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永田町怪獣図鑑

113カマヤン[TRACKBACK]:2004/05/30(日) 09:01
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/1274/1025166092/r124
> 平沼騏一郎 1867-1952
> 満州事変〔昭和6年 1931年〕以後は軍部からも期待を受ける(海軍の加藤寛治、陸軍の真崎甚三郎と
>連携)が、元老西園寺公望は平沼の「右翼」的体質を好まず機会を得なかった。ジャーナリズムから
>ファッショ的存在と見られたが、昭和七年(1932)内外にこれを否定する声明を発し、昭和十一年枢密院議長
>就任にあたり国本社会長を辞任、国本社解散。昭和十四年近衛内閣を引継ぎ内閣を組織した。
>「支那事変処理」を中心議題として掲げ、近衛内閣の「革新」政策は引き継がなかった。緊張した国際環境の
>中で、国内で対立する諸勢力の調整に苦慮したが、独ソ不可侵条約の締結を機に八ヶ月で総辞職。
>この時期から「現状維持」派と目される。昭和十五年第二次近衛内閣改造で内務大臣に就任。第三次
>近衛内閣には国務大臣として留任(十六年には「現状維持」派として狙撃され重症を負う)

平沼赳夫のふらつき具合は父親平沼騏一郎譲り。現在は1932年あたりをなぞっている。
平沼騏一郎はファッショだと呼ばれ右翼団体「国本社」を主宰していたが、「自分はファッショではない」と
声明して右翼団体「国本社」を解散し、右翼たちから恨まれるに至った。
昭和天皇は平沼騏一郎を嫌った。


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