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邪馬台国畿内(纏向)説

1名無しさん:2022/04/28(木) 12:35:50
邪馬台国畿内説の王道というべき、大和纏向説のスレです。

複数の学者が支持しているようですが、はたして箸墓古墳は卑弥呼の墓なのか。

ゆっくりと議論を進めてくだされば幸いです。

2名無しさん:2022/04/28(木) 13:39:30
纏向説者の「要旨」です

 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

3名無しさん:2022/04/28(木) 13:45:18
>>2の要旨に反論しておきます。

> 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。

なぜ纒向遺跡の発掘状況等から各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性と考えられるのかが分からない。
箸墓古墳がモモソヒメの墓という日本書紀の記述がベースにあるのだろうが、
それなら被葬者をモモソヒメとすればよい。

しかし彼女は4世紀の崇神の時代まで生きている。
その時点で247あるいは248年に死んだ卑弥呼ではない。


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