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「加藤三郎」と「太田竜」メモ
1
:
カマヤン
:2004/07/05(月) 00:57
「極左からオカルトへ」、の例としての「加藤三郎」と「太田竜」
情報を、ざっと集めてみます。
2
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/07/05(月) 00:57
http://www.linelabo.com/bk/1999/bk9904b.htm
黒川創『リアリティ・カーブ』1994年8月、岩波書店。
黒川は東アジア反日武装戦線の「主張に共感しながら武装闘争一辺倒の戦術には強い違和感を抱き」
やがて「爆弾闘争」へ進んだ加藤三郎について書いている。
【加藤三郎は、ある夏の日、拘置所の独房で辞書を引いて、お盆(盂蘭盆)とはサンスクリットのullambana、
〝甚だしい苦しみ〟との意味であることを知る。そして、彼の身辺(心理的な意味)で死んでいった人々も、
また〝甚だしい苦しみ〟を味わっていただろうと考える。「一九七五年五月十九日、あの東アジア反日
武装戦線の人々の逮捕のときに、青酸カリ入りのカプセルを飲んでよだれを垂らしながら苦悶のうちに
死んでいった斎藤和。その後一週間ほどして東北線の電車の便所の窓から飛び降り自殺し(…)顔面も
識別がつきかねるほどに損傷していたという荒井なほ子。そして六月十三日には、長野県中野市の自宅
近くの林道で乗用車の中に排ガスを引き込んで、『とうちゃん、かあちゃん、許して下さい』という遺書を残して
自殺していった藤沢義美。そしてさらには六月二十五日、東アジア反日武装戦線への支持を表明しつつ、
皇太子の沖縄訪問に抗議して、ガソリンをかぶり自ら火を放って焼身自殺を遂げた船本洲治。」……
そして自分も、「独り孤独な闘い」の中で、その先には「死ぬことだけ」しか考えられない日々を生きていた
のだと加藤は書く。(…)〝甚だしい苦しみ〟は癒されなければならない。だが、そのためには、ふたたび
自己幻滅の〝甚だしい苦しみ〟をくぐり抜けて戻ってこなければならないと、彼は言うのだ。そして、そこ
には、じりじりと灼きつくような記憶の蘇生とともに、いっさいの感傷を凍てつかせてしまうような氷点下の
世界が、互いに層をなしながら、待ち受けていたのではないだろうか。】
黒川創『リアリティ・カーブ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000024590/qid=1088953428/250-1343893-9159415
『意見書 --大地の豚からあなたへ』
[1992年1月/B6H/352頁/\2,700+135] 著=加藤三郎 発=思想の科学社
「世界革命戦線・大地の豚」を名乗り、連続爆弾闘争を行った著者による「意見書」。
http://share.dip.jp/hannichi/cm/mosaku0107.htm
3
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・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/07/05(月) 00:58
http://plaza.rakuten.co.jp/ssbdeva/5001
加藤三郎さんの再出発に寄せて 10月6日(月)
10月6日朝日新聞の夕刊に【加藤三郎】の「やり直す、ということ 春から秋へ 懲役18年の刑期を終えて」
が掲載されていた。もうあれから18年たち、出所したのか・・・。と思った。
彼が爆弾闘争から足を洗い、過去を隠して逃亡生活をしていたころ、僕は京都のラジニーシ瞑想センター
で彼と知り合った。彼はラジニーシからもらった名前であるデヴァムを名乗っていた。もちろん僕は爆弾闘争
のことなどは全く知らなかった。
彼はジョン・レノンに似た風貌、繊細で女性的なエネルギーの人だった。(後になってから見た指名手配の
写真とはまるでバイブレーションが違っていた。)わけあって、僕が激しく落ち込んでいたとき、彼が自発的
にエナジーヒーリングをしてくれたことがあった。やさしいタッチだった。悲しみが鬱積していた僕は、彼に
触られながら号泣してしまった。
それから一年ぐらいしたころだったか、「デヴァムが逮捕された」と聞いた。瞑想センターのテレビでみんな
と一緒にニュース映像を食い入るように見た。テレビカメラの向こう、デヴァムは胸にラジニーシの写真いり
のロケット(マーラという)を下げ、合掌しながら警察署に入っていった。
瞑想センターにもテレビカメラが入ってきて、僕はライトの当たらない位置に退散したが、リーダー格の
年配の人たちが、デヴァムにかんするインタビューに応えていた。
拘置所のデヴァムは、平安神宮放火、神社本庁、東本願寺等の爆弾闘争は、どこがなぜ間違っていたか
について、長い文章を書いた。カーボンでたった数枚だけコピーできたそのうちの一部を、なんと僕に送って
くれた。
僕はそれをまたコピーして、デヴァムの指定した友人などに転送した。彼の書いたものからはいろいろな
ことを考えさせれた。後にその一部は書き直されて雑誌「思想の科学」に掲載され、「意見書」というタイトル
の書物としても発表された。
僕はデヴァムの書いたものの感想を書いて拘置所に送り、さらに一度だけ東京拘置所に面会に行った。
(待合室で三浦和義の奥さんに会ったのを覚えている)。拘置所のガラス越しに、今の教育のことなどを
話した。僕らが話していることはすべて係員の方がメモしていた・・・。そのあと、デヴァムは刑が確定して
刑務所に移り、家族以外は手紙のやり取りもできないようになった。
4
