七をワキとしてシテが現れて舞台は完成したともいえる。
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大森彦七物語全六幕のうちの第一幕ですね。
西源院本の原文は既に紹介済みです。

松尾著(その6)「歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)」
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6964鈴木小太郎:2021/06/11(金) 09:15:42
山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その5)「この構造が、そのまま、能の構造と対応する」
山口は「いいかえれば彦七をワキとしてシテが現れて舞台は完成したともいえる」と、大森彦七物語と能との共通性を示唆した後、次のように述べます。(p65)

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 同じことは、その後彦七の太刀を奪おうとして次々に現れる楠木正成の亡霊についてもいいうる。その経過の間に彦七は「物狂敷成〔クルハシクナツ〕テ、山ヲ走リ水ヲ潜〔クク〕ル事無休時」と半狂乱の状態に入ったと描かれる。ついに太刀を一度奪われる。その時彦七は「我已ニ疫鬼〔エキキ〕ニ魂ヲ被奪〔ウバハレ〕」と、顔色を変え涙を流してわなわなと震える。一方、出現する妖怪は、千変万化、シュールレアリストなら小躍りして喜びそうな代物ばかりである。たとえば「諸人空ヲ見上タレバ、庭ナル鞠ノ懸〔カカリ〕ニ、眉太〔マユブト〕ニ作〔ツクリ〕、金黒〔カネクロ〕ナル女ノ首、面〔オモテ〕四五尺モ有ラント覚〔オボエ〕タルガ、乱レ髪ヲ振挙テ目モアヤニ打笑テ、『ハヅカシヤ』トテ後ロ向キケル」といったフェリーニ調である。最後には、彦七盛長の「狂乱本復シテ」平常に立ち還る。この間の『太平記』の語り口は、作者が山伏としての小島法師の霊の喚起力を想わせるていのものである。
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「彦七の太刀を奪おうとして次々に現れる楠木正成の亡霊」とありますが、「怨霊」ないし「天狗」となった楠木正成は後醍醐以下の「怨霊」大軍団の代表として大森彦七と二度に亘って問答をしていて、実際に彦七の太刀を奪おうとする怪物は正成配下の「脩羅の眷属」ではないかと思われます。
さて、六幕物の「大森彦七物語」において、正成は一回目に登場した際(第二幕)には何も持参せず、自己紹介をした後、彦七が持っている剣の由来を丁寧に教えてくれるだけですが、二度目(第三幕)では後醍醐の「綸旨」を持参し、「勅使」の立場から改めて剣の引渡しを要求します。
そして彦七の質問に答えて、「先帝後醍醐天皇」以下の同行者を丁寧に紹介してくれます。
説明を聞いた彦七が「例の手の裏を返すが如きの綸旨」など貰っても意味がない、自分は「この刀をば将軍へ」進呈すると答えると、正成は捨て台詞を残してあっさり帰って行きます。
彦七が「物狂敷成テ、山ヲ走リ水ヲ潜ル事無休時」という状態になるのは第四幕に入ってからで、一族は彦七を座敷牢に閉じ込め、周囲を警固しますが、怪物と戦うのは彦七だけです。
結局、第四幕では彦七が問題の剣を振るって怪物の体の一部を切り落とす、というダイナミックな要素が加わっている点に若干の新味はありますが、怪物が彦七を空中にさらって行こうとするも失敗する、という展開は第一幕と同じで、些か単調ですね。
第五幕に入ると怪物の攻撃方法はもう少し巧妙になって、「大きなる寺蜘」があちこち駆け回って、蜘蛛の糸で彦七を警固する連中を身動きできないようにしてから怪物が登場し、彦七と取っ組み合いになります。
この時、彦七は「ついに太刀を一度奪われる」ことになりますが、少し後で剣は空から降って来ます。
そして、彦七がもう怪物は出て来ないだろうと一安心した直後に、「フェリーニ調」の「女の首」が登場します。
第六幕に入って、「或る僧」の大般若経を読誦するのがベストだという提案に従って「真読の大般若」を「夜昼六部までぞ読ませ」たところ、「五月三日の暮程に、導師高座に上つて、啓白の鐘打ち鳴らしける時より」、遥か彼方の天上世界で修羅軍と反修羅軍の一大戦争が勃発したらしく、大変な音と光のスペクタクルショーが演じられた後、世界は静謐を取り戻し、大森彦七の狂気も本復して、「正成が魂魄、かつて夢にも来たらずなりにけり」となります。

松尾著(その7)「貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10725
松尾著(その8)「今夜、いかさま楠出で来ぬと覚ゆるぞ。遮つて待たばやと思ふなり」
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松尾著(その9)「元来摩醯首羅の所変にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」
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松尾著(その10)「一翳眼に在れば、空花乱墜す」
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松尾著(その11)「大きなる寺蜘一つ、天井より下がりて、寝ぬる人の上をかなたこなた走りて」
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松尾著(その12)「眉太く作つて、金黒なる女の頸の、回り四、五尺もあるらんと覚えたるが」
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松尾著(その13)「虚空より輪宝下り、剣戟降つて、修羅の輩を分々に裂き切る」
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『太平記』の原文を実際に読んでみると、この六幕物の「大森彦七物語」はかなりコミカルな展開で、能というよりも狂言に近いような感じもしますが、山口の要約だけを読んだ人はそのような印象は受けないでしょうね。
さて、続きです。
山口は改めて能との共通性を強調します。(p64以下)

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 この大森彦七狂乱の条〔くだり〕を読む人は、だれしも、この構造が、そのまま、能の構造と対応することに気がつくはずである。喚起されるのは修羅能の後シテである。喚起する者は、盲僧、時宗の僧を想わせる霊能者、すなわち、「尋常ノ人」ではない、猿楽の芸能者の資格を兼ね備えた大森彦七である。つまり、彦七は、力・芸、並の人に勝った者として、その奢り昂る華美性において犯罪者すれすれのところにあり、その日常生活を超える能力によって、「遐齢延年」を口実とした時間の停止を意図する祝祭を此方のものにしたように、この世から排除されたさまざまの形象〔イマーゴ〕の容器たる資格を充分に備えていたのである。
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山口は「彦七は、力・芸、並の人に勝った者として、その奢り昂る華美性において犯罪者すれすれのところにあ」るとしますが、「力」はともかく、別に「芸」において彦七が優れているとの記述は『太平記』にはありません。
むしろ『太平記』が彦七の優れている特徴として強調するのはその並外れた精神力で、彦七は終始一貫、怨霊など全く恐れず、「彦七、元来したたかなる者なれば」(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p79)、「彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ」(p81)、「盛長、これにもかつて臆せず」(p82)と堂々たる態度を貫き、正成の怨霊にどんなに脅されようと、「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進ずべからざる上は、早や御帰り候へ」(p83)と言い返すような人間として描かれていますね。

6965鈴木小太郎:2021/06/11(金) 14:18:05
山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その6)「道誉ら「バサラ」、彦七に見られる「この世」ならぬ活力の喚起力」
山口は彦七が「奢り昂る華美性において犯罪者すれすれのところにあ」ると言いますが、彦七は猿楽を主催しただけですから、佐々木導誉のような「奢り昂る華美性」は特に見られず、従って「犯罪者すれすれのところ」も別にありません。
彦七が物狂いになったとされる点も、座敷牢に閉じ込め、周囲を一族郎党三百人が警固したという状況設定以外には特にその後のストーリー展開に影響を与えていないのは奇妙であり、第四幕・第五幕で怪物と冷静に戦ったのは彦七一人ですから、物狂いという設定すら何だか一貫性がありません。
また、山口は彦七を「修羅能の後シテ」を「喚起する者」、「盲僧、時宗の僧を想わせる霊能者」としますが、『太平記』の原文を読む限り、彦七はおよそ「霊能者」ではなく、非常に合理的な思考をする人間として描かれていますね。
そして、彦七の思想の根幹には「一翳眼に在れば、空花乱墜す」という確信があります。
これは『景徳伝燈禄』(北宋の道原撰の禅宗の僧伝)巻十に見える言葉で、「眼に一つでも曇りがあると、実在しない花のようなものが見える。煩悩があると種々の妄想が起こる意」ですね。

松尾著(その10)「一翳眼に在れば、空花乱墜す」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10728

結局、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」という信念を持った彦七はおよそ「霊能者」ではなく、「この世から排除されたさまざまの形象〔イマーゴ〕の容器たる資格を充分に備え」た人でもありません。
私は別に山口の「スケープゴート(贖罪の山羊)論」そのものを否定するつもりはありませんが、少なくとも山口の大森彦七論は『太平記』の原文とは相当に遊離しているように思われます。
ということで、私は山口の大森彦七論に否定的ですが、山口の議論はもう少し続くので、一応紹介しておきます。(p65以下)

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 こうした悪霊喚起の司祭として用いられなければ、このような人間は、道誉のごとく、流刑人として「はたもの」の役割を背負わされるほかに使い道はないはずである。そのような意味で、道誉と正成の悪霊が置換可能なものとすれば、「バサラ」性において道誉に通じる大森彦七は、喚起された悪霊と通じるところがあることに人は気づくだろう。悪霊こそは御霊信仰において喚起される荒神にほかならない。つまり正成の亡霊は彦七の分身であるということになるのであり、彦七が憑依状態に入って、悪霊に取りつかれるさまは、彦七がこの状態を語るワキであり、『太平記』の伝承者ないしは作者が、それを再現する者であるとするならば、ここで語られているのは、憑依状態に入った大森彦七の地獄めぐり、冥界訪問の状態にほかならない。しかし、つまるところ、悪霊が彦七を襲ったのでも彦七が他界を訪問したのでもなければ、彦七はただひたすらに己れの裡なる幽冥の境に下降したのだといえないこともない。
 これは、御霊信仰の原像を提供しているスサノオの大蛇退治の神話に通じる状況である。大蛇がスサノオの分身であるとは肥後和男をはじめ、コルネリウス・アウエハントら諸氏の等しく認めるところである。この彦七の条が、同時に、『魂のジュリエッタ』の世界、『ニューヨークの詩人』とどこかで通じていると見るのは無責任にすぎるであろうか。つまり、われわれの指摘したいのは道誉ら「バサラ」、彦七に見られる「この世」ならぬ活力の喚起力であり、そういった人物像を通して歴史的事象に神話・象徴論的場を得させようとする思考のあり方なのである。
 『太平記』のバサラについての記述は一見、反権威・反宗教性という点できわだっているようにみえるが、実は華美・新奇好み、誇張、異装・仮装の嗜好、練り・行列への愛着において、民俗の「風流」のかたちの再現にほかならない。諏訪氏は「バサラ」から「かぶき精神」という形式の過渡性、加美氏は「過差」から「バサラ」へと時代的な特徴を指摘する。これらの間の微妙な差異を認めるのにやぶさかではない。だが、これは「はみ出し」の方向性の違いの問題なのであって、基本的な差異に属するものではないということを知っておくことは、「バサラ」が神話的思考を反映したタイプであることを知るために必要であろう。佐竹昭広氏は「バサラ」を狂言の太郎冠者にみ、また『お伽草子』の物ぐさ太郎に「消極的には緊張のゆるみ、積極的には横着な気持」を意味する「のさ」語を冠して、「のさ者」に中世的人間の一つの典型的タイプを指摘した(「怠惰と抵抗」『下剋上の文学』筑摩書房)。われわれの視点からいうと、この「のさ者」すら、「バサラ」の対極にあるようにみえながら、実は、日常生活の秩序にたいして、記号はマイナスとつくかプラスとつくかの違いを除けば、反秩序、過剰性という点では一致しており、おのおの「風流」のかたちに対応することは否定できないはずである。
-------

「日本的バロックの原像」において、大森彦七が登場するのはここまでです。
感想は次の投稿にて。
なお、『魂のジュリエッタ』はフェデリコ・フェリーニ(1920-93)の1965年公開の映画であり、『ニューヨークの詩人』はガルシア・ロルカ(1898-1936)の詩集です。

『魂のジュリエッタ』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%82%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BF
平井うらら「ロルカ。あるいは夢見る力」
https://acueducto.jp/especial/vol31/garcialorca-1/

6966鈴木小太郎:2021/06/12(土) 11:44:30
山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その7)「『太平記』の伝承者ないしは作者が、それを再現する者であるとするならば」
「日本的バロックの原像」は岩波現代文庫版で25ページほどの分量で、ここまで約半分を紹介してきました。
この後、更に折口信夫『日本芸能史ノート』、永尾龍造『支那民俗誌』、映画『イージー・ライダー』、筑土鈴寛『中世芸文の研究』、アンドレ・マルロー『ゴヤ論─サチュルヌ』などが引用され、「はたもの」に関する議論が華々しく展開されるのですが、山口の論理は例によってアクロバチックで、詰めて考えて行くとよく分らないところが多いですね。
大森彦七についても、前回投稿で引用した部分に、

-------
こうした悪霊喚起の司祭として用いられなければ、このような人間は、道誉のごとく、流刑人として「はたもの」の役割を背負わされるほかに使い道はないはずである。
 ↓
そのような意味で、道誉と正成の悪霊が置換可能なものとすれば、「バサラ」性において道誉に通じる大森彦七は、喚起された悪霊と通じるところがあることに人は気づくだろう。
 ↓
悪霊こそは御霊信仰において喚起される荒神にほかならない。つまり正成の亡霊は彦七の分身であるということになるのであり、彦七が憑依状態に入って、悪霊に取りつかれるさまは、彦七がこの状態を語るワキであり、『太平記』の伝承者ないしは作者が、それを再現する者であるとするならば、ここで語られているのは、憑依状態に入った大森彦七の地獄めぐり、冥界訪問の状態にほかならない。
 ↓
しかし、つまるところ、悪霊が彦七を襲ったのでも彦七が他界を訪問したのでもなければ、彦七はただひたすらに己れの裡なる幽冥の境に下降したのだといえないこともない。
-------

とありますが、「置換可能なものとすれば」「それを再現する者であるとするならば」といった仮定と、「通じるところがある」「つまるところ」「いえないこともない」といった曖昧な接着剤を多用すればどんなものでも結び付くのであって、実際に楠木正成(の悪霊)と大森彦七・佐々木道誉はゴチャゴチャになっています。
しかし、『太平記』の原文を素直に読めば、醒めた合理主義者である大森彦七に「悪霊喚起の司祭」としての資格は認められず、山口の議論は出発点が間違っていますね。
猿楽を主催しただけで特に「奢り昂る華美性」は見受けられない彦七は「「バサラ」性において道誉に通じる」こともなく、「喚起された悪霊と通じるところ」も別になさそうで、「正成の亡霊は彦七の分身であるということに」もなりそうもありません。
また、佐々木道誉についても山口の言うことはよく分らなくて、光厳院に矢を射かけて足利直義に死罪に処せられた土岐頼遠は「はたもの」と言えるでしょうが、妙法院を焼打ちした道誉父子は形式的に流罪に処せられただけで、本当に流刑地まで行ったのかも疑わしく、いつの間にか京都に戻って普通に活躍していますから、道誉は「はたもの」ではなく、ここでも山口の議論は出発点が間違っています。
「はたもの」の役割を背負わされてはいない「道誉と正成の悪霊が置換可能」とは言い難いですね。
結局、山口の議論は出発点の大森彦七と佐々木道誉の認識自体が既に間違っていて、「ここで語られているのは、憑依状態に入った「山口昌男」の地獄めぐり、冥界訪問の状態にほかならない」と言えそうです。
さて、くどいようですが、私には山口の「スケープゴート(贖罪の山羊)論」を全面的に否定しようとする意図はなく、またその能力もありません。
しかし、『太平記』に限れば、山口は自分の一般理論を正当化するための素材を探すことに夢中になったため、『太平記』の「大森彦七物語」の重要な特徴をいくつか見逃しており、原文から遊離した空論を展開してしまっています。
山口が見逃しているのは、例えば「大森彦七物語」が全体としてかなりコミカルな物語であることですね。
「笑い」の専門家である山口は、さすがに、

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出現する妖怪は、千変万化、シュールレアリストなら小躍りして喜びそうな代物ばかりである。たとえば「諸人空ヲ見上タレバ、庭ナル鞠ノ懸〔カカリ〕ニ、眉太〔マユブト〕ニ作〔ツクリ〕、金黒〔カネクロ〕ナル女ノ首、面〔オモテ〕四五尺モ有ラント覚〔オボエ〕タルガ、乱レ髪ヲ振挙テ目モアヤニ打笑テ、『ハヅカシヤ』トテ後ロ向キケル」といったフェリーニ調である。
-------

