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「記者クラブ」関連スレッド
82
:
・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2005/09/14(水) 05:44:54
http://www.asyura2.com/0505/senkyo11/msg/454.html
東京都知事選が最初
一九七二年、田中角栄内閣成立直後に、電通の第九連絡局(現・第九営業局)が設置されたと電通に関する複数の文献に書かれている。第九連絡局とは、自民党や官公庁、政府系機関をメインスポンサーに持つ社内の営業部門である。
多数の官公庁や旧政府県機関のCI(コーポレート・アイデンティティ)戦略を電通は手がけてきた。CI戦略は企業などが自己の姿を再認識し、自己表現して、望ましい形で社会の中に位置づけようとするもの。
CI戦略を手がけることは、官公庁の多くの人間と関係を結び、内部情報を得ることにつながり、両者の関係も密になる。実際に、「国会や官庁でバッチをはずして闊歩する電通の社員をずいぶん見かけた」と、長年霞ヶ関で働いてきた政党関係者は語る。電通は中曽根政権下で実施された日本国有鉄道(現JR)などの大規模な民営化計画のCI戦略を担当している。
一方、自民党と電通の関係だが、実は美濃部亮吉と秦野章の争いとなった一九七一年の東京都知事選挙で本格的に始まると言われる。このとき電通は自民党が推す秦野陣営の選挙活動のいっさいを引き受けた。テレビ、スポっット、新聞広告、ポスター、チラシとまさにモノを売るようなPRだったという。
このときの、秦野の公約の一つが「地震に強い東京の街づくり」であり、「とにかく地震に強い東京をアピールしろと言われた」とPR合戦に関わった人物は語る。「これが、電通の政治関与の始まりだ」
だが秦野は落選。この選挙敗北の名誉挽回のため、翌年に第九連結局ができたという。
それ以降の自民党と電通の深い関係を証明するのが、人的つながりだ。平井卓也衆院議員、中山泰秀衆院議員、故・塚原俊平元郵政相などはいずれも世襲議員であり、電通に社員として籍を置いていた。後述する
が、中曽根康弘元首相も電通の現役顧問である。○四年一月、帝国ホテルで盛大に開かれた恒例の電通年賀会にも、麻生太郎総務相や亀井善之農林水産相(当時)など同党の現役大臣がかけつけていた。
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