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・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/07/05(月) 00:58
http://plaza.rakuten.co.jp/ssbdeva/5001
それから何年かしてから、東本願寺に勤める友人から「アイヌと共に歩む宗教者の会」の集会案内が来た。
発会の趣旨には、加藤三郎が東本願寺本堂爆破で訴えたかったことに応えたいと書かれていた。
自分たちの聖域が爆破されたのに?(人のいない時を見計らった犯行で、怪我人はなく、床に穴が空いた
だけではあるが・・・。)つまり、僕にしてみれば、爆破したほうも、爆破されたほうも友人で、しかも爆破
されたほうは、爆破したほうの意図に応えたいというのだから、これはなんだかとても凄まじいことのように
思えた。この「アイヌとともに・・・」の会は、浄土真宗のアイヌ差別の歴史を自ら掘り起こし、アイヌの人たち
と交流する活動を続けており、僕も多くのことを学んだ。
今回の朝日新聞のエッセイもそうだが、加藤三郎の文章はいつのころからか、何を論じるにもその背景
に自然に対する眼差しが感じられるものとなっている。
その文章はこう結ばれている。
「こんな野山の窓辺にも、この間、中東戦争とその地のその後の様子、自爆テロのニュースだとかが入って
くる。そのたびにその犠牲者たちに対して、また、過去の自分とも似たテロの実行者の死に対しても心が
痛むのを感じてきた。四半世紀の間に、世界も私もそれぞれ変わった。相互破壊から共生に、世界の流れ
は遅々として進まない。これまでの自分の過ちへの反省・洞察から得たものを糧に、この流れに、ささやか
なりとも寄与できればと思う。それが罪の償いにもなり、私の喜びにもなるから。」
僕は彼の反省よりもむしろ彼の洞察が重要な気がする。その洞察は憎しみの連鎖を止めることができる
だろうか。・・・人類はテロリズムを超えることができるだろうか。・・・ひとつだけ、はっきり言えることは、
「テロリズムとは超えられなければならない何か」なのだ。けっして、抑えつけられなければならないもの
でもなく、抑え切ることができるものでもないのだ。なぜなら、その抑えこそが、新たなテロリズムを誘発
するのだから。抑えるための攻撃そのものが、相手方から見ると、いつもテロリズムなのだから。
・・・僕はそう思う。
5
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:2004/07/05(月) 00:58
http://plaza.rakuten.co.jp/vijay/26000
「意見書ー大地の豚からあなたへ(思想の科学社、1992・1/25発行)
この本は私が1983年に警視庁に逮捕された後、裁判所に提出した意見書や、1986年から89年頃に
かけて雑誌思想の科学などに掲載された私のエッセイ、評論などを編修して発行されたものです。私が
なぜあのような事件を犯したか、その誤りをどのように見つめなおしてきたかとといったことを、かなり詳しく
書いたものです。ぜひ1人でも多くの人に読んでいただけたらと思っています。
「(朝日新聞掲載)
やり直す、ということ 懲役18年の刑期を終えて 加藤三郎
2003年10月06日 夕刊 004ページ 文化
雨が小降りになっている。
以前、家が天理教の教会を営んでいた頃、教会の居間だった、今私が寝起きしている部屋の障子を
開けると、その南に面した庭には、荒涼とした光景が広がっている。
伸びるにまかせていた桐(きり)の木を、この二月中頃に切り倒した。その幹と枝が、庭を蔽(おお)って
いる。その左側には天井が腐り抜け落ちていた井戸の、私が応急処置的に水色のシートを掛けた屋根が
見える。その北側にはひさしの落ちかけた蔵があり、蔵のまわりにはこれまた壊れかけた木の食卓、
ポリバケツなどが、転がっている。
その庭が、早春の冷たい雨に濡(ぬ)れている。
二十年近くにわたる拘禁・服役の生活を終えて、昨年十二月十日に熊本刑務所を出所した私は、出所
の挨拶(あいさつ)回りなどの旅の後、その月二十八日に故郷の生家に帰った。指名手配後の七年間の
生活から、ほぼ二十七年ぶりの帰郷だった。
建物の内部も荒れ果てていた。全(すべ)ての部屋に空き瓶・空き缶・ペットボトル、インスタント食品の
容器、チリ紙、新聞・衣類などが、何の脈絡もなく散らかり、山積みになっていた。
そんな光景を目にして、しばらく茫然(ぼうぜん)とした。私にとってもそれは想像を絶するものだった。
それは私に、こう感じられた。私が七〇年代の後半に急進左翼の一員として、爆弾闘争を志向する中で
警察の指名手配を受けて以後、残された家族が負わねばならなかった社会的な孤立や、同時に父母が
老衰してゆく時期だったことからくる困難、また兄が精神病院への入退院を繰り返し、妹も心を病んで
通院していたりしたことなどからくる困難、苦痛。そうしたものが全て、そこにあると。
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:2004/07/05(月) 00:59
http://plaza.rakuten.co.jp/vijay/26000
生家には一度立ち寄ってみるものの、その地は過疎化していてひどく不便だから、東京か大阪で出所後
の生活を立ち上げてゆこうと考えていた。しかし、この家の荒廃を目にして、気持ちが変わった。これを
放置して都会の生活に入ってゆくのは、虫がよすぎる気がしたのだ。
その後、何とか清掃・整理・修理を行っていって、この三月のはじめになって、やっと元教会の方をある
程度生活できる状態にした。
そんな私の姿を毎日のように目にしているためか、近所の里人たちも、野菜や米、夕食や衣類といった