といった指摘はしていますが(p64)、こうした場面を見て、『太平記』の聴衆・読者はどのような反応をしたのか。
私は『太平記』が成立した時代の中世人も、「小躍りして喜」んだのではなかろうかと思います。
数万人の怨霊の大軍団が登場する場面も、現代人が怪談を楽しむように、やはり中世人も怪談を楽しんだのだろうと私は想像します。
山口は「『太平記』の伝承者ないしは作者が、それを再現する者であるとするならば」としているので、「大森彦七物語」が地方の「伝承」として現実に存在していて、『太平記』の作者はそれを「再現」したと考えているようですが、そんなことはなくて、全六幕の「大森彦七物語」は作者が聴衆・読者の反応を予想しつつ、練りに練って構成した演劇的作品であることは明らかですね。
そして、特に興味深いのは、『太平記』の作者は、一方で読者・聴衆を興奮させる波瀾万丈のストーリーに工夫を凝らしつつ、他方で、随所に、この話は要するに「物狂ひ」になってしまった人の「幻」なんですよ、というヒントを提示してくれていることです。
その最大のヒントは「霊剣」に対する直義の態度ですね。
即ち、大森彦七が献上した剣は「霊剣」でも何でもない、という直義の評価は、このストーリー全体が一人の「物狂ひ」が見た「幻」なんですよ、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」なんですよ、という『太平記』の作者の怨霊に対するシニカルな態度の表明していると私は考えます。
ただ、「霊剣」に対する直義の態度は西源院本などの古本系と天正本・流布本では逆転しており、山口は流布本しか見ていないので、この最大のヒントには気づいていません。

松尾著(その15)「重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10733

6967鈴木小太郎:2021/06/15(火) 10:20:29
「伊賀観世系譜」の「創作」者は何者だったのか。(その1)
珍しく二日も投稿をサボってしまいましたが、この間、梅原猛氏の『うつぼ舟? 観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009)と表章氏の『昭和の創作「伊賀観世系譜」 梅原猛の挑発に応えて』(ぺりかん社、2010)を読んでいました。
きっかけは山口・中沢対談に上島家文書が出てきたことです。

山口昌男の『太平記』論(その6)「ついに般若心経を唱えられて、消えてしまった」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10739
山口昌男の『太平記』論(その7)「一番滑稽として兵藤氏があげているのが、島津四郎の話です」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10740

引用はしませんでしたが、山口の「そういうことで伝説も入っているのかもしれないけれど、楠木正成の祖先で、観阿弥に縁が繋がっていくという」(p15)との発言を受けて、

-------
【中沢】 それは伝説上でしょう。
【山口】 歴史的にもある程度は確認できるのだって。『上島系図』に「伊賀の国朝浦荘の土豪上島元成の妻は橘正遠の娘であり、観阿弥清次はその三男として生まれた」という記述がある。
【中沢】 楠木の散所長者と芸能者が結びつくという伝説ですね。
【山口】 楠木自体がそういうふうな散所長者的な、芸能者的な要素を含んでいたかどうか、それまでは言えないけれどね。この上島元成というのは伊賀の悪党として著名な服部氏を継いだ。そして服部二郎左衛門と名乗るけれども、このことは橘一族と伊賀のあいだに密接な関係があったということを示唆している。
【中沢】 それは充分に納得がいくことですよね。
【山口】 この伊賀者と関係があるかどうか、そこまではすぐに出てこないけれども、きわめて似たようなライフスタイルを持っていたということは言えるかもしれない。楠木正成の背後にそのような演劇的な想像力というのが、どこかで滑り込んできたということは言えますね。
【中沢】 そうだろうと思います。だからそこが僕も一番興味があるところで、悪党という存在を通して、楠木正成のような人物と能の世界が結びついているわけですね。そうすると悪党のメンタリティーは何なのかということが、ものすごく興味があるのです。彼らにとって死というものが何だったのかということで、例えば、能とこの「太平記」なんかの描写の違いが持っている意味は何なのか。同じ悪党的なメンタリティーから生まれたにしては、その違いが何なのか非常に興味があるのですね。
-------

とのやりとりがあります。
上島家文書に関する山口の発言には、1990年当時の議論としても不正確な部分が多いのですが、それはともかく、楠木と観阿弥の繋がりを「それは伝説上でしょう」と言っていた中沢がいつの間にか山口に同調して、「悪党という存在を通して、楠木正成のような人物と能の世界が結びついている」などと言っているのは面白いですね。
さて、私は歴史研究者の多くは上島家文書に懐疑的らしいということは耳にしていましたが、具体的に何がどのように疑われているのかは知りませんでした。
そして、暫く前に梅原猛氏と表章氏の間に「論争」があったらしいという話も聞いていましたが、能自体にそれほど興味がなかったので、これも聞き流していました。
ただ、楠木正成に関係する以上、この話もある程度押さえておかねばならないな、と思って二人の著書を読み比べてみたところ、まあ、「論争」というものではなかったですね。
梅原著は従来の「伊賀観世系譜」肯定説の研究者・小説家・随筆家の見解を整理しただけで梅原独自の新知見はなく、表章氏の批判以降、特に反論もなかったので、自分の敗北を事実上認めたということになろうと思います。

田中貴子氏「『昭和の創作』書評 批判のための批判、超越した遺作」
https://book.asahi.com/article/11647663

表著を最後まで読んでちょっと不思議に思ったのは、表氏が「伊賀観世系譜」を捏造した上島家先代当主・上島良久氏に対して、別に怒るでもなく、

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だが、誰が創作したかを詮索する気がまるでなかったので、上島良久氏の経歴を調査することも一切せず、生没の年月や享年すら把握していない。周辺の状況だけからの推測にとどめるのが、親近感を強めつつあった系図創作者への礼儀だろうと思ったからでもある。
-------

などと書かれていることですね。(p229)
まあ、大人の風格を感じさせる文章ではありますが、俗物根性に溢れる私には上島良久氏の経歴が気になります。
少し検索してみたところ、この方は伊賀(上野)青年会議所の初代理事長だそうですね。

初代理事長 故)上島良久  Ueshima Yoshihisa
http://iga-jc.net/2008/page/pastpresident/history/ayumi/ayumi01.htm
「 歴代理事長おゝいに語る 」《 座 談 会 》(創立15周年 1973年 [昭和48年] )
http://iga-jc.net/2008/page/pastpresident/history/ayumi/special15th.htm

うーむ。
写真を見る限り、旧家の偏屈な老人という訳ではなく、経済人としても成功者で、地方の名士として社会活動に熱心だった人のような感じですが、何故にこういう人物が古文書偽造に関わったのか。
「伊賀観世系譜」は久保文雄という熱心な地方史研究者を介して世に広まり、最後には鹿島建設元社長・鹿島守之助(旧姓永富)の依頼を受けて調査に訪れたと思われる平泉澄まで騙した訳ですが、小説家や随筆家はともかく、平泉澄まで騙したというのは本当にすごいことで、古文書偽造のレベルは大変なものです。
能の歴史に限っても、普通の能楽研究者を遥かに凌ぐレベルの緻密さで多くの研究書を分析しなければ、これだけの偽文書を作ることは無理だったことは明らかで、そうした偽文書作成の情熱はどこから来たのか。
単に自分の家を誇りたかった、などという話ではなさそうで、上島良久氏自身に深い謎がありそうですね。

6968鈴木小太郎:2021/06/16(水) 10:00:26
「伊賀観世系譜」の「創作」者は何者だったのか。(その2)
何故に表章氏が上島良久氏の「創作」と推定したのか、その判断過程は以下の通りです。(p228)

-------
 極めて特異な内容を持つ伊賀観世系譜は、いかなる目的で誰の手によって作成されたのであろうか。明確に把握できることではないが、その点についていささか推測を試みてみよう。
【中略】
建て前は浅宇田の両家の系図ながら、実質は観世大夫家の系図でもあり、そのことを意識して編まれていることが、伊賀の両家には不要なはずの能関係の記事が両系図に含まれている点などから推測される。そして、両系図ともに清次(観阿弥)の実父を浅宇田の領主の上島慶信入道景守の次男とし、五世観世大夫の祐賢を上島入道成円の実子とすることで、上島家の子が二度にわたって観世大夫家を相続した形に組み立てられている事実が、伊賀観世系譜編纂の最大の目的が浅宇田の上島家が観世大夫家の本家筋である由の強調だったことを示していよう。それを強調したところで、在地の両観世家より上島家の格が上であること以外に誇れることが増すわけではなかったろうが、当時恐らくは足利義満時代から続く名家として世上に評価が高かったであろう観世大夫家の本家筋の家柄に仕立てる系譜の作成は、編纂者にとってやり甲斐のある仕事であり、必然性のない仕事であってもその完成は大きな喜びであったろう。
 上島家の地位を高めることを主眼とするそんな系図の編纂をしたのが上島家の人であったろうことも、おのずと推測できる。上島家の人と言うだけでは漠然とし過ぎていようが、前述のごとく上島家の系図が久保氏稿には紹介されていないし、仮に大筋の系譜が判明しても、当主の歴代だけではあまり役に立つまい。当主の作成とは限らないからである。ただし、編纂時期が明治42年から昭和20年頃までの範囲内となると、久保が上島家資料の調査を始めた時期の当主だった上島良久氏かその先代か先々代の時代の人─当主かその兄弟・姉妹・子─に限定して恐らく誤りはあるまい。
 そして、最も疑わしいのが、系譜が創作されたと推測した昭和10年代後半の上島家の当主だった上島良久氏ということにならざるを得まい。百年前の明治42年刊行の吉田東伍校注の『世阿弥十六部集』を資料に使っていることを確信したもののまだ『能楽源流考』以後の創作と言い切れないでいた段階では、良久氏の先代や同時代の近親を最も疑っていたが、昭和20年近くまで創作が続いていた可能性が高まるにつれて、良久氏やその近親をより重視するように変わった。だが、誰が創作したかを詮索する気がまるでなかったので、上島良久氏の経歴を調査することも一切せず、生没の年月や享年すら把握していない。周辺の状況だけからの推測にとどめるのが、親近感を強めつつあった系図創作者への礼儀だろうと思ったからでもある。
-------

少し後で表氏は「その創作者が誰であっても、恐らくその人は系図マニア的な人であったろう」としていますが(p230)、やはり世間が驚くような系図を作ることそれ自体が何とも言えない喜びなんですかね。
あるいはもう少し屈折の度合いを高めれば、伊賀観世系譜の「創作者」は、能楽史研究にのめり込んだ結果、歴史の中に消えてしまった「真実」を発見したと本気で思っていて、普通の論文等では発表できないその「真実」を明らかにする手段として系譜を「創作」した、というような可能性も一応は考えられそうです。
ただ、気の毒なのは郷土史研究家の久保文雄氏(本名「文武」)で、久保氏は「大正六年(一九一七)に上野市で生まれ、昭和16年(一九四一)に国学院大学高等師範部を卒業したが、在学中に罹病した肺結核に長く苦しめられ、昭和26年から29年にかけての五度にわたる大手術によってようやく回復でき」(p34)、「病のため県立上野高校教諭も退職を余儀なくされた」(同)人だそうですね。
表氏は法政大学能楽研究所に調査に来た久保氏と直接話したこともあり、「苦労人だっただけに謙虚な人柄で、発見した上島家観世系譜の取り扱いもかなり慎重」(同)であり、「異見にも耳を傾ける研究者との印象を持った」(同)そうです。
表氏は「久保は、伊賀観世系譜調査の途中で、系譜記載の人物の素性について、創作者自身(または創作の過程を見聞していた人)から有効な示唆を受けていたのではないかとの疑問を、本書の校正段階からジワジワと強めていた」そうで、「久保の指摘が研究者のレベルを超える高度なものである事例が相次いだことが、その疑念を増大させ、今はその疑念は的を射ていたと確信している」(p230)そうです。
要するに久保氏は「創作者」が張り巡らした蜘蛛の巣の中で「真実」を求めて懸命に研究を重ね続け、「創作者」は久保氏の一挙手一動をじっと観察していた訳ですから、ずいぶん残酷な話ですね。
ただ、平泉澄まで登場したのは「創作者」にとっても意外だったようです。

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そして、創作者(または周辺の協力者)は苦心して創作した系譜によって世間を驚かせた結果に一応満足したものの、日本史研究の大御所だった平泉澄博士までが調査に自宅を訪問する事態になって、自己の創作の反響の予想を越える大きさに困惑し、昭和40年代中頃から所蔵史料の公開を拒否する姿勢に転じたものと想像している。良久氏の後継者たる上島一剛氏が兄の資料公開拒否の方針を堅く継承しているのも、それが本物ではないことを承知しているからであろう。本物なら公開を拒否するはずはあるまい。同氏に直接お会いして資料の一部の閲覧を願い出たものの、明確な理由もおっしゃらないまま謝絶された経験を持つ私には、そうとしか思えない。
-------

表氏によれば、梅原猛氏の『うつぼ舟? 観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009)の冒頭で、何故か実名を隠しながら梅原氏と対談しているのは一剛氏だそうです。(p86)

6969鈴木小太郎:2021/06/17(木) 10:27:23
「伊賀観世系譜」の「創作」者は何者だったのか。(その3)
久保文武氏(1917-2004、筆名文雄)の『伊賀史叢考』(私家版、1986)も見てみましたが、「付編 上島本観世諸系図」には「繰り返して申訳ないが、この系図は江戸時代末期の書写であり、系図にはフィクションの多いことも承知している」(p614)といった慎重な表現も多いですね。
しかし、「伊賀に斯様な史料が在るということを紹介するのが地方史家としての任務であると考え」(p564)発表したとのことで、「わかっちゃいるけどやめられない」という植木等的心境も垣間見ることができます。
ただまあ、近世の系図マニアに騙される危険は覚悟していたとしても、まさか自分の目の前の史料提供者が昭和に入って捏造した系譜だなどとは想像もできなかったのでしょうね。
さて、謙虚で慎重な「地方史家」の久保氏と比べると、梅原猛氏の議論はあまりに傲慢で乱暴です。
『うつぼ舟? 観阿弥と正成』は従来の「伊賀観世系譜」肯定説のエッセンスを上手に纏めてはいるので、観阿弥伊賀出生説を否定した表章氏について、

-------
 私はこの伊賀説の否定は、観阿弥・世阿弥をその故郷から断絶させ、生きた人間としての観阿弥・世阿弥の研究を全く奪ってしまったと思う。
 これは私の学問の方法論と、表氏の学問の方法論の根本的違いを示すものであり、私は全面的に表氏に論争を仕掛けたいと思う。八十を越えた二人の老人の生命を賭しての戦いは喜劇かも知れないが、十分見る人を楽しませることが出来よう。日本の学問のためにも、この論争を表氏は決して避けてはいけないと思う。
-------

といった無駄な挑発(p78)をせず、単なる随想に留めていたら、特に世間を騒がすこともなかったかもしれません。
しかし、自分の専門業績をここまで侮辱されれば表氏も立ち上がらざるをえず、「梅原猛の挑発に応えて」という副題を持つ『昭和の創作「伊賀観世系譜」』で反撃したところ、「全面的に表氏に論争を仕掛けたい」と豪語していた梅原氏は一言も反論できず、この「論争」は文字通り「喜劇」として終わってしまいます。
あたかもガチガチに要塞化された楠木正成の赤坂城に乗り込んだ人見四郎入道恩阿と本間九郎のごとく、梅原入道は何の戦果をあげることもなく、あっさり返り討ちにあって散ってしまった訳ですね。

山口昌男の『太平記』論(その8)「それでいて、アイロニーなんかでは全然ないんですよね」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10741
山口昌男の『太平記』論(その9)「常に歴史意識とか歴史というものが決定的にからかわれている」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10742

ただ、表氏もいささか無理をし過ぎたのか、田中貴子氏によれば、「残念ながら、著者は本書刊行を待たずして急逝された。まさに、学者の命をかけた梅原氏への「返答」だったのである」とのことで、「八十を越えた二人の老人の生命を賭しての戦い」は洒落にならない終わり方をしていますね。

https://book.asahi.com/article/11647663

ところで、梅原猛氏の議論が頓珍漢だったことは、表章氏の見解が隅から隅まで正しかったことを意味する訳ではないことはもちろんです。
ネットで検索した範囲では、私にとって宮本圭造氏(法政大学能楽研究所教授)の「『伊賀観世系譜』の虚実」は穏当な見解のように思われました。

「研究十二月往来313─世阿弥生誕六五〇年記念企画─第八回」(「銕仙会」サイト内)
http://www.tessen.org/archive/files/2013/09/313.pdf
http://www.tessen.org/

宮本氏は冒頭で、

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 表章氏の『昭和の創作「伊賀観世系譜」』(ぺりかん社。平成二十二年九月)が刊行されたのは、今からちょうど三年前のことである。氏は発刊の直前に急逝されたため、本書が文字通りの遺著となったが、多くの人が眉唾物と考えていながら、長年真贋論争に決着の着かなかった伊賀上島家文書「伊賀観世系譜」を偽文書であると見事に論証していく手際の良さと周到さに、圧倒されながら読んだことを思い出す。本書により、「伊賀観世系譜」が昭和以降に「捏造」されたものであることは、もはや誰の目にも明らかになったといえよう。
-------

