したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

活動姿勢の反省

1甘酒★:2017/05/29(月) 21:41:19
「殆ど喧嘩の起こらない場」というのに、僕は何度も立ち会ったことがある。例えば、皆が無言で居る場。誰も喋らないのだから、そこには対立する契機となるものが一切存在しない。皆が消極的ないし外発的な態度—意見が出るまで待つ姿勢—であると、ついに喧嘩は起こらない。結局、誰かがその静寂をぶち壊さない限り、時間はずっと止まったままなのだ。これは、各員が皆、「誰かがやってくれる」とか「別に自分は参加しなくてもいいや」なんていう生ぬるい心持ちでいるために生じる出来事だ。
また、ある一人が勇気を持って、内発的に意見を発信したとしても、周囲がそれに対して興味・関心をもち、積極的に批判しなければ、対立は起きない。意見と意見との衝突(=対立)、またその関係の白熱化をもって、喧嘩は成立する。であれば、ただ、意見1つが出ただけでは、喧嘩は起こらない。その意見に対して、別の誰かが反対意見をぶつけてやっと喧嘩が始まるのである。
こんな簡単なことなのに、最近の喧嘩イベや喧嘩パで喧嘩があまり起こらないのは、もちろん、成員の多くに「内発的な意見発信」と「積極的な意見批判」の2つの重要な姿勢が欠けているからだ。
正直、誰々は喧嘩が強いだとか弱いだとか、もうそんなことを語り合ってる場合ではない。そのような評価活動ばかりが先行して、大元の「喧嘩活動」が蔑ろにされては本末転倒というもの。各員は「喧嘩エリアで中々喧嘩が起きない」という現実に対し、もっと大きな危機感を持って、自らの活動姿勢を見直していく必要があるのではないだろうか。

2Aftermath★:2017/05/29(月) 23:50:09
貴殿の仰る「喧嘩」なるものの内容がいまいち掴めません。
【喧嘩する人に対する評価活動の語り合い】が先行されているようですが、これは「喧嘩活動の一環」として認められる行為ではないのでしょうか。
と言いますのも、観察者が対象を評価し、それを語り合うことは、貴殿が重要な姿勢として挙げられた「内発的な意見発信」「積極的な意見批判」の存在を示しているようにしか思えません。
私は喧嘩界隈で誰かと深く議論した覚えはありませんので、果たして上記の例が貴殿の主張する「喧嘩」に該当するかは不明瞭であります。
しかしながら、この例の持つ形式が「議論」のそれと共通している部分が存在するのは見逃すことのできないことであります。
一つの「喧嘩スタイル」の終わりを迎え、新たな「喧嘩スタイル」の門出であるだけだと思われます。
慣習的であった内容を遺したい意志はわかりますが、新たな世代の芽を潰すような、そんな固定観念にとらわれて批判をするよりかは、新たな形式に対する寛容性も大事になってくると思います。

3甘酒★:2017/05/30(火) 08:02:41
>>2
たしかに、喧嘩師に対する評価的議論は、対立構造を成す(ようにみえる)場合がある。しかし、このような議論さえも喧嘩の1つであるという意見にはいささか疑念がある。
そもそも、評価者は、【どのような基準】で、誰々が強いだとか弱いだとかを判断しているのか。勝ち星の数?勝率?序列化によって?まず、このような議論で、判断基準が明確になることはあまりない。例えば、AさんとBさんとで、CさんとDさんとの喧嘩の強さを評価する。Aは「CはDより強い」、Bは「CはDより弱い」という。一見、AとBとは対立しているかのように見えるが、両者の間に、【一定の判断基準】が共有・了解されていなければ、本当の意味で対立しているとは言えない。例えば、上記の例で、Aは【勝ち星の数;基準Xとする】で、Bは【感覚的に分かるその人の能力(言語力、論理力等);基準Yとする】で、CとDとを比較したとする。Cは、基準Yにおいて、Dより能力的に劣っていたとしても、自分より能力的に劣っている相手—いわゆる雑魚—にたくさんの勝ち星をあげていれば、基準Xにおいて、Dより優っている場合がある。この場合、基準Xにおいて、「CはDより強い」となるが、基準Yにおいては、「CはDより弱い」となる。まず、評価者の間で、各人の評価基準が明確かつ共有された状態でなければ、同じ土俵の上で対立しているかどうか疑わしい。それでは、ちゃんとした議論ないし喧嘩とは言えないわけだ。
そして、基準Yのような量的でない変数を扱う場合は、評価者は、対象を"主観"で判断することとなる。当然、客観性を失った議論というのは、まともな議論ではない。
実際に、僕が見かけた評価活動のほとんどの議論は、上の2種(①評価基準が不明瞭な場合②評価基準が量的でない変数を扱う場合)に当てはまる。もし、このような活動のことを「喧嘩活動の一環」というふうに捉えているなら、それは間違いなので、改め直したほうがいい。だからこれを「新しい風潮だ」とも捉えて欲しくない。単なる履き違えから始まる流れに乗らないこと。
あとそれと、このような適当な議論の場合で、「内発的な意見発信」こそ出来ていても、「積極的な意見"批判"」まで出来ている者はまずいない。土俵(基準)が不明瞭、もしくは主観的な意見であることを「批判」とは言わないからだ。
大体、喧嘩の強さの議論において、精緻かつ妥当な評価を与えられる者はそういない。(というか見かけたことがない。)結局みんな【フィーリング】で判断しちゃってるのが事実。そんな適当な議論は本当の意味で議論とは言わないし、喧嘩とも言わない。評価者も、僕の挙げた2つの重要な姿勢を満たしていない。
以上をもって、評価活動を喧嘩活動の一環とする意見、このような活動の中に「積極的な意見批判」があるとする意見は間違いである。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板