ものを、しばしば差し入れしてくれるようになった。そして近所で出会うと、「お前はようやる」といった温かい
言葉をかけてくれる。出所してきたばかりの私に、里の人たちは冷たい視線や態度を差し向けることなく、
まるで自らの子供をいたわるような気持ちで、以前より深みのある友情をもって、接してくれている。
文字通り、有り難いことだとしか言いようがない。
*
ここまで書いてから半年ほどが経(た)った。出所後二カ月目くらいから、生活の糧を稼ぐために、友人
の勧めで山菜やしきみなどを近くの野山で採取してきて、道の駅などに出荷する仕事についた。仕事は
ハードだが、山菜など採取しながらふと手を休めて、草花を見つめ、野山の静けさに耳を傾け、ヒグラシ
の合唱に身を浸す。そんなときに感じる、深い歓(よろこ)びは、何ものにも代え難い。
いつのまにか、春が秋になり、二十世紀が二十一世紀になっている。こんな野山の窓辺にも、この間、
中東戦争とその地のその後の様子、自爆テロのニュースだとかが入ってくる。そのたびにその犠牲者
たちに対して、また、過去の自分とも似たテロの実行者の死に対しても、心が痛むのを感じてきた。
四半世紀の間に、世界も私もそれぞれ変わった。相互破壊から共生に、世界の流れは遅々として
進まない。これまでの自分の過ちへの反省・洞察から得たものを糧に、この流れに、ささやかなりとも
寄与できればと思う。それが罪の償いにもなり、私の喜びにもなるから。」
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:2004/07/05(月) 00:59
http://plaza.rakuten.co.jp/vijay/26000
◇「大地の豚」から四半世紀 加藤典洋
加藤三郎氏は、一九四八年岐阜県加茂郡に生まれ、ベ平連、コンミューン運動、在日韓国人支援運動
などを経て、七六年から七七年にかけ、「世界革命戦線・大地の豚」などを名乗り、一人で平安神宮放火
のほか、東大法文一号館、神社本庁など六件の連続爆弾闘争を行った。指名手配されながら六年もの間、
逃亡し、八三年に逮捕されたときには瞑想(めいそう)集団のメンバーとなっていて、世間を驚かせた。
一連の事件で負傷者が十数名出ており、主に平安神宮放火が現住放火と認定されたことから懲役
十八年の判決を受けた。わたしは、事件当時、犯行声明に「大地の牙」ならぬ「大地の豚」を名乗るその
身振りに、いったいどのような人間なのかと関心を抱いたが、裁判の記事が朝日新聞に載った際、
「闇を追い出そうとすれば闇はますます強大になる。ほんの小さな光をともしさえすればよい」という言葉
をあげているのを読み、面白いと思った。
その後、文通をはじめ、ほぼ八〇年代の半ば以降、何人かの友人とともに、氏とつきあってきた。
氏の七〇年代から八〇年代にいたる動きには、オウム真理教から中東の自爆テロにいたる社会の動きを、
予言するものがあったと、考える。氏は、八八年には論考とエッセイで思想の科学賞を受賞、九二年、
『意見書』を同社より刊行している。(文芸評論家)
8
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:2004/07/05(月) 00:59
http://plaza.rakuten.co.jp/ssbdeva/
私はsb−野の花・野の豚、戸籍上の名前は加藤三郎、和尚の弟子・道ずれとしての名前はスワミ・
プレム・デヴァムという者です。岐阜県加茂郡七宗町神渕という片田舎で、「天地共生・野の花社」という、
自己洞察・共感・共生の深化、豊饒化のための活動の場を開設しています。原則として毎日午後7時30分
から1時間のダンスを含んだ瞑想法を行っています。(もう3月頃からほとんど瞑想はやっていません。
仕事が忙しいことなどがあり)仕事の都合などで休むこともありますが。その他に出来るかぎりの人々との、
自己洞察や対人関係上の問題などに関する話し合い、対話を行うといった活動をしています。もっとも今の
ところ瞑想法の時間には私以外はだれも参加していません。ニコニコ。
私がこのような場を開設する気持ちになったのは、プロヒールなどでも明らかにしているように、私は27年
程前に急進左翼の一員として、反日・反天皇制、共生社会の創造などを目的に、10件ほどの放火・爆破
事件を引き起こした後、その中にあった深い誤りに気ずき、その後も数え切れないほどの誤りを犯してきた、
そしてそのことに気ずいてきたといったことがあったからです。そうした過程で私は私自身がそうだったよう
に、他の多くの人々もまた、自分自身を深く見つめるということをしていないために、深い困難や苦しみに
直面し、またそうしたことが複雑に絡み合って社会的な悲惨な状況が生まれているとも考えるようになった
からです。
もちろん自分を見つめる、自己洞察を深めるということが、私自身の日々の生活をくつろいだささやかな
喜びがいつもあるものにしてくれているということもあります。だから苦しみや困難に直面している他の人々
も、自己洞察を深めることでそれをのり越える事が出来るのではないか、といった思いや、くつろいだ喜び
のある生活が出来るようになってほしいと願っているということもあります。
もっとも私は過去に犯した犯罪によって、10人以上の人々を傷つけ、人々が大切にしていた建物、
財産を破壊した人間であり、かつそれに対す損害賠償も一人を除いて全くしていない人間です。
そのような私が上記のようなことをいう事に対して、不快に思う人々も多々おられると思います。
そのような人々の私に対する批判は甘受します。こうした私の生き方を変える事はしませんが。
最後になりましたが、こうした場を借りていうことが適切かどうか判断しかねるところもありつつ、しかし
自分の気持ちを公的な場で明らかにすることが困難な個人として、改めて私の事件の被害者の皆さんに