とされる一方で、

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にもかかわらず、今更ながら「『伊賀観世系譜』の虚実」というタイトルを掲げたのは、真贋論争はさておき、観世家と伊賀との関わりについては、もう少し考え直してみる必要があるのではないか、と思うからである。私がまだ大学院生だった時、日本中世史の研究で高名な脇田晴子氏が非常勤講師として来講され、能をはじめとする中世芸能について取り上げられた。その中で、脇田氏が「伊賀観世系譜」に触れ、「偽文書だと思われるが、火のないところに煙は立たないくらいの真実はある」、とおっしゃったのが大変印象に残っている。その発言の意図について、いまだご本人に確認の機を得ていないが、悪党と呼ばれた中世伊賀の郷士が、大和猿楽や、河内の楠木氏と接点を持つのは十分に有り得る、というようなことではなかったかと勝手に想像している。
-------

とし、具体的には、『猿楽談義』の「伊賀小波多」の解釈について、

-------
『世子六十以後猿楽談義』で世阿弥が言及する「座」は、いずれも大夫によって率いられた比較的小規模な「座」であり、興福寺参勤の際にのみ結成され、複数の大夫の座で構成される結崎座のような「総座」を指す例はほとんど見られないこと、前者の「座」は大夫を中心とする規模の小さい組織であって、座の結成・解体は比較的容易に行われたものと推察され、大和猿楽の観阿弥が隣国の伊賀で座を建てることは十分ありえること、
-------

といった指摘をされています。
もちろん私にはこの指摘の是非を論じるような能力はありませんが、ここは表著を読んで何だか変な感じがした箇所であって、やはり争う余地はまだまだありそうですね。

6970鈴木小太郎:2021/06/19(土) 10:05:40
六月半ばのプチ整理(その1)
「四月初めの中間整理」を十七回、そして「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所に関連する問題の検討を少し行った後、山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』の検討に移り、十四回の投稿でやっと「頼朝の追善」(p20~22)まで進みました。

四月初めの中間整理(その1)~(その17)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10645
【中略】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10662

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その11)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10663

岩佐美代子氏『風雅和歌集全注釈』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10664
「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10665
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10666

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その12)(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10667
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10668

スピーディー過ぎる『梅松論』の日程
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10669
「この軍議の席で、謀臣、赤松円心は……」(by 清水克行氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10670
「もっとも、尊氏が敗走している段階では院宣にもさしたる効果はなく」(by 呉座勇一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10671
「普段は冷静な直義がヤケクソになるぐらいだから」(by 呉座勇一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10672
「あるいはそれは、尊氏を督励するために直義が画策したものであったかもしれない」(by 新田一郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10673

山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10674
【中略】
山家著(その14)「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近い」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10688

その後、桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」を、「本物」の「三種の神器」はどこに行ったのか、という問題を含め、合計二十七回の投稿で検討してみました。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その1)~(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10689
【中略】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10701

「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その1)~(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10702
【中略】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10706

『増鏡』の「璽の箱を御身にそへられたれば」との関係
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10707
「神璽は山中に迷ひし時、木の枝に懸置きしかば」(by 後醍醐天皇)(その1) (その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10708
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10709
「重祚の御事相違候はじと、尊氏卿さまざま申されたりし偽りの詞」(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10710
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10711

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その14)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10712

「中にも貴重なのは、「内侍所はおはします」の証言である」(by 岩佐美代子氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10713
「夜の御殿へ剣璽取りに参れば、人の取り出し参らせて、道に逢ひたり」(by 高倉経子)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10714
恒良親王の「綸旨」について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10715

6971鈴木小太郎:2021/06/19(土) 13:17:01
六月半ばのプチ整理(その2)
ここで山家著に戻ろうかとも思ったのですが、飯倉晴武氏の『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)の生真面目な叙述を見て、『太平記』は生真面目な研究者には向かない側面があるという問題点を改めて感じたこともあり、「怨霊」や「鎮魂」の話が大好きな宗教系の生真面目さんの代表である松尾剛次氏の『太平記 鎮魂と救済の史書』の検討を行ないました。

「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10716
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10717
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10718

松尾剛次著『太平記 鎮魂と救済の史書』(その1)─「長崎の鐘」と『太平記』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10719
【中略】
松尾著(その15)「重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10733

途中で「大森彦七物語」の紹介も交えたので松尾著の検討はあまり進みませんでしたが、松尾氏の生真面目さに付き合うのはなかなか大変だったので、毒消しを兼ねて、松尾氏と対極的な立場に立つ山口昌男の『太平記』論を検討することにしました。
素材としたのは1990年の山口昌男と中沢新一の対談で、その白眉は『太平記』の「スラプスティック性」に関する議論ですね。

山口昌男の『太平記』論(その1)「笑ってはならない呪いをかけられた研究者」から離れて
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10734
【中略】
(その16)「「太平記」の場合は、異質のさまざまな時間を取り込んで平気なのであって」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10749

山口・中沢対談、個人的にかなり思い入れがあるので長々と紹介しましたが、普通の研究者は松尾剛次氏のような「笑ってはならない呪いをかけられた研究者」の生真面目な『太平記』論に疲れたときに、一種の毒消しとして、毒をもって毒を制す、くらいの気持ちで受け止めれば十分だと思います。
ただ、私の場合、去年の九月段階では、三十年前の歴史学の水準が低かったので山口昌男をもってしてもその認識に限界があった、と考えていたのですが、「大森彦七物語」の分析を経て、どうもそうではなく、山口自身に内在的限界があったのではないか、と考えるようになりました。
そこで、山口・中沢対談から更に十七年ほど遡って、「日本的バロックの原像─佐々木道誉と織田信長」(『歴史・祝祭・神話』、中央公論社、1974)を検討し、山口の認識の限界とその原因を探ってみました。

山口昌男『歴史・祝祭・神話』(その1)「日本的バロックの原像─佐々木道誉と織田信長」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10750
【中略】
(その7)「『太平記』の伝承者ないしは作者が、それを再現する者であるとするならば」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10756

そして、山口・中沢対談に出て来た上島家文書も一応押さえておこうと思って、梅原猛氏の『うつぼ舟? 観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009)と表章氏の『昭和の創作「伊賀観世系譜」 梅原猛の挑発に応えて』(ぺりかん社、2010)を読んでみました。

「伊賀観世系譜」の「創作」者は何者だったのか。(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10757
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10758
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10759

6972鈴木小太郎:2021/06/19(土) 21:07:02
梅原猛氏の南北朝期に関する基本的な誤解(その1)
ということで、やっと山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)に復帰する準備が整ったのですが、せっかく梅原猛氏の著書を久しぶりに読んだので、もう少しだけ梅原氏の発想の基本的な問題点を見ておきたいと思います。
掲示板では梅原氏についてブチブチ文句の多い私ですが、実は私は梅原氏がけっこう好きで、昔は「梅原古代学」関係の書籍を読み漁ったこともあります。
今回、本当に久しぶりに梅原氏の著作を読んでみたのですが、『うつぼ舟? 観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009)は「梅原古代学」の駄目な要素を濃縮したような本で、その根底には南北朝期の宗教に関する梅原氏の根本的な誤解があるように思われます。
同書には一箇所だけ『とはずがたり』が登場するのですが、ちょうどその部分は梅原氏の誤解が綺麗に出ている箇所でもあるので、少し検討してみたいと思います。
まずは予備知識として、「第十二章 「金札」、脇能と権力者」の最初の方から少し引用します。(p283)

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 脇能については最近、天野文雄氏が『世阿弥がいた場所』という浩瀚な著書において注目すべき説を提出した。
 脇能は表面的には天皇の長命を祈り、天下大平を祝うものであるが、実は現実の権力者・足利将軍の御代を讃美するものであり、このような脇能は室町時代に足利将軍の御代が確立してから始まったのではないかというのが天野氏の新説である。私はこの天野氏の新説に全面的に共感する。私がぼんやりと考えていたことを天野氏は多くの史料を使って見事に証明してくれたのである。
 このように脇能が足利将軍の御代から始まったとすれば、観阿弥が足利義満の御代に作ったこの「金札」は脇能の最初ということになる。「金札」を最初に作られた脇能とする見解は甚だ興味深い。
-------

ついで「金札(きんさつ)」の内容です。(p287以下)

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 ワキは桓武天皇の勅使であるが、桓武天皇は今の京都の地に都を造営されたが、伏見にも御殿を造営するとの天皇のご命令が下り、伏見の里に下ったというのである。伏見の里の鷹匠町に金札宮という天津太玉神〔あまつふとだまのかみ〕を祀った社が今もある。能ではこの社の造営はまさに京都の都造りに匹敵する巨大な宮殿造りであったように語られる。
【中略】
 このシテの天津太玉神は金色の御殿におられて、金札をお降らしになったのである。金ぴかの御殿にいらっしゃる天津太玉神は四海の悪魔を降伏させて、荒ぶる神を祓いたもうた大変力の強い神である。しかも金剛界・胎蔵界両部の仏でもあるのである。天津太玉神は悪魔降伏の勇ましい舞を舞い、次のような謡でこの能は終わる。

 シテ とても治まる国なれば
 地  とても治まる国なれば。なかなかなれや。君は船。臣は瑞穂の国も豊かに治まる代なれば。
    東夷西戎。南蕃北狄の。恐れなければ。弓をはづし。劔を納め、君もすなほに民を守りの
    御札は宮に。納まり給へば影さしおろす。玉簾。影さしおろす。玉簾の。ゆるがぬ御代と
    ぞ。なりにける
-------

こうした説明の後、梅原氏は、

-------
 天野氏の見解を借りれば、「金札」は桓武天皇の御代を讃えているようで、実は足利将軍義満に御代を讃える脇能であるということになるが、私はこの天津太玉神こそ将軍義満そのものではないかと思う。この天津太玉神は「記紀神話」ではアマテラスの「天の石屋戸」の場面とニニギの天孫降臨の場面で活躍する、忌部氏の祖であるが、「金札」では天津太玉神こそ乱世の世を納めて平和な御代を実現した大変力を持った神であるという。この神は南北朝の動乱を収めて南北朝の合体を志し、戦乱が続いた世を終わらせて太平の世を実現した義満にあまりに似ているではないか。
-------

と言われます。(p294)
以上がとりあえず必要な予備知識で、この後、『とはずがたり』が登場します。

金札(「銕仙会」サイト内)
http://www.tessen.org/dictionary/explain/kinsatsu
金札宮公式サイト
http://www.kinsatsugu.jp/1_engi/

6973鈴木小太郎:2021/06/20(日) 16:33:07
梅原猛氏の南北朝期に関する基本的な誤解(その2)
続きです。(p295)

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 彼の時代に成立した『太平記』は殆ど無意味と思われる戦乱によって実に多くの人間が死んだ南北朝時代を書いた書であるが、この書に『太平記』という名を付けたのは、この戦乱が終結して義満によってやっともたらされた「太平の世」を讃えるためであったのではないか。しかし何故この太玉神を祀る巨大宮殿の所在地が、伏見という地であったのかということを考えねばならないであろう。私はこの伏見の地こそ、持明院統即ち北朝の宮殿のあった場所であったからではないかと思う。また伏見には東福寺の前身である法性寺という金胎両部を具現した円満完全な千手観音立像を本尊とする天台密教の大寺院があった。この伏見の地は持明院統の大宮殿のあった地であるというイメージと法性寺という金胎両部を具現する天台密教の寺があったというイメージとが重なっているのではないかと思う。
 伏見という地に関わり深い天皇には伏見天皇、後伏見天皇そして伏見宮貞成親王(後花園天皇の父)などがあり、当時の人々は伏見と言えばまず北朝の根拠地と考えたのではなかろうか。宮廷の乱れた性の関係を暴いた鎌倉時代の『問はず語り』の舞台もまた多くこの伏見の宮であった。それ故にこの伏見の宮の讃美は北朝の讃美であり、この金の御殿のイメージは義満が観阿弥の死後造営した北山の金閣寺を予感させる「花の御所」のイメージではないかと思う。
-------

歴史研究者の論文ではないので、細かな誤りを指摘するのもどうかと思いますが、間違いだらけですね。
梅原氏は「『太平記』という名を付けたのは、この戦乱が終結して義満によってやっともたらされた「太平の世」を讃えるためであったのではないか」と言われますが、『洞院公定日記』応安七年(1374)五月三日条に「去んぬる二十八、九日の間」、太平記作者」の「小嶋法師」が死去したという記事があり、これが「太平記」の文献上の初出です。
そして、この時点では延文三年(1358)生まれの義満はまだ十七歳で、義満によって「戦乱が終結」し、「太平の世」がもたらされたとは言い難い状況ですね。
また、伏見殿は別業(別荘)であって、「離宮」ならともかく、「持明院統即ち北朝の宮殿」と呼ぶのは大袈裟であり、「伏見の地は持明院統の大宮殿のあった地であるというイメージ」も大袈裟です。
法性寺はその成立の由来、そして「法性寺殿」が藤原忠通の、「後法性寺殿」が九条兼実の称号であることからも明らかのように摂関家の寺であって、その敷地の大部分は鎌倉時代に九条道家によって東福寺に編入されていますから、南北朝期に「法性寺という金胎両部を具現する天台密教の寺があったというイメージ」があったかも疑問です。

法性寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%80%A7%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%8C%BA)
https://web.archive.org/web/20120202083555/http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/kyoto/hottusyou.htm

「宮廷の乱れた性の関係を暴いた鎌倉時代の『問はず語り』の舞台もまた多くこの伏見の宮であった」ということもなくて、エロ親父の梅原氏がハーハー興奮したであろう「近衛大殿」との密会の場面を除けば、後深草・亀山院兄弟の伏見殿御幸くらいしかないですね。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その9)─近衛大殿
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9351
『とはずがたり』に描かれた長講堂供花と両院伏見殿御幸
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9481

梅原氏は史実に基礎を持たない複数のフワフワした「イメージ」を重ね合わせて、「この伏見の宮の讃美は北朝の讃美であり、この金の御殿のイメージは義満が観阿弥の死後造営した北山の金閣寺を予感させる「花の御所」のイメージではないかと思う」といった具合いに次々と新しい「イメージ」を量産されるので、梅原氏の見解は、少なくとも歴史研究者にはあまり役に立つ議論ではないようです。
さて、梅原氏のような発想方法を「他山の石」として考えなければならないのは、『とはずがたり』や『金札』そして『太平記』のような作品を、歴史学的な認識の素材として、どのように利用すべきか、という問題です。
梅原氏は『とはずがたり』を「宮廷の乱れた性の関係を暴いた」事実の記録とされ、『金札』も義満への政治的配慮に満ちた作品として、歴史と密着させて理解されていて、このような態度は私は賛同できません。
しかし、仮に少しでも創作的要素が存在する文学・演劇作品を、全て歴史学とは関係のない不純物として切り捨ててしまえば、歴史叙述は骨と皮だけの非常に貧しいものとなってしまいそうです。
特に南北朝時代の場合は『太平記』も利用できないことになってしまい、大変な痛手ですね。

6974鈴木小太郎:2021/06/21(月) 11:00:09
梅原猛氏の南北朝期に関する基本的な誤解(その3)
創作的要素のある文学・演劇作品が歴史学の素材としてどこまで使えるかは一般論で語ることはできず、個々の作品の性質、創作の程度等によって対応が異なってくることは当然ですが、梅原氏のように能を直接的に歴史認識に反映させるのは問題だと私は思います。
文学・演劇作品が普通の古文書・古記録より優れているのは、成立した時代の雰囲気、社会の空気感を感じさせてくれる点ですが、能の場合、創作の程度は極めて高く、享受者は社会の上層に限定され、あまりに洗練され過ぎているように思われます。
その点、『太平記』は能よりも遥かに享受者の範囲が広く、南北朝期の雰囲気をより正確に伝えてくれますね。
ただ、そうはいっても、『太平記』は極めて複雑・多様な要素に満ちているので、どの部分を重視するかによって、個々の研究者が感じ取ることができる中世社会の雰囲気も違ってきます。
松尾剛次氏のように仏教に詳しい研究者が『太平記』を読むと、仏教関係の重厚な言説に注目することになって、どうしても社会全体の雰囲気が重く暗く澱むことになり、最後には「長崎の鐘」が聞こえてきたりする訳です。

松尾剛次著『太平記 鎮魂と救済の史書』(その1)─「長崎の鐘」と『太平記』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10719

