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・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*
:2004/06/21(月) 02:41
68 名前:名無しさん@3周年 投稿日:03/06/21 02:51 RhiDtJQ/
四元義隆は、1928年(昭和3年)4月、四元は東京帝国大学法学部に入学する。ここで、
法学博士・上杉慎吉が主宰し日本主義を標榜する、国家主義団体・七生社の同人となった。
上杉の死後は、安岡正篤が経営する金鶏学院に入り、その指導を受けた。だが、
ロンドン条約反対運動に従事しているとき、四元は安岡に不満を抱く。そんなときに出会ったのが、
日蓮宗の僧籍を持つ井上日召である。四元は井上日召の思想信念に心服し、その同志となる。
こうして起きたのが、血盟団事件である。
1932年(昭和7年)2月9日、小沼正によって前大蔵大臣・井上準之助が暗殺される。3月5日には、
菱沼五郎によって三井合名会社理事長・団琢磨が暗殺される。
その後、3月11日には、首謀者であった井上日召が自首し、血盟団は全員が検挙される。そして、
3月28日には、血盟団員13人が起訴される。
この血盟団事件で、四元義隆は学生組の中心的人物であり、参謀格として行動している。
「一人一殺主義」を標榜する血盟団において、四元の担当するのは、大久保利通の息子であり
内大臣であった牧野伸顕だったが、警戒が厳重であったため、暗殺することはできなかった。
そこで、四元は同志の連絡統制に当たり、菱沼五郎に拳銃を渡すなど、各自が担当する暗殺計画を
進行させた。
1934年(昭和9年)11月22日、四元は懲役15年の判決を受けて下獄される。しかし、1940年(昭和15年)、
他の血盟団員と同じく恩赦で出獄することになる。
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