対して深い謝罪の意を表明します。どうも本当に申し訳ありませんでした。
9
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:2004/07/05(月) 01:00
http://plaza.rakuten.co.jp/ssbdeva/
(以下の文章は2004年2月13日の日記を修正しはりつけたものです。)
わたしを匿ってくれた人々への謝罪
私はこのホームページの冒頭で、過去の私の引き起こした事件で傷ついた人々に対し、謝罪しているが
そうした人々以外にも、深く謝罪しなければならない人々がいる。これまで私はそうした人々に対し、
おざなりな謝罪をしているだけなので(1審の裁判に提出した「意見書」の最後で)、やはりこんな場で
そうするのが適切かどうかわからないが、直接会ってそうすることにも様々な困難があり、この場を借りて
そうしておきたい。
私は1978年1月1日に誤爆事件を引き起こし、当時親しくしていたKさんという女性とその現場を立ち
去り、2度目の逃亡生活に入っていった。しかし私は組織的な支えなど持っていなかったから、ただぶっつけ
本番に以前知り合っていた人々の所に、転がり込むような形でしか、逃亡生活をすることができなかった。
そのような形で私たちは東京、京都、名古屋などの知人の所に転がり込み、何日かあるいは何ヶ月も
匿ってもらったりした。そしてそれ以外にも多くの援助を受けた。そんな支えがあったからからこそ、私と
Kさんは落ち着いてお互いの過去の人間関係について率直に話し合ったりすることができた。それにより
当時ひどく心身の衰弱していたkさんが、急激に健康を回復し、そのことに心を動かされて私は心理学に
傾倒し、まもなく自分の誤りを自覚するようになった。そうした意味で私にとって当時私を匿ってくれた人々
は、どれだけ感謝してもし足りないくらいの人たちだった。逮捕される以前に私はそのように感じていた。
それなのに1983年5月に逮捕されたさいの、警視庁での取調べのさい、私は彼らのことを検事に自供
してしまった。私がそうしたのは、共に逮捕されたkさんが彼らのことを自供している調書をその前に
見せられ、そこまでわかっているのならある程度私が自供しても特に問題はないだろうと考えてしまった
からだ。
しかしことはそういう問題ではなかったのだ。たとえ私が自供しなくても、捜査状況にたいした違いは
なかったにしろ、それは匿ってくれた人々との関係で人間としての深みにある何かを、破壊してしまう
ようなことだったのだ。そのようなことをその自供をしているとき少し感じていた気がする。しかし私は
自供してしまったのだ。自供したら楽になるようなことでもなかったのに。
ともあれあのような自供をしたこと 、そしてそうした人々の多くが捜査の対象となり ある人は逮捕され、
職も奪われるというような状況を作ってしまったことを深くお詫びします。本当に申し訳ありませんでした。
最近ある人にそのことをしてきされ、そのことを強く自覚しました。逮捕された人が警視庁で、刑事から
私が自供した文章を見せられたとき、彼がどんなにいやな気持ちになったかなどということを、これまでの
私は深く自覚していなかったと思います。それを克服するほんの1歩としても、ここでそのことに触れました。
10
:
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:2004/07/05(月) 01:00
http://www.okutei.net/okutei2/x'mas
2.htm
●加藤三郎氏の『死者と残された者との間を架橋するために』(「思想の科学」88年4・5月号連載)を
読んで [1988年7月記]
加藤三郎氏は、爆弾闘争の渦中に在った自身の心象証風景をまず
…絶望感はそこにまぎれもなく漂ってはいても
と語った上で、そのような絶望感の中で爆弾闘争を遂行することは
“今ここ” での生を限りなく抑圧する
ことであり
極端な自己抑圧なしには闘えなかった私のかつての在り方
には
『大東亜戦争』当時の特攻隊員の心情や企業戦士の妻達の「苦しみ」と通底するものがある
としています。
「そこに漂っていた絶望感」には私にも思い当たることがあります。しかし以後の話の進め方には、
私の場合と随分違うなと思いました。
まず、その「絶望感」ですが、71年10月23日の連続交番爆破闘争の後、爆破の成功や闘争全体の成功
にもかかわらず、1人になった時など体の中を隙間風が吹き抜けるとでも言えばいいような感じに襲われ
ました。爆弾閲争をやっている訳だから、爆弾を仕掛けたり爆弾を製造する過程ではそれ相応の
リアリティーと緊張を覚えます。しかし確かに緊張感は在るのだけれども、手応えというか自分の存在感
のようなものは実感出来ない、全共闘運動の中で味わった震えるような存在感がまるで感じられないのです。
そう言えば、当時見た映画「ライアンの娘」に登場する英軍将校が漂わせていた虚無感が実に良く伝わって
きたのを覚えている。アイルランド独立派に届くはずの武器弾薬が悪天候のため海岸に打ち上げられ、
それを部下を使って回収した後、1人現場に残り近くに転がっていた信管を手に取って弄ぶようにするが、
次の瞬間ふとあることに気付いてその手を止め信管を凝視するシーンがあった。
話を戻すと、私が参画した爆弾闘争には、このような手応えの無さというか、空疎な感じが付きまとうため、
今でも積極的に評価出来ないでいます。そんなこともあって加藤氏のこの文章を読んだ時は彼にも同じ
ような思いがあったのか、と納得しつつもちょっとがっかりしたような感じも持ったのでした。
11
:
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:2004/07/05(月) 01:00