梅原氏も仏教に非常に詳しい方なので、能の場合はもちろん、『太平記』を扱う場合も重い話に注目されることが多いですね。
しかし、実際に『太平記』を読んでみると、仏教関係であってもけっこう軽い話が多いことに気付きます。
その代表は第十五巻第四節「弥勒御歌の事」ですね。
これは建武三年(1336)正月の「第一次京都争奪戦」に挿入されている奇妙なエピソードです。
後醍醐を迎え入れた延暦寺に対抗するため、尊氏は三摩耶戒壇の設立を約束して三井寺を味方につけますが、北畠顕家率いる奥州勢が叡山の宮方に合流すると、宮方は直ちに三井寺を攻めます。
激しい攻防の後、三井寺の僧(寺法師)の多くが殺され、伽藍も焼き尽くされますが、その際に次のような出来事があったのだそうです。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p444以下)

-------
 或る衆徒〔しゅと〕、金堂の本尊の御首〔みぐし〕ばかりを取つて、薮の中に隠し置きたりけるが、多く討たれたる兵の首の中に交りて、切り目に血の付いたりけるを見て、山法師やしたりけん、大札を立てて、歌に事書〔ことがき〕をぞ書き添へたりける。

  建武二年の春の比〔ころ〕、何とやらん、事の騒がしきやうに聞こえしかば、
  早や三会〔さんえ〕の暁〔あかつき〕になりぬるやらん、いでさらば、
  八相成道〔はっそうじょうどう〕して、説法利生〔りしょう〕せんと思ひて、
  金堂の方へ立ち出でたれば、業火〔ごうか〕盛んに燃えて、修羅の闘諍四方に
  聞こえ、こは何事と、思ひ分く方なくて居たる処に、仏地坊〔ぶっちぼう〕の
  何がしとやらん、内へ走り入つて、故もなく、鋸にてわが首を引きり切し間、
  「阿逸多〔あいった〕」と、云ひしかども叶はず、堪へかねたりし悲しみの中に、
  思ひ継〔つづ〕け侍りし。
       三会教主源弥勒菩薩〔さんねのきょうしゅみなもとのみろくぼさつ〕
山をわが敵〔かたき〕といかで思ひけん寺法師にぞ首を取らるる
-------

ある衆徒が金堂の本尊である弥勒菩薩像の首だけは守ろうと鋸で切り落として藪の中に隠しておいたところ、伽藍が焼き尽くされ後、多くの人間の首の中に、その本尊の首も、その切り目に血がついているのが発見されたとのことで、ある山法師(比叡山の僧)が大札を立て、そこには弥勒菩薩に仮託した事書と狂歌が記されていたのだそうです。
そもそも弥勒菩薩は釈迦の入滅から五十六億七千万年後、この世に出現し、衆生済度のために龍華樹の下で三度の法会を行なうとされる仏ですが、その弥勒菩薩が言うには、

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  ずいぶん騒がしい様子だったので「龍華三会の暁」の時期になったかと思って
  登場したら、地獄の罪人を焼く火のような大火災が発生しており、帝釈天と
  阿修羅の闘争のような騒ぎが聞こえてきて、これはどうしたことだ、と途方に
  暮れていたところ、仏地房の何がしとかいう僧侶が金堂に入って来て、理不尽にも
  鋸で私の首を切り取ったので、「あ、痛い」(阿逸多)と言ったけれども甲斐もなく、
  耐えかねる悲しみの中に、次のように思い続けました。

山をわが……(どうして今まで比叡山を自分の敵だと思っていたのだろう。三井寺の法師に首を取られてしまったことだよ。)
-------

ということで、「三会教主・源・弥勒菩薩〔さんねのきょうしゅ・みなもとの・みろくぼさつ〕」という具合いに、何故か源氏の弥勒菩薩が狂歌を詠むという設定が極めてシュールであり、弥勒菩薩の異称である「阿逸多」に「あ痛」をかけるという駄洒落も大胆不敵です。
ここまで宗教的権威を笑い飛ばしたエピソードは『太平記』の中でも珍しい感じがしますが、この種のエピソードは、松尾剛次氏のような仏教に詳しい研究者は絶対に引用しませんし、普通の歴史研究者もあまり紹介することはないだろうと思います。
現代でも、例えばこんなコントをテレビで放映したら仏教関係者から抗議が殺到して大問題になると思いますが、『太平記』の作者はこうした話を、これは受けるだろうなと思って記録ないし創作し、おそらく聴衆・読者もゲラゲラ笑ったのだろうと思います。
「弥勒御歌の事」は南北朝期がいかなる雰囲気の時代だったかを知る上で、本当に参考になるエピソードですね。

6975鈴木小太郎:2021/06/23(水) 10:16:51
「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その1)
山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』に復帰する前に少し足踏みしていますが、『太平記』に即して、もう少しだけ南北朝期の社会の雰囲気、特に武家社会の中堅層の宗教的感情を探っておきたいと思います。
もともと山家著の検討を始めた時点では、私は山家氏の見解に若干の疑問を呈するだけのつもりでしたが、読み進めるにしたがって、山家氏が立脚する認識の基盤に疑問を抱くようになりました。
松尾剛次氏と同じく山家氏も仏教関係の豊富な知識を有しておられますが、山家氏の専門は禅宗なので、南北朝期の宗教に関する評価も、「怨霊」や「鎮魂」が大好きな松尾氏とは相当に異なっているように見受けられます。
禅宗、特に臨済宗は密教などと比べると相当に「合理的」な側面があり、山家氏の宗教認識もそれなりに「合理的」ですね。
ただ、私には山家氏も南北朝期の「宗教的空白」を正確にとらえていないように思われるので、山家著に対抗する準備を兼ねて、『太平記』の事例をもう少し見ておきたいと思います。

山家著(その12)「戦争での死者は区別なくとむらうべき対象」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10686
山家著(その13)「直義がこの地を邸宅に定める大きな要因」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10687

ということで、山法師が大活躍する第十五巻「弥勒御歌の事」に続いて、やはり山法師が大活躍する第二巻第十一節「坂本合戦の事」を見ておくことにします。
元徳三年(元弘元、1331)五月、吉田定房の密告により後醍醐の討幕計画が明らかになって、幕府は日野俊基、円観、文観等を捕縛し、鎌倉で取り調べを行ないます。
そして八月に東使が上洛すると後醍醐は南都に逃亡しますが、その際に偽装工作として花山院師賢を比叡山に登らせます。
第十節「尹大納言師賢卿主上に替はり山門登山の事」の末尾から引用します。(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p122)

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 坂本には、かねてより相図を差したる事なれば、妙法院、大塔宮両門主、宵より八王子へ御上りありて、御旗を上げられたるに、両門跡の御門徒、五百騎、三百騎、ここかしこより馳せ参りける程に、一夜の間に、御勢六千余騎になりにけり。天台座主を始めて、解脱同相〔げだつどうそう〕の御衣〔おんころも〕を脱がせ給ひて、堅甲利兵〔けんこうりへい〕の御貌〔おんかたち〕に替はる。垂跡和光〔すいじゃくわこう〕の砌〔みぎり〕、忽ちに変じて、勇士守禦の場〔には〕となりぬれば、神慮もいかがあらんと、測り難くぞ覚えたる。
-------

次いで第十一節「坂本合戦の事」に入り、六波羅から押し寄せた「海東左近将監」等との戦闘場面となります。(p122以下)

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 さる程に、六波羅勢すでに戸津の宿の辺まで寄せたりとて、坂本中騒動しければ、南岸円宗院、中坊、勝行房の早〔はや〕り雄〔お〕の同宿ども、取る物も取りあへず、唐崎の浜へ出で合ふ。その勢皆歩立〔かちだち〕にて、しかも三百人には過ぎざりけり。
 海東〔かいとう〕、これを見て、「敵は小勢なりけるぞ。後陣の勢の重ならぬ前に、懸け散らさでは叶ふまじ。続けや者ども」と云ふままに、三尺七寸の太刀を抜いて、鎧の射向〔いむけ〕の袖をさしかざし、敵の渦巻いてひかへたる真中へ懸け入り、敵三人を切り臥せ、波打ち際にひかへて、続く御方〔みかた〕をぞ待ちたりける。岡本房の幡磨竪者〔はりまのりっしゃ〕快実と云ふ者、遥かにこれを見て、前に突き並べたる持楯〔もちだて〕一帖かつぱと踏み倒し、二尺八寸の小長刀〔こなぎなた〕、水車〔みずぐるま〕に廻して跳〔おど〕り懸かる。海東、これを弓手〔ゆんで〕にうけ、冑〔かぶと〕の鉢を真二つに打ち破〔わ〕らんと、片手打ちに打ちけるが、打ちはづして、袖の冠〔かぶり〕の板より菱縫〔ひしぬい〕の方まで、片筋違〔かたすじかい〕に懸けず切つて落とす。二の太刀を余りに強く切らんとて、弓手の鐙を踏み折り、すでに落ちんとしけるが、乗り直りける処を、快実、長刀を取り延べ、内冑へ鋒〔きっさき〕挙がりに、二つ三つ透き間もなく入れたりける程に、海東、あやまたず喉笛を突かれて、馬より真倒〔まっさかさま〕に落ちにけり。快実、やがて海東が上巻〔あげまき〕の上に乗りかかり、鬢〔びん〕の髪掴んで引き挙げ、首掻き切つて刀を収む。「武家の大将一人は討ち取つたり。物始めよし」と悦びて、嘲笑〔あざわら〕うてぞ立つたりける。
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ということで、最後に嘲笑はありますが、まあ、ここまでは僧兵の普通の戦闘場面です。

6976鈴木小太郎:2021/06/23(水) 13:57:15
「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その2)
「岡本房の幡磨竪者快実」が「海東左近将監」を斬る話は第一巻「土岐多治見討たるる事」に次ぐ本格的な戦闘場面なので割と有名であり、一般書でも触れられることが多いですね。
ただ、気になるのはこの場面での笑いの執拗さです。
快実が海東を討ち取って「嘲笑うてぞ立つたりける」後、いったん次のような展開となります。(p124以下)

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 ここに、何者とは知らず、見物衆の中より、年十五、六計なる小児〔こちご〕の、髪唐輪〔からわ〕に挙げたるが、麹塵〔きじん〕の胴丸に、袴のそば高く取り、金作〔こがねづく〕りの小太刀を抜いて、快実に走り懸かり、冑の鉢をしたたかに、三打ち四打ちぞ打つたりける。快実、きつと振り帰りてこれを見るに、齢〔よわい〕二八〔にはち〕ばかりなる小児の、太眉に鉄漿黒〔かねぐろ〕なり。「これ程の小児を討ち止めたらんは、法師の身にとつては情けなし。討たじ」とすれば、走り懸かり、手繁く切つて廻りける間、「よしよし、さらば、長刀の柄にて太刀を打ち落として、組み止めん」と、廻り会ひける処を、比叡辻の者どもが、田の畔〔くろ〕に立ち渡りて射ける横矢に、この児の胸板をづんと射抜かれて、矢庭〔やにわ〕に伏して死ににけり。後に誰ぞと尋ぬれば、海東が嫡子に、幸若〔こうわか〕と云ひける小児、父が留め置きけるによつて、軍〔いくさ〕の供をばせざりけるが、なほもおぼつかなくや思ひけん、見物衆に紛れて、跡に付いて来たりけるなり。幸若、稚〔おさな〕しと云へども、武士の子に生れたるゆゑにや、父が討たれけるを見て、同じく戦場に討死〔うちじに〕して、名を残しけるこそ、あはれなれ。
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戦闘場面のすぐ近くに「見物衆」が存在するのは面白く、この種の事例を集めて論文を書いている人もいたはずですね。
ま、それはともかく、「見物衆」に紛れていた海東の嫡子も殺されてしまって、ここからしみじみとした話になるのかと思うと、全くそんなことはありません。

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 海東が郎等、これを見て、「二人の主〔しゅ〕を目の前に討たせ、剰〔あまつさ〕へ頚を敵に取らせて、生きて帰る者やあるべき」とて、三十六騎の者ども、轡〔くつばみ〕を並べて懸け入り、主の死骸を枕にして討死せんと、なほ争ふ。快実、これを見て、からからと打ち笑ひ、「心得ぬものかな。御辺達〔ごへんたち〕、軍〔いくさ〕の習ひには、敵の首をこそ取らんとする事なるに、御方〔みかた〕の首を欲しがるは、武家自滅の相顕〔あらは〕れたり。欲しからば、すは、取らせん」と云ふままに、持つたる海東が首を、敵の中へかつぱと抛〔な〕げ懸け、坂本様〔さかもとよう〕の拝み切り、八方を払つて火を散らす。三十六騎の者ども、快実一人に切り立てられて、馬の足をぞ立ちかねたる。
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ということで、快実は「からからと打ち笑ひ」、敵の首を取ろうとするのが戰の習いだろうに、お前たちは味方の首を欲しがっていて、「武家自滅の相」が現れたな、欲しいなら取らせてあげるぞ、と海東の首を投げ捨ててしまうというクールな展開で、このカラカラに乾いた笑いの感覚は、なかなか現代人には共感しづらいところもあります。
ただ、『太平記』のこの場面の著者は、明らかに快実の乾いた笑いの感覚に好意的であり、また、『太平記』の聴衆・読者も、おそらくこの場面でゲラゲラ笑っていたのだろうと思われます。
また、この場面から直前の海東の嫡子が登場する場面を振り返ると、『太平記』の作者は一応、「幸若、稚しと云へども、武士の子に生れたるゆゑにや、父が討たれけるを見て、同じく戦場に討死して、名を残しけるこそ、あはれなれ」などと書いてはいますが、作者の表現をそのまま受け取ってよいのか、ちょっと疑わしい気持ちになります。
ちょうど楠木正成の赤坂城に乗り込んだ人見四郎入道恩阿と本間九郎のごとく、空疎な勇気だけがクルクルと空回りして結局は「自滅」する「幸若」を、作者は薄く笑い、聴衆・読者も笑っているように感じるのは意地が悪すぎるでしょうか。
いや、そんなことはない(反語)、と私は思います。

山口昌男の『太平記』論(その8)「それでいて、アイロニーなんかでは全然ないんですよね」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10741
山口昌男の『太平記』論(その9)「常に歴史意識とか歴史というものが決定的にからかわれている」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10742

先の「弥勒御歌の事」の場面でも、血だらけの弥勒菩薩像の首を思い浮かべてゲラゲラ笑う聴衆・読者の存在を考えると、南北朝期の人々の笑いの感覚は現代人よりもむしろ乾いていて、その笑いの対象の許容度は格段に広いように思われます。
この点、気になるのは、西源院本の第十五巻「弥勒御歌の事」では、狂歌の作者が「三会教主源弥勒菩薩」と本姓・源氏になっているのが妙に面白いのにもかかわらず、流布本の「三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事」を見ると、

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抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。」

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%94

という具合いに「三会教主源弥勒菩薩」が消えてしまっていて、面白みも半減していることです。
もしかしたら『太平記』でも西源院本と流布本では笑いの感覚にズレがあり、笑いの感覚では西源院本の方が乾いていて、流布本の時代まで下ると笑いの感覚の乾燥度が低下しているのではないか、それは社会に笑ってはいけないことが増えていることの反映ではないか、と私は想像します。
そして、この西源院本と流布本の違いは、両者における「大森彦七物語」の結末の異同とも繋がってくるのではないか、と思われます。
即ち、西源院本では、足利直義は大森彦七が献上した剣は「霊剣」でも何でもないと冷ややかに評価しているにも関わらず、流布本では「霊剣」に対する直義の評価が逆転しています。
おそらく笑いの感覚と反宗教的な感覚は連動していて、西源院本の時代の方が笑いの感覚と反宗教的感覚において先鋭的であり、流布本の時代に下ると、それらは連動して後退しているのではないか、というのが私の一応の仮説です。

松尾著(その15)「重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10733

6977鈴木小太郎:2021/06/24(木) 10:34:49
『太平記』の笑いと近世の戯作の笑いとの相違
山口・中沢対談で、中沢新一は恋川春町や山東京伝に言及し、山口昌男も平賀源内の『風流志道軒伝』に触れるなどして、『太平記』と近世の戯作文学との共通性を強調しています。

山口昌男の『太平記』論(その10)「だから無意識の底へ降りていくなんていうのは絶対不可能」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10743
山口昌男の『太平記』論(その12)「例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧を取られたりと」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10745
山口昌男の『太平記』論(その15)「意表を衝いて、機先を制していって、とんでもないところへ話を持っていくやり方」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10748

しかし、もちろん両者には異なるところもあって、それは暴力の世界との関係ですね。
『太平記』の笑いは大半が戦闘場面の最中、または戦闘場面に隣接していて、笑いのスピード感と力強さは戦闘行動のスピード感と力強さに繋がっています。
例えば、先に挙げた第十五巻「弥勒御歌の事」の直前、新田義貞等の「官軍」による三井寺攻撃の場面を見ると、

