[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
「アメリカ」ウォッチスレッド
357
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2015/11/05(木) 04:17:07
873 :世界@名無史さん:2015/10/09(金) 21:40:38.16 0.net
http://japan4war.blog.fc2.com/blog-entry-1981.html
米比戦争
過小に報告された虐殺者数は米上院報告書で20万人。
病死まで含め60万6千人。これは軍人の数字です。
実際は、文民が外されており、文民の虐殺はなんと150万人。
サマール島バランギガの虐殺
米軍のアーサー・マッカーサー司令官配下の指揮官ウォーラー少佐は
「10歳以上の者は皆殺し」命令を出し実行した。(やらせ軍法会議で無罪判決)
ことの起こり
1899年1月21日、フィリピン第一共和国が建国される。
1899年2月4日、サン・フアン・デル・モンテの橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされる
フィリピン兵が射殺された。
近年フィリピンが行った調査では、事件の現場は、現在のマニラ市内のソシエゴ通り
であったとしている。
1901年9月6日、マッキンリー大統領暗殺事件が発生。
1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺が発生。
サマール島バランギガに駐屯していた38人の米兵が殺された報復として
少なくとも10万人は殺されたと推定されている。
命令は、「捕虜にするな皆殺しにしろ、住居は全て焼き払って一面焼け野原の荒野にしろ」
というものだった。
1902年7月終戦まで、フィリピン人を軍・民合わせて170万人以上虐殺したと推定されている。
1898年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮したアメリカ軍の
将軍30人のうち26人は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板