http://www.okutei.net/okutei2/x'mas
2.htm
加藤氏は「絶望感」の中で爆弾闘争を継続することは自己を「抑圧」することであり、「抑圧」することなしに
闘えなかったことをもって自身の担った爆弾闘争を否定的に評価しようとしています。しかし私は、自己を
抑圧して爆弾闘争を行ったことより、闘争を続けながらもなおまとわりつく「絶望感」の方を問題にしたい。
彼が言う「絶望感」は爆弾闘争の緊張感が去った後、私が感じた “満たされなさ” に対応しています。
当時、自分がこういう感じを抱いたのは、大学の外に広がる「世界」に踏み出して行った時、自らの
存在基盤を喪失したからであり、いかなる拠り所に立って爆弾闘争を闘うのか、あるいは何者として
闘うのか、といった問に向き合うことに必ずしも意識的でなかったことに由来していると思うし、よく突き
詰めねばならないことだと考えています。このような私の実感に基づけば、なぜ「絶望感」に囲まざるを
得なかったかは、加藤氏にとつても解明に値する問題ではないかと思われてならないのですが…。
問題にしたいもう1つの点は、「反日」の諸君と特攻隊を類似させていること。加藤氏は「はなはだしい
苦しみ」を媒介項に、「反日」と特攻隊を単なる表裏の関係と捉え、それをもって、「反日」を含む爆弾闘争
の限界を見ようとしているかのようです。彼が「反日」の諸君の爆弾闘争をどう評価しようとしているかは
おくとして、特攻隊と「反日」を同一レベルで論じることには、まがりなりにも全共闘の中から爆弾闘争に
踏み出して来た1人として看過出来ないものを感じました。
加藤氏は、大道寺氏が
…自分が本格的な武装闘争に取り組もうと決意する前には何日も自問自答して悩みました…
と語っていることや当時、運動内に在った「全共闘の次をどうするか」といった意識を無視するか倭小化
しています。武装闘争を前にした、その短いながらも混沌とした過渡的な領域は、「11月決戦を前にして、
我々はあの時何を越えようとしたのか」「“次”を目指して爆弾闘争に踏み出したが、この時本当に問われた
ことは何だったのか」を考える上で、また「反日」の諸君が連赤やわが「黒ヘル」とは異なる独自の歩みを
辿ったことを考える上で重要だろうと思います。
特攻隊員の苦悩というのは、国家の意志として強制的に選択させられた目標が、自らの生活規範や
理性と切り離された虚構として意識され、それ故そこに到るには論理的な整合性や日常性を文字通り
「飛び超して」行かねばならなかったことに由来するのではないですか。
12
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:2004/07/05(月) 01:01
http://www.okutei.net/okutei2/x'mas
2.htm
一方、運動を作り出して行く場合、ある理論をバックボーンにしてそこから演繹的に行う場合と、日常の
生活感覚に根ざし、そこに派生した問題を掘り下げて行く方向があるとすれば、党派の行き方は明らかに
前者に属します。ここでは日常性とは切れた地平で党派の論理への帰依が求められる。とりわけ連合赤軍
に参加しようとした人達に対しては、自らが作り出した論理へ帰依するための飛躍が求められた。
「共産主義化」はその飛躍を指すでしょう。しかし「反日」の諸君らには、こうした「飛躍をかけて」みたいな
発想は基本的には無かったのではないか、私はこの間ずっとそう考えてきました。
参考のため併記すると、私達の場合は次のような具合でした。私は爆弾闘争を進める上で独自の理論は
作り出せなかった。その代り赤軍派の「過渡期世界論」を「理論はこれでいいんだ」と一方的に決めたのです。
「グループ」の他の人達もほぼ同様だったと思います。そこで、この理論に「帰依」するための行動が
いかなるものだったかが問題になりますが、これはかなり冷めていて「赤軍派の過渡期世界論は基本的に
正しい、しかし、しょせん論は論に過ぎないのだ」という見切り方をしたのです。また、爆弾闘争を前にした時、
理論云々とは全く別のところで「もう1度変わらなければ」ということを強く感じた訳で、この思いは飛び超し
に対応した心情だったと言えるでしょう。
「反日」の諸君らが辿り着いた「帝国主義本国人としての自分を否定する」立場には学園闘争の論理の
連続性が認められます。しかし学園闘争の論理を大学の外に持ち込んだだけで直ちに彼等と同じ地点に
到達出来るものでないことは私や、他の運動体のその後を見れば明らかでしょう。彼等は寄せ場に生活
基盤を置くことで自身が何者であるかを明確化する契機と大学の外の「世界」を相対化する視座を得たの
でしょう。これは赤羽の佐藤工業に稼ぎに行く時「アルバイトに行く」山谷に行くことを「仕事に行く」と区別
した言い方をしつつ学生や「文化人」の多い山手の私鉄沿線のアパートに住んでいた私たちとは際だった
違いと言えます。そういえば荒井まり子さん姉妹のアパートが千住で「三菱」のあと会議を開いた場所も
南千住の喫茶店「オリオン」だったとか。
以上のように特攻隊に「志願」する過程と「反日」に到る彼等の軌跡を見れば両者の違いは明らかです。
「はなはだしい苦しみ」に着目することで
かつての聖戦の理念を生き、闘った人々とそれと全く反対の目的を持って闘った人々の、こうした共通の
在り方は何を語っているだろうか
とするのは、話を別の方に持っていくことにしかならないのではないでしょうか。
13
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:2004/07/05(月) 01:01
http://www.okutei.net/okutei2/x'mas
2.htm
付記