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 額田、堀口、江田、大舘、七百余騎にて、北〔に〕ぐる敵に追ひすがうて、城へ入らんとしける処を、三井寺の衆徒五百余人、木戸口に下り塞がんと、命を捨てて闘ひける間、寄手百余人、堀の際にて討たれければ、後陣を待つて進み得ず、暫く猶予しける間に、城中より木戸を下ろして、堀の橋をぞ引いたりける。義助、これを見給ひて、「云ひ甲斐なき者どもの作法かな。わづかの木戸一つに支へられて、これ程の城一つを、攻め落とさずと云ふ事やある。栗生、篠塚はなきか。あの木戸、取つて引き破れ。畑、亘理はなきか。切つて入れ」とぞ、下知せられける。
-------

という具合いに(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p440)、ほんの僅かの時間を争う緊迫した攻防が始まり、木戸を何とかしろ、という脇屋義助の厳命が栗生左衛門、篠塚伊賀守、畑六郎左衛門、亘理新左衛門の四人に下されます。

-------
 栗生、篠塚、これを聞いて、馬より飛んで下り、木戸を引き破らんとて、走り寄りてみれば、塀の前に、深さ二丈余りの堀を掘りて、両方の岸屏風を立てたるが如くなるに、橋板をば皆はねはづし、橋桁ばかりぞ立つたりける。二人の者ども、いかがして渡らんと見けるところに、面〔おもて〕三尺ばかりあつて、長さ五、六丈もあるらんと覚えたる大卒塔婆〔おおそとば〕二本あり。「ここにこそ、究竟〔くっきょう〕の橋板はありけれ。卒塔婆を立つるも、橋を渡すも、功徳は同じ事ぞかし。いざや、これを渡さん」と云ふままに、二人の者ども走り寄りて、小脇に挟んで、えいと抜く。土の底五、六尺掘り入れたる大卒塔婆なれば、辺〔あた〕りの土一、二丈が程くわつとうげのいて、卒塔婆は念なく抜けにけり。かれら二人、二本の卒塔婆を軽々と打ちかたげ、堀の端〔はた〕に突き立てて、先づ自嘆〔じたん〕をこそしたりけれ。「異国には烏獲〔うかく〕、樊噲〔はんかい〕、わが朝には、和泉小次郎、浅井名三郎、世に双びなき大力〔だいぢから〕なりと聞こえけれども、われらが力に幾程か増さるべき。云ふ所傍若無人なりと思はん人は、寄り合ひて、力根〔ちからね〕の程を御覧ぜよ」と云ふままに、二本の卒塔婆を、同じやうに向かひの岸へぞ倒し懸けたりける。卒塔婆の面平らかにして、二本相並べたれば、恰〔あた〕か四条、五条の橋の如し。
-------

一尺は約30センチ、一丈は約3メートルですから、この卒塔婆は幅が約90センチ、長さが15~18メートルという巨大さです。
そして、卒塔婆は地面に150~180センチほど埋め込んであり、栗生・篠塚の二人が引っこ抜くと辺りの土、3~6メートルほどがえぐりとられたとのことで、まあ、これらの数字は例によって『太平記』の誇張ですね。
しかし、こうした数字の誇張により、作者が表現したかった二人の動作の躍動感、力強さは聴衆・読者に正確に伝わってきます。
また、「ここにこそ、究竟の橋板はありけれ。卒塔婆を立つるも、橋を渡すも、功徳は同じ事ぞかし。いざや、これを渡さん」という戯れの反宗教的発言も、この場面のスピード感を軽快に盛り上げます。
さて、栗生・篠塚に橋を作ってもらった畑と亘理の反応やいかに。(p442以下)、

-------
 畑六郎左衛門、亘理新左衛門二人、橋の爪に進んで候ひけるが、「御辺〔ごへん〕達は(橋渡しの)判官になり給へ。われらは合戦をせん」と戯〔たわぶ〕れて、二人ともに、橋の上をさらさらと走り渡つて、堀の上なる逆木〔さかもぎ〕どもを取つて引きのけ、おのおの木戸の脇にぞ付いたりける。これを防ぎける兵ども、三方の土狭間〔つちさま〕より、鑓〔やり〕、長刀を出だして散々に突きけるを、亘理新左衛門、十六まで奪つてぞ捨てたりける。畑六郎左衛門、これを見て、「のけや、亘理殿。この塀引き破つて、心安く人々に合戦せさせん」と云ふままに、走り懸かつて、右の足を上げ、木戸の関〔かん〕の木の辺を、二踏み三踏みぞ踏んだりけるに、余りに剛〔つよ〕く踏まれて、二本渡せる八、九寸の関の木、中より折れて、木戸の扉も塀の柱も、同時にどうど倒れければ、防かんとする兵五百人、四方へ散つてさつとひく。
-------

「(橋渡しの)判官」とは、兵藤氏の脚注によれば、「行幸のときに、川に浮き橋をかける役目をする検非違使(判官)」ですが、「(橋渡しの)」は西源院本に欠けているので兵藤氏が他本から補った箇所です。
「御辺達は(橋渡しの)判官になり給へ。われらは合戦をせん」も、「この塀引き破つて、心安く人々に合戦せさせん」も戦場ならではの軽口で、これらも戦闘場面の力強さ、スピード感を高めています。
そして、この後、

-------
 一の木戸すでに破れければ、新田三万余騎の勢、城の中へ懸け入つて、先〔ま〕づ合図の火をこそ付けたりける。これを見て、山門の大衆〔だいしゅ〕二万余人、如意峰〔にょいがみね〕より落とし合はせて、三院、五別所に乱れ入り、堂舎仏閣に火を懸けて、喚〔おめ〕き叫んでぞ攻めたりける。猛火〔みょうか〕東西より吹きかけ、敵南北に充満したれば、今は叶はじとや思ひけん、三井寺の衆徒ども、或いは金堂に走り入り、猛火の中にて腹を切つて臥し、或いは聖教〔しょうぎょう〕を抱いて幽谷に倒る。多年止住〔しじゅう〕の案内者だにも、時にとつては行方を失ふ。況んや、四国、西国の兵ども、方角も知らずして煙の中に迷ひければ、ただここかしこの木の下、岩の陰に行き疲れて、自害をするより外〔ほか〕の事はなし。されば、半日ばかりの合戦に、大津、松本、三井寺の内に討たれたる敵を数ふるに、七千三百人なり。
-------

という具合いに、伽藍の炎上と殺戮、大量自害の殺伐とした場面があって、「弥勒御歌の事」に続きます。
『太平記』の中でも笑いの最高傑作の一つといえそうな「弥勒御歌の事」は、このように軽口を伴う戦闘場面と連続していて、明らかに両者は同じ作者が作っていますね。
まあ、「三会教主源弥勒菩薩」が詠む狂歌と、それに付された事書は面白いことは面白いのですが、戦争が続く本当に殺伐とした時期には笑える冗談であっても、時代が下ると、ちょっときつすぎるなあ、と思う人が増えたかもしれません。

6978鈴木小太郎:2021/06/25(金) 11:07:46
山家著(その15)「建武政権にとっても、最後の得宗北条高時をとむらうことは課題であり」
『太平記』の笑いの検討はこれからも随時行うとして、五月三日以来、本当に久しぶりに山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)に復帰したいと思います。

山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10674
【中略】
山家著(その14)「後醍醐天皇の二条富小路内裏に近い」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10688

改めて山家著の構成を確認しておくと、全体は、

-------
 ふたりによる統治
1 生誕から政権樹立まで
2 足利氏権威の向上
3 政策とそれぞれの個性
4 ふたりの対立とその後
5 ふたりの死後
-------

となっていて、「2 足利氏権威の向上」は、

-------
正統性の確立
京都での根拠地
頼朝の追善
北条氏の追善
後醍醐天皇の追善
頼朝の後継者尊氏
足利氏の優位性
神仏の付託
-------

の八節に分かれています。
「頼朝の追善」までは検討を終えているので、「北条氏の追善」に入ります。(p22以下)

-------
北条氏の追善

 尊氏らがみずから倒した北条氏一門の死後をとむらうのは、一見矛盾している。しかし、戦争での死者は区別なくとむらうべき対象であり、とくに前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった。
 建武政権にとっても、最後の得宗北条高時をとむらうことは課題であり、高時旧宅の場所に宝戒寺が建立される。一三三五(建武二)年、尊氏は、得宗高時ほか戦死者の亡魂を鎮めるため、宝戒寺に所領を寄進している。そこからの年貢などで祈祷を行なうのである。同じ頃尊氏は、上杉氏の関係する丹波光福寺にも所領を寄進し、高時ほかの怨霊を救おうとしている。尊氏は、建武政権下から高時ら戦没者の追善に熱心だったことがわかる。そして政権樹立後の一三四五(貞和元)年には、幕府は高時の十三回忌仏事を行なっている。尊氏死後の一三六五(貞治四)年には、将軍義詮のもと、高時の三十三回忌が行われ、高時に従四位下の位階が贈位されている。北条高時と戦没者の仏事は、足利将軍をいただく幕府が担っていたのである。
-------

「戦争での死者は区別なくとむらうべき対象であり、とくに前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった」が本当に正しいのか、私は若干の疑問を抱いていますが、検討は後で行います。
さて、尊氏が宝戒寺に金目郷を寄進したのは建武二年(1335)三月二十八日ですが、『大日本史料第六編之二』の同日条を見ると、尊氏の寄進状は次の通りです。(カタカナは平仮名に、旧字は新字に変更)

-------
二十八日、<辛亥>是より先き、勅して円頓宝戒寺を北条高時の旧居に建て、
其冥福を資け給ふ、是日、足利尊氏、金目郷を寄附す、
〔相州文書〕<鎌倉郡二 小町村宝戒寺所蔵>

 奉寄 円頓宝戒寺
  相模の国金目郷<〇大住郡に南北金目村あり、>
 右相模守高時、<法名崇鑑>天命己尽、秋刑忽臻、是以当今皇帝被施仁慈之哀恤、為度
 怨念之幽霊、於高時法師之旧居、被建円頓宝戒寺之梵宇、爰尊氏奉武将之鳳詔、
 誅逆徒之梟悪、征伐得時、雄勇遂功、然間滅亡之輩、貴賤老幼、男女僧俗、不可勝
 計、依之割分金目郷、所寄宝戒寺也、是偏宥亡魂之恨、為救遺骸之辜也、然則皇
 帝久施殷周之化、愚臣且同伊呂之功、仍奉寄如件、
    建武二年三月廿八日      参議源朝臣(在御判)
     円頓宝戒寺上人(慈鎮)
-------

ちょっと気になるのは小松茂美氏の『足利尊氏文書の研究』にこの文書が掲載されていないことで、あるいは小松氏はこれを偽文書と判断されているのでしょうか。
丹波光福寺への寄進状は次の投稿で紹介します。

6979鈴木小太郎:2021/06/25(金) 21:38:49
山家著(その16)「幕府は、前政権の中心にいた一族の子女を援助した」
尊氏が「上杉氏の関係する丹波光福寺にも所領を寄進し、高時ほかの怨霊を救おうとし」たのは建武二年(1335)三月一日で、宝戒寺の方は同月二十八日ですから、丹波光福寺が若干先行していますね。
これも『大日本史料第六編之二』の同日条を見ると、尊氏の寄進状は次の通りです。(カタカナは平仮名に、旧字は新字に変更)

-------
足利尊氏、日向石崎郷地頭職を、丹波光福寺に寄附して、北条高時等の
冥福を資く、
〔安国寺文書〕<乾 〇丹波>
 寄附 丹波国八田郷<〇船井郡>光福寺、
  日向国国富荘内石崎郷地頭職事、
 右為祈四海之静謐、一家之長久、将亦為救相模入道高時、<法名常鑑>并同時所所滅
 亡輩之怨霊、所寄附如件、      〔足利尊氏〕
     建武二年三月一日      参議(花押)
      光福寺長老
  〇二十八日、尊氏、又、地を宝戒寺に寄せて、高時の冥福を資けしことあ
  り、
-------

北条高時の法名は「崇鑑」なので、これが「常鑑」になっているのはご愛敬ですが、宝戒寺への寄進状と比べると、ずいぶんあっさりとした文面ですね。
そして、こちらは小松茂美氏の『足利尊氏文書の研究? 解説篇』(旺文社、1997)にも掲載されています。(p93)
建武政権下でも尊氏はあちこちの寺社に寄進していて、中先代の乱で京都を離れた建武二年(1335)八月以降を含め、小松著の文書番号に従って寄進状の日付と寄進先を列挙すると、

33 建武元年二月九日   三島大明神
34 同上         丹波国八田郷岩王寺
38 建武二年三月一日   丹波国八田郷光福寺
40 建武二年八月二十七日 鶴岡八幡宮
41 建武二年九月二十四日 篠村八幡宮
42 同上         富士浅間宮
43 同上         三島社
45 建武二年十二月十一日 伊豆三島大明神
47 建武三年正月八日   石清水社
48 建武三年正月二十三日 東大寺
49 建武三年二月一日   篠村八幡宮
53 建武三年二月十八日  備後国浄土寺
61 建武三年五月一日   厳島大明神

といった具合ですが、47の石清水社への寄進状がかなり長いのを除くと、大半が寄進先と対象となる所領を挙げただけの簡単なもので、38の丹波光福寺宛てのものでも長文の部類ですね。
小松茂美氏が何故に宝戒寺宛ての寄進状を除外したのかは分かりませんが、あるいは同時期の他の寄進状と比較して、寄進の背景事情をクドクドと説明する文面に違和感を覚えられたのでしょうか。
ま、それはともかく、山家氏は宝戒寺宛ての寄進状も真正なものであることを前提に論を進めておられますね。
さて、前回投稿で紹介した部分の続きです。(p23以下)

-------
 さて北条一門の成年男子は、戦死したか、既存の寺院組織のなかで僧としてすごした。一方、一門の子女は、よるべき支えを失うなか、新政権から援助を受けることとなる。少し死後仏事から離れて、生存した北条氏子女のようすにふれたい。
 北条貞時夫人で、最後の得宗北条高時の母となった女性は、夫の死後に出家して、覚海円成と名乗った。円成は、鎌倉幕府滅亡までは鎌倉にいたが、滅亡後、北条氏の名字の地である伊豆国北条に移り、そこで円成寺を開創し、生き残った一族の子女のよるべとした。一三三九(暦応二)年、足利直義は、円成寺に北条五箇郷などを寄進し、子女の生活と死者の鎮魂にあてる資財とした。幕府は、前政権の中心にいた一族の子女を援助したのである。
-------

うーむ。
山家氏はこの後、円成寺伝承地の「御所之内遺跡群」について縷々解説されますが、山家氏自身が「少し死後仏事から離れて」と認めておられるように、「生存した北条氏子女のようす」は「死後仏事は後継政権の担うべき役割であった」(p22)という山家氏自身の「支配の正統性」に関する主張とはあまり関係のない議論ですね。

6980鈴木小太郎:2021/06/26(土) 10:35:01
山家著(その17)「尊氏正室は北条氏出身で、尊氏が北条氏の縁故者である点も忘れてはならない」
続きです。(p24以下)
「支配の正統性」という観点からは山家氏の議論は散漫のように思えるのですが、個々の事実については興味深いので、省略せずに引用します。

-------
 北条という地名は、狭い範囲では、現在の静岡県伊豆の国市(旧韮山町)寺家や四日町辺り、独立した小丘陵である守山〔もりやま〕の北麓周辺とされている。この一帯は発掘が進んでおり、御所之内〔ごしょのうち〕遺跡群と総称され、鎌倉時代は北条氏の邸宅のあった場所と考えられている。そのなかに円成寺伝承地があり、発掘の結果、寺院跡が発見された。円成寺は、かつて北条氏邸宅であった後に建立されたことが確実となったのである。また、この一帯の遺跡は、堀越御所〔ほりごえごしょ〕跡としても知られている。堀越御所とは、のち十五世紀後半に生きた、将軍足利義教の子政知〔まさとも〕らの邸宅をさす。政和は、関東を統括するために京都から派遣されたが、鎌倉に入れず、ここを拠点に堀越公方と名乗った。守山北麓一帯は、鎌倉時代に北条館、南北朝時代以降に円成寺、室町時代中期に堀越御所があったのである。時代を超えて重要であったこの地は、狩野川が近くに流れ、水陸交通の要衝であった。
 鎌倉幕府滅亡後すぐの一三三三(元弘三)年七月、後醍醐天皇は尊氏に対し、覚海円成に「伊豆国北条館」などを安堵するように命じている。建武政権もまた、北条氏子女を保護しようとしたことがわかると同時に、尊氏にあてて命令が出されていることも注目される。直義が円成寺に寄進した北条五箇郷は、北条の東の山木、その北の原木・肥田、守山南麓の中条など、かなり広い地域となっている。北条氏滅亡後、北条館とその周囲の地域は、尊氏、ついで直義が領有し、そのもとで覚海円成が権利を得ていたと思われる。後醍醐天皇による安堵も、尊氏の申請による可能性が高いだろう。のち一三五一(観応二・正平六)年、尊氏と直義が対立するなか、尊氏は鎌倉にいる直義を攻撃し、敗走する直義軍は、年末に北条に逃げ落ちており、北条は、直義にとっても拠点の一つとなっていた。直義死去後、円成寺には上杉氏の子女が入るなど、この辺りは上杉氏の領有となった可能性が高い。戦国時代になると、北条五箇郷の東に位置する韮山城は、後北条氏の伊豆支配の拠点となり、北条の地も韮山城下へと変化する。
-------

