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匿名「PostingJoy」板
12
:
曳馬野
:2017/02/03(金) 10:32:20
今日は節分ですが、『愛と光との生活』(谷口雅春先生著)では、「節分とは『悔改めの日』であります」と定義された上で、「鬼は外」と言って自分の年の数だけ豆まきをする意義について、次のように説いておられます。
「これは時間空間の相対的計数の世界を捨ててしまって、無時間無空間の一点の世界に立ち永遠に老いないところの金剛不壊の自分にまで『我を置換え』、悔改めるところの行事、これが追儺(ついな)の行事であります」
つまり、この行事には「相対時間」の鬼がやってきて「お前は何十歳であるから、もう間もなく死ぬぞ」と「朽ち果つべき人間」であることを強調するのに対して、そんな「相対時間」で数えるような年齢を豆と共に悉く投げ捨ててしまって「『無原罪の受胎』せるもの、『神聖受胎の神の子』なるもの、永遠に生きて老いないところのもの、死なないものが人間であると云う自覚にまで生れ変って、墓穴の方から出て来ている死魔、即ち『鬼』を追い払ってしまえと云うことを、形に現してする・・意味があるそうです。
また、この鬼の姿は「執著」と云うものが人格化したものであり、鬼を追い出すために握っていた豆を捨てるということは、「執著」を捨てることであると教示されています。
「豆ばかり抛(な)げて見ても『握った我』と云うものを抛げ棄てなければ駄目であります。執著している姿そのものが鬼の姿であります。執著していたら喧嘩をします。角を生やし、角を突き合わして、鬼見たいな顔をして真赤になったり、真青になったりして畏れるのであります。そう云うように執著している姿がそれが鬼の姿であります」
「何でも執著したら、その姿が鬼の姿、悪魔の姿であります。生長の家は『ねばならぬ』を解放する宗教だと云う風に説かれて居りますが、『是非こうせねばならぬ』と把んでいるところを解放した時に、吾々はそのまま自由自在な天国浄土に生れると云うことになるのであります」
https://www.facebook.com/takashi.watanabe.1447?hc_ref=NEWSFEED
より
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