爆弾闘争を前にして「もう1度変わらなければ」と思ったことは、今では錯覚の類だったとほぼ見極めが
つきました。何事かを行う場合、うすうす誤りに気付きつつも強気で押し通し結局失敗して出発点での
誤りを再認識することはままあることですが、全身全霊で感じたことが錯覚だったというのは全く初めて
の体験です。そしてこのことが71年の爆弾闘争の最大の教訓だったと思っています。
特攻隊に志願する場合、心底納得して行った人は私などが考えるよりはるかに多かったかもしれない。
同様に戦時下であった「集団自決」でも同じような心な動きがあったのではないかと推察します。これは
閉ざされた世界に追い込まれ自らの存在を対象化(相対化)する契機がもたらされなかった結果でしょう。
ある作家が「極端に抽象化された生」と言ってましたがうなずけるものがあります。
閉ざされた世界の中で日常の生活感覚から切り離された所に置かれるとその場の支配的な空気が
行動の唯一の論理になってしまうということがあるのだと思います。
14
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・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/07/05(月) 01:01
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm
日本赤軍と東アジア反日武装戦線
東大、日大闘争を頂点とした全共闘による大学闘争の敗北により、学生たちの間ではシラケが進行
していったが、一部のセクトは、急速に過激化、武装化への飛躍を見せるようになった。そのひとつが
赤軍派である。東大闘争と日大闘争の詳細はこちら
1969年(昭和44年)5月、赤軍派はトロツキズムを基盤とした共産主義者同盟(第2次ブント)の中の
関西を中心とする武闘路線派から生まれた。それまでの大学闘争、街頭闘争の総括を経て、早急に
軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起する必要があると、結成した。そのときのメンバーは京大、
同志社大、立命館大などを中心とする活動家約400人(うち高校生活動家約90人)であった。
その後、9月4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に、初めて公然と姿を現した。
9月21・22日、武器奪取、対権力攻撃として、阿倍野派出所など3ヶ所の交番に火炎ビン攻撃を
加えた「大阪戦争」、9月30日、「日大奪還闘争」をスローガンに神田、本郷一帯で同時多発ゲリラ闘争を
展開した「東京戦争」は、いずれも失敗に終わる。10月21日、10・21国際反戦デー闘争(新宿騒擾事件
一周年闘争)には、最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、新宿駅襲撃、中野坂上ではピース缶爆弾による
パトカー襲撃などを行った。
11月5日、首相官邸や警視庁を襲撃するために、鉄パイプ爆弾による軍事訓練をしようとハイキングを
装い、山梨県塩山市の大菩薩(だいぼさつ)峠にある「福ちゃん荘」に集結するが、かねて密かに内偵捜査
を進めていた警察により、爆発物取締法違反、凶器準備集合罪の容疑で53人(うち高校生9人)が逮捕
された。〔略〕
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[ 三菱重工ビル爆破事件 ]
1974年(昭和49年)8月30日午後0時45分、東アジア反日武装戦線<狼>グループの大道寺将司、
片岡利明、大道寺あや子、佐々木規夫(会社員)らによる、最初の大規模な爆弾事件が発生する。
このときの爆弾は天皇暗殺攻撃=虹作戦用に作ったペール爆弾であった。東京都千代田区丸の内にある
三菱重工本社ビルに仕掛けられた2つの爆弾が大音響とともに爆発し、死者8人(即死5人、病院に
運ばれたあと死亡3人)、重軽傷者376人を数える大惨事を引き起こした。東アジア反日武装戦線<狼>
グループは、巻き添えによる人的被害を回避するため、爆破時刻の8分前に、三菱重工ビル管理室に
【予告電話をかけた】。「これから大事なことを伝えるからよく聞いてほしい。我々は東アジア反日武装戦線
<狼>である。三菱重工と三菱電機の間の道路上に爆弾を2個仕掛けた。すぐに爆発するので、道路上
の人、および道路に面したビル内の人を至急避難させなさい。繰り返す。爆弾はすぐに爆発するので、
道路上の人、および道路に面したビル内の人を至急避難させなさい。断っておくが、これは絶対に
いたずら電話ではない」しかし、いたずら電話だと思ったのか、【相手の男は途中で電話を切ってしまい】、
【かけ直した時にも、また途中で切ってしまった】。しかたなく、受付に電話し、交換手が最後まで通告を
聞いたのは、爆発4分前であった。 午後0時45分、三菱重工ビル玄関前で2個の爆弾が炸裂。
避難措置はとられなかった。事件直後に、「三菱は、旧植民地時代から現在に至るまで、一貫して
日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である」とする犯行声明が発せられた。
この事件がきっかけとなり、「犯罪被害者等給付金制度」が1980年(昭和55年)5月に公布し、
1981年(昭和56年)にスタートした。これは、人の生命または身体を害する犯罪行為により、不慮の
死を遂げた者の遺族や、重い障害を受けた者に対し、国が一時金を支給する制度。通り魔や爆弾魔
のように犯人が分からなかったり、犯人は逮捕されても資力がなく、被害者やその遺族へ補償できない
場合を考慮したもので、この請求は都道府県の公安委員会あてに行う。さらに、「犯罪被害者給付金