発掘調査の概要は伊豆の国市公式サイト内の次のPDFで読むことができます。
願成就院跡、円成寺跡、伝堀越御所跡の位置関係も地図が載っているので分かりやすいですね。

https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/kunishite/documents/03_dai2shou_01_3.pdf

さて、この後、山家氏は次のように述べられます。(p25以下)

-------
 なお、これまで、北条氏嫡流の死後仏事や子女保護を、政権後継者として行ったことと位置づけてきた。一方で、尊氏正室は北条氏出身で、尊氏が北条氏の縁故者である点も忘れてはならない。尊氏室赤橋登子の兄にあたる赤橋守時の未亡人は、建武政権下、伊豆国に所領を与えられている。おそらくは尊氏の要請によると思われる。守時の仏事については、義詮の時代、北条高時の三十三回忌の直前に、守時の三十三回忌仏事が義詮により挙行されている。守時をめぐる事例では、尊氏は縁故者として、北条氏一門の仏事を行なったり、子女の援助を行なっている。嫡流の仏事ほかを主催したことにも、影響を与えているかもしれない。
-------

「北条氏の追善」はここまでです。
山家氏は「北条氏嫡流の死後仏事や子女保護を、政権後継者として行った」とした上で、赤橋守時の死後仏事を参照して「尊氏は縁故者として、北条氏一門の仏事を行なったり、子女の援助を行なっている」とされ、後者が前者にも「影響を与えているかもしれない」とされるのですが、北条一族であった赤橋登子の存在を考えれば、私は全てを後者で説明できるのではないかと思います。
赤橋守時の三十三回忌は貞治四年(1365)五月十八日に常在光院で、北条高時の三十三回忌は同月二十二日に大光明寺と等持寺で行われていますが、同月四日に赤橋登子が六十歳で死去しており、守時・高時の仏事も登子薨去の「天下蝕穢」期間中に行われています。
もちろんこれは偶然でしょうが、守時・高時の三十三回忌が行なわれた直前に登子が亡くなったことに、何か運命的なものを感じた人も多かったかもしれません。
従来、歴史研究者は赤橋登子の存在をあまり重視していませんでしたが、私はこの点、根本的な見直しをする必要があると考えています。
「謎の女・赤橋登子」とその周辺の女性については今年の二・三月に検討してみましたが、その結果を踏まえ、「北条氏嫡流の死後仏事や子女保護」に関する登子の役割について、次の投稿で少し論じてみたいと思います。

四月初めの中間整理(その12)~(その14)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10657
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10658
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10659

6981鈴木小太郎:2021/06/28(月) 13:32:12
「政権担当者としての正統性の確立」に関する山家説の基本的な問題点
山家浩樹氏は足利氏の「政権担当者としての正統性の確立」に関して、

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 一三三六(建武三)年八月、光明天皇が即位し、十一月には、尊氏を中心とする政権の方向性が建武式目として公表され、新政権は歩みを始める。いわゆる室町幕府である。新政権をめぐる情勢は予断を許さないものだった。後醍醐天皇は、いったんは尊氏との和議を受け入れたものの、十二月には京都を脱出して吉野に拠点をおき、その後も、もう一方の政治勢力の核であり続けた。尊氏を擁する新政権は、幅広い支持をえるため、軍事面での優位を保つことばかりでなく、政権担当者としての正統性を示すことに腐心する。一三三八(暦応元)年八月に尊氏は征夷大将軍となった。尊氏、そして足利氏が、鎌倉幕府の将軍と同等の存在として、加えてその後の諸勢力の継承者として、幅広い人びとに認知されるならば、新政権は他の勢力を排して安定へと向かうことが可能となる。ここでは、政権担当者としての正統性の確立について述べたい。
 尊氏を中心とする政権にとって、継承者としての正統性を主張する場合、その根拠は三点ほどあげられる。まずは(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと。より狭義には頼朝ら三代の鎌倉幕府将軍の後継者であることを意味し、ひいては鎌倉幕府将軍という地位の後継者を主張することにもつながる。またその将軍のもと政権の実権を掌握していたのは北条氏であった。そのため(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること。さらに、尊氏らが継承する対象として、前政権である建武政権も忘れてはならない。そこで(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること。この三点が主眼となろう。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10682

と言われますが(p15以下)、「(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること」は非常に分かりにくいですね。
元弘三年(1333)、尊氏は鎌倉幕府から後醍醐を中心とする反幕府勢力の討伐を命じられ、搦手軍の大将に任命されて山陰道経由で船上山に向かって進軍を始めたにも拘わらず、突如として後醍醐方に寝返り、北条氏を滅亡に追いやったのですから、北条氏から見れば尊氏が「裏切り者」であることは明白で、「北条氏の実権」の否定者であることも明白です。
それなのに、足利氏が「北条氏の実権」を「継承」するというのはどういうことなのか。
この点、山家氏は、

-------
 尊氏らがみずから倒した北条氏一門の死後をとむらうのは、一見矛盾している。しかし、戦争での死者は区別なくとむらうべき対象であり、とくに前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10768

とされる訳ですが、「前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった」ことについての説明は特にありません。
山家氏にとって、これは議論の当然の前提たる自明の一般的命題のようですが、本当に自明なのか。
歴史を遡ってみると、参考になりそうな事例としては平氏政権と、それを滅ぼした源頼朝くらいしか思い浮かびませんが、果たして頼朝は「前政権の中心人物」平清盛の「死後仏事」、即ち年忌法要をやっていたのか。
私はそんな話を聞いたことはありません。
また、無理に類例を探せば、承久の乱で後鳥羽院を隠岐に流した北条氏の対応も一応検討する必要がありそうですが、北条氏は後鳥羽の死後、その年忌法要をやっているのか。
『吾妻鏡』には、宝治元年(1247)四月二十五日条に「被奉勧請後鳥羽院御霊於鶴岡乾山麓。是為奉宥彼怨霊。日頃所被建立一宇社壇也。以重尊僧都被補別当職云云」という記事があり、後鳥羽の怨霊を鎮めるための仏事がなされていたことは確かですが、それは「後継政権の担うべき役割」としての年忌法要とは全然別の話です。
結局、山家氏は足利氏が北条家嫡流の年忌法要をやっていたという、他に類例を見出し難い事例から「前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった」という一般的命題を導き出しておられるように思われます。
しかし、そもそも子孫や親戚でもないのに「死後仏事」としての年忌法要を行うのは非常に奇妙なことであって、足利氏の場合は尊氏の正室・赤橋登子が北条一族の人であった訳ですから、「前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった」などという無理な一般的命題を用いなくとも、親戚だから「死後仏事」をやったのだ、で簡単に済んでしまうはずです。
さて、改めて山家氏の「政権担当者としての正統性の確立」に関する議論を振り返ってみると、山家氏は、この議論の出発点として、「尊氏、そして足利氏が、鎌倉幕府の将軍と同等の存在として、加えてその後の諸勢力の継承者として、幅広い人びとに認知されるならば」という具合いに「諸勢力の継承者」であることを重視されています。
そして、この「諸勢力の継承者」を受けて、「継承者としての正統性を主張する場合、その根拠は三点」あるとして、どうにも無理の多い(2)を含む三点を列挙されています。
しかし、尊氏が「支配の正統性」を主張しようとする場合、それは、「継承者としての正統性」に限られなければならないのか。
「支配の正統性」に関するマックス・ウェーバーの古典的議論を参照するまでもなく、別に「支配の正統性」は過去に存在した権力の「継承者」であることだけから生み出されるものではありません。
例えば頼朝の場合、その「支配の正統性」は反乱軍として誕生しながら他の軍事勢力を次々と駆逐して平和をもたらした圧倒的な軍事的実力、そしてその指導者としての頼朝の傑出した軍事的才能(カリスマ)から素直に生み出されるのであって、別に平氏政権の「継承者」である必要性など微塵もありません。
尊氏の場合、頼朝と比較すると軍事的実力は圧倒的とは言い難く、その点での「支配の正統性」の弱さは否めませんが、そうかといって様々な伝統的権威を寄せ集め、北条氏の「継承者」であることまで主張する必要があるかというと、そんなことはないはずです。
北条氏との関係では、足利氏はどこまでいっても「裏切り者」であって、「継承者」の資格は全くありません。
さて、山家氏の挙げる三点のうち、「(1)尊氏および足利氏嫡流が、源氏の正嫡であり、武家の棟梁としてふさわしいこと」は、実際には多分に「創られた伝統」(E・ホブズボウム)であって、それなりに成功した「創られた伝統」もあれば、あまり説得力を得られず定着しなかったものもあることは、山家氏自身の業績を含め、近時の研究が明らかにしているところです。
そして「(2)尊氏を中心とする政権が、北条氏の実権をも継承していること」は全くの無理筋です。
結局、「継承者としての正統性」に限れば、私は「(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること」が極めて重要であったと考えるのですが、この重要性は歴史研究者にはあまり意識されていないように思われます。
実際には足利氏の政権は建武政権の「裏切り者」であった訳ですが、それを認めてしまえば、足利氏は鎌倉幕府の「裏切り者」であって、かつ建武政権の「裏切り者」ということになり、本当にろくでもない、「支配の正統性」の欠片もない駄目政権になってしまいます。
そこで、「(3)北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること」は、足利政権にとって何が何でも、どんなに金をかけようとも断固として主張しなければならない絶対的命題だったのではなかろうか、と私は考えますが、この点は山家著の検討をもう少し進めた後で、改めて論じるつもりです。

6982鈴木小太郎:2021/06/29(火) 11:08:53
山家著(18)「尊氏らが擁立した光明天皇は、後醍醐天皇から皇位を受け継ぐ形をとっている」
前々回の投稿で、「謎の女・赤橋登子」とその周辺の女性についての検討を踏まえ、「北条氏嫡流の死後仏事や子女保護」に関する登子の役割について少し論じてみたいと書きましたが、観応の擾乱以降の赤橋登子の動向が追えていないので、もう少し後で検討したいと思います。
現時点での私の認識は下記投稿で纏めた通りですが、赤橋登子がどのような存在であったかは、元弘三年、尊氏が北条氏を裏切ることを登子が事前に知っていたかどうかで全く異なってきますね。

四月初めの中間整理(その12)~(その14)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10657
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10658
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10659

さて、「後醍醐天皇の追善」に移ります。(p26以下)

-------
 尊氏らの政権は、後醍醐天皇の政権を継承する立場に立っていた。尊氏らが擁立した光明天皇は、後醍醐天皇から皇位を受け継ぐ形をとっている。一三三九(暦応二)年八月十六日、後醍醐天皇が死去すると、その死をとむらう行為も、尊氏らの政権の担うべき役割となった。四十九日にいたる仏事は、催行されたようだが詳細はわからない。百日忌にあたっては、尊氏らの命で、洛中等持寺において密教の儀式である曼荼羅供が、南禅寺では千僧供養が行なわれている。等持寺はさきにふれたように禅宗寺院であるが、直義邸に隣接して足利氏の持仏堂といった位置付けにあり、各種祈祷も行なわれていた。
-------

「尊氏らが擁立した光明天皇は、後醍醐天皇から皇位を受け継ぐ形をとっている」とありますが、これは本当に形式的な話で、光明が践祚した(と称した)建武三年(1336)八月十五日の時点では後醍醐は比叡山にいて、もちろん光明践祚など承認していません。
光明は先帝の譲位の詔もなく、「三種の神器」も持たないまま、践祚を自称した訳ですね。
ただ、その後、尊氏との間で交渉があり、十月十日に後醍醐は比叡山を下り、洛中花山院に入ります。
そして十一月二日、後醍醐が滞在する花山院から光明天皇の仮皇居東寺へ「内侍所・剣璽渡御」の儀式が行われ、同日、光明天皇から後醍醐に太上天皇の尊号が贈られており、これで後醍醐が光明への譲位を事後的に承認したことになります。
もっとも後醍醐は比叡山を下りる前日、皇太子恒良親王への「受禅の儀」を行なっていたようで、後醍醐はあちこちに皇位と「三種の神器」をばらまいていますね。

六月半ばのプチ整理(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10760
「重祚の御事相違候はじと、尊氏卿さまざま申されたりし偽りの詞」(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10710
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10711

ま、それはともかく、北朝側としては光明の天皇の地位を確保するために万全の措置を取った訳ですが、翌十二月二十一日、後醍醐は花山院を脱けだして吉野へ潜幸し、光明に渡した「三種の神器」は偽物だ、自分はまだ皇位を維持していると主張するようになります。
従って、後醍醐の後継者として後村上天皇を戴いた南朝側は、「後醍醐天皇が死去すると、その死をとむらう行為も」当然、自分たちの「担うべき役割」だと考えた訳で、北朝・足利家側は何で勝手に「死後仏事」をやっているのだ、僭越の限りではないか、という話になります。
南北朝の対立の反映として、後醍醐の「死後仏事」の競合、後醍醐の霊の争奪戦も起きている訳ですね。
ところで、南朝側が何と言おうと、北朝・足利側としては自分たちこそ「後醍醐天皇の政権を継承する立場」だと断固として主張せざるを得ません。
そこで、後醍醐自身の遺志という点では弱みを抱える北朝・足利側が工夫したのが天龍寺の創建です。(p27)

-------
 仏事と並行して、後醍醐天皇の菩提をとむらうためのあらたな寺院の建立も進められた。天龍寺である。寺地となったのは洛西の亀山殿で、亀山殿は後嵯峨天皇が造営した別邸であり、後醍醐天皇の管理下にあった。宗派は禅宗とし、開山に夢窓疎石を請じた。夢窓は、北条氏・後醍醐天皇・北朝天皇・足利氏と、権力者に帰依された禅僧である。『太平記』では、夢窓が直義に寺院建立を勧めたとされるが、夢窓は建立の表舞台に立とうとはせず、たとえば建立の大勧進は古先印元がつとめている。また、亀山殿にあった多宝院を修復して後醍醐天皇の廟所とし、天皇の霊をまつっている。
-------

「亀山殿は後嵯峨天皇が造営した別邸であり、後醍醐天皇の管理下にあった」とありますが、後嵯峨院の処分状では、亀山殿は後嵯峨の正妃で、後深草・亀山兄弟の母・大宮院に譲られています。
亀山殿が大宮院から亀山院に譲られたことは確かですが、亀山院と後宇多院の間には深刻な相続トラブルがあり、亀山殿の伝領の経緯も分かりにくいところがあります。
ただ、結局のところ、後醍醐が確保していたことは間違いないですね。

龍粛「後嵯峨院の素意と関東申次」
http://web.archive.org/web/20111022235701/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-gosagainnosoi-01.htm
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9404

6983鈴木小太郎:2021/06/30(水) 11:32:12
山家著(19)「郊外とはいえ京都に建立することに成功したのは、政権の実力と正統性を示す格好の機会」
細かな話になりますが、「『太平記』では、夢窓が直義に寺院建立を勧めたとされる」という山家氏の指摘(p27)は流布本ではその通りです。
即ち、流布本(第二十四巻「天竜寺建立事」)では、

-------
武家の輩ら如此諸国を押領する事も、軍用を支ん為ならば、せめては無力折節なれば、心をやる方も有べきに、そゞろなるばさらに耽て、身には五色を飾り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば、国費へ人疲て、飢饉疫癘、盜賊兵乱止時なし。是全く天の災を降すに非ず。只国の政無に依者也。而を愚にして道を知人無りしかば、天下の罪を身に帰して、己を責る心を弁へざりけるにや。夢窓国師左武衛督に被申けるは、「近〔年〕天下の様を見候に、人力を以て争か天災を可除候。【中略】」と被申しかば、将軍も左兵衛督も、「此儀尤。」とぞ被甘心ける。されば頓て夢窓国師を開山として、一寺を可被建立とて、亀山殿の旧跡を点じ、安芸・周防を料国に被寄、天竜寺をぞ被作ける。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B

となっています。
しかし、西源院本第二十五巻「天龍寺の事」では、

-------
 武家の輩〔ともがら〕、かくの如く諸国を押領する事も、軍用を支へんためならば、せめては力なき折節なれば、心を遣る方もあるべきに、そぞろなるばさらによつて、身には五色を粧〔よそお〕ひ、食には八珍を尽くし、茶の会、酒宴にそこばくの費〔つい〕へを入れ、傾城田楽に無量の財〔たから〕を与へしかば、国費え、人疲れて、飢饉、疫癘〔えきれい〕、盜賊、兵乱、止む時なし。これ全く天の災ひを降すにあらず、ただ国の政〔まつりごと〕なきによるものなり。
 しかるに、愚かにして道を知る人なかりしかば、天下の罪を身に帰して、己れを責むる心なかりけるにや、或る人、将軍の御前〔おんまえ〕に来たつて申されけるは、「近年、天下の様〔よう〕を見候ふに、人力を以て天災を収め得つべしとも覚え候はず。【中略】」と申しければ、将軍も左兵衛督も、「この議、誠にしかるべし」とぞ肝心せられける。
 さらば、やがて夢窓国師を開山として、禅院を建立せらるべしとて、亀山殿の御旧跡を点じ、安芸、周防の両国を寄せられて、天龍寺を造らる。
-------

とあり(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p119以下)、「或る人」が最初に「将軍」尊氏に「しかるべき禅院」の建立を勧め、その提案を「将軍も左兵衛督〔直義〕も」高く評価した、という展開です。
最初に「或る人」が尊氏に提案した、という話が、流布本では夢窓疎石が直義に提案したという話に変っていて、妙に気になるのですが、「或る人」は永遠の謎でしょうから、あまり考えても仕方のない問題かもしれません。
さて、天龍寺については西山美香氏に『武家政権と禅宗 夢窓疎石を中心に』(笠間書院、2004)という非常に優れた著作があるので、後で引用させてもらう予定ですが、まずは山家著に従って天龍寺の基礎的事項を押さえておきたいと思います。(p27以下)

-------
 後醍醐天皇ゆかりの地に、天皇ゆかりの禅僧を招じて行う寺院建立は、形のうえでは、治天である北朝の光厳上皇がさきの治天である後醍醐天皇のために行う事業であった。しかし、四十九日にあたる十月五日に、光厳上皇が尊氏に対して造進を命じているように、実質は尊氏・直義ら武家が担った。造営の費用にあてるため寄進される所領として第一にあがった日向国国富荘は、後醍醐天皇が尊氏にあたえた恩賞地のうち収入の多い荘園であった。また元に天龍寺船を遣わして造営費用を確保したことはよく知られているが、北朝内で派遣に慎重な意見の多いなか、直義などの武家の主導によって派遣は決定されている。
 しかし、政情不安定ななかでの武家主導の寺院建立には、さまざまな反対があった。当初、寺名は暦応寺(暦応資聖禅寺)とされていたが、途中で天龍寺(天龍資聖禅寺)に改められている。一因として、年号を寺号にするのは延暦寺などの限られた寺院にのみ許されるという反対が強かったと推測されている。禅宗寺院であったために、旧仏教勢力、特に延暦寺はその建立に対して強力に反対した。一三四五(貞和元)年八月の落慶供養には光厳上皇が臨席する予定であったが、延暦寺の強訴により、臨幸は中止に追い込まれている。尊氏ら武家政権にとって、このような反対を押し切ってなお、後醍醐天皇の菩提をとむらう禅宗寺院を郊外とはいえ京都に建立することに成功したのは、政権の実力と正統性を示す格好の機会となった。天龍寺完成ののち、後醍醐天皇の年忌仏事は、天龍寺で催行されている。
-------

私は山家氏が「継承者としての正統性」に関して挙げる三点の内、三番目の「北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること」が極めて重要であったと考え、かつ、天龍寺は「北朝・室町幕府による体制が、建武政権を正統に引き継いでいること」を天下にアピールするための壮大なモニュメントであったと考えますが、そうであれば天龍寺は絶対に京都に存在しなければならない寺院ですね。
この後、山家氏は『太平記』の天龍寺造営記事を検討されていますが、山家氏の見解にはいくつかの疑問が生じます。
その点、ちょっと長くなるので、次の投稿で書きたいと思います。

6984鈴木小太郎:2021/07/01(木) 11:17:41
山家著(20)「この段階の『太平記』全体が「後醍醐天皇の物語」として構想され」
続きです。(p28以下)

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 『太平記』は、天龍寺造営について巻二十五で叙述している。鎌倉時代末期から南北朝時代を扱ったこの軍記物語は、数度にわたる増補・書継ぎをへて、現在読む形になったと考えられており、初期の編集には直義と周辺の人びとがかかわっている。そして、直義がかかわっていた時期のどこかで、巻二十五、つまり後醍醐天皇の菩提をとむらう寺院建立をもって完結していた段階があっただろうという見解が有力となっている。この段階の『太平記』全体が「後醍醐天皇の物語」として構想され、後醍醐天皇の鎮魂を目的として作成されたと理解するのである。この見解に従い、またその成立に直義らがかかわっている点に留意すると、足利氏を中心とする政権にとって、後醍醐天皇の菩提をとむらい霊を鎮めることが、いかに大きな関心事であったか、窺い知ることができよう。
-------

これで「後醍醐天皇の追善」は終わりです。
「『太平記』は、天龍寺造営について巻二十五で叙述している」とありますが、これは西源院本など古本系の話で、流布本では巻二十四ですね。
山家氏は『太平記』のどの本を参照されているかを明記されていませんが、直前で「『太平記』では、夢窓が直義に寺院建立を勧めたとされる」(p27)とあって、こちらは流布本の内容なので、記述に一貫性がないように感じます。
また、「数度にわたる増補・書継ぎをへて、現在読む形になったと考えられて」いることは確かですが、諸本間の異同は『平家物語』などと比較すると少ないことにも留意しておく必要があります。
この点、桃崎有一郎氏は「軍記物は、写された時代が下るほど多くの改変に晒され、そのたびに内容は史実から遠ざかる。流布本とは、そうした改変のなれの果てであって、原作者が書いた原本からは遠く逸脱している」(『京都を壊した天皇、護った武士』、p179)などと言われていますが、全くの誤りです。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10696

ついで「初期の編集には直義と周辺の人びとがかかわっている」とされる点ですが、これは今川了俊の『難太平記』に、

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六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり。返々無念の事也。此記の作者は宮方深重の者にて。無案内にて押て如此書たるにや。寔に尾籠のいたりなり。尤切出さるべきをや。すべて此太平記事あやまりも。空ごともおほきにや。昔等持寺にて。法勝寺の恵珍上人。此記を先三十余巻持参し給ひて。錦小路殿の御目にかけられしを。玄恵法印によませられしに。おほく悪とも誤も有しかば。仰に云。是は且見及ぶ中にも以の外ちがひめ多し。追て書入。又切出すべき事等有。其程不可有外聞有之由仰有し。後に中絶也。近代重て書継けり。次でに入筆者を多所望してかゝせければ。人高名数をしらず書り。さるから随分高名の人々も。且勢ぞろへ計に書入たるもあり。一向略したるも有にや。今は御代重行て。此三四十年以来の事だにも。無跡形事ども任雅意て申めれば。哀々其代の老者共在世に。此記の御用捨あれかしと存也。平家は多分後徳記のたしかなるにて。書たるなれども。それだにもかくちがひめありとかや。まして此記は十が八九はつくり事にや。大かたはちがふべからず。人々の高名などの偽りおほかるべし。まさしく錦小路殿の御所にて。玄恵法印読て。其代の事ども。むねとかの法勝寺上人の見聞給ひしにだに。如此悪言有しかば。唯をさへて難じ申にあらず。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10428

とあることに基づいています。
「法勝寺の恵珍上人」(恵鎮)が「錦小路殿」(直義)に「三十余巻」の「原太平記」(仮称)を持参し、直義が「玄恵法印」に読ませたところ、間違いが多かったので、修正するまでは外部に出しては駄目だ、と直義が命じたということで、「周辺の人びと」とは具体的には恵鎮と玄慧ですね。
ただ、今川了俊の『難太平記』は 応永九年(1402)の著作とされており、「原太平記」成立後、半世紀以上経っています。
また、『難太平記』から窺える了俊と今川家にとって望ましかったであろう記事は現在残されている『太平記』諸本には全く反映されておらず、了俊と今川家は『太平記』編纂に介入する人脈もノウハウも持っていなかったように思われます。
従って、『難太平記』がどこまで信頼できるのか、という根本的な問題があります。

四月初めの中間整理(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10647

ただまあ、『難太平記』以外にヒントはないので、一応これを信頼するとしても、直義に提出された「原太平記」の内容と、「直義と周辺の人びと」が関与して作成された修正版「原太平記」の内容が分からないのですから、「直義がかかわっていた時期のどこかで、巻二十五、つまり後醍醐天皇の菩提をとむらう寺院建立をもって完結していた段階があっただろうという見解」も、「この段階の『太平記』全体が「後醍醐天皇の物語」として構想され、後醍醐天皇の鎮魂を目的として作成されたと理解する」見解も、ともに仮定に仮定を重ねた推論であり、砂上の楼閣の可能性も高いですね。
実は私は「原太平記」の内容はある程度復原できるのではないかと思っているのですが、その点は後で書きます。

6985鈴木小太郎:2021/07/02(金) 12:28:19
「原太平記」の内容について
「原太平記」が復元できるのでは、などと書くと頭のおかしい人と思われかねないので少し説明しておきます。
まず、『太平記』の諸本間での異同は『平家物語』などと比べると少ないことは何度でも強調しておきたい前提です。
次に『難太平記』がどこまで信頼できるのか、という根本的な問題はあるとしても、とりあえずヒントになりそうなのは『難太平記』だけなので、『難太平記』が記す「原太平記」への直義の介入は一応事実だということも前提としておきます。
しかし、直義の「原太平記」への介入は成功したのか。
古本系の『太平記』においても、尊氏・直義兄弟を始めとする室町幕府初期の関係者が非常に優れた人物として描かれているかというと、まあ、良い部分ももちろんありますが、どうにも外聞の悪いエピソードが露骨に描かれていたりもします。
この点、兵藤裕己氏との対談において、呉座勇一氏も、

-------
『太平記』の最終形態が足利義満も承認した「幕府の草創を語る公認の史書」だとすると、足利尊氏・直義・義詮を始めとする幕府草創期の指導者、そして有力大名の殆ど全てがあまり素晴らしい人物とは描かれず、その欠点が相当露骨に批判されているのは何故なんですかね。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10408

という感想を述べておられますが、これは『太平記』を実際に通読した人なら誰でも抱くであろう兵藤「正史」説に対する素朴な疑問ですね。
さて、直義の「原太平記」への介入が事実だったとすると、直義の権力的介入があったにもかかわらず、現存の『太平記』には「幕府草創期の指導者、そして有力大名の殆ど全てがあまり素晴らしい人物とは描かれず、その欠点が相当露骨に批判されているのは何故」なのか。
ま、この難問に対する素直な回答は、直義はいったんは「原太平記」への介入を試みたものの、その修正には失敗した、ということだろうと思います。
おそらく観応の擾乱が勃発して直義には「原太平記」に関わっているようなヒマがなくなってしまい、顧問格であった玄慧に続いて直義自身も死去してしまったので、「原太平記」の修正の話も自然と立ち消えになったのではないかと思われます。
「原太平記」の作者たちにしてみれば、うるせー奴らがいなくなってさっぱりしたぜ、という気分だったかもしれません。
ただ、直義の介入の痕跡がきれいさっぱり消えてしまったかというと、私は征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードは直義の置き土産だったのではないかと考えています。

征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10485
四月初めの中間整理(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10649

この明らかに関連性を有する二つの「二者択一パターン」エピソードが強調したいのは、征夷大将軍という存在が極めて重いのだ、という認識です。
私は「二者択一パターン」エピソードは両方とも創作だと考えますが、では、誰がこの二つの創作エピソードを書き入れるように「原太平記」作者圏の外部から要求(ないし命令)したのか。
ま、直義以外、候補者はいません。
従来、直義の「原太平記」介入の話は、清く正しく美しい直義が荒唐無稽な「原太平記」の記述に怒って、それを正しい記述に直そうとしたのだ、という具合いに受け取られてきたと思われますが、しかし、恵鎮上人は鎌倉幕府呪詛の祈祷をしたとして幕府から流罪に処せられた経歴を持つ人物であり、政治権力との関係には慎重な配慮ができたはずの人です。
しかも、年齢は直義より二十五、六歳上で、「原太平記」が成立したであろう1340年代には六十代ですから、直義が嘘ばかりだと怒るような変な書物を献上して、やっぱり怒られた、というのはずいぶん変な話です。

円観(恵鎮上人、1281-1356)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%A6%B3

そこで、この話は、恵鎮上人にとって穏当な物語に思えた「原太平記」に対し、足利家の権力の正統性を確立しようと考えていた直義が、それにふさわしいエピソードを追加しろ、要するに歴史を偽造しろ、と要求した話と読めるのではないか、と私は考えます。
以上の推定が正しければ、「原太平記」は古本系の『太平記』から、直義を刺激するような、直義と足利家の「支配の正統性」に傷をつけそうな部分を削除したものと考えてよいのではないか、と私は想像します。

6986鈴木小太郎:2021/07/04(日) 12:40:13
歴史研究者における「鎮魂莫迦」の系譜について
山家浩樹氏は、

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直義がかかわっていた時期のどこかで、巻二十五、つまり後醍醐天皇の菩提をとむらう寺院建立をもって完結していた段階があっただろうという見解が有力となっている。この段階の『太平記』全体が「後醍醐天皇の物語」として構想され、後醍醐天皇の鎮魂を目的として作成されたと理解するのである。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10774

と書かれていますが(p29)、これがいったい誰の見解なのか、ちょっと悩んでいました。
歴史研究者の中では『太平記』から「長崎の鐘」が聞こえてくるという松尾剛次氏が「鎮魂莫迦」の横綱格であり、国文学者の兵藤裕己氏もコメディを理解する能力に乏しい、しみったれた性格の「鎮魂莫迦」ですが、二人の考え方には山家氏が紹介する見解とは異質な部分があります。
もしかしたら、これは五味文彦氏の見解かもしれないですね。
五味氏は山口・中沢対談が掲載された『國文學 解釈と教材の研究』(36巻2号、學燈社、1991)に「後醍醐の物語─玄恵と恵鎮」という五ページ弱の文章を寄せておられますが、歴史研究者がチンコン・チンコンと変な鐘を鳴らし始めたのはそれほど古い話ではなさそうなので、あるいは五味氏が「鎮魂莫迦」の嚆矢なのかもしれません。
しかし、私には『太平記』がチンコンの物語だなどとは全く思えません。
『太平記』を『太平記』たらしめている最も核心的な要素はコメディ、特にスラップスティックコメディと狂歌であって、その代表例は少し前に紹介した第十五巻「弥勒御歌の事」です。

梅原猛氏の南北朝期に関する基本的な誤解(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10764

一般に『太平記』の文学的価値はそれほど高く評価されていなくて、最近でも呉座勇一氏は、兵藤裕己氏との対談において、

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なぜ『平家物語』と比して文学的な完成度が低いと言われる『太平記』が、軍記物語や歴史叙述の範型として後世に絶大な影響を及ぼしたのでしょうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10403

などと言われていますが、これは生真面目な文学が「文学的な完成度」が高いとする、ある種の古典的な立場からの偏見ですね。
そうした古臭い偏見に囚われなければ、『太平記』こそ日本文学の最高傑作の一つだと私は断言したい(!)、のであります。
漢語と「さらさら」といった擬態語、それに誇張表現の絶妙な組み合わせで構成された 「三井寺合戦の事」など、殆ど日本語の可能性を極めてしまっており、これ以上にスピード感あふれる文章は近現代にも存在しないですね。

『太平記』の笑いと近世の戯作の笑いとの相違
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10767

悲劇は莫迦でも書けますが、コメディは本当に頭の良い人でなければ書けなくて、コメディの傑作を創作する人の乾いた知性と感性は、「鎮魂」みたいなことをグズグズ・ネチネチ・ダラダラと執念深く追い求める粘着質のしみったれた知性と感性とは両立しないですね。
『太平記』はその出発点において、コメディ好きの乾いた知性と感性が凝縮された、反骨と諧謔の精神に横溢した傑作であり、誰でもマネできるようなレベルの作品ではなくて、だからこそ後世の人による改変も少なく、諸本間の異同も少なかったのだ、というのが私の考え方です。
ただ、作者たちのそうした研ぎ澄まされた感覚を支える社会全体の雰囲気、時代精神もそれほど長く続いた訳ではないように思われます。
「大森彦七物語」や「弥勒御歌の事」などを調べていて気づいたことですが、『太平記』の諸本間には笑いの感覚の微妙な違いが窺えます。
おそらく南北朝初期の、天皇の権威も宗教的な権威もグラグラと揺れ動いた、本当に不安定な荒々しい特別な時期を過ぎると、人々も若干の落ち着きを望むようになり、『太平記』の笑いの感覚も、その乾き具合において些か度が過ぎるように思われるようになったのではなかろうか、というのが私の一応の仮説です。