支給法」が改正され、2001年(平成13年)4月1日制定、7月1日施行された。遺族給付金の支給額は、
改正後1573〜320万円(改正前1079〜220万円)に、傷害給付金(傷害等級1〜4級)の支給額は、
改正後1849.2〜331万円(改正前1273〜230万円)に引き上げられた。また、改正前には
設けられていなかった傷害給付金(傷害等級5〜14級)が新たに設定され、14級で69〜18万円とした。
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[ ハーグ事件 ]
1974年(昭和49年)9月13日、日本赤軍の重信房子、西川純、奥平純三(当時25歳/奥平剛士の弟)、
和光晴生の4人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して、17日、フランス当局に拘禁中の
山田義昭を釈放させ、シリアに脱出。「日本赤軍」と名乗ったのはこの事件からで、日本赤軍のメンバー
だけによる事件の第1号でもあった。
この事件では伝説的な国際テロリストとして知られる「カルロス」が資金援助した。
カルロス・・・「カルロス」はコードネームで、本名イリッヒ・ラミレス・サンチェス。1948年(昭和23年)、
ベネズエラで生まれた。熱烈な共産主義者の父親の影響を受け、14歳でベネズエラ共産党に入党する。
その後、キューバで軍事訓練を受け、そこで教官だったKGB大佐ビクトル・シメノフの目にとまり、その縁で
モスクワのパトリース・ルムンバ大学で共産主義を学び、ロンドンの大学でスペイン語の講師をしばらく
続けた。その後、PFLPに参加しテロリストの道を歩む。カルロスの名前が知れ渡るようになったのは、
1970年代から80年代にかけてヨーロッパを震撼させたテロ活動を行なうようになってから。カルロスの
犯行は神出鬼没で大胆不敵なことからヨーロッパの公安当局は、はじめフレデリック・フォーサイスの
小説にちなんで「ジャッカル」と呼んでいた。これまでに、カルロスが関わったとされるテロは暗殺、爆破、
ハイジャック、誘拐など数多い。1973年(昭和48年)12月、ロンドンのユダヤ系実業家殺害。1974年
(昭和49年)8月、パリのユダヤ社会運動財団事務所を爆弾を積んだ車を突入させて爆破。9月、パリの
ドラックストアの店内を手榴弾で爆破、30人以上死傷。同月、ハーグ事件で資金援助。1975年
(昭和50年)1月、パリのオルリー空港でイスラエル航空機にソ連製ロケット弾を撃ち込む。3月、フランス・
リヨンの旧ユーゴスラビア領事暗殺未遂。12月、ウィーンで開かれたOPEC(石油輸出国機構)閣僚会議
に出席したサウジアラビアのヤマニ石油相ら11人を人質に、アルジェリアに強制移送。1976年
(昭和51年)6月、テルアビブ発パリ行きエール・フランス機がアテネ空港でハイジャックされ、ウガンダの
エンテペ空港に着陸したが、イスラエル特殊部隊が奇襲してドイツ人とアラブ人の犯人全員を射殺。
1983年(昭和58年)12月、フランス新幹線の車内とマルセイユ駅構内でスーツケースが爆発。これで
死傷者が多数出た。1984年(昭和59年)からテロ活動を止め、シリアに移住した。1993年(平成5年)
12月、シリアから追放され、イエメンを経由してスーダンに入国。1994(平成6年)8月15日、カルロス
が潜伏中のスーダンでフランス当局に逮捕された。1997年(平成9年)12月、無期懲役の判決が下った。
〔略〕
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東アジア反日武装戦線によって切り開かれた爆弾闘争は、同戦線を名乗る後続部隊からさらに、
「世界赤軍日本人部隊やみのつちぐも」「世界革命戦線大地の豚」「世界革命反日戦線・タスマニア1876」
といった新グループによる神社や大学、企業などへの攻撃と多角化していく。また、「東アジア反日武装
戦線KF部隊」「手・足としっぽの会」「反帝反日通信編集委員会」の名で、東アジア反日武装戦線の教本で
あった『腹腹時計』などの続編や爆弾闘争支援文書も刊行され、爆弾志向の潜在的広がりをみせる。
1976年(昭和51年)1月6日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、平安神宮を放火。
3月2日、東アジア反日武装戦線が、札幌市の北海道庁を爆破。同庁舎1階ロビーに仕掛けられた
時限爆弾が爆発し、2人が死亡、95人が重軽傷を負った。この日は、1899年(明治32年)に制定された
「北海道旧土人保護法」の公布日に当たっていた。爆発後、市営地下鉄大通り駅のコインロッカーから、
東アイジア反日武装戦線の署名入り犯行声明文が見つかった。それには、<道庁を中心に群がる
アイヌモシリの占領者どもは、第一級の帝国主義者である>と書かれていた。
公安警察は、これらの爆弾犯人として【加藤三郎】をマークしていた。加藤は岐阜市内で職務質問を
受けた際、爆弾材料の除草剤などを残して逃走した。加藤の行方を突き止めるために、交友関係を
洗っているうちに、大森勝久が浮かんできた。大森は道庁事件現場で目撃されている不審な人物に
肉体的特徴が似ていた。捜査本部は札幌市の間借り先を家宅捜査し、爆弾製造に使う工具を発見した。
〔略〕
〔1977年(昭和52年)〕10月27日、部族戦線が、東京都渋谷区の神社本庁を爆破。この時点で
部族戦線のリーダーが加藤三郎ということが判明した。
〔1983年(昭和58年)〕5月18日、部族戦線の加藤三郎が逮捕された。
1988年(昭和63年)1月21日、札幌高裁は東アジア反日武装戦線の大森勝久に対し札幌地裁での
死刑判決を支持して控訴を棄却した。
4月、東京高裁は部族戦線の加藤三郎に対し懲役18年の判決を言い渡した。
1989年(平成元年)7月14日、最高裁は加藤三郎に対し上告を棄却した。これで懲役18年が確定した。
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:2004/07/05(月) 01:02
http://roppou.aichi-u.ac.jp/scripts/cgi-bin/hanrei/hanrei.exe?212
【事件名】 爆発物取締罰則違反、傷害、現住建造物等放火被告事件
【事件番号】 昭和63年(あ)第664号
【裁判年月日】 最高裁平成元年7月14日第3小法廷決定
【上告申立人】 被告人 加藤三郎
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:2004/07/05(月) 01:35
http://marukyo.cosm.co.jp/chu-maru.html
中核派と革マル派、両派は日本の新左翼勢力の最大党派である。この両派は1963年までは
「日本革命的共産主義者同盟全国委員会」と言う同じ組織であったが、路線の食い違いにより分裂し、
現在でもお互いを「反革命」と定義して激しく対立し合っている。この分裂は左翼史上では「革共同
第三次分裂」と呼ばれている。第三次と言うからには当然、一次・二次があるのだが、一言で済ませる
には事情が複雑であるので、まず両派の母体となった「革共同」の成立から見ていくことにする。
革共同の成立
革共同とは【革命的共産主義者同盟】の略称である。革共同は1957年12月に、黒田寛一、【太田竜】、
西京司らを中心にして結成された。黒田氏はつい最近まで革マル派の議長として君臨してきた人物である。
この黒田氏は自前で「こぶし書房」と言う出版社を設立し、1952年頃からさまざまな社会学的な書籍を
執筆・出版していた。そうしていくうちに黒田氏の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、
4人のメンバーで「弁証法研究会・労働者大学」と言うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり
「探求」と言う雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒田氏の影響力は全国的に浸透して
いったのである。そして、革共同の前身である【日本トロツキスト連盟】が発足する。
トロツキーというのはロシア革命でスターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に
暗殺された革命家である。当時の共産主義運動ではトロツキーは反革命的とされ、反革命分子を
「トロツキスト」呼ばわりした。
第一次分裂
日本トロツキスト連盟は日本共産党を中心に「加入戦術」を展開していた。加入戦術とは、対象となる
組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。その加入戦術が巧を奏してか、日本共産党
京都府委員の西京司氏が日本トロツキスト連盟に加入してくると、同連盟は間もなくして【日本革命的
共産主義者同盟】と改称した。しかし組織は早くも内部分裂を起こす。1958年7月に、【太田竜】氏らの
グループが【関東トロツキスト連盟】を結成して革共同から分離したのである。太田氏は純粋なトロツキスト
(いわゆる純トロ)だったが、黒田氏は「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場から意見が
食い違ったのである。この太田派はのちに【日本トロツキスト同志会】と改称し後の【第四インター日本
委員会】になる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への加入戦術を行い、学生運動民主化
協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていた。
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:2004/07/05(月) 01:35
『歴史民俗学21号』
八切原住民史観と太田竜の「日本原住民」(青木茂雄)
http://www.kumanolife.com/History/list.html
http://www.asyura2.com/biz0310/war40/msg/391.html
太田竜氏の着眼点には注目すべき点も多いと思いますが、彼が行なっている行為の社会的意味を、
我々は考える必要があります。
裏付けのない舶来情報をそのまま垂れ流して、二言目には「日本人は白痴だから」と悪態を付く……。
これは一種の知的頽廃です。
太田竜氏は日本で反スターリン主義の運動を作り出すうえで少なからぬ活躍をした人でした。しかし、
彼の知的態度、情報の扱い方が、もし今も昔もあまり変わっていないのだとすれば、それは極めて大きな
問題だと思います。
舶来知識を信仰するのが「左翼」の体質だったとすれば(いわゆる旧左翼も新左翼も含めて)、そういう
知識のブローカーが社会のコントロールを志すのは危険な話です。
(こうした知的頽廃とナイーヴな危険性を、私は今年になって高揚した「非戦」運動の現実のなかで
じっくり見ることができました。)
欧米その他の海外の情勢については、現地からの情報に依存せねばならないわけですが、
裏付けをとったり、どこまでの利用価値や信頼性があるか、情報そのものの評価を行なう作業が
欠かせません。それがないと下劣な新興宗教になってしまうでしょう。
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