松尾著(その15)「重要なのは、『太平記』作者が、それを事実として受け止めた点である」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10733
「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10766

6987鈴木小太郎:2021/07/05(月) 11:01:32
「原太平記」復原の試み(その1)
山家著の検討の途中ですが、「原太平記」の復元の可能性をもう少し探ってみたいと思います。
まず、恵鎮上人が「原太平記」を直義に持参した時期ですが、私は「直義がかかわっていた時期のどこかで、巻二十五、つまり後醍醐天皇の菩提をとむらう寺院建立をもって完結していた段階があっただろうという見解」(p25)には賛成です。
そして私は、観応の擾乱の勃発によって直義が指示した改訂作業が中断され、玄慧と直義の死により改訂の話自体が立ち消えになってしまったと考えます。
従って直義の検閲の時期は、天龍寺が完成し、その落慶法要が尊氏・直義の臨席のもとに行われ、ついで光厳・花園上皇の御幸があった康永四年(貞和元、1345)八月以降、観応の擾乱の第一幕が始まった貞和五年(1349)閏六月以前ということになります。
こう考えると、古くからの難問とされてきた『太平記』という書名の謎も簡単に解けそうです。
即ち、太平の時代でも何でもないのに何で『太平記』という書名なのだ、と昔から不思議に思われていた訳ですが、1340年代半ばであれば戦乱もずいぶん前に終息し、直義の全盛時代を迎えていて、「京都は意外なほど平穏が保たれる安定期」(p2)となっています。

山家著(その2)「ふたりによる統治」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10676

この時期であれば「太平」は事実を反映しており、直義の治世を讃える目出度い名称として絶妙ですね。
もちろん観応の擾乱以降は「太平」どころではない時代が続く訳ですが、いったん決めた書名をそのまま使い続けたので、結果的に『太平記』全体の内容は書名にそぐわないことになってしまったのだと思います。
この点、以前ツイッターで少し書いたことがあって、その時は単に「太平」が目出度い文字だから、くらいに思っていたのですが、「太平」の直接の出典はおそらく『貞観政要』あたりなんでしょうね。
「太平」の出典については、西山美香氏の『武家政権と禅宗 夢窓疎石を中心に』(笠間書院、2004)を参照しつつ、後で改めて論じたいと思います。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1355859728161628164

さて、直義の権力的介入に関連して、古本系の『太平記』に第二十二巻が欠落していることをどう考えるか、という問題もあります。
即ち西源院本・神田本・玄玖本・南都本には第二十二巻が存在しませんが、この点について、兵藤裕己氏は、

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 第二十二巻は、古本系のすべての諸本で欠巻である。第二十一巻には、宮方の脇屋義助が越前の黒丸城を攻め落とし、斯波高経を加賀に退却させたこと、それを受けて、京都の足利方が、高師治、土岐頼遠、佐々木氏頼、塩冶高貞らを北国へ向かわせたことが記される。おそらく第二十二巻では、足利方と脇屋義助との越前での戦闘が記されていたのだろう。【中略】ほかに、のちの伝承だが、『太平記評判秘伝理尽鈔』に「時に高徳入道義清、越前の合戦、義助の敗北、並びに尊氏・直義が一代の悪逆を記す。二十二の巻なり。然るを、後に武州入道(管領細川頼之)、無念の事に思ひて、一天下の内を尋ね求めて、これを焼失す」とある。後醍醐帝の死や、その後の南朝方の敗退をうけて、第二十二巻には、足利兄弟の奢りや「悪逆」も記されていたのだろうか。そのような第二十二巻が欠巻であるのは、たしかに足利政権の政治的な圧力を想像させる。なお、流布本などの第二十二巻を有する本は、第二十三巻以降の記事を順次繰り上げるなどして、第二十二巻の欠を形式的に補填している。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10409

と言われています。(兵藤校注『太平記(四)』、岩波文庫、p32)
『太平記評判秘伝理尽鈔』はあくまで近世の著作であって史料的価値は乏しく、細川頼之の経歴を見ても『太平記』のような文学・芸能への特別の接点も見出し難いので、まあ、細川頼之介入説は無理筋のような感じがします。
第二十二巻という位置を考えると、この巻は恵鎮上人から直義に提出された「原太平記」に含まれていると考えられるので、やはり同巻の欠落は直義の介入の結果と考えるのが自然ですね。
その内容が分からないので何ともいえませんが、あるいは直義を激怒させるような記述があって、この巻だけは絶対に許せん、全削除だ、みたいな明確な指示があったのかもしれません。

6988鈴木小太郎:2021/07/06(火) 11:51:43
「後醍醐の怨霊を慰めるという目的のもとに、直義の行状を意図的に描きあげる」(by 森茂暁氏)
森茂暁氏の「『太平記』と足利政権─足利直義の係わりを中心に」(長谷川端編『軍記文学研究叢書8 太平記の成立』、汲古書院、1998)を読んでみたところ、『太平記』が鎮魂の物語だと言い始めたのは、やはり五味文彦氏のようですね。
この論文は、

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一、はじめに
二、『太平記』と足利直義
三、直義による修訂とその後の改訂
四、後醍醐物語としての原『太平記』と恵鎮
五、おわりに
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と構成されていますが、第三節において、森氏は次のように書かれています。(p69以下)

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 『太平記』と足利直義の関係を論じる本稿では、直義没後の観応擾乱以降を扱う部分はひとまず考察の外におくことにしたいが、了俊のいう「近代」の改訂作業で、直義との関係において目を離せないのは、その改訂の手が直義修訂の『太平記』に及んでいるからである。近年、五味文彦氏は、
  『太平記』を二部構成でもって考えるならば、第一部は後醍醐の挙兵から天龍寺供養
  までの後醍醐の物語と見做せるのではないか。そして第二部はそれ以後に書き継がれ
  たもので、公武一統の歴史を描いたものといえよう。
との理解から、「『太平記』はもともとは後醍醐の霊を慰める物語としての性格をもっていたのではないか」と述べているが、これはたいへん魅力的な意見である。また松尾剛次氏も死者の鎮魂という視点をとりいれて、
  『太平記』は(中略)南北朝動乱で死んだ人々の鎮魂を第一義として中立的な立場で
  書かれた。しかし、足利直義の「検閲」を受け、また幕府に結集した武士たちの希望
  をいれるなどしたために室町幕府の神話としての機能も担うことになった書なのであ
  る。
と述べている。「室町幕府の神話」とは「室町幕府の成立と、それに結集した武士たちが自己あるいは先祖の存在とを納得するための神話」と説明されている。筆者もかつて
  『太平記』は軍記物語の形態をとりながら、実は、室町幕府政治の成立・展開の必然
  性を歴史のなかから解き明かし、幕府支配を合理化し、かつ正当化するというすぐれ
  て政治的な性格を合わせ持っている。
と述べたことがある。
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注を見ると、五味氏の見解の出典は「後醍醐の物語」(「国文学 解釈と教材の研究」三六巻二号、平成三年二月)であり、松尾氏の方は「『太平記』と恵鎮教団─鎌倉新仏教を見直す(1)」(「春秋」三三八 平成四年四月)ですから、五味氏の方が僅かに先行しているようです。
ま、五味氏は後醍醐の鎮魂、松尾氏はより広く「南北朝動乱で死んだ人々の鎮魂」ということで、内容に違いがありますから先後関係をあれこれ言う意味もあまりありませんが、いずれにせよ研究者が『太平記』が鎮魂の物語だ、などと言い始めたのは、『太平記』の長い研究史においては割と最近の話ですね。
さて、「『太平記』はもともとは後醍醐の霊を慰める物語としての性格をもっていたのではないか」という五味説を「たいへん魅力的な意見」と考える森氏は、直義の「検閲」があったにもかかわらず、現在残された『太平記』には直義があまり素晴らしい人物とは描かれていない点について、次のような見方をされています。(p70)

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 五味氏の見解のように、『太平記』を二部構成とみ、その第一部を後醍醐天皇の鎮魂を目的とした物語と読むと、「近代」の改訂『太平記』における足利直義の描かれ方は理解しやすくなる。結論からいうと、「近代」における改訂の力点の一つは、ことさら因果応報的な見地から後醍醐の怨霊を慰めるという目的のもとに、直義の行状を意図的に描きあげることではなかったか。
 暦応五年(<康永元>一三四二)春、後醍醐の怨霊が直義にとりついて直義を重病に陥れるという話が『太平記』巻二三に出てくる。直義の病気は結局光厳上皇が平癒を懇祈する願文を石清水八幡に納めることで治るのであるが、そこでの主目的は北朝の治天下光厳上皇の「聖徳」の強調の方にあったとみられる。
 改訂『太平記』は、足利直義の功績を顕彰しない。例えば、建武三年三月の筑前多々良浜の戦いで武家方が勝利をおさめたことについて、
  是全ク菊池〔武敏〕カ不覚ニモ非ス、又左馬頭〔直義〕ノ謀ニモヨラス、只将軍〔尊氏〕
  天下ノ主ト成リ給ヘキ過去ノ善因モヨヲシテ、霊神擁護ノ威ヲ加シカハ、此軍不慮ニ勝事
  ヲ得テ、九国中国悉ク一時ニ随ヒ靡ニケリ(巻第一五)
という具合に、わざわざ直義の策略によるのではないと特記している。直義の描かれ方で特に注意すべきは、後醍醐の皇子を殺害する役回りの多さである。直義が建武二年七月の中先代の乱のおり鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害させたことまで疑うわけではないが、延元三年恒良・成良の両親王を足利直義が「調進」した毒薬で殺害したと描く点は故意であるように思えてならない。現に成良はこの時殺害されたのではない。恒良の死については他に確たる史料がなく何ともいえないが疑わしい。うがった見方をすれば、改訂『太平記』は後醍醐の怨霊が直義にとりつく必然性をこうして作為し、物語の中で後醍醐の鎮魂という方向で直義にふるまわせた可能性なしとしない。
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うーむ。
「直義の描かれ方で特に注意すべきは、後醍醐の皇子を殺害する役回りの多さ」ですが、護良親王についてはともかく、「恒良・成良の両親王を足利直義が「調進」した毒薬で殺害したと描く点」は『太平記』の創作だろうという森氏の考え方に私も賛成です。

四月初めの中間整理(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10651
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10524
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10525
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10526

ただ、それが「改訂『太平記』は後醍醐の怨霊が直義にとりつく必然性をこうして作為し、物語の中で後醍醐の鎮魂という方向で直義にふるまわせた可能性なしとしない」となると、あまりに不自然な「うがった見方」のように思われます。
そもそも第三十四巻「吉野の御廟神霊の事」などでは後醍醐の「怨霊」はかなりコミカルな描き方をされていて、作者に本当に真摯な「鎮魂」の気持ちがあったかは疑わしいですね。

松尾著(その3)「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10721
松尾著(その4)「この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10722
松尾著(その5)「後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10723

この後、森氏の思索は更に深遠な方向に向かっているように思われますが、少し長くなったので、その紹介は後で行います。

6989鈴木小太郎:2021/07/07(水) 12:02:43
「次には『太平記』の世界で、身をもって後醍醐天皇の魂を慰める役割を背負わされた」(by 森茂暁氏)
森茂暁氏は「一、はじめに」において、

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 これも周知のことだが、直義は尊氏派勢力と激しい戦いを交えたすえ、尊氏によって殺害されたとされている(観応の擾乱)。『太平記』は南北朝の動乱の進展と並行してしかも長い時間をかけて制作されたので、最終的に出来上がるまでに幕府中枢のその時々の政治的な力関係の変動に伴い、さまざまな書き替えがなされたことは十分予想できる。直義についての記述も失脚の後に書き替えられた可能性は高い。そのような状況であるから、ある時点で『太平記』にどのように記述されていたかを知るのは不可能というほかない。しかし、今に伝えられている『太平記』諸本において、書き替えられた可能性の高い個所を比較検討することによって、もとはどのようであったかを考える手掛かりは得られよう。本稿が注目するのは、そのような視点からの『太平記』と足利直義の関係である。
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と書かれていて(p62)、「書き替えられた可能性の高い個所を比較検討することによって、もとはどのようであったかを考える手掛かりは得られよう」という発想には私も基本的に賛成です。
そして、「二、『太平記』と足利直義」において、森氏は『難太平記』の『太平記』関係記事を整理した後で、

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この原『太平記』にどのような内容がどのような表現でもって盛り込まれていたかを知るすべはない。しかし、右の「難太平記」の記事を読む限りでは、この原『太平記』が足利直義やその他幕府関係者の要請を受けて制作された気配はない。原『太平記』はもともと幕府とさして関係のない場で制作が始まったと考えてよいのではないか。その製作の場としては、天台律の宗教的系譜をもつ法勝寺の恵鎮を中心とする教団であったという意見があるが、これは説得的である。
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と書かれていて(p65)、「その製作の場としては、天台律の宗教的系譜をもつ法勝寺の恵鎮を中心とする教団であったという意見」、即ち松尾剛次説には若干の留保が必要ではないかと私は考えますが、しかし、「原『太平記』はもともと幕府とさして関係のない場で制作が始まったと考えてよい」という森説には私も賛成です。
そして私は、『太平記』を『太平記』たらしめている最も核心的な要素はコメディ、特にスラップスティックコメディと狂歌であって、『太平記』の作者は反骨と諧謔の精神に満ち溢れた人たちだと思っており、このような私の立場からは、現在の『太平記』に描かれた直義があまり立派な人間として描かれていない理由は実に簡単であって、それは直義の権力的介入を極めて不快に思った『太平記』の作者たちによる直義への報復ですね。
直義が死んで、その後も南朝を交えた三つ巴の政治的・軍事的大混乱が続いて権力の空白が生まれ、『太平記』への権力的介入がなくなったのをよいことに、『太平記』の作者たちは持ち前の反骨と諧謔の精神を発揮して好きなことを書き、特に直義については、うるせー奴が死んでさっぱりしたぜ、という気持ちで、誹謗中傷に近い記事も適当に創作したのだろうと思います。
もちろん私は「原太平記」が後醍醐の鎮魂の物語であった、などとは全然考えないので、以上のような素直な結論になるのですが、森氏の考え方は複雑に屈折しています。
即ち、「うがった見方をすれば、改訂『太平記』は後醍醐の怨霊が直義にとりつく必然性をこうして作為し、物語の中で後醍醐の鎮魂という方向で直義にふるまわせた可能性なしとしない」の後、森氏は次のように続けます。(p71)

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 この方向性は西源院本などの古態本よりも、慶長八年古活字本などの流布本系において一層顕著となる。流布本の例を一二あげると、
  (恒良・成良両親王毒殺の最期に)カクツラクアタリ給ヘル直義朝臣ノ行末、イカナラント思ハヌ人モ
  無リケルガ、果シテ毒害セラレ給フ事コソ不思議ナレ、
  (直義の生涯を総括する形で)サテモ此禅門〔直義〕ハ、随分政道ヲモ心ニカケ、仁義ヲモ存給シガ、
  加様ニ自滅シ給フ事、何ナル罪ノ報ゾト案ズレバ、此禅門依被申、将軍〔尊氏〕鎌倉ニテ偽テ一紙ノ
  告文ヲ残サレシ故ニ其御罰ニテ、御兄弟ノ中モ悪ク成給テ、終ニ失給歟、又大塔宮〔護良親王〕ヲ
  奉殺、将軍宮〔成良親王〕ヲ毒害シ給事、此人ノ御態ナレバ、其御憤深シテ、如此亡給フ歟、
などという記事が新たに付加されている。これは『太平記』がもともとそのような素地をもっているためとみたい。このようにみてくると『太平記』の構想というものがわかってくるし、同時に直義についての叙述は、そのままの形で信用するわけにはゆかないこともわかる。
 ようするに、原『太平記』を修訂した足利直義は、観応の擾乱に敗北して最終的には毒殺されたが、しかし、室町幕府草創期において二頭政治の片方を担い、幕府政治史にじつに大きな足跡を残した直義の役割はこれで終わったのではなかった。次には『太平記』の世界で、身をもって後醍醐天皇の魂を慰める役割を背負わされたのである。後醍醐を鎮魂する物語、いいかえれば後醍醐の怨霊を封じ込める物語は、そのまま室町幕府成立の物語へと昇華する性質のものだった。その意味で、『太平記』を二部構成でみる場合、後醍醐物語を内容とする第一部は、室町幕府の確立の物語である第二部と調和こそすれ、決して齟齬したり矛盾したりすることはないのである。
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うーむ。
正直、私には森氏の言われることがあまり理解できないのですが、感想は次の投稿で